前口上 へとへとになってイスタンブールに帰り着いた。そこは晩秋から初冬に移ろうとしていた。夜風が冷たく雨の日が多くなる季節だ。アナトリア(小アジア)のエーゲ海と東地中海の沿岸部に残る古代遺跡を巡っていた時は、日中の強い日差しにまだ夏の余韻が残っていた。 アナトリアを旅したわけは次の通りだ。「日本エーゲ海学会」というこぢんまりとした同好会風の学会があった。学会はしばしばギリシアとトルコをめぐり歩く現地体験旅行を企画していた。その旅の企画で2回ギリシアへ行った。その1つに、アテネを出てエーゲ海の島々をめぐって、過去に思いをはせる短いクルーズが含まれていた(日本エーゲ海学会のギリシアの旅につてはこの「彷徨」シリーズにおさめてある)。だがエーゲ海文明圏の東半分であるトルコ・アナトリアの沿岸部は未見のままだった。 すでに長距離の単独彷徨が無理な年齢である。いくつかの旅行会社の企画を見比べて一番楽そうなグループ旅行を選んだ。ところがそれは気楽な物見遊山の旅ではなく、海兵隊のサバイバル訓練のような苛烈なものだった。午前6時起床、午前8時ごろ出発、夕方まで観光スポットを高速で駆け回った。 かつて日本の経済にまだ強さが残っていた時代、大勢の観光客がインドネシアのバリ島を訪れた。日本人旅行者の間に赤痢などの消化器系伝染病の感染が頻繁に起きた。取材に出かけた日本の新聞社の特派員に、バリの公衆衛生当局者がこんなこといったそうだ。「バリは熱帯ですからいろんなバクテリアがいます。しかし同じ旅行者でも、ヨーロッパ、アメリカやオーストラリアからのお客さんはあまり罹患しません。昼寝もしないで観光に走り回り、夜は酒盛りといった日本からのお客さんに罹患率が高いのは、そうした観光スタイルも関係していると思います」。確かに日本の旅行会社の観光企画にはお正月の福袋のような山盛り精神があふれている。以下はそのような「彷徨」というよりは「行軍」に近いアナトリアの旅の疲労のはてに得た「妄想」、あるいは「幻視」である。 1 2024年11月10日 日曜日 イスタンブールの新市街のボスポラス海峡側の斜面にたつ高層ホテルのロビーにトルコ共和国初代大統領ケマル・アタテュルク(国父ケマル)の写真が飾られていた。写真の前に献花台があり赤い花が並んでいた、アタテュルクは1938年11月10日に死去している。死因は肝硬変。オスマントルコ軍の勇将で、のちにスルタンを追放、トルコの共和国化と現代化を進めた初代大統領だ。今日はその命日だった。 20世紀になるとオスマン帝国は衰亡の一途をたどり、青年トルコ党が立憲政治を始めたが、第1次世界大戦で青年トルコ党の政権は崩壊した。そのあとをうけてケマル・アタテュルクが革命運動を組織し1922年にはスルタンを国外退去に追い込み、現在のトルコ共和国の基礎を築いた。 アタテュルクは1923年に共和人民党を創設、党旗に6本の矢をデザインした。①共和主義②民族主義③人民主義④基幹産業の国有化⑤世俗主義⓺永続革命、の6つの原則を表している。 「大胆な金融政策」「機動的な財政政策」「投資を喚起する成長戦略」を掲げた「三本の矢」を吹聴した政権がどこかの国にあったが、それとは比べ物にならないほど雄渾なアタテュルクのグランド・デザインだった。 アタテュルクの共和国で、女性の参政権が1923年に認められた。日本で女性の参政権が認められたのは23年遅れの1946年である。アタテュルクは西洋化の路線を推し進め、オスマントルコ時代に用いられたトルコ語のアラビア文字表記を廃止、ラテン文字を採用した。イスラム法、イスラム法廷を廃止し、民法や刑法を西洋流のものに変えた。一夫多妻は廃止され結婚や離婚は西洋風の民法に準拠するようにした。アタテュルク自身も1923年に西洋で教育を受けた女性と結婚し2年後に離婚した。 さらに男性のフェズ帽(トルコ帽)が禁止された。アタテュルクの革命が進む中で、イスタンブール大学ではイスラムの被り物をした女性は教室から排除され、試験も受けられなくなった。 現在では、イスラム保守派を基盤とするエルドアン政権がイスラム回帰の政策を進め、大学での女子学生のスカーフ着用を認めている。モスクだったアヤソフィアをアタテュルクは無宗教の博物館にかえたが、エルドアンはアヤソフィアをモスクに戻した。歴史は過去から未来へ向かって一直線で進むものではない。後退することもある。 さて、イスタンブールの街に出るとドルマバフチェ宮殿の前に長い列ができていた。アタテュルクは大統領時代アンカラからイスタンブールに来たときは、オスマン帝国の末期につくられたこのドルマバフチェ宮殿を宿舎にしていた。アタテュルクはスルタンの宮殿の寝室で死んだのである。ドルマバフチェ宮殿前の長い行列は、アタテュルク臨終の部屋を訪問するためだった(というわけで今回はアタテュルクの臨終の部屋を見学できなかったが、この彷徨シリーズのアーカイブ「イスタンブール・ウォーク」で写真を見ることができる)。アタテュルクはスルタンのように宮殿で死んだ。ちなみにエルドアン現大統領はアンカラに1000室超える規模の大統領公邸を建てたことで野党から批判を受けた。 東ローマ帝国の都だったコンスタンティノープルは西暦4世紀から15世紀までの1000年以上にわたって存続した。オスマントルコ軍がコンスタンティノープルを攻め落とし、東ローマ帝国が滅亡したのが1453年。東ローマ帝国最後の皇帝コンスタンティン・パレオログスは皇帝の紫のマントを脱ぎ捨てて剣を取り,、一兵卒となって押し寄せるオスマントルコ軍に突撃し消えていった。夏目漱石は『吾輩は猫である』で「オタンチン・パレオロガス」と滑稽にもじってみせたが、実は硬派の皇帝だった。 コンスタンティノープルはイスタンブールと名を変えてオスマン帝国の都になった。オスマン帝国は500年弱にわたって続き、欧州を戦々恐々とさせた。しかし最後は衰退し、アタテュルクがスルタン制の廃止を決めた後、オスマントルコ最後のスルタンであるメフメト6世はイギリスの軍艦でマルタ島に脱出した。 始めがあれば終わりもまたある。ボスポラス海峡に停泊しているトルコ共和国海軍の半旗や、海峡の大橋の向こうに見える半旗を眺めながら歴史の流れに見え隠れする人間の愚かさに虚しさを覚える。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし――『方丈記』の有名なセンテンスが思い出されるイスタンブール晩秋の暮れ方であった。 2 チャナッカレ1915橋 黒海からボスポラス海峡、マルマラ海、ダーダネルス海峡とつながる水域がトルコをヨーロッパ側トルコとアジア側トルコに分けている。ヨーロッパ側とアジア側を結ぶ交通路としてイスタンブールにはこれまでに2本の橋と一本の海底トンネルが作られていた。 くわえて2022年にはガリポリ(トルコ語ではゲリポル)半島と小アジアのダーダネルス海峡に新しく橋が架けられた。橋はダーダネルス海峡の最も狭い部分に建設された。橋が架かるあたりにはのんびりした田園風景が広がっている。イスタンブールを出発した観光バスはガリポリ半島を目指し、橋を渡って海峡を越えアジア側トルコのチャナッカレという町に入る。チャナッカレを経由して、トルコ観光旅行の目玉の一つトロイの遺跡を目指すのである。 ダーダネルス海峡は古くはヘレスポントス海峡ともよばれていた。ダーダネルスもヘレスポントスもギリシア語起源の名前である。そこで現代のトルコではこの海峡をチャナッカレ海峡とよんでいる。日本が日本海と呼称している海域を韓国が東海(トンヘ)と言っている。一種のナショナリズムである。 新しく開通した橋の名前は「チャナッカレ1915」である。「1915」という数字にトルコのナショナリズムの気概がこめられている。第1次世界大戦が1914年に始まると、トルコはドイツ側の同盟軍に組みした。連合軍のイギリスの海軍大臣だったウィンストン・チャーチルが、トルコの首都だったイスタンブールを制圧しようと、イギリス軍、フランス軍、それとオーストラリア・ニュージーランド軍(ANZAC, Australia and New Zealand Army Corps)をガリポリ半島に上陸させた。しかしオスマントルコ軍が激しく抗戦して、英仏ANZACの軍をエーゲ海に追い落とした。双方合わせて13万人の兵士が死んだ。この戦いでオスマントルコ軍を率いたのがケマル・パシャ、のちのケマル・アタテュルクだった。チャーチルは作戦失敗の責任をとって海軍大臣を辞任した。 ANZACを組織したオーストラリア軍の9000人弱の兵士が戦死した。オーストラリア軍兵士がガリポリに上陸を始めたのは1915年4月25日のことだ。オーストラリアは4月25日を「アンザック・デー」と定めて国の休日に指定、ガリポリの戦闘とそれ以後の国家の政策によって海外に派兵されて戦死した兵士を追悼している。 オーストラリアは1901年に連邦制を敷いて国家として自立したが、英連邦内では自治領のような立場だった。イギリスから要請があれば武器を手にはせ参じるほかはなかった。オーストラリアはヨーロッパの戦場から遠く、自国の安全保障上参戦せざるをえない環境にはなかったが、イギリスとの同族意識がはららいたのであろう。1910年代のオーストラリアの人口は400万から500万で、そのうちの9000人弱をうしなうというのは、国造りにとって大きな痛手だったろう。労働力の中核を担う若い男性だからなおさらである。 東ローマ帝国の水路だったダーダネルス海峡は世界の要衝の一つだった。オスマントルコの軍は14世紀にこの海峡を渡ってバルカン半島に勢力を広げた。最終的は東ロ-マ帝国の都コンスタンティノープルを包囲した。 古くはアレキサンダー大王が東方遠征にあたってこの海峡を渡りペリシアに攻め込んでアケメネス朝のペルシアを滅ぼした。その前は、ペルシアのダレイオス王、クセルクセスの父子が軍を率いてダーダネルス海峡を渡ってギリシアへ向かった。 クセルクセスがギリシアに遠征した時は、ペルシア軍はダーダネルス海峡の最も狭い部分である現在のチャナッカレ1915橋があるあたりに船を並べて浮橋をつくろうとした。浮橋は完成したがまもなく海が荒れて壊れてしまった。怒ったクセルクセスは架橋の責任者の首を刎ね、兵たちにダーダネルスの海面を300回鞭うつように命じた。 「この苦い水めが。ご主人さまがおまえにこの罰をお加えになるのだぞ。ご主人さまはおまえになにも酷いことはなさらぬのに、おまえのほうでご主人さまに弓をひいたからだ。クセルクセス王はおまえがなんといおうと、おまえをお渡りになる。もとよりおまえに供え物をするような者はこの世に一人もおらぬ。お前のように濁った塩辛い流れには当然のことだ」(松平千秋訳) ヘロドトスが『歴史』(中央公論社版「世界の名著」)でそうに語っている。 人間は戦争をする動物であり、歴史は血に染まっているが、ときにはこのような滑稽な幕間劇もある。 3 マウソロスとヘロドトス ボドルムはエーゲ海に面したアナトリア有数の保養地である。夏になるとヨーロッパから大勢の旅行者が集まり街はにぎわう。この町は古くはハリカルノッソスとよばれた。マウソロスとヘロドトスはこの町でもっとよく知られた人物である。 まずは、マウソロス。アナトリアのこの辺りはかつてカリアとよばれていた。マウソロスはカリアの王だった。紀元前4世紀の半ば王が死んだとき、王妃アルテミシアがマウソロスの墓を建てた。この墓のサイズが巨大、デザインが壮麗であったことから、エジプトのピラミッド、エフェソスのアルテミス神殿などと並んで世界の七不思議とよばれるようになった。今ではエジプトのピラミッドをのぞいて、この世から姿を消している。マウソロス(Mausolus)が語源となった霊廟・モーソリーアム(mausoleum)という言葉が英語に残っている。 マウソロスの霊廟の史跡はボドルムの街中の小さな区画にあった。大きな石、小さな石、石柱の一部などが散乱する瓦礫置き場のようだった。掲示板にマウソロス霊廟の復元写真がポスターになって張られていた。おりからの夕陽を受けててらてらと光っていた。 30年ほど前に暮らしたことがあるオーストラリアのメルボルンのアパートのすぐそばにキングズ・ドメインという名の庭園があり、その一角に戦争慰霊施設・Shrine of Remembranceがあって、辺りをよく散歩した。前回の「チャナッカレ1915」で書いたガリポリの戦いで戦死したオーストラリア兵士を弔うために建てられた慰霊の施設である。この建物のファサードをデザインした建築家はマウソロスの霊廟のイメージを使った。霊廟は鎮魂の施設であり、ナショナリズムを突き動かす装置でもある。はて、ナショナリズムとは何か、ネーションとは何か、と正面きって尋ねられると、答えにつまってしまう。 マウソロスの霊廟のファサードは日本の国会議事堂の正面のデザインにも採用されている。衆議院事務局チャンネルの動画「国会議事堂のデザインを考える」①を見ると大まかなことがわかる。 https://www.youtube.com/watch?v=EjvEhN52JY4&t=804s つぎに、ヘロドトス。かれは『歴史』(松平千秋訳)の冒頭で「ハリカルナッソス出身のヘロドトス」と名乗っている(松平は「ノッソス」ではなく「ナッソス」の表記を採用した)。彼はペルシア・ギリシア戦争の時代のペルシア側の政治思想について次のように語っている。独裁制は秩序ある国制たりえない。独裁者は驕慢のすえに非道に走る。大衆による統治は万民同権であり、独裁者と違って職務は抽選で決め、国策は公論で決する。一方で大衆による政治は愚民政治におちいり、悪がはびこりやすいという説も取り上げている。そうして民主制、寡頭制、独裁制を比べた場合、その最高のものは最も優れたただ1人の人物による独裁制であるとヘロドトスは断じた。私が感心したのは、人を支配することも、人から支配を受けることも好まないという意見も紹介していることである。独裁制・寡頭制・民主制・アナーキズムの祖型ともいえる分類が紀元前5世紀に成立していた。 哲人政治を唱えたのはプラトンであるが、この世で哲人政治が行われたという歴史文書を知らない。中国の堯・舜・禹は伝説の王である。プラトンは『国家』で軍人が支配する国家、金持ちが支配する国家、民主的な国家、独裁者の国家と、国家体制を4分類した。プラトンは紀元前4世紀の人だった。 19世紀から20世紀にかけてのマックス・ウェーバーは「支配」という観点から支配の正統性を3つのタイプに分けた。①合法的支配②伝統的支配③カリスマ的支配、である。ウェーバー得意の理念型による分類であり、現実の政体では、3分類中の様々な要素が入り混じっている。詳しく知りたい方はウェーバーを読まれるとよい。ついでにフアン・リンス『民主体制の崩壊』(岩波文庫)も。ここでは、権力や支配、政治体制は極めて人間的な行為であり、ヘロドトスの時代から21世紀の現在まで、政治は同じアリーナの中で紆余曲折と右往左往を繰り返してきたという見方の補強としてウェーバーを引き合いに出しただけである。 今回のアナトリアの旅の途中でアメリカ合衆国の大統領選挙の結果を聞いた。トランプの勝利はアメリカ式民主政治のひび割れに乗じたトランプのご一統が米国を金持ちが支配する寡頭政治の国にしようとしていると了解できる。「アテナイ人は街角のいたるところに扇動政治家を持っていた。かれらがわれわれにデマゴーグという言葉を与え、この言葉をいろいろに定義した……アリストパネスは『騎士』のなかで次のように書いている。『扇動政治家に必須の素質次の如し。口ぎたなく、生まれいやしく、低級、下等の人間たること』」とE.H.ロービアが『マッカーシズム』(岩波文庫)に書いている。 ほう、ご冗談を……と、笑わば笑え。いまから十年ほど前、憲法改正をめぐるシンポジウムで「ある日気づいたら、ワイマール憲法が変わって、ナチス憲法に変わっていた。誰も気づかないで変わった。あの手口に学んだらどうかね」と言ったのは麻生太郎である。マウソロス廟のイメージを伝える日本の国会議事堂を仕事場にし、首相も務めた日本の政治家の政治倫理もこんなレベルである。 4 トロイア トロイア(トロイ、イリアス)の遺跡はチャナッカレ郊外のエーゲ海に面したダーダネルス海峡の出入り口にあたるヒッサリクという丘の上にある。トロイアの遺跡に残っているのは石垣だけである。城塞のあとだそうだが、風景としては石垣である。ヘレネとパリス、アキレウスとヘクトル、悲嘆にくれるプリアモス王、ラオコーンやカッサンドラの予言、そうしたホメロスの『イリオス』(イリアッド)の世界をこの石垣の風景の上に蘇らせるには相当の念力が必要だ。ほんとうにここには、いま何も残っていない。 そもそも……と、ヘロドトスは『歴史』(松平千秋訳)の中で語る。フェニキア人がギリシアにやってきて王女イオをさらってエジプトに連れて行った。ギリシア人がフェニキアへ行って王女エウロペをさらった。王女メディアを略奪したのもギリシア人だ。そのあとプリアモスの子・パリスがギリシアからへレネを連れ去った。女を略奪するのは悪人の所行だが、女が略奪されたからといって本気で報復しようとするのは愚か者のすることである――ヘロドトスはペルシア側の意見を紹介して、次のように言う。アジア側は女のことは問題にしなかったが、ギリシア側は大軍を集めてプリアモスの国を滅ぼした。この戦いでペルシアのギリシアに対する敵意が生じた。 ヒッサリクの丘には紀元前3000年ごろから人が住み、集落は紀元9世紀ごろまで存在した。遺跡は9つの層に重なっていて、トロイア戦争があったころの城塞は紀元前13世紀ごろの第7a層とされている。エーゲ海に勢力を広げていたミケーネ文明がドーリア人によって滅ぼされた。海を渡ってアナトリアに上陸した部族がそれまでの部族国家を滅ぼした、という説もある動乱の時代である。トロイアはダーダネルス海峡の出入り口にあり、通商目的で航海する船から通行料をとった。その利権をめぐってトロイアと外来勢力がいくさをしたという想像もできる。青銅器時代末期のエーゲ海でそうした争いがあり、それを下敷きにして人々のあくなき空想力が『イリオス』を生んだのであろう。 『イリオス』『オデュッセイア』と並ぶインドの古典『マハーバーラタ』はカウラヴァとパーンダヴァのクルクシェートラの大会戦は3週間足らずで決着がついたとしている。トロイアの戦争はだらだらと10年も続いたそうだ。ホメロスに多少なりとも史実があればと前置きして、トゥキュディデス『戦史』は、トロイア戦争が10年もかかったのは兵の不足ではなく、物資欠乏が主な原因であると判定している。ロジスティックスがきっちりしてなかったので、トロイアへ向けて派遣された兵士らは、海賊行為や農作業で自活するほかなく戦闘能力が十分に発揮できなかった。戦力を結集できる状態であったなら、もっと短時間でトロイアを攻め落とすことができただろうとしている。 アレキサンダーは東方遠征でダーダネルス海峡を渡ってアナトリアに入ったとき、トロイアを訪れてプリアモスのために犠牲をささげ、アキレウスの墓に花冠をささげたとアッリアノス『アレクサンドロス大王東征記』(岩波文庫)が書いている。トロイア戦争は紀元前13世紀ごろと推定され、ホメロスの叙事詩がまとめられたのは紀元前8世紀ごろ、アレキサンダーの東方遠征は紀元前4世紀ころのこと。アッリアノスの著書は紀元2世紀に書かれた。 19世紀には人々はトロイアとその戦争は絵空事だと考えていた。シュリーマンがヒッサリクの丘に目をつけ、トロイアを掘りあててプリアモスの財宝をドイツに持ち帰って世界をびっくりさせた。シュリーマンの発掘のあと、さまざまな専門的訓練を受けた考古学者がヒッサリクの丘で調査を行い、プリアモスの財宝はトロイアの時代の地層より数百年も前の層から出たものだと発表した。トロイアの時代の地層がシュリーマンの発掘隊が宝さがしに狂奔するさなか、考古学的には取り返しのつかない損傷を受けたことも明らかになった。プリアモスの時代より数百年前の{プリアモスの財宝」は、第2次世界大戦でベルリンに進駐したソ連軍が持ち帰った。プリアモスの財宝はいまモスクワのプーシキン美術館で展示されている。 みも蓋もない話になってしまうが、トロイアの石垣を眺めた私はM.I.フィンリー『オデュッセウスの世界』(岩波文庫)のドライな見立てに心が傾く。フィンリーは言う。シュリーマンの業績は画期的だったが、トロイア第7層a の破壊を外部からの侵入と関連付ける資料はない。ギリシアからトロイアへ大船団が攻め込んだという資料もない。「トロイア第7層aも蓋を開けてみれば、財宝もなく、聳え立つ大建築物もなく、どうにか宮殿を思わせるものすらない。みすぼらしく貧しい小さな町であったことが判明した。トロイアは、いや『トロイア戦争』なるものすら、ヒッタイト語やその他の言語による同時代のどんな記録にも言及されていない」(下田立行訳)。 夢見るころを過ぎれば、そこにあるものは冷たい現実だけだ。 5 スミルナ 1922年――幻の日本船 アナトリアを巡る旅で、イズミルに1泊した。古代ギリシアがアナトリアのエーゲ海沿岸に建設した植民都市・スミルナがあったところだ。この町で撮りたかった写真があった。イズミルの港の風景。だが、撮影はできなかった。イズミルにたどり着いたのが夕方、夕食を食べる頃には外は暗くなっていた。翌朝は午前6時に起床、朝食、外が明るくなった午前8時にはバスに乗って次の観光地に向かうスケジュールだった。したがって、以下のエッセイ(小論)に添えた写真は、1922年撮影の著作権が消滅して、いわゆるパブリック・ドメインに入っている1枚を複製して使った。エッセイは日本エーゲ海学会の補足30年を記念して2017年1月に発行された『エーゲ海学会誌』(29号)に掲載されたものの再掲である。 * スミルナ 1922年――幻の日本船 1 発端 この小論のテーマは、第1次大戦直後に起きたギリシア・トルコ戦争最終盤の1922年9月、スミルナ(現在のイズミル)で起きたある出来事を検証することである。 2005年に出版された桜井万里子編『ギリシア史』(山川出版社)の前書きで、桜井は、1899年に日本とギリシアが修好条約を締結して以来1世紀を超え、ギリシア人の対日感情は良好である、と前置きして次のようなエピソードを紹介している。 第1次世界大戦直後に、港湾都市スミルナでギリシア人住民多数がトルコ軍により虐殺され、残ったギリシア人が港に追いつめられたとき、積荷をすてて彼ら難民を船上に収容したのは日本船であった。日本で意外に知られていないこの事実に光をあてたのは第6章執筆者の村田奈々子である(『文芸春秋』2004年11月号参照)。本書の刊行もギリシアに対する私たち日本人の思いの現れとして位置づけられることになれば、これ以上の喜びはない。 たしかに、村田奈々子は『文芸春秋』に日本船によるギリシア人救出について書いている。村田はさらに、2012年刊行の著書『物語 近現代ギリシアの歴史』(中公新書)でも、同様のエピソードを繰り返している。 ひとつのエピソードがある。当時の『ニューヨーク・タイムズ』紙やギリシアの新聞報道によると、このとき、日本の船がスミルナの港に停泊していて 、逃げ場を失い、必死に助けを求めていたギリシア人の脱出に、手を貸したというのである。日本人船長は、積荷を海に捨て空いた空間に彼らを 乗船させて、ギリシア領まで送り届けたという。 この日本船の救出活動は、いまなお、スミルナから脱出後にギリシア本土に住み着いた人々や、移民として米国やオーストラリアに移り住んだギリシア人の子孫の間で語り草になっている。 だがその一方で、ギリシア系米国人であるクリストス・パポウツィ(Christos Papoutsy)が著書 Ships of Mercy: The True Story of the Rescue of the Greeks, Portsmouth, NH, 2008に書いているように、日本船の存在を疑う人たちもいる。 パポウツィが調べたところ、1922年9月に日本の船がスミルナ港付近にいた可能性は、極めて低いことがわかった。パポウツィは日本の防衛省(当時は防衛庁)防衛研究所や外務省に問い合わせをした。その結果、①1922年には日本の軍艦は太平洋、インド洋、大西洋を航行していたが、地中海に入ったという記録は残っていない②外務省の記録文書には日本船が1922年にスミルナで救助活動をしたという記録がない。日本で最初にできた商船会社である日本郵船がスミルナ港に寄港するようになったのは、スミルナの悲劇の2年後の1924年からである、という回答を得たという。 日本船によるスミルナのギリシア人難民の救出は、桜井万里子や村田奈々子が書いたように、歴史の書物に記載されるに値する歴史的事実なのだろうか。それとも、1922年スミルナに現れた日本船は、波止場に追い詰められ、ひたすら救いの手がさしのべられる時を待っていたスミルナの難民が、絶望の淵で見た幻の船だったのだろうか。 2 アナトリアの攻防 イスタンブールのタクシム広場にトルコ共和国記念碑がある。1928年に建てられた。オスマン・トルコは第一次世界大戦でドイツと組んで敗北した。戦勝国であるイギリスやフランスがトルコに進駐した。英仏の後押しでギリシアが小アジアに攻めこみ、当時スミルナとよばれたイズミルなどエーゲ海沿岸の地域を占領した。攻め込んできたギリシア軍を1922年に追い払い、スルタン制を廃止して、1923年にトルコ共和国を成立させたのがケマル・アタテュルクである。アタテュルクと彼の同志の群像が彫像になっているタクシム広場の共和国記念碑は、スミルナで宿敵ギリシアを撃破したことを国民の記憶にとどめるための戦勝記念碑である。同時に、新生トルコが偶像崇拝を禁じたイスラムのくびきからも解き放たれたことを宣言する記念碑でもある。 第1次世界大戦を連合国側の一員として戦ったギリシアは、1919年から英米仏の公認を得て、ギリシア系住民の保護を名目に、アナトリアに攻め込んだ。イスタンブールのスルタン・メフメト6世が連合国側と結んだ1920年のセーヴル条約で、ギリシアはエーゲ海の島々の多くを自国の領土にした。これによってギリシアとトルコの国境線はトルコ沿岸ギリギリに引かれることになった。さらにギリシアはスミルナとその周辺地域の行政権を手中におさめた。 勢いに乗ったギリシア軍は、ギリシア系人口の希薄なアナトリア内陸部にまで攻め込んだ。だが、ギリシア軍は、スルタンと絶縁してアンカラに新政府を樹立していたケマル・アタテュルクの軍の猛反撃にあった。攻防を重ねるうち、やがてギリシア軍は総崩れになり、スミルナまで退却した。村田奈々子『物語 近現代ギリシアの歴史』によると、ギリシアの管理下におかれた1920年当時、スミルナとその周辺の人口は94万人だった。ギリシア正教徒55万人、イスラム教徒が30万人だった。 スミルナ港には米英仏伊の軍艦20隻以上が停泊していたが、アタテュルクのトルコ軍の進撃に対する抑止力にはならなかった。アタテュルクの軍はスミルナに攻め込み、1922年9月9日にスミルナの支配権を掌握した。トルコ軍の兵士や不正規兵による暴行・略奪・殺戮が始まった(ギリシア軍がアナトリアに攻め込んだときは、トルコ系住民に対する暴行・略奪・殺戮があった)。4日後の9月13日にスミルナに大火事が発生した。火はスミルナのアルメニア人が多く住む地区から始まったとされ、1週間以上にわたって燃え続け、アルメニア人地区とギリシア人地区の大半を焼きつくした。この火事による死者は数万人レベルと推定されている。トルコ軍が火を放ったという説や、ギリシア人あるいはアルメニア人が放火したという説があり、真相はいまだに明らかになっていない。 炎と黒煙に包まれた市街地から逃れた住民は、スミルナの波止場周辺に集まった。そこで人々は外国から救助の手が差し伸べられる日をひたすら待った。同時に、彼らの絶望感は日々深まっていった。 スミルナで貿易の仕事に携わると同時に、フリーランスの記者でもあったアメリカ人マーク・プレンティスの記事が『ニューヨーク・タイムズ』(1922年9月20日付)に掲載されている。記事はプレンティスが1922年9月18日付でコンスタンティノープル(イスタンブール)から打電したものである。プレンティスはスミルナ救援活動のリーダーの一人でもあった。彼はスミルナの混乱で孤児になった500人の子どもたちに付き添って、アメリカ海軍の駆逐艦リッチフィールドで、当時国際連盟の共同管理区域だったコンスタンティノープルに到着したところだった。 「スミルナは疫病と飢餓に直面」「25万人が食糧を求める」「燃え上がるトルコ・ナショナリズム――すべてのギリシア人・アルメニア人の追放を」というにぎやかな見出しがつけられた記事の中で、プレンティスはスミルナ港の様子を次のように書いている。 スミルナの港の様子は筆舌に尽くし難い。苦しみにうめく人々の声は、夕方早くから頂点に達し、それから12時間もおさまることなく続いた。25万人 もの人々が苛まれ悲鳴をあげている。死を待つ人びとが海と向き合っている。後方から火の手が迫っていた。トルコ軍の機関銃と、サーベルをか ざす騎兵がふいに現れるのではないかと、人々はおびえている。彼らの悲鳴、恐怖の叫びは沖合に停泊する船にまでとどく。何百人もの人々が海 に落ち、あるいは海に飛び込んだ。 こうした極限状況下で、日本船によるギリシア人の救出の物語が登場するのである。 3 日本船の登場 スミルナ港の日本船については、1922年当時、米国のいくつかの新聞が報じていた。オーストラリアのギリシア系市民でラトローブ大学ブンドゥーラ校ヘレニック調査研究センター研究員のスタヴロス・スタヴリディス(Stavros Stavridis、)が、そのいくつかを手際よくまとめ、米国のギリシア系人口を対象にした英語週刊新聞The National Heraldで紹介した。その記事を、2010年2月9日に米国のギリシア系NPO組織・ヘレニック・エレクトロニック・センター(Hellenic Electronic Center 、HEC)のサイトが転載した。その内容を紹介しておこう。 ①アジアから到着する難民の流れは止むことがなく、彼らはスミルナの悲劇の様子を口々に語る。先週の木曜日(注:9月14日)スミルナ港には難民を輸送する船が6隻浮かんでいた。米国船1、日本船1、イタリア船2、フランス船2。日本船は、乗船を希望する人を、身分を証明する書類なしでも受け入れた。一方、他の国の船はパスポートを持つ外国人だけを受け入れた。(『ニューヨーク・タイムズ』1922年9月18日付、記事はアテネ発9月16日) ②港には日本の軍艦が停泊していた。日本の軍艦は難民を広く受け入れた。日本から来た貨物船1隻もいた。貨物船は多くの積み荷を捨て難民をピレウスまで運んだ。米英仏伊の船は自国民だけを乗船させた。そのことが地位の低いジャップ(注:原文のまま)の気概をきわださせることになった。(アトランタ出身のジョン・オーエンスがアトランタ在住の両親にあてて書いたスミルナの恐怖の物語の一部。『アトランタ・コンスティテューション』1922年10月15日付) ③絶望的になった難民でスミルナの波止場は押し合いへし合いの状態になった。海に飛び込んで停泊中の船まで泳いで行こうとする男女もいたが、多くは溺れ死んだ。そのころ港に日本の貨物船が入港した。船には絹、レース、陶器など貴重な積荷がデッキまで積み上げられていた。何千、何万ドルの値打の商品だった。(注:1922年当時の価格)。日本船の船長は状況を理解するや、ためらうことなく貴重な商品を汚れた港の海面に捨て、数百人の難民をピレウスまで運んだ(スミルナのインターナショナル・カレッジのバージ教授の妻・アンナ・ハーロウ・バージの話を伝えた『ボストン・グローブ』1922年12月3日付) 米国の3紙の記事は、記者による現場取材にもとづくものではない。当時、AP通信などの記者がスミルナにいたが、彼らが送った記事には日本船を目撃したとは書かれていない。引用した3本の記事はすべてスミルナから避難してきた人々から聞いた話がベースになっている。にもかかわらず、救助に当たった日本船の船名も、船長の名前も、船員の名前も不明である。数百人の難民をスミルナからピレウスに運んだのだから、その間、難民は日本船の名や、人道的な扱いをしてくれた船長の名前くらいは聞いたはずだ。また、貨物船が難民のためのスペースをつくるために捨てた商品について「絹」「レース」「陶器」といった具体的商品名があげられていることを思えば、さらに重要なはずの日本船やその船長が名無しのノッペラボーというのはきわめて不自然である。アンナ・バージは9月13日の大火発生の日に、アメリカの軍艦でスミルナから脱出しているので、彼女の話は自身の目撃談ではなく、伝聞にもとづいている可能性が高い。さらに新聞によって、日本船が軍艦と民間の貨物船の2隻、民間の貨物船1隻だけと、船の数に異動がある。 4 証拠を求めて ギリシア本土のギリシア人の間でも、スミルナの日本船の話題は世代を超えて引きつがれている。だが、信頼に足る記録はいまだに見つかっていない。ギリシア系人口3百万とされる米国に本拠を置くギリシア系NPOのヘレニック・エレクトロニック・センター (HEC)のサイトに掲載された記事によると、2010年にギリシアのコリント市のミクラシアティキ・ステグ(Mikrasiatiki Stegh)市長が北村隆則駐ギリシア日本大使を招いて1922年のスミルナの救出のお礼の会を催した。その席で、日本国大使が不明のままになっている船の名と船長の名を調べると約束したという。それは、とりもなおさず、ギリシア側にも船名や船長名にたどり着けるような記録がないということである。 この催しはHECのアイディアを入れて行われた。記事を書いたのはHECのディレクターであるエヴァンゲロス・リゴス(Evangelos Rigos)で、その筆致が興味深いので引用しておこう。 小アジアのスミルナ(現在はトルコのイズミル)で、30万の人々が立ち往生していた。彼らの背後から火事の炎とトルコ軍が迫っていた。だが、前方 は海だ。24隻の連合軍の艦船は素知らぬ顔だった。艦上ではパーティーが開かれ、スミルナの人々の苦痛の叫びをかき消すために大音量で音 楽が奏でられた。アメリカの艦船を除いて、他の国の船は助けを求めて泳いでくる人々を見捨てた。こうした状況下で、日本の商船の船長の振る 舞いは、疑いもなく人間の品性というもののみごとな体現だった。貴重な商品を海に捨てて、難民を船に乗せたのである。悲しいかな、その船長の 名前は依然として不明なままである。 しかし、このあともHECのニュースに日本船の船長の名前が判明したというニュースは載らなかった。日本大使の探索の努力も実らなかったようである。 日本船とその船長が1922年のスミルナで、ギリシアの同胞を絶望の淵から救い出してくれたという恩義の伝説を、現実のデータで裏付けたいギリシア人の子孫たちの探索の情熱が感じられる。だが、それはすでに歴史の帳が下りて薄暗くなった中で、小さな針の眼に糸を通すような難しい作業でもある。 では、アメリカとトルコには何か記録が残っているのだろうか。前節で紹介したスタヴロス・スタヴリディスの記事には駐スミルナ米国総領事だったジョージ・ホートンが国務省に送った報告の抜粋が紹介されている。報告は1922年9月18日付で送られたものだ。ホートンはアメリカ人難民を引き連れて米海軍の艦船で9月13日にスミルナを出港、14日にアテネに着いている。以下の文章を読む限り、報告はアテネで難民から聞いた話にもとづいている。 1隻の日本船が避難民を運んできた。人々を乗船させるために荷物の一部を捨てたと聞いた。人々は口々に日本船の乗組員の優しさをほめたた えた。 米国の外交官が国務省にあてて送った報告にしては、ディテールに欠ける。ジョージ・ホートンは外交官に転じる前はシカゴでジャーナリストをしていた。何れもディテールを重んじる職業であることを思えば、ホートンも人々の噂以上のデータを手に入れることができなかった、とも想像される。ホートンは1926年にスミルナの出来事をまとめた The Blight of Asia をインディアナポリスのボブス‐メリル社から出版したが、その本のなかでは日本船についてふれていない。 しかし、このホートンの報告が日本船の存在を主張する重要な証言として引きつがれてきた。まず、マージョリー・ハウスピアン・ドブキン(Marjorie Housepian Dobkin)が著書 Smyrna 1922: the destruction of a city, Kent, Ohio, Kent University Press, 1972 のなかで、ホートン報告にもとづいて、日本船が現れ、積荷を捨てて避難民を船に乗せたと記述した。 さらに、米国の作家ジェフリー・ユージニデスが2003年にピュリッツアー賞(フィクション部門)を受賞した小説『ミドルセックス』のなかに、スミルナの日本船のエピソードを入れた。ユージニデスはこの作品の冒頭の謝辞で、Marjorie Housepian Dobkin, The Smyrna Affairを参考文献にあげている(DobkinのSmyrna 1922: the destruction of a cityはハーコート・ブレイス・ジョヴァノヴィッチ社から出版されたことがあり、その時のタイトルがThe Smyrna Affairだった)。 前出の村田奈々子が『文芸春秋』に書いた文章「ココロイタイ」によると、村田はユージニデスの『ミドルセックス』を読んでスミルナの日本船のことを知り、1922年9月の『ニューヨーク・タイムズ』や当時の生存者の証言を集めた研究書で確認をとったようだ。それを受けて桜井万里子が『ギリシア史』の前書きで文章にした。 1922年スミルナの日本船は、まずジョージ・ホートンの国務省への報告の断片ではじまり、それをドブキンが著書で使い、ドブキンの本を米国の作家が小説に利用し、それを読んだ日本の研究者が日本の雑誌に寄稿した随想で使った。さらに、日本の別のギリシア史研究者が歴史書の前書きに利用した。断片的な情報がバケツリレーされるうちに、やがてれっきとした歴史的事実に変わってゆく一例であろう。 さらに、スタヴリディスは米国務省の記録から、当時コンスタンティノープル駐在の米国高等弁務官だったマーク・ブリストル提督が編纂した戦時日記(1922年9-12月分)も調べている。スミルナ港にいた米英仏伊の艦船とギリシア船の名前は克明に記録されていたが、スミルナの日本船に関しては何も書かれていなかった。さらに彼は、1922年9月20日、ブリストル提督が、日本の外交官で国際連盟からコンスタンティノープルに派遣されていた内田定槌高等弁務官と面談した時の記録にも目を通しているが、日本船に関しては何の言及も発見できなかった。 スタヴリディスは横浜で当時発行されていた英字紙The Japan Times & Mailで日本商船の運航状況も調べたが、1922年9月から10月にかけて日本船がスミルナに入港したという記録は見当たらなかった。ただ、1922年9月半ばには「諏訪丸」「伏見丸」「三島丸」「あるたい丸」の4隻の商船が欧州航路(横浜‐香港‐シンガポール‐コロンボ‐ポート・サイード‐マルセイユ‐ハンブルク‐ロンドン)のどこかにいた可能性があることを突き止めた。このうち、いずれかの船がポート・サイードとマルセイユの間にいて、針路を北にとって変えてスミルナに向かった可能性が無きにしも非ず、と彼は書いている。 このエッセイの冒頭でふれたShips of Mercy: The True Story of the Rescue of the Greeksの著者クリストス・パポウツィは、日本船に関連して次のようなインターネットを利用した調査を行っている。2000年から2001年にかけて自らが主宰するHellenic Communication Service (HCS) が行なったスミルナ救出に関するインターネットによるアンケート調査には、数百通の回答が寄せられた。「1922年9月1日から30日の間、スミルナの波止場から難民救出でもっとも貢献した国はどこでしたか?」などの項目が入った質問票をHCSのサイトからダウンロードしてもらい、回答を記入して送ってもらう形式の調査だった。 Ships of Mercyによると、回答の27パーセントが救出の主役はギリシア船だったとし、23パーセントが日本船、21パーセントがアメリカ船、10パーセントがフランス船、7パーセントがそれぞれイギリス船とイタリア船、5パーセントがロシア船と答えた。これらの回答の根拠になったのは、ドブキンの Smyrna 1922: the destruction of a cityのような文献と、口承で伝えられた家族の記憶であろう、とパポウツィは推測している。 また、パポウツィは2001年にギリシアに渡り、すでに相当な高齢になっていた元スミルナ避難民(当時は幼少)の数人に、直接インタビューしている。しかし、スミルナの港に日本の船がいたと語った人はいなかった。 ギリシア、トルコ、米国で行なわれた探索の跡をたどる限り、日本船や船長の名前や、ひいては日本船そのものの存在を歴史的に裏付ける確たる証拠の発見は、今後とも至難のわざであろうことが明らかになってくる。 では、日本には何か資料が残っていないのだろうか。 5 日本での探索 第3節でふれたように、『アトランタ・コンスティテューション』1922年10月15日付は、スミルナの港には日本の軍艦1隻と日本の貨物船1隻がいたと伝えた。日本の軍艦がいなかったことについてはパポウツィが著書Ships of Mercyですでに結論を出している。彼は日本の防衛省(庁)防衛研究所に問い合わせの手紙を書き、同研究所戦史部から次のような公式の返事をもらっている。 2000年1月27日付のお手紙にお答えします。1922年に日本海軍の艦船は太平洋、大西洋、インド洋を航行しておりましたが、地中海に入った艦船はありません。 手紙にはNoritaka Kitazawaの名が記されていた。クリストス・パポウツィ(Christos Papoutsy)が重ねて確認の手紙を送ったところ、2000年6月22日付で同じNoritaka Kitazawaから返事があった。防衛研究所の戦史図書館には艦船の日々の動きを記録した文書が残っており、それによると、1922年9月、日本の艦船は地中海にいなかった、というダメ押しの確認だった。 防衛研究所の図書館資料は一般の利用が可能であるが、中目黒の防衛研究所まで出かけて、改めて史料を再確認する必要はもはやないだろうと、このエッセイの筆者たちは判断した。 そこで、外交文書のどこかに幻の日本船に触れた文書が隠れていないかどうか確認する作業を始めた。麻布台の外務省外交史料館に出かけて、1922年の外交文書の確認作業を行った(パポウツィの調査はワシントンD.C.の日本大使館経由の問い合わせだった)。ギリシアとトルコの在外公館から本省に送られてきた報告の綴りに目を通したのだが、結局、スミルナの日本船に関する記述は見当たらなかった。 日本政府が保管する軍事と外交の歴史資料に、1922年スミルナの日本船の消息は全く見当たらないことが、これで確定したと筆者は判断した。 では、マス・メディアはどうだろうか。1922年9月のアメリカの新聞にスミルナで避難民の救出に活躍した日本船の記事が出ているのであれば、日本の新聞もそのことを伝えているはずだ。米国の新聞よりさらに大々的に日本船の人道的快挙を報道していてもおかしくはない。 そこで朝日新聞の記事データベースを使って「スミルナ」をキーワードに1922年後半から1923年前半までの報道をあたってみた。日本は1920年に発足した国際連盟の常任理事国になり、世界の有力国の仲間入りをしたばかりだった。スミルナの救出劇は日本の新聞読者の関心を集めるはずだが、朝日新聞のデータベースにもスミルナの日本船に関する記事はまったく見当たらなかった。 残る手がかりは日本の海運業界の記録だけである。スタヴロス・スタヴリディスが地中海にいた可能性があるかも知れないと船名をあげたのは諏訪丸、伏見丸、三島丸、あるたい丸の4隻である。 諏訪丸、伏見丸、三島丸の3隻は日本郵船の船である。いずれも欧州航路にあてられていた。諏訪丸は1914年竣工で約1万トンの貨物船。1943年に米潜水艦の攻撃を受けて沈没している。伏見丸も1914年の竣工で、約1万トン。この船も1943年東京から基隆に向かう途中で米潜水艦の攻撃を受けて沈没した。 横浜の日本郵船歴史博物館へ出かけ、日本の海運史や日本郵船の社史、郵船で働いた人の回顧録などにあたってみたが、スミルナの件についての記述は見つからなかった。そこで同博物館のレファレンス・サービスに要件を書いて調査を依頼した。しばらくして、博物館から電話をもらった。資料にあたってみたがお尋ねの記録は皆無だったという返事であった。 あるたい丸は大阪商船の船で1918年に開設された同社の横浜―ロンドン航路に使われた。1935年に解体されている。大阪商船は現在商船三井になっている。筆者は虎の門の商船三井を訪ね、しかじかの理由で資料室の利用をお願いしたと伝えたが、資料室は一般公開していないと断られた。 ワシントンD.C.の日本大使館日本情報文化センターは2000年1月、クリストス・パポウツィからの問い合わせに対して、①防衛庁のデータベース②外務省の外交記録③日本郵船の記録④朝日新聞の記事資料にあたったが、スミルナの日本船に触れた史料は見当たらなかった、と回答していた。筆者たちの日本での探索は、結局、駐米国日本大使館日本情報文化センターの回答を再確認したにすぎなかった。 6 疑問と考察 日本船による1922年スミルナの難民救出劇は話としては美しいが、物語を構成する要素には、常識では納得できない事柄が多すぎる。それらの疑問点を箇条書きにしてみよう。 ①スミルナに入港した貨物船が、もし日本郵船あるいは大阪商船の船だったすれば、それら日本の商船は通常、スエズ運河‐クレタ島沖‐シシリー島沖‐マルセイユというコースをとっていたはずだ。諏訪丸をはじめとする日本郵船の欧州航路の船は貨客船で、積荷だけでなく乗客も運んでいる。その船が通常の航路からはずれて地中海を北上し、エーゲ海に入ってスミルナ港に向かうことは、常識的にはありえないことである。それは乗客の命を危険にさらすことであり、船長はそのような無謀なことは絶対にしない。船長がもしそのような行為をしていたとすれば、乗客の話から大きなニュースになっていたことであろう。 ②貨物船が積んでいる荷物は船会社の所有物ではなく、荷主から託されたものである。船長が積荷を海に放棄したとすれば、後日、損害賠償をめぐって荷主と船会社の間の交渉が始まり、当然、ニュースになったはずだ。 ③もし、日本の大手海運会社以外の船が出していた不定期船がスミルナに入港して救助活動をしていたとしても、同様に、積荷の投棄や到着の遅れで荷主との間で問題が生じ、ニュースになっていたはずだ。海運関係の新聞記事の収集では定評のある神戸大学のデジタルアーカイブ『新聞記事文庫』の海運のセクションで、1922年から1923年にかけての日本の主要新聞の海運関連記事にあたったが、そのような問題を報じた記事はみあたらなかった。 ④最後に、最大の疑問点は、すでにふれたように、日本船に助けられ、船長や船員から優しい扱いを受けた難民が、船の名や船長の名前、乗組員の名前、船の大きさをはじめとする船体の特徴や船内の様子など、ディテールをなにひとつ語っていないことである。 1922年の日本船によるスミルナ難民救出が語られてから、1世紀近くがたっている。だが、この間、日本船に関するディテールは何一つ発掘されなかった。別の言い方をすると、ディテールは初めから存在していなかったのである。つまり、1922年のスミルナの日本船は難民が見た幻にすぎなかった、と判断せざるをえない。 1922年10月8日付の『ニューヨーク・タイムズ』に次のような記事が載っている。 [ワシントン発10月7日]海軍当局への報告によれば、スミルナの難民救出活動は事実上終了した。戦艦ユタの司令官からの報告では、米海軍はスミルナの大火以後、22万の難民のうち18万人以上を救出した。また、コンスタンティノープルの米高等弁務官ブリストル提督は、スミルナに残る最後の難民500人が10月8日に乗船するという駐スミルナ米国領事バーンズの10月5日付報告を中継してワシントンに伝えた。 『ニューヨーク・タイムズ』の報道を見る限り、スミルナの難民救出で大活躍したのはアメリカだった。にもかかわらずスミルナの難民の一部が幻の日本船を救出劇の英雄として讃えてきたのはなぜだろうか? パポウツィの著書Ships of Mercyによると、イギリスの艦船も救出活動を行ったが、当時、イギリスとトルコの関係は緊張状態にあり、救出作業がはかばかしく進まなかった。フランスは経済的な理由からトルコとの関係をそこなわいようにと積極的な救出活動を渋った。このような英仏のおよび腰が増幅され、英仏に対する恨みの記憶になった。第4節で引用したHECのディレクターEvangelos Rigosの筆致によくあらわれている。興味深いので再度引用しておこう。 24隻の連合軍の艦船は素知らぬ顔だった。艦上ではパーティーが開かれ、スミルナの人々の苦痛の叫びをかき消すために大音量で音楽が奏でられた。アメリカの艦船を除いて、他の国の船は助けを求めて泳いでくる人々を見捨てた。 1919年にギリシアがアナトリアに出兵したのは米英仏の了承があったからだ。村田奈々子『物語 近現代ギリシアの歴史』によれば、イギリスのロイド・ジョージ、フランスのクレマンソー、アメリカのウッドロー・ウィルソンは、アナトリアに触手をのばそうとするイタリアをけん制する目的で、ギリシアによるスミルナの管理を認めることにした。ギリシアのエレフセリオ・ヴェニゼロス首相の日記にもとづいて、村田は、ロイド・ジョージがヴェニゼロス首相に次のように言ったと書いている。「ウィルソン大統領とクレマンソー氏と私は、貴君がスミルナを占領することを本日決定した」。1919年5月6日の事であった。 とくにイギリスは、スミルナをギリシアの支配下におくことで、中東の石油資源へのアクセスを確保することを狙っていた、という見方が定説になっている。しかし、イギリスはケマル・アタテュルクが率いる新政府の勢いを見て、ギリシア・トルコ戦争の休戦へ向けて、連合国の中立を約束することをケマル・アタテュルクとの間で合意した。このことが、ギリシア軍の敗走の一因や、スミルナ港を連合国側の艦船が埋めているにもかかわらず、アタテュルクの軍勢が一気にスミルナに進撃した原因にもなった。 エヴァンゲロス・リゴス のいう「艦上ではパーティーが開かれ、スミルナの人々の苦痛の叫びをかき消すために大音量で音楽が奏でられた」という記述は、Giles Milton, Paradise Lost: Smyrna 1922, London, Sceptre, 2008の記述にもとづいている。9月13日スミルナ港に停泊していたイギリスの地中海艦隊司令官オズモンド・ブロック提督の旗艦アイアン・デュークで、艦内の士官食堂での夕食のさい、ブロック提督がいつも通りに音楽を演奏させた。それは大英帝国海軍の伝統だったのだろうが、阿鼻叫喚のスミルナ港を思えば、難民には耐え難い非人道的な行為と感じられたことだろう。 第1次世界大戦が勃発した時、ギリシアは国内で親ドイツ勢力と親連合国勢力の対立が激しく、しばらくは中立を保つしかなかった。英仏を中心とする連合国側の説得と圧力によって、ギリシアが中央同盟国(ドイツ側)に宣戦布告し、連合国側に加わったのは1917年のことである。さらに英仏は大戦後、ギリシアに対してスミルナ占領をそそのかした。だが、いったんことが破綻してしまうと、英仏は手のひらを返したようにスミルナのギリシア系住民の救出を渋った。スミルナのギリシア系難民のそうした英仏への反感のはけ口が屈折して、日本賛美に変わった可能性がある。 日本人のかなりが現在でも、今から30年前の1985年、イラン・イラク戦争のあおりで、テヘランに足止めされて途方に暮れていた日本人を救出するために、旅客機を飛ばしてくれたトルコ航空とトルコの厚意を、忘れていない。同様に、日本を親善訪問したオスマン・トルコの軍艦エルトゥールル号が1890年9月に串本沖で遭難したさい、日本人が行なった決死の救助を1922年のスミルナの人々も忘れていなかったことだろう。1890年といえば、1922年からみると32年前である。1922年のスミルナの難民のだれかが32年前のエルトゥールル号遭難のさいの記憶を引き金にして、スミルナの港に幻の日本船の出現させた――裏付ける資料のない、まったくの空想にすぎないのであるはあるが――と考えることもできなくはない。 オルポート、ポストマン(南博訳)『デマの心理学』(岩波書店、1952年)は次のようにいう。 デマは特殊な(あるいは時事的な)信念の叙述であり、人から人へ伝えられるもの、ふつうは口伝えによるもの、信じ得る確かな証拠が示されてい ないものである。 デマは、それを伝えるひとびとの関心に強く訴え、同質的な社会の媒体を通して、動きだし、旅を続ける。これらの人々の関心はデマを強く支配し 、それが、人々の抱いている感情的な関心を説明し、正当化し、意味づける、つまり、広く合理化する機能を果たすように要求する。関心とデマの 関係は、しばしばきわめて親密なので、われわれはデマをたんに、まったく主観的な感情の投射として語ることができるのである。 スミルナの日本船の物語は、スミルナから救出されたギリシア人難民とその子孫を核にした限定されたコミュニティーのなかで、だが、1世紀近い長期にわたって執拗に語り継がれてきた。オルポートとポストマンの説は、1922年のスミルナに突如現れた日本船の謎を納得させてくれる。一方で、スミルナの日本船の物語を神話のレベルにまで押し上げるに至った、スミルナ難民や彼らの子孫たちが「投射し続けてきた主観的な感情」とは、いったい何なのであろうか、という興味深い疑問へと発展して行くのである。 <引用文献> オルポート、G.W. & ポストマン、L.(南博訳)『デマの心理学』岩波書店、1952年 桜井万里子編『ギリシア史』山川出版社、2005年 村田奈々子「ココロイタイ」『文芸春秋』2004年11月号 ―――――『物語 近現代ギリシアの歴史』中公新書、2012年 Dobkin, Marjorie Housepian, Smyrna 1922: the destruction of a city, Kent, Ohio, Kent University Press, 1972. Horton, George, Blight of Asia, Indianapolis, Bobbs-Merrill, 1926. この本は絶版になって久しく入手しにくいが、次のサイトで読むことができる。 (http://www.hri.org/docs/Horton/HortonBook.htm) Milton, Giles, Paradise Lost: Smyrna 1922, London, Sceptre, 2008. Papoutsy, Christos, Ships of Mercy: The True Story of the Rescue of the Greeks, Portmouth, NH, 2008. Rigos, Evangelos, “A Japanese Hero of the Greeks” (http://www.greece.org/main/index.php?option=com_content&view=article&id=54&Itemid=499) Stavridis, Stavros, “Stavros Stavridis Special to The National Herald” (http://www.greece.org/main/index.php?option=com_content&view=article&id=59:stavros-stavridis-special- to-the-national-herald&catid=48:hecprojects&Itemid=500) * さて、1922年にスミルナに現れたとされる日本船に歴史学者として強い関心を持つ村田奈々子は2020年になって、東洋大学文学部紀要史学科篇(巻45 2020年3月)掲載の論文「記憶と歴史――一九二二年のギリシア系正教徒難民のスミルナ脱出と日本船をめぐって」で、1922年9月スミルナ港に日本船(正確には大連籍船)がいた記録がある事を突き止めた。船名は東慶丸。しかし、東慶丸がギリシア難民らをギリシアまで運んだという記録は見当たらなかった。詳しくは紀要で村田論文を読むことをお勧めする。 https://toyo.repo.nii.ac.jp/records/12509 村田論文の結論は「現時点の史料の状況からは、日本船による救助活動の詳細については推測の域を出ず、さまざまな可能性が考えられる。史料の信憑性を厳しく問うなら、この出来事は、危機にあった難民の記憶が生み出した架空の作り話である可能性も捨てきれない。いずれにしても、この出来事を歴史的事実であると実証するためには、日本側の史料の発掘が最も重要であり、不可欠であると考えられる」というものであった。 6 ゼウスの祭壇 前回の「幻の日本船」で道草を食ったが、ふたたびアナトリア古代遺跡巡りに戻る。今回と次回で、イズミル近くにあるベルガマとエフェソスの2つの遺跡について感想を話そう。。いずれもイズミルから100キロほどのところにある。都市としての最盛期はヘレニズム時代から古代ローマ帝国時代にかけてとされている。 まずはベルガマ――。ベルガマ遺跡はエーゲ海から20キロほど内陸に入った現在のベルガマ市の北側の標高300メートルほどの丘の上につくられたアクロポリスの跡である。さして広くはない丘の上にヘレニズム時代から古代ローマ帝国時代にかけてのトラヤヌス神殿、ディオニュソス神殿などがたてられたが、現在ではほとんどの構造物が崩壊し、石柱や石造りの建物の屋根の一部などが瓦礫とともに残っている。アクロポリスには立派な図書館もあったと伝えられている。ヘレニズム世界の最大のアレキサンドリア図書館に次ぐ2番目に大きな図書館だったそうである。当時の文書は羊皮紙に書かれることが多かった。ペルガマ(古くはPergamum)はその当時、羊皮紙の産地でスペイン語の羊皮紙 pergamino の語源となった。 風景としてはヘレニズム時代に丘の急斜面につくられた野外劇場跡が魅力的だ。丘の上の廃墟とおなじみの円形劇場、そして現代のペルガマの街がその下に広がっている。 ペルガマ遺跡の有名な構造物である「ゼウスの祭壇」は現在、復元されてベルリンのペルガモン博物館に鎮座している。 . https://worldheritagesite.xyz/contents/pergamonmuseum/ アナトリアのペルガマ遺跡に残っているのは、かつてここにゼウスの祭壇がたっていたという空間だけである。 それは、また、なぜ――。長い因果話をかいつまんで申し上げれば以下のとおりである。19世紀半ばオスマントルコ当局にやとわれて鉄道建設の仕事をしていたドイツ人のカール・フーマンがたまたまペルガマ遺跡を訪れた。フーマンが瓦礫のいくつかをドイツに持ち帰り考古学者に見せた。それがきっかけで、ドイツの考古学者らがオスマントルコ政府と交渉、ペルガマ遺跡の発掘を始めた。ドイツ側は崩れ落ちていたゼウスの祭壇のすべての破片をドイツに持ち帰り、ペルガマ・アクロポリスのゼウスの祭壇を復元した。 ドイツは19世紀から第1次世界大戦のころまで3B政策を進めていた。ベルリン―ビザンティウム(イスタンブール)―バグダードを結ぶ鉄道を敷設し、近東世界へのドイツ進出を目論んだ計画だった。支配圏の拡大を求めるロシアの南下政策とイギリスの3C政策に対抗するのが目的だった。 ドイツはオスマントルコ政府からバクダード鉄道の敷設権をもらい、イスタンブールのアジア側の海辺に壮麗なハイダルパシャ駅を建設した。19世紀末にはドイツ皇帝ウィルヘルム2世がオスマントルコのスルタンであるアブドルハミト2世に「ドイツの泉」とよばれる泉亭を贈った。この泉亭は現在もイスタンブールのヒッポドロームに残っている。さらにオスマントルコがイギリスから購入を契約していた軍艦をイギリス政府の反対で買えなくなったときには、ドイツの軍艦をオスマントルコに売却した。このようにして、ドイツはオスマントルコをドイツ側に引き寄せ、ドイツと組んだオスマントルコは第1次世界大戦で敗北、その後まもなくオスマン朝が崩壊した。 ちなみに、ベルリンで再現された「ゼウスの祭壇」は第2次世界大戦でベルリンに軍を進めたソ連がこれを持ち帰ったが、1950年代になって東ドイツ政府に寄贈というか、返還した。 ベネチアのサンマルコ寺院の4頭の馬はベネチア観光の目玉の一つだが、もともとはイスタンブールのヒッポドローム飾られていたものである。第4次十字軍がベネチア海軍と共同でイスタンブール(当時はコンスタンチノープル)に攻め込み、これを略奪、サンマルコ寺院に飾った。ナポレオンの軍がベネチアに遠征したさいこの4頭の馬をパリに持ち帰り、現在はチュイルリー公園になっている場所に凱旋門を建て、その上に略奪した4頭の馬を飾った。ナポレオン没落後、馬はベネチアに返還されたが、ベネチアからイスタンブールに返されることはなかった。 アナトリアの遺物をめぐる所有と保護を論じた田中英資『文化遺産はだれのものか』(春風社、2017年)はゼウスの祭壇の返還を求めてベルリンへ行った1990年代のベルガマ市長セファ・タシュクンの次のような言葉を紹介している。「ゼウスの祭壇はベルガマという場所に属すものであって、特定の民族に属するものではない……文化遺産はそれが作られた場所にあるべきなのだ」 (写真と文:花崎泰雄) |