1 ストックホルムの秋時雨

時雨(しぐれ)は俳句歳時記によると初冬の季語だが、気象としては晩秋から初冬にかけて多くみられる現象である。とはいえ、それは晩秋・初冬に限った気象現象ではなく、私は春3月、京都で時雨を見たことがある。

東山の山裾のホテルの窓から京都の町を眺めていると、日が差したかと思うとやがて風にのって雪が舞い、その雪もほんのしばらくすると止み、まもなくまた日が差して京都の町が明るくなった、と思うままなく、また雪が舞い始めた。日差しと雪の矢継ぎ早な交代――雪時雨。俳句歳時記は晩冬の季語としている。

9月上旬、ストックホルムは秋時雨だった。



北の国では、夏と冬ははっきりした存在感があるが、春と秋が極端に短い。夏の終わりを感じさせる日と秋の深まりを感じさせる日がしばらく交互に続いたと思うと、間もなく晩秋から一気に初冬へ移ってゆく。9月上旬の朝、ストックホルムの勤め人は黒っぽい上着を着て通勤の道を急ぎ足で歩いていた。その姿の上に、空からパラパラと小雨が降り、傘をさす間もなく雨はやみ、弱い日ざしがもどった。雲が時に薄く、時に厚く、急ぎ足で流れ去っていく。

ストックホルムは20年ぶりだ。ことさら用件があってストックホルムにやって来たわけではない。つれあいがストックホルム郊外のある大学で開かれる会議に参加するので、「ワシも行く」とくっついてきただけのこと。彼女が会議に出席している間、こちらはあてもなく街を歩く。

ストックホルムの街も、海辺の風景も、その高物価も20年前の記憶のとおりだった。街の建物は整然として美しく、清潔感があった。街で見かけるデザインはスペインやイタリアのような南欧の街とは大いに違う、フランスやイギリスの街とも少し異なる、冷たいような機能美も強調されている。



晴れれば空は青く、その青さ加減は日本の青空と比べるととてつもなく深い青だ。スウェーデン国旗の青は湖の色だといわれているが、この空の色かもしれない。そうして、青空に浮かぶ雲がまた、愛嬌があって美しい。



街も景色も変わらない。あれから20年たって、大いに変わってしまったのは、私自身のほうだと気がつく。街を愛で、海を、空を、雲を愛でるくらいのことしか、もはややることがなくなった――まあ、これが悠々自適といえば聞こえはいいのだが。

マルクス・アウレリウスが『自省録』で、「人間はもうろくによるたわ言を口にするようになっても、呼吸し、消化し、心に思いを描き、物を欲する機能は停止したり、消滅したりすることはない。事物を洞察し、理解し、その本体に迫る精神力が肉体の衰滅に先だつ」と言っている(『世界の名著 13』中央公論社)。

さびしいことではないか。東洋の老人が北欧にやってきて、秋時雨のストックホルムの街を肩を落としてふらふらと歩いて行く。山頭火じゃないけれど、

  うしろすがたのしぐれてゆくか

さぞかし周りの人には、そう見えたことだろう。







2 ストックホルムの乞食

20年ぶりにストックホルムにやってきて、街を歩き回っているうちに、街の中に乞食の姿が目立つことに気づいた。20年前にストックホルムで乞食を見た記憶はない。

ストックホルム中央駅からクララベルグス通りをオーレンス百貨店のほうへ歩いていて、数百メートルの間に男女3人の物乞いを見た。コンクリトーの歩道に正座の姿勢で座り込み、体の前に空き缶や段ボールの小箱を置いて、通行人に向かって黙って両手を合わせている。

 

福祉国家のモデルとされるスウェーデンの福祉システムが、何らかの理由で崩壊し始めているのではあるまいか。一瞬だが、そう疑った。

だが、聞かされたところでは、スウェーデンで乞食の姿が街頭に目立ち始めたのは、ここ5年ほどの間のことだという。EUに新しく加盟した東欧の国、たとえばブルガリア、ルーマニアなどから物乞いがスウェーデンに来ているのだという。その中にはロマの人々が多い、と街では言われている。

日本は、乞食をしたり乞食をさせたりすることを軽犯罪法で禁止しているが、スウェーデンをはじめ、EU諸国の多くでは、乞食行為そのものを禁止する法律はない。EUの決まりでは、加盟国の市民は3か月間域内のどの国にでも自由に滞在できることになっている。したがって、スウェーデンにやってきて、3か月間は自由に路上で物乞いができる。

乞食行為を禁止する法律のないスウェーデンは、自由滞在期間の3か月を過ぎても乞食をしている人々を、外国人法によってその出身国に送還している。生活するためのまっとうな資金のない人として国外退去させるわけだ。しかし、形式上はそうであれ、乞食行為をとがめて国外退去させることについては、スウェーデン国内でも、域内移動の自由を保障したEUの精神に反するのではないか、と批判がでている。



スウェーデンは国民が高齢化する中で、これまで通りの福祉社会を維持するには、いずれ移民労働力に大幅に依存するしかないことを知っている。スウェーデンは気候に恵まれない高緯度の北国であり、一獲千金を夢見るには自由より平等を尊重する堅苦しい国であり、なによりも福祉のための負担が高い国である。移民は先進国でなく、多くは途上国からやってくる。路上の乞食の無慈悲な追放は移民に対する開放的な国であるというスウェーデンのイメージを傷つけるおそれもある。

それはさておき、そもそも故国で生活できず他国にやってきて乞食をするような人々が、どうやってストックホルムに来る旅費をねん出したのか? 乞食の背後にはひょっとして乞食を操作する組織があるのではないか、ともいう疑惑も出ている。

近隣のフィンランドも事情は同じ。このところ激しい勢いで乞食が増えていて、首都ヘルシンキでその姿が目立つそうだ。そうしたことから去年(2010年)、フィンランドで乞食行為禁止法を成立させる動きがあった。だが、結局、禁止法は成立しなかった。国内で賛否が割れたためだ。禁止法代わりに、いまのところしつこいもの乞いを公共秩序法で規制するにとどめている。





3 男と女

ストックホルムの街を歩いていて感じたことがある。それは日本という国の政治、日本人を名乗る人々の心性は、変化というものに対して臆病で、不便をしのびながら執拗に現状維持にこだわる性癖があるということだ。

ストックホルムの街角のあちこちで、ベビーカー、ベビーカート、ベビーバギー、要するに乳母車をおしている男性をよく見かけた。最近では日本でも乳母車をおす男の姿がちらほら見られるようになった。




だが、ストックホルムでは、男が二人して乳母車をおしながら歩いていた。スウェーデンは、男女の同棲、同性同士の婚姻関係や同棲に関して以前から法的な権利を認めていたが、ついに、2009年に婚姻法を改正して、それまでの婚姻法に書かれていた、結婚は男と女の間で行われるという趣旨の語句を削除した。

日本でいえば、憲法第24条「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し…」を「当事者の合意」と変更するようなものだ。

スウェーデンだけでなく、ヨーロッパには同性カップルに法的権利を認めている国が多い。

したがって、男二人が並んで乳母車をおす姿を、ひょっとして……と、ものめずらしげに写真に収めるようなことをするのは、日本から来たツーリストくらいなものである。




日本では1955年の法制審議会民法部会から始まった夫婦別姓(氏)の議論でさえ、いまだ決着がついていない。今の時代、結婚によって当事者の一方が使い慣れた姓の変更を余儀なくされるのは不便で困ったものだという勢力と、夫婦の姓が一つに統一されないと家族の結束が損なわれ、ついては社会が乱れるという勢力が、ぐだぐだ押し問答をくりかえしてきたからだ。

愚かしい話だが、反対派が金科玉条のように掲げる醇風美俗としての「家族」や「姓」にしても、もともと明治政府が国民に姓を名乗らせ、その姓に基づいて戸籍をつくり、その戸籍を徴税と徴兵の基礎資料にしたことから始まった。戸籍制度に基づいて家制度が確立し、国家が家を、家が個人を支配した。あのころは、日本は天皇を家長とする家族国家であるとの説が喧伝された。したがって戦後の新しい憲法は「すべて国民は、個人として尊重される」(第13条)とした。それにはそれなりの意味があったわけだが、いまだ個人は政治の単位として自立できないままでいる。




別姓反対論者は、たとえば、「スウェーデンでは離婚率が約50%だということだけはよく知られている。では犯罪率はどのくらいか、知っている人は少ない。犯罪数が人口当たりアメリカの4倍、日本の7倍。強姦が日本の20倍以上、強盗が100倍である(武田龍夫『福祉国家の闘い』中公新書、2001)。なんとスウェーデンという国は世界に冠たる犯罪王国なのだ。この驚くべき数字は高い離婚率や家庭育児の激減と決して無関係ではない。つまり家庭で子供を育てていないために親の愛情不足が生じ、それによってまず子供の犯罪が増え、やがて彼らが成人すると大人の犯罪が増える。共働きの増加と離婚率の増加と犯罪の増加は完全に比例しているのだ。つまり、夫婦別姓が離婚などの家族崩壊をもたらし、子供を犯罪化させるというのは、以上の統計的事実からも十分に予想できる事態なのだ」(林道義「そんなに家族を壊したいのか──『夫婦別姓』推進派のウソと本音」『正論』20021月)といったふうな粗雑な論理構成の議論を論陣を張る。

スウェーデンの離婚率約50パーセントというのは1年の離婚件数をその年の結婚件数で割った数字である。それを離婚率というのであれば、日本の離婚率は2009年を例にとると、離婚約253000件、結婚約714000件(厚生労働省統計)で、離婚率は35パーセントになる。国連の統計によると2007年の人口1000人あたりの離婚件数は日本が2.04件、スウェーデンが2.3件で、大きな違いはない。

それから、犯罪件数の比較だが、林の議論にも、そのタネ本になった武田の本にも統計の出典が示されていないので、確認のしようがない。OECDの統計によると、泥棒、強盗、性犯罪、暴行・恐喝など10種の犯罪の被害者になった人は、2005年の統計で、日本で1000人中人9.9人、スウェーデンで16.1人、米国で17.5人、英国で21.0人だった。犯罪数がアメリカの4倍という武田の数字とはいささか異なる。




強姦件数が日本の20倍という数字もどこから引用したのか不明であるが、統計によると、スウェーデンのレイプの報告件数はヨーロッパ諸国と比べてもたしかに高い。EUの資金提供で行われた2009年の調査では、人口10万人あたり46件のレイプが報告され、イギリスの23件の2倍になるという結果が公表された。アメリカ合衆国統計局の資料では同じ2009年、米国内のレイプ件数は10万人あたり29.80だった。

スウェーデン犯罪防止評議会(BRA)は、スウェーデンの異常に高いレイプ報告件数は、レイプの定義の拡大、積極的な被害届のすすめ、事件を精査する以前の被害報告受付件数の採用、といった統計処理上の手法の違いも一因だと説明している。

そういうわけで、スウェーデンのレイプ犯罪を法廷段階でみると、BRAの統計資料では、2009年にレイプ事件の裁判で有罪判決を受けたのは256人。人口10万人あたり2.7人となる。一方、日本では検察統計年報によると2009年に強姦有罪判決が662人に言い渡されている。人口10万人あたり0.55人だ。日本とスウェーデンの比率はだいたい15になる。武田説の強姦が日本の20倍以上という数字は、最終的には5倍に縮小されるのだ。

さらに、レイプ・強姦の定義が国によって異なるという要素もある。

『ニューヨークタイムズ』(2011.9.28)によると、

(アメリカ)のレイプの定義によると口、肛門への挿入や、ペニス以外のものを挿入、被害者がアルコールや薬物の影響下にある場合、あるいは被害者が男性の場合は、それらの性的攻撃はレイプとみなされない。この結果、多くの性的攻撃が連邦統計ではレイプに勘定されないでいる、と批判されている(“Rape Definition Too Narrow in Federal Statistics, Critics Say”)。

日本の強姦の定義もこれと似たようなものである。

スウェーデンのレイプの定義は、ウィキリークスのジュリアン・アサンジュのレイプ容疑報道でもわかるように、広範囲にわたっている。英紙ガーディアンの報道によると、アサンジュはストックホルムで2人の女性と合意の上で性行為に及んだが、女性が途中で合意を取り消したにも関わらず行為を続けた、ということでレイプの容疑をかけられた。相手の意に反してコンドームを使わなかった、使っていたが途中で裂けた、あるいはアサンジュが意図的に裂いた、などとも紙面で報道された。「スウェーデンの性犯罪の規定は世界一厳しいので、事前に文書で承諾書をとっておけ」というきわどい冗談がBBCのサイトに掲載されたほど、その定義は広範囲の性的攻撃を網羅しているのだ。(BBC News, 8 December 2010, “Julian Assange v Sweden's broad sexual laws”



どうも夫婦別姓に反対する日本の右派のスウェーデンたたきの話題に少々時間を費やし過ぎたようだ。いずれにせよ、統計数字というものは、自分の論旨を支えるために、都合のいいところだけををくすねてくることが多いので、うのみにはできない。

いまひとつ信用できないのが政治家の言動だ。夫婦別姓に反対している自民党の国会議員高市早苗も山谷えり子も、結婚していて正式な姓は高市や山谷ではないのだが、選挙の都合上、積み上げたキャリアを守るため旧姓を通称として使用している。

国会議員も勤め人と同じように通称を使うことができる。ただし、叙位・叙勲の申請、公用旅券発給申請・査証申請、歳費等の支給・源泉徴収票の発行などでは本名を使わなければならない。

わずらわしいなあ、と思いつつも、別姓反対論が票に結びつくのであれば、政治の場で旧姓を名乗りつつ、政治の場で夫婦別姓反対を叫ぶのである。

ストックホルムの雑踏の中で、何ともセコくて愚かで情けない意気地なしの日本人が思いだされてならなかった。





4 トイレット

ヨーロッパの多くの街とおなじようにストックホルムもまた、街なか散歩中のトイレさがしに探しに苦労するところだった。

公衆トイレはたいてい有料であり、それも旅行者にはなかなか目につきにくい場所にある。デパートにあるトイレも有料だ。博物館など入場料をとるところや、レストランなどでは無料で利用できる。ただし、マクドナルドのような店では、トイレを有料にしているところがあった。

トイレが少なく、それも有料であるということは、ヨーロッパ人の膀胱はでっかく、彼らはそのことに不便を感じないからだろうか。



中学校で博学な教師がフランスのベルサイユ宮殿には便所がなかったという話をしてくれたことを今でも覚えている。おまる=携帯用便器を使っていたのだ。ウィーンの王宮宝物館に、フランス王ルイ16世がマリア・テレジアに贈ったというオルゴールつきのおまる椅子があった、という話が池内紀・南川三治郎『ハプスブルク物語』(新潮社 とんぼの本)に出ていた。ウィーンに行ったさい見たいなと思っていたのだが、いざウィーンに行くとほかに見るものが多すぎで、ついにマリア・テレジアおまる椅子まで目がとどかなかった。

ギリシャで遺跡巡りをしたとき、古代ギリシャの遺跡とローマ帝国時代の遺跡が重なっている場所を見た。ローマ帝国時代の遺跡には水源から水を引いた水洗トイレの跡が残っていた。ローマ文明を受け継いだはずのヨーロッパで洗練されたトイレがつくられなかったのはなぜだろうか。江戸時代の日本では、糞尿が肥料として利用されたので、便所をつくりそこで用を足すことが多かったというのに。

ある日ストックホルムのデパートのトイレを利用した。トイレはクロークと併設されていて、トイレに入るには入口のゲートに10クローネのコインを入れる。するととロックが解かれてゲートのバーが動くしかけになっている。



そこまではよかったのだが、トイレの中に入って驚いた。女性が大勢いた。いけねえ、女姓用のトイレに入ってしまった、と元に戻り、入口の標識を探した。

これもまた、中学生のとき博識な教師から聞いた話なのだが、ドイツでは男用のトイレに「へーれん」、女性用には「だーめん」と書かれている。どうすりゃいいんだ、という冗談だ。スウェーデンはこれがHerrDamになるそうなのだが、入口のどこにもそのような文字は書かれていなかった。

スウェーデンには男女共用の公共トイレがたくさんある。別の日に使ったストックホルム中央駅のトイレも、ノルディック博物館のトイレも男女共用だった。イスラムのモスクは男女別々の場所で礼拝することを求める。国によっては、女性がモスク内で礼拝できないケースもある。日本でも女人禁制の山や、土俵がある。電車には女性専用席がある。そのような男女別を強調するところから、男女の敷居を政治主導で取り払おうと努めている実験国家スウェーデンにやってきて、男女共用の公共トイレに入れば、やはりドギマギする。もちろん、トイレは完全個室になっているのだが。

ところで、元国会議員の田中美智子の話(日本共産党のサイト掲載)によると、彼女が衆議院選挙で初当選した1972年には、国会内に女性のトイレがなかったそうである。アメリカ合衆国でもご同様で、1992年まで上院の議員フロアには女性用のトイレがなく、女性の上院議員は1階下の外来者用女性トイレを使っていたそうである。国会議員の約半数が女性であるスウェーデン国会の議員トイレはどうなっているのだろうか? はたして男女共用なのだろうか?







5 海風

「大男総身に知恵が回りかね」「小男の総身の知恵も知れたもの」。豪華巨大客船タイタニックも戦艦大和もあえなく海中に没した。

世界最古の現存する木造軍艦ヴァーサ号が保存・展示されているストックホルムのヴァーサ博物館へ行った。

この軍艦には戦歴がまったくない。建造されて海に出たとたんあえなく沈没したからだ。軍艦ヴァーサ号ストックホルムの沖合で祝砲を撃った後すぐ、突風を受けて横転、沈没してしまった。博物館の資料によると1628810日のことだ。

ヴァーサ号建造は当時のスウェーデン国王・グスタフ2世アドルフの命令だった。資料によると、ドイツ人の造船技術者が建造を監督し、完成までに2年かかったという。この木造軍艦は1200トン、船首から船尾までの長さが69メートルあった。ちなみに現代の巨大航空機ボーイング747の機体の長さが70メートルほどである。ヴァーサ号は3本マストの帆船である。また、マストのてっぺんから船底の竜骨までの高さは52メートルあった。



グスタフ2世アドルフはスウェーデン・ヴァーサ王朝の6代目にあたり、同王国の勢いが絶頂に達した時期の国王である。勇猛果敢な王様だったらしい。「北方の獅子」とあだなされていた。三〇年戦争に参戦し、1632年に遠征先のドイツの地で戦死している。

そのグスタフ・アドルフがヴァーサ家の家督相続をめぐって、いとこのポーランド国王と戦争をしたことがあった。そのとき、ポーランド攻撃の目的で建造された軍艦だといわれている。

ヴァーサ号には24ポンド砲6門がそなえられた。当時としては例外的な大鑑巨砲だった。これが災いして船体の上部が重くなりすぎて、突風であえなくバランスを失い海底の藻屑になりはてたというわけだ。

この木造軍艦が20世紀中ごろになって海底から引き上げられて復元・修復のうえ展示された。船体は700点以上の彫刻で飾られていた。いにしえの国王の威光をたたえる軍艦にふさわしい満艦飾だった。

かつてはヴァイキングの一翼を担って近隣の地を荒らしまわり、近世ヨーロッパで覇権を追い求めたスウェーデンが、現代では一転して武装中立の立場をとり、もっぱら内政面での実績で国際的な評価を高めている。

スウェーデンでは、最低25日の有給による年次休暇が、年次休暇法で保障されている。勤労者は原則として年次有給休暇を6月から8月の間にとることができる。フランスの有給休暇は年に30日を超えて世界最長だ。スウェーデンの有給休暇はフランスほど長くはないが、ある調査によると、平均24日の休暇を楽しんでいる。休暇取得率は9割近い。



スウェーデンでは勤め人の男性の85パーセントが育児休暇をとっている、とニューヨーク・タイムズの記事にあった(In Sweden, Men Can Have It All)。

その記事の末尾に、携帯電話のメーカーであるエリクソンの人事責任者の「かつての大学卒業生は高額の給与にあこがれたが、いまではもっぱら仕事と私生活のバランスを第一に考えている」という談話があった。

ティーパーティー運動のイデオロギーに賛同する人が少なくないアメリカの風土からすれば、スウェーデンはひ弱な国民甘やかし国家に見えるだろう。過度な自由競争社会に疲れ、富の偏在に憤ってオキュパイ・ウォールストリート運動に参加するアメリカ人には、スウェーデンの平等主義がまぶしく見えることだろう。

男女がどんどん育児休暇を取る世になれば、雇用する側は人のやりくりに追われ、そうした中で企業はどうやって生産性を維持するか工夫をしなければならない。筆者が勤め人をしていたころ、社内で有給休暇を完全消化しよう運動が行われた時期があった。そこでさっそく年次有給休暇を申請したところ、「今は困る」と上司に再考を求められた。

権利としての有給休暇を取るために、日本の勤め人はながらく私生活の都合を工夫しなくてはならなかった。雇う側が雇人を休ませるために、企業の側の都合のつじつま合わせをする時代がスウェーデンでは到来している。これに快哉を叫ぶ人もいれば、経済の失速を懸念する人もいる。

日本の場合、1997年に53.8パーセントだった年次有給休暇消化率が、10年後の2007年には46.6パーセントに低下している。育児休暇についは推して知るべし。昔むかし、4月の入社シーズンに有名企業の社長訓示が紹介されるなか「会社は社会だ」とのたもうた企業トップの訓示が紹介されていた。日本には心配性で社会意識に敏感な人が多いらしい。







6 食いっぱぐれたノーベル・ランチ

ストックホルムで運河めぐりの遊覧船に乗っていたら、船内の観光案内がこんな話を流していた。

スウェーデンの児童文学作家、アストリッド・リンドグレーンの著書は世界中で翻訳・出版されているのに、彼女にノーベル文学賞が贈られることはなかった。なんだか大変悔しそうな調子だった。案内放送の原稿を書いた人はリンドグレーンのファンだったのだろう。



今年は久しぶりにスウェーデンの詩人トーマス・トランストロンメルにノーベル文学賞が贈られた。ノーベル文学賞を贈られた作家の使用言語は英仏独西が多く、それにスウェーデン語、イタリア語、ロシア語とヨーロッパの言語がほとんどだ。ヨーロッパの言語以外では日本語の2人が最多で、あとはトルコ語、中国語など各1。ノーベル文学賞には使用言語についての偏りがある。



中国から来た留学生が日本語で書いて芥川賞を獲得する時代だから、アジアの人がアメリカやヨーロッパに留学して、英仏独語などで小説や経済学の本を書いてノーベル賞を獲得する日がやがて来るかもしれない。

ノーベル賞の時期になると日本のメディアは大騒ぎする。筆者はキッシンジャーや佐藤栄作がノーベル平和賞をもらったあたりから、ノーベル賞に対する敬意を失っている。キッシンジャーと一緒に受賞の指名を受けたレ・ドク・トは受賞を断っている。この人の方がまっとうで偉い。あとでメディアが暴露したところでは、佐藤栄作の方はあからさまな受賞工作をしておりスキャンダルに近かった。

ストックホルムのガムラスタン(旧市街)にあるノーベル・ミュージアムを見に行った。ミュージアムの中にビストロがあって、そこのランチをひろばが見えるテラスで食べている人がいた。こんなところでよくものが食えるな――筆者は感心したものだ。



ノーベル賞ゆかりの料理はストックホルム市庁舎内のレストランで食べられる。予約して、一食1万円余りを出せば、歴代のノーベル賞授賞晩餐会の料理を再現して食べさせてくれるそうだ。市庁舎はノーベル賞晩餐会の会場に使われる。

昼間は安いランチを提供しているというので、土曜日に市庁舎見学の後、そのレストランへ行ったが、土日休業の表示が出ていた。

観光客に飯を食わせるために土日まで出勤して働く気にはなれない――自分を大事にするスウェーデンの人は、訪問者にとっては少々くえないところがある。





7 新ストックホルム症候群

日本の財政法では建設国債は認められているが、歳入不足を補てんするための赤字国債は認められていない。したがって、政府は予算を組むにあたって1年限りの特例公債法を国会で議決してもらい、赤字国債を発行している。

その特例公債法可決が延々と続き、財務省のサイトによると、2011年度末の赤字国債の残高は418兆円に上る。厳格な財政規律の視点からいえば、この金は本来税収増でまかなわれるべき金額だった。

この国債をこれまで買ってきたのは日本国内の郵便貯金、銀行、生命保険、簡易保険、年金基金、日銀など。海外の国際保有は全体の7パーセント程度である。



日本国民の預貯金などが国債の買い入れに充てられているわけだ。日本人の貯蓄の目的は、①病気や不測の災害への備え②老後の生活資金③子どもの教育資金④特定の目的はないが貯蓄をしておけば安心できる⑤子どもの結婚資金⑥耐久旧消費財購入のため⑦遺産として残すため、の順に高い(2007年金融広報中央委員会)

不確かな将来への国民の備えが、銀行その他を通じて“現在の”政府の政策遂行の資金に使われている。うかつに増税を口にすると選挙民に嫌われる。政治家はそう思っている。したがって、歴代の政権は多重債務を連想させるやり方で歳入不足を補ってきた。いずれ破たんがやってくるのは間違いない。

税と社会保険料の支払いが国民所得に占める割合を国民負担率という。日本の財務省の資料では2008年には、米国32.5%、日本40.6%、英国46.8%、ドイツ52%、スウェーデン59%、フランス61%だった。

平均的アメリカ人は総収入の7割弱を使って生活し、日本人は総収入の6割、スウェーデン人はその4割で暮らしている。



先に書いたように、日本人の貯蓄の三大目的は、①病気や不測の災害への備え②老後の生活資金③子どもの教育資金だ。スウェーデンを紹介した各種資料によると、この3つの心配については、あらまし国家が面倒を見てくれるそうだ。だから、スウェーデンの人は国民負担率の高さをそれほど気にしていないといわれる。

20081116日の英紙 Observer'Where tax goes up to 60 per cent, and everybody's happy paying it’ という見出しの記事があった。

そのなかのさわりの部分を紹介しよう(ちょっと長く翻訳が面倒なので原文のまま引用。記事全文はこちらから)。

But for most Swedes paying high taxes is a benefit, not a problem. 'I am very happy to pay high taxes because I know I am getting value for the money later on,' says Valentina Valestany, a 39-year-old legal adviser.

Nicholas Aylott, a 38-year-old British lecturer, is working as a political scientist at Stockholm's Södertörn University College.

He says. 'Most people trust the state to manage taxes well. There's a broad, deep faith that the money going into the welfare state will be employed usefully.'

'Swedes are very attached to the idea of the state as the People's Home. Everyone in society is under the same roof, everyone will be protected. Sweden is now a more diverse society, but this idea still persists.'



Aside from universal kindergarten coverage, Swedes enjoy free schools - public and private - free health and dental care for under-18s, or generous personal benefits such as a child allowance of £1,080 a year per child.

But the most eye-catching benefit is probably parental leave. Parents enjoy a joint parental leave lasting 480 days. For 390 days they receive 80 per cent of their income, capped at 440,000 kronor a year (£35,800), while for the remaining 90 days they receive 180 kronor (£14.60) a day.

Very broadly, 'If you earn the average salary of 260,000 kronor (£21,200) a year, you will receive about 55 per cent of your salary as pension,' says Arne Paulsson, a pensions expert at Sweden's Social Insurance Agency. 'About 90 per cent of Swedes have occupational pensions on top of that, which amounts to 15 per cent of their salary. So in total, people get about 70 per cent of their income when they retire.'

There is also a guaranteed minimum pension for those who have not worked enough to qualify for the state pension. Depending on personal circumstances, it can be at most 6,381 kronor (£514) a month for a married person and 7,153 kronor (£576) a month for a single person. You can start drawing on it from the age of 65.



結構なことではないか。国民負担率が4割から6割に上がっても、日本やアメリカのように、金のある奴は「我利我利亡者」になって、極貧の者が「ガリガリ亡者」になってあえぐような国に暮らすよりよほど精神衛生に良い。

そこで、『オブザーバー』の記事全文を読んで、「日本もスウェーデンのようになるべきだ」と、もしあなたが短絡的に叫べば、あなたは「新ストックホルム症候群」に見舞われている。

落ち着いて考えてごらんなさい。国民が納めた税金その他を、国民の将来の生活のために、今の日本の政府がしっかりとマネジメントしてくれると信じる根拠がどこにありますか?



福祉国家スウェーデンに批判的な人が、「日本はスウェーデンにはなれない」と主張するのは、日本の政治家はスウェーデンの政治家ほどできがよくないことを知っているからである。





8 ウィーンの匂い

ストックホルムからウィーンへ行った。



朝、ホテルで、
「パレスはどう行けばいい?」
とたずねると、
「どのパレスですか? ここにはパレスがいくつかあります」
という返事が返ってきた。京都へ行って、
「離宮はどう行けばいい?」
とたずねて、
「桂離宮ですか? それとも修学院離宮ですか?」
と聞き返されるようなものだ。



まず、ウィーン市街の中核であるリンク内にあるホフブルク宮殿を見に行った。宮殿の前の広場で、なにかを設営しているような、設営を撤去しているような作業をごちゃごちゃやっていた。

その前の道を小型四輪馬車・フィアクルの列がポカポカ走っていた。馬車が通ると、えもいわれない匂いが漂ってきた。18世紀から19世にかけてのウィーンの匂いである。



ウィーンの名刹・聖シュテファン寺院に行った。「セント・スティーヴン」という声が聞こえた。天安門で「ティエンアンメン」「テンアンモン」という声が聞こえるのと同じだ。

シュテファン大聖堂周辺の路上でも、同じ匂いが鼻をついた。ホフブルクのやつよりもっと強い。この近くにはフィアクルの乗り場があって10台近くの馬車が集合していた。あたりの石畳が濡れて光っている。

芭蕉が『奥の細道』で「蚤虱馬の尿する枕もと」と句を詠んでいる。糞尿も芭蕉の手にかかると風雅のタネになると彼のファンは思っている。だが、シュテファン大聖堂の空気を吸って、さぞ芭蕉は臭い思いをしながら、句を作ったのだろうなと、彼のやせ我慢に感心したものだ。芭蕉が馬の小便の匂いに包まれて、寝苦しい夜をすごした場所は、尿前の関あたりだ。尿前は「しとまえ」、芭蕉の句の尿は「ばり」と読むそうである。

さて、シュテファン大寺院の近くには路上にカフェがしつらえてあり、大勢の観光客が「ばり」の匂いに包まれて、コーヒを飲み、軽食を食べていた。

観光地図を見ると、ウィーンのリンク内にはこうした馬車の乗り場が5ヵ所ほどあった。日本の観光地に人力車が走っているのと同じだ。人間が人間を乗せて軽車両を引っ張る風景にはどこか抵抗を感じる。馬が車を引っ張る風景にはそうした感じがないが、とにかく臭い。



ウィーンは1819世紀の匂いに満ちていた。

                             




9 美術史博物館

ホフブルク宮を背にしてリンクシュトラーセを渡ると広場があり、マリア・テレジアの大きな像が観光客を見下ろしている。「ようこそウィーンへ!」といわんばかりのポースだ。マリア・テレジアの像があるので、アリア・テレジア広場。



マリア・テレジアはハプスブルク朝の君主の中では、現代オーストリアで人気の人だそうだ。彼女はオーストリア帝国を強勢大国にするために開明的政策を採用した。

ついでにというか、マリア・テレジアは、女性関係にだらしない夫フランツ・シュテファンに辟易して、厳しい性道徳令を敷いたことでも有名だ。

悔い改めない売春婦を矯正収容所に送り強制労働に従事させた。島流しにもした。男に対しても厳しく、貞節委員会を設けて、男どもの衝動的な性行動を貴賤の差なく監視させた。そのころのマリア・テレジアの都ウィーンには、上から並まで15千人ほどの娼婦がいたそうだ。

マリア・テレサの娘がマリー・アントワネットで、この女性も夫のセックスに悩まされた。彼女は10代の少女のころ、将来ルイ16世と呼ばれるようになるブルボン王家のこれまた十代の皇太子と政略結婚させられる。だが、結婚初夜はセックスレス。その次の夜も、また次の夜も。シュテファン・ツヴァイクの『マリー・アントワネット』によるとこういうことだ。夫であるブルボン家の少年の方がうまくできないのだ。その話がマリア・テレジアに伝わり、彼女は医者に意見を求める。マリー・アントワネット様のようなお方が傍らにいらっしゃりながら、それができないということであれば、その症状はどんな薬でも治せませんと、医者は言う。

フランス側とオーストラリア側であれこれ調べを進めたところ、問題は皇太子の包茎にあったことが分かった。それでみんなで手術を受けるよう皇太子を説き伏せようとするのだが、優柔不断な皇太子は首を縦にふらなかった。

マリー・アントワネットと結婚してから7年、すでにフランス王になっていたこの男がやっと手術を受け入れたが、すでにマリー・アントワネットは世間のクスクス笑いの種になっていたのだ。この間、マリア・テレジアの怒りがおさまることはなかった。娘の性事はその母親にとっては政治だったからだ。

マリア・テレジア広場の両側に自然史博物館と美術史博物館が向かい合って建っている。

ストックホルムからウィーンの空港につき、空港バスで市内に行くさい、名古屋から来た大学院生とバスを待ちながら話した。美術史専攻で、その研究旅行ということだった。ウィーンの美術史博物館で研究し、そのあとパリに出てルーブルでまた研究する。この院生さんに触発されて、筆者も美術史博物館を見てみようという気になった。



19世紀末に建てられた美術史博物館は建物自体が美術品である。東京国立博物館の平成館などはこの建物を見た後では、美術品倉庫にしか見えない。

この博物館は2階に絵画ギャラリーがあって、そのコレクションは1518世紀の欧州名画だ。パリのルーブル、マドリッドのプラドと並び称されている、そうだ。美術にはくらいが、美術全集に出てくるブリューゲルの絵のあれこれや、フェルメール、ラファエロ、デューラー、クラナッハなどの名が次つぎに出てくる。



ギャラリーの内部はゆったりと絵を眺めることができるようにスペースがゆったりととられ、そこに置かれている休憩用の長椅子も贅沢な感じだ。日本の美術館では木製のベンチが多用されている。



午後遅く、閉館時刻がせまる時間帯だったせいか参観者が少なくゆったりできた。そのせいでハイクラスな美術館という印象がよけいに強まったのだろう。

筆者が一番うらやましく思ったのは、実は、展示されている名画ではなく、3階から見下ろした2階のカフェだった。

博物館の中央階段を2階にあがるとそこがカフェで、その左右に絵画ギャラリーが広がっている。その日カフェは早めに閉店し、博物館閉館後のディナーのセッティングを進めていた。そのセッティングはヨーロッパの洗練。



こんな素敵な場所でいただくディナーはどんな味なのだろうか。





10 国立歌劇場

ウィーンの国立歌劇場へ行った。といっても、オペラを見に行ったわけではない。オペラ、コンサート、歌舞伎、能、演劇、などなど、私の趣味ではない。歌劇場の建物を見に行ったのだ。



リンク通りを歩いていると公園があり、モーツァルトの立像があった。像の前に芝が植えられ、芝の中に赤い花でト音記号が描かれていた。

モーツァルトを眺めながら公園を出ると、道路沿いになんだか尊大に構えた男の座像があった。台座にゲーテと書かれていた。さっき見たモーツァルノトの軽やかな立像にくらべ、いささか鈍重な座像だ。



しかし、なぜウィーンにゲーテの像が飾られているのだろうか。ゲーテの名とその著書は試験のために覚えたが、本は読んだことがない。しかし、東アジアの片隅にある国の少年が試験のために著書のタイトルを暗記するぐらいだから、同じドイツ語圏であるウィーンに銅像があっても不思議ではなかろうと納得することにした。

アドルフ・ヒトラーはオーストリアのリンツ近郊の生まれで、一時期オーストリア人だった。だが、さすがにヒトラーの像を造ろうという酔狂な奴はいない。

ゲーテの像の近くに国立歌劇場の建物があり、ほんの少し待てば日本語のガイド付き建物内部ツアーがあると書いてあった。



国立歌劇場は第2次大戦で建物の一部を残して破壊されたが、それを復元したそうである。建物の中では、その夜の出し物の舞台が組み立てられていた。オペラが好きな人には、この写真を見ただけで、出し物のタイトルがわかるだろう。



ガイドさんによると、オペラをやればやるほど国立歌劇場は赤字になるという。文化催事とはそういうものだろう。国立歌劇場を使った催事で黒字になるのは、冬季恒例の大舞踏会だけだとガイドさんが説明してくれた。よほど高額な参加費をとっているのだろう。




11 カフェ

ウィーン国立歌劇場の隣にザッハー・ホテルがある。ホテルそのものの知名度もさることながら、このホテルは付設のカフェ・ザッハーで供し、また、売店で売っているチョコレート・ケーキ、ザッハー・トルテで有名だ。



むかし中欧に出張した職場の同僚が航空便でザッハー・トルテを職場に送ってくれたことがあった。職場のみんなで切り分けて、濃厚な味を賞味した。会社のビルの地階に喫茶店があって、そこでもチョコレート・ケーキを食べさせていたが、食べくらべてみると、なるほどウィーンからの到来ものの方がうまかったという記憶がある。

そういうわけで、一度はウィーンに行って、カフェ・ザッハーでチョコレート・ケーキを食べてみたいものだとかねがね思っていた。

カフェ・ザッハーで食べたザッハー・トルテにはホイップクリームが添えられていた。濃厚なお菓子をさらに濃厚かつなめらかな味にして食べるのだ。



カフェの室内装飾はどちらかと言えばクラッシクな雰囲気だった。飲み物を注文する言葉も、ドイツ語よりも英語の方が多かったので、客の多くが当然ながら外国から来た観光客だったようだ。

カフェ・ザッハーの近くにカフェ・モーツァルトがあって、こちらも有名なカフェだ。モーツァルトが死んで数年後にできた老舗のカフェだと聞いていたので、ついでに行ってみた。屋内ではなく、屋外のテラスでコーヒーを飲んだ。コーヒーを飲むことが観光になるのだから、さすがにウィーンはカフェ文化の町だ。だが、コーヒーそのものはさほどうまくない。



カフェを出るとき、とあるテーブルの上に食べ残しのシュニッツェルを見た。残っているのはシュニッツェルのころもの部分だった。健康を気にする客だったようだ。シュニッツェルのころもをはいで、中の薄い牛肉だけを食べてはたしてうまいものなのかどうか。

そうだ。シュニッツェルも食っておかねばならないと、その日の夕食はウィーン名物の子牛のカツレツを食べることにした。



シュニッツェルもウィーンで観光飲食したいと思っていたものの一つだった。だが、じっさいに食べてみると、ウィーンのシュニッツエルより銀座の煉瓦亭のポーク・カツレツの方がうまいということがわかった。だが、ニッポンのギンザにいって、レンガテイのポーク・カツレツを食べてみたいものだと思っている外国人観光客は、もちろん、ウィーンのシュニッツェルのばあいほど多くはないだろう。




12 会議は踊る

「会議は踊る。されど進まず」とは、ヨーロッパをかき回したナポレオン戦争の後始末のために18149月から18156月までつづけられたウィーン会議の評である。



ウィーン会議の主要な舞台がシェーンブルン宮殿だった。議長役のオーストリア外相メッテルニヒ、ロシア皇帝アレクサンドル1世、イギリス外相カースルレー、プロイセン首相ハルデンベルク、フランス代表タレーランらが集まり、それぞれ腹にいちもつを秘めながら、権謀術数に満ちた宴会のさかずきと舞踏会のあいまに外交を展開した。

ウィーン会議の続行中の19152月に、ナポレオンが島流しにされていた地中海のエルバ島から手勢を引き連れてフランスに捲土重来し、再び皇帝の椅子に座った。このナポレオンの百日天下がなかったら、ウィーン会議はもっとながく踊り続けていたかもしれない。

ナポレオンのエルバ島脱出のくだりは、学校で習った。英語の先生からは、“ABLE WAS I ERE I SAW ELBA”という英語の回文を習った。

歴史の先生は、ナポレオンのパリ進軍にしたがって、当時のフランスの新聞が見出しを変えていったことを教えてくれた。「人食いがねぐらを出た」「コルシカの鬼が上陸」「暴君リヨンを通過」「簒奪者、首都まで数百キロ」「ボナパルトは決してパリには入れないだろう」「ナポレオン、明日我らの城壁下に」「皇帝がフォンテーヌブローに到着」「皇帝陛下は昨日、テュイルリー宮に入城した」。ウィーン会議の性格は保守的で、フランス革命とそれに続くナポレオンの支配によってヨーロッパに生まれようとした変化を押しとどめ、王制再建をもくろんだ。歴史の先生はそうも教えてくれた。



高坂正尭『古典外交の成熟と崩壊』(中央公論社、1978年)はウィーンのあり方を古典外交のお手本として評価している。フランス革命やナポレオンがやったようなナショナリズムによって人々を動員して強力な中央主権制を敷く手法を危険視して、あくまで緩やかな貴族政治の伝統を守ろうとしたのが、ウィーン会議に集まった貴族たちだった、と高坂は説明している。貴族たちにとっては、社交も外交も同じく遊戯であった。理念や情熱に翻弄されないで、ほどほどのあたりに着地点を見出す優雅な保守性に高坂はぞっこん惚れ込んだようである。

ウィーン体制の構築については、ヘンリー・キッシンジャーも1954年に博士学位論文で書いている。(日本語版は『回復された世界平和』原書房、2009年)。「革命的秩序よりも健全な正統性秩序」、そして何よりも「勢力均衡」を、ナポレオン戦争後のヨーロッパ国際秩序の柱にしたのが、ウィーン会議の主役だったメッテルニヒとカースルレーだったというお話だ。

お正月、お暇であれば、高坂の本とキッシンジャーの本を読み比べてみるのも一興だろう。



シェーンブルン宮殿を見に行った。宮殿前の道路にまるでここは北京かと思わせるようなタクシーがいた。いろんなものが国境を越えあう今となっては、優雅な貴族的古典外交が教えるてくれる教訓など、ノスタルジアであっても、再生利用な手法にはなりえないだろう。キッシンジャーは同書の中でこう言っている。「歴史的出来事は、本質的に一回限りのものであるという主張に見られるとおり、歴史的経験からひき出された結論が正しいかどうかについての疑問が残る」。





13 フルシチョフ対ケネディ

前回引き合いに出した『回復された世界平和』の序論の冒頭で、ヘンリー・キッシンジャーは次のような感想を述べている。

「熱核兵器による人類絶滅の脅威にさらされている時代から見れば、外交がそれほどひどい罰をもたらさなかった時代、すなわち、戦争が限定され、破滅などほとんど考えられなかった時代に懐かしさを感じたとしても驚くにあたらない」



19世紀初頭のウィーン会議から1世紀半、互いに相手を絶滅させるだけの熱核兵器を抱え込んでいた2つの超大国、米国とソ連の最高指導者がウィーンで火花を散らした。フルシチョフとケネディの1961年のウィーン会談である。

フルシチョフとケネディのウィーン会談は63日の土曜日から4日の日曜日にかけて、両国の大使館で行われた。

1894年生まれのニキタ・セルゲイヴィッチ・フルシチョフはこの時67歳。労働者の家に生まれ、ソ連共産党内の権力闘争を巧みに泳ぎ切り、スターリンの死後、べリア、マレンコフとの権力闘争に勝利して、1956年には秘密報告「スターリン批判」を行い、この時ソ連共産党第1書記兼首相の地位にあった。

1917年生まれのジョン・フィツジェラルド・ケネディは44歳になったばかりだった。アメリカ大統領に就任してまだ5ヵ月だった。金満家の親を持ち、親の金で政治家になるべく育てられたケネディは、大統領就任早々にピッグス湾事件でその手腕にミソをつけたばかりだった。

手練手管にたけた筋金入りの闘士型ソ連首相と米国のお坊ちゃん大統領の会談にあたっては、アメリカ国内にも時期尚早と危ぶむ声があった。ウィーン会談についての当時の報道では、ケネディはフルシチョフを相手に丁々発止と渡り合ったことになっている。だが、今では、側近の資料などから、ケネディはフルシチョフにとってボクシングのスパーリング・パートナーのようなものであったことが明らかになっている。

ベルリン問題で意見が鋭く対立したとき、「ソ連は平和を望んでいるが、アメリカが戦争をしたいのであれば、それはあなたの勝手だ」と、フルシチョフはケネディを恫喝した(マイケル・ベシュロフ『危機の年』飛鳥新社、1992年)。

フルシチョフ自身はケネディについて、ケネディは物事について自分の意見を持っており、アイゼンハウアー前大統領よりもましな政治家だったが、力を誇示しようとするところがあった、と『フルシチョフ回想録』に書いている。



ケネディとその政権を柔弱と感じたフルシチョフは、その後間もなく、冷戦の象徴となったベルリンの壁を築かせ、1962年にはキューバにミサイルを運び込んだ。この時のキューバ危機で、全世界が熱核戦争による世界の終末が現実になるという恐怖におののいた。

ケネディは1963年に暗殺された。フルシチョフの方は、その翌年の1964年にブレジネフらが企てたクレムリンの宮廷クーデターによって失脚した。フルシチョフに対する批判・いいがかりの一つがキューバに核ミサイルを持ち込もうとした冒険主義と、粗野な外交姿勢だった。

米ソ首脳会談第1日が終了した土曜日の夜、オーストリア政府がシェーンブルン宮殿で米ソ両首脳を歓迎する晩餐会を開いた。アーサー・シュレジンガー『ケネディ』(河出書房、1966年)によると、フルシチョフはケネディ夫人ジャクリーンに向かってさかんに軽口をたたいてみせたそうだ。ジャクリーンもこれに応じて、大気圏外に出て帰還した犬が子犬を生んだそうですが、一匹いただけませんでしょうかと、軽口の相手を務めた。

2ヵ月後、ホワイトハウスにソ連から子犬が届けられた。「どうして犬が来たのかね」と大統領が尋ねた。「私がウィーンでフルシチョフに頼んでしまったのよ。ちょうど話すことがなくなってしまったものだから」。大統領夫人が答えた。『ケネディ』でシュレジンガーはそう物語っている。どこか、19世紀のウィーン会議の残滓としての外交的遊び心がうかがわれるエピソードだ。

この時期、宇宙にロケットを飛ばす競争ではソ連がアメリカに一歩先んじていた。そこでケネディは大統領選にあたって、アメリカはICBMなどミサイル開発でソ連に後れをとっているというミサイル・ギャップ問題を声高に叫び、アメリカ国民の危機感を煽った。



ケネディ政権発足直後、ロバート・マクナマラ国防長官がミサイル・ギャップの問題を精査した。マクナマラは確かにミサイル・ギャップが存在していることを確認した。だが、大統領や一般社会の見方と違って、米国がそれに対して優位に立っているという結論だった。そのことをマクナマラは『マクナマラ回顧録』(共同通信社、1997年)に書いている。

アメリカがミサイルの数量でソ連に後れをとっていると喧伝していたのは空軍で、CIAは空軍の見方に批判的だった。ケネディはアイゼンハウアー政権が国防努力を怠ったと批判するために、空軍の見解を利用した。大統領選挙の競争相手はリチャード・ニクソンで、彼はアイゼンハウアーの副大統領だった。

シェーンブルン宮殿は建物も庭園も壮麗である。宮殿が壮麗に見えるのは、歴史の記憶が見る側にあるからだ。宮殿から歴史の記憶を差し引くと広大な映画のセットと同じである。




14 ウィーン大学

地下鉄でウィーン大学へ行った。ショッテントア駅でおりて、駅の案内所でウィーン大学はどこかとたずねた。「この上だよ」と、係の人が天井を指さして言った。「社会学科はどのあたりだろうか」とたずねると、「あんた、ここは地下鉄の案内所だよ。大学のことはよくわからん」と言った。それはそうだ。

地上に出て、たぶんこっちの方だろうと地図を頼りに見当をつけて歩き出した。路上喫茶があったので、コーヒーを頼み、ウィーン大学はいずこにありや、とたずねた。ほらそこに、とウェートレスが道路の向う側を指さした。古風な建物のドームと屋根が見えた。



尋ねる学部の場所を大学本部で聞いた。レセプションの人が、本部の建物からちょっと離れた別の建物にある、と教えてくれた。この玄関前の通りをすぐ左手に折れて、しばらく歩くと社会学科が入っている建物がある。マクシミリアンというカフェが一階にあるので、すぐわかるよ、と言った。

「カフェ・マクシミリアンがあるのですぐわかるよ」とは気に入った。日本でいえば、牛丼の吉野屋があるのですぐわかるよ、といったところだろう。江戸以来の丼文化になじんだ日本では、大学のキャンパスに吉野家が似合う。オスマン・トルコ軍が残していったコーヒーをもとにカフェ文化の街を育てたウィーンの大学は、やはりカフェか。

大学に用があったのはつれあいの方で、私は彼女の用件がすむまでカフェ・マクシミリアンでコーヒーを飲んだ。ウィンナ・コーヒーはウィーンにはない。よくそういわれる。メランジェという名の、カプチーノに似たコーヒーが多分、いわゆるウィンナ・コーヒーに近いのではないかといわれている。

都会の街中の大学はいいよね。筆者が教えていた大学は湿地帯を埋め立てたところにあった。不等沈下で研究室の床にひび割れが生じていた。キャンパスの周りには、ラーメン屋とファミリー・レストランがあるきり……ま、戦後できた日本の駅弁大学とドイツ語圏最古といわれる由緒あるウィーン大学を比較してもせんないことではある。

ウィーン大学に学生としてあるいは研究者として籍をおいた人で、ノーベル賞を受賞した人は十指に余る。シカゴ大学、ハーヴァード大学、コロンビア大学、ケンブリッジ大学といった米英の常連大学には及ばないが、日本のどの大学よりも多くの受賞者を出している。




そんなことよりも、ウィーン大学という名前が私の記憶に残るのは、精神分析のジクムント・フロイトや、経済史のヨーゼフ・シュムペーターがウィーン大学の卒業生だからだ。また、フリードリッヒ・ハイエクもウィーン大学の出身で、ノーベル経済学賞を受賞している。

ハイエクは一時期シカゴ大学で教え、ハイエクの影響でシカゴ大学はネオリベラリズムの方の新自由主義の牙城になった。この人は民主主義と市場経済に固執し、徹底した社会主義嫌いで、ケインズ主義による政府の介入も批判、平等を極度に強調する福祉国家論を軽蔑した。経済学という実学におのれの政治信条を紛れ込ませているのではないかという気がする。シュムペーターの方は、資本主義は爛熟のすえシステムの肥大化・官僚化へと進み、やがて社会主義へ移行していくと、『資本主義・社会主義・民主主義』でその因果関係を説いた。こちらは一種の決定論である。

経済学で育った人は人間の世の中を生産、分配、効用といったもので説明しようとし、政治学で育った者は、権力、主権、領土といったようなものを手がかりに解き明かそうとする。それでお互い話が通じにくくなる。それに、どちらの側の説明も最近のものは複雑で頭によく入らない。

それはさておき、ある時期、ウィーンは世界屈指の学術・文化都市だった。19世紀末のヨーロッパを吹いた「世紀末」ブームの風はウィーンにも届き、「世紀末ウィーン」としてその名をとどめることになった。

世紀末ウィーンの芸術を代表するのがクリムトのこの絵『接吻』である。技術・工業の発展がもたらした近代都市の興隆。資本主義は爛熟ゆえに崩壊する、というシュムペーター理論のように、都市文明の中で、世紀末の人々は、古いものの崩壊と新しいものの創造の過渡期特有の心の揺らぎを感じていたのであろう。



クリムトの『接吻』をフロイト風に読み解けば、どういった説明ができるのだろうか……などと、きざっぽいことをぼんやり考えていて違和感がないのは、ここがウィーン大学そばのカフェで、カフェはウィーン文化の温床だったからだ。日本の駅弁大学校門前の牛丼屋だったら、そもそもこんなこと、空想する気にならないではないか。




15 ウィーン川とドナウ川

オーストリアはヨーロッパの中央に位置する。北海道ほどの広さの国だ。人口は1000万をきる。だが、1年間にオーストリアを訪れる観光客は年間約2000万人。オーストリア人口の2倍にあたる。観光立国でもある。

日本からウィーンは遠い。だが、ヨーロッパに住んでいる人にとっては、日本でいえば東京から鹿児島や札幌に行く程度の気軽な距離だ。

ウィーンの街は魅力的だ。市の面積の半分以上が公園や緑地帯だと聞いた。オペラ座から環状道路を15分ほどぶらぶら歩いて行くとウィーン市立公園があった。



夏の終わりを芝生の上でのんびり楽しんでいる人たちがいた。オペラ座近くの王宮公園にモーツァルトの像があるように、この公園にもヨハン・シュトラウス、シューベルト、ベートーベン、などの像がある。

公園の真ん中を小さな川が流れている。ウィーン川だ。東京の神田川と同じように川床はコンクリート。ウィーン川はすく近くのドナウ運河に注いでいる。



ウィーンに来たからにはドナウ川を見ておかなくては。地下鉄に乗ってドナウ川へ行った。ドナウ川と新ドナウ川にはさまれた細長い島、ドナウインゼルの岸辺には、去りゆく夏を惜しむ市民がくつろいでいた。川の中にはドナウ川を泳いで横断している人もいた。ゆったりした風景だった。



ウィーンの街はかつてオスマン・トルコ軍に包囲されたことがあるが、なんとかこれを撤退した。ハプスブルク帝国はドイツやオスマン帝国と組んで第1次世界大戦を戦い、敗北。オーストリア・ハンガリー帝国は解体し、オーストリアは領土がかつての4分の1に減った。小国オーストリアの誕生だ。ヒトラーの時代にはドイツに併合された。第2次世界大戦で英仏ソ米に分割占領された。その後、永世中立を約束して独立国になったが、西欧に寄りすぎるとソ連に攻め込まれるのではないかと気を使う日々だった。

ソ連が崩壊後、オーストリアはEUに加盟。昨今ではNATOにも加盟しようではないかという動きも出ている。



ドナウインゼルから街中に帰る地下鉄車内で優先座席のマークを見た。日本の絵文字を思うと不気味な感じがしないでもない。「ヨーロッパの第一線から退いた隠居国家オーストリア」という想像をしたが、調べてみると、一人あたりのGDPは購買力平価で換算すると世界第11位の39761ドル。アジアの豊かな国々と比較すると、3位のシンガポール56694、7位の香港45944ドルには及ばないが、20位の台湾35604ドルや24位の日本33885ドル、26位の韓国29997ドルを上回る豊かさである(IMF2010年)。

ウィーンのあと、鉄道でブダペストへ行ったのだが、それはまた、機会をみて。今回はとりあえず、ここでおしまい。

                    (花崎泰雄 文・写真