1 ドブロブニクからザダルへ

ドブロブニクからザダルへバスで行った。所要時間約8時間。バスは風光明媚なダルマチアの海岸沿いを走る。

その美しいアドリア海の風景を堪能しようと、前日にバスセンターまで行って海側の座席を買ったのだが……。

あいにく移動日は、ダルママチア地方に滞在した10日余りのうち、唯一の雨模様の日になってしまった。



いつもならカッカ、カッカと照る太陽の下、まばゆいアドリア海の風景が、まるでスカンジナビアの晩秋のように見えた。なるほど海の色はお天気しだいだ。

地図を見るとわかるのだが、ドブロブニクはクロアチアの飛び地になっている。ボスニア・ヘルチェゴビナのネウムという街が海までのびてクロアチアを二つに分断している。

なぜそんな飛び地ができたかというと、話はドブロブニクの前身であるラグーサ共和国の17世紀の終わりにさかのぼる。ラグーサ共和国は巧みな外交で独立を維持してきた通商都市国家だったが、ヨーロッパに攻め込んだオスマントルコと北の通商大国ベネチアの、双方の脅威のもとにあった。



17世紀の終わり、ベネチアの脅威が募ってくると、ラグーサ共和国はオスマントルコとの関係を深め、ネウム地方をオスマントルコの領地として割譲した。ラグーサ共和国の北にオスマントルコ領をつくることで、ベネチアの脅威に対する緩衝地帯にしたのだ。そのことが発端で、今ではボスニア・ヘルチェゴビナ領になっている。街の人口のほとんどが人種的にはクロアチア人だという。

ティモール島の東半分は東ティモール民主共和国で、西半分がインドネシア共和国の東ヌサ・トゥンガラ州だ。その東ヌサ・トゥンガラ州の中に東ティモール共和国の飛び地オクシ県がある。東ティモールは昔ポルトガルとオランダに領有されていたが、オランダとポルトガルが協議のうえ区画整理して、島の東をポルトガルガル領、西をオランダ領とした。その区画整理でも整理できなかったポルトガル領がオランダ領に残った。それが現在の東ティモール・オクシ県になった。

話はちょっと違うが、パキスタンとタジキスタンの間の山岳地帯に細長く食い込んで、中国国境までのびているアフガニスタンのワハン回廊も、政治的につくられた国境線だ。19世紀、南下するロシアとロシアの南下から植民地インドを防衛しようとするイギリスとのせめぎあいの中で緩衝地帯としてつくられた。

さて、ドブロブニクからネウムに出入りするときは、国境線を出入することになるので、警察官か入国管理官のような人がバスに乗り込んできてパスポートの提示を求める。



「いけねえ、パスポートはバスのトランクルームの荷物の中だ。運転手さーん、開けてください」という人や、「もしもし、これは運転免許ではありませんか。パスポートを出してください」と言われる人で、ひとしきりにぎやかなになった。

クロアチアは来年にはEUに加盟し、やがてパスポートなして欧州を旅することができるシェンゲン協定にも加盟する予定だ。そうなると旅慣れた欧州人がパスポートなしで大勢やってくるようになり、ネウムの国境はますますにぎやかになることだろう。



ネウムに入って間もなく、ホテルのようでもあり道の駅でもあるようなところでトイレタイム。なんとなくうらさびしい感じのところだった。



2 ザダルの城壁

ザダルはアドリア海に面した都市で、長い歴を持つ。ギリシャ系の部族の住みついて、町が始まり、ローマの植民地になり、ついでコンスタンティノープルの東ローマ帝国の州になった。



オスマントルコがコンスタンティノープルを占領し、さらにヨーロッパへ侵出してきたときも、ザダルはオスマントルコ軍の侵略をまぬがれた。ザダルはドブロブニクと同じように分厚い城壁で守られていた。城壁をくりぬいた通路は、壁の通路というよりはトンネルという感じがする。



ザダルには10世紀ころからクロアチア人が移住してきた。13世紀に悪名高い第4次十字軍がベネチアと組んでコンスタンティノープルを攻めた。そのとき、十字軍とベネチア軍はまずザダルを攻撃し、廃墟にしてしまった。

それからザダルはベネチア領になった。18世紀の終わりには、オーストリアがベネチアからザダルを奪った。間もなくして今度はナポレオンのフランスがオーストリアからザダルを奪い取った。オーストリアはナポレオンの没落後ザダルを奪い返し、第1次世界大戦のどさくさでイタリアがザダルを手に入れるまで、この街を支配した。



2次世界大戦後にザダルはユーゴスラビア連邦の一部になり、ユーゴスラビアが解体してからはクロアチアの街になった。そのさい内乱が起こり、ドブロブニクと同じように、ザダルも攻撃を受け、街が破壊された。

ザダルはヨーロッパ列強の国盗りの長い歴史に翻弄された街である。

ザダルの旧市街に入るメインゲートはベネチア支配時代の16世紀にベネチアの建築家が建てたものだ。凱旋門型のつくりで、門の真ん中が車両用の通路で、その左右に徒歩用の通路が設けてある。門の上部中央には有翼の獅子が刻まれている。サン・マルコのライオン――ベネチアの守護神である。



城壁の中は、ドブロブニクと同規模の広さで、中世の町の名残りを残している。街の中のどこへ行くにも10分とかからない。だが、ドブロブニクとくらべれば観光客は少なく、その分、街に生活の匂いが漂う。



3 ドナト

ドブロブニクからバスでザダールに着き、タクシーに乗りかえて、運転手にサービス・アパートメントの地図を見せたら、運転手が「ドナト」と言った。

ドナトの近くだということだったらしいのだが、正確には歩いて数分ほどドナトから離れていた。

小さな町だから徒歩数分の距離があるとドナトの近くとは言えない。もしそれが近くであれば、旧市街のどこもがドナトの近くということになる。

旧市街に入る門の前でタクシーから降ろされた。一般の車は旧市街の特別車道以外乗り入れられない。カートを引っ張って、旧市街の石畳を歩いた。



聖ドナト教会は9世紀に建てられた石造りの円筒形の変わった形の教会だ。かつてはダルマチア国の首都で、アドリア海沿岸の経済・芸術文化の中心だったザダルはこのあたりの宗教活動の中心でもあった。教会や修道院が沢山残っている。その中で最も有名なのがこの聖ドナト教会だ。ドナトはザダルのへそ的存在である。



9世紀に建てられたドナトの建物は、もはや現在では教会として使われていない。建物の内部はガランとした空間と建物を支える石の円柱があるだけだ。この空間は音響効果に優れていることから、コンサートの会場に使われたりしている。



ドナトの近くに聖アナスタシア聖堂があり、その隣におそらくは城壁内のザダル旧市街では一番高い建物であろう鐘楼がある。入場料を払えば鐘楼の上に登ることができる。



鐘楼からの眺めると、中世の街らしくオレンジ色の屋根をぬって細い道がはしっている。



鐘楼のうえで北海道大学の学生さんと会った。東欧史の勉強をしているので、土地勘を得るためにクロアチアにやってきたという。話をしている最中に、足元で鐘楼がすさまじい音をたてて鳴り始めた。展望テラスは鐘のすぐ上の階にあったのだ。



4 フォルム



アナスタシア教会の鐘楼から古代ローマ時代の広場・フォルムを見下ろせる。右手下にドナトの赤い屋根があり、左手奥にお土産屋の簡易建物群が見える。海岸通りの道路はザダル旧市街の道路の中で自動車が走れる数少ない道路の一つだ。その向こうに緑地と遊歩道があり、その先はアドリア海だ。



フォルムはかつてザダルがローマ帝国時代の一部だったころの名残りだ。庭園風のレイアウトで美しく整備されているが、ローマ市のフォルム・ロマヌムほどの規模はない。それでも、あちらこちらにかつての建造物の名残りが無造作に置かれて、浮彫のついたそれらの古い石が歴史を主張している。ともあれ、フォルムはザダル観光のポイントの一つなので、人だかりが絶えない。



古代ギリシャのアゴラも古代ローマのフォルムと同じような公共広場だが、フォルムというラテン語は英語に採り入れられてフォーラムとなり、様々な社会的機能を意味する語になった。アゴラの方はアゴラフォービア(広場恐怖症)という英語になって残っているだけだ。





5 フォークダンス大会

聖アナスタシア聖堂の鐘楼の上から、アドリア海に沈む夕陽を見よう思った。待っていると、民族衣装のグループが次々と通って行くのが見える。



ただぞろぞろと歩いて行くのではなくて、道路の適当なところで輪になって、道行く人に民族舞踊を披露している。



何かの宗教行事だろうか?

それはさておき、この日、鐘楼の上から眺めたアドリア海の入日は赤みが不足していた。残念、残念と、鐘楼の狭くて急な階段を下りて、海岸の遊歩道沿いに城壁の正門まで歩いた。正門から城外に出てすぐのところにある魚料理で有名な海沿いのレストランへ行った。

あいにく今日はたてこんでいましてご予約をいただいていないお客様には1時間以上お待ちいただくことなります、と受付が言う。

それはまた残念と、再び正門から旧市街に入り、手ごろなレストランを探しながら細い路地を抜けて広場にでると、そこでにぎやかな催しものをやっていた。広場に組まれた舞台で、民族衣装のグループが次つとフォークダンスを披露していた。



そこで、舞台が見えるレストランで夕食を楽しむことにした。レストランの店員さんに聞くと、ザダル近郊の地区ごとの代表がフォークダンスのパフォーマンスを競う大会を開いているということだった。

日本でいえば、夏の終わりごろの盆踊り大会のようなものである。夕方、聖アナスタシア聖堂の鐘楼から見た民族衣装の人たちは、街を練り歩き、最後にこの広場に終結していたのだ。

フォークダンスの饗宴が終り、夕食も食べ終えて、宿までぶらぶら歩いていると、別の広場にさっき舞台で踊っていた人たちが集まって来ていて、三々五々踊りを続けていた。舞台の熱気が冷めやらぬアフターアワーズ・パフォーマンスである。





6 ウォーターフロント



ザダルの旧市街は城壁に囲まれた中世の面影を色濃く残す小さな街だが、それでも街中には大学がある。

ザダル大学。14世紀につくられた神学校が発展したもので、大学の起源はクロアチアでは最古、ヨーロッパの大学の中でも古いものに属する。一時期はザグレブ大学の分校だったが、21世紀に入って分離独立した。

そもそもザダルの旧市街そのものが、米国のマンモス大学のキャンパスの中にそっくりおさまる程度の広さなので、その旧市街地内にあるザダル大学のキャンパスは猫の額のように小さい。



海のすぐ前に大学本部の建物が建っていて、窓を開ければ、海風に吹かれながら勉強できる。大学正門も海に面している。その正門前の岸壁で、海に向かって男がビット(鉄製の船舶係留杭)の上にすわり、両手で持ったほら貝を悲しげな表情でのぞきこんでいる――ブロンズ像がある。



どんないわれのあるブロンズ像なのか、詳しいことはたずねなかったが、人生の後半部分のほんの短い間、日本の大学で教えたことのある筆者には、「思えばいい加減な学術的ホラを若者相手にふいてきたもんだ」と悔悟の気持ちでいっぱいの退職大学教員の像のように見えた。



海岸の遊歩道を歩いて行くと、観光船の発着場があり、泳ぐ人が海に入って行くための階段があり、潮の力でパイプを鳴らす「シー・オルガン」があり、広場のコンクリートの敷き詰められた円形の反射板「太陽へのあいさつ」があった。

シー・オルガンの音は遊歩道のコンクリートにあけられた穴から響き出てくる。ブウォーという底鳴りのような響きである。



太陽への挨拶は夕日が沈む時、その実力を示した。あたり一面が真っ赤っかになったのである。



7 コルナティ国立公園

ザダルの沖合のアドリア海には、小さな島が寄り集まって群島を形成してるコルナティ国立公園がある。瀬戸内海国立公園と同じようなものだ。

ザダルの港から遊覧船に乗って、朝から夕方まで島々眺める一日遠足に出かけた。真っ青な海の中に、禿山のような小さな島々が無数に浮かんでいる。



島々の間をぬけて沖合に出ると、そこから先に島はなく、あとはむこうにイタリア半島があるだけだ。海はひたすら青く、その青さそのものはエーゲ海にひけをとらないが、海に散らばる島の風景はエーゲ海に及ばない。



たっぷり海を眺め、二つほどの島に上陸して散歩し、船内でまずい魚のフライと安物の白ワインのボトル1本の昼食を食べた。



お金のない人は乗合遊覧船で1日クルーズを楽しみ、お金をたっぷり持っている人は、これ見よがしに高速ボートで遊覧船を追い越してゆく。ああ、さぞ気持ちがいいことだろう。



8 街中散歩

ザダルのフォルムの一角にたつ「恥の塔」を見に行く。途中、アイスクリーム(正確にはジェラート)屋に寄ってみた。ザダルはそのむかしはローマ帝国の一部で、現代になると、第2次世界大戦中にイタリアに占領されていたこともあり、街中にピザ屋やジェラート屋が沢山ある。ピザやジェラートを食べながら歩いている人が多い。それも、ピザはともかく、絶対にアイスクリームやソフトクリームやジェラートが似合いそうもない、マッチョな感じのオヤジがジェラートをなめている。筆者もピザとジェラートを何度か試みたが、それほどうまいとは思わなかった。



「恥の塔」はそのむかし犯罪者をしばりつけ、公衆にさらした石の塔だ。さらしものにする刑は、心中がファッション化した江戸時代の日本にもあった。心中で二人とも果ててしまった場合は埋葬を許さず、一人だけ生き残った者は処刑、二人とも生き残った未遂者に対しては、徳川幕府おひざもとの江戸の場合、日本橋のたもとで3日間の晒し刑にしたそうだ。



柱といえば、旧市街の別の場所にも頭注飾りのついた立派な石柱が残っている。あたりの地下には、ローマ時代の遺構が埋まっているようで、一部が発掘されて公開されていた。



その近くに「5つの井戸」がある。16世紀にザダルの町がオスマントルコ軍に包囲されたさい、べネチアの応援で五つの井戸を掘って水源を確保した名残りだ。



というふうに街中を散歩していると、やがてのどが渇き、おなかがすいてくる。広場に出て、ランチをガス入りのミネラルウォーターで食べて、一休み。



おなかが落ち着くと、考古学博物館をゆっくりとみて歩く。たいていの観光客は屋外のほうが楽しいらしく、さほど有名でない考古学博物館では閑古鳥が鳴いていた。



日没近くなったころ、博物館を出て、アナスタシア聖堂の鐘楼にふたたび登った。この日の夕日はアドリア海を黄金色に染めた。



9 ナショナリズムと女



ザダルがオスマントルコ軍に包囲されたとき水源確保のために掘った5つの井戸がある広場に隣接して台地があり、その上が公園になっている。台地はもともと、城壁に設けられた砦の跡だった。



登って行くと大勢の人が野外パーティーを楽しんでいた。ロープが張られ、PRIVATNA ZABAVAPRIVATE PARTYと書かれた紙がぶら下がっていた。公園下の広場の近くのレストランから給仕人が食べ物と飲み物を運んでくる本格的なパーティーだ。



公園をくだって5つの井戸の広場に建つ塔に登り、ザダルの街の屋根を眺め、しばらくして塔を降り、5つの井戸の広場に戻ると、台地の上の公園から男女の一団がぞろぞろと下りてきた。



先頭の男2人が旗を掲げていて、よく見るとその1つがクロアチア共和国の旗で、旗の後ろに花嫁・花婿が続いている。あっ、そうか。結婚披露の野外パーティーだったのか。

それにしても国旗を先頭に結婚のお披露目行進とは。クロアチアでもナショナリズムが燃えさかっているわけだ。

ふとしたきっかけで、ザダルで観光関係の仕事をしているクロアチア人の女性と話したのだが、彼女の話では、ユーゴスラビア連邦離脱と独立をめぐる内戦以来、クロアチアではナショナリズムが蔓延する男社会になった。



彼女の嘆き節はこんな調子だった。

1990年代は国会議員に占める女性の割合は5パーセントあたりを低迷した。現在はやっと20パーセントあたりだ。25歳未満の若者の失業率は4割近くにのぼり、女性は能力に見合った仕事を得にくい。同じ仕事をしても女性の賃金は男性のそれより低い。家事育児は女性に押し付けられ、それが雇用機会の差別につながっている。女性の雇用は、パートタイムは契約労働のようなものが多い。そのいい例がわたしだ。大学院で博士号を取っているが教職や研究職につけず、パートタイムで観光事務所の仕事をし、子育てをしている。官庁や企業で決定権を握っているのはたいてい男性で、女性は家庭内暴力にさらされている。内戦がもたらした男社会の後遺症だ」

当然のことながら、彼女は非常にいらだった口調で話した。彼女の話の内容は日本でもしょっちゅう取り上げられることだ。状況が違っているのは、若者の失業率が4割近いということと、国会議員に占める女性の割合が20パーセントということぐらいだろうか。現在の日本の25歳未満の失業率は10パーセントと言われている。4割までにはまだ間がある。日本の国会議員に占める女性の割合はクロアチア以下である。列国議会同盟(IPU2009年)によると、クロアチアの国会議員に占める女性の割合は20.9パーセントで高い方から52番目、日本は衆議院議員に占める女性の割合が11パーセント、参議院議員では18パーセントで、ランキング97位だ。国連による女性の地位の全般的評価でも、クロアチアと日本の世界ランキングは似たようなものだ。国連は日本政府に対して、何とかしろよ、と改善努力を迫っているのだが、そこは「ぼんくらもよくぞ男にうまれけりとよあしはらの麗しき国」柄なので、ことは遅々として進まない。

そのうえ、「男女参画=ジェンダー・イクオリティー」が大嫌いなあの安倍晋三がまた首相に舞い戻ったのだから、日本の女性はまことに気の毒だ。


                     (写真・文 花崎泰雄
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