第3章 サリナにはじまる 26 スカルノ最後の勃起 ジャカルタ中心部の独立記念広場メダン・ムルデカは、パリのコンコルド広場、北京の天安門広場に相当するインドネシアの首都ジャカルタの代表的な広場である。 Monumen Nasional dengan Museum Sejarah Nasionalnyaの裏表紙から 日中は暑いので人はあまり来ない。あるとき、日曜日の早朝だったと思うが、広場に来たことがあった。広場は散歩の人たちでにぎわう。 そのとき広場のスピーカーから軽やかな音楽が流れていることに気づいた。インドネシアの歌謡曲、クロンチョン風だった。しかし、よく聴いてみると、その曲は「マモルモセメルモクロガネノ」という、日本ではパチンコ屋のBGMになっている軍艦マーチあることがわかった。 日本とインドネシアの結びつきの特殊さを思い起させてくれたりする。インドネシアと同じように太平洋戦争の開始とともに、日本軍によって占領された他の国で日本の軍歌が流されることはないだろう。2007年の今でもそんなことがあるのだろうか。 独立記念広場の中央に高さ130余メートルの独立記念塔Monas(Monumen Nasionalの略)。初代大統領のスカルノがパリのエッフェル塔にひけをとらないモニュメントをつくり、インドネシア近代化の象徴にしようとしたものである。現在のバンドン工科大学の前身にあたる学校で建築を学んだスカルノは都市計画に熱意を持っていた。1961年8月17日の独立記念日に着工した。 広場の中央にたつ独立記念搭モナスはイタリアからとりよせた大理石をつかい、塔頂には金張りの革命の永遠の火が形どられている。スカルノのアイディアで建設されたモナスは、インドネシアの独立革命を記念するものであると同時に、スカルノの権威と彼のとなえる革命へ国民を糾合するためのシンボルであった。 モナスはインドネシア近代化の象徴を出あろうとしたが、同時に、インドネシア人の意識の基層に根を下ろしているヒンドゥーのリンガムとヨニ(聖なる男根と女陰)の組み合わせを表している。塔とそれを受ける基盤部分がそれにあたる。その基盤部分の構造には、独立記念日である1945年8月17日の、45-8-17という数字が使われている。 さて、この塔が完成したのは1972年7月12日。このときスカルノは軍出身のスハルトによって大統領の座からおわれて自宅軟禁状態のまま失意のうちに死んでいた。スハルトが第2代大統領になっていた。 くわえて、この塔の建設をめぐっては、スカルノの元へ、のちに第3夫人となる日本人女性デウィを送り込んだ日本の商社も関係していた。その昔、京都タワーが「醜悪なペニス」と批判をあびた例にならえば、モナスはまさしく、そのいわくありげな背景からして、東南アジア現代史上最大のカリスマ的人物スカルノが残したペニスである。そして、スカルノの死後に完成したことを思えば、それはスカルノ最後の勃起でもあった。 27 愛の枕 インドネシアの初代大統領スカルノとは、いったい何者だったのだろうか? インドネシア人やインドネシア現代史の観察者はさまざまなスカルノ像を描いてみせる。 スカルノ像 スカルノは燃え上がるような弁舌で訴えた。オランダの植民地支配のくびきを断ち切ろう、インドネシア民族は団結しよう、自決と独立を勝ち取ろう、と同時代人を鼓舞した民族主義者だった。同時に、民族主義運動をとがめられ、オランダ植民地政府当局に拘束された、いったん囚人になってしまうと、今後は運動を止めるので寛大な処置をおねがするとの嘆願書を書いてしまった気弱な英雄でもあった。 日本軍政時代には対日協力者、とくに、日本の軍政府のために労務者(romushaとしてインドネシア語の辞書に載っている)集めの音頭をとったと批判もされている。スカルノ自身は、対日協力は最終目標である独立達成のための一時的方便であった、と自己弁護した。 マルクス主義、それもレーニンの帝国主義理論に接近した。後には、中国・北朝鮮・北ベトナム重視の外交路線―ペキン・ピョンヤン・ハノイ枢軸―をとった。マレーシアと武力対決し、米英とも対立した。ついに国連からも脱退した。 スカルノは1926年の青年時代に、「民族主義・イスラム・マルクス主義」という論文を書いた。これらのイデオロギーを一つの目標―民族の団結と独立の達成―に向けて、協働させようと呼びかけた。スカルノはとりとめのない夢想家であり、たぐいまれなアジテーターであった。独立が達成され、インドネシアが議会制民主義国家の道をよちよち歩きしていたころ、大統領令で憲法を廃止し、日本軍政時代に用意した古い憲法を復活させ、大統領独裁政治を始めた。 スカルノはジャワの伝統的権威主義者だった。憲法の規定にはない終身大統領の地位を要求し、議会にそれを受け入れさせた。 インドネシア人の多くから敬愛される人間的魅力にあふれた政治家は漁色家でもあった。スカルノが大統領時代、米誌『タイム』はスカルノはスカートをみただけで欲情すると揶揄した。スカルノ時代に駐インドネシア米国大使だったハワード・ジョーンズには、その著書『インドネシア』のなかで、「スカルノが訪問したことがあるヨーロッパの某国の役人は私にこう話した。『あからさまに女を要求してきて不快だった』」と書かれた。増田与の聞き書き『スカルノ大統領の特使』によると、スカルノを女性から隔離するとスカルノは精神不安定におちいり仕事が手につかなくなると側近にまで暴露されている。 オランダ植民地時代の大砲 (ジャカルタ歴史博物館) スカルノに言わせれば、それは尽きることない情熱の発露なのであった。スカルノはアメリカ人記者、シンディ・アダムズに口述した『スカルノ自伝』で、インドネシア人は「グリン」と呼ばれる「抱き枕」が手放せない愛情豊かな民族であり、スカルノ自身も祖国を愛し、民を愛し、女を愛し、芸術を愛する感情豊かなインドネシア人の一人であると語っていた。 これを読んで、ほう、グリンとよばれる抱き枕はインドシア人の愛情の豊かさの象徴か、と感心したものである。ジャカルタに住んでみたら、グリンはいたるところにあった。わが借家のベッドにも、大家が置いてくれていた。ジャカルタ‐バンドン間の特急列車の中で、レンタルのクッションをグリン代わりに抱いて寝ている女性を見かけた。アトマクスマの家の居間でだべっていたとき、ふと見ると、アトマクスマの妻スリがソファーのクッションを抱いていた。 しかし、極め付きはというと――あるとき、新聞記者団地のある家で結婚式があり、ご近所が集まった。そのとき、新郎新婦が初夜を過ごす寝室が披露された。一緒に行ったアトマクスマはキンキラキンにかざりつけた寝室の写真をバシャバシャ撮っていた。「オイ、いいのかい」「いいの、いいの」という具合であった。 ふと気づいたのは、ダブルベッドの上のグリン―抱き枕だった。新床におかれた抱き枕とは、そも何ぞや? これは禅の公案のように、永遠に解けない謎になってしまった。 現代のグリンは布製だが、オランダ植民地時代は籐などで編まれたものだったらしい。その上に手足を乗せ、熱帯の寝苦しさをしのぐ寝具だった。それが本国オランダに持ち帰られ、やがて英国人が「ダッチ・ワイフ」と呼ぶようになった。19世紀末のことである。 のちに20世紀中ごろには、いわゆるスラングとしてのダッチ・ワイフの意味になった。OEDには次のような引用がある。 1967 Guardian 19 May 9/6 He will liberate man from dependence on the opposite sex by constructing what seems to be known in Japan as a ‘Dutch Wife’; a kind of life-size mechanical doll with built-in electric heating and all the other refinements. スカルノはひと言「グリン」(guling)とよんだが、bantal guling (bantalは枕の意味)という言い方もあるようだ。現代では、bantal cinta (愛の枕)という名で、インドネシアのデパートやスーパーで売られている。 bantal cinta (PlaztiqSpreiのカタログから) 28 下宿のおかみさんと 計算の仕方にもよるが、厳格に勘定すると、スカルノはその生涯で6人の女性と結婚している。 スカルノの名前は最初クスノだった。しかし、病がちな、線の細い子どもだったので、心配した親がスカルノと改名した。 15歳になったとき、スカルノ少年は父親によって勉学のためスラバヤのチョクロアミノトのもとに送られた。チョクロアミノトはイスラム民族主義運動の草分け、サレカット・イスラム(イスラム同盟)の指導者だった。チョクロアミノトの家に下宿して、勉学に励んだ。 20歳のとき最初の結婚をする。妻は16歳のシティ・ウタリで、チョクロアミノトの娘だった。 スカルノが語る彼の最初の結婚は、悲劇的な色彩をおびていた。妻が子どもなので、性的関係をもたない「おあずけ結婚」だったと、『スカルノ自伝』の著者シンディ・アダムスに語っている。 「ウタリと私は一つのベッドで寝ていたが、肉体的には兄と妹のようなものだった」 スカルノのその後の行状を考えると、これは途方もないホラ話に聞こえる。 まもなくスカルノはウタリをともなってバンドンへ移り、バンドンの工科大学で建築の勉強を始める。新婚のウタリとスカルノは、チョクロアミノトの知人である実業家、サヌシの家に下宿した。 スカルノはサヌシに案内されて彼の家を最初に訪れたとき、その家にすばらしいものがあるに気づいたと『自伝』で回想している。 「薄暗い玄関の光の輪の中に下に立っている。甘美な赤い花を髪にさした細身の人、その笑顔がまぶしい。サヌシの妻、インギット・ガルナシだった」 1939年撮影の写真。後列中央がスカルノ、 中列中央がインギット、前列左がのちに 3番目の妻になるファトマワティ 数ヵ月後、スカルノは下宿先のおかみインギットと恋におちた。結婚から半年でウタリをチョクロアミノトのもとに送り返して離婚。すでに関係冷え切っていたインギットとサヌシが離婚するのを待って、彼女と結婚した。 インギットはスカルノより12歳年上の30代の女性だった。インギットとの結婚についてスカルノは、つれあいには母のようにしてもらいたい、インギットが与えてくれたものは母のような愛情、暖かさ、滅私だったと、幼児的な感想をもらし「精神学者はこれを母への偶像と呼ぶであろう。そうかもしれない」と、アダムズに告白している。 インギットは後にスカルノと離婚し、バンドンに帰って隠棲する。彼女は90歳過ぎまで長生きし、スカルノとの生活を伝気作家などに語った。 「私たちはしばしば二人きりの夜を過ごしました。黙っていても、知らずしらず、愛が大きな海のようになって盛りあがってくることがありました。私たちはその中に引き込まれたました。やがてある晩のこと、クスノが私に近づき、私はそれに応えました。私もまた、生身の、血と肉からできた普通の人間で、孤独に涙し、きらめくような愛の光にうたれるのでした」(インギットが伝記作家 Ramadhan K. H.に物語ったスカルノとの愛の回顧録、Inggit Garnasih, Kuantar ke Gerbang, Jakarta: Sinar Harapan, 1988, p. 24.) 「彼は私に近づき、手をさしのべ、私の手をにぎりました。私は彼の熱情を感じました。彼の胸が、そして、彼の唇が近づきいてきました。彼は私を引き寄せました。私たちは別の場所に移りました。それから何があったかは、もうおわかりいただけるとおもいます」(Ibid.) ちなみに、インギットの伝記作者Ramadhan K. H.はスハルト大統領の自伝も聞き書きした現代インドネシアでは最高の伝記作家だったが、このほど亡くなった。 『スカルノ自伝』によれば、その夜の出来事はこうであった。 「私は彼女を腕に抱いた。ウソじゃない。キスををした。彼女もキスをかえした。私たちは情熱の虜になり……ある夜、クライマックスがやってきた」 下宿のおかみさんと下宿学生の、ありふれた「ある夜の出来事」にすぎないのだが、さすが権力者の愛の回顧録ともなると、おかたい政治学者の私といえども、ふむふむと、つい読まされてしまう。辻和子『熱情―田中角栄をとりこにした芸者』のようなものだ。 Pasar Seniで 29 また幼な妻 スカルノの2番目の妻インギットは、日本風に言えば一回り年下の夫によくつくした。インギットの献身はインドネシアで語り草になっている。 インギットはインドネシアの薬草飲料「ジャムー」作りが上手で、その稼ぎでスカルノとの生活費を稼ぎ出した。スカルノは工科大学で建築を専攻したが、卒業しても建築家としての仕事をしなかった。在学中からのめりこんでいたインドネシア国家の建設の方に、もっぱらエネルギーを注ぎ込んだ。政治パンフレットのような論文を書いたが、それではメシは食ってゆけず、インギットの稼ぎが頼りになった。 幕末期に政治活動にのめりこんだ浪人の糟糠の妻という役回りである。したがって、いまでも、インドネシアでは結婚をめぐって、「年上の妻の魅力」 という話題になってくると、かならずインギットの名前がもちだされる。 スカルノは1927年にインドネシア国民党を創設した。彼の巧みな弁舌で国民党は勢力を拡大した。1929年スカルノはオランダ植民地当局に捕らえられて入獄。翌年の法廷で被告スカルノは大弁論を展開する。「この法廷の評決は被告だけにとどまらず、すべてのインドネシア人と、母なるインドネシアへの評決である」。雄弁もむなしく、スカルノは有罪判決を受けたが、1931年に恩赦で出獄した。 スカルノは再び独立運動を開始した。1933年、またオランダ当局に捕らえられた。このときは前回の元気がウソのように、スカルノはおちこんでしまい、「永久に政治運動を放棄するので寛大な処置を希望する」という嘆願書を出した。しかし、この嘆願書はオランダ当局によって無視された。 この嘆願書は1970年代の後半、研究者によってさがしだされ、発表された。スカルノの独立の指導者としての歴史的汚点となり、同時に、人間としてのスカルノの意外なひ弱さを示す証拠になった。 オランダ植民地当局はスカルノの嘆願書など見向きもせず、彼をフローレスのエンデ、スマトラのブンクルに流刑処分した。流刑先のブンクルで、後に3番目の第一夫人となるファトマワティをみそめた。ファトマワティは当時、スカルノよりも20歳以上も年下の15歳になったばかりの少女で、地方から出て来てスカルノの家に下宿し、スカルノとインギットの養女と同じ学校にかよっていた。 50歳を過ぎていたインギットに、スカルノは、子どもが欲しい、ファトマワティを第二夫人にしたいと相談した。しかし、インギットはこれを激しく拒否し、2人の仲は険悪になってゆく。1942年に始まる日本軍政によってジャカルタに呼び戻されたスカルノは、1943年、インギットと正式に離婚し、ファトマワティを妻にした。 オーストラリアの要人と語るスカルノ。中央がファトマワティ (オーストラリア国立図書館蔵の1950年の写真) スカルノはファトマワティとの間に5人の子どもをもうけた。その長女が、大統領というよりもジャワの女王の役回りの方が好きな無能な政治家、と揶揄されるほど評判の良くなかった第5代インドネシア共和国大統領メガワティ・スカルノプトゥリだ。 ファトマワティもやがてスカルノの女癖の悪さに愛想を尽かして、大統領宮殿から出てゆき、最終的には離婚することになる。しかし、インドネシア人がいまでもなお、このファトマワティに愛情と敬意をあらわし、彼女を「国の母」(Ibu Negara)と称しているのは、次のような記憶があるからだ。 1945年8月17日、初代インドネシア共和国大統領とハッタ副大統領が独立宣言を読みあげた。そのときスルスルとポールに掲げられた赤と白のインドネシア国旗は、その前夜、ファトマワティが自宅にあるありあわせの白と赤の布切れで作ったものだった。 後に第3の妻としてスカルノの寵愛をうけたラトナサリ・デウィこと根本七保子は、そのファトマワティを姦婦よばわりする。 「1945年8月15日に日本は降伏した。1日おいて17日に、スカルノはジャカルタでインドネシア共和国の独立を宣言した。その直後、彼はジョクジャカルタで、戻ってきた旧支配者オランダ人に捕まり、ユリアナ女王の名で投獄された。ファトマワティさんはまだ新婚2年目だった。……彼女は夫が投獄されているあいだに間男をした。相手は、当時のスカルノ邸の執事長、といってもプリンスの称号を持つプルボヨ王子だった」(デヴィ・スカルノ『デヴィ・スカルノ自伝』文芸春秋、1978年、176ページ) スカルノがファトマワティと結婚したのが1943年だから、1945年が結婚2年目というのは正しい。スカルノは共和国大統領として1945年中はジャカルタにとどまった。しかし、1946年1月4日、ジャカルタへ接近するオランダ軍におされてスカルノはジョクジャカルタへ移った。スカルノをはじめとする共和国首脳がオランダ軍につかまったのは、それからおよそ3年後の1948年12月19日のことであった。このとき、オランダは第2次警察行動と称する軍事行動でインドネシア共和国の臨時首都だったジョクジャカルタに攻め込んで占領した。オランダでユリアナ女王が即位したのも1948年のことである。 スカルノの元第3夫人にして、インドネシアと、かつては夫であったスカルノについて、ああ、その程度の知識もないのか。スカルノは閨房また火宅の人であった。身から出たさびとはいえ、無残なことである。 Jalan Gedung Kesenianで 30 ふたたび人妻を インドネシアは1949年にオランダから正式に主権を取り戻し、国際的に主権国家と認められた。インドネシアの初代大統領スカルノの女狂いはこの時期からますます活発になる。1953年になって、中部ジャワのサラティガに住んでいた既婚女性ハルティニに恋した。 ハルティニは1924年生まれで、石油会社の職員と職員の妻結婚して、すでに5人の子どもをもうけていた。「5人の子を生んでなお、あれほど美しいとは…」とスカルノは彼女に岡惚れだったといわれている。 というわけで、1953年中はスカルノの意を受けた軍人の手引きでスカルノは人妻ハルティニと密会を続けた。ハルティニがサラティガのしばしば自宅を留守にして、スマランから飛行機でジャカルタのスカルノのもとへ通うようになったころには、世間のかっこうの噂――大統領と人妻の不倫の恋――である。 1954年になってスカルノはハルティニと正式に結婚した。ハルティニ夫婦が離婚したので結婚が可能になったからである。 ボゴール宮殿に当時のオーストラリア首相夫人を迎えたハルティニ (オーストラリア国立公文書館蔵) このころインドネシアでも女性団体が一夫一婦制の法律制定を求めて運動していた。このため、この結婚はジャーナリズムが大喜びするスキャンダルになった。スカルノが創設したインドネシア国民党のアリ・サストロアミジョヨが当時の首相で、彼は「そんなに気に入っているのなら妾にして囲っておけばいいじゃないか。結婚して大問題を起こさないでくれ」と、スカルノに懇願する。だが、スカルノは結婚を強行した。 スカルノも多少は妥協をした。2人の結婚は内密に行われた。モフタル・ルビスの新聞『インドネシア・ラヤ』が1954年9月、これをすっぱ抜いた。特種はモフタル・ルビスを尋ねてきた女性団体インドネシア女性連盟がもたらした。「それはダルマ・ワニタなどとはまったく異なる哲学をもっていた女性解放団体であった」とモフタル・ルビスは回顧している。ダルマ・ワニタというのはスハルト政権下で創り上げられた公務員の妻の会で、夫の官庁内での地位がそのまま会員の役割に反映される、いってみれば日本の社員住宅の妻の会を大きくしたようなものであった。 「ことは女性の地位に関わる問題である、ぜひあなたの新聞でこれを取り上げてもらいたい」と、女性たちはファトマワティを支援した。モフタル・ルビス自らが宗教省へ確認に出かけた。「うれしいニュースを聞きましたよ。大統領の家族が増えるんですって。結婚されたそうですね」とモフタル・ルビス。うまく乗せられた宗教省の責任者は「おっしゃる通りです」と、書類を開いてみせる。そこにあったのは「名前、スカルノ。職業、インドネシア共和国大統領・・・結婚相手、ハルティニ」。 翌日の『インドネシア・ラヤ』は大反響を呼び起こした。女性たちは大統領宮殿にデモをかけ、ファトマワティは長男1人をつれて大統領公邸を出ていった。他の4人の子どもたちはスカルノとともに公邸に残った。ファトマワティ以外の女性が第一夫人の扱いを受けることに反対する世論に配慮して、スカルノは第二夫人のハルティニをボゴール宮殿に住まわせた。「面白いことにのちにスカルノが新聞記者夫婦を招いて開いた園遊会に私も招待された。スカルノは上機嫌で、皆にこんな冗談さえ言った。『まったくモフタル・ルビスときたら、私を怨嗟のまとにしおって・・・』」とモフタル・ルビスは週刊誌『テンポ』(1992年3月14日)に話している。 モフタル・ルビスが1949年に創刊した『インドネシア・ラヤ』は西欧派でフェビアン協会風の社会主義路線をめざすインドネシア社会党とつながりを持ち、同党系の軍内のグループから資金援助を受けていた。このため、「軍の新聞」と陰口をたたかれていたが、独立後の1950年代の民主的憲政時代を通してもっとも躍動的な新聞であり、政権のスキャンダルをつぎつぎと特種にした。とくに社会党が政権を下って野党になったとき、それは激しかった。この時代の新聞は多かれ少なかれ党派性をおび、政党の盛衰が新聞のそれにつながった。モフタル・ルビスがスカルノの秘密結婚を暴いた時、社会党は野党だった。 インドネシア社会党は1955年のインドネシア初の総選挙の際は与党だったが、選挙では惨敗し、やがて政権への手がかりを失ってゆく。最後には、社会党がふたたび野党になった1956年、『インドネシア・ラヤ』は発禁になり、モフタル・ルビスは1956年末から1961年始めにかけて逮捕・自宅軟禁された。続いて同年7月からスカルノ失脚後の1966年5月まで拘置された。インドネシア社会党の幹部はスマトラで独立を宣言した1958年のインドネシア共和国革命政府に加担し、1960年にスカルノによって党を解散させられた。 Pasar Seniで 31 さやあて ハルティニはスカルノの第二夫人になる前に、すでに5人の子持ちだった。スカルノと再婚して、さらに2人の子をもうけた。 第一夫人のファトマワティは、スカルノとハルティニの結婚に怒って大統領公邸から出て行った。しかし、その時点で、離婚したわけではではなかった。別居であった。 さすがにスカルノもファトマワティが出て行ったあと、ハルティニを大統領公邸に入れて、実質的な第1夫人扱いをすれば、ファトマワティに同情を寄せる国民のあいだにさらに強いの反感の輪が広がるだろうと感じた。そこでスカルノはハルティニをボゴールの大統領宮殿に住まわせた。 ハルティニは政治的な関心の強い女性だった。インドネシア共産党がスカルノに対する影響力を強化する窓口としてハルティニを利用した、といわれている。1965年の「9月30日事件」後、インドネシア軍に追われて地下に潜った共産党員に資金を流していた、と反スカルノ派から糾弾された。 スハルトがスカルノを完全に権力の座から追い落とし、スカルノに取って代わって正式に第2代インドネシアの大統領になった1968年には、ハルティニはスカルノから共産党に流れた秘密資金の仲介をしたという容疑で治安当局に逮捕された。 ファトマワティが官邸に残していった4人の子どものうち、長女のメガワティはハルティニと仲が良かったといわれている。ハルティニは2002年3月77歳で死んだが、当時第5代大統領だったメガワティはハルティニの葬儀に出席した。 スハルトがスカルノから権力を奪取したいきさつを大統領周辺で見聞きしているはずのハルティニだったが、スハルト政権下ではそのあたりのことについては口を閉ざしたままだった。 ハルティニと張り合ったのがスカルノの第4番目の妻にして第三夫人となったラトナ・サリ・デウィであった。ハルティニがインドネシア共産党との関係をあげつらわれたように、デウィは日本を初めとする外国企業をスカルへつなぐ窓口だといわれた。同時に、日本政府はデウィをスカルノ情報引き出しの手引きとして利用した。 デウィはスカルノとのなれそめについて、 「スカルノ大統領は快活で、魅力たっぷりは笑顔で有名な人だが、本当は違う。それは大統領が人々にそう見せようとしているだけ。内面は、孤独で、悲しく、夜も眠れない人なのです」 「東京の帝国ホテルで、私は日本人の実業家に紹介されて大統領にお目にかかりました。大統領はジョークを連発されていた。しかし、立ち上がって退席されるとき、ドアのあたりで大統領のうしろ姿がシルエットになって見えた。広く見えていた肩は落ち、ピシッと決まっていた姿勢も猫背に見えた。後姿は孤独で、やるせなかった」 という具合に『スカルノ自伝』の聞き書きを書いたシディー・アダムズに語っている(Cyndy Adams, My Friend The Dictator, Indianapolis, Bobbs-Merrill, 1967)。アダムズは、「かつて早川雪舟の俳優学校で学んだことのあるデウィは、大統領があまりに悲しげに見えたので結婚した、と語った」と書いた。しかし、なんで、早川雪舟の俳優学校がこんなところに引き合いに出されるのだ? 第二夫人ハルティニと第三夫人デウィの対抗意識は相当なものであったらしい。ハルティニがデウィについて書いたものは残っていないが、デウィは自著『デヴィ・スカルノ自伝』でハルティニを「オラン・リチン」(orang licin=orang licik、狡猾な人)とののしり、ハルティニはオマール・ダニ空軍司令官とあやしい関係にあった、スバンドリオ外相ともできていた、などの無責任な噂を書き散らした。 デウィによると、スカルノの第一夫人ファトマワティ、第二夫人ハルティニ、いずれもスカルノと結婚している間に浮気をした、という。デウィ自身もスカルノの第三夫人であった時期に俳優と恋におちた、と『自伝』に書いている。こちらは噂などではなく、本人の告白である。 デウィこと根本七保子は1959年、インドネシアでの商売の潤滑油代として、日本企業から大統領へのおみやげとして、東京から送り込まれた。増田与編『スカルノ大統領の特使』によると、日本からはほかにも数人の女性が送りこまれている。痛ましいことにこうした女性のうちある者は自殺し、ある者は行方不明になった。 下世話な言い方をすれば、ハルティニのベッドは左翼陣営に、デウィのベッドは外国企業と日本政府につながっていたともいえる。 Pasar Seniで 32 またまた幼な妻 いつごろのことだったかよく覚えていないのだが、ジャカルタでタクシーに乗っていて、大統領公邸の前を通りがかったとき、運転手さんとの会話の話題がスカルノの妻の数や彼の女好きにおよんだ。 「私も妻が4人いる。子どもは全部で14人だ」 と、運転手さんが言った。それは豪勢な話だ。だが、4家族分の生活費を稼ぐのだからたいへんだねえ、というと、 「4人の妻がそれぞれ稼いでくれるので、かえって、私はあくせく稼ぐ必要がないのだ」 と彼は答えた。 イスラムの慣習によると、男は妻の同意が得られれば4人まで妻を持つことができる。なぜ4人までなのかは、イスラム法学者に聞かないとわからない。コーランは「もしおまえたちが孤児を公正にあつかいかねることを心配するなら、気に入った女を2人なり3人なり、あるいは4人なり娶れ。もし妻を公平にあつかいかねることを心配するなら、1人だけを、あるいは自分の右手が所有するもの(女奴隷)を娶っておけ」(中央公論社版『世界の名著 コーラン』)といっている。 2人なり、3人なり、4人なりと数字を羅列しているので、これは「1人に限らない」と解すべきだろう。つまり、コーランを原典どおりに解釈すれば、妻が100人いようが、教えに違反しない。 Jalan Senen Rayaで どうやらコーランは孤児(あるいは不遇の者)保護のための便宜として、複数の妻を認めていたようである。前述のタクシー運転手のようなパターンは、現代用語でいうと「ヒモ」で、コーランの想定外である。スカルノの妻帯行動も別な衝動に根ざしており、コーランの適用外だった。 メガワティ大統領の時代のハムザ・ハズ副大統領は、当時の報道によると3人の妻を持っていた。彼はイスラム色の強い開発統一党の党首だった。大統領選挙戦では彼の重婚が槍玉に挙げられ、彼の不人気の一因になった。 さて、現代のインドネシアでは複数の妻を持つ男性が「偉い」と褒め称えられることはまれで、どちらかというと倫理上の感覚にかけているのではないかと思われている。 ただ、スカルノ時代には、スカルノが重婚路線を突っ走ったので、世の中にもスカルノ路線をみならって複数妻を持つ男性が増えたといわれている。スハルトの時代になると、スハルトの妻ティンが男の女性関係に厳しい女性だったので、スハルト本人も女性関係だけは清潔で、インドネシア社会も男性の重婚を白眼視する傾向が強まった。 現代インドネシアでは、宗教省の統計によると、イスラム教徒の結婚のうち重婚は数千件に1件程度といわれている。ただしスハルト政権崩壊後は、再び重婚が増える傾向にあると指摘されている。 ラトナサリ・デウィを1962年に愛人から第3夫人に昇格させたのち、1963年にスカルノはハリヤティを第4夫人とした。スカルノはファトマワティ、ラトナサリ・デウィとの結婚のさいのインドネシア社会の否定的な反応に懲りたのか、ハリヤティとの結婚を積極的には公表しなかった。「いろいろ苦労がありました。結婚したときスカルノにはすでに3人の妻がいて、年も63歳で、私は23歳になったばかりでしたから」と、スカルノ生誕100年を記念した『コンパス』の特集で語っていた。 スカルノはハリヤティと結婚後、当時16歳で、高校生の少女ユリク・サングル(愛称ユリ)を愛してしまった。ユリと結婚して彼女を「第五夫人」にしようとしたが、こればかりはイスラムの規定により結婚とは認められなかった。ユリがジャカルタの雑誌に語ったところでは、スカルノは「君はボクの永遠の妻だよ」と彼女にささやいたそうだ。1964年、スカルノ64歳のときであった。 ユリク・サングルは非公式な第五夫人にとどまったという説と、のちにスカルノはハリヤティと離婚して、ユリを第四夫人の座に引き上げたという説がある。一方には愛欲地獄におぼれきっている老人がいて、他方にはイスラムの決まりに基づいて正式な妻の座を出来る限り多くの女性に与えようとする律儀な年寄りがいる。なにやってんだか……。 とはいうものの、日本でも正妻以外に愛人を持つものは多い。正妻に認めれる民法上の権利が愛人には認められない。イスラムでは正妻を4人まで認め、平等な権利を保障している。どっちが社会的な正義なのか? という議論は、世の中の♂の性衝動をどう見るか、という点にかかっている。 インドネシアはイスラム教徒が多数派の国だが、イスラムが国教のイスラム国家ではない。世俗国家である。しかし、最近では地方ではイスラム法が社会に浸透してきている。一方で、スハルト政権崩壊による表現の自由の拡大で、お色気を売り物にする“メンズ雑誌”が増えている。 インドネシアでも先ごろ、『プレーボーイ』のインドネシア版が発行された。その発行をめぐって保守派ムスリムから暴力的な抗議活動があった。編集長は裁判にかけられたが、裁判所は「この程度であればポルノグラフィー」ではないとして、編集長に無罪を言い渡した。 33 ナイフによって死ぬであろう スカルノと比べると、スハルトは人間的魅力に乏しく、演説も下手くそだった。しかし、政治的な勘は鋭く、必要なときには必要なだけ冷酷になれることができた。 実務家スハルトが、一介の将軍から一気に権力の座にのぼりつめるきっかけとなったのが9.30事件である。9.30事件とは、1965年10月1日未明からのスカルノ大統領護衛隊長ウントン中佐のクーデター未遂事件で、スハルト政権によれば、スカルノの健康状態が悪化し、もしスカルノが死ねば、軍が共産党を弾圧するのではないかと危惧したインドネシア共産党が計画した軍首脳部への先制攻撃であったとされている。 9.30事件についはウィキペディアなどをのぞいていただきたい。20世紀中ごろの事件であるに関わらず、いまだに謎だらけの事件だ。関係者は何も語らず殺されたり、死んだりしている。なぞが解明できる新たな重要な史料が発見される可能性も少ない。 事件はインドネシア共産党の陰謀、というのがスハルト政権の公式見解だった。スハルトと軍部、イスラム教徒らが、50万人から100万人以上といわれる共産党関係者を殺害したといわれている。死者の数さえはっきりしない。これに対して、事件そのものは陸軍内部の対立から生じたもので、これを共産党の仕業だとして、共産党殲滅に利用したという説。いやいや、陰謀はスカルノ大統領の指令だったという説。はては、スハルトがスカルノから権力を奪い取るために計画したものだという説、アメリカCIAも陰謀に加担しているという説、などなどある。 古札のスカルノ 事件が起きた1965年は、筆者が新聞記者になって2年目で、ベトナム戦争の激化のさなかの事件だけに、びっくりしたものだ。 スハルト政権時代に公になった事件関係者の裁判資料によると、スカルノの健康悪化はその生活態度のせいだった。スカルノは1965年8月4日、嘔吐して倒れた。インドネシア人の医師は一時的な発作で重大な症状ではない、という見立てだった。しかし、当時、スカルノ政権が接近していた中国が、スカルノのために派遣した医師団は、症状は重大で、死が近いかも知れないと、共産党書記長のアイディットに伝えたといわれている。 スカルノ亡きあとは、軍部が共産党をつぶしにかかる。ということで、共産党がウントン中佐らをけしかけて、軍の中枢に先制攻撃をかけた、とスハルト政権は主張してきた。 さて、スカルノの健康状態だが、スカルノは結果として1970年まで生きた。が、決して健康な状態ではなかった。9.30事件の裁判記録の中の証言によると、複数の妻たちの求めに応じなければならないという状況が健康悪化の原因で、性生活を変えないかぎり健康回復は望みうすだったとさえいわれていた。「複数の妻たちの求めに・・・」というのはスカルノに遠慮して、不摂生を女性のせいにした婉曲な表現で、さきにあげた増田の聞き書き『スカルノ大統領の特使』は、もっとあけすけにスカルノの性生活を説明している。月火水木は第三夫人デウィ、金土日は第二夫人ハルティニと、1日たりとも交わりを欠かさず、さらにジャカルタ市内に別の妻がいて、妻以外の愛人女性を囲い、くわえて、大統領官邸のムルデカ宮殿で昼寝の時間でさえ当日用に用意された女性と同衾したというのだ。 側近や侍医は60歳をすぎた男が1日に2度も3度も女性と同衾するなどいくらなんでもありえないことと疑い、事後に女性たちにそれを確かめるのであるが、答えは「たしかにそのことがある」というものだったそうだ。 インドネシア版『プレイボーイ』 ベトナム戦争を抱えるアメリカは、インドネシア共産党と組んだスカルノが、北京・ハノイに接近して左傾化を強めていることをひどく心配していた。そこで、CIAはスカルノと彼を取り巻く女性たちをモデルにしたポルノまがいの映画を製作し、スカルノ失脚のための宣伝道具にしようと計画したことがあった。この計画は後に『ニューヨーク・タイムズ』によって暴露された。 スカルノは腎臓に病気を抱えていて、ヨーロッパの病院で手術をすすめられたが、これを断った。ジャワの呪術者ドゥクンが「スカルノはやがてナイフによって死ぬことになろう」という予言をしていたのを気にしたからである。スカルノの腎臓の病気は結石だったといわれていた。診断は西洋医学に委ねたが、手術は拒否した。手術がこわいスカルノは、治療を中国医の鍼灸に頼った。 スハルト政権下の9.30事件の解釈通りに、もしその中国医が、スカルノは今にも死ぬことになるかもしれない、と共産党幹部に語り、そのことで共産党が軍に攻撃を加え、それがスカルノ失墜と彼の軟禁状態での死につながったと仮定すれば、スカルノは間接的ながらナイフによって死んだのかもしれない。 もっとも当時のインドネシア国民一般は、スカルノの解釈と異なって、この予言を「女の手に握られたナイフによってスカルノは死ぬことになろう」と解釈していたそうである。 Pasar Seniで 34 閨房情報 9.30事件が起きた1965年10月1日の朝、スカルノはラトナサリ・デウィの家で目を覚ましたという。スカルノは9月30日夜、集会で演説したあと、いったんは大統領官邸であるイスタナ・ムルデカに帰ったが、すぐ、官邸を後にして、ジャカルタ市内にある第三夫人ラトナサリ・デウィの屋敷に向かった。 メンズ雑誌の古参『マトラ』 屋敷に向かう途中、ホテル・インドネシアに立ち寄って、パーティに出ていたデウィをひろって行ったという説と、まっすぐデウィの家に行ったが、デウィがいなかったので、使いの者にデウィを迎えに行かせたという説があるが、そんなことは話の本筋と関係ないので、どうでもよろしい。 9.30事件の発生は10月1日の午前4時ごろで、スカルノはその2時間後の午前6時ごろデウィの家を出てイスタナ・ムルデカに向かった、という。しかし、官邸が兵隊にとり囲まれているので、再びデウィの家に戻った。そこにしばらくいて、今度は同じく市内にある第四夫人ハリヤティの家に行った。そのあと、9.30事件の関係者が集まっているハリム空軍基地へ向かったという。 ハリム空軍基地にスカルノが行ったということから、スカルノの9.30事件関与説が生じた。スカルノ自身は、万一の場合を考えて大統領専用機のあるハリム空軍基地へ向かった方がいいという、大統領警備チームの助言に従っただけだ、と説明した。 やがて大統領の権力基盤を揺るがすことになる軍事行動の朝、大統領官邸に入ることができず、慌てふためいて複数の妻の家を転々とする大統領の姿はいかにも喜劇的である。この点一つをとっても、スカルノが本格的に9.30事件に関わっていたとは考えにくい。 それはともかく、この事件の日、インドネシアの政治の中枢に関わる人々のすべてが無警戒状態だった。すでにきな臭い軍事行動のうわさは流れていたが、本気で信じるものはいなかったようだ。当時の日本の駐インドネシア大使、斉藤鎮男は9.30事件発生の時は、バンドゥンに行っていた。ジャカルタの異変を聞きつけ、日の丸の旗をつけた車で、バンドゥンからジャカルタへかけつける部隊と競争で首都をめざしたそうである。 斉藤に言わせると、当時、日本大使館だけがインドネシア関係の重要情報ルートをもっていたため、西側諸国も「日本情報」としてその情報に依存していた、そうである。 「日本情報」の源はどこだったか。斉藤からの聞き取りにもとづいて田口三夫が書いた『アジアを変えたクーデター』(時事通信社、1984)は、9.30事件のさいジャカルタを留守にしていた斉藤が、ジャカルタに帰りついてただちにやったことはデウィのもとに連絡をとることであった。1965年5月にジャカルタに着任した米国大使マーシャル・グリーンもその著書(Indonesia: Crisis and Transformation 1965-1968, Washington, D.C., The Compass Press, 1990)で、着任そうそうの数ヵ月間は、デウィを通してスカルノのふところ深くくいこんでいる斉藤には世話になったと書いている。 10万ルピア札のスカルノ(左)とハッタ スカルノと斉藤は日本がインドネシアを占領していたころ以来の顔見知りであった。斎藤は9.30事件後の10月13日にスカルノ大統領と会談しているが、この会見のお膳立てにもデウィが仲介の労をとったのではないかとされている。 増田与編『スカルノ大統領の特使』は、語り手のチョウが1964年11月1日午前9時、面会の約束をしていたデウィの宿泊先帝国ホテルへ出むくと、ロビーで同じくデウィを待っていた斉藤と出くわす。九時半になってもデウィが現れないのでチョウはばかばかしくなってホテルを去るが、斉藤は辛抱強く午後二時まで彼女を待ち、さすがにおかしいと感じてデウィの部屋を訪れ、自殺をはかって瀕死の状態なっているデウィをみつけた。デウィは大使が5時間余にわたっておとなしく待つだけの値打がある情報源だったわけだ。 斉藤はスカルノと顔なじみで、さらにデウィというパイプがあっただけに、「斉藤情報」はスカルノに好意的なニュアンスが強く出た。9.30事件後もしばらく、スカルノは再び軍を押さえ込むだろうと、スカルノ復活説を唱えていた(Masashi Nishihara, The Japanese and Sukarno’s Indonesia, Honolulu,
University of Hawaii Press, 1975)。しかし、反スカルノだった米英が、反共路線のスハルトと軍を強力にバックアップする姿勢を示し、スカルノ側の力が衰退するするとともに、やがて日本政府もスカルノ寄りからスハルト寄りの路線に切り替え、情報源としてのデウィは無用になっていった。 インドネシアの人口構成はジャワ島が総人口の5割強を占め、外島(ジャワ島以外の島々)が4割強である。上記の女性の出身地は大まかにそれを反映している。スカルノの女性たちはラジャやスルタンとしてのスカルノの象徴だった。スカルノの力のオーラだった。さらに、女性たちはインドネシアという空間の広がりと、その統一とそれを支配するスカルノという英雄の象徴であった。デウィはそのスカルノ力が遠く北の国日本にまで及んだことを意味していた。さらに、第一夫人であったファトマワティは、バリのヒンドゥー教徒だった母から生まれたスカルノとスマトラのムスリムの固い結びつきの示唆するものであった。 スカルノの臨終に駆けつけたハルティニやデウィは、スカルノをボゴールに埋葬させてくれと大統領になっていたスハルトに頼んだが、拒否された。ボゴールのスカルノ邸の近くには15世紀の石碑があり、それがパワーの神秘的な源泉であると考えたスカルノは生前からその碑の近くに埋葬するようハルティニとデウィに頼んでいたという。 |