前口上

ノルウェーのベルゲン空港で、コペンハーゲン経由東京行きのセルフ・チェックインの機械操作を手伝ってくれた係の女性が「長時間の旅になりますねえ」と同情してくれた。

ベルゲン市内のホテルを出て東京の自宅にたどり着くまで、トア・トゥー・ドアでざっと18時間。往復だと36時間である。そうまでしてノルウェーに出かけたのは、かの有名なフィヨルドを見たかったからだ。

じつはフィヨルドというものは20年以上も前にニュージーランドで見ている。こちらも有名なミルフォード・サウンドである。soundという言葉には「音」という名詞だけでなく、「健全な」という形容詞や、「水深をはかる」という動詞、さらに「入江」という名詞もあることをその時、辞書を見て知った。

数年ほど前、つれあいの90歳過ぎの叔父さんが伴侶に先立たれ、その葬式の時、若いころ妻と二人でフィヨルドを見ようと2度もベルゲンに行った、と思い出を話してくれた。その記憶がどこかに残っていたのだろう。

ベルゲンへ飛び、そこからフロムという小さな町まで鉄道で行った。フロムから遊覧船で世界遺産のネーロイフィヨルドを回った。さらにフロムから快速船でソグネフィヨルドを抜けてベルゲンの港まで5時間の船旅を楽しんだ。

事前の天気予報では雨マークだったが、フィヨルドめぐりは良いお天気に恵まれた。

前口上は以上。次回からフィヨルドの写真を掲載する。水っぽい退屈な写真になりそうだが、まま、お楽しみあれ。



1 フロム鉄道

ノルウェーの海岸はフィヨルドだらけだ。首都オスロも港から一漕ぎ沖に出ればそこはフィヨルドの海だ。ノルウェー第2の都市ベルゲンもフィヨルドの中の街である。

この二つの街では、高台やビルの上層階にのぼるとフィヨルドの海が眺められる。オスロやベルゲンのフィヨルドは島が多く、アドリア海や瀬戸内海の風景に似ている。ただし、天気が良く、強い日差しがあればだが。

ノルウェーにはフィヨルドを売りにする観光地が多いが、交通の便が良くて人気が高いのはソグネフィヨルドだ。氷河が削った谷間伝いに、内陸の奥深く200キロメートルも大西洋の海水が流れ込み、風光明媚な水路をつくっている。

そのソグネフィヨルド観光の拠点がフロムという小さな町だ。

フロムへはベルゲンから鉄道で行った。ベルゲン駅を朝8時台に出る列車に乗るので、宿は駅のすぐそば、歩いてホームまで1分もかからないところにあるホテルにした。

9月2日の土曜日の朝、ベルゲン駅へ行くとミュルダール行き列車はすでにホームに入っていた。列車の前のプラットフォームからコンコースにかけて長い列ができていた。

列車は山手線ほど長くはなかったが、地下鉄銀座線よりも長かった。いくつかの車両は旅行会社の団体客用に割り当てられていた。

ベルゲンからフロムまでの列車は夏の観光シーズンは込み合うので、座席指定はしないけれど、乗車券の発売枚数の制限を行っていると聞いたので、あらかじめ日本からインターネットで周遊券を予約しておいた。それにしても、夏が終ろうとする時期でもこんなに混み合うのは、週末だからだろうか。

さて、列車は定刻にベルゲン駅を発車。ベルゲンの市街地は小さいからすぐに郊外の風景が始まり、やがて田園風景にかわる。英語でいうidyllic な眺めのお手本のような風景の中を列車は淡々と進む。

途中、ヴォスという駅で乗客の半数近くが下車した。ここからバスでグドヴァンゲンという町へ行き、フィヨルドの観光船に乗るのである。グドヴァンゲンから観光船に乗って世界遺産のネーロイフィヨルドをまわってフロムまで行き、そこからフロム鉄道に乗ってベルゲンに帰るのだ。

残った乗客は終点のミュルダール駅でフロム鉄道に乗りかえる。この鉄道がフィヨルドとならんでフロム観光の目玉になっている。列車は渓谷の急斜面をゆるゆると登る。旧上信越線の横川・軽井沢間ほどの傾斜という。あちらに滝が見えます、こちらにも見えますと、切り立った崖から落下する滝を車内放送で案内してくれる。



やがて列車が止まり、10分間停車するので列車から降りてどうぞ滝を眺めてください、と車内放送で言う。滝の近くに滝を眺めるだけが用途のホームが出来ている。乗客はそこから滝を眺め上げる。水量豊富な滝で水煙りがもうもうとあがっている。そうこうするうちに、どこかにスピーカーがあるだろう、音楽が流れ、滝のそばの大きな岩の上に人が現れてひとしきり舞を見せる。添付の写真の中央部右手の滝のすぐそばの岩の上の小さな人影がそれである。

むかし、知床岬の観光船に乗ったら「知床の〜」という森繁久彌の歌を拡声器で流していた。それと同じで、感動的な演出とはいえない。那智の滝の上の岩に神官が現れてスピーカーで流す祝詞とともに幣を払うような、どちらかといえば滑稽感がある。

この滝を過ぎるとやがて鉄路は下り坂になり、列車はフロムの駅に入る。



2 ネーロイフィヨルド

フロムの船着き場からネーロイフィヨルドめぐりの観光船に乗った。

ネーロイフィヨルドは奥行きが20キロ弱。水路の幅が狭いところで300メートル弱、広いところで1000メートルほど。ヨーロッパでも狭い部類のフィヨルドである。

周囲には絶壁が切り立っている。絶壁の背後には山があって標高は1000メートルを超える。ところどころ絶壁の下にわずかながらも平らな緑地がある。そこに人家があって人間が暮らしている。津波でもあればひとたまりもないだろう。じつはノルウェー沖の海底で大規模地滑りが発生し、大津波がノルウェーの海岸を襲ったことがあるといわれている――いまから6000-7000年のことだが。

どこにいても、人間、板子一枚下は地獄なのである。

フロムからネーロイフィヨルドを航行する船には二種類あって、一つは観光専用のモダンな新造船。フロムからグドヴァンゲンまでノンストップ、観光専一の船だ。いま一つが、ネーロイフィヨルドのいくつかの集落に寄りながらグドヴァンゲンへ向かう観光・巡航船。観光専用船だと1時間半、巡航船だと2時間ほどの航海になる。

ネーロイフィヨルドは、ノルウェー最長のフィヨルドであるソグネフィヨルドの、支流というか、枝分かれした水路である。船はフロムの港を出てしばらくソグネフィヨルドの本体に向って進み、本体に入る少し手前で左折してネーロイフィヨルドに入る。

船がネーロイフィヨルドに入ると、これがフィヨルドだといわんばかりの風景に一瞬、おおっという感動に襲われるが、不思議なことに、感動は長続きしない。ギザのピラミッド、アテネのパルテノン神殿、中国の万里の長城、テオティワカンのピラミッド、ママチュ・ピチュの空中遺跡といった人工構造物には飽きることがないのだが、不思議なことに自然の造形にはすぐ飽きてしまうのである。

お、崖から滝が垂直に落ちてくる。あっちにも滝だ、こっちにも滝だ。

滝の下まで行って見上げてみたいとは思わないが、フィヨルドの岸辺の集落は下船して歩いてみたいなあ、という気にさせる。



こんなことをいくら書いても、フィヨルドの風景について写真以上説明はできない。

グドヴァンゲンで船を降りたら、近くのバス乗り場でフロムに帰るバスが待っていた。バスはグドヴァンゲンを出るとすぐ長いトンネルを走り、フィヨルドを取り巻く山の下のトンネルを抜け切ると、間もなくフロムだった。フィヨルドは海岸線に山が迫っているので、交通のためのトンネルは日本以上に重要なようだ。



3 フロム

フロムはソグネフィヨルドの本体から分岐したアウルランズフィヨルドのどんずまりにある。切り立った山が東西にそびえ、北に水路、南が緩やかな傾斜地になっている。フロム鉄道は山からこの傾斜地を下ってフロムの市街地に入ってくる。

市街地といっても大したものはない。フロムとは「小さな土地」という意味だと観光案内書にあった。

フロム鉄道のターミナル駅――駅といっても駅舎はなく、線路とプラットフォームがあるきりだ―ーと、観光総合案内所と、いくつかのホテル、バス・ターミナル、船着き場、お土産屋さんにパン屋さん、それと生協のスーパーマーケットがあるきりだ。

 

なにしろ、人口500に及ばない小さな集落である。その集落に年間50万の観光客がやって来る。その大半が夏に集中する。「フロムは美しい町だ。だが、この小さな天国に大量の旅行者が押し掛けた時、ここは地獄に変わる」と Lonely Planetのガイドブックにあった。

行ってみて驚いたことに、フロムの船着き場にでかい外洋クルーズ船が停泊していた。ここに停泊してクルーズの客は観光船に乗りかえ、ネーロイフィヨルドめぐりに出たのだろう。

フロムに外洋クルーズ船が入ると、その眺めは路地裏には大型観光バスが入ってきたのと同じような異様な風景になる。狭い水路だ。大型クルーズ船が入港・出港で船体を反転させるのは容易な技ではないだろう。

大型クルーズ船は頻繁に入港しているらしく、専用の船着き場が用意してあった。

何もすることがないので、小さな集落を散歩していたら虹が見えた。



手前の山はすでに黒いシルエットになり、その奥に残照を受けて黄金色に輝く峰の一部が見えた。空の半分は薄雲と霧に包まれ、残る半分には青空がのぞいていた。そこに大きな虹がくっきりとかかっていた。そのとき、ボーッと、クルーズ船の出港の汽笛。値千金の秋の夕べである。

フロムは小さな町である。散歩をすませたら、あとはもうホテルに帰って寝るしかない。



4 ステーガスタイン

10時、フロムのバス乗り場からマイクロバスでステーガスタインの展望台へ行った。

フロムは入江の両側を急峻な山に囲まれたところで、標高が高い場所のような錯覚をするが、目の前には海があり、バス乗り場あたりの標高は2メートルほど。

マイクロバスでフロムから入江を挟んで対岸の山の斜面を600メートルほど登って行く。その間、およそ30分。

小さな駐車場があり、道路端から崖の上に突き出た展望台がある。がけ下を見ると水辺の集落が豆粒のように見える。

目を転じるとアウルランズフィヨルドが遠くまでみえる。入江の水の濃いブルーが心にしみる。風が無くべたなぎ。ノルウェー版明鏡止水といったところか

展望台でやることはほかに何もないのだが、マイクロバスの運転手さんはたっぷり楽しめと、ここで30分の眺望時間をくれた。



展望台からフロムの船着き場まで30分。ここからベルゲンまで5時間余りのソグネフィヨルドのクルーズを楽しむ予定だが、船が出るのは3時半。

パン屋さんでサンドイッチと菓子パンとコーヒーを買って、店先のテーブルでお昼を食べた。その後は、何もすることがないので、ぼんやりと観光客を眺めていた。

私も観光客なので、手持ちぶさたな他の観光客からぼんやりと眺められていたことだろう。



5 ソグネフィヨルド

フロムからソグネフィヨルドを抜けてベルゲンに向かう船は、定刻の午後330分に出港した。

ソグネフィヨルドは大西洋側の入江の入り口から内陸へ200キロ以上もくい込んでいる。フロムはソグネフィヨルドの3分の2ほど奥まったところにある。フロムからベルゲンまでは5時間を超える船旅になる。終着はベルゲン港のフィッシュマーケットそばの船着き場だ。

ソグネフィヨルドも沿岸に高い山がそびえ、船内放送で「右手の奥の山に氷河が見えます」など案内してくれる。とはいえ、ネーロイフィヨルドの幅数百メートルの狭い水路、両側の切り立った崖、崖から落ちる滝、などの道具立てと比較すると、水路の幅は5キロほどに広がり、その分、崖の眺めも遠ざかり、いささか大味な風景になる。

フロム―ベルゲン間の快速船は11往復しており、観光客だけではなく、ソグネフィヨルドの岸辺に小さな集落をつくって住んでいる人たちの足になっている。ソグネフィヨルドの沿岸に住む人たちは、快速船でなら数時間でノルウェー第2の都市ベルゲンまで行ける。自動車だと入江を迂回しつつ山道をベルゲンに向かうので、1日仕事になってしまう。

そういうわけで、快速船は巡航船でもあり、点々と沿岸の集落に寄る。そこでは2-3人が下船し、数人が乗船してくる。船着き場には下船する人を迎えに来た人、乗船する人と見送りに来た人が、並んで立っていた。生活のにおいがあって、同時に、旅情の深まる光景だった。

出港当初はデッキに出て風景を楽しみながらビールを飲んでいた人たちも、快速船のスピードとフィヨルドを渡る冷たい風が相乗効果をもたらした強風にへきえきとなって船内の客室にこもってしまった。



だが、夕方、入日で空が赤く染まった時だけは、ドタドタ階段を駆け上がってデッキに出る人が増えた。美しい夕日だった。とくに、“雲の芸”が素晴らしかった。



6 フロイエン

「ベルゲンに行ったらフロイエンの丘にのぼるといいですよ。ベルゲンの美しい街並みとフィヨルドが一望できます」。フィヨルドめぐりをする前に1週間ほどオスロに滞在した。その時のホテルのレセプションの女性のアドバイスだった。

そういうわけでベルゲン滞在中にフロイエンの丘に登った。300メートルほどの丘で、ケーブルカーでのぼる。もちろん歩いて登ることも可能だが、そういう観光客は少数派だ。もっとも、丘の上から登山道を歩いておりる人はポツポツといたが。

ケーブルカーはフロイエンの丘を10分弱でのぼる。丘の斜面に住宅地があり、ケーブルカーは丘の中腹のところどころで停車した。

フロイエンの丘の上からの眺めは、この通り。





7 ブリッゲン

フロイエンの丘とならぶベルゲン観光の目玉が世界遺産のブリッゲンの木造建築群だ。

観光客はベルゲンのウォータ―フロントに並ぶこの建物群と、すぐ近くのフィッシュ・マーケットに吸い寄せられる。



木造建築群はウナギの寝床型で、海岸の道路に面した部分は小さく、奥に向かって長々とのびている。観光客は建物と建物間の路地歩きを楽しむ。かつて、この建物群は港の倉庫群だった。現在はお土産屋さんと、地元のアーティストの工房などに使われている。

 

巨大な魚の干物をかたどった彫刻も路地奥の小さな広場に展示されている。そうなのだ。ノルウェーは漁業も盛んで、日本と同じように捕鯨も続けている。

水産国だからフィッシュ・マーケットも賑わっている。フィッシュ・マーケットで魚のスープを試みてみた。リスボンで食べた魚のスープの方がうまかった。ヨーロッパの魚料理は、スペイン、フランス、イタリア、クロアチア、ギリシアなどの地中海沿岸の街がうまい。というわけで、買った魚を料理してくれるレストランもあったが、魚自体が滅法高値でもあり、やめておいた。

ベルゲンの市中心部の池のほとりの美術館・コーデーも見てきた。立派なコレクションを持つ美術館だそうだ。美術館を出て、池のほとりから見上げた丘の斜面に散在する瀟洒な建物も、コーデーの展示に劣らない目の保養だ。



シリーズ「フィヨルドへ」はこれでおしまい。次はフィヨルドへ行く前に滞在したオスロの街の散策の写真とお話。

(写真と文: 花崎泰雄)