1 ブサキ寺院

インドネシアのバリ島は日本の愛媛県ほどの面積をもつ。島の中央部で山脈が東西にはしっている。山脈の東寄りに標高3000メートルを超える火山がある。これまでに何度も噴火している。山の名はグヌン・アグン。その麓の標高千メートルほどの斜面にバリのヒンドゥー教でもっとも敬われているブサキ寺院群がある。ブサキ寺院と呼びならわされているが、20を超える寺院群である。

バリでは雨季の1119日からオダランという祭礼が始まっていた。バリにはヒンドゥー教の寺院が大小2万弱あるといわれる。寺院ごとに祭礼(オダラン)の日が決まっているが、19日から始まったオダランは島内の全寺院とすべてのヒンドゥー教徒が守り続けている大規模な祭礼である。バリの暦で210日ごとにめぐってくる。日本のお盆のような行事で、寺院も民家も7-8メートルほどの竹に飾りを吊るしたペンジョールやカラフルな布で飾り付けて祖霊をお迎えする。オダランは10日ほど続く。オダランが始まる日をガルンガン、終わる日をクニンガンという。日本の盆入り、盆明けのようなものだ。

ブサキ寺院には1120日に行った。参道の坂道の両側には東京・浅草寺の仲見世通りのように商店が店を開いている。昔は歩いてのぼったが今は乗り合いのカートが走る。お参りの人は予想したほど多くなかった。正装した男女が寺院でお祈りをしていた。多くの人は自宅に親族を集めてオダランのお祝いをしていたのだろう。

バリには緑深い山々、麓の水田、紺碧の海と白いビーチ、乾季の青い空、なにやら由緒ありげな寺院があちこちにある。島は観光産業に必要な条件をすべて備えている。そうしたバリにあって、観光、文化、習俗、宗教などの面でバリを象徴するブサキ寺院はこれまでに何度かインドネシア政府のユネスコ世界文化遺産への登録の提案をうけた。だが、その都度拒否し続けてきた。

バチカン市国のサンピエトロ大聖堂も、フランスのモンサンミシェル修道院も、パリのノートルダム大聖堂も世界遺産への登録を拒否しなかった。バリのブサキ寺院はなぜ世界遺産登録を拒否しているのだろうか。

1990年インドネシア政府当局がブサキ寺院の世界遺産登録の提案をしたさい、パリサダ・ヒンドゥー・ダルマ(インドネシア・ヒンドゥー協会)がその提案に反対した。世界遺産に登録されると宗教的な祭礼儀式が制約を受けるのではないかという懸念があったからと言われている。

1992年にもブサキを世界遺産に登録しようとする政府の動きがあったが、ヒンドゥー教組織の反対で阻止された。経済振興のテコとして世界遺産登録を渇望するむきが多い日本では想像もつかない、意外な出来事だった。そういうわけで、バリ・ヒンドゥーのブサキ寺院は、無冠の大寺院群としてバリ島に屹立している。



パリサダ・ヒンドゥー・ダルマは政府の世界遺産登録の動きを阻止するだけの力を持った組織なのだろうか。インドネシアの国是・パンチャシラ(5原則)は「唯一神への信仰」を国民に義務付けている。スカルノがパンチャシラを提唱したとき、パンチャシラは一神教だけを宗教と認め、バリのヒンドゥー教は多神教的な土俗的地域信仰とみなされた。イスラム教やキリスト教とならんで、バリのヒンドゥー教をパンチャシラの指定宗教にしたかったバリのヒンドゥー教徒たちはパリサダ・ダルマ・ヒンドゥー・バリという組織を立ち上げて運動を続けた。1962年に政府に宗教として公認させた。パンチャシラは「唯一神への信仰」が条件なので、パリサダは多神教とみなされているヒンドゥー教はすべて「サン・ヒャン・ウィディ」という最高神の分身であり、ヒンドゥー教は一神教である主張した。このようにしてヒンドゥー教をパンチャシラが定める宗教のカテゴリーに入れさせることに成功した。このあと、1963にはグヌン・アグンが大噴火した。

パリサダは1964年にパリサダ・ヒンドゥー・ダルマと改名した。サン・ヒャン・ウィディは現代バリのヒンドゥーが創作した神であり、デンパサールに1950年代に建てられたジャガナット寺院に祀られている。ヒンドゥー教はインドにおいても、バリにおいてもとらえどころのない宗教・社会関係・習俗・文化をこき交ぜた人間行動の集積である。バリのヒンドゥーがブラフマン・シバ・ビシュヌはすべてサン・ヒャン・ウィディの分身である、と言ったところで、なんも驚くことはない。少々驚くのは、宗教団体が中央政府や地方政府と肩を組み、行政機関の補助役として持ちつ持たれつの協力関係を維持していることだ。1993年にブサキ寺院が大規模な祭礼を企画したさい、州政府は準備金を用立て、行政組織にのってヒンドゥー教団体が準備を進めた。

バリ島とバリ・ヒンドゥーの来し方行く末を考えながらバリ古刹巡礼を始める。



2 タマン・アユン寺院

バリ島は島の中央部に山脈が走り、降った雨は湖にたまり、斜面を流れ下る。バリ島の北側海岸部はバリの歴史で語られることが少ない。バリの歴史は山脈の南斜面に住んだ人々の歴史である。

山脈の高みから流れ来る水は斜面にいく筋もの渓谷をつくった。バリの歴史に出てくる王国(といっても部族国家程度の規模であるが)は川筋を境界線にして、成立した。したがって王国の領域は南北に長く、王国の領域を基本に分割されたバリ州の県も南北に長く伸びている。バリ島の交通は川筋に阻まれて、東西の行き来が今でも不便である。

タマン・アユン寺院はデンパサールの町から遠くないところにあり、観光客にとって魅力的なお寺である。タマン・アユンとはジャワ語の「タマン=庭園」「ayun=美しい」からきている。メンウィ王国を発足させたイ・グスティ・アグン・プトゥが17世紀の中ごろに建てた。国王の家族寺院であり、美しい庭園を持った王立公園であり、メル(多重塔)が林立する重厚なヒンドゥー寺院である。(添付の多重塔の写真は1980年代に筆者撮影)。

寺院の遊歩道に沿って闘鶏場の建物があった。闘鶏は世界中で行われている賭博遊戯である。インドから東南アジアにかけて盛んだが、動物愛護と賭博取り締まりを理由にこれを禁止している国も多い。インドネシア政府も闘鶏を禁止している。ただし、オダランのような特別の日に限って伝統行事の一つとして闘鶏を行うことを認めている。タマン・アユン寺院の舞台装置のような再現闘鶏場を見ていて、クリフォード・ギアツのバリの闘鶏についてのエッセイを思い出した。

1950年代後半にクリフォード・ギアツがバリで文化人類学のフィールド調査をしていたころ、バリでは闘鶏は禁止されていた。そこで人々は官憲の目をのがれてこっそりと闘鶏と賭博を行っていた。



バリに住み着いてしばらくの間、クリフォード・ギアツとヒルドレッド・ギアツの夫妻は住民たちから恭しく無視され続けた。ある時、住民と一緒にヤミで開かれた闘鶏を見に行き、警官に追われた。ギアツは一緒にいた男とその男の家に逃げ込んだ。しばらくして警官がやってきてあれこれ聞き始めると男はギアツが政府から認められている学者であること、バリの文化の研究を米国の大学から命じられていることなどなど、ギアツがびっくりするほど詳細にギアツのことを警官に説明した。この顛末はギアツの「ディープ・プレイ――バリの闘鶏に関する覚書」(『文化の解釈学ii』岩波現代選書)に詳しい。

文化人類学的エッセイを書けるほどの情報を手にいれることができた。バリの闘鶏の文化的解釈は正直に言うと理解しがたいところがある。闘鶏に血道をあげるバリの男たちの態度がどのようにバリ人の世界観と交錯しているのか、その関連が読み取れないからだ。ギアツは言う。バリの闘鶏のやり方はバリ人自らの暴力の形式の反映である。闘鶏はバリ人の動物的野蛮・自己陶酔地の犠牲などかれらの経験に関連している事柄を象徴する。



今のインドネシア大統領プラボウォ・スビアント氏の父は、著名な経済学者だったスミトロ・ジョヨハディクスクモ氏である。プラボウォ氏はスハルトが退陣したのち、インドネシア軍から軍人としての逸脱行為をとがめられ、軍から追放され、しばらくの間レバノンで事実上の亡命生活を送っていた。そのころ筆者がジャカルタで読んだか、ジャカルタの記者たちのよもやま話だったか、つぎのようなスミトロ氏の発言を読んだか聞いたりした。プラボウォ氏については、あの子はなぜあんな乱暴者になってしまったのだろうか、というものであった。また、スミトロ氏は文化人類学者の論文について、あれは論文ではなく小説だ、興味ない、と言った。

その時思い出したのがクリフォード・ギアツの解釈人類学の数々の名作だった。人文社会科学の中で最も理科系のハード・サイエンスに近い学問である経済学を専攻した学者から見ると文化人類学などフィクションに類するものに感じられるのであろう。

闘鶏は古代ギリシャから行われていた。日本の平家物語にも源平の戦を闘鶏で占い、源氏の勝ちと出たので、熊野水軍が源氏に加担したという話が出てくる。熊野には闘鶏神社がある。タイでもフィリピンでも闘鶏は盛んだ。16世紀のイングランド王ヘンリー8世は闘鶏が大好きで宮殿内に闘鶏場を設けたほどだったといわれる。

バリ人の世界観と闘鶏という遊戯が濃厚に関係しあっているのであれば、今東光が書いた河内の闘鶏マニアについても、信心深い上座部仏教徒である退陣の闘鶏との関係、キリスト教が支配的なフィリッピンの闘鶏、イングランド王家の世界観と闘鶏の関係などについて、ギアツ流の解釈人類学説を知りたいと思う。



3 ゴア・ラワ寺院/ゴア・ガジャ寺院

バリ島にはヒンドゥー教のお寺がたくさんある。バリ・ヒンドゥーの宗教組織や観光業界の意見では、バリのヒンドゥー寺院の頂点に立つのがブサキ(Besakih)寺院である。

ブサキ寺院を含め6つの寺院が6大寺院(Sad Kahyangan)として信仰の場になっている。ブサキ寺院以外の5大寺院は、ブサキ寺院の東にあるルンプヤン(Lempuyang)寺院、南側の海岸沿いにあるゴア・ラワ(Goa Lawah)寺院、南西方向のウブド近くにあるプスリン・ジャガット(Pusering Jagat)寺院、、島南端の断崖の上にたつウルワツ(Uluwatu)寺院、西側のバトゥカル(Batukaru)寺院である。

6大寺院のうちルンプヤン寺院を除く5つの寺にお参りした。ルンプヤン寺院へ行かなかったのは、チャーターした車の運転手さんが、寺院の車の駐車場からお寺までは急な坂道で人によっては歩くの大変なので、バイク・タクシーが待機している。それを利用すれば楽に登れますよと言ったからだ。年寄りが坂道で転んでけがする危険性とバイク・タクシーに乗る危険性では、後者の方がより深刻である。というわけでルンプヤン寺院は敬遠した。最近の若い観光客の間では、ここの割れ門でポーズをとって記念撮影をするのが流行っているとか。

バリでヒンドゥー寺院巡りをして何が面白いのかと、まっとうな疑問を持たれる方もあろう。お寺の借景は山、林、湖、海と多様であるが、寺院の構成自体はシンプルである。割れ門(candi bentar)があって、境内にメル(meru=多重塔)がたち、柱の上に屋根をのせただけの涼しげなお堂があるきりだ。お寺には住み込みの住職はいない。祭司は寺の近くに自宅を持っている。

チャンディー・ブンタルという割れ門も、インドネシア名物のサテを思わせる(正確には須弥山=スメルを模した)多重塔も東ジャワと同じものである。ジャワ島のヒンドゥー教王国・マジャパヒトの時代、王国はバリ島に支配を広げた。さらに、マジャパヒト王国の支配層や人民がイスラム勢力に押されてバリ島にのがれてきたことで、バリはヒンドゥー教の島になった。東ジャワがイスラム化され、バリ島がヒンドゥーの島としてガラパゴス化した。

飽きもせずバリ島のヒンドゥー寺院をめぐったのは、先ごろ亡くなったジャカルタの友人2人と、かつて一緒にバリ島巡りをした日本の友人夫妻の追善供養の真似事をしたかったからだ。ジャカルタの友人は2人ともムスリムで、日本の友人夫婦は無宗教だが便宜上仏教徒を名乗っていた。ムスリムと仏教徒の法要をヒンドゥー寺院巡礼で間に合わせるのはどうかとも思うが、なに、仏教には「方便」という言葉もある。



ゴア・ラワ寺院とゴア・ガジャ寺院は洞窟寺院として知られている。ゴア・ラワ寺院はジャワ語でコウモリ洞窟寺院の意。境内はこれと言って特筆するほどのこともないが、奥まったところに崖があり、そこに洞穴の入り口がある。洞窟内にはたくさんのコウモリが住みついている。洞窟の入り口にコウモリが飛んでいる。

洞窟は部外者立ち入り禁止だが、穴は奥へ奥へと続き、最後はブサキ寺院の近くで地表に出る、という伝説が残っている。19世紀の前半、メンウィ王国の内紛で隣国に逃げ込んだこんだメンウィ国王の弟が、ゴア・ラワ寺院のコウモリ洞窟からトンネルを抜けてブサキ寺院に行き着いたという伝説がある。一部の観光案内書はそう書き立てて観光客の好奇心をあおっているが、これは眉唾。この伝承をThe Spell 0f Power: A history of Balinese politics(『権力の呪文――バリの政治史』)で著者のH.S. Nordholtは「コウモリの洞窟がどこに行き着くのかいまだ不明である。というのも洞窟内には住みついている何千何万というコウモリの糞が堆積しているし、奥に進めば毒蛇が生息し、中に入った人は生きて洞窟からでてくることはできないだろうと、人づてに聞いた」と著書の脚注に書いている。

観光地ウブドの近くにあるいま一つの洞窟寺院であるゴア・ガジャ(象の洞窟)の方は一般の観光客の岩窟立ち入りが許されている。ヒンドゥー教徒が瞑想の場所として使った穏やかな岩窟だ。外から見ると岩窟入り口のデザインにはおどろおどろしいところがあるのだが。



岩窟のすぐ近くに沐浴場の跡があった。1980年代に撮影した写真(下右)と比べて大きな変化はなかった。山の水も枯れることなく、流れ出ていた。沐浴場は苔むしたままであった。自然は短時間では変化しない。もっともである。

 

(写真と文: 花崎泰雄)