1 1991年の砲撃

ドブロブニクは戦場だった。199110月から半年ほどの間のことだ。クロアチアがユーゴスラビア連邦からの分離独立を宣言すると、連邦を維持しようとしたセルビアとモンテネグロが軍を送った。セルビア・モンテネグロの軍勢はドブロブニクを包囲してクロアチアの他の地域と分断、海と空から猛爆した。

それから20年ほどがたった。高い城壁に囲まれた猫の額のようなドブロブニクの旧市街は戦争の傷跡をすっかり修復していた。いまでは世界有数の風光明媚な観光地だ。夏の間はヨーロッパだけではなく、世界中から観光客が集まってくる。



旧市街地をとりまく城壁のすぐ外に、ドブロブニクの背後の丘・スルジ山に登るロープウェーがある。1991年の砲撃で破壊されたままになっていたが、2010年に再建、観光客を山上に運んでいる。

ロープウェーで丘に登ると、観光パンフレットなどでおなじみの、青い海に囲まれたドブロブニク旧市街を見下ろすことができる。城壁のなかにオレンジ色の屋根の建物が密集している。山頂であったオーストラリアから来た年配の女性は、この景色を見るためにスルジに登ってきたのは今回が2度目で、最初の時は坂道を1時間半かけて歩いて登ったと話してくれた。



ロープウェーから少し離れたところに、19世紀の始め、ナポレオンが攻め込んできたときに造った、石造りの要塞が残っている。その内部が1991年からの戦争記念館になっている。



一室にテレビ受信機が置かれていて、ビデオでドブロブニク砲撃を記録した当時のテレビニュース映像を流していた。その生々しさについ釘付けになった。旅から帰ってパソコンでYouTubeをみたら、実はその手の映像はいくらでもあったのだが、やはり高い飛行機代を払って現地で見れば、映像といえどもそれなりの迫力がある。



「ナポレオンの十字架はどこのあるのですか」
 記念館の人に尋ねた。

「あれは戦争で壊されてしまった。いまナポレオンの十字架と言っているやつは、戦争のあとで作り直したものだ」

 そういうわけで、通称ナポレオンの十字架は見に行かなかった。惜しいことをした。十字架が立つ場所はドブロブニク旧市街を見下ろす絶好のポイントだとあとで知った。

バルカンはヨーロッパの火薬庫といわれ、英語のBalkanizeは小国に分裂させて互いに敵視させるという意味の動詞だ。

1980年代のいつごろだったか、記憶が薄れてしまったが、当時の世界で国家分裂の可能が高い国はユーゴスラビアとインドネシアであるとCIAが予想したという記事を、日本の新聞で読んだことがある。チトーが死んだ後、ユーゴスラビアの分裂についてはその可能性がしばしば語られていたが、スハルトとインドネシア国軍ががっちりと押さえているインドネシアがよもや分裂するとは想像できなかった。

だが、スハルトが屈辱のうちに大統領を退くと、間もなく東ティモールがインドネシアから離れていった。ソ連の解体を予測できず、イラクやアフガニスタンでは読み違えの多かったCIAだが、たまには読みが当たることもあったわけだ。



それにしても、ドブロブニクの日差しは強烈だ。9月初旬だというのに太陽がなおいっぱい。スルジの丘のナポレオンの要塞の残骸の石に腰を下ろしていると、

「もしもし」

アメリカの若者が日本語で声をかけてきた。以前、栃木県の中学校で英語教育のアシスタントを1年ほどしたことがあったという。いまはニューヨーク市で働いているが、休暇をとってアドリア海の島の友人を訪ねてきたところだという。

「きれいな島だった。あなたも行ってみるといい」
「島の名前は?」
「ええと、何と言ったかな!? たしかあっちの方だ」

青年はドブロブニク北西方向の紺碧のアドリア海を指差した。



2 ドブロブニクの城壁

ドブロブニクの旧市街を取り巻く城壁(市璧)は一周2キロ弱である。ドブロブニク観光の目玉の一つだ。ぶらぶら歩いていると石灰岩でできた禿山のスルジの丘がみえる。東アドリア海の青さがまぶしい。手の届きそうな近くに教会の鐘楼が見える。城壁の中に密集した建物の屋根のオレンジ色に圧倒的な量感を感じる。城壁のところどころに迫力のある要塞がある。



日本はせいぜい環濠集落程度のものしかもたなかったが、中国から西へヨーロッパにかけては、都市は中世から近世まで城壁で囲まれていた。

中国・西安の城壁、ウズベキスタン・ヒヴァの城壁、イスタンブールのテオドシウスの城壁などはまだ一部が残っているが、オーストリア・ウィーンの中核部分を取り囲み、オスマン・トルコ軍の攻撃からウィーンを守った城壁はいまでは取り壊されてリンクシュトラーセという名の大通りになっている。



街を包む城壁が築かれたのは、部族、民族間の攻防が頻繁だったからだ。その規模において最大のものが中国の万里の長城だった。したがって戦争が大和民族同士の国取り合戦だった日本では、町を守る城壁の必要を感じなかったのだろう。

バルカン半島は民族の攻防が激しかったところだ。ドブロブニクも城壁を築いて街を守ろうとした。ドブロブニクは東ローマ帝国、ベニス、オスマン・トルコ、ナポレオン、ハプスブルク家の支配下にあった。だが、支配は間接的で町は自治権を確保していた時代が長かったという。



一時期ドブロブニクはベニスと並ぶ地中海屈指の交易都市だったが、大航海時代に入ってヨーロッパが大西洋経由でアメリカ大陸やインド大陸などと結ばれると、港湾都市としての勢いは衰えた。

戦争が火砲の時代に入ると、城壁は防衛上役に立たなくなった。ウィーンの城壁が19世紀に撤去されたのもそうした理由からだ。ドブロブニクの城壁も1991年の戦争で、海からセルビア・モンテネグロ軍の砲撃を受けたさい、砲弾から町を守ることではあまり役立たなくなった。



ドブロブニクが世界遺産に指定され、アドリア海の真珠と呼ばれるようになった理由の一つは古い街を包むこの城壁の存在だ。世界遺産ドブロブニクを砲撃して破壊するセルビア・モンテネグロ軍の砲撃にヨーロッパ中から怒りの声が上がった。そういう意味では、この城壁はドブロブニクを守るうえで大いに役に立ったのである。



3 路地裏散歩

周囲2キロ弱の城壁に取り囲まれたドブロブニクの旧市街は、アドリア海に突き出た岬の岩の上につくられた街である。海側のかなりの部分が断崖絶壁だ。



旧市街も中心部あたりは平坦だが、周辺部に向かって傾斜地なっている。密集した古い建物の間に通路が蜘蛛の巣のように広がり、楽しい路地裏歩きができる。



通路を跨いで建てられている家屋も少なくない。どんな裏通りに入って、路上やちょっとした空きスペースにカフェがあって、イスとテーブルが置かれている。ここはヨーロッパでは第一級の観光地なのである。



1991年から始まったドブロブニク砲撃で、城壁内の旧市街地に建つ800余りの建物の約7割が破壊された。300発以上の砲弾が建物の壁や石畳の道路を直撃した。城壁にも100発以上があたった。旅行案内書にはそう書いてあった。

1667年にドブロブニクを襲った大地震以来の被害だった。だが、今では街は見事に昔通りの姿に修復されている。ただし、別な理由でこの街はコミュニティーとして変化している。

外国からドブロブニクにやってくる観光客はこのところ年間50万人を超す。ドブロブニク砲撃前の1980年代後半のころの水準にもどったのだ。一方で、1980年代に30万人台を維持していた国内からの観光客は今では10万人を下回って、回復の兆しがない。その上、観光客は夏に集中する。夏季にドブロブニクを訪れる旅客の9割近くが観光客だ。



ドブロブニクは観光地として成功した。だが、成功すればするほど物価は高くなり、旧住民は旧市街の家を売って出てゆく。その家を投資目的で外国の資産家が買い取る。旧市街の人口がこのところ激減している。半世紀前は5000人の人が住んでいたが、2000年にに入ると3000人を割り、いまでは1000人を割っているそうだ。



とはいえ、ドブロブニクの旧市街の路地を散歩していると、あちこちで洗濯物が路地裏高く掲げられていた。まだまだ暮らしの旗は消え去っていないようだ。





4 表通り

ドブロブニクの城壁の内側のオールドタウンと外部をつなぐ門は複数あるが、代表的なのがピレ門である。

ピレ門をくぐって旧市街に入ると、ちょっとした空間が広がり、そこに15世紀に造られた大きな噴水がまだ現役で冷たい水を供給している。



オノフリオの大噴水だ。ここから旧港へ向かって大通りがのびている。長さ約300メートルの東西に延びるこの通りがドブロブニクの旧市街を南北に二分している。

通りは「プラカ」とも「ストゥラドゥン」とも呼ばれる。どちらも「大通り」という意味なのだそうだ。



この大通りをはじめとしてドブロブニク旧市街の通りは石灰石を敷き詰めた石畳だ。舗装されたのはオノフリオの噴水が造られたのと同時期の15世紀で、以来人々の靴に踏まれ磨かれてつるつるの光沢を発している。

プラカ通りはオールドタウン随一の商店街である。といっても、お土産屋さんのような店が多いのだが。朝から晩まで人通り=観光客が絶えない。





5 ピレ門あたり

レ門はドブロブニク旧市街をぐるりと取り囲む城壁の西側の壁に開いた門だ。

ピレ門のすぐそばの旧市街の広場にオノフリオの泉がある。泉とよぶほど可憐なものではなく、でっかい石造りの給水塔だ。15世紀中ごろの建設だとされている。



ナポリからやってきたオノフリオという建築家がドブロブニクの水道工事をうけおったとき、その給水システムの一環としてこの給水塔を建てた。設計者の名前が泉の名前として残った。

海に突き出した岩だらけの岬なので、地下水を探すより10キロ以上離れた内陸から水を引いた。

ピレ門はドブロブニク観光の、言ってみれば正門で、観光客はこの門の前のロータリーでバスや車から降り、歩いてピレ門をくぐって旧市街に入る。旧市街地には特別に許可された車しか入れない。入ったとろろで自動車が通行できるだけの広さがあるのはプラカ通り位なものだ。そもそも街は小さく、ピレ門からどこへ行くにしても5分以内で歩いて行ける。

ピレ門の前は深い濠になっていて、かつては木製の橋が架けられていた。夜になると門の扉を閉め、鎖を巻いて橋をあげたそうだ。門限に遅れるとピレ門外で野宿する羽目になった。今でも濠があり、橋があり、鎖がついている。



ドブロブニクの城壁はところどころに要塞がついている。中世の時代の街防衛の要衝だ。ピレ門から旧市街を出た先にある小さな岬にも出城が築かれていた。

ロヴリイェナツ要塞。40メートル近い岩の上にある。往時は40人ほどの兵士がこの砦に常駐し、ドブロブニク西側の守りを固めていた。



海岸の小道を歩いて砦のある岩に近づいていると、おばさんが釣り竿で岸から小魚を釣り、釣果をネコのためにばらまいてやっていた。しかし、猫はその小魚に見向きもせず、消えていった。猫またぎ。



砦からは海と、ドブロブニクの西側の城壁と、スルジ山が見えた。砦の中の広場には丸い石の球が円錐形に積み上げられていた。かつて使われた石の砲弾である。



円錐形に積んだ石の砲弾には針金で編んだネットがかぶせられていた。砦を出るとき、何のためですかと受付の人に尋ねたら、かつて観光客がこの石の球を持ち上げて砦の上から海に向かって投げたそうだ。これは危ないということから急きょネットを張ったのだが、それにしても、なんという馬鹿力。



6 ドブロブニク旧港



ドブロブニク旧市街の目抜き通りであるプラカ通りを歩くと旧港につきあたる。海運で栄えた中世都市ドブロブニクの港だが、今ではヨットハーバー程度にしか見えない。個人所有の船と、近くを遊覧する小型船が発着する程度だ。観光客を満載した大型客船は旧市街から北東へ3キロ弱行ったところにある新港から発着する。

かつてドブロブニク旧港は要塞で外敵の侵入を防いでいた。16世紀中ごろのドブロブニクは180隻の大型船があって、合計トン数は2万トン以上だったといわれている。このころからドブロブニクは海上保険の制度を始めていた。



地中海交易が衰えを見せ始めた18世紀になっても、ドブロブニクは漁船をふくめ700隻ちかくの船をもっていた。そのうち200隻以上が大西洋へ乗り出していた。オランダにはおよばないが、最盛期のドブロブニクはベニスと肩を並べる海運都市国家だった。

ドブロブニクはかつて造船でも有名で、旧港に面して造船を持っていた。しっかりした構造で耐久力に富む船として知られていた。造船技術を他国の産業スパイに盗み見されないように、煉瓦で塀を築いて船をつくった。その造船所の跡は現在でも残っている。海に向かってアーチ形の空間が3つある建物は、いまではレストランに使われている。



美しい風光と過去の海運都市国家として繁栄の歴史のおかげでドブロブニクはいま観光業で収入を得ている。海のたまものである。

旧港はドブロブニク旧市街の最大の観光スポットで、港に面してレストランやカフェがつらなるレストラン街になっている。口うるさい観光客の中にはレストランの日よけの白いテントがせっかくの風景を台無しにしていると不満を言う人もいる。だが、ドブロブニクの人も稼がねばならないのだ。



ともあれ、ドブロブニクに夏の太陽が照りつける間は、旧港の舗道は毎日観光客でいっぱいだ。観光客もレストランの従業員もせわしなく動き回る。そんな中でのんびりと歩道中央で猫がねそっべている。





7 旧市街のお宿

城壁に囲まれた猫の額のようなドブロブニク旧市街にはホテルが2つほどしかない。そのホテルの宿泊料がめっぽういい値段だった。城壁の外のホテルも、旧市街に歩いて行けるところにあるホテルは当然のことながら、年金生活者には懐にこたえる値段だ。ほどほどの料金の宿となると、旧市街までバスかタクシーを利用する距離になる。

せっかく遠い東京からはるばるドブロニクまで来たのだから、世界遺産の城壁の中の旧市街に泊まってみたい。調べてみると、旧市街には民家を改造した、日本風にいえば民宿にあたる貸し部屋がたくさんあった。



その一つ、城壁の出入り口が目の前にあり、旧港にも歩いてすぐのところにある民宿を利用した。寝室と居間、台所とシャワールームが付いて広さ50平方メートル。部屋代は11万円弱だった。



すぐ近くの広場に朝市がたち、スーパーマーケットもあった。パンに生ハム、果物、野菜を買い込んで冷蔵庫に入れ、ドブロブニク滞在の5日間は、毎日朝飯を部屋で食べた。スーパーマーケットで買ったどうということのないパンだがなかなかうまかった。生ハムも少々塩味がきつかったが、これまたうまかった。果物の中ではクロアチアのイチジクがよかった。小粒な薄緑色のイチジク。クロアチアはイチジクで有名なのだそうだ。



毎日せっせと街を歩きまわり、疲れるとカフェでマキアートを飲んだ。ドブロブニクあたりではコーヒーはイタリア風が主流だ。

街はまだ夏の太陽がいっぱいで、目が疲れるのでカフェでは屋内に入ることが多かったが、さすがにヨーロッパの夏の観光地で、人々は屋外のテーブルにひしめいていた。





8 夜景

ドブロブニクは小さな街ながら国際的な観光地だから、評判を落とすような犯罪の発生には自治体も住民も非常に神経をつかっている。それでも、過去には外国人観光客の死体が海岸で見つかったことがあり、ドブロブニクは犯罪都市だという議論が沸騰したことがある。

ドブロブニクは人口5万にも満たない小さな町だが、迎える観光客は年間で人口の10倍以上に達する。そのことを思えば、スリ程度の犯罪者はいるだろうが、ドブロブニクは安全な町だ、ということになっている。



日が暮れると旧港に面したレストランで潮風に吹かれながらご飯を食べ、腹ごなしに街を歩いてライトアップされた建物を眺める。大通りは昼間と同じように人でいっぱいだ。



特に週末となると、宴は夜遅くまで続き、物売りの人も街角で客を待ち続ける。



ふと夜空を見上げると、スルジの丘の灯りが見える。



カテドラルのうえには、ライトアップされたキリストの白い像が、地には善意の人に平和あれ、と通りを見守っている。中世の趣を残す街の、熱帯夜のない夜ほど素敵なものはない。





9 ウェディング

夏のドブロブニクでは街のあちこちで婚礼のドレスをまとった人々の姿を見かける。ドブロブニクの教会や眺めのいいホテルや由緒ある建物を使って結婚式を執り行う人々だ。



たいていがドブロブニク以外のクロアチアの街からやってきた人や、外国からはるばる挙式のためにやってきた人だ。聞くところによると、外国人ではイギリス人のカップルが多いとか。

ドブロブニクにはこうした世界遺産の真ん中での結婚式を企画する会社があるので、日本から出かけてドブロブニクで結婚式をした人もいるだろう。



日本人が海外で挙式する場所は、海外での結婚式を扱っている日本の会社によると、ハワイとグアムが日本人の海外挙式の8割近くをしめるそうだ。

40年近く前のことだが、日本人の歌手がアテネのパルテノン神殿がたつアクロポリスで結婚式をしようとして、ギリシャ当局から拒否されたことがあった。風変りなところで式をあげれば幸せな結婚生活がつかめるというわけでもあるまいに。

                    (花崎泰雄 写真・文