イスタンブール・ウォーク
                   まんだら(写真も)


1 シルクロープ

これは私的な感傷のせいなのだが、世界の都市のうちで、もっとも心に響く名前が2つある。サマルカンドとビザンティウムだ。いずれもシルクロードゆかりの都市だ。

  名月や池をめぐりて夜もすがら  芭蕉

  名月はふたつ過ぎても瀬田の月   同

これをちょっと変更して、

  尖塔やサマルカンドの夜半の月

  朧かなビザンティウムの月の橋

これがもしサマになっていたら、地名の響きのおかげだ。

今回、サマルカンドはさておき――。

イスタンブールは古代ギリシア・ローマ時代には「ビュザンティウム」という名で知られ、ビザンティン時代は「コンスタンティノポリス」とよびならわされた。ここはヨーロッパとアジアの通路にあたる要衝で、まずギリシア人が植民市として建設した。やがて、ペルシアの支配下に入り、紀元前2世紀にローマ帝国に編入された。4世紀になってコンスタンティヌス1世がローマ帝国の新首都コンスタンティノポリスをここに築いた。1453529日の火曜日、メフメト2世率いるオスマン帝国の軍がコンスタンティノープルに総攻撃をかけて征服した。以来、この地はイスタンブールあるいはコンティノスタンブールと呼ばれたが、オスマン帝国は192211月崩壊、トルコは共和国になった。

イスタンブールの歴史もまた、革命が銃口から生じ、歴史が血の海から生まれたということを思い起こさせる。くわえて、イスタンブールの歴史の怖いところは、オスマン時代には権力の体制維持のためにもまた、継続的な殺人の制度が必要だと考えた点だ。



オスマン帝国のスルタンは男子継承制だった。14世紀から17世紀にかけて、スルタンが死に、後継者が決まると、その後継者は彼の兄弟とその兄弟の男の子を殺すのが習いになっていた。お家騒動の目をあらかじめ徹底的につぶしておく目的だった。イスラム教は殺人を罪悪としていたが、新スルタンによるこの兄弟殺しは、政治動乱を予防し社会の安定を図ることが目的であるから、支配者には特別に許される、とイスラム教のウラマーも認めていたそうである。

メフメット3世というスルタンは即位ののち19人の兄弟を皆殺しにした。1594年のことだ。スルタンの身内を殺すにあたっては、高貴な血を流すことがはばかれたので、兄弟たちはバスルームで無理やり溺れさせられるか、絹製のロープで首を絞めて殺された。

のちに兄弟殺しに代わって、スルタンの継承が男子による長子相続制が採用された。それ以来、スルタンの兄弟は殺される代わりハレムの中の一室に生涯閉じ込められた。その部屋はカフェス(籠)とよばれた。

権力維持をめぐる恐ろしい話だが、20世紀になってスターリンがやった大粛清の規模に比べれば、稚戯に類する。また、日本の官僚制の中では、中央官庁で誰かが新しく次官に指名されると、その人と同期採用のキャリア官僚がすべてその官庁を去ることが不文律になっていたそうである。いまなおそうなのかは、寡聞にして知らない。

 ふりむけばイスタンブールの赤い月 

2009.5.20





2.オダリスク

イスタンブールの街はヨーロッパ側の旧市街と新市街、それにアジア側市街の3つに分かれている。街を分けているのが、黒海からボスポラス海峡を抜けてマルマラ海に入り、ダーダネルス海峡を通ってエーゲ海・地中海へと続く水路と、ゴールデン・ホーン(金角湾)だ。地図でみるとこれらの水路はユーラシア大陸に取り込まれた水たまりのような印象があるが、イスタンブールに来て実際の風景を見ると、
青い海にイスタンブールが浮かんでいるようにみえる。この風景はサンフランシスコやシドニーにひけをとらない。



海の上ではアジア側とヨーロッパ側を結ぶフェリーや、観光船、貨物船が行き来している。アジア側とヨーロッパ側を結ぶ橋は2本あるが、ラッシュアワーには大交通渋滞をおこす。そこで、ヨーロッパ側とアジア側を結ぶ海底トンネルを建設し、地下鉄を走らせる工事が進んでいる。手がけているのは、大成建設で、海底に溝を掘り、そこへ巨大なケーソンを沈めてつなぎ合わせたあと溝を元に埋めもどすという工法だ。

それはさておき、イスタンブールの歴史的景観はそのほとんどがヨーロッパ側旧市街に集中している。東ローマ帝国の都コンスタンティノープルやオスマン帝国の都がここにあった。旧市街にはトプカプ宮殿、アヤ・ソフィア、ブルーモスク、シュレイマニイェ・モスク、イェーニー・ジャーミーがある。新市街にも歴史的建造物のガラタ塔があるが、どちらかというとこちらは現代の超高層ビルの街だ。入り江・。ゴールデン・ホーンをまたいで二階建てのガラタ橋が旧市街と新市街を結んでいる。
ここに最初に街を築いたのはギリシャ人で、そのギリシャ人たちを率いたチーフの名がビザスだったので、街はビザンチウムとよばれた、とブリタニカ百科事典が伝説を紹介している。紀元後330年にローマ帝国のコンスタンティン帝がここを新首都に定めたことから、コンスタンティヌポリス、コンスタンティノープルと呼ばれた。東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルは1453529日、メフメット2世率いるオスマントルコ軍の総攻撃を受けて落城した。オスマン帝国は東ローマ帝国の宮殿跡に、新宮殿を建て、やがてこの街はコンスタンティノープルともイスタンブールとも呼ばれるようになった。街の名前が正式にイスタンブールで統一されたのは、オスマン帝国が崩壊しトルコ共和国になってからのことだ。イスタンブールの語源ははっきりしないが、イスラムボル(Islambol、イスラムがいっぱい)のなまりではないかとする説もある。

とまれ、イスタンブールにやって来た旅人は、まずトプカプをのぞきに行くことになる。

筆者もイスタンブールに着いた翌日、さっそくトプカプ宮殿へ行った。宝物館で1964年の映画『トプカピ』で有名になったエメラルドの短剣を見た。とはいうものの、この宝剣を見る前に、大きな籠一杯に山盛りにされた大粒のエメラルドが展示されているのをすでに見ていたので、いまひとつ感動がもりあがらなかった。

トプカプ宮殿の印象はなんとなく暗い感じだった。おなじイスラムの宮殿でも、グラナダのアルハンブラ宮殿はずいぶん明るい感じがした。アルハンブラを見たのは、南スペインの真夏のことで、トプカプを見たのは3月後半のことだ。緯度でいえば日本の青森にあたるイスタンブールは3月後半、晴れと雨を日替わりで繰り返した。晴れると早春。降れば晩冬。春と冬は海の色にも反映された。宮殿の印象の明暗をわけたのはお天気のせいだったかもしれない。

トプカプではハレムも見たが、19世紀に描かれたアングルの『グランド・オダリスク』のあの官能的なイメージを抱えたまま宮殿のハレム部分をのぞくと、その内部がやたら暗く陰惨にみえてくる。ハレムは昔の中国の後宮と同じで権力と陰謀で窒息しそうなところだった。ハレムに囲い込まれた女性の多くが奴隷で、スルタンの寵愛を受けその子どもを産み、子どもが次のスルタンになることで宮廷での権力に近づくことができた。

スルタンのハレムに囲いこまれていた女性の多くが外国からつれてきた奴隷で、やがてその奴隷の子どもが次々とスルタンになることで、オスマントルコ帝国のスルタンのトルコ系としての遺伝子はどんどん影が薄くなったそうである。

スレイマン大帝の妃だったヒュッレム(ロクセラーナ)はウクライナ出身のスラブ系のキリスト教徒で、奴隷だった。スレイマンの子どもを5人生み、ついには奴隷から正式の妃に昇格した。オスマン帝国始まって以来のことだったという。スレイマンと第一夫人との間に生まれた世継ぎ候補のムスタファが反逆を計画しているとスレイマンに吹き込み、ムスタファを殺させたほか、権力の階段を上るために、さまざまな血なまぐさい陰謀をめぐらせたといわれる。昔々中国の司馬遷が「史記・呂后本紀」に書き残したほどの凄惨さはないのだが……。

  雲鬢花顔金歩揺
  芙蓉の帳暖かにして春宵をわたる
  春宵はなはだ短く日高くして起く
  これより君王早朝せず

「長恨歌」の一節を思い出させるような、オリエンタリズム・ブーム華やかなりし頃の各種オダリスク絵
が醸しだす官能的な雰囲気も、百聞は一見にしかず、本物のハレムの残骸をみると、一気に雲散霧消してしまう。



歴史的景観地区であるヨーロッパ側の旧市街を「イスタンブール・ウォーク」と称して、こんな調子で2009年の3月後半の2週間、ウロウロと歩き回った。

2009.5.25





3.オットマン・オリエンタリズム

トプカプ宮殿を見た翌日は朝から雨がショボつく天気だった。

雨は街の表情を変える。晴れた日のイスタンブールの市街は、2006年にノーベル文学賞を受賞したオルハン・パムクの思い出の記『イスタンブール』の鬱屈してくすんだ筆致とそれに添えられたアラ・ギュレルのモノクロームの写真とは無縁の、カラリとした印象を与えるのだが、雨の朝のしっとり濡れた路面や、鈍く光る路面電車のレール、雨雲が重苦しく垂れ込める空、傘もささず、あるいは傘をさして歩く人々の倦怠感を滲ませたうしろ姿、そうしたものを眺めていると、いつのまにかこの風景がオルハン・パムクの記憶やアラ・ギュレルの写真とつながっているように思えてくるのだ。



それはさておき、その日は一日を考古学博物館ですごした。

オスマン帝国は16世紀のスレイマン1世の時代に最盛期を迎えた。オスマン朝はバルカン半島を手中にして神聖ローマ帝国と国境を接し、地中海沿いの北アフリカを領域に入れ、黒海の北でロシアと接し、カスピ海でペルシャに接する世界帝国の仲間入りをした。そのあとゆっくりと衰退を始めた。近代化で力をつけたイギリスをはじめとするヨーロッパの列強に支配地を掠め取られていったせいだ。

イスタンブールの考古学博物館はこうしたオスマン帝国の黄昏期につくられた。帝国の衰退は近代化という点で西洋に遅れをとったのが原因であり、オスマン帝国も西洋風の近代化をしなければならぬ、という遅まきながらの近代化政策の一環だった。

さすがに一度は地中海を取り巻く地域の相当部分を属領にしていただけあって、イスタンブールの考古学博物館の展示物は、ギリシャ風のもの、ローマ風のもの、エジプト風のものなど珍しいものが沢山ある。見る人によっては、大英博物館やカイロの考古学博物館並みに楽しめるかもしれない。



そのなかの逸品がアレキサンダーの石棺だ。縦約4メートル、横約2メートル弱、高さ3メートル弱の白色大理石で作られた巨大な石棺が透明な強化ガラスの覆いの中に納まっていた。実際にアレキサンダーの遺骸をおさめたわけではない。だが、造りは壮麗で、同時に、お棺であるからそれなりの妖気もただよってくるのだ。

アレキサンダーの石棺は1887年に、当時オスマン帝国の帝国博物館長だったオスマン・ハムディ・ベイが古代フェニキュアの中心都市シドン(現在のレバノンのサイダー)のネクロポリスで発掘し、イスタンブールに持ち帰って博物館に陳列したおびただしい数の石棺のうちの1つだ。ハムディは当初この石棺をアレキサンダーのものと推定したが、あとになって別人の埋葬に使われたものとわかった。白色大理石の棺の四面にアレキサンダーが狩をしている姿や戦闘の場面が浮き彫りにされているので、いまでもアレキサンダーの石棺とよばれている。



アレキサンダーの石棺が発掘された19世紀後半になると、さしものオスマン帝国の威光もすっかりかげりを見せ、シュリーマンがトロイの発掘品を勝手に国外に持ち出し、フランスが弱体化するオスマン帝国支配下のレバノンに影響力を強め、レバノンにやって来て考古学調査を行い、発掘品を持ち帰ってルーブルに飾るようになった。そうした西洋諸国による考古学資料の持ち出しを「盗み」とみなしたハムディは、1884年に貴重な考古学資料のオスマン帝国外への持ち出しを禁止する法律をつくらせた。

つまりこういうことだ。西洋はオスマン帝国をふくむオリエントから文化財を盗み、オリエント圏内にあっては先んじて西洋化の道を歩み始めたオスマン帝国の人々が支配下のアラブ人から文化財を盗んだ。博物館というのはどこへ行っても歴史的盗品倉庫のようなものだ。

こうした西洋にならった近代化の過程でオスマン帝国が身につけた、オスマン帝国下のアラブ地域に対する態度や視線を「オットマン(オスマン)・オリエンタリズム」と名付けた学者がいる。その学者によると、日本が近代化の過程で周辺のアジア諸国を見た蔑視のまなざしもまた同質のオリエンタリズムなのだそうだ。

さて、2007年のことだが、エルサレムの市長が1880年にエルサレムのシロアムの地下水路で発見され、当時ここを支配していたオスマン帝国がイスタンブールに持ち帰り、考古学博物館におさめた、ヘブライ語が刻まれているシロアムの石碑をエルサレムに返却してくれないだろうかと、トルコ共和国に話をもちかけたことがあった。

トルコ政府は「それは難しい」と断り、代案として友好のための短期間の貸し出しを提案した。

紀元前のあるとき、たしかにエルサレムは古代ヘブライ王国の首都だった。しかし、そののち、ペルシャ、アレキサンダー帝国、ローマ帝国などの支配下に移り、紀元7世紀ごろにはアラブの勢力下に入った。イスラム勢力とキリスト教十字軍のあいだで、その土地をとったりとられたりの争奪戦が繰り返された。オスマン帝国の支配下にあったのは16世紀から20世紀の初頭の間である。1917年に支配権がトルコからイギリスに移り、やがて1948年、パレスティナに入植していたユダヤ人がイスラエルを建国した。イスラエルは首都をエルサレムと定め、1967年その全域を支配することに成功した。もし返すとすれば、トルコ共和国はいったいどこの誰にシロアムの刻板を返せばいいのだろうか?

2009.5.31





4.ドーム

イスタンブールのモスクはみんな同じ形をしている。巨大な半円形のドームをいただいた建物の周囲にミナレットを配し、遠くから見ても、近くから見ても、明るい真っ昼間に見ても、夕暮れにシルエットで見ても、その姿には見る人を威圧するような重苦しさがある。ドームを頂いた建物は兜を、周りに配されたミナレットは鋭い角を連想させる。イスタンブールのモスクはマルマラ海から陸に上がってきた巨大な甲殻類に似ている。



建造物の上部をドームで覆うやり方は古代からインド、中東、地中海にかけて広く用いられてきた建築様式だそうだ。ドームは天空をあらわした。技術上の問題からドームをのせる建物は小規模なものに限られていた。それを巨大建築の上に載せたのがビザンチン帝国で6世紀に建てられたキリスト教のハギア・ソフィア聖堂だった。書物にそのようなことが書かれていたのでイスタンブールまで見に来たのだ。

こうしたドームはバチカンの聖ピエトロ大聖堂にもフィレンツェのドゥオモにも(あたりまえだ。ドゥオモとはドームのことなのだから)、ベニスの聖マルコ寺院にもある。ドームをいただいた寺院は日本にもあって、東京の築地本願寺の建物がそうだ。インドの寺院建築様式を手本にしたためだ。



ビザンチン帝国の首都コンスタンティノープルを攻め取ったオスマン帝国は、ハギア・ソフィア聖堂の内部を小規模改造し、アヤ・ソフィアと改名、ミナレットを建ててモスクにした。建物の基本的な構造はビザンチン様式を踏襲し、表面をイスラム様式の装飾で被った。それ以後、オスマン帝国のスルタンが建てたモスクはアヤ・ソフィア・モスクをお手本にしたので、イスタンブールのモスクはおむね同じような形をしている。

イスタンブールのモスクはビザンチン建築とイスラム寺院建築の融合体だが、どちらかというと、イスラム様式よりもビザンチン様式が強い。現代の軽やかな超高層ビルを見慣れた目には、イスタンブールの建築上の技法はさておき、その外形が与える印象はなんとも鈍重である。カンボジアのアンコール・ワットの方がはるかに優美な印象を与える。

イスラム建築について筆者の好みを言わせていただくと、もっとも優美な建物はインド・アグラのタージ・マハルだ。こちらの方はモスクではなく霊廟だが、建物の姿といい大理石の壁面といい、まるで夢のような建築物である。



さて、2009年の3月後半、イスタンブールではあちこちのモスクで大規模な修復工事が行われていた。ブルー・モスクとならぶ名刹スレイマン大帝のモスク・スレイマニエ・ジャーミーも修復中で、ミナレットには足場が組まれ、モスクの内部は立ち入り禁止になっていた。グランド・バザールすぐそばのヌルオスマニエ・ジャーミーも修復工事中で立ち入り禁止。アクサライのヴァリデ・ジャーミーは修復工事の覆いに修復完了予想図を描いていた。



(2009.6.5)





5.クロワッサン

イスタンブールのレストランのテーブルにつくと、どんなレストランであれ、だまっていても篭に入ったパンが出てきた。ソウルのレストランでテーブルの上に各種キムチやその他の小皿が並ぶのと同じである。

イスタンブールのパンはなかなかうまかった。パリの朝ごはんでカフェオレといっしょに食べるパンほどのデリカシーはないが、質実剛健な味がした。

街角では手押し車でシミット―ドーナツ型のパンに胡麻をふった固めのパン―を売っていた。ニューヨークのプリッツェル売りと似ている。ちょっとお腹がすいたなというときに食べるものらしいが、といって1つを丸ごと食べきってしまうと、こんどはお腹がちょっときつい感じがしてくる。イスタンブールの人はこのシミットをよくかじっている。毎日かじってよく飽きないものだとも思うが、日本人が塩味だけのおむすびにかじりついてあきないのとおなじだろう。



インド、パキスタン、アフガニスタンからトルコにかけての小麦食の人たちは、ナンやチャパティーを好んで食べる。街のケバブ専門店では大皿に薄いナンを敷いてそのうえに各種ケバブを並べて出してくれた。ケバブをたいらげたあと、肉汁と脂がよくしみこんだこのナンをちぎって食べると美味である。むこうで食べているトルコのオジさんのようにまるまると肥るのだろうけれど。

長方形に焼いた厚めのナンをピデといい、これをベースにしてピザ風のものを焼く。トルコ風のピザだ。昼飯にこのピデを注文したときでも、テーブルにパンが出てきたことがある。

街角のチャイハネこと喫茶店のなかには、焼きたてのチャパティーを食べさせてくれるところがある。これをちぎって食べ、チャイを飲む。トルココーヒーは有名だが、トルコでは日常、コーヒーよりも紅茶の方が幅をきかせている。チャイは小さめのグラスで飲む。



ある日ヨーロッパ風のお菓子屋さんには入ったら、クロワッサンを売っていた。店のおばさんが盛んに「オリジナル、オリジナル」と言っていた。そのクロワッサンを買って、菓子屋の二階のラウンジで紅茶と一緒に食べてみた。さしてうまいクロワッサンではなかった。

イスタンブールにもってきた日高健一郎、谷水潤『建築巡礼 イスタンブール』(丸善、1990年)にクロワッサンの来歴が紹介されている。紀元前340年、ビザンティオンがマケドニアの攻撃を受けたさい、城壁の歩哨が三日月に浮かぶマケドニアの軍勢を見つけて、マケドニア軍を退けてビザンティオンを守った。そこで、ビザンティオンは月の女王へカテの三日月を街のシンボルにした。このことがあって以降、三日月は戦の勝利のシンボルになったそうだ。1217年ウィーンのパン屋さんたちが、十字軍を派遣する神聖ローマ皇帝レオポルド4世に勝利祈願の三日月パンを贈った。1683年、ウィーンはオスマン・トルコ軍に包囲されたが、何とか街を守りぬき、トルコ軍を撃退した。このときのお祝いにキプフェルという三日月パンが焼かれたという。このキプフェルをフランスに紹介したのがマリー・アントワネットだそうだ。

さまざまな伝承が入り混じったこの話、確かなことはウィーンにキプフェルという三日月形のパンがあり、19世紀にアウグスト・ザンクというオーストリア人の元砲術将校がパリにパン屋を開店してキプフェルを焼いたのがフランスのクロワッサンの始まりであると、Jim Chevallier, August Zang and the French Croissant: How Viennoiserie Came to Franceに書かれている。

菓子屋のおばさんが言った「オリジナル」がクロワッサンの起源がイスタンブールであるといっていたのか、当店のオリジナル・クロワッサンと言おうとしていたのか、いまとなっては定かではない。

蛇足ながら、パンではないが、lokum―ターキッシュ・デライト―というお菓子もなかなかのものだった。



2009.6.12





6.イスタンブール大学

イスタンブールの由緒ある市場グラン・バザールの隣のベヤズット・モスクがある広場に面してイスタンブール大学本部の壮麗な建物と門が建っている。19世紀中ごろ軍事省として建てられ、トルコが共和国なったときイスタンブール大学の施設になった。



イスタンブール大学の起源は1453年にスルタン・メフメットが東ローマ帝国の都コンスタンティノープルを攻めおとしたとき設立したイスラム学院(マドラサ)である。エジプト・カイロのアル・アズハル大学の起源975年や、イタリアのボローニャ大学の1088年、パリ大学の1150年、オクスフォード大学の1167年、スペインのサラマンカ大学の1218年はおよばないが、長い歴史をもつ大学である。現在、教員約5000人、学生約6万人の大所帯だ。

イスタンブール大学をはじめトルコの大学ではヘッドスカーフを被った女子学生やイスラム風にひげをはやした学生は、クラスに出席することが原則として許されてこなかった。オスマン・トルコのスルタンを追放し、トルコを共和国として再出発させたケマル・アタテュルクは、イスラムを排除し徹底的な世俗国家の道を選んだ。アタテュルクの時代に現代の大学システムがつくられたので、大学はアタテュルクの世俗主義を守る砦のようになっている。イスタンブール大学の本部建物前にもアタテュルクの銅像が建っている。



ケマル・アタテュルクはトルコ近代化のために、イスラムを後進性のしがらみとみなしてイスラム離れを推し進めた。シャリーアに基づくイスラムの宗教法廷を廃止した。マドラサでのイスラム教育を禁止し、すべての教育を世俗主義の下で行うよう教育制度を改めた。さらに一夫多妻を禁止する民法を制定した。また、後進性の象徴であるとして、男性のトルコ帽着用を禁止した。このあたりは、明治初期の日本の断髪や中国・辛亥革命後の辮髪の廃止に似ている。

しかし、アタテュルクは女性のヘッドスカーフについては特に言及しなかった。1980年代の軍によるクーデターのあと、大学キャンパスでのヘッドスカーフ着用を禁止する命令が出された。ヘッドスカーフ禁止は大学だけでなく官庁や裁判所その他の公的施設などに広がった。スカーフをつけそのうえにかつらを被ってカモフラージュし、クラスに出た女子学生もいたそうである。



イスラムの被り物を女性に対する差別であり、人権蹂躙であるとする意見がある。一方で、ヘッドスカーフの着用の有無によって女性を高等教育の場や、公的施設から排除するのは人権侵害であるという意見がある。双方とももっともな意見である。

というわけで、トルコでもヘッドスカーフ禁止派と容認派が論争を繰り広げていたが、議会で容認派が力をつけたことから、2008年の春、服装の自由、つまりヘッドスカーフの禁止解除を保障する文言が憲法修正に盛り込まれた。とはいえ、そのわずか数ヵ月後の6月には憲法裁判所がその修正を違憲であるという判断を出した。

ヘッドスカーフの着用はそれぞれの大学によって、学長の判断で厳禁されたり大目に見られたりしてきた。学生たちの意見も、ヘッドスカーフのキャンパス内での着用をめぐって割れている。かまわないとするものが半数、ヘッドスカーフの着用で共和国建国の大原則である世俗主義の放棄へとつながることを心配する意見がまた4割ほどあるのだそうだ。

トルコで現在政権を握っているのはイスラム系の公正発展党(AKP)で、イスラム保守系票を基盤にしている。ヘッドスカーフ着用の自由はイスラム票取り込みの手段だ。一方で、建国の理念である世俗主義にこだわっているのは、軍と司法と大学と野党の共和主義者たちである。

2008年にはAKPの政党としての存在そのものが世俗主義を掲げるトルコの憲法に違反しているのではないかという裁判が憲法裁判所で進められた。裁判所は僅差でAKPに解党命令を出す判決を避けた。AKPは前身のイスラム系政党の時代、何度か解党命令を受けたことがある。イスラム教徒の国の世俗主義政治の実験はなかなかに熾烈なものがある。

2009.5.25




7.ガラタ橋

入江ゴールデン・ホーン(金角)によってイスタンブールのヨーロッパ側は旧市街、新市街に二分されている。ゴールデン・ホーンには両市街を結ぶ複数の橋がかけられているが、ボスポラス海峡に最も近いものがガラタ橋だ。



以前は浮橋だったが、1990年代に現在の橋が建設された。橋は2階建てで上部が道路、下部が魚料理のレストラン街に沿った歩道になっている。上部の道路には自動車と路面電車が走り、歩道もついている。その歩道からおおぜいの人がゴールデン・ホーンに釣り糸を垂れている。アジのようでもあり、小型のサバのようでもある魚が釣れる。



イスタンブールから東京に帰ってまもなくのころ、NHKのドキュメンタリーがガラタ橋の釣り人を映像で紹介していた。世界同時不況がトルコに及び、失業者が増え、ガラタ橋で晩ごはんの魚を釣る姿が目立つようになったとかなんとか、釣り人と生活苦を結びつけるようなコメントを流していた。

とはいうものの、釣り竿を貸す人やエサ売りの人、釣り人にチャイを売る人もいて、しっかり稼いでいる。生活苦による釣り人だけでないことはたしかだ。



ガラタ橋のたもとは新旧両市街とも船着場になっている。定期フェリーが止まる。新市街側のカラキョイには、小さいながらも魚市場があって、イキのいい魚を売っている。その近くに魚料理のレストランがある。ガラタ橋下部の魚レストラン街と同じで、ここの魚レストランも客の呼び込みが激しい。

魚料理は一度だけクンカプというマルマラ海側の魚レストラン街で食べてみた。瀬戸内海うまれで魚を常食にして育った筆者には、値段が高い割には味の方はいまひとつだった。

ガラタ橋周辺はサバを焼いてパンにはさんだサバ・サンドの屋台が有名だったそうだが、衛生上の問題もあって、往時の盛況は薄れた。「輸入の冷凍サバを使うようになってはおしまいだ」とイスタンブールの住人はコメントした。名物にうまいものなしということだろうか。

2009.7.1





8.ガラタ塔

ゴールデン・ホーン湾に面し、対岸の旧市街地のトプカプ宮殿、アヤ・ソフィア、ブルー・モスク、スレイマニイェ・ジャーミーなどを眺望できる新市街側の南斜面にガラタ塔が建っている。塔の高さ67メートル。エレベータで上層部に上るとイスタンブールの風景が360度堪能できる。ボスポラス、マルマラ、ゴールデン・ホーンの3つの海がイスタンブールの絶景に大きく寄与していることがわかる。



この斜面に最初に塔が建てられたのはビザンティン時代の6世紀のことだったそうだ。それは木造の灯台だったといわれている。14世紀中ごろになって石造りの塔に建てかえられた。

コンスタンティノープルがオスマン・トルコに征服されたのち、塔は軍事用の監視塔や天体観測塔として使われた。港湾労働に従事する奴隷の宿舎になったこともあった。

17世紀のはじめハザルフェン・アフメト・チェレビという人物がこの塔の上から人工の翼をつけて飛び立ち、巧みに風をつかんでボスポラス海峡を越えて6キロも飛び、対岸のアジア側に着地したという。この技術を軍事的な脅威と感じたスルタンは、ハザルフェンをアルジェリアへ追放した。

18世紀になると火の見やぐらとして使われた。皮肉なことに18世紀と19世紀の2度にわたってこの塔は火事の被害を受けた。1960年代に大改修がおこなわれた。塔の壁の厚さは地表部で3.75メートル、最上層部で20センチ。現在の用途はもっぱら観光。展望台の下の階にはレストランがあって、観光客に夜な夜なべリーダンスのショーを見せているそうだ。



ガラタ塔が建つあたりはオスマン帝国の時代、ギリシャ人、アルメニア人、ユダヤ人らが多く住み、往時の国際都市イスタンブールにあっても随一の、ヨーロッパの匂いのする場所であった。

ガラタ塔から対岸を眺めると、旧市街がなだらかな起伏を描いていることがわかる。古代ローマには7つの丘があったということから、東ローマ帝国の首都だったコンスタンティノープルことイスタンブールも7つの丘で構成されていることになっている。地図(Dominique Halbout du Tanney, Istanbul Seen by Matrakci, istanbul, Dost Yayinlari, 1996から引用)を見ると確かに7つの丘のありかが書かれている。



それぞれの丘の上にはオスマン・トルコ時代の建物が残っている。第1の丘にはトプカプ宮殿、第2の丘にはヌルオスマニュイェ・ジャーミー、第3の丘の上にはスレイマニイェ・ジャーミー、第4の丘にはスルタン・メフメットII・ジャーミーなど、歴代スルタンの記念建築物がそびえている。

トプカプ宮殿の海側は崖になっており、宮殿が丘の上にあることを実感できる。スレイマニイェ・ジャーミーが建つ第3の丘への道はちょっとした坂道だ。このモスクからゴールデン・ホーン側のイェニー・ジャーミーやエジプシャン・バザールへの道は急な下り坂である。



東京は平ったい町だが、それでも歩いているとところどころに坂道があったりする。イスタンブールの坂道もこれと同じようなもので、車をつかわず、街をてくてく歩けばなるほど7つの丘の存在が実感できる。

2009.7.2





9.トルコ・コーヒー

ガラタ橋の旧市街側のたもとにエジプシャン・バザールがある。かつてはスパイスを扱う店が多かったのでスパイス・バザールともいう。トルコ語ではムスル・チャルシュスだ。ムスルはアラビア語のミスル(エジプト)に同じ。チャルシュスは市場だ。市場を意味するスークはアラビア語、バザールはペルシャ語だ。



ある日この市場をぶらついていたら、引き立てのコーヒーのいい匂いが漂ってきた。匂いをたどっていくとメフメト・エフェンディというコーヒー豆を売る店だった。有名な店らしくたいていの旅行ガイドブックにでている。長い列ができていた。

トルコのコーヒーはエジプトあたりのコーヒーと同じ煮出しコーヒーだ。うわずみだけをすする。自宅に帰ってから、買ってきたトルコのコーヒーを、昔カイロのスークで買った道具で煮出してみた。あまりうまくはなかった。エジプトの煮出しコーヒーはカルダモンが混ぜてあるやつで、口に合わなかった覚えがある。イスタンブールのコーヒーはそれほどスパイスの味は強くなかったが、普通のコーヒーのほうがうまい。

カイロのスークでこのコーヒー道具を買ったときは面白かった。売り手の言い値で買おうとしたら、スークを案内してくれた知り合いのエジプト人が、横合いから二言三言店主に声をかけた。とたんに値段が大幅に下方修正された。

ところで、イスタンブールのチャイハナでは多くの人がチャイ(紅茶)を飲んでいる。コーヒーを飲む人は少数派だ。昔はもっと大勢の人がコーヒーをたしなみ、コーヒーショップには人がたむろし、政治に対する批判がコーヒーテーブルで盛り上がった。17世紀にはオスマン帝国政府はコーヒーショップが反政府グループのたまり場になっているとして、店を閉めさせたことがある。コーヒーショップはウィーンに伝えられ、やがて有名なパリのカフェになった。コーヒーテーブルで政治を語る習慣は残っている。



話をエジプシャン・バザーにもどすと、この市場は17世紀に、イェに・ジャーミーの付属施設として建てられた。スパイスを扱う店の数が減って、かわりに食料品、電化製品、衣料品などの店が増えた。



市場の周辺にはチーズなどの乳製品や生鮮食料品を扱う店が数多くあり、いつも買い物客でごったがえしている。

2009.7.9





10.イェニ・ジャーミー

ガラタ橋の旧市街側のたもとに建つモスクがイェニ・ジャーミーだ。夕暮れ時に新市街側から眺めるライトアップされたイェニ・ジャーミーは、イスタンブールのとっておきの景観の一つだ。



イェニ・ジャーミーは「新しいモスク」という通称で、正式の名前はヴァリデ・スルタン・ジャーミーという。ヴァリデは母親のこと、「母后のモスク」という意味だ。メフメト3世の母のサフィイエとメフメト4世の母のトゥルハン・ハティジュの2人の母后の命令で建設された。完成は17世紀半ば。このモスクの建築以降、本格的なモスクが建設されていないので、3世紀以上たったいまでもイェニ・ジャーミーと呼ばれている。

なぜかこのモスクの広場は鳩のたまり場になっていて、あちこちフンだらけである。モスクの中には大空間があり、新しいモスクだけにタイルなどもまだ光ってみえるが、装飾的にはブルー・モスクなどとくらべるとものたりないところがある。



ハレムに取り込まれた女性はスルタンの子を身ごもり、その子が運よくスルタンの座につけば、スルタンの母后として絶大な権力を握り、モスクの建設を命令することも可能になる。

ハレムの中では、多くの女性がスルタンのタネを宿したいと熾烈な競争をし、スルタンの子を産んだ女性はその子がスルタンになる日を願ってさまざま運動をする。新しいスルタンが即位すると、新スルタンの兄弟は腹違いの兄弟も含め風呂場で溺死させられたり、絹のヒモで扼殺されたりする慣わしだったが、やがて、トプカプ宮殿の中につくられたカフェス(鳥かご)と呼ばれる隔離施設に入れられることになった。日本でも徳川時代には武家の次男三男などは部屋住みとして飼い殺しにされたが、カフェスはその残酷版だろう。

アブドゥル・ハミト1世というスルタンは1774年に即位するまでの48年間をカフェスに幽閉されて過した。即位して死ぬまでの15年間にハレムの女性7人との間に26人の子どもをつくった。

その七人の寵妃の一人にナクシディルというフランス人の女性がいて、マフムト2世の母后となった、といわれている。ナクシディルはナポレオンの妻で、奔放な男性遍歴をくりひろげたジェフィーヌの従姉妹で、西インド諸島のフランス領マルティニクの出身だといわれている。マルティニクとフランスの間で海賊にさらわれたあげくスルタンに献上され、トプカプのハレムに放り込まれた。

俗にそういわれているが、歴史家によると、そのことを証明するきちんとした資料はなく、どうやらお話に過ぎないとされる。

なぜこのようなファンタジーがまことしやかに語り継がれているのか、ということについてはさまざまな見解がある。



古くはフランスとオスマン帝国の結びつき強化のための宣伝材料に使われたという説。インドネシアに送り込まれたデウィ・スカルノが大統領第3夫人のファンタジーのヴェールの下で、日本とインドネシアの結びつきの象徴として利用されたようなものである。

新しくは、海賊、誘拐、奴隷、ハレムといったムスリムの女性に対する抑圧、ひいてはイスラム世界の専制や野蛮な習慣を宣伝するための格好の材料になるからだ、という説。スカルノ第3夫人はインドネシアに食い込もうとする商社のスカルへの手土産だった、という見解に似ている。

2009.7.12





11.アヤ・ソフィア/ハギア・ソフィア

イェニ・ジャーミーを見たついでに、旧市街のモスクをいくつかのぞいてみよう。

アヤ・ソフィアは15世紀から20世紀にかけてイスラム寺院だったが、トルコ共和国建設の指導者で世俗主義を唱導したケマル・アタテュルクによって1935年にイスラム寺院から博物館に切り替えられた。すごいことをするものだ。日本でいえば法隆寺が仏教寺院でなくなり博物館にされたようなものだ。



イスタンブールのモスクは日本のお寺とちがって拝観料をとらない。アヤ・ソフィアはモスクであることをやめたので、入館料を取る。

アヤ・ソフィアは東ローマ帝国時代にはハギア・ソフィアという名だった。この建物は最初は4世紀に建設され5世紀に火事で半壊し、6世紀に反乱で火をはなたれて全壊した。その後立て直された建物が現在に至っている。もともとギリシャ正教の教会だったが、1453年にイスタンブールがスルタン・メフメト2世によって征服されたのちに、イスラムの寺院になった。



聖堂内部のキリスト教会絵画はイスラム教徒によって漆喰で塗りつぶされたが、博物館になった現在では、その漆喰が剥がされ、もとの壁画が現れている。

建物の内部は立て横約70メートルの長方形で、ドームまでの高さが55メートに達する大空間である。



コンスタンティノープルがオスマン・トルコ軍によって陥落したのは1453529日のことだ。オスマン・トルコ軍は2ヵ月近くコンスタンティノープルを包囲していたが、城壁の守りが堅く攻めあぐねていた。



総攻撃を前にスルタンは、「コンスタンティノープルを征服したら、その後3日間、略奪は勝手放題である」と全軍を叱咤激励したという。第一、二次世界大戦のときも、勝者たちは戦後の支配地域の分捕りを決めた。しかし、兵隊個人には戦利品を認めなかった。戦争の文明化?



コンスタンティノープルでは、1953528日から29日にかけてハギア・ソフィアで夜通しミサが行われていた。東ローマ帝国最後の皇帝コンスタンティン11世も日付が代わるころ城壁からハギア・ソフィアに現れて祈りを捧げ、再び城壁に帰っていった。



529日の夜明けとともに総攻撃が始まり、やがて城壁がやぶられオスマン・トルコ軍が場内になだれ込んできた。ハギア・ソフィアは避難してきた市民であふれた。



コンスタンティン11世は刀を手にオスマン・トルコ軍に切り込み、戦死した。皇帝のものだという首級がハギア・ソフィア前の石の台の上に置かれ、メフメト2世がそれを見たといわれている。



スルタン・メフメト2世は29日午後になって馬でハギア・ソフィアに現れ、建物の壮大さにうたれたと伝えられている。流血を洗い流し、偶像崇拝物を消し去り、イスラムのモスクとせよ、と命令した。

同じ日(5月29日火曜日)、あるいは同じ週の金曜日、ハギア・ソフィアの上層階の窓からイスラム教の礼拝を呼びかけるアザーンが流れた。スルタン・メフメット2世は、最後の東ローマ皇帝が祈りをささげた祭壇の前で、感謝の祈りをした――エドワード・ギボンが『ローマ帝国衰亡史』で書いている。

2009.7.17





12 ブルー・モスク/スルタン・アフメト・ジャーミー

オスマン・トルコ時代にモスクに転用されたアヤ・ソフィアが1930年代に博物館になったので、スルタン・アフメト・ジャーミーとスルタン・シュレイマニイェ・ジャーミーがイスタンブールを代表する二大寺院になっている。

アヤ・ソフィアは博物館なので入館料をとるが、ブルー・モスクは現役のイスラム寺院なので観光客からも入館料はとらない。ザカート(喜捨)の箱がおいてあるだけだ。ただし、モスクなので異教徒であっても女性はヘッドスカーフを強制される。とはいうものの、それほどうるさくはない。

スルタン・アフメト・ジャーミーがブルー・モスクの異名をとるのは、モスク内部の壁面が青い色にみちているからだといわれる。正確には、みちていたからだといいうべきだろうか。



筆者はどのようなブルーにみちているのか期待しながら内部を見た。たしかに壁面のタイルの基調は青だが、それほど強いブルーの印象は受けなかった。

日高健一郎・谷水潤『建築巡礼 イスタンブール』(丸善、1990)によると、かつてはタイルより上の壁面やドームの内側に青を基調としたフレスコ画の幾何学模様が描かれていて、この壁面の青が建物の260ものステンドグラスの窓からさし込む光にとけて堂内を青く染めあげていたという。ところが修復工事によって、オリジナルとされる鈍い色調に変えられて、ブルー・モスクがブルーでなくなってしまった。



修復工事ではときどきこうした計算違いが生じる。以前アンコール・ワットを見に行ったとき、インド隊が修復を担当した建物だけが周りの古びて苔むした石造りの建物の色調と異なる妙に白っぽい、というか白々しい建物になっていた。インド隊が念入りに苔をとり汚れをとって建物の石を漂白したためだった。

さて、ブルー・モスクは1609年、アフメト1世が19歳のときに建設を始めた。スルタンはこのモスクに相当いれ込んでいたようで、時には現場に立って建設作業を激励・督促したと伝えられている。モスクは1616年に完成したが、アフメト1世はその翌年の1617年に27歳で若死にした。

このモスクが変わっているのは、ミナレットが6本建てられていることだ。長場紘『イスタンブル』(慶応義塾大学出版会、2005年)によると、スルタンがミナレットを「アルトゥン(金色)にせよ」と言ったのを、建築家が「アルトゥ(六)」と聞き間違ったからだといわれているが、真偽のほどは定かではない。



スルタン・アフメト1世の妃キョセムはギリシャ出身の奴隷で、アフメト1世死去後、息子のオスマン2世、ムラト4世、イブラヒム、孫のメフメト4世が次々とスルタンになったので、スルタンの母として長期間権勢をふるったが、ついにはハレム内の陰謀で孫のメフメト4世の母后、つまりは息子の嫁であるトゥルハン・ハティゼに殺された。歴史の本によると、トゥルハン・ハティゼの命を受けたハレムの宦官長が、カーテンでキョセムの首を絞めたという。

オスマン2世は伯父にあたるムスタファ1世にスルタンの座を奪われたのち殺された。なんでも睾丸を潰されて殺されたといわれる。奇妙な殺し方だが、それがスルタンを殺すためのオスマン・トルコの伝統なのだそうだ。ムスタファ1世は即位1年後にムラト4世によってスルタンの座を奪われた。ムラト4世はスルタンになると弟のベヤジト王子を殺した。

ムラト4世が死去すると、残された弟のイブラヒム1世がスルタンになったが、凶暴なだけの無能な君主で、ハレムの女性の不義を疑って妾姫数百人をボスポラス海峡に沈めて殺したといわれている。イブラヒム1世の治世は覆いに乱れ、退位後は監禁されたのち絞殺された。

スルタンというのはろくな死に方ができない――不幸な仕事だったようだ。

2009.7.27





13 ヒッポドローム

ブルー・モスクの西側にある広場がヒッポドロームだ。「馬のコース」を意味するギリシャ語。いまではトルコ語で「アトメイダヌ」(馬の広場)ともよばれている。

ヒッポドロームはビザンティン時代のコンスタンティノープルの中心で、中国でいえば天安門広場にあたる。東ローマ帝国時代は、ここで馬車競争などさまざまな催しが行われた。「パンとサーカス」のサーカスが民衆に提供されたところだ。

ヒッポドロームは民衆の不満の爆発の場にもなった。ユスティニアス1世の532年、この広場で反ユスティアス暴動が起きて、皇帝の身に危険が迫る事態にまでなったことがあった。皇帝の側近たちは、ユスティニアスにコンスタンティノープルから脱出するよう勧めた。ユスティニアスもその気になったが、そのとき、ユスティニアスの妻テオドーラが、ギボンの『ローマ帝国衰亡史』によると、次のようにユスティニアス1世を叱咤した。

「逃亡が身の安全の守る唯一の方法だとしても、逃げ出してはなりませぬ。死は生まれたときからの約束事です。国を治めてきた者が、威厳と権力を捨てて生き延びてなるものでしょうか。王冠と紫のローブを失った姿を見られぬよう、生きながらえて皇妃の称号ぬきで人に呼ばれることのないように、と私自身は天に祈りました。陛下、お逃げになりたいのであれば、ここに財宝があります。海には船があります。ですが、いま命を惜しむあまりに、惨めな亡命とその果ての恥辱にまみれた死を、やがて迎えることこそを恐れたまえ。王座は栄光に満ちた墓石であるという古の格言に私はしたがいとう存じます」

妻に叱咤激励されてユスティニアス1世は決死の覚悟で反乱に立ち向かい、これを鎮圧し、のちに東ローマ帝国の版図拡大に成功して、ユスティニアス大帝とよばれることになった。

テオドーラはヒッポドロームで走らせる馬の世話をしていた馬方を父に、芸人を母に生まれている。父親の死後、母親がテオドーラを舞台に立たせた。昼は舞台、夜はベッドで稼がされたという。その美貌にひかれたユスティニアス1世の愛人になり、のちに妻となり、やがて東ローマ帝国史上最強の女性の権力者となった。テオドーラのモザイク肖像画は、イタリアのラヴェンナにユスティニアス大帝が建てたサン・ヴィターレ聖堂の内部にある。

東ローマ帝国の時代は、ヒッポドロームは10万人の観衆を収容できる広さがあったといわれるが、オスマン帝国時代に広場の東側の一部を使ってブルー・モスクが建てられて狭くなった。

ヒッポドロームはいまでもイスタンブール観光の中心だ。大勢の人でにぎわっている。

ある日、この広場を歩いていたら背の高い黒い服を着た男性が、かなり上手な日本語で若い日本人の女性にヒッポドロームの説明をしていた。ふとしたきっかけで、この2人と言葉を交わしたことから、女性がイスタンブールに住みついて、ヒッポドローム前で観光土産屋を経営していることがわかった。トルコ人男性はそこの店員だった。

「お茶でもどうぞ」と誘われ、お土産屋の店先で紅茶をご馳走になりながら、世間話をした。長引く不況のせいか日本人観光客の購買意欲が低迷しているということだった。そういえば、お土産屋が集まっているバザールで声をかけられても、それを無視して素通りしたとき、「このごろ日本人、冷たい。よくない」とトルコ人の客引きに日本語で叫ばれたことあった。



ヒッポドロームにはオベリスクが建っている。紀元前16世紀のエジプトのファラオ・トトメス3世がシリア遠征を記念して造ったオベリスクだそうだ。オベリスクは紀元後4世紀ごろエジプトからコンスタンティノープルに運ばれた。オベリスクは高さ20メートル。

ヒッポドロームには青銅製の蛇の柱が建っている。3匹の大蛇がからみあって垂直に立っている姿なのだが、蛇の頭の部分が欠けている。1700年の4月のある夜、ポーランド大使館の館員が切り落として盗んだといわれている。



このほか、ヒッポドロームなどにあった記念物は13世紀はじめの第4回十字軍のコンスタンティノープル攻撃のさい略奪された。第4回十字軍は東ローマ帝国の内政に干渉し、そのあげくイスラムに対するヨーロッパの砦の役目をしていたコンスタンティンープルに攻めこんだ。このとき、オスマン・トルコのコンスタンティノープル征服を待つまでもなく、東ローマ帝国は事実上、崩壊したのだといわれている。

ヒッポドロームはオスマン帝国時代でも引き続き祭りごとの中心だった。16世紀のころのスレイマン大帝の息子の割礼お祝い行事の絵がトプカプ博物館の図書室に残っている。よく見ると3匹の大蛇がからみあった青銅の柱も描かれて、ちゃんと頭が3つそろっている(Dominique Halbout Du Tanney, Istanbul: Seen By Matrakci and the Miniatures of the 16th Century, Istanbul, Dost Yayinlari, 1996



2009.8.1





14 グラン・バザール

物見遊山の旅の楽しみの一つはバザール見物だ。

路面電車がグラン・バザールの最寄り停車所に近づくころ、車内にアナウンスが流れる。「ベヤズット。グラン・バザール」

イスタンブール旧市街の中心の一つグラン・バザールは世界に冠たるバザールだ。Grand Bazaarと表記されているが、グラン・バザールとフランス風に呼び習わしている。トルコ語ではカパル・チャルシュという。屋根付きバザールという意味だ。

バザールの内部は案内図で見ると整然としているが、よそ者が一歩中に入ると、そこは迷路だ。日本の大都市の地下街と同じだ。4000ほどの店舗が、金製品、銅製品、陶器、革製品、衣料品、絨毯など、それぞれがグループになって割拠している。



バザールの例に漏れず、金細工などには年代物に見せかけたイミテーションを売っている。だが、定評あるイスタンブール案内書によると、イミテーションといえども、本物を作った職人の技術をしっかりと受け次いだ現代の腕利き職人が作っているので、一口に模造品というのはあたらない、のだそうだ。有名な日本画家による失われた襖絵の再現のようなものだ、という。もちろん、そうでないものの方が多いのだろうだが。

1453年にスルタン・メフメト2世がコンスタンティノープルを攻め落として間もなく、ここに市場が作られた。そのあとは今でも、バザールのほぼ中央に「ベデステン」(屋根つきのバザール)の名で残っている。これがグラン・バザールの始まりだった。そういえば、バザールにはベヤズット門から入ってきたが、門には「1461」の表記があった。



何も買う気はないのだが、大勢の人の流れに乗って、バザールの中をふらふら歩き回った。バザールの中で、人の波をすいすいとくぐり抜けて料理やお茶の出前を運んでいるレストランの店員がいた。出前帰りとおぼしき店員さんのあとをつけていくと、狭い路地の奥に数件のレストランというか飯屋があった。

そのうちの1軒の飯屋で、肉とナスを交互に串にさして焼いたパトゥルジャン・ケバブと豆料理と野菜とパンを食べた。パトゥルジャン・ケバブのナスは両隣の肉の汁がしみこんでいて、なかなかうまかった。ネギマのトルコ版だ。スムーズに料理の注文ができたのは、レストランにいた英語を達者に話すお兄さんが注文の手助けをしてくれたからだ。

お茶を注文したら、そのお兄さんが「お茶は別のところでゆっくり飲んでください。そこへお茶を運ばせます」という。請求書の書付を持ってきてくれ、お釣も運んでくれた。

どっこい、案内されたのは絨毯屋だった。レスランで網をはっていたわけだ。まずはゆっくりお茶を飲み、はて、このお兄さんを傷つけないでしかもセールス攻勢に巧に抵抗し、どうやってここから脱出するか……。こういう思案もまた、バザール見物の楽しみの一つである。



グラン・バザールに隣接するヌルオスマニイェ・ジャーミーへ行ってみた。しかし、修復工事中で中には入れなかった。ヌルオスマニイェ・ジャーミーは18世紀半ばに建てられた。ヨーロッパのバロック建築の影響を受けたモスクで、イスタンブールのモスクの中でもっともチャーミングな建物の一つだといわれている。

(2009.8.5)





15 ベヤズット・モスクの静謐

グラン・バザールの屋根つきの市場部分からてきとうな門を見つけて外に出ると、屋外には安物の衣料品を売る屋台がずらっと並んでいた。ここも買い物の人で混雑していた。人の流れに従ってあてもなく歩いてゆく。

すると、本屋さんが集まっている一角に出た。これが有名なサハフラル・チャルシュスの古本屋街だ。とはいうものの、東京の神田界隈の古本屋街を想像してもらっては困る。店舗が十数店あつまったほどの規模のちっぽけな古本バザールだ。

目と鼻の先にイスタンブール大学があるので、本の半分は大学生相手の語学書や辞書、教科書など。残り半分が、東ローマ帝国やオスマン・トルコについての歴史書、美術書、それに宗教関係の本だ。多くの店で骨董品のような品物もあわせて売っている。



ここにはビザンティン時代に紙と本の市場があった。オスマン・トルコがコンスタンティノープルを攻略した後、ターバンの市場にかわったそうだ。そのあと、18世紀になってから、本屋がここに集まってきた。それまで本屋はグラン・バザールの屋根つき部分に店を出していた。

18世紀の後半から19世紀を通して20世紀の前半まで、ここがイスタンブールの、つまりはトルコの出版文化の中心だった。そのきっかけは18世紀後半に、オスマン朝が印刷・出版の制限緩和を行ったことだ。

だが、20世紀の後半になると出版業の中心が新市街に移り、同時に新刊書を扱う大手の書店が新市街の、特にイスティクラル通りに開店するようになった。出版文化の中心でなくなったサハフラル・チャルシュスは半分眠ったような古本バザール街になった。

しかし、この古本バザールはなんだか心おちつく場所である。小さな構えの店が肩を寄せ合って一見雑然と並んでいるが、それでいてどこかしっとりとした落ち着きがあった。

古本バザールを抜けると、ベヤズット・ジャーミーとイスタンブール大学とベヤズット広場に出る。広場はビザンティン時代からイスタンブールの中心の一つだった。

ベヤズット・モスクの内部は数人の人がお祈りをしているだけで静かだった。窓際にすわって本に読みふけっている人の姿があった。グラン・バザールの喧騒がよその世界のように感じられる。それは静けさ――気どって静謐という言葉を持ち出したくなるほどだった。



このモスクはコンスタンティノープルを攻め落としたメフメト2世の息子でオスマン朝の後継者になったベヤズット2世が建てた。建築は1501年から06年にかけて。オスマン・トルコ時代になってイスタンブールに建てられたモスクでは古いグループに属する。モスク内部の天井は暖色系統の色使いだ。



モスクの外部にはイェニ・ジャーミーと同じように鳩が群れていた。昔から鳩の多いモスクだといわれてきた。

2009.8.12





16 水道橋

日本には土建国家という揺るぎない政治手法がある。自民党政権がやったことは土建国家日本の政治といわれてきた。夫婦そろって民主党にくらがえした田中夫婦は、列島改造論で一世を風靡した父親角栄の政治的遺産で食っている。

古くは土木工事による巨大モニュメントが王朝の力を象徴した。ギザのピラミッド、アンコールワット、ボロブドゥールなどがそうである。現代日本でも、美術館や文化会館などにはそれを建てたときの知事や市長の名前が彫りこまれた石碑が添えられる。

ローマ帝国も土木工事をさかんにやった。すべての道はローマに通じるといわれた道路工事や、巨大水道橋が帝国の力の象徴だった。ローマ帝国総延長30万キロメートル近いといわれた道路跡や、上水道を通すため石造りのアーチ橋がいまでもヨーロッパのあちこちに残っている。紀元前後に建設されたフランスのポン・デュガール、スペインのセゴビア水道橋はほぼ完全な形で残っている。

東ローマ帝国もまた水道橋を建設した。コンスタンティノープルの都心部へ郊外の水源から水を引くために水道橋が建設された。



現在でもイスタンブールにその水道橋の跡が残っている。イスタンブールの主要道路の1つであるアタテュルク大通りが、その水道橋の下を走って抜けている。高さ焼く20メートル。水道橋の名はヴァレンス水道橋。4世紀後半のヴァレンス皇帝の時代に建設された。

規模は小さいが似たような水道橋は日本にもあって、その1つが京都の南禅寺境内を抜けている。琵琶湖疏水の一部である。明治時代に建設された。



さて、ヴァレンス水道橋を渡った上水は、貯水池に導かれる。その貯水池の1つが今では観光資源になっている地下貯水池バシリカ・シスターンだ。ハギア・ソフィアの直ぐそばの地下に広がっている。

6世紀初めに完成した巨大な地下貯水池だ。東ローマ帝国時代はこの貯水池が日常の水源として使われた。オスマン・トルコの時代になってもしばらくの間つかわれていたが、やがて水源として利用されなくなった。



この地下貯水池は初期のボンド・シリーズの映画で、わりとできのよかった『ロシアより愛をこめて』で使われた。地下貯水池を舟で漕ぎ渡るとソ連の領事館の真下に来るというお話になっていた。地下貯水池は縦横140メートルと70メートル。どうやっても数キロはなれた新市街にあるソ連領事館の下には行き着けない。

観光資源となったバシリカ・シスターンでは、水上にしつらえた舞台で楽団がヨーロッパ古典音楽を優雅に奏で、地下のテラスでその音楽を聴きながらお茶のひと時を過せるようになっている。



地下貯水池は336本の石柱で補強されている。日本の地下街を平気で歩いているくせに、古代の地下貯水池跡に入ると、ふと、天井が落ちてくるのではなかろうかと不安になった。

2009.8.18





17 王子のモスク

「イスタンブールで豪雨被害」の記事を新聞で読んで、この連載コラムがしばらく滞っていたことを思い出した。

97日ごろから始まった降雨が、やがて集中豪雨になった。なんでも80年ぶりの激しさで、イスタンブールのヨーロッパ側、マルマラ海とボスポラス海峡に面したあたりに被害が集中した。このあたりは排水施設が行き届いていない。あちこちで橋が流され、道路が閉鎖された。空港からイスタンブール中心部への道路も冠水したそうだ。

歴史的観光地・スルタンアフメト地区――『イスタンブール・ウォーク』の舞台――は被害が少なかったそうだ。

さて、ヴァレンス水道橋のすぐ近くに「王子のモスク」ことシェフザーデ・ジャーミーが建っている。シュレイマン大帝が、早世した息子メフメト王子をしのんで16世紀中ごろに建築させたモスクだ。

メフメト王子はシュレイマン帝の長子で、秀でた知性と判断力に恵まれていた。シュレイマン帝はメフメト王子を後継者にしようと考えていたが、王子は1543年に天然痘で死んでしまった。22歳だった。一部の観光案内書には、シュレイマン帝の妻ロクセラーナの陰謀で暗殺されたという説が載っているが、真偽のほどはさだかでない。

シュレイマン帝は王子の死をひどく悲しみ3日間遺体のそばで嘆いていたと伝えられている。大帝の命を受けて当代最高の建築家シナンがモスクを設計・建築した。完成は1548年。



筆者は建築の技法に暗いのでイスタンブールのモスクそれぞれの建築学上の特徴がよくわからず、最初から最後までどのモスクもほとんど同じように見えた。違いがわかったのはモスクの大きさとドームの高さだけだった。

シェフザーデ・ジャーミーのうれしいところはモスクの構内にレストランがあることだ。ここで食事しながらのんびりマスクを眺めることができる。レストランの名はシェフザーデ・メフメト・ソフラシ――メフメト王子食堂。



2009.9.11





18 ボスポラス海峡

イスタンブールの港から船で20キロほど行ったマルマラ海の中にプリンス諸島がある。9つの小島があり、15千人ほどの人が住んでいる。夏の避暑地だ。スターリンに追放されたトロツキーがこのプリンス諸島の1つに数年ほど住んでいたことがある。

ドイッチャーはトロツキー伝3部作の最終巻『追放された預言者』で、トロツキーが住んだマルマラ海の島について、先史時代の動物が水を飲んでいるように島は海にうずくまり、夕焼けの炎が紺青の空に広がって、やがて憤激に悶絶しながら太陽は暗闇の中に没し去る、と描写している。

トロツキーの島は次の機会に行くことにして、今回はボスポラス海峡を黒海の近くまでフェリーで行ってみることにした。

イスタンブールのヨーロッパ側旧市街・エミュノニュのフェリー乗り場から、サリエル行きの船に乗る。

3月下旬は1日に2便ほど、サリエル行きの快速フェリーが運航していた。この便はサリエルまでに3ヵ所ほどの港に寄るだけ。ボスポラス海峡乗り合いクルーズ船のおもむきだ。



フェリーは新市街ベイオールのボスポラス側斜面を埋めつくしている建物群を見ながらすすむ。やがて、オスマン朝のスルタンが古くなったトプカプ宮殿から移るために新市街に建てたルマバフチェ宮殿の白い建物が見えてくる。



ドルマバフチェ宮殿を過ぎると船はボスポラス大橋の下をくぐる。ボスポラス大橋のたもとにオルタキョイ・モスクがある。小さいけれど海辺にたたずむ姿が優雅な建物だ。



ボスポラス海峡には2本の橋が架かっていて、1本がボスポラス大橋。いま1つがファティ・スルタン・アフメト大橋(第2ボスポラス大橋)。ボスポラス大橋はイギリス企業が建設を請け負ったが、スルタン・アフメト大橋は日本企業にうばわれた。イギリスのサッチャー首相はひどく悔しがったといわれている。




船内はあちこちの国からやってきた観光客であふれていた。記念撮影のカメラのシャッターを押してあげた家族連れはテヘランから来たといっていた。

古い友人同士らしいトルコのおじいさんとイギリスのおじいさんの2人連れと向かい合って座った。おじいさん2人は斜め横のスペイン人の若い娘のグループがにぎやかにしゃべり大声をあげて笑い、はしゃいでいるのが耳障りなのか「スペイン娘ときたら」と苦笑いしていた。

エミュノイからサリエルまで20キロほど。1時間ちょっとの、安くてお手軽な、それでいて風光明媚なクルーズだ。

2009.9.17





19 統一地方選挙

あともう少し船が進めば黒海に出るあたりの町でフェリーを降りた。街の名前はサリエル。港には小型の漁船が係留されており、海岸通にはシーフード・レストランが並んでいる。



海岸通の広場にフロックコートを着てシルクハットを手に持っている男の銅像がハトやカモメの糞にまみれて建っていた。恐れ多いことにその銅像は現代トルコの国父ケマル・アタテュルクではあるまいかと思われた。



ボスポラス海峡クルーズの眺めは非常に結構だったが、終点のサリエルにはさして面白いものは見当たらない。街をぶらぶらしていたら美味しそうなパン屋さんがあった。店内に入ると「2階に喫茶室があるよ。海峡の眺めが素敵だよ」と店の人が言った。



2階に上がると若い女性の先客が1人いてチャイを飲みながら新聞を読んでいた。なんとなく大学生の雰囲気だ。チャイと甘ったるい菓子パンを注文して、イスタンブールへフェリーで帰るかバスで帰るか、連れ合いと相談した。

バスで帰ることにしてバス乗り場に向かっていると、街の一角が満艦飾に飾られていた。2009年の3月はトルコで市町村の首長と県議会議員を選出する統一地方選が行われていた。



投票日は329日だった。投票結果には大きな変動はなかったが、中央政治で第一党を占めているAKP(正義開発党)が得票率を下げ、中央政治で野党のCHP(共和人民党)がやや得票率をあげた。エルドアン政権を揺るがすほどの変化ではなかったが、中央政治でのAKPの将来の衰退の予兆であるとの見方をする分析も見られた。

AKP2007年の総選挙では46.6%の得票率をあげたが、今回の統一地方選で得票率を38.8%におとした。逆にCHP20.9%から23.1%に上昇した。

イスラム主義を掲げているAKPに対して、CHPはアタテュルクの建国理念を受け継いで政治における世俗主義を唱えている。CHPにはイスタンブールやアンカラなど大都市の中間層や学生からの支持が厚い。

トルコの政治は一方にイスラムを掲げる勢力があり、片方に世俗主義とトルコ国家主義をないまぜにした勢力があり、さらに過度のイスラム化を嫌いイスラム政治勢力の動きに目を光らせている軍部がいる。

そうした中で、近代化と悲願のEU加盟を目指して、政治のバランスを保とうとするような選挙結果だった。

イスタンブールへ帰るバスは海岸沿いの曲がりくねった道路を猛スピードで走った。そうとうな乱暴運転である。日本の旅行会社がつのった団体旅行のバスがトルコで事故を起こして訴訟になっていることを思い出した。やはり帰りも船にすべきだった。

2009.9.25





20 ドルマバフチェ・ジャーミー

サリエル発のバスをドルマバフチェ宮殿で降りた。ドルマバフチェ宮殿はトプカプ宮殿が古くなったので19世紀中ごろ建築した新宮殿だ。あいにく見学時間の締め切りにちょっと遅れたので、中に入ることができなかった。



宮殿からほんの少し歩いたところに、ドルマバフチェ・ジャーミーがあった。イスタンブールの有名なモスクはみんな大柄だが、このモスクは小柄で実に愛らしい感じがする。ミナレットはイスタンブールのモスクの中で一番の細身だといわれている。トプカプ宮殿から移り住んできたスルタンをはじめ、オスマン帝国の支配層のために新築されたモスクだ。



モスクの中は早春の光がさしこみ、旧市街の薄暗く重圧感にみちた古いモスクに比べるとずいぶんと明るく軽やかない感じがした。夕方のお祈り時間にまだ間があり、観光客の姿もないので、モスクの中でしばらくぼんやりしていた。

2009.10.7





21 ドルマバフチェ宮殿

ボスポラス海峡に面したヨーロッパ側新市街に19世紀半ば建てられたドルマバフチェ新宮殿は、ヨーロッパの宮殿建築様式の模倣と、トプカプ宮殿から引き継いだ過剰な装飾性、権力者のあくなき浪費といったものをまざまざと見せつける建物だ。この海峡沿いの土地は埋立地でスルタンの庭園として使われていた。それで「ドルマ(埋め立て)バフチェ(庭園)」とよばれていた。



海から見ると新宮殿は大ホールなどをおさめた中央部から大理石造りの建物が左右対称にのびている。海から見て向かって左側が公的行事のための建物、右側がハレムなどスルタンの私生活のための部分だ。スルタン・アブドゥル・メジト1世は1856年、トプカプ宮殿からドルマバフチェ宮殿に移った。



それから1世紀も経たない19381110日午前95分、スルタンを廃位してトルコ共和国を樹立し、大統領となったケマル・アタテュルクが、このドルマバフチェ宮殿のかつてのハレム部分に設けられた彼専用の寝室で死んだ。死因は過度の飲酒による肝硬変、57歳だった。



ケマル・アタテュルクはアンカラを新生トルコ共和国の首都に定めたが、イスタンブールに来たときはドルマバフチェ宮殿を宿舎に使っていた。

ケマル・アタテュルクが病におかされていることは1938311日にトルコ国民に公表された。共和国政府は324日、イギリスのヨット・サヴァロナ号を買い取り、大統領の専用船にした。以後かれはこの船で閣議を主宰した。病状が悪化したため彼は95日にドルマバフチェ宮殿に移った。1017日に最初の昏睡に陥り、118日に最後の昏睡がやってきて、2日後にアタテュルクは死んだ。

ケマル・アタテュルクが死んだ1938年の16年前の19221116日、オスマン・トルコの最後の第36代スルタンであるメフメト6世がドルマバフチェをすて、イギリスの軍艦に乗って国外に逃げ出した。メフメト6世はドルマバフチェ宮殿で大往生をとげることができず、メフメト6世に代って彼の将軍であったケマル・パシャことケマル・アタテュルクがドルマバフチェ宮殿で死んだ。



2009.10.16





22 トルコ風イスラム美術

ヒッポドロームをはさみブルー・モスクと向き合うかたちでトルコ・イスラム美術館が建っている。美術館と銘打っているが、所蔵品の多くがトルコ風のイスラム古美術工芸品だ。



イスラムのカリグラフィーや、コーランの書見台、年代物の細密画をはじめ、さまざま工芸品や、大トルコの伝統的なカーペットなどが展示されている。



中国の故宮博物院の収蔵品にはおよびもないが、それでも、ながめているとオスマン・トルコの往時の豪奢の一端が感じられる。

この博物館はシュレイマン大帝の義理の兄弟だったイブラヒム・パシャの16世紀の屋敷を使っている。イブラヒムは幼少時代に奴隷としてギリシャからイスタンブールに連れてこられ、トプカプ宮殿で召使の仕事をさせられた。たまたま、同じ年頃の少年だったシュレイマンと仲良くなり、やがて、シュレイマンがスルタンになると、そのひきでオスマン帝国の宰相の地位までのぼりつめた。



オスマン・トルコ史の本によると、イブラヒム・パシャはシュレイマン大帝の母親ハフサにかわいがられ、そのおかげでシュレイマンにとりたてられ、シュレイマンの女兄弟と結婚し、豪華な屋敷を与えられ、そして最後にすべてを奪われた。

イブラヒム・パシャの出世は宮殿内の他勢力の怨嗟の的だった。シュレイマンの母親ハフサが15343月に死ぬと、シュレイマンの妾妃の1人ロクサレーナことヒュレムがトプカプの実権掌握を狙った。

自分が生んだ子をスルタンすればトプカプの実権が握れる。シュレイマンの最年長の男の子は、ギュルバハルという別の妾妃が生んだムスタファだった。イブラヒムはギュルバハル=ムスタファ組と組んだ。ヒュレムはトプカプ宮殿内の反イブラヒム勢力と組んでイブラヒム追い落とし運動を始めた。



イブラヒム追い落とし運動が功を奏して、19363月、イブラヒムはシュレイマン大帝の命令で絞殺された。軍事上の命令違反が表向きの理由だった。

2009.11.3





23 テオドシウスの城壁

イスタンブールのヨーロッパ側旧市街地には、ビザンティン時代に外敵から都を守るための城壁が築かれた。まず、ここに都を定めたコンスタンティヌス帝が城壁を築き始め、4世紀中ごろに完成した。やがてコンスタンティノープルの人口がふえたため、城壁をさらに外に広げて城壁内部の空間を増やす必要に迫られた。テオドシウス2世の時代に、現在でも残っているテオドシウスの城壁が計画され、5世紀の初め完成した。厚さ5メートル、高さ12メートルの石積みの城壁がマルマラ海側からゴールデン・ホーン側まで約7キロ続き、陸上からの攻撃から都を守った。



この城壁はたしかに堅牢だった。10世紀以上にわたる東ローマ帝国時代の間に、この城壁が破られたのはたった2回だけ。1204年に第四回十字軍がコンスタンティノープルを攻撃したときと、1453年にスルタン・メフメトがオスマン・トルコ軍を率いてコンスタンティノープルを征服し、東ローマ帝国が存在しなくなった時だけだ。19世紀末の地震で城壁の一部が壊れたものの、かなりの部分が残り、またトルコ政府が観光用に城壁の一部を再建した。



都市を城壁で囲む習慣は中世のヨーロッパや古代・中世のインドやアラブ地域、それにお隣の中国でみられる。都市ではないが、ベトナム戦争の時代、アメリカ軍は南ベトナムの農民を柵の中に囲い込んだうえ柵の周辺に武装兵を配置し、農民を民族解放戦線のゲリラから隔離しようとした。これを戦略村とよんだ。プリミティブなwalled town(囲郭都市)だった。ベルリンの壁は総延長160キロに達したそうだ。その壁がなくなって今年で20年。時が経つのは早い。



日本では石垣を築き堀をめぐらして城を守ったが、一つの都市を守るために町全体を城壁で囲んだ例はなかった。ヨーロッパ、インド、アラブ、中国では、なぜ都市全体を壁で守ろうとし、日本ではお城だけを守ろうとしたのか。そのあたりの戦略思想の比較研究はやってみたら面白いだろう。

中国の西安にも立派な城壁が残っている。西安の城壁はテオドシウスの城壁よりひとまわり大きい。長さ約14キロ、壁の厚み15メートル、高さ12メートル。14世紀に築かれたが、現在でも原形をよくとどめている。かつては城門が4ヵ所にあったが、現在では道路整備のため壁のあちらこちらが破られている。



しかし、何といっても世界一の壁は中国の万里の長城だろう。渤海湾岸から北京の北を通り、黄河を渡って嘉峪関まで2700キロ。史上最大の建造物だ。しかし軍事的ディフェンス・ライン線としての効果はあまりなく、北方民族はやすやすと万里の長城を越えて中国の農耕地帯に侵入したといわれている。



その意味で、テオドシウスの城壁の1000年間に2敗のみという記録は立派なものである。

2009.11.17





24 カーリエ博物館

テオドシウスの城壁のすぐ内側にあるカーリエ博物館は、カーリエ・ジャーミーという名のモスクだった。モスクになる前は、コーラ教会とよばれるキリスト教の教会だった。テオドシウスの城壁の内側にあった古いコンスタンティヌスの城壁(4世紀)の外に5世紀ごろ建てられたので、コーラ(田園)教会と呼ばれた。



15世紀のオスマン・トルコによるコンスタンティノープル征服のあと、16世紀になってコーラ教会はモスクに変えられた。教会内のおびただしいフレスコ画とモザイク画は漆喰で塗り隠された。東トルキスタンとよばれた中国・新疆省のシルクロード沿いの仏教遺跡では、キリスト教国のヨーロッパや仏教国の日本から探検隊がやって来て壁画を剥ぎ取って持ち帰った。そのあと、紅衛兵がやってきて壁画や仏像を壊した。それらと比べると、漆喰による封印はなかなか文明的な行為である。



20世紀半ばになって、アメリカ・ビザンティン研究所の手で修復作業が行われた。多数の壁画が蘇えり、博物館として一般に公開された。イスタンブールの旧教会の中では最も壁画が多い建物だ。この博物館を訪れたとき、壁画や天井画を見る観光客を、猫が館内の通路でじっと見つめていた。



ふと気がつけば、イスタンブールの街は異様に猫が多かった。ハギア・ソフィアことアヤ・ソフィアでは、堂内の壁面装飾を照らすフットライトの前で、猫がねそべって光線の温もりをむさぼっていた。アヤ・ソフィアと並ぶ大伽藍ブルーモスクでは夕暮れ近い塀の上から猫が通行人を見おろしていた。グランド・バザールとイスタンブール大学の間にある小さな古本バザール、サハフラル・チャルシュスでは、雑貨屋の店先を猫がうじゃうじゃ歩き回っていた。客よりも猫の方が多かった。ビザンチン時代に馬車レースが行われた広場ヒッポドロームにも猫がいた。でっかい黒犬が猫の前を横切ろうとしたとき、猫は背を逆立ててみせたが、黒犬はその猫に目もくれず通り過ぎた。

ボスポラス海峡の入り口近くにある小さな島クズ・クレシに船で渡ったときも、灯台風の塔が一つ建っているだけの島で、2匹の猫を見た。その塔には観光客用のレストランがあって、そこの従業員に聞いたところ、島に住み着いている野良猫だと言うことだった。



イスタンブールを訪れた人は、この街の猫密度の高さに驚く。もとはといえば、ムハンマドの猫好きに始まったことだ。

イスラムの預言者ムハンマドは大の猫好きだった。あるときムハンマドは礼拝に出るためにローブを着ようとした。ところが、片方の袖の上で愛猫ムイッザが気持よさそうに寝ていた。そこでムハンマドはその片袖を静かに切り落として猫のために残し、片方の袖のないローブで礼拝に出たと言い伝えられている。そういうわけで、ムスリムは猫を大事にし、インシャアッラー、イスタンブールが猫の天国になった。

2009.11.24





25 シルケジ駅

オリエント急行の発着駅だったシルケジ駅は、オリエント・エクスプレスが走らなくなったいまでは見るかげもない。グレアム・グリーンの『スタンブール急行』やアガサ・クリスティーの『オリエント急行殺人事件』あるいはイアン・フレミングの『ロシアより愛をこめて』のような小説や映画の中にしか残っていない。



とはいえ、イスタンブールを訪れた観光客はこの駅を訪れてくる――ノスタルジア。駅構内にはオリエント急行が走っていたころの施設が少しだけ残っていて、オリエント急行レストランがその一つだ。オリエント急行の出発待ち時間に旅客がお茶と軽食を楽しんだところである。現在も営業中だ。

外国から来た観光客でにぎわうレストランだが、たまには毛皮のコートを着て、オリエント急行レストランのまえのテーブルに陣取り、物憂げにタバコをくゆらせてみせるコスプレおばさんもいる。カメラを構えるとちゃんとポーズをとってくれたりする。



ヨーロッパから来た客はここで汽車を降りた。引き続きアジア側のアンカラやさらにはバグダッドなどへ向かう客は、海峡をフェリーで渡り、アジア側のハイダルパシャ駅から列車に乗った。ハイダルパシャ駅は海岸にたっており、まるで海の上に浮かんでいるようにみえる。



ハイダルパシャの駅舎はドイツの建築家が設計して1908年に完成した。当時はオスマン帝国の版図が中東に広がっており、ハイダルパシャからバグダッドまでの鉄道もドイツの協力で完成した。当時のドイツ帝国はベルリンから中欧・東欧を抜けてイスタンブールに出て、さらにバグダッドからペルシャ湾に出る鉄道ルートを建設することで、中東への通路を確保しようと努めていた。



2009.12.4





26 どこかで見た顔

ホテルの玄関を出て、ターキッシュ・デライトなどを売っているお菓子屋さんの前を通り、イスタンブール大学の前の路面電車乗り場で電車を待つあいだ毎朝この看板とにらめっこした。それにしてもどこかで見た顔だ。



この男性、利率1.19%で住宅ローンが利用できますよというガランティ銀行の住宅ローンの宣伝に使われている。聞いてみるとガランティ銀行はトルコの優良民間銀行の一つだという。

私がこの広告を見たのは20093月上旬だったが、その1ヵ月後の4月上旬になって、この広告の顔によく似たアメリカの大統領バラク・オバマがトルコを訪問した。

あとで知ったのだが、オバマが大統領選で勝利したあと、街頭似顔絵描きのシェパード・フェアリーという人が描いたオバマ大統領のポートレートがワシントンDCのスミソニアン博物館のナショナル・ポートレート・ギャラリーに買い取られたという。

  

Shepard Fairey
Smithonian National Portrait Gallery


その絵を真似てつくった広告である。「低金利で貸せますよ。Yes, we can」というシャレなのだろう。優良銀行がやることのようには思えないが……。

(2009.12.11)





27 だらだら坂

イスタンブールのヨーロッパ側は旧市街がだらだら坂、新市街の方は急坂になっている。新市街の方はカラキョイ-トゥネル広場間、カバタシュ‐タクシム広場間の2箇所に地下ケーブルカーが走っている。旧市街の坂道は地下ケーブルカーを必要とするほど急ではない。



シュレイマニエ・ジャーミーが修復工事中だったので中に入ることができず、なんとなく桜の花を思わせるような白い花をつけた庭木越しにモスクを眺めた。モスクの前に評判の豆料理屋さんがあったので、そこでお昼をすませた。



あとは、モスクから海岸沿いのスパイス・バザールへ向かってだらだら坂を下ってゆく。由緒ありげな古い建物の壁面装飾をながめ、わびしげな細工物の工房や、雑貨、生鮮食料品の店の前を通り過ぎてゆくうち、だんだん自分が物見遊山の旅行者であることを忘れてゆく。壮大な歴史ではなく、ごくありきたりの生活のつみ重ねを感じさせるイスタンブールのだらだら坂である。



2009.12.19

            ――終わり――