1 クスコへ

ペルーの大統領選挙(20217月)で、ペドロ・カスティジョ氏がケイコ・フジモリ氏を破って当選したと新聞が伝えていた。ペドロ・カスティジョ氏は小学校教員で、急進派の組合活動家だ。ケイコ・フジモリ氏は、かつての大統領アルベルト・フジモリ氏の娘である。

ペルーに滞在したことのある東京オリンピック関係者が2021720日羽田空港に到着し、PCR検査を受けたら陽性で、ペルーなどで広がっていた新型コロナウイルスのラムダ株が検出された。ラムダ株は日本では初めての検出である。政府の関係機関はラムダ株の検出を公にせず、オリンピックが終わってから明らかにした。隠ぺいではないかと世間は騒いでいる。

日本国の首相はワクチン接種を急速に進めたと誇らしげに言うが、たいていの国で接種は進んでいる。接種をどんどん進めよ、と日本の政府は重ねて言うが、接種を担当する地方自治体はワクチンが底をついている、ワクチンをよこせと政府に詰め寄る。新型コロナ感染者は原則入院治療だったはずだが、病床がひっ迫し、軽症の感染者を中心に在宅療養を原則にすると突然政府が言い出す。病床を増やすよりも、入院を制限することで病床に空きを作ろうとする無慈悲な発言だ。家にこもれ、お盆の帰省をやめてくれ、県境を越えるなと行政が音頭をとって大合唱する。日本の医療はこの程度のレベルだったことを知って暗然とする人が多いだろう。国会は閉じられている。政府は憲法にもとづく議員からの臨時国会開催要求に応えようとしない。日本の政治レベルはもともとこんなものと世界に知れている。8月に入って日本列島は長期にわたる大雨に見舞われている。旧約聖書のノアの箱舟のころの豪雨や、新約聖書のヨハネ黙示録の不気味な筆致を思い起こさせる――などと愚痴を肴に酒を飲んでいる人も少なくないだろう。

そういうわけで、今回のシリーズでは今から30年ほどまえのペルー・アンデス山歩きのさい撮影した思い出の写真を並べてみようと思う。

ペルーへ行ったのは、アルベルト・フジモリ氏――ペルーではフヒモリと発音されていたが、ここでは日本でおなじみのフジモリと表記しておく――が大統領に就任して間もなくのころだったから、1990年か1991年の事だろうと思う。冒険旅行の企画が好きなカナダの知り合いからペルー・アンデスを散歩し、ついでに歩いてマチュピチュへ行く旅に参加しないか、と誘いがあった。

この話をアメリカの知人に電話で話したところ、その知人は米国務省に問い合わせてくれた。センデロ・ルミノソの動きが活発なのでペルーの山岳地帯は危ないからよした方がいいと国務省は言っている、とその知人からアドバイスがあった。「左翼ゲリラが潜んでいるペルー・アンデスの高原にテントを張るのと、ニューヨークのセントラル・パークで一夜を明かすのでは、どっちが危険だろうか?」と私が冗談を言うと知人はハッハッハと笑い、「途上国を見たいのであれば合衆国へいらっしゃい。いまやそこら中に途上国の雰囲気が漂っているから」と言った。

成田からサンフランシスコ、マイアミ経由でリマに飛んだ。マイアミ―リマは当時ではもう珍しくなっていたボーイング707に乗った。リマの空港ではアンデス・トレッキングの手配をしてくれた旅行社の係員がクスコ行きの国内線乗り換えの案内をしてくれた。旅行のグループが集まって床に荷物を置き、搭乗時刻を待っている間に、グループの誰かの荷物を持っていこうとする男が現れた。旅行社の人が男を追い払い、ついでにこんなことを言った。

「クスコまでのフライトでサンドイッチが出るけど、食べない方が安全だよ」

ちょっとヤバイところに来てしまったな、と一瞬怖じ気づいた。



クスコは海抜3400メートル。運が悪いと酸欠で高山病の症状が出る。ホテルにチェックインしたあと、歩いてクスコの中心部の広場に行った。

広場には小銃を持った治安警察、もしかしたら対ゲリラ要員の兵士、が立っていた。その姿には緊迫感はなかったが、運が悪いと災難に遭遇するかもしれないと、思ったとたん、あたまがクラっとした。

おっ、酸欠か。



2 石積み

深夜、息苦しさを覚えた。鼻と口で同時に大量の空気を吸い込んで、その呼吸の激しさで目を覚ました。ベッドサイドにおいていた水を飲み、呼吸を整えた。クスコは海抜3400メートル。酸欠だ。ここの空気は海岸の首都リマにくらべてどのくらい薄くなっているのだろうか。とりとめもないことを考えているうちに、クスコまでの空の長旅の疲れもあってか、すやすやと寝てしまった。

この旅の目的はアンデス山中をてくてく歩いてマチュピチュへ行くことだ。マチュピチュまで元気に歩くにはまず高度に順応する必要がある。途中4600メートルの雪の峠越えがある。というわけで、クスコ到着からマチュピチュへ出発するまでの数日間にクスコ近郊の遺跡や集落を尋ねるピクニックを繰り返して薄い空気になれる予定になっていた。



まず第1日。ペルーの旅行社から派遣されたガイドに引率されて、午前中はクスコ市内の散歩。石を敷き詰めたゆるい傾斜の舗道の両側に地中海沿岸でよく見かける白壁の住宅が並ぶ地域があり、見下ろすとごみごみとした途上国ふうの住宅密集地があった。また、街の中心部の古い家屋は土台に使った石組みがそのまま残っていた。インカの人々はスペイン人がやってくるまで鉄器を使っていなかった。金属器は銅、青銅だった。石工たちは鉄器を使わないで石を切り出し、石を割り、削って、一分の隙間も残さない石組みを残したのである。



午後は石積み工事の精密さを見るために、クスコの北側の丘の上に残っているサクサワマンの遺跡へ行った。インカの王が神殿を造り内部に宝物を収納したといわれている場所である。王は支配する地域から2万人の人を集め、石を切り出し、削って石組みを行わえた。シエサ・デ・レオン『インカ帝国史』(岩波・大航海時代叢書)によると、クスコにやってきたスペイン人たちはこの構造物を「城砦」と呼んだ。



石組みは堅牢で、どんな大砲を使っても壊せないだろう、と『インカ帝国史』は書き残している。道具というほどのものを持ちあわせていなかったインカ人が、どうやってこれだけの巨石を積み上げたのか、と不思議に思ったそうである。積み上げた巨石と巨石の間に、薄い硬貨さえ差し込めないほど精緻な技術で石が積み上げられていたからである。





3 青空市

次の日はウルバンバ渓谷へハイキングに出かけた。

ガイドがマイクロバスを用意してくれた。ホテル前から乗り込み、四方を山に囲まれたクスコ市街を抜けて山道を登る。北方のウルバンバ渓谷へ向かう道路の最初の景勝地であるチンチェロを目指した。海抜3000メートルを超えるアンデスの台地に道路が1本だけくねくねと走っている。季節は8月、雨の少ない時期なので草は枯れ、近景、中景は褐色の中に静まり、遠景に雪をかぶったアンデスの高峰が連なっている。いま見てものびやかで心がほぐれる風景である。

チンチェロは、海抜3400メートルのクスコから400メートルほど高度をかせいだ3800メートの地点にある集落だ。

「今日は日曜日なので、チンチェロの青空市場に寄ってみましょう」とガイドが言った。



青空市は適宜開かれているそうだが、日曜の市には近隣の集落から人が集まり大いににぎわうという。古くはケチュア語を話す農民だけの物々交換の市だったが、最近では外国からの観光客が増えたので、観光客目当てのアンデスのお土産類を売る人も出始めていた。売っているものは、トウモロコシ、ジャガイモ、野菜類、衣類などなど。晴れ晴れしいのは日本の最高峰・富士山よりもっと高いところにある青空市であることだけだ。

 

街に出ると、レストランなどの近くで民族衣装の女性たちがアンデスの織物の制作実演をしていた。実演で観光客に足を止めさせ、出来上がっている織物を売りさばくためのパフォーマンスである。アンデスの織物はペルーではチンチェロが有名だ。農村の女性たちの家内手工業を活発にして現金収入の道を開き、やがてはペルーの織物生産へとつないでゆく試みらしかった。だが、その後の専門家の調査研究では、ケチュアの女性の織物パフォーマンスはあいにく、そのいずれともうまくつながらなかったそうである。

泉靖一が『インカ帝国』(岩波新書)に書いている。インカ帝国の農民は朝から畑仕事をし、さらに女性は家族のために食事を用意し、食事の際は男の後ろに座り、控えめに食べた。手すきの時間には女性は家族ための衣服を織った。さらに、夜になるとトウモロコシをゆで、それを噛んで容器に吐き出し、発酵させてトウモロコシ酒・チチャをつくった。ビールよりもアルコール度の低いこのチチャは今ではウルバンバ渓谷の名物になっている。インカ帝国の農民たちは、朝が来ると前日の夕食の残りをチチャで胃に流し込んで畑に出た。そういう単調な日常を繰り返したすえ一生を終えた。江戸時代の農民も似たような暮らしをしていただろうし、現代の勤め人も似たようなものだろう。

チンチェロからウルバンバ渓谷へと道を下る。2021年現在、いまペルー政府はこのあたりに新しい空港を建設しようとしている。チンチェロ・クスコ新国際空港建設計画。現在のクスコ空港は手狭なので大型機の発着が困難である。マチュピチュは海外からの観光客のお目当てだが、あいにくと交通の便が悪い。まず、首都リマまで来て、国内線に乗り換えてクスコに行き、クスコから列車に乗り換えてマチュピチュへ向かう。新しい大きな国際空港がチンチェロにできたら、海外からの観光客はクスコに戻ることなく、マチュピチュ方向へ進み、ウルバンバ渓谷のオリャンタイタンボから鉄道でマチュピチュに行くことができる。



この新空港のアイディアは1970年代に生まれたものだ。長らくの間アイディアは棚上げされていた。2021年現在、建設は韓国のヒュンダイ・グループが中心となった合弁企業が担当して始まったところだ。

マチュピチュには年間200万近い観光客が訪れている。ユネスコが示している年間観光客数の受け入れ上限の2倍を超える数字である。新しい空港は年間500万人の旅客を受け入れることができる。新空港はペルーの国庫に大きな収入をもたらし、ペルー・アンデスの観光振興やクスコ周辺の経済を刺激するだろう。とはいえ、観光客がこれ以上増えると、マチュピチュの遺跡が荒廃するだろう。厳しい入場制限を行わないと、マチュピチュが絶滅危惧の世界遺産になったりする。さらにインカ時代の聖なる渓谷・ウルバンバに生態学的、考古学的、現在の住人に社会的ダメージを与える可能性がある。愚劣な開発計画であるとして、ここ数年、新空港建設計画をめぐって、建設反対派が声をあげ続けてきた。



4 塩田

チンチェロの集落からウルバンバ渓谷のウルバンバ川へと下って行く。山道の途中に、マラスの塩田があった。



写真でお分かりいただけるかと思うが、アンデスの山の斜面に棚田状の塩田を開き、そこに塩分を含んだ地下水を流し込み、天日で水分を蒸発させて塩の結晶を得る仕掛けである。

数億年前海底であった地盤が隆起して、海抜3000メートル級の山脈を形作った。長い時間をかけて出来上がった地中の岩塩を、今度は地下水が溶かし、塩水が地表に流れ出てくる。



斜面の上の塩水の流れから塩田に水を引き込む。水は数日で蒸発し、薄い塩の膜が残る。それを塩田の仕切り部分に積み上げて、再び塩水を流し込む。こうした作業を繰り返し、一区画の塩田から年に平均100キロほどの塩をとる。

棚田状の塩田は斜面に何千も小さな水たまりとなって広がり、伝統的な権利を引き継いできた何百もの家族が塩田を利用して製塩業をしている。会社組織のようなものはなく、インカ帝国の時代と同じこの地の家族的製塩業の集合体なのだそうだ。



塩の袋を背に積んだロバを連れた人とすれ違った。



5 聖なる谷

スペインがインカ帝国に侵入したとき、兵卒として参加したシエサ・デ・レオンが『インカ帝国地誌』(岩波文庫)に、彼が16世紀のペルーで見聞したインカの塩について書き残している――ペルーには美しい塩田があちこちにあり、そこで良質な塩が生産されている。イタリアやフランスなどに輸出できるほどの量が造られている。

マラスの塩田を見下ろす山道をのんびりとくだり、ウルバンバ渓谷に向かう。渓谷を流れるウルバンバ川の源はアンデス山中にある。ユカイ、ピサックを流れて、マチュピチュに近いウルバンバの集落からオリャンタイタンボをへ向かう。このあたりの谷筋をインカの聖なる渓谷と呼びならわしている。



ウルバンバ川はところによっては早瀬があり、そこをゴムボートでくだる急流下り(ラフティング)が楽しめる。私たちのグループもラフティングを楽しんだ。流れは速く、流れの中に大きな岩がある。船頭はその岩を巧みに避け、私たちを引率するガイドが、「それ右の人たちは櫂を漕いで」「今度は左の人たちが思い切り漕いで」と号令をかける。パドルを持たされたわれわれは必死で川の水をかく。ゴム―ボートがつり橋の下を通ったとき、橋の上から私たちのボートをカメラにおさめた男性に「ユア・ラースト・フォト」と大声で冷やかされてしまった。

流れが緩やかになったところでボートを降りた。聖なる渓谷ウルバンバにはオリャンタイタンボという集落があり、インカ時代の砦の跡が残っている。集落の背後の岩山に石を削り取って作った石段が残され、周囲の山肌にはインカの神殿があった。それらは16世紀のスペイン人との戦闘でインカの人々がこの地を放棄した後、年を経て風化し崩れてしまった。



ウルバンバ川にそって広がる聖なる渓谷の海抜は、クスコより600メートルほど低く、2800メートルほど。海抜と谷筋という地形のせいだろうか、気候はクスコより温暖だ。クスコを根拠地にしているインカ帝国の皇帝たちは、次々にこの聖なる渓谷に進出し、王宮や砦を築いた。また、ウルバンバ川の水量は豊かで、アンデスの斜面をくだってウルバンバ川に流れこむ小河川も多い。灌漑に適した土地だった。聖なる渓谷ではトウモロコシがよく育ち、クスコにとっての穀倉地帯だった。



さてその日の夜は、ウルバンバの隣の集落であるユカイのホテルに泊まった。夕食をすませ、近くの広場まで散歩に行った。見上げるアンデスの夜空は星で一杯だった。子どものころ見た戦後間もなくの日本の夜空の星を思い出した。戦争と敗戦で多くのものが消え去った貧しい日本だったが、夜空だけは豪華だった。

何年か前にギリシアへ旅したが、ギリシア人のガイドが「ギリシアの海はきれいです。沿岸に工業地帯が少ないですから」と教えてくれた。何もかもというわけにはいかないのである。得るものがあれば、代わりに失うものがでてくる。



6 聖なる谷の上流にて

ユカイの星空を見上げ、短いけれど豪華絢爛の宵を過ごした。そのあとは、これといってやることもない大いなる田園地帯なので、ホテルに帰って早めに寝た。おかげで翌朝は早く目覚め、ユカイの東側のアンデスの峰から登る朝日を見に行った。

オリヤンタイタンボを過ぎたウルバンバ川はマチュピチュの峰を取り巻くように流れてゆく。オリヤンタイタンボが聖なる谷の上流で、渓谷はアンデスの山々を縫うようにして上流へ向かう。ウルバンバ、ユカイといった古くからの集落を経て、クスコの東側の峰の向こうにあるピサックという町まで続く谷筋の道路は自動車で走ることができる。この日は、ユカイをたって、ピサックに向かい、タンボマチャイという遺跡を経て、山一つ越えてクスコに帰る。交通信号機のないアンデスの幹線道路である。

インカの時代から聖なる谷はクスコ住まいのインカの有力者にとって、あこがれの保養地だった。シエサ・デ・レオンの『インカ帝国地誌』(岩波文庫)によると、ユカイはインカの時代に首都クスコに住んでいた王族や有力者にとって、ゆったりとくつろげる憧れの土地であったそうだ。何人かのインカの支配者が兵を率いてクスコから聖なる谷に下り、気に入った場所を平定して離宮のようなものを建てた。16世紀にクスコをインカから奪い、クスコを占拠したスペイン人たちも聖なる谷が気に入った。いっそ、都をクスコからユカイに移そうではないかという話まで出るほどだった。しかし、遷都は現在の東京を持ち出すまでもなく、厄介な作業である。有力者たちの邸宅一つをとっても、クスコ並みの規模の家を造るだけの土地がない、ことなどユカイ遷都は話題だけに終わった。

ウルバンバ川上流のオリヤンタイタンボの岩山に挟まれた部分に、インカ帝国はもっとも堅固な砦を気づいて聖なる谷を守ろうとした(『インカ帝国地誌』)。似たような精巧な作りの都市遺跡が聖なる谷の最上流にあたるピサックに残っている。



山の斜面に建物群の遺構があった。



近くによってみるとなかなかに精巧な石組みである。



ピサックの町の広場に戻ると、建物の屋根に古びた大統領選挙のポスターが残っていた。その顔は、アルベルト・フジモリに敗北したマリオ・バルガス・リョサだった。『百年の孤独』を書いたガルシア・マルケスと並ぶラテン・アメリカの大作家である。ペルー大統領選挙でバルガス・リョサをくだしたフジモリ大統領は1990年から2000年まで大統領をつとめた。やがて、軍部と結び強権的な政治姿勢が批判されるようになり、2000年に大統領を退任した。同じ年にバルガス・リョサはノーベル文学賞を受賞した。アルベルト・フジモリはいまペルー国内で服役中。バルガス・リョサは先の大統領選で、ケイコ・フジモリを応援した。



ピサックからクスコに帰る山越えの道の途中にある、タンボマチャイの遺構を見学した。王族の沐浴場だったと言われている。



7 マチュピチュへ

ウルバンバ川沿いの聖なる谷のピクニックを終えた。高度順応はうまく進み、クスコに帰ってきた。クスコから聖なる谷(ウルバンバ渓谷)の下流のオリヤンタイタンボの遺跡まで100キロほど。往復で200キロほどのマイクロバスと散歩の旅だった。高度は3800メートルから2800メートル。3400メートルのクスコに帰っても、息苦しさを感じなくなっていた。

翌朝、いよいよ高山を横切ってマチュピチュまで歩いて行くトレッキングを始める。まずクスコ市のホテルからマイクロバスでモレパタという町まで行った。聖なる谷へのピクニックで通った道路を北に進み、途中で東へ向かう道路に折れる。そうするとマチュピチュがあるビルカバンバ山塊の南側斜面にあるモレパタに到着する。



モレパタの町の広場でトレッキングを支援してくれる人たちと会うことになっていた。10人ほどの人が10頭ほどの馬を連れて我々を待ってくれていた。この馬で旅行社が用意したテントや、我々の個人用装備(寝袋など)を運んでくれる。途中で歩くのがつらくなったら、荷物を積んでいない馬で旅行者も運んでくれる。というわけで、旅行者10人ほどと、馬方10人ほど、ガイドとガイド助手の4人を合わせて20数人の旅行隊が出来あがった。



モレパタからサルカンタイ山の方角に山道を歩き始めた。道路わきの草むらで何人かの子どもたちがトレッキングをする我々を見ていた。知らない土地の風景をながめ、料理を味わい、異文化を感じ、土地の人を観察するのが旅行者の楽しみだ。いっぽう、土地の子どもたちは、通り国からやってきた旅行者がわざわざ歩いてマチュピチュへ行く姿に旅情を感じ、面白がっているのだろう。

山道が本格的な坂道になってきた。斜面の下には草ぶきの家が数軒あって、屋外で作業している人の姿が見えた。



マチュピチュへ徒歩で向かうコースはいくつかある。もっとも人気があるのは、インカ道を通り、途中いくつかの遺跡を訪ねるコースだ。この場合、出発点は聖なる谷・ウルバンバ渓谷のオリヤンタイタンボになる。そこからインカ道をたどり、何回かキャンプを重ねてマチュピチュにたどり着く。モレパタはビルカバンバ山塊の南麓にある町だ。その町から山道をたどり、ビルカバンバ山塊で最も高い6271メートルのサルカンタイ山の4600メートルの峠を越えて、パルカイ盆地を抜け、やがて徐々に高度を下げて雲霧林のジャングルに入る。そこ道路わきのから最後に山を下ってウルバンバ川添いの水力発電所駅にいたる。30年前のペルーでは国鉄がクスコ―アグアス・カリエンテス(マチュピチュ)の間に旅客列車を走らせていた。水力発電所駅はアグアス・カリエンテス駅の隣の駅だった。サルカンタイの峠越えのコースは途中にインカの遺跡は少なく、考古学趣味でなく、ひたすら高山の荒野を歩きとおす単調な山歩きルートになる。このコース選択したのは、旅行のオーガナイザーだったカナダ人の好みだろう。



山道を数時間かけて上った。雲の向こうにとんがった雪山が見え始めた。サルカンタイ山である。そこからしばらく歩いてこの日のキャンプ地に到着した。キャンプ地から見たアンデスの夕暮れ。値千金のながめであった。





8 高原に吹く風              

山道を歩き続ける。山道に沿って水路があり、きれいな水が流れている。その反対側は急斜面で、谷底に川が流れている。この山道はインカ時代の古道なのか、道路わきの用水路はインカ時代のインカ水路なのか、30年も前の事なので、正確なところは忘れてしまった。トルキスタンのカレーズ、ペルシアのカナート、ローマ帝国の水道橋。ここはアンデス山地。昔からの山道、古い用水路ということで、インカ道、インカの用水路ということにしておこう。その方がロマンチックだ。それに谷底に見える流れの名は「リオ・ブランコ」だ。

    

インカ文明で知られるインカ帝国は15世紀に絶頂期を迎え、16世紀にはスペイン国王が派遣した兵隊によってあっけなく滅ぼされた。インカ帝国は12-13世紀ごろクスコとその周辺で暮らしていた部族が力をつけ、他の部族と戦い、それらの部族を従えることで帝国を築いていったといわれている。

インカ帝国の最盛期、その版図はコロンビアからエクアドル、ペルーからボリビア、チリ、アルゼンチンにまたがった。インカ帝国は領域支配のために交通網を拡充した。インカ帝国以前前からあった道を整備するとともに、新たな道をつくった。この道路を「カパク・ニャン」(Qhapaq Ñan=王の道)と呼び習わした。観光客の間では、the Andean Road とかthe Inca Trailとかいわれている。主要な道路はアンデス山脈の西側の太平洋岸を南北に走る沿岸道路と、アンデスの山中を南北に走る高原道路だった。この2本の道路は主要地点で大きな道路で結ばれていた。また、帝国の公用道路だけでなく、幹線道路と地方道、地方道と地方道を結ぶ道路も毛細血管のようにはりめぐらされていた。道路の総延長は2万キロから3万キロに及ぶと推定されている。カパク・ニャンは政治、軍事、経済のためのインカ帝国の動脈だった。カパク・ニャンは2014年になってユネスコ世界遺産に登録された。



アンデス山中をトレッキングする旅行者たちは、カパク・ニャンを駆け抜けた飛脚(チャスキ)の話も聞かされる。インカ帝国の最盛期の通信手段は「飛脚」だった。インカ道の主要幹線には2-3キロごとに飛脚小屋がたてられ、走りを得意と死とする若者数人が常時待機していた。飛脚がこの小屋にやってきて、伝言を聞き取ると、小屋で待機していた走者がインカ道に走り出て、次の飛脚小屋を目指す。インカには文字が発明されていいなかったので、通信は主として音声だけで行われた。主としてといったのには訳がある。メッセージは文字の代わりに紐によって伝えられた。一本の紐に、約束に従って(というか文法に従って)専門家が結び目を付け、この紐がとどけられた先の専門家がこの結び目の意味を解読した。そののち結び目のついた紐はアーカイブに保存された。結縄(キープ)という。飛脚のほか、緊急連絡には狼煙、夜間では火焔を使って伝えられた(インカ・ガルシラーソ・デ・ラ・ベーガ『インカ皇統記③』(岩波文庫)。



ところで、話を風景に戻す。サルカンタイ峰へ向かって高度を上げてゆく。と、目の前に白く輝く山が見えた。あれがサルカンタイ峰だ、とガイドが教えてくれた。目の前の丘を回りこんでゆくと、突然、雪山が現れた。それもこんなにちかいとろに。

クスコは南緯13度で熱帯地域にあたる。といっても標高が3000メートルを超える高原なので、年間を通じて気温の変動は少ない。5月か9月にかけては乾季で雨はほとんど降らない。この間気温は昼間が17-20度、明け方が0-5度程度である。10月から4月にかけては雨季で、アンデス高原が緑濃い風景になる。



この日のキャンプ地に着いたら、一足先に到着していた支援チームがすでにテント村を設営していた。高原を吹く風が心地よい。



夕食前にキャンプの周辺を散歩した。草むらからかわいらしい子どもが顔をのぞかせた。おや、この近くに集落があるのだろうか。



9 輝ける道

歩いてマチュピチュへ行くアンデス・トレッキングにはいくつかのルートがある。サルカンタイ峰の峠越えルートは、古くからの山道、それにひょっとしたらインカ帝国時代のインカ道も組み合わせて旅行会社が設定したものだ。したがって、キャンプ地も安全で便利な場所が選ばれている。なだらかな平地。

その日の行程が終わりに近づくころを見計らって、支援チームの馬方の半分以上がキャンプ地へ急ぐ。食堂用などの大テントと旅行者が寝る小テントを張り、テント村からちょっと離れたあたりに穴を掘り、移動用の便器をすえて周囲に幕を張り、トイレとする。野外トイレは慣れるまで使用にあたって緊張感を感じる。私は海外旅行では必ず便秘に襲われる。長時間飛行機の座席に座り、飲み食はするけれども、姿勢のせいか便意を催さない。それが目的地について数日の間続き、頑固な便秘症状におちいる。そういうわけで、海外旅行に出かける際は漢方系の便秘薬を携帯することにしていた。旅行者は似たような生活をしているので、トレッキングの仲間にも便秘で気の晴れない人がいた。漢方便秘薬をおすそ分けすると大変感謝された。

キャンプ地では、夜になると何もすることがないのでみんな早く寝袋に入る。昼間の山道歩きの疲れのせいか寝つきがよくなる。朝方、テントの周りに人の足音と話し声が聞こえて目が覚める。寝袋から出て身づくろいをする。テントの外はさわやかな高原の朝である。テントの前に洗面器があり、世話役がお湯を入れてくれる。洗面をすませ、大テントで朝ご飯を食べる。それからテントで使った私物を袋に詰め込む。世話役がテントを片付ける。荷物を馬の背にのせる。さあ、出発だ。テントの前の山の背後から銀嶺が見える。

日中はひたすら歩く。けもの道に毛が生えた程度の石ころだらけの山道。熊野詣の中辺路の山道の方が整備されている。まわりは不愛想な岩山。氷河が山肌から削り取った石や岩が押し流されて堆積したモレーン。そういう風景の中をガイドが馬を引きながら歩いて行く。印象深いシーンではあるが、さて、毎日となると……。

ペルーの反政府グループ「センデロ・ルミノソ」(輝ける道)はアンデス高地をゲリラ闘争の舞台にしていたと報じられていた。ガイドに尋ねると、彼らがマチュピチュ周辺の山岳地帯で武装闘争をしてきたという話は聞いていないという返事だった。ここは安全だよ、とガイドは言った。そうかもしれない。ここはアンデスの岩山と雪山、氷河の地で、そもそも人間が集まって住む集落は少なく、それに集落の人口は極めて小さい。くわえて、反政府活動の対象になるような政府の施設は皆無である。インドネシアでは反政府イスラム過激派がボロブドゥール寺院を爆破したことがあったが、センデロ・ルミノソにはインカ時代の石造りの遺跡を壊す気はなかった。

センデロ・ルミノソは1980年代にペルーで大暴れした極左ゲリラ(南米の毛思想の実践者)で、指導者のアビマエル・グスマンは大学で哲学を教えていた。1960年代に訪中し、毛思想に心酔したと言われている。フジモリ大統領時代の1992年に軍に拘束され、裁判で終身刑の判決を受けた。ペルーでは政治犯には死刑が適用されないので、2021年まで生きた。

この日もアンデス高地をよく歩いた。お昼の後、馬方は半数が一足先に今日のキャンプ地へむかった。残りが旅行者とつかず離れず同行する。



キャンプ地では馬方の家族が訪れ談笑していた。この近くに家があるのだろう。





10 サルカンタイ峰の雪崩

また終日の歩き。4600メートルの峠に向かっているのだから、全体としては上り坂だが、地形によっては上りと下りの3歩前進2歩後退を繰り返すまどろこしさがある。



急ぐ旅ではないので、インカ帝国時代のインカ道飛脚のように韋駄天走りをする必要はない。のんびりだらだら起伏に耐えているうちに、やがて1日の行程が終わる。



この日のキャンプ地はサルカンタイの白い峰がまじかに見える場所。夕方にドドーンと腹に響くような音がして、サルカンタイの山肌に雪煙があがった。雪崩があったようだ。明日はこのキャンプ地を出て、雪中の山道を峠に向かう。



11 4600メートルの峠越え

これからサルカンタイ峰の峠を越える。峠は海抜約4600メートル。サルカンタイ峰の頂上が6271メートルなので、そこより1600メートルほど低い。

峠が近づくと道は積雪の中だった。といっても、雪の量は少なく、毎日ここを抜けてマチュピチュに向かう旅行者のグループが踏み固めた山道で歩きやすくなっている。



雪道にはいるまえ、ガイドがグループのみんなを集め、登山の儀式を始めた。サルカンタイは霊峰とあがめられている。ガイドは何やら祝詞のようなものを暗唱し――たぶんケチュア語だったのだろうが――そのあとで持っていた水筒から酒を雪上にまいた。祝詞が終わると、木の葉を一つまみづつみんなに配った。コカの葉である。峠越えの間はこの葉っぱを口の中でクチャクチャと噛み続けろ、元気が出る、とガイドは言った。

ペルーやボリビアではコカの葉は重労働を忘れさせてくれるカンフルのようなものだ。スペインは金目のものが欲しくなって、中南米に渡ってきた。インカ帝国と戦いを交え、金銀の製品を略奪して本国に持ち帰った。インカ帝国の宝物が品不足になったころ、インカ帝国内でポトシ銀山が見つかった。ポトシ銀山は現在グアテマラ国の領域にあるが、当時はインカ帝国の領域だった。

この銀山でスペイン人は、地元の人々やアフリカから連れてきた奴隷を酷使して銀を掘り、現地で精錬した。ポトシ銀山の労働者はコカの葉を嚙みながら銀鉱石を掘り続けた。掘りだされた銀はスペイン王室をうるおし、ヨーロッパの経済を変革した。

スペインの王はこの銀を借金の返済、軍備増強、戦費に費やした。重商主義が支配的な時代だったので、その銀を産業育成のための投資に使うという発想はなかった。

イギリスにはフランシス・ドレークという海賊の親玉(のちにイングランド海軍の提督)がいて、カリブ海で盛んにスペイン船を襲撃し、銀やその他の宝物を強奪した。

ドレークの略奪品の価値は当時の金額で60万ポンド。その半分の30万ポンドがエリザベス1世の取り分になった。この金額はイギリスの国庫歳入よりも多かった。1588年の対スペイン戦争の費用の2倍だった。エリザベス1世はこの略奪品で対外債務を生産したうえ、残額を東方貿易のレパント会社に投資した。さらに、投資が生んだ利益をイギリス東インド会社に再投資して、後の大英帝国の基盤をつくった(杉浦昭典『海賊キャプテン・ドレーク』(中公新書、1987年)。ドレークはこの功績で女王から「サー」の称号を与えられ、海賊船長からイギリス海軍の提督になった。

経済学者のケインズがこの史実をふまえて、世界を支配することになったイギリス資本主義は海賊がカリブ海で略奪した財宝から始まった、と彼の著書のどこかで書いていたことを思い出した。

コカの葉を噛みながらひたすら銀を掘り続けて疲労困憊した土地の人は、世界の近代経済の動きから取り残されて、ホゾを噛んだ。海賊ドレークの時代から300年以上たった1964年の第1回国連貿易開発会議(UNCTAD)でアルゼンチンの経済学者ラウル・プレビッシュが南北の格差問題を取り上げる報告を行なって、世界は富める経済先進国と貧困にあえぐ途上国の格差を再認識することになった。

プレビッシュ報告は「従属論」という視点へと発展した。また、カトリックでは「解放の神学」が南アメリカで生まれた。

さらに、以上のことを参考にして、アメリカの社会学者イマニュエル・ウォーラーステインが「世界システム論」という視点を打ち出した。

ウォーラーステインは『近代世界システム II』(名古屋大学出版会、2013年)で、この間の動きを次のように要約した。①ヨーロッパ人はインカ帝国の財宝を略奪し、ポトシの銀山を開発し、さらにメキシコの金山を開いた。彼らは資本主義システムに必要な資金と、アジア貿易に使う貨幣調達のために、中南米の各地を周辺化した。

それはさておき、雪道の上り坂はそれほどきついものではなかった。

峠を越えて広々とした渓谷の下り坂は霧に包まれていた。時々は霧がはれ、霧がかかるとあたりがぼんやりしてくる。



そんな霧の中を人は歩く。



馬も歩く。



渓谷が狭まったあたりで人と馬が合流して態勢を立て直す。

こんな山の中に人家があった。



ここでお昼ご飯にする。



12 アンデスの魚

サルカンタイ峰の雪の峠越えは、案じていたほど苦しいものではなかった。予想したほどの急坂はなかった。それに、なによりも風がなかった。

前日のサルカンタイへ向かうのぼり坂では、雪まじりの冷たい風の中を歩いた。旅行者の中には疲労を強く感じる人もいた。心配したガイドが2人ほどを馬に乗せた。

この日、サルカンタイの峠を越えると風景がこれまでと変わった。サルカンタイの上り道は乾燥、下り道は湿潤の風景だった。



アンデスの峰々の岩肌をつたって滝が幾条も流れ落ちている。霧が流れる。アンデス版の山水画のような風景であった。



足元には大小の岩石が転がっている。その表面が赤い。岩石に含まれた鉄分がさびたのかな、と手で触れると苔だった。アンデスの赤い苔。

   

しばらく下ると、「このあたりからクラウド・フォレスト(雲霧林)に入ります」とガイドが説明した。熱帯や亜熱帯の高山でみられる雨林帯である。「この一帯は色々な蘭の花が咲くことで有名です」。ガイドはそういった。だが、あいにく蘭の花はみあたらなかった。そこで代わりに、草花の写真を入れておこう。花の名は知らないけれど。

   

樹々の間に小川が流れている。小川は目の前の雪山から流れ出ている。滝があって、滝つぼに魚がいる。ガイドたちが流れに入って手づかみで魚を取った。アンデスの魚。この魚が晩御飯に出たかどうかは、記憶にない。

旅行者はアンデスの冷気で冷えて体を焚火であたためる。



ガイドたちはテントの前で休憩。



これから地面に穴を掘って、焚火で焼いた石を並べ、そこにバナナの葉で包んだ羊の肉と根菜類を放り込み、また焼いた石をのせる。最後に木の葉っぱをしいて、土をかぶせる。パチャマンカというアンデス伝統の蒸し焼き料理。

その夜はアンデス・トレッキング最後のキャンピングで、そのお祝いのごちそうだった。

パチャマンカは数時間待てば出来上がる。ところでここは人気のないアンデス山中。羊の肉――ヒツジ1頭分ほどの骨付き肉や、スープにした頭蓋骨――やバナナの葉はどこで仕入れたのだろうか。



13 鉄道へ

ビルカバンバ山群の斜面を鉄道線路へ向かって下る。

いまから30年ほど前は、ペルー国鉄がクスコとマチュピチュの間に列車を走らせていた。現在でも鉄道線路は国有だが、そのレールを走る列車はペルー資本と海外資本の合弁会社の運営である。

30年前のマチュピチュ行き列車はクスコを出たのち、アンデスの山間を縫うように走り、ウルバンバとオリヤンタイタンボの中間で、国道とウルバンバ川にぶつかり、オリヤンタイタンボ駅を経て、マチュピチュの麓のマチュピチュ駅(アグアスカリエンテス駅)にいたるコースを走った。標高3400メートルのクスコから2000メートルのアグアス・カリエンテスまでの1400メートルの下りである。

今度のアンデス・トレッキングは、マイクロバスでクスコから東に国道を走り、モレパタというサルカンタイ峰近くの町までゆき、物資輸送用の馬とともに、サルカンタイの峠を越えてマチュピチュに向かった。昔の事なので詳しいルートは覚えていないが、いたるところで積雪の高山が見えた。サルカンタイ峰、ウマンタイ峰、パルカイ峰などなど。

列車で行くと、クスコからまず北の方角に向かい、ウルバンバ川にぶつかったあと西に向きを変えて下流に向かってウルバンバ川沿いに走る。直線距離だと100キロほどであり、くねくねとした線路を走ってもまずは4時間ほどの鉄路だった。

モレパタからマチュピチュを目指したこの時のアンデス・トレッキングはキャンプで5泊という大した旅になった。

雲霧林帯の最後キャンプ地をたって、林の中を下った。下り終えると、足元に小川があり、見上げると崖の中腹から景気よく滝が落ちていた。

無事、鉄路までたどり着いた。駅名は日本語で言うと「水力発電所駅」(エスタシオン・イドロエレクトリカ)。アグアス・カリエンテス駅から反クスコ方向に1つ先の駅である。水力発電所駅からアグアス・カリエンテス駅までは10キロほど。

馬から荷物を下ろすと、馬方さんたちは来た道を引き返した。

水力発電所駅で列車を待つ間に子どもたちが集まってきた。トレッキングを終えた旅行者のおじさん・おばさんたちを見て、そのあとニコッと笑みを浮かべる。人なつっこい子どもたちだ。アンデスを案内してくれたガイドは、旅の冒頭でこんなことを言った。「アンデスの子どもはかわいい。だが、不用意に子どもたちに接触しないようにしてほしい。場合によっては厄介な病原菌を持っている場合もある」



旅行者にこう注意したペルーのガイドは、あのとき、どんな気持ちだったのだろうかと、30年たったいま、ふと思うのである。



14 あと10キロ

ジャレド・ダイアモンド『銃・病原菌・鉄』(草思社)によると、1520年にエルナン・コルテスがアステカ王国を攻撃した際、天然痘がコルテスに味方した。天然痘の蔓延でアステカ王国の人口が半分に減ったからだ。1520年にスペインが支配していたキューバからきたスペインの奴隷が天然痘に感染していて、アステカ王国に天然痘を拡散させた。アステカのクィトラワク皇帝も天然痘にかかって死んだ。2000万といわれていたアステカ王国の人口が1618年には160万に激減した。フランシスコ・ピサロがインカ帝国を攻撃したのは1531年のことだが、天然痘は1526年にインカ帝国に広がっていた。インカ皇帝ワイナ・カパックもその後継者も天然痘で死んでいた。

加えてスペイン兵による殺戮。ラス・カサス『インディアスの破壊についての簡潔な報告』(岩波文庫)によると、スペインの征服者たちは新世界にやってきて、極悪無残な人殺しを重ねた。理由はいたって単純だ。彼らは金を手に入れることを最終目的と考え、できる限り短時日で財をきずこうとした、と征服者と一緒にやってきて殺戮の現場を目撃したスペイン人聖職者ラス・カサスが書き残している。金目当てのジェノサイドである。

さて、水力発電所駅で列車を待った。予定より30分も過ぎたのに列車が現れない。ガイドも少々慌てて情報集めに出かけた。

「なんということだ。鉄道労組がストに入った。今日は列車が1本も動かない。少々お待ちください。荷物を運ぶ人を集めてきます。今日の目的地アグアス・カリエンテスまで鉄路を歩いて10キロ。3時間もあれば到着です」

水力発電所駅からアグアス・カリエンテス駅まで、鉄路をとぼとぼと歩く。大きな荷物はガイドが集めたアルバイトが運んでくれたが、何日も続いた山歩きのあと、降ってわいた災難、仕上げの10キロのトレッキングとなった。



疲れ果ててアグアス・カリエンテス駅にたどり着いた。ホテルに荷物を置いて、温泉場へ行った。大きな野外プールのような温泉だった。久しぶりのお風呂で大変心地よかった。



15 マチュピチュ


マチュピチュの登山口にあたるアグアス・カリエンテスの町は標高2000メートルほどである。マチュピチュの遺跡群が残っている山頂は2400メートル。バスで遺跡の入り口を目指す。バス道は遺跡を観光名所にするために新しく建設された。斜面はかなり急なので、バス道は斜面をジグザグに走っている。記憶に間違いなければ、400メートルを登るのに30分ほどかかった。

マチュピチュが世界に知られるようになったのは、イェール大学の教師だったハイラム・ビンガムが土地の人に案内されてマチュピチュにのぼった1911年からだ。かれのマチュピチュ訪問記が数年後『ナショナル・ジオグラフィック』のマチュピチュ特集号におさめられた。

ハイラム・ビンガムは、インカの都だったクスコがスペインに占拠されたのち、インカの皇帝につながる人々がクスコを離れて建設した新しい、そしてインカ帝国最後の都であるビルカバンバの遺跡を探していた。

ビンガムの探検旅行を書いたマーク・アダムスによれば、ビンガムは死ぬまでマチュピチュをビルカバンバだと思い込んでいた(マーク・アダムス『マチュピチュ探検記』青土社、2013年)。いまではマチュピチュはインカ帝国の神殿でアンデスとその周辺のインカの人びとが信仰のために参集していた場所だと解釈されている。ビンガムが探していたビルカバンバはマチュピッチュの西方100キロほどのジャングルの中にあったことがわかっている。

マーク・アダムスによると、ビンガムは密林の中の本物のビルカバンバの遺跡を調査済みだったが、それがインカ最後の都の跡だとは思ってもみなかった。

ハイラム・ビンガムはアンデス探検旅行中に自力で集めた考古資料や、調査のためにペルー政府から借りた資料をイェール大学に持ち帰り、同大学の博物館に展示した。

ビンガムがマチュピチュへ行ってから約100年後に、ペルー政府とイェール大学の間で話し合いがまとまり、ビンガムが持ち帰った考古資料をペルーに返還することになった。

この出来事で、映画のインディー・ジョーンズのモデルはハイラム・ビンガムではなかろうかといううわさがひろまったと、マーク・アダムスは書いている。



21世紀のいまでは、マチュピチュ行きの列車として運行会社が「ハイラム・ビンガム号」という超豪華・超高価車両を走らせている。マチュピチュの遺跡から見下ろしたウルバンバ川沿いに古めかしい列車が走っていた1990年頃の写真を添えておこう。

(写真と文: 花崎泰雄)