1 イーストサイド・ギャラリー

2015年夏の中欧をめぐる旅で、ベルリンに5泊した。ドレスデンから列車でベルリンに着いたのが夕方で、5泊の後、正午過ぎの列車でワルシャワに向かった。ベルリン滞在は実質4日間。そのうち3日間は博物館島内の博物館めぐりについやし、1日をベルリンの壁の跡の見物にあてた。

宿は博物館島に近く、交通の便の良いアレキサンダープラッツのホテルにした。博物館島はアレキサンダープラッツからぶらぶら歩いて行ける距離にある。アレキサンダープラッツからウンターデンリンデンの大通りをブランデンブルク門の方向へ走るバスもあり、バスストップ23つで、博物館島に至る。

アレキサンダープラッツには東ドイツ時代に建てられたテレビ塔が建っている。そのテレビ塔の近くに東ドイツ時代に国営だった超高層ホテルがあり、現在は米国に本拠をおくホテルチェーンがマネージメントをしている。このホテルに泊まった。

ある朝、公園を抜けて博物館島へ歩いて行ったとき、こんな2人組の銅像を見た。偉い人の銅像は世界どこでもくそリアリズムで制作されているが、この2人のきびしい顔つきと威圧感は、権威的社会主義のマンネリズムだ。人気凋落のマルクスとエンゲルスだが、ベルリンではまだかろうじて生き残っているようだ。

それはさておき、ベルリンの壁の名残だが、アレキサンダープラッツのSバーン駅から電車に乗って2つ目の東駅で降りると、シュプレー川沿いに壁が残っている。長さ1キロ強、正確にいうと1,316メートルである。いまやほとんどが消滅したベルリンの壁の名残のうち、ここの壁が最も長い。

壁は巨大なコンクリートのキャンバスになっていて、100人を超えるさまざまなアーティストが落書き的壁画を描いている。この壁画はベルリンの壁が崩壊した時の、祝祭的な感情の高ぶりを今日に伝える。1990年に最初の壁画が描かれた。20年ほどたって壁画が色あせた2009年にいったん壁画を消し去り、新しいコンクリート・キャンバスの上に、アーティストたちが壁画を再生した。イーストサイド・ギャラリーはベルリンの壁に描かれた壁画の屋外展示場である。

ベルリンの壁はドイツ人、なかんずくベルリンっ子にとって、市民の暮らしを引き裂いた政治イデオロギーの非情さについての記憶をよみがえらせる記念碑である。同時に、今日のベルリンの大切な観光資源の一つになっている。イーストサイド・ギャラリーには、毎年300万人が見物にやって来る。



この夏のヨーロッパは、普通なら初秋の時期の9月初めまで暑さが続いた。イーストサイド・ギャラリーへ行った日もカンカン照りだった。

馬のお面をかぶった男が壁の前で歌を歌っていた。馬のかぶりものの下の顔は玉の汗だったことだろう。ベルリンの壁とは何の関係もない話だが、「女性と語るときはフランス語を、神に祈るときはスペイン語を、馬に話しかけるときはドイツ語を」という古くからの冗談を思い出した。男はそういう意味で馬のかぶりものをしていたわけではないのだろうが。

翌日の夕方、ベルリンの空に雲が広がり、雨が降った。雨があがると気温が急激に下がり、突然、秋の気候になった。



2 死の接吻

シュプレー川沿いのベルリンの壁の名残――その壁に描かれたグラフィティのうち、世界中で最も知られているのが、この「死の接吻」である。ハリウッド製のマフィア映画に出てくる死の接吻とは関係がない。

ソ連共産党書記長だったレオニード・ブレジネフとドイツ社会主義統一党書記長だったエーリッヒ・ホーネッカーが抱き合って口づけをするこの壁画には、圧倒的な迫力がある。ロシアのドミトリー・ヴルベルというアーティストが1990年に描いたものだ。前回紹介したように、2009年のギャラリー刷新のさい描き直された。



このキスシーンは作家の想像力の産物ではなく、実際にあったことだ。1979年のドイツ民主共和国30周年の記念祝賀会で披露されたブレジネフとホーネッカーの兄弟愛を誇示する接吻だった。その場に居合わせた人がスナップ写真を撮っており、当時の新聞に掲載され話題になった。わたしもむかし新聞か雑誌で見た記憶がある。

その写真は、まだ著作権の保持期間中らしいので、ここに転載することはできない。だが、「Brezhnev Honecker kiss」 の3語でグーグルなどにあたれば、写真を見ることができる。政治学的には興味津々の写真だが、美学的には――趣味・嗜好にもよろうが――推奨に値しない。

1979年はソ連がアフガニスタンに侵攻した年である。ブレジネフ時代の後半、ソ連経済は停滞が続き、最後に、ゴルバチョフの登場したころは時すでに遅く、連邦は解体の方向にむかうしかなかった。

ブレジネフはソ連の衛星国である東欧諸国に対してブレジネフ・ドクトリンを掲げて、社会主義共同体を守るために(ありていに言えばソ連を守るために)、ソ連とワルシャワ条約軍が武力介入できるという外交方針を打ち立てた。1968年のチェコスロバキアの「人間の顔をした社会主義」改革への軍事介入がきっかけだった。

多分、そういう生々しい過去の記憶から、ブレジネフとホーネッカーのキスシーンを「死の接吻」とよぶのであろう。

ブレジネフは18年間にわたってソ連のトップとしての地位を守り、現職のまま1982年に他界した。権力保持の期間はスターリンに次ぐ長さだった。ホーネッカーも18年間、東ドイツの最高権力者だった。

ブレジネフは生前「ホーネッカーは政治家としては凡庸だが、キスは上手だ」といったという、都市伝説が伝わっている。「キスは上手だ」というのはブレジネフの感触だろうが、政治家としての手腕はどうだったのだろうか。

ホーネッカーは古い社会主義官僚の世界観に縛られて、1980年代後半のヨーロッパの動向が見えなかった。1989年、東欧革命が進むなか、ドイツ社会主義統一党の幹部やソ連のゴルバチョフ書記長に見捨てられ、統一党の会議でクーデター的に解任されてしまった。権威主義政治では、最高権力者は常に自分の座を狙う配下の動きに細心の注意を払わねばならない。スターリンは権力維持に関しては悪魔的に長けていた。ホーネッカーはその意味で、生前のブレジネフの眼には凡庸にうつっていたのかもしれない。

  

ところで、ブレジネフとホーネッカーの死の接吻の壁画の前で、キスをして写真におさまる観光客が少なからずいる。冷戦時代はもはや、夢のまた夢。夏の日ざしはまだ十分残っており、シュプレー川には観光用のボートがゆるゆるとクルーズしている。



3 チェックポイント・チャーリー

ベルリンは米ソ冷戦の修羅場だった。なかでも東ベルリンとの境界に設けられていた米軍検問所、いわゆるチェックポイント・チャーリーはベルリンのホットスポットだった。

2次大戦後、ドイツは米英仏ソに占領され、首都ベルリンは4ヵ国の共同管理下に置かれた。ソ連と東ドイツは東ドイツの首都ベルリンから米英仏の駐留軍を追い出しにかかった。1961年ウィーンで行われたケネディとフルシチョフの会談の主要議題の一つがベルリン問題だった。

東ドイツとソ連が西ベルリンから米英仏の駐留軍を撤退させようとした背景には、当時、東ドイツが存亡の危機にあったからだ。景気好調な西ドイツに比べて、東ドイツの経済は低迷していた。西ベルリンで仕事をしている東ドイツ市民は、東ドイツで働く人の倍以上の賃金を得ていた。

1959年には14万人、1960年には20万人の人が東ドイツを捨てて西ドイツに移った。当然の成り行きだった。ベルリンの危機が増幅するにしたがって、流出人口が増えていった。東ドイツが気にしたのは、西ドイツへ移る人たちが、東ドイツ社会の中核的な担い手だったことだ。

ケネディー・フルシチョフのウィーン会談の2か月後の8月、たまりかねた東ドイツが突然、西ベルリンの周囲に鉄条網を張り巡らせた。鉄条網は間もなく恒久的なコンクリートの壁にかえられた。

ベルリンを包囲した壁には、要所要所に検問所が設けられ、用あって東ドイツへ行く西ドイツ市民、外国人、連合軍関係者が通行した。東ドイツ市民が検問所を通過して西ベルリンに行くことは禁止されていた。東ベルリンと西ベルリンに切り裂かれた恋人たちの場合、西ベルリンの恋人は東ベルリンの恋人を訪ねることができたが、その逆は、不可能になった。ベルリンの壁は西ベルリンを包囲する壁でなく、西ベルリンから東ドイツ国家を守るための分離壁だった。

ベルリンの壁の検問所で最も有名だったのが、フリードリッヒシュトラーセとツィンマーシュトラーセの交差点にあった米軍の検問所・チェックポイント・チャーリーである。



米国の外交官が東ドイツに入ろうとして追い返された事件をきっかけに、19611027日から28日にかけて、米ソの戦車がフリードリッヒシュトラーセに終結、ツィンマーシュトラーセを挟んで半日以上にわたってにらみ合った。

(当時の写真は、http://www.stephanecompoint.com/41,,,16027,fr_FR.html 見ることができる。その写真はベルリンの記念絵葉書に使われている、また、イギリス・ガーディアン紙のベルリン危機50周年の回顧記事 “Berlin Crisis: the standoff at Checkpoint Charlie”にも当時の写真が載っている。グーグルに上記の見出しを打ち込めばヒットする。その他、当時の動画などイモズル式に出てくる)

一触即発。ベルリンが燃え上がり、第3次世界大戦に発展する可能性もあったと、大げさに解説する人もいる。事件当時、わたしは大学生で、そのような大げさな恐怖感はもたなかったが、その1年後の、ケネディー・フルシチョフ対決であるキューバ危機の時は、さすがに震えあがった。

チェックポイント・チャーリーの対決では、米ソが裏チャンネルで接触、相互に戦車を撤退させた。

そういうこともあって、チェックポイント・チャーリーはたくさんの国際謀略・スパイ小説で舞台として使われた。壁はくそったれだが戦争よりましだ――ベルリンの壁は1989年まで東と西を仕切り続け、その結果、奇妙なステイタス・クォをもたらした。外交官や軍人、スパイ、商人、外国人旅行者らが検問所を通って東西ベルリンに出入りした。東西双方は水面下で神経戦を繰り広げたが、武力衝突の危機は巧みに避けた。

現在、チェックポイント・チャーリーはベルリン観光の名所で、かつての木造の検問所が道路上に再現され、検問所要員に扮装した人たちが、謝礼3ユーロで記念写真におさまってくれる。米ソ冷戦の終わりは新しい観光業をつくったが、冷戦の終結で仕事を失った人もいる。スパイ小説作家と国際関係論、特に核戦略・安全保障の専門家だ。

さて、写真に見える路上のポールのポートレイトはソ連の軍人、それと向かい合ったところにアメリカの軍人のポートレイトも立っている。いずれも21世紀になって作られた(観光用)記念物である。チェックポイント・チャーリーの「チャーリー」は特定の個人名ではなく、ABCCC for Charlieということで、第3検問所程度の意味だそうだ。



4 テロルのトポグラフィー

チェックポイント・チャーリーの交差点を左折してツィンマーシュトラーセに入り、ぶらぶら歩いて行くと、やがて道路左側にベルリンの壁の名残が見えてくる。長さ200メートル余。空にはぽっかり気球が浮いている。良いお日和である。気球は地球儀を模し、文字はDie Weltとある。ドイツの大手日刊紙の名である。天下を睥睨しているのであろう。

ベルリンの壁の名残を挟んで、北側に道路、南側に広場がある。

この広場はかつてゲシュタポとSSの本部があったところである。ゲシュタポはナチの時代の国家秘密警察、ソ連の旧NKDV(内務人民委員部)とならんで、20世紀のもっとも恐ろしい秘密警察だった。SSはヒトラーの私兵ともいうべき軍事組織。黒づくめの派手はでしい制服をまとっていた。

ゲシュタポとSSの暗躍ぶりについては、ハリウッド製の活劇映画でご覧になった方が多いことだろう。この二つの組織が、ヒトラーが目論んだユダヤ人問題の最終的解決実行の主体となった。アドルフ・アイヒマンはSSの中佐だった。

ゲシュタポとSSの本部は連合軍の空爆であらかた破壊された。ベルリンの4ヵ国共同管理のさい、この跡地は西ベルリンの領域になった。西ベルリンは一時跡地を廃棄物の集積所に使っていた。

1980年代になって、西ドイツ政府がこの跡地を発掘調査した。すると、ベルリンの壁のすぐそばの地下から、かつてのゲシュタポ本部の構造物の跡が見つかった。わかっていて掘ったのだから、見つかるのは当然だった。地下牢があったところだ。

ベルリンの壁沿いに発掘されたゲシュタポとSSの遺跡が野外展示場になった。広場の一角にドキュメンテーション・センターを建築し、プロパガンダとテロルを使ったナチの支配についての資料を展示した。それらをあわせて、テロルのトポグラフィーとなずけた。

おお、そこまでやるのか……。ドイツ民族にとってナチの時代の残虐非道は歴史の恥部である。だが、いまさら隠しおおせない。ならば、思い切って晒すしかないという気分なのであろう。ここもまた、今ではベルリンの観光名所になっている。

イタリア人と日本人とドイツ人に庭の草むしりをやらせたところ……という笑い話が、私などが若いころにはあった。イタリア人が草むしりを担当した庭はトラがりで、あちらこちらにぬき忘れた草が残っていた。日本人とドイツ人が担当した庭は、それぞれ完璧に除草されていたのだが……。

雨が降り、日がさし、数か月後、日本人が担当した庭には草の芽が出て来た。だが、ドイツ人が草むしりした庭には、以後、草の芽ひとつ出なかった。

ドイツ人の徹底ぶりには、恐怖を感じるほどの凄味がある。

日本でも戦前の特高(特別高等警察)の残虐逆非道ぶりは文献に残っているが、それを博物館にしていっきに公開するというところまではいかない。警察博物館はあるが、特高博物館など作るきもないだろう。ゲシュタポに比べればスケールの小さいテロルだから、あえて積極的に人前にさらすまでもなかろうという気分なのである。

そういうわけで、ユネスコが中国申請の南京事件の資料を記憶遺産に登録した一件で、日本国政府が米国にならってユネスコに対する分担金の支払いを停止すると言い出している。日本国政府と日本国民がいつも口にする国際世論が、日本政府の対応をどう論評するか、この先興味津々なところがある。

 



5 監視塔

テロルのトポグラフィーからポツダマープラッツへ向かって広い通りを歩く。ポツダマープラッツのすぐ手前で大通りを折れて横道に入って行くと、監視塔が見えた。

東ドイツ領域内で西側世界の孤島になっていた西ベルリンをベルリンの壁がぐるりと取り囲んでいた。その長さ約150キロ。ベルリンの壁は外壁と内壁の二重構造になっていた。西ベルリンに接する壁は高さ3メートルほどのコンクリート製だった。これが西と東の境界。壁の東ドイツ側には道路のような空間が壁に沿ってつくられた。その先の内側の「壁」は2重に張られた金網のフェンスだった。金網とコンクリート壁に挟まれた空間―通路には、全部で300ほどの監視塔がたてられていた。平均500メートルに1つの監視塔があった計算になる。

また、壁のフェンスの間の通路には街灯が設けられ、夜間でも監視できるようになっていた。街灯と外壁の間は「死の境界」よばれた。誰かがコンクリート壁に近づこうとするのを見たら、ためらわず射殺せよとの命令を、監視塔の兵士は受けていた。街灯の下に人の動く姿を見つけると、監視兵は屋根の上のサーチライトで動く人物を照らし出し、射殺した。

ベルリンの壁をつくる決断をしたのはウルブリヒト・ドイツ民主共和国初代国家評議会議長で、壁を越えようとするものを撃ち殺せと命じたのは、彼の下にいたベルリンの壁の責任者のホーネッカーだった。

壁の時代、西ベルリンの住人は「ベルリンから東西南北、どちらに向かっても、壁の向こうは決まって東だ」と冗談を言っていた。西ベルリンの市民は列車や自動車道路で途中下車しないで西ドイツの領域に行くことができた。好んで東ドイツに入るのは、それなりの用事を抱えた人だけだった。

反対に、東ドイツには、決死の覚悟で西ベルリンに入りたいと思う人が少なくなかった。多くの東ドイツ国民が西側に逃れたいと思ったのは、経済的な豊かさへのあこがれもあったが、東ドイツがソ連の衛星国の中でも際立った監視国家だったからである。

ヒトラーのナチス・ドイツの体制を支えた柱の一つが秘密警察ゲシュタポであったように、東ドイツの柱はシュタージ(国家保安省)だった。アナ・ファンダー『監視国家』(白水社、2005年)によると、シュタージは97千人の常勤職員と、173千人の密告者を抱えていた。ヒトラーの第三帝国では国民3千人あたり1人のゲシュタポ、スターリン時代のソ連では国民58百人に1人のKGBだった。東ドイツでは国民63人あたり1人のシュタージ局員もしくは非常勤の密告者がいた計算になる。

シュタージのモットーは「党の剣、党の盾」で、ドイツ社会主義統一党の支配体制維持のために働く機関だった。党は国民に監視の網をかぶせた。

シュタージが監視下に置いた人物の記録や密告者からの聞き取り情報の記録は現在、シュタージ・アーカイブで保管されている。毎月1万人ほどの人が閲覧に来ている。閲覧した人が、友人・同僚・家族までが密告者であったことを知るという悲劇もあるそうだ。もっとも、この手の話は、東ドイツが存在していた時代から語られていた。教師に国家を守るためにと吹きこまれた子どもが親を密告するような世紀末的な社会のルポルタージュが出版されていた。

ベルリンの壁が崩壊したとき、シュタージュは文書の一部をシュレッダーにかけて証拠を隠ぺいしようとした。東西統一後、ドイツ政府はその紙屑を膨大な経費をかけて復元する作業を続けている。歴史的な公文書がどこかに消えてしまうどこかの国の政府とは少々違うのである。



6 ポツダム広場

ポツダム広場のショッピング・モールをうろついていると、「ベルリンの壁 25年」の展示会の案内標識が目にとまった。ショッピング・モールの上の階でやっていた。

  

ポツダム広場(ポツダマープラッツ)はピカピカの新しい街だ。

ポツダマープラッツは1920-30年代、ベルリンの賑わいの中心地の一つだった。だが、第2次世界大戦で徹底的に破壊された。ドイツは東西に分離し、ベルリンの壁が築かれた。

ベルリン壁はポツダム広場を分断して建てられた。壁によって分断されたポツダム広場は、東西両ベルリンとも再開発から取り残された。ベルリンの壁崩壊まで、荒涼とした姿をとどめていた。

1960年代に西ベルリンのポツダム広場にベルリン・フィルのコンサート・ホールが建てられたのが、ポツダム広場再開発の手始めだった。1989年のベルリンの壁崩壊を機に、一挙に再開発が進んだ。2000年に完成したソニー・センターはポツダム広場再開発の象徴といわれている。それは大規模な複合施設で、オフィス、店舗、娯楽施設に加えて、住宅も入っている。

ソニー・センターは2008年に、ソニーからモルガン・スタンレーグループなどに売り渡された。それを韓国の国民年金公団が2010年に買い取った。海外不動産への投資はその時々の国の経済的勢いを反映する。三菱地所もかつてニューヨーク市のロックフェラーセンターを買収したことがある。

諸行無常。

もっかEU経済をけん引しているのはドイツである。そのドイツのその独り勝ちが、『「ドイツ帝国」が世界を破滅させる』(エマニュエル・トッドの新著)といった具合にネガティブな話題になるほどである。

経済的な力というやつは、猫の眼のように変わる。

1978年に日本を訪問したケ小平は東海道新幹線に乗り、「後ろからムチで追い立てられているような速さだ」「これが中国が求めている速さだ」「日本に来て近代化とは何かがわかった」と、日本のメディアに語った。

あれから30余年、いまや中国は世界の経済・軍事大国で、インドネシアの新幹線建設受注競争で日本を破るほどの勢いを見せている。

西ドイツが東ドイツを吸収合併した時、日本でも、ドイツ経済の将来について悲観論と楽観論がメディアで交わされたのをよく覚えている。

だが、弱体な東ドイツ経済を取り込んで先行き不透明になったドイツ経済の隙をついて、フランスなりイギリスなり、ヨーロッパの他の国が欧州の経済主導権を握ることは、結局、出来なかった。ドイツは合併のマイナス要素を克服し、独り勝ちした。なぜだろうか。

ポツダム広場のピカピカの再開発ビル群をながめていてふと頭をよぎったのは、ベトナム、ドイツが再統一されたあと、最後の分断国家として残っている朝鮮半島の2つの国のことだ。

北朝鮮の国家崩壊と筆者の寿命が尽きるのとどちらが早いか、というところまで来ている。韓国が崩壊した北朝鮮を、西ドイツが東ドイツを吸収合併したと同じような形で、韓国に取り込むことになった場合、韓国経済は八方ふさがりになるだろうが、それはどの程度の八方ふさがりだろうか。西ドイツが東ドイツを抱え込んだときの、経済力の東西格差は、韓国と北朝鮮のそれをよりも少しましだった。

そのときまで韓国の国民年金公団はソニー・センターのオーナーでいられるのだろうか。

ポツダム広場にかつての壁の一部を切り取って並べたインスタレーションが飾ってある。壁の一部は彩色され、過去の写真や説明が添えられている。





7 ホロコースト記念碑

ポツダム広場からブランデンブルク門をめざしてエーベルト通りを北へ向かって。まもなくブランデンブルク門の南隣に、一目でそれとわかる空間が見えてくる。

ホロコースト記念碑である。ヒトラーのナチス・ドイツがユダヤ人問題の最終的解決と称して、ジェノサイドを実行したことで、ヨーロッパを中心に、500万‐600万人のユダヤ人がその犠牲になった(正確な数字は出しようがないし、犠牲者数は調査した機関によって異同があるが、通説になっているのはこの数字だ)。最大の犠牲者を出したのはポーランドに住んでいたユダヤ人でその数300万人と推定されている。

この記念碑は2005年にできた。約2万平方メートルの広場に、3000近いコンクリートの立方体が並べられている。沈黙の石碑だが、コンクリートの棺桶だと感じる人も少なくない。ブランデンブルク門のすぐ近くに、ホロコーストの記念碑をつくったことが、ホロコーストについてのドイツの公式態度を示している。



20151020日、イスラエルのネタニヤフ首相が、ヒトラーはユダヤ人の追放は考えていたが殺すことまで考えていなかった。そのヒトラーに、ホロコーストを勧めたのは、当時のパレスチナ人のイスラム教指導者・アミン・アル‐フセイニだった、という説をシオニスト団体の会議で表明した。イスラエルのユダヤ人の中にはパレスチナ人に対する憎しみからこうした発言をする者がいる。パレスチナ人に対する憎しみを煽ることで、ユダヤ人の結束を強化しようとする狙いである。

一方、イスラム圏ではアフマディネジャド・イラン前大統領のように、ホロコーストは神話であり、イスラエルが中東におけるその存在を肯定するために利用している、という意見の持ち主も少なくない。イスラム教徒のエルドアン・トルコ首相のように、ホロコーストとまでは言わないが、イスラエル軍のガザ攻撃を非人道的行為であると激しく非難する人はもっと多い。

ネタニヤフ首相は前述の発言のあと、1021日にドイツでメルケル首相と会談、その後の記者会見で、メルケル首相が「ホロコーストの責任がドイツにある事に変わりはない」と語った。

その責任を負い続けるという決意がホロコースト記念碑である。



8 ブランデンブルク門

ブランデンブルク門はパリのエトワール凱旋門と並んで、ヨーロッパ屈指の石造りの門である。建築されたのはブランデンブルク門の方が少し早い。

ブランデンブルク門はベルリンの象徴であり、東西冷戦の象徴でもあった。したがって、ベルリンの壁崩壊のニュースでは、ブランデンブルク門前の壁の映像が中心になった。

ベルリンの壁はブランデンブルク門のすぐ西側に築かれた。ブランデンブルク門とウンター・デン・リンデン通りは東ベルリンに属した。



米ソがにらみ合っていた東西冷戦の最盛期の1963626日、米国のケネディー大統領が西ベルリンを訪問した。ケネディーの訪問は彼のベルリン演説の中の有名な一行、「イッヒ・ビン・アイン・ベルリーナー」で記憶されることになった。

ケネディーは26日朝、テーゲル空港に到着、アデナウアー首相、ブラント・西ベルリン市長ともどもオープンカーに乗って西ベルリン市内をパレードした。ブランデンブルク門をはじめとするベルリンの壁を実際にみて、大統領の感情が高まったらしい。そのあと、シェーネベルク市庁舎前で行った演説の最後で, “Ich bin ein Berliner”と発言した。

「すべての自由な人間はどこに住んでいようとベルリン市民である。したがって、一人の自由な人間としての私は、誇りを込めて次の言葉を言う。私はベルリン市民である」

このベルリーナー発言には面白い蛇足がついている。ドイツ語で「私はベルリンっ子だ」という場合、冠詞抜きで、Ich bin Berliner という。Berlinerには別の意味があって、それは英語圏でいうジャム入り揚げパン(jelly doughnut)のことだ。Berliner に冠詞がつくと、ジェリー・ドーナツの方の意味になるのだそうだ。

これには反対意見もある。ケネディーはアメリカ人であってベルリン市民でないことは周知の事実である。ケネディーが言うBerlinerとはベルリン市民と重なり合う自由な人間の共同体のことであり、ケネディーが私もその一員であるというのだから、Berlinerに冠詞einを付けて何の不自然もないとする判定である(Frederick Taylor, The Berlin Wall, Harper Perennial, 2006)。

現在のブランデンブルク門は、東西ドイツ統一後に化粧直しが行なわれ、アイスクリームやベルリーナーを手に、観光客が集まる穏やかな場所になっている。



9 ベルナウアー通り



ブランデンブルク駅からSバーンに乗って3つ目の駅、ノルドバーンホフで降りると、すぐ近くにベルリンの壁記録センターがある。ベルリンの壁に関する記録を保存展示している。とくに、映像が巧みに使われている。

ベルリンの壁記録センターの前にベルナウアーシュトラーセが走っており、その向かい側に一種の野外博物館のような「ベルリンの壁 記憶の場所」がある。

ベルナウアー通りは東西ベルリンの境界だった。ベルリンの壁は通りのすぐ南側に造られた。内壁と外壁の間の空間だったところを長さ1キロ半ほどの緑地帯とし、そこに壁の資料も展示してある。壁の大半は撤去されたが、壁の記憶にと鉄棒が埋めこまれた。

印象的なのは家屋の壁などに拡大複写された、ベルリンの壁を越えて東から西へと脱出する人々の写真だ。

壁がつくられ始めたころ、ベルナウアー通りに面したアパートの窓から、道路に飛び降りたりして西側に逃れた人。通りに面した窓が煉瓦でふさがれ、やがてアパートが取り壊されると、壁の下を抜けて道路の反対側の家までトンネルを掘った。そのトンネルを通って西側に出た人。かつてニュース映像で見た懐かしい写真だ。

 

ベルリンの壁が存在した1961-89年の間に、壁を越えて逃げようとして射殺されたりした死者の数は130を下らない。その死者の顔写真も慰霊碑となって展示されている。

ベルナウアー通りにはかつてゴシック様式の和解教会があった。和解協会はベルリンの東西分割のさい東の領域に組み込まれた。和解教会は西ベルリンの教区民のものだったが、かべの監視の邪魔になるという理由で、1985年に東独国境警備隊が爆破した。

その和解教会のあとに、小さな和解のチャペルが建てられている。定期的にミサもおこなわれている。

(写真と文: 花崎泰雄)