1 ウルルへ

表題のレッド・センター(Red Centre)とはなにか。The Australian Concise Oxford Dictionary には次のような説明が載っている――オーストラリア中央部の通称。酸化鉄の影響で地表が赤っぽくなっている理由による。

地質学者ではないので酸化鉄を含有する土壌に興味を持ったわけでない。レッド・センターに屹立するウルルとカタ・ジュタの2つの岩山に惹かれたからである。

東京からメルボルンまで10時間ほどの飛行。メルボルンで飛行機を乗り継いでおよそ3時間飛ぶとエアーズ・ロックに到着する。

エアーズ・ロックとはオーストラリアを大英帝国の植民地にした人たちがつけた名前である。植民者たちは先住民をアボリジニと呼んだ。もともとの住民は、言語グループによって自分たちを呼ぶ言葉が違ったが、ウルルがあるノーザン・テリトリーでは、自分たちのことを「アナング」と呼んできた。アナングとは「人間」を意味する。

植民者たちはさまざまの言語グループの先住民をひとからげにしてアボリジニと呼んだ。古代ギリシア人はギリシア語を解さない部族をバルバロイと呼んだ。その言葉は現代のアテネでも残っていて、ホテルのレセプショニストがギリシア語を話さない外国人旅客をバルバロイと呼ぶことがある、とギリシア語の先生から聞いた。バルバロイはご存じの通り、バーバリアンの語源である。

エアーズ・ロックのコネラン空港は小型の空港で、年間利用者は30万人ほど。そのほとんどがウルル観光にやってくる旅行者だ。ウルルから20キロほど離れた場所に、観光用のエアーズ・ロック・リゾートが造成されており、空港とリゾートまでの間を、エアーポート・シャトル・バスが客を無料送迎する。どうやら空港もリゾート施設の一部なのである。

リゾート内には円形の自動車道路が建設されていて、その外周に5つのホテル、ロッジ、キャンプ場、劇場、観光案内所などがあるリゾート・センターなどが配置されている。その円形の道路を20分おきに無料のリゾート・シャトル・バスが巡回している。道路の内側には半乾燥地帯のウルルの植生を残した野原があり、高台にはウルルが見える展望所が造られている。冒頭のタイトル写真はそこで撮影した。

したがって、リゾート内の施設利用料は高い。妥当な価格で商品を売っているのは、リゾート内に1店しかないスーパーマーケットだけだ。アボリジニがカフェやレストランで飲食する姿は見かけなかったが、スーパーマーケットには買い物客として来ていた。

エアーズ・ロック・リゾートで働く人のうちアボリジニの割合は2010年ごろは10パーセントほどだったが、その割合を増やす政策がとられて、今では40パーセントほどになっている。



2 ウルルの日の出

朝4時半に起きて――と簡単に言うが、これがまた難儀なことで――午前5時過ぎにホテルの玄関にやってきた「ウルル日の出バス」に乗る。バスはエアーズロック・ホップオン・ホップオフと称する、エアーズロック・リゾートとウルルとカタ・ジュタの間を循環している乗り合いバスだ。

ウルルもカタ・ジュタも広大な国立公園の中にあって、ウルルはリゾートから20キロ、カタ・ジュタは50キロほど離れている。バスの運転手は客が乗るときかならず名前を聞く。客が自然公園の中に取り残されるのを防ぐためだ。ウルル・カタ・ジュタ国立公園の面積は1300平方キロ以上ある。東京23区を2つ合わせたほどである。

ウルルの一帯は年間降雨量が500ミリほどの半乾燥地帯である。昼は暑く、夜は冷え込む。9月上旬なので、日本の3月上旬の早春にあたり、明け方は日本以上に冷え込む。ダウンを着込み、手袋をつけてご来光ポイントの草原で日の出を待つ。



アボリジニことアナングの伝承によれば、アナングの祖先がこの世に現れるまでは、地上には何も存在しなかった。アナングの祖先は人間・植物・動物の姿となってアナングの土地に広がり、今日の世界を形作った。

西洋からやってきた白人の子孫の科学者の見方はこれと異なる。太古この辺りは海の底だったが、4-3億年ほど前に海が引き、地表が現れた。地表に雨が降り注ぎ、やわらかい砂岩を削っていった。固い岩でできたウルルとカタ・ジュタが残り、2つの岩山の間に谷間がうまれた。6500万年ほど前のことだいう。そのころ気候は湿潤だった。ウルル一帯が乾燥地帯になったのは50万年ほど前からである。乾燥した風に削られた砂がまき散らされて堆積し、今日の地表を作った。ウルルもカタ・ジュタも地表に現れている部分は、いわば氷山の一角のようなもので、巨大な岩の本体は、地下6000メートルにも達すると考えられている。

日の出前に、ほんの少しだけ赤みが強くなったウルルの岩肌を眺めながら聞く説明としては、壮大な地質学の説明も感動的であるが、アナングの創世伝説もおとらず捨てがたいところがある。祖先が人間、植物、動物の姿になってこの世界を創った――人間と環境を対比させることなく、人間はそもそも環境の一部であることを示唆する――伝承を思い返しながらウルルをながめていると、エコロジーという言葉の核心に触れるような気がしてくる。ご来光の功徳でもある。

ご来光を拝んでホテルに帰ると朝8時頃だった。空腹を覚え、しっかり朝ご飯を食べて、二度寝した。



3 カタ・ジュタの日の出

早朝、カタ・ジュタへ日の出を見にいった。

4時半起床、5時過ぎカタ・ジュタ日の出バスに乗車。バスが出てしばらくすると運転手が車内の灯りを消して言った。「目的地に着くまでしばし夢の続きを」。リゾートからカタ・ジュタの日の出ポイントまで小一時間かかる。

日の出ポイントから、東の地平線にウルルが小さく見える。西にはカタ・ジュタの山塊。日の出に映えるカタ・ジュタを見に来たのだが、多くの人が東のウルルを見つめている。地平線が徐々にオレンジに染まり、ウルルが黒い塊になってはっきりと見え始める。幸運なことに空にはいくつかの千切れ雲が浮かんでいて、紅に染まる。



春の夜の夢の浮橋とだえして峰にわかるる横雲の空

藤原定家の歌を眼前の風景にこじつけようとしたが、京都の早暁の風景とオーストラリアの半乾燥地帯のそれでは、性格が異なる。モンスーン・アジアの東端の湿潤日本では光と影があいまいに溶け合う部分があるが、乾燥地帯では光と影の輪郭はくっきりとして、プラスとマイナスに分かたれたデジタルな風景になる。

ウルルの天然色影絵の日の出がすすみ、辺りが明るくなり始めたころ、こんどは、カタ・ジュタの岩肌の一部がほんのり赤く染まる。ウルルの横から登った朝日を受けたせいである。



カタ・ジュタは大きな花崗岩の塊と砂岩や鉄鉱石が泥や砂で固められた岩山である。ドーム型の岩山は28を数え、最も高い部分は平地から500メートルを超える。300メートル超のウルルよりも200メートルほど高い。

カタ・ジュタもアナングにとっては聖地である。とくに男性用の聖地であるので、アナングの女性はカタ・ジュタに近づかない。

払暁のウルルとカタ・ジュタをながめていると、夜明けとともに2つの岩山が何やら交信しているような、まことに幼い感慨に浸ってしまう。聖地の朝の心の震えであろうか。アナングの人たちはこの風景に畏怖を感じ続けてきたのだろう。

ヨーロッパからオーストラリアに渡ってきた植民者は、もともとの住民と戦闘を交えつつテリトリーを拡張し、オーストラリアに根を下ろした。オーストラリア開発の歴史の中で、白人植民者はアナングを居留地に押し込めた。一方で、居留地に地下資源を発見したり、牧場の適地と判断したりした場合は、容赦なくアナングの土地を奪った。エンクロージャー(囲い込み)に似た手口で、ここからオーストラリアの資本主義経済は始まる。オーストラリアに奴隷制が制度としてあったかどうかは議論のあるところだが、採取経済の基盤である土地を奪われたアナングを、植民者は低賃金でこき使った。事実上の奴隷制度である。

オーストラリアは人種的偏見のない国だと、今では豪語しているが、1960年代までは白豪主義の国だった。そういう時代にオーストラリアの白人政府はウルルとカタ・ジュタの一帯を国立公園に指定した。国立公園内部に観光用の宿泊施設を造った。1970年代以降、アナングが異議申し立てを行い、政府はアナングが先祖伝来の土地であると主張する土地の権利を認め始めた。国立公園は例外とされたが、1980年代にはウルルとカタ・ジュタのある国立公園にもアナングの地権を認め、国立公園の用地を政府がアナングから借り受けるという形で決着をつけた。アナングの異議申し立てを入れて国立公園内部にあった観光客用の宿泊施設が取り払われ、公園の外のユーララに新しいリゾートが造成されたのもこのころのことである。



ウルルの日没

日没の時間帯にウルルの夕日ポイントへ出かけた。夕日に赤く染まるウルルを見るためである。中国・トルファンの火焔山と同じで、日によって赤みが違う。運が良ければ観光ポスターのような、燃えるウルルの岩肌が撮影できたのだろうが、この日は炎上がたりなかった。



その代わり、空からパラシュートがふわりふわりとウルルの方へ降りていくのが見えた。

ウルルは観光地なので、エアーズ・ロック空港からヘリコプターによる上空散歩や、セスナ機から飛び降りるスカイ・ダイビングが楽しめる。なんなら豪華ホテルを出て、キャンプ生活も楽しめる。荒野の真ん中でディナーを楽しむバスツアーもある。気が向けばラクダの背中に乗って荒野を歩くこともできる。

Once in a lifetime――とエアーズ・ロック・リゾートの宣伝キャッチフレーズは言う。そうした風光明媚な――この赤土の荒れ地の風景もその一つだろう――観光地である。贅沢な休暇をたっぷりお楽しみあれ。それに、もしよろしければ、アナングの一風変わった伝統文化にも触れることができますよ、といった観光地である。

アナングは日本人と同じで太陽崇拝の伝統がある。オーストラリア・アボリジニの国旗というか、民族旗というか、その旗のデザインは太陽である。

太陽は生と死に深く結びついている。アナングの伝説では、太陽は女性で、月が男性だ。太陽であるある女性は、夕方、西の彼方で、もっていたトーチを消し、暗闇の中を東の方に移動する。それから、トーチに火をつけ、辺りを照らす。それが朝である。

「元始、女性は太陽であった」は平塚らいてうの自叙伝のタイトルである。

そのせいでもなかろうが、日本人をはじめ多くの観光客が日の出・日の入りを拝みにせっせと出かける。



5 カタ・ジュタの日没

1990年代の前半、オーストラリアのメルボルンに住んでいた。199263日、オーストラリアの最高裁判所が画期的なマーボ判決を出した。

その時期、私はオーストラリアの隣国であるインドネシアのスハルト大統領の開発独裁と反スハルト・民主化運動のせめぎあいをテーマに大学に提出する論文を執筆中だった。メルボルンとジャカルタを頻繁に往復していた時期なので、マーボ裁判はメルボルンの新聞やテレビのニュースを見るだけで、興味はあったものの、関連の学術論文などに目を通す余裕がなかった。

マーボ裁判とは、イギリス人に乗っ取られた先住民の先祖以来の地権をはじめとする各種権利の確認を求めて、エディー・マーボが起こした訴訟だった。

エディー・マーボは、オーストラリアとパプア・ニューギニア間のトレス海峡の島で生まれた先住民の子孫。トレス海峡の島々は現在ではオーストラリア・クイーンズランド州の一部になっている。

この先住民――トレス海峡諸島人とオーストラリア大陸のアボリジニの権原をめぐる争いは、先住民の子孫はもとよりヨーロッパ系のオーストラリア人にとっても非常に関心の高い問題だった。

オーストラリア最高裁の判決は、先住民の権原を認める画期的なものだった。国家の基盤は「領土」である。現在のオーストラリアの領土は、1770年にキャプテン・クックがオーストラリアに上陸し、続いて1788年にイギリスから流刑囚を中心とした最初の植民者がシドニーにやってきた時に始まる。当時のイギリスはこの土地は無主地=terra nulliusであると宣言した。土地の所有者が不明で、だれが支配しているかも明確ではない、という理由で、オーストラリアをイギリス国王の所有とした。その宣言が温存され、現在のオーストラリアがイギリスから主権を引きついだ。

マーボ判決でオーストラリアの最高裁判所は言った。18世紀イギリスの terra nulliusの認識はあやまりであって、イギリス人がやってくる以前から、先住民は共同体、個人として土地に対する権利(native title)を持っていた。

オーストラリアの裁判所が自国の領土をめぐるterra nullius のフィクションを指摘したのだ。

この裁判闘争を10年も続けたエディー・マーボは、しかしながら、この判決を聞くことができなかった。判決が出る半年前の19921月に彼は死去していた。

判決をうけてキーティング政権時代の1993年にネイティヴ・タイトル法ができた。地下資源その他で土地を利用するにあたって、先住民側から異議申し立てがあれば裁判を行い、先住民側勝訴の場合は、土地の使用料あるいはそれに相当する福利厚生の便宜を先住民側に提供する取り決めになった。

アボリジニの土地、カタ・ジュタの夕焼けはこの通りの鮮やかさだ。カタ・ジュタは日の出よりも日の入りの方が豪華絢爛である。この焼け空を見ながら日本のことを思った。



日本の明治政府は北海道のアイヌ民族から土地の権利をはじめ彼らの先祖伝来の権原を取り上げた。例えばサケ漁は、日本人にとってのクジラ漁以上に、アイヌ民族にとっては重要な行事だが、この伝統の漁は現在では当局の許可を得ないと、たとえアイヌ民族であっても違法な漁業行為になる。日本政府のアイヌ民族に先住民権原の侵害・蹂躙は国連でしばしば取り上げられている。

オーストラリのマーボ判決では、最高裁判所の7人の判事のうち6人がterra nullius の判断の誤りを認めた。

さて、日本の最高裁判所に、マーボ判決のような、歴史を書きかえる判断ができるか、どうか。

(写真と文:花崎泰雄)