1 追憶と幻影と

建物には「夕張青年婦人会館」の看板がかかっていた。だが、その建物は使われなくなってかなりの年月がたっている。一目見ただけでわかった。建物のシャッターや扉は閉じられ、庇の着雪は放置されたままだった。手入れをしなくなった無住の建物が風雪にさらされて朽ち果ててゆく姿を示していた。建物には古びて文字がうすれ、読みづらくなった縦型の看板も残っていた。目を凝らすと、文字の跡は「北海道銀行」と読めた。



建物正面に映画『エデンの東』の大きな絵看板が飾ってあった。1955年のアメリカ映画だ。この建物が夕張青年婦人会館として使われていた頃に上映した映画の看板がそのまま放置されているのだろうか?

石炭から石油へ転換した国家のエネルギー政策の中で夕張の炭鉱は先細りになり、1970代から80年代にかけて閉山が相次いだ。閉山と人口流出で経済の規模は縮小し、市の歳入も激減することになった。炭鉱から観光へと産業政策を転換させた。交通不便な山間の町が手っ取り早くできることといえば自然をベースにしたリゾート開発くらいなものだった。

だが、リゾート開発のためにつぎ込んだ金は回収できず、事業は順調には進まなかった。とうとう2006年には、夕張市が起債制限を超えてヤミ起債を行っていた問題が明るみに出た。それをきっかけに、夕張市は財政再建団体の指定を受けることになった。



以来、市議会議員の定数削減と議員報酬の引下げ、市職員の削減と給与引下げ、市民サービスの縮小、住民税など市民の負担増を進めてきた。夕張青年婦人会館も2006年に閉鎖された。

会社更生法の適用はざらだが、地方公共団体の財政再建団体指定もありうるのだ。「エデンの東」の看板がかかる夕張青年婦人会館を眺めていると、ギリシャの国家財政破綻に思いがいたる。あの“ギリシャ悲劇”は国家そのものが再建指定を受ける状況に陥ることも大いにありうることを示している。

夕張市の人口はいまや11000人弱で、うち44パーセント強が65歳以上である。北海道の市町村の中で高齢者の人口比率が最も高い。

産業の衰退、人口の流出と激しい高齢化、そして社会的費用の増加――日本全体の将来の姿が垣間見える気がする。2パーセントのインフレターゲットを掲げ、10兆円規模の補正予算で景気を持ち上げようとする安倍政権のパフォーマンスを、メディアはロケットスタートなどと呼ぶ。だが、このロケットに姿勢制御装置や逆噴射防止装置がついているのか、ついていたとしてもどこまで有効に作動するか。それらは保証の限りではない。



それはさておき、こんなところに映画『エデンの東』の絵看板があるのは、この通りが「キネマ街道」と呼ばれているからだ。もともと、夕張市が炭鉱でにぎわっていた頃の本町通りである。今では人口減にともなって多くが店を閉じている。「キネマ街道」は夕張市が町おこし策の一つとして映画祭を企画していた頃の名残りである。札幌で映画の看板を製作していた人に依頼して、かつての人気映画の看板をペンキ絵で再現してもらい、通りの建物のあちこちに飾ったのだった。





夕張市は財政破綻した2006年から夕張映画祭の主催者からおりている。いまでは映画愛好家らが結成した民間団体が映画祭を受け継いでいる。



2 借金雪だるま

昨年12月のことだ。、都営地下鉄車内の中づり広告で、冬の夕張の観光PRポスターを見た。そのことが頭に残っていたためだろうか、札幌に着いたとき、そうだ。夕張に行ってみようかな、という気になった。

札幌の観光案内所の人は、今の季節、夕張でやる事と言えばスキーくらいのものですよ、と言った。

「夕張石炭博物館があるときいていますが」
「ありますが、冬の間は休館中のはずです。少々お待ちください。確認します」
奥の事務室に姿を消し、再び窓口に現れて、

「やはり、冬期休館中でした」
「そうですか、では街をぶらついてきますか」
「夕張は雪の深いところですから、除雪が行き届いていないかもしれません」



無人駅のJR夕張駅を出て、国道沿いのガソリンスタンドのそばに立っていた作業服姿の男性に夕張市役所への道を尋ねた。その人は、
「私は札幌から来ましたが、夕張の方が札幌より除雪が行き届いていますよ」
と言った。

町はずれの石炭博物館が冬期休館で、除雪が札幌より行き届いているということは、冬の夕張の行動圏はそれほど縮小されているということだろう。



JR夕張駅のすぐ隣に大きなホテルが建っていて、その裏手の丘がスキー場になっていた。大型バスが駐車場にならび、スキーウェアーの中高校生の団体が来ていた。学校名を書いたゼッケンをつけているので、体育の特別授業で来ているのだろう。

このホテルとスキー場も夕張財政破綻の一因だった。1980年代の後半に夕張に進出してきた大阪の不動産ディベロッパーがホテルとスキ―場を開いたものの、やがてその会社が経営破綻。スキー場存続の声に押されて夕張市がこのスキー場を買い取った。財政再建中の夕張市はこのスキー場を民間の観光会社に運営委託している。



夕張の炭鉱閉山期から624年間、市長をつとめた人の「炭鉱から観光」への積極転換策が、バブル崩壊もあって裏目に出て、雪だるま式に借金がふくらんでしまった。財政破綻を公に認めたのは、その次の市長だった。彼は1期だけで引退した。

そのあとの市長選挙で夕張の有権者は全国最年少30歳の市長を選んだ。東京都職員だった時代に、夕張に派遣されていた。小泉チルドレン・刺客候補だった元衆議院議員を破って当選した。300億円の負債からの再建を託しすには、いわゆる政治家よりも実務家市長のほうがよかろうと考える夕張市民が多かったのだろう。



昨年12月、都営地下鉄に冬の夕張観光PRの中吊り広告がでたのはこんな縁があったからだ。




3 夕張カレーそば

JR石勝線夕張支線の終着駅が夕張だ。駅舎はあるが駅員がいない無人駅だ。だが駅舎には観光案内所があってJRの職員ではないひとが一人だけ常駐している。

カウンターの羽目板に、夕張市内にあった炭鉱の坑口やその他の炭鉱関連施設の跡を示す地図が張ってあり、その施設名とそこで起きた炭鉱事故の死者数が表示されていた。

夕張の炭鉱では、戦前には死者209人を出した事故もあったが、戦後の夕張炭鉱での最悪事故は1981年の北炭夕張新炭鉱で起きた1981年のガス突出事故だ。

この事故については新聞で読んだ記憶がある。

海抜マイナス800メートルほどの坑道でメタンガスが噴き出し、坑内で火災が発生し、救助に向かった人たちもまた遭難した。火災の拡大を防ぐため、安否が不明な59人の炭鉱労働者を坑内に残したまま坑道に水が注ぎこまれた。

この事故が夕張の石炭産業にとどめを刺した。

北炭夕張新炭鉱は閉山し、親会社の北海道炭砿汽船も倒産を機に国内の石炭採掘から撤退した。

観光案内所の職員にこれらの炭鉱の跡を見ることができるかどうか尋ねると、
「雪でうまっていて近づけません。除雪してある国道を車ではしれば、一部は窓越しに眺めることができると思いますが」
ということであった。

カウンターの羽目板には「夕張カレーそば 食べ比べマップ」というポスターがはってあり、こちらの方は食べに行けるかとたずねると、すぐそばの駅前バリー屋台で食べられるということだった。



カレーそばなるものは写真のごとくである。「カレーうどん」のうどんの代わりに日本そばを使ったものだ。夕張の炭鉱労働者が愛した「夕張のソウルフード」というのがキャッチフレーズだが、味の方は食べる人の社会的想像力という薬味次第だ。



筑豊で炭鉱労働者として働いたことのある作家、故上野英信氏から炭鉱労働者とラーメンの話を聞いたことがある――炭鉱労働者は筑豊ラーメンが好きだった。坑内労働を終えて、のどの奥にまだこびりついている粉塵をラーメンのスープで胃袋へと洗いおとす、ああ、一日の仕事が終わったのだ……」というような話だった。

18世紀から19世紀にかけてのイギリス産業革命牽引したのは石炭というエネルギーだった。採掘の現場では、成人男性の炭鉱労働者ばかりでなく、女性や児童もいた。明治期の日本の炭鉱でも同じように女子労働、児童労働が見られた。戦後の一時期、石炭は花形になり、日本炭鉱労働組合(炭労)は総評の主力メンバーだった。だが、いまでは炭労も総評も解散している。



追憶と幻影と――夕張のカレーそばには、そうした日本戦後労働史に思いをはせさせるようなスパイスがきいているのだろうか。 カレー粉は単なるSBカレーらしいのだが。それとも、この集合屋台を入れた建物が、解体された木造炭鉱住宅の廃材をつかって組み立てられているせいだろうか。



4 札幌雪まつり準備

札幌大通りのテレビ塔の展望室から大通公園を見下ろすと、土木工事現場のような風景が眼の下に延びていた。25日からの札幌雪まつりの会場準備工事の最中だ。



札幌雪まつりは1950年に始まった。その時の事業費は254千円だった。現在では、札幌雪まつり実行委員会の経費が1億円余り。この上に、会場を設営する自衛隊や会場スポンサーの経費が加わって数億になる。一方、雪まつりの経済効果は300億円近くにのぼる。去年は200万人の観客を動員した。

費用対効果比が高いのは、雪像づくりの経費が安くあがっているからだ。



札幌雪まつりの雪像づくりは自衛隊が手がけている。自衛隊の雪像づくりは基本的に無報酬だ。自衛隊が雪まつり準備に参加する名目は、雪中訓練と愛される自衛隊PR作戦だろう。

動員された隊員、車両をそっくり民間会社に請け負わせると、雪まつりの開催費用は1億円では間に合わなくなる。自衛隊なしでは札幌雪まつりは成り立たなくなっている。



札幌・真駒内の陸上自衛隊11師団からイラク派遣メンバーを出すことで、北海道民の賛否が割れていた2005年、当時の陸上自衛隊11師団長が、イラク派反対のデモや街頭宣伝が度を越して協力する環境が望めなくなる場合は、雪まつりへの協力を撤収も含めて検討すると発言したことがあった。



びっくりした主催者の札幌市は、札幌市は主会場の大通公園で無届け集会などが行われた場合は、公園管理者として退去指導に乗り出す方針を固めた。

「雪まつりを人質にとってイラク派兵反対を封じるのか」と護憲派は息巻いたが、俗にただより高いものはない、というではないか。「自衛隊の札幌雪まつり雪像製作」が、やがて「国防軍の雪像製作」に代わる可能性も無きにしも非ず。そうなると自衛隊員は国防軍兵士になり、そもそも軍人が戦闘訓練の代わりに雪遊びに興じてよいものか、という声も出てくることだろう。



5 続・札幌雪まつり準備

札幌雪まつりはいまではハルビンの国際氷雪祭りや、ケベック雪まつりともども大規模な冬の祭典として世界に知られている。

1950年に雪まつりが始まった時はまことに素朴な冬の遊びだった。雪まつりのメイン会場になっている大通公園は、かつては除雪した雪の捨て場だった。その雪を使って、地元の中・高校生が雪像を大通公園につくった。その数は6つだったといわれている。



戦後まだ間もないころで、スキーかスケートくらいしか冬の屋外の楽しみはなかった。5万人の人出があったそうだ。

1953年に15メートルの大雪像が作られ、1955年からは自衛隊が参加するようになった。その後、マスメディアに紹介される機会が増えて札幌の地域的な行事から全国行事と成長し、1972年の札幌冬季オリンピックを機に世界的な催しに発展していった。

1970年代半ばから、札幌に縁のある世界の都市をテーマにした雪像が作られるようになった。

2013年の雪像の中にはバンコクのワット・ベンチャマボピット(大理石寺院)を模した石像があった。



戦闘集団である自衛隊が機械化と組織力を動員して雪と取り組んでいる中で、札幌雪まつりの草創期の記憶をよみがえらせてくれるような中学生の雪像づくりが行なわれていた。自衛隊の力を借りて巨大石造をつくるようになった雪まつりは、もっぱら見る楽しみを追求する行事になったが、もともとは、市民が作る楽しみも味わっていたお祭りだった。






6 ラーメン

札幌で泊まったホテルのショップで「ラーメンサラダ・セット」というお土産を売っていた。簡単にいうと、われわれが夏によく食べる冷やし中華に似たものだ。ゆでたラーメンにサラダに使う各種野菜と、肉片をそえて、その上に特製のドレッシングをかけたもの。

「要は特別のドレッシングをかけた冷やしラーメンだね」
「いいえ、麺にもドレッシングにも、サラダとしておいしく食べられる当ホテルのキッチンが特別の工夫を凝らしています」
「ちょっと食べてみようかな。どのレストランでたべられますか」

ショップの人に教えられたビア・レストランでラーメンサラダを注文した。

「お飲み物は?」
「そうですね。ソフトドリンクがいいな」
「ラムネもございます」



ラムネと一緒に出てきたラーメンサラダは写真のようなもので、冷やし中華とは趣きが違って、盛り上げらている。野菜サラダといった外見だった。ドレッシングはごまベースで、しゃぶしゃぶのゴマだれに工夫を加えたような味だ。

ラーメンサラダはスープカレーと同じように、札幌発の食べ物である。はたして、サッポロラーメンのような全国ブランドにまで育つか?



汁ラーメンを食べにすすきのへ出かけた。この冬は普段の冬より雪が多く、すすきのの歩道には雪の壁ができて、ちょっとした塹壕風だ。

あるラーメン屋さんに入ってたべたのが写真のラーメンだ。注文して、ラーメンが出来上がるあいだに、店内の「替え玉〇〇円、半玉○○円」の札に気づいた。ははは…博多ラーメンだった。すすきのに来て、なんと博多ラーメンのチェーン店に飛び込んでしまったのだ。



台湾か本土かわからないが、ともかく中国語を話す五、六人の親子づれのグループもこの日式麺を食べていた。

サッポロラーメンの店が全国にあるように、博多ラーメンが札幌にマーケットを広げていたのである。東京に帰ったあとで調べてみると、このラーメン・チェーンはニューヨーク市にも店を出していた。

というわけで、今回はサッポロラーメンを食べる機会を逸した。



7 小樽北運河

札幌駅からJRの電車に乗ると30分弱で小樽駅に着く。

小樽駅を出ると、駅正面の広い道路が海に向かって緩やかに下っている。その先に、青い海がほんの少しだけ見えている。



小樽散歩に出かけた日はいい天気だった。朝から青空で、日の光がまぶしかった。積もった雪が日の光を弾き返し、軒先のつららから、ぽとぽとと水滴が垂れはじめていた。だが、空気そのものは冷たい。

「寒いねえ」
「今日は温かいス」
「人力車のタイヤもスタッドレスかい?」
「いや、普通のタイヤ」



小樽運河にかかった橋のたもとで、観光人力車の客待ちをしていた青年に声をかけたら、そんな返事が戻ってきた。

青年は私のひやかしなど相手にせず、通りがかった年配の女性に人力車で観光しませんか、と声をかけている。観光客はたいていここから観光案内所のある方へ行き、お土産屋へ寄って、はいそれで終わり。反対方向へ行くと、埋め立てまえの北運河があります。ガイドもしますよ、と商売熱心である。



それを聞いて、雪の運河散歩道を北運河目指して歩いた。ガイドがいなくても、たいていのことは観光ガイドブックに書いてある。

小樽港は北海道開拓の拠点だった。昔はコンテナヤードや巨大クレーンなどなかったので、貨物船を沖合に停泊させて、積み荷を小分けしてはしけにつみ、船と陸の間を運送していた。そのはしけの通路が小樽運河だった。

小樽運河は1923年(大正12年)できた。戦後の港湾近代化で、はしけと運河の時代が終わった。使われなくなった運河は泥の河のようになった。そこで運河を埋め立てて、都市景観の整備をすることになったのだが、運が埋めたて反対論が起り、論争に決着がつくまで10年ほどかかった。1986年に運河の一部を埋め立てて道路にする工事が終わった。運河の周辺に散歩道をつくり、ガス灯を設置、運河沿いの倉庫群の建物はそのまま残して、レストランなどにした。観光客が集中するあたりの運河は半分が埋め立てられているので、この有名な小樽の観光資源である小樽運河は、は幅は20メートルに狭まっている。北運河はかつての通りの40メートル幅だ。小さな漁船も停泊場所にもなっている。



その40メートル幅の運河を見るために、なかば雪に埋もれた散歩道を、スリップしながら歩いた。



8 北のウォール街

多少のノスタルジアと観光宣伝をこめて、小樽は「北のウォール街」を自称している。



大正の終わりごろには、約20の銀行が小樽にあったと言われている。そのころは函館に16、札幌に10の銀行があった。北海道内随一の商業都市だった。官立としては全国で5番目の小樽高商が開校したのはそうした背景があったからだ。小林多喜二は小樽商の卒業で、資本ではなく労働の側に目をむけた変わり種だ。

小樽には日本銀行の支店もあった。1912年に業務を始め2002年に支店を閉じた。いまは建物を利用して日本銀行旧小樽支店金融資料館が開設されている。この資料館では、かつての大金庫の中を見物させてくれる。何年か前の夏、小樽に散歩に来たとき中に入ってみた。中に入ると、何となく金満家になったような気がするかって? うん、まあね。大したものはなかった。

こうした堂々たる石造りの銀行の建物が街の中心部に並んでいた戦前の風景が、小型のウォール街のようにみえたのだろう。立派な建物は今でも残っているが、内部を改装してレストランなどに変身しているものもある。



青函連絡船、札幌市の役割の増大と機能の集中、石炭・材木などの取扱量の減少、通商ルートが日本海側から太平洋側に移ったことなどから、小樽はかつての商業都市としての力を削がれていった。今では小樽は経済的な勢いが鈍り、札幌の勢いにのみこまれ、人口が減少している。



函館と札幌を結ぶ特急は室蘭、苫小牧という街を結んで、太平洋岸を走る。小樽の港はロシア向けの中古車の積出港になった。それでロシア人船員が小樽に来る。ずいぶん前の話だが、銭湯入浴の方法を知らない彼らと一緒に風呂に入るのを地元の日本人常連客が嫌がるので、銭湯経営者が外国人入浴お断りの看板を出した。人種差別だとニュースだねになった。

運が見物を済ませて小樽駅に向かう途中、歩道を立ち入り禁止にして、クラシックな建物の雪庇を屋上から掻き落とす作業が行われていた。その作業をぼんやり眺めていた。近くにいた夫婦らしい年配の男女が、うちもそろそろ雪下ろしをしなくては、と話していた。



歩道を歩いていて気がつたのだが、建物の前の歩道の雪搔きをしているところと、圧雪状態なったまま放置しているとこがあり、歩道はまだら状態だった。雪搔きを済ませているところは経営順調、そうでないところはきびしい、と想像してしまうのだが、本当にそうだろうか?



9 函館山

JRの函館駅から市電に乗って3つ目の停車場が十字街だ。そこで電車を降りて、雪の坂道をてくてく登ってゆく。やがて函館山ロープウェーの山麓駅に着いた。

午後3時過ぎ。これからロープウェーで山頂駅まで行って、午後から夕方、薄暮、夜のとばりが下りたころと、時間の経過を追って函館の景色を見下ろそうというわけだ。

ロープウェーのゴンドラはかなり大きめで、125人乗り。だが、そのゴンドラに乗った客はわたし1人だけだった。

函館山は標高が300メートルちょっと、ロープウェーが登る標高差は300メートル弱だ。ゴンドラが動き出すと、ほどなく頂上駅についた。

頂上駅はガランとしていた。駅舎の屋上から、函館の街を写す。



雪の函館。雲間からもれた日があたっている部分と、そうでない部分がはっきりと分かれる。午後の写真を撮ってしまうと薄暮までやることがなくなった。そこで、函館山の案内資料を読み始める。

函館山は戦前ながらく軍事要塞だったという。明治政府が1896年に、函館港と函館湾の守りを固めるために要塞の設置計画立て、山のあちこちに砲台を築いた。丘の上から航行する敵艦船に砲弾を浴びせようとは、まるで映画『ナバロンの要塞』のようではないか。

函館山は太平洋戦争で日本が降伏するまで軍がきびしく管理する要塞であり続けた。地図もなく、市街地からも青函連絡船上からも函館山の写真撮影は厳しく禁止された。函館山の入った絵葉書も禁止されたという。太平洋戦争中は高射砲陣地になった。

函館山要塞の建設が終わりに近づいたころの1904年に日露戦争が勃発した。その年の7月、ロシアの軍艦2隻が津軽海峡を横断したが、あいにく砲台に据えた大砲は射程8000メートル。砲弾は船には届くまいと、砲撃をしなかった。「ナバロンの要塞」ではなく「沈黙の要塞」だった。

退屈なのでベンチで少し居眠りをしてしまった。

あちこちから声が聞こえ始めた。日本語少々、韓国語と中国語が多い。海外からの団体観光客が函館の夜景を眺めに登ってくる時間が始まったのだ。屋上へ出て見下ろすと、街に少しずつ明かりがともり始めていた。



屋上からおりて、喫茶室でコーヒーを飲みながら暮れてゆく函館の街をガラス窓ごしに眺めた。街がみるみる闇に包まれ始め、明かりがはっきりと見えてくる。

ころはよし、と屋上にのぼると人でいっぱいだった。風も痛いほど冷たい。台湾や香港やシンガポールから来た人は余計に寒く感じるだろう。両手でももをバシバシと叩いている人がいた。



何人かの人を待って、屋上のフェンスにたどり着き、念願だった函館の冬の夜景の写真を撮った。冬は空気が乾燥しているので、夜景がきれいに撮れる。だが、長居は無用だ。寒いし、遅くなると、麓におりる団体さんとはちあわせすることになる。

一足先に下りのロープウェーに乗った。相客は3人だけ。ロープウェーのゴンドラの窓から、夜に入った函館の市街が見えた。





10 約束の地

函館市電の十字街停車場の近くに「坂本龍馬記念館」があった。あれっ、坂本龍馬は函館まできていたのか、まさか、と思いながら歩いて行く。すると、市電通りのからちょっと奥に入ったところに、坂本龍馬の立像があった。

こぶしを固めた右手を天に向かって高くさし上げ、左手に開いた書物を持っている。高知の桂浜の龍馬像は、右手を懐に入れ、左手はたもとの中だ――懐の右手は短銃をにぎっているのだ、という話も聞いたが、本当のことだろうか。腰のものは小刀だけだ。



函館の龍馬像は大小二本差しだ。左手に持っている書物は万国公法。国際法の本だという。龍馬は剣術の免許皆伝だが、剣で戦うのは古い、これからは銃の時代だ、と言ったという話を小説で読んだことがある。一方、銃も古い、これからはこの時代だ、と万国公法の本を見せたというエピソードもどこかで読んだことがある。

それにしても、なぜ函館に龍馬の像があるのだ?

函館の龍馬像は2010年に建てられた新しいものである。龍馬は北海道の開拓に関心を持っていたが、北海道に姿を現す前に京都で暗殺された。後に龍馬の一族の者が北海道にやってきて仕事を始めたのが、函館の龍馬の像とつながっている。

龍馬の像からそう遠くないところに、新島襄海外渡航の地の碑が建っている。密航者・新島襄はこのあたりの海辺から米国船に乗り、香港経由でアメリカ合衆国に行った。1864年のことだ。幕末もこのころになると、海外への密航者は少なくなかったと言われている。新島襄が函館から密航する1年前の1863年には、伊藤博文ら5人の長州藩士が藩からの資金援助で、イギリスへ留学の目的でため、公然と密出国をしている。吉田松陰が密航に失敗した1854年からわずか9年後のことである。



伊藤博文は松陰の松下村塾で学んだから、松陰の対外観である、アメリカやロシアとは関係を維持しつつ、その間に国力を養って朝鮮・滿洲・支那の土地を奪いとり、対アメリカ・ロシアとの交易で失う分を償えばよい、という思想になじんでいたことだろう。

新島八重を主人公にしたNHK大河ドラマには、季節がよくなることには、八重の夫の襄もドラマにあらわれてくるはずだ。すると、新島襄密航の地に来る観光客が増えるかもしれない。

坂本龍馬や伊藤博文、新島襄の同時代人である、あの新選組副局長・土方歳三も函館にやって来て、ここで戦死している。

五稜郭へ行った。雪の城内に再建された旧函館奉行所の建物があった。



榎本武揚が函館・五稜郭で「蝦夷共和国」の成立を宣言したとき、土方歳三は政府の軍事を担当した。



明治政府の軍と函館決戦で土方歳三は戦死。一方、榎本武揚は政府軍に降伏し、いったんは囚人になったが、明治政府内部からのとりなしもあって、政府の要職に就くようになった。

雪の城内に再建された函館奉行所の建物があった。





11 赤煉瓦倉庫

海辺の赤レンガ倉庫の一部が改装されて、ショッピング・モールやレストラン、ホールになっている。この手の商業施設は横浜港や神戸港などにもある。気候温暖で、冬でも雪が積もることが珍しい横浜や神戸では、四季を通じてそれなりの客を集めることができるが、夏の春夏秋の観光シーズンはともかく、冬の函館では集客は容易なことではないだろう。



郊外に新しく特徴のない建物をつくる代わりに、利用されなくなった古い建物を再利用して、レトロ感覚を売りものにするショッピングセンターの先駈けは、サンフランシスコ・フィッシャーマンズウォーフのギラデリ・スクエアだ。1960年代の中ごろに始まった。

ギラデリ・スクエアの建物は、もともとはチョコレート製造工場だった。工場が移転したあと、空になった建物を改装してショッピング・モールを作った。1970年代に見に行ったことがある。楽しいところだった。

お土産屋さん、レストラン、アイスクリーム屋さん、それに名物のダンジネス・クラブを売る屋台もあり、広場では辻音楽師のような若者のグループが演奏しながら、自分たちの音楽テープを売っていた。サンフランシスコは天気もいいし、海にはアシカの群れまでいた。

そのギラデリ・スクエアをまねて、函館港の空き倉庫を改装して観光商業施設ができたのが、本家ギラデリ・スクエア開業から20年後の1980年代の後半だった。



利用された倉庫群は金森倉庫。金森倉庫は函館の倉庫業の先駈けだった。

船から倉庫へ、倉庫から船へ荷物を運ぶ。この倉庫に作業会社に雇われた男女が荷物を肩に担いで出入りしていた。屈強な男は米2俵を一度に担いだ。女は海産物を運んだ。函館市の資料によると、昭和期の金森倉庫の主要取扱品目は米穀類、海産物、缶詰類、肥料、塩魚といったところだった。

サンフランシスコで港湾労働者をしながら思索を重ね、カリフォルニア大学バークレー校で社会哲学の講義をしたエリック・ホッファーは『波止場日記』に、優しく優雅で、寛大で有能で、聡明で独創的な人々が波止場にはたくさんいた、と書きのこしている。



観光ショッピング・モールに変わった今の金森倉庫には、港湾労働者の生活や思索などと結びつくようなものを思い起こさせるようなにおいは、もはや、残っていない。



12 黄金ラーメン

函館の夜は札幌とくらべれば――当たり前のことだが――さびしい。

JR函館駅前の商店街も日が暮れると早めに店を閉める。飲食店がちらほらと灯りをともしているだけだ。さびしいのは人が通りに出てこない冬場だからだろうか。

駅の近くに大門横丁という屋台風の飲食店が集まっているところがあると聞いていたので、ホテルからカチカチに凍った雪道を歩いて行った。ホテルも大門横丁も函館駅の近くだから、それほどの距離はない。ただ、雪道で滑って転ばないように気をつけるだけだ。ご近所の北海道出身の人が北海道へ行って、雪道で滑って転び、肋骨にひびが入った、と言っていた。



大門横丁――灯りはあるが、人の気配はうすい。お目当ての黄金ラーメンの店に入って注文する。これがそうだ。透明なスープを鶏油で風味づけしたラーメンだそうだ。



店に入ったとき客はいなかった。黄金ラーメンを注文して、

「黄金ラーメンは、おうごん、ですか。こがね、ですか」
「こがねのほうです」

というやりとりをしていると、若い男女2人が入ってきて、かれらも黄金ラーメンを注文し、ラーメンが出てくると、私と同じように写真を撮った。



翌朝、ホテルの近くの函館朝市をのぞきに行った。こちらも人気がない。朝市の近くには海鮮どんぶり屋さんだとか、ご飯屋さんがある。朝市で朝ごはんというのも楽しいよ、とガイドブックはいう。



あいにく、こちらはホテルで写真のような朝メシ屋ふうのブッフェ朝食を食べたばかりだった。いくら丼、鮭汁、各種野菜の煮物、それに出来立てのオムレツ、などなど――しっかり食べた。



13 坂道建物散歩

函館山の麓の斜面に、ハリストス正教会、カトリック本町教会、聖ヨハネ教会といったキリスト教の教会や、外国人墓地、旧イギリス領事館、旧ロシア領事館、旧中華会館など、幕末の開港地らしい雰囲気が残っている。



函館のハリストス正教会は聖ニコライが日本にやって来て、正教の布教を始めた最初の場所だった。密航を企てていた新島襄がニコライに日本語を教え、ニコライから英語や外国事情を学んだといわれている。日葡辞書を編んだイエズス会の宣教師を始め、キリスト教の宣教師は出かけた先の言語の習得に励んだ。

のちにニコライは東京に移り、いわゆるニコライ堂を建て、布教の拠点にした。



教会の塔を見上げるのもいいが、函館山の斜面では、海に向かって下る坂道を見下ろすに限る。二十間坂、大三坂、八幡坂、日和坂、基坂とあるが、人気一番は八幡坂だ。テレビや雑誌のグラビアでよくお目にかかる風景だ。



八幡坂からちょっと歩くと、旧イギリス領事館の建物があって、その一部が喫茶室になっている。紅茶とチョコレートケーキで一休みした。



なおも歩き続けると、これはガイドブックには出ていない建物だが、古さといい、くずれ具合といい、なかなか雰囲気のある建物があった。現在まで残っている建物の多くが観光ポイントになっているが、函館の古い建物の多くが時の流れの中で失われたことだろう。



そのすぐ近くに煉瓦造りの旧中華会館の建物があった。



坂道の途中には、古い写真館が残っていた。いまはデジタルカメラの時代だが、これはマグネシウムをボンとたいて、乾板に人物を写していたころの昔懐かしい建物である。





14 大沼公園

大沼公園に行って湖の向うにそびえる駒ヶ岳を見ようと、JR函館駅から列車に乗った。そびえる駒ヶ岳と書いたが、じつは標高1千メートルちょっとで、そびえるというほどの高さではない。もともとは2千メートル近い山だったのだが、昔むかし、噴火で頂上部分が吹っ飛んでしまい、いまのような低山になったそうだ。



一度青函トンネルを抜けてみたいと、JR東日本の「大人の休日倶楽部」の割引切符を買って北海道に来た。函館駅には、この通り大歓迎の横断どこか幕が掲げられていた。冬の函館はそんなに来客が少ないのかなあ――歓迎の名札が二、三枚掲げられているだけの温泉旅館の侘しさに似たものがある。

朝から曇天で、これはまずいな、と思っていたら、その通りになった。大沼公園駅に着くと、駅前には人の気配がない。トボトボと大沼公園の入り口に歩いた。



湖には氷が張り、その上に雪が積もっているので、平地と湖の区別がつきにくい。

太鼓橋の上にカラフルな登山服スタイルの男性がいた。

「今日はどうやら一日中写真はダメのようですね」。その男性が話しかけてきた。その人も「ジパング」の割引切符で千葉からやってきたという。「あと一日函館にとどまって、明日また来ようかな」。その男性が言った。

大沼公園から眺めた駒ヶ岳でなく、別の晴天の日に駒ヶ岳の近くを通る函館本線の車窓から撮った駒ヶ岳の姿をここに載せておこう。



雪の園内をうろついていると、遠くからエンジン音が聞こえてきた。どうやら園内を巡る観光用のスノーモービルらしい。湖の上で氷に穴をあけている人がいた。ワカサギでも釣るのだろうか。



閑散として、それがまた、味わい深い公園である。



15 青函トンネル

1月の北海道へやって来たのはもちろん雪景色を満喫するためだが、いまひとつの理由は青函トンネルで、津軽海峡の海底を通り抜けてみたかったからだ。

何年か前ブダペストへ行ったとき、あちらの大学の先生たちと会食したことがあった。非公式な会食だったので、ある先生が息子さんを連れてきていた。その子どもさんが記憶力抜群で、世界最長の海峡トンネルは青函トンネルで英仏海峡トンネルより長いが、海底部だけを比べると、英仏海峡トンネルの方が青函トンネルより長い。その子どもさんは数字をあげて説明してくれた。おおそうか。そういうわけで、青函トンネルを一度通り抜けておこうと思ったのだ。

東京から青森までは、東北新幹線が時間通りにこともなく走った。だが、新青森駅到着直前になって車内アナウンスがあった。
「トンネル点検のため、青函トンネルは上下線とも運行を見合わせております」

新青森駅で尋ねると、青函トンネルを走って函館につた貨物列車の屋根に、剥げ落ちたトンネルの壁の一部のようなものが載っていたそうだ。中央道の笹子トンネルの例もあるので新青森―函館間のトンネルの点検を始めた。したがって、早くとも午後3時過ぎまでは函館行きの列車は出ない。だが、運行再開の時刻は目下不明である、ということだった。

海底トンネルの亀裂から水がしみこんで、亀裂を拡大させ、やがて、ぼっかり大穴があいて、上から津軽海峡の海水が落ちてくる――なんて、頭の中に渦巻くハリウッドのパニック映画のような妄想を追い払って、新青森駅からタクシーで青森港のフェリー乗り場へ向かった。



フェリー乗り場の乗客待合室は、列車から船に乗り換える人で混雑していた。テレビ局のクルーも来ていた。青函トンネル不通の関連取材だろう。

定刻通りに出向したフェリーの甲板から、津軽海峡冬景色を眺め、余りの寒さにちぢみあがった。あとはもう、船内のラウンジで居眠りをするしかない。



翌日の北海道新聞を読むと、青函トンネルを抜けてきた貨物列車の屋根にのっていたものは、モルタルの一部だったという。青函トンネルの壁や天井にはモルタルを使っていない。それ以外のトンネルを調べたが、壁や天井が剥げ落ちたようなところは見当たらなかった。結局、貨物車の屋根にのっていたモルタルの出所は不明のままだった。



東京への帰路、青函トンネルを通ることができた。トンネルだから外は暗い壁があるだけだ。竜飛海底駅だけが明るい。それだけのことだった。



まもなく、新幹線がこの海底トンネルを走る。

                    (写真と文・花崎泰雄)