ジャワ追憶
                文と写真 花崎泰雄


第4章  サディキンのジャカルタ


40 ブタウィ


歴史の解釈は権力のありかとからんでいる。日本の教科書検定でいつも話題になるのは理科や算数ではなくて、歴史であるのはこのためだ。

安重根という人物は、日本では伊藤博文の暗殺者で凶徒とよばれたが、韓国ではずっと独立の義士であった。ソウル市中区南大門路には安重根義士記念館が建てられている。

中国西域の敦煌などから西域仏教資料や壁画をごっそり持ち帰った20世紀初頭のヨーロッパの学術探検家(日本の探検隊も文物を持ち帰った)たちは世界的文化遺産の発掘者であり保存者であると自称していた。西域を支配してきた中国からみれば、彼らは中国支配政権の政治的混乱に乗じた文化遺産掠奪者であった。西域に住んでいた人たちにとっては、漢族が侵入者で略奪者だった。

エジプトのルクソール神殿の入口にかつて建っていたオベリスクの一本は、いまパリのコンコルド広場にある。当時の支配者が柱時計一つと交換にオベリスクを渡した。

帝国主義の時代、白人はやりたい放題だった。インディ・ジョーンズの冒険シリーズ映画はこうした時代の、白人たちの宝探しの雰囲気を残していた。

映画だけではあきたらず、1990年代になってもインディ・ジョーンズのようなことをインドネシアでやろうとしたと疑われ、物議をかもした米国の人類学者がいた。ドナルド・タイラーという名の米国の大学教授で1993年から1994年にかけてインドネシアを訪れ、中部ジャワで調査をしていたが、ジョクジャカルタの郵便局から米国へ向けて数千年前のものといわれる人骨を送り出そうとしたのを見つかり取り調べをうけた。

当時のインドネシアのマスコミが、ピテカントロプス・エレクトスの化石もひそかに持ち出そうとたくらんだようだ、と伝えるなど、大騒ぎになった。さらに、この学者は規則に定められたインドネシア科学院からの調査許可も受けていなかったと報道された。結局、事件の真相はあいまいなまま、検事総長が、「調査許可は受けていた。教授の親が重病で急ぎ帰国する必要がある」ということで、人道的な立場からこの教授の出国を認め、国会までがそれを了承したため、インドネシア人の民族感情を刺激し「白人に甘い」と、メディアが批判することになった。

そうなのだ。インドネシアはナショナリズムあふれる国なのである。

フィリピンの大観光地セブ・マクタンには、かつてこの小島マクタンに上陸したマジェランについての、3本の記念碑が建てられているそうだ。スペイン統治時代に建てられた碑は神とスペインとマジェランを称え、アメリカ植民地時代の1941年に建てられた碑は彼が率いた船団の地球一周の記録に言及している。その10年後、フィリピン独立の後に建てられた碑には「1952427日、この地においてラプラプ(マクタン島の支配者)とその兵はスペインの侵略者をけちらし、その指揮官であったフェルディナンド・マジェランを殺した」と書かれている。


ジャカルタの海

インドネシア共和国の首都ジャカルタ市の起源も歴史の見方と切り離せない。オランダ領東インド時代、ジャカルタはバタヴィアとよばれた。バタヴィアとはゲルマン系民族の一種族バタヴィア族のことで、オランダとオランダ人のことを意味した。したがって、植民地時代にはバタヴィアの起源は、当然、オランダがここに要塞を築いた1619年とされた。バタヴィアがジャカルタに名称変更されてからは、ジャカルタ市の起源は1527年にさかのぼることになった。

1522年ポルトガルの艦隊が、現在スンダ・クラパとよばれているジャカルタの海岸にやって来て、当時のヒンドゥー教徒の領主と交易協定を結んだ。ポルトガル人たちが5年後の1527年に、ここに基地を建設しようと戻って来たところ、すでにヒンドゥイー教徒の領主はイスラム教徒の領主にとって代わられていた。イスラム教徒の新領主はポルトガルの基地建設を拒否した。ポルトガル人たちは戦闘のすえ敗北を喫し、この地から追い払われた。

ポルトガル人たちを追い払ったのがファタヒラという将軍で、その名は今でもジャカルタ市内の地名として残り、この記念すべき1527年が今ではジャカルタ市の始まりとされている。20076月、ジャカルタ市はジャカルタ市誕生480年のお祝いを繰り広げた。そもそもジャカルタという名の起源は、この闘いでの勝利と栄光を意味するジャヤカルタである、という説がある。これがなまってジャカトラとなり、日本ではさらになまってジャガタラとなった。

バタヴィアという呼び名がジャカルタに変わったのは、1942年に日本軍がインドネシアを占領したときであった。日本軍はオランダ語の使用を禁じ、インドネシア語を奨励した。バタヴィアの名称は捨てられ、民族意識を鼓舞する呼び名ジャカルタに改えられた。現在では、バタヴィアは「ブタウィ」と訛って、「オラン・ブタウィ」(ジャカルタっ子)や「ソト・ブタウィ」(ジャカルタ名物の濃厚な牛肉スープ)などの語彙の中にとりこまれている。


ジャカルタっ子が祝賀行事に
使う人形ondel-ondel





41 ファタヒラ


ジャカルタは北のジャワ海に向かって開けた町である。南の丘陵地からチリウン川、アンケ川、ブカシ川など幾筋もの小河川によって運ばれた土砂が堆積してできた沖積扇状地の上に築かれた町である。ジャカルタはスンダ・クラパという名の小さな貿易港から発展した。

大航海時代とそれに続く植民地時代にスンダ・クラパは小さな港からインドネシア最大の貿易港湾都市へと変貌を遂げていった。したがって、ジャカルタの街は、北のジャワ海側から南の山側に向かって都市化していった。

スンダ・クラパにやってきたポルトガル人と戦い、彼らを海岸から追い払ったいくさによって、ジャカルタ市の歴史の基点を作り出したファタヒラ将軍の名は、ファタヒラ広場という名で記念されている。

ファタヒラ広場はオランダ植民地東インドの首都バタヴィア時代の旧市街地のほぼ中心にある。バタヴィア時代の旧市街地は「コタ」(町)とよばれている。ジャカルタ市やジャカルタの商業人たちはいま、これといった観光の目玉になる資源に乏しいジャカルタにあって、バタヴィア時代の古い町並み―煉瓦造りのオランダ商館や植民者の住宅などが残っているコタ一帯を手入れして保存し、ここでさまざまなイベントを行いジャカルタの目玉的な歴史的風致地区にしようとしている。

さて、ファタヒラ広場の周辺にはオランダ時代の総督府として18世紀初頭に建てられた建物が、現在でも残っており、ジャカルタ歴史博物館として使われている。このほか、美術館、ワヤン博物館などがある。歴史博物館の建物の地下には植民地時代の牢獄がそのまま残されている。博物館目の広場、つまりファタヒラ広場だが、そこはオランダ植民地政府に対する反逆を試みた者や犯罪者を公開処刑する場所でもあった。


ファタヒラ広場と歴史博物館

1722年にピーター・エルベルフェルトというドイツ人の父とタイ人の母の間に生まれた欧亜混血児とジャワ人らがオランダ植民地政府に反逆を試みようとした容疑で数十人が八つ裂きならぬ、手足を別方向に引っ張って身体を四つ裂きにして処刑された。このときは、残党の襲撃を恐れこの広場では処刑が行われなかった。処刑は近くの安全な場所で行われた。そのあたりにはPecah Kulit(引き裂かれた皮)という地名が現在なお残っている。

この凄惨な記憶をとどめるファタヒラ広場の近くにカフェ・バタヴィアといういかにも植民地支配者の社交場といった雰囲気をとどめるレストラン・バーがある。夜になるとジャズの生演奏があり、何度か訪れたことがある。外国人旅行者やジャカルタ住まいの外国人や金持ちのインドネシア人が集まって酒を酌み交わし、うまいものを食べ、おしゃべりに興じていた。


カフェ・バタヴィア




42 サディキンのジャカルタ

パサル・イカンの赤甍をめぐる、石で築いた濠のめぐり――と、金子光晴は『マレー蘭印紀行』に書き残した。まことに、ジャカルタは赤い屋根瓦の街である。

独立記念塔モナスの展望室から見おろすと、金子光晴の見聞から60年あまりたった1990年代初めでも、ジャカルタの街に赤瓦が残っていた。

だが、当然のことながら、金子光晴がうろついていたころのジャカルタにくらべ、街の姿は激しく変貌した。インドネシアの経済紙『ビスニス・インドネシア』が「ジャカルタ今昔」と銘うって、ジャカルタの街角を新旧の比較写真で飾ったカレンダーを読者に配ったことがあった。1995年ごろのことだったろう。

私も一部もらった。たとえば、1995年ころ日本の第一ホテルやショッピングセンター・アトリウムなどがあった繁華街スネンの交差点。金子がバタヴィアにやってくる少し前の1920年に撮影された写真では、自転車、馬車、幌付きの乗用車が走っていた。高層建築物はいっさいなかった。1995年に撮影された写真には、インドの企業が請負って完成させた立体交差の道路、アトリウムの建物、あふれる自動車、モーターバイクなど写っていた。

その後、第一ホテルはジャカルタから撤退した。そごうもヤオハンも撤退した。町の姿は日々変化する。


街角の午睡

ジャカルタの街が現代都市へと急変貌をとげたのは、スハルト政権時代後半のころには、反スハルトの「はみ出し者」になってしまったアリ・サディキンがジャカルタ特別市の知事を務めていた1966年から1977年の間だった。

1965年の9.30事件でスカルノが政治的に失速を始め、代って事件を鎮圧したスハルトが頭角をあらわす。こうしたスカルノからスハルトへ権力が移ってゆく二重権力状態の中、19664月、スカルノが当時39歳だった海軍軍人アリ・サディキンをジャカルタ知事に任命した。

モナシュ大学で私の指導教官の1人だった政治学者スーザン・ブラックバーンは著書『ジャカルタの歴史』(Susan Abeyasekere名義, Jakarta: A History, Singapore, Oxford University Press, 1987)で「アリ・サディキンはスカルノがジャカルタに残した置き土産だった」と、粋な表現をしている。インドネシア建国の英雄スカルノは、バンドン工科大学で土木工学を修め、ほんの一時期だが築事務所で働いたことがあった。その技師スカルノが構想した独立インドネシアの首都ジャカルタの都市づくりを手がけたのがジャカルタ特別市知事アリ・サディキンだった。


ビル林立

ラマダンの書いたアリ・サディキンの伝記『バン・アリ』(Ramadhan K.H., Bang Ali: Demi Jakarta 1966-1977, Jakarta, Pustaka Sinar Harapan, 1993)によると、19664月のある日、大統領官邸からアリ・サディキンに呼び出しの電話があった。官邸に着くとスカルノがにこやかにアリ・サディキンを迎え、「ジャカルタ知事をやってくれんか?」といった。突然のことでびっくりしたアリ・サディキンは「それは命令でしょうか?」と問い返したという。「命令だ」と大統領が言い、海軍少将アリ・サディキンがジャカルタ知事になった。

スカルノはアリ・サディキンをジャカルタ知事に任命した動機を次のように語ったという。「首都ジャカルタからごみを一掃しなければならん。ジャカルタは港湾都市だから海のことをよく知っている海軍軍人が知事になるのがいい。首都には世界から外交団が集まっている。彼らに対応できる知事がほしい。そういう人物をさがしていたらアリ・サディキンのことを思い出した」。スカルノはアリ・サディキンを「オラン・クラス」(orang keras)と評した。日本語でいえば「剛腕の人」とでもいうのだろう。




43 でっかいものにあこがれて


アリ・サディキンをジャカルタ知事に任命したスカルノは、もともとバンドン工科大学で土木工学を専攻し、港湾設計に関する卒業論文を書いてインシニュールとよばれる工学の学位をとった人だ。工科大学を出て、本格的に政治運動に専念するまでのしばらくの間は友人と共同で建築事務所を開いていたこともある。

初代インドネシア大統領に就任したスカルノは、政治指導者としてインドネシアの将来設計を思案するとともに、土木技師して新生インドネシアの首都として誇るにたるジャカルタの都市計画も抱いていた。

現在ジャカルタで見られるランドマークの多くは、スカルノによって構想され、アリ・サディキンの手で完成されたものだ。スカルノはムルデカ広場の独立記念塔モナスのような巨大構造物が大好きだった。スカルノのロマンティックな性向と権威のシンボルがないまぜになったものだった。



スカルノはまた、でっかいホラ話も好きだった。1964年に中国が初の核実験に成功した。そのあとスカルノは、19657月ごろになって、インドネシアも原爆開発を急いでいるとぶち上げた。インドネシアに独自核開発の能力があったわけではなく、当時、仲の良かった中国からの技術支援をあてにしたのかもしれない。とはいえ、そうホイホイと中国が応じてくれる性質のものでもなかろう、スカルノのホラ話だ、と皆が笑っておしまいになったことがある。

さて、ジャカルタの街づくりに戻るが、高層ビルを林立させ、街路を彫刻で飾る街を構想した。彼はムルデカ広場の記念塔モナスのほか、1962年のアジア大会の会場に使われたスナヤンの競技施設、大統領官邸近くの東洋一の規模といわれるイスラム寺院ムスジッド・イスティクラル、タムリン通りのサリナ・デパート、ホテル・インドネシア、アンチョル遊園地、スディルマン通りとガトット・スブロト通りの立体交差など青写真を作った。そのいくつかはスカルノ時代に完成され、残りの事業の多くが、スカルノから知事の指名を受けたアリ・サディキンが引き継いだ。

ジャカルタの街が都会らしくなってきたのは、スハルト時代の開発と経済成長の時代になってからである。ジャカルタのチェンカレン空港もスハルト時代に完成した。それ以前の空港はジャカルタ市内のクマヨラン空港だった。クマヨラン空港跡地には、現在、世界一高い558メートルの超高層ビル、ジャカルタ・タワー(Menara Jakarta)建設の計画が進んでいる。

この超高層ビルの計画は、スハルト時代の末期に計画された。スハルトの親族が事業を担当することになっていた。だが、1997年のアジア緊急危機で計画は棚上げになった。それが、2004年ごろに復活した。計画によると、完成は2010年ごろといわれている。だが、完成したとしても、そのころにはもっと高いビルができていることだろう。



だいたい、ジャカルタの町は散歩して楽しいところではない。おやっと思わせるのは、ところどこに巨大な彫像がたっていることだ。それらの彫像の多くはどこかヨーロッパ風の雰囲気がある。スカルノのアイディアだ。スカルノ本人はどちらかといえば、オランダ嫌い、アメリカ嫌い、イギリス嫌いだったが、まあ、途上国の近代化とは、あの時代流行の近代化理論によれば西欧化のことだった。大空に向かって、何かを激しく求めているような西イリアン解放の像は、新生インドネシアの希求を表すものだ。彫像の肉付けはロダンをおもわせて大仰で、インドネシア離れしている。

だが、なかには、いかにもインドネシアらしい雰囲気の彫像がある。独立戦争時代の農民ゲリラ兵士と女性の像だ。これは、インドネシアの芸術家でなく、ロシア人の彫刻家の手になるものだ。女性よりも一段高い台の上に男の農民兵士を置いたこの像に対して、インドネシアのフェミニストたちが、いつになったら「ノー」と言い出すか、私は楽しみに待っている。

   

アリ・サディキンがジャカルタ知事に任命された1966年、「60万人がせいぜいの都市施設しかない街に400万人の人が住んでいた」と、彼は回顧している("Interview with Ali Sadikin, Inside Indonesia, No.16, October 1988)。「その前年の1965年、インドネシアのインフレ率は650パーセントに達していた。ジャカルタの住人は生活のほとんどあらゆる面で危機に直面していた――住宅危機、就労危機、交通危機、経営危機、電話通信網危機、教育危機などなど。そうした重い問題のすべてが新知事アリ・サディキンの肩にのしかかってきた」とモフタル・ルビスは『バン・アリ』の序文に書いている。




44 ミンタの像

住んでいた新聞記者団地からジャカルタの都心に向かうさい、ときに「ミンタの像」のそばを通ることがあった。「ミンタの像」というのは、あとでいわれを説明するが、1990年代前半に外国人が呼び習わしていたいやみなあだ名であった。

台座の高さ27メートル、台座の上にのる像の高さ11メートル、重さは像の部分だけで11トンになる。像は片手を前に、もう一方の手を後ろに伸ばしてあたかも空中遊泳をしているようにみえる。スカルノと新生インドネシアが大空に飛翔する姿をあらわしたものだ。この像はジャカルタにある数多くの巨大彫像の中でも、スカルノが大いに気に入っていたもののひとつであった、といわれている。

この像は1964年から1965年にかけてつくられた。像の完成を待ちきれないスカルノは、自家用車を売った金をつぎ込んで工事を急がせたと、伝説にいう。像の正式の名はMonumen Dirgantara (大空のモニュメント)。Patung Dirgantara (大空の像)、あるいは像のある場所の名をとって Patung Pancoran(パンチョランの像)ともよばれる。



「大空のモニュメント」が完成したとき記念に作られたはがきを見ると、あたりはほとんど空き地だった。スハルトの時代になって西側先進国から積極的に援助と資本を導入し、ジャカルタの町は肥大化していった。「大空のモニュメント」のすぐ下を首都高速道路が走るようになった。

インドネシアが援助や融資や資本をあてにしている国々からインドネシアにやってきて仕事をしている人々が、やがて、この像を「ミンタの像」と呼ぶようになった。片手を前にさしだした姿勢が、どこか「おねだり」(ミンタ)を思わせるという理由からだった。金を出す先進国の傲慢な態度であり、インドネシアにとっては屈辱である。

最近のインドネシアの対外債務は公的なものが約740億ドル、民間債務をあわせると1360億ドルになる。対外債務支払いが国家財政を圧迫しているのは、日本の国債が財政を圧迫しているのと同じ。機会をうかがって債務帳消しのミンタをしなければならない。

2006年7月20日、ジャカルタで地震があった翌日、ジャカルタ市の公園管理部長が記者会見して、市内の巨大彫像を点検した結果を発表した。そのとき「大空のモニュメント」の足の部分と台座が少し壊れていることが明らかにされた。前日の地震のせいではなく、そばを走る高速道路建設の影響や経年劣化のためらしい。

という話を受けて、ジャカルタっ子たちはこんなパロディ写真を作ってあちこちのブログではしゃいだ。

 




45 ハリウッドの活劇男


話がちょっと脇にそれた。スカルノ時代の末期、ジャカルタ特別市の知事に任命されたアリ・サディキンは1927年西ジャワの生まれ。インドネシア独立戦争に参加したのちも海軍に残り、やがて米国に派遣されてアメリカ海兵隊で将校教育を受けた。

上背があって、にがみばしった精悍なマスクの、かっこいい若手将校だったようだ。1957年にスラウェシで起きた反乱の鎮圧に派遣されたとき、アリ・サディキンは自動小銃を連射しながら反乱軍に向かって突撃し、「ハリウッドの活劇男」と異名をとったという伝説を残した。

アリ・サディキンのこのかっこよさは老境にはいった1990年代前半でも、なおその片鱗をとどめていた。日本風にいうと還暦を過ぎたころになっても、ジャカルタ市内の5つ星のホテルのフィットネス・スタジオに顔をみせ、エアロビクスダンスや自転車こぎ、ダンベル体操で肉体を鍛えていた。

私がスハルト政権下の新聞と政治についてフィールドワークを進めていた1990年代前半、アリ・サディキンは、ジャカルタのメディアにしばしば登場して、粋な姿で洒落たセイフをはいていた。

たとえば、トレンディーな男性向け雑誌『マトラ』の19945月号では、グラビアページで、すきっとダークスーツを着こなしてみせたかとおもうと、次のページでは一転して真白なシャツの上に黒い革ジャンをラフにはおってアリ・サディキン67歳のダンディズムを披露した。



グラビアページに続くインタビュー記事では、あなたは個人的にスハルト大統領に敵対しているわけではないのですね、というインタビュアーの質問に「私が敵対しているのはその政治システムに対してなのだ。今のシステムは是正されなければならない。スハルトには個人的な恨みはない。だから、スハルトが民主主義への道を真に切り開こうとするのなら彼を支持しよう」と答えたりしていた。

マス・メディア以外にも、アリ・サディキンはスハルト体制に批判的なグループの集まりによくゲストとして姿をみせた。私自身もスハルト批判派のグループが開いたある会合でアリ・サディキンに会ったことがある。

その会合で彼は「何が正しく、何が間違っているかは神が決めることである。だが、この国では、政治権力がこれを決めている」とよく響くバリトンでスピーチした。たしかに、人をひきつけてやまない雰囲気をもっている人だった。


東南アジア最大のモスク、イスティクラル




46 ムルデカとイスティクラル

ジャカルタ特別市知事になったアリ・サディキンは、スカルノ時代にやり残された都市計画をつぎつぎと完成させていった。

東洋一の壮大なモスク、マスジッド・イスティクラルの建設はインドネシア独立後すぐ構想された。1953年には建設委員会が組織され、スカルノが支援を約束した。建設は1961年から始まり、最終的に工事が終わってモスクが開かれたのは1978222日だった。17年の期間を要した工事だった。

アリ・サディキンは1977年にジャカルタ特別市知事を辞めている。彼の在任中ずっと工事が続いていた。

このマスジッド・イスティクラルはインドネシアのムスリムにとって特別なモスクで、断食月あけのお祝いの日、イドゥル・フィトゥリなどには、大統領以下閣僚がそろってお祈りにやってくる。


マスジッド・イスティクラルの内部

イスティクラル(IstiqlalあるいはIstiklal)はアラビア語起源の言葉で「独立」あるいは「自由」を意味する。インドネシア語には、サンスクリット起源の「ムルデカ」という言葉があり、これも「独立」と「自由」を意味する。マスジッド・イスティクラルはジャカルタ中心部のムルデカ広場の東側にたっている。

マスジッド・イスティクラルも他のモスク同様土足厳禁である。1980年代の中ごろ、警察官が土足でモスクに踏み込んだことが引き金になって、推定死者100人を超す大殺戮事件が発生したことがある。いずれ詳しくお話しする機会があろう。

異教徒の見学はイスティクラルのインターナショナル・ゲストの受付で靴を脱ぐ。「靴下はどうしましょう?」と尋ねたら、「どちらでも」という返事だった。敬意を表して靴下も脱いだ。

祈りの大空間に異教徒は踏み込むことができない。「異教徒の方はここまで」と、案内の人にとどめられた。

このモスクほか、アリ・サディキン時代には、スンダ・クラパの近くにアンチョル遊園地が造られた。スナヤンに新国会議事堂ができた。スカルノの青写真に書かれていなかったインドネシア最大の複合文化施設タマン・イスマイル・マルズキが、チキニ通りにあった動物園を移転させた跡地に建設された。目抜き通りのタムリン―スディルマン沿いにプレジデント・ホテル、ヒルトン・ホテルなどが海外資本との合弁で建設された。

ジャカルタ郊外にインドネシア各地の民族の代表的な家屋を集めて展示し、今ではジャカルタの数少ない観光施設の目玉になっている公園タマン・ミニ・インドネシア・インダは、もともとスハルト大統領の妻だったティンが発案したもので、金の無駄遣いと強い反対運動をよんだ計画だった。

アリ・サディキンはティンからの協力要請と、「レール沿いの鉄道敷地内にあばら屋を建てて住まねばならない人がまだ多くいるのに、不要不急の計画ではないか」と大学生を中心とした反対派のいたばさみになった。結局、アリ・サディキンは「すでに承認をうけているジャカルタ都市計画のマスタープランにはこの種の公園の建設計画が含まれている。マスタープランでは名称はタマン・ビネカ・トゥンガル・イカ(多様性の中の統一公園)と異なってはいるが、同じ性格の公園である」として、計画の一部を変更したうえでゴーサインを出したのだった。この話は別のところでお話しよう。




47 カテドラル


マスジッド・イスティクラルと道路を挟んで向かい側にカトリックの大聖堂、聖マリア大聖堂がある。イスティクラルはインドネシアの独立と民族自決を記念するイスラムの建築物だ。大聖堂のほうは19世に建てられた。オランダ植民地時代の歴史的遺産である。



大聖堂は1810年に建てられた。1826年に火事で焼け落ちた。1830年に再建。1882年に2つの塔ができた。1980年にまた、灰燼に帰し、現在の建物ができたのは1901年である。

イスラムとローマン・カトリックの大寺院が近接して建っていることを、インドネシアのモットー「多様性の中の統一」の象徴とみる人もいれば、オランダ植民地主義者の宗教を巧みに利用した分断統治の名残とみなす人もいる。オランダ領東インドを支配したオランダはキリスト教徒のインドネシア人を植民地軍にいれ、植民地拡大の戦争の道具に使った。

インドネシアは1万数千の島々からなる島嶼国家で、島の面積をあわせると日本の面積の約5倍になる。人口は2億人を超える。人口の9割弱がイスラム教徒、キリスト教徒が新旧合わせて9パーセント弱。ヒンドゥー教徒が2パーセント。総人口の6割が面積では国土の7パーセントに過ぎないジャワ島に住んでいる。面積で日本の約3分の1のジャワ島に日本の人口とほぼ同じ人々が暮らしている。ジャワ島は世界有数の人口密度の高い島であると、とむかし学校で習った記憶がある。

ジョクジャカルタのガジャマダ大学でインドネシア語の特訓を受けていた時の話。宿泊先の安ホテルのテラスの椅子に腰かけ、日がな通りを眺めている人がいた。同じ特訓を受けに来ていたオーストラリア人で、「何が面白いの」と聞いた。彼はオーストラリアの地方から来ていた。お祭りでもないのに、これほどの人が途切れなく通りを行くのは珍しい眺めで、全く見飽きない、ということだった。

ジャワ島にはいたるところに人間と、火山と、そして宗教がある。土着の宗教、仏教、ヒンドゥー教、イスラム教、新旧キリスト教がある。それらの宗教が、日常生活の規範だけでなく、政治活動の背景になっている。日本で言えば、公明党―創価学会のようなつながりが、宗教ごとに見られる。

宗教観の政治的摩擦を避けるために、インドネシアは独立当初から、世俗国家をめざしてきた。目下のところ最大多数派のイスラム教が元気がよろしい。筆者が初めてインドネシアへ行った1980年代にくらべ、宗教的かぶりものであるジルバップを着用する女性が増えている。



インドネシアは宗教に熱心な人が多く、筆者もしばしば「汝の宗教は?」と尋ねられた。「信じる宗教はござらぬ」などと答えると、そのあとは無神論者への容赦ない攻撃になってくるので、インドネシア滞在中は「仏教徒でござる」を決め込んでいる。じつはインドネシアにも、この手のムスリムがいないわけではない




48 バジャイとオジェック

話は再びアリ・サディキンとジャカルタの街造りにもどる。

こうしたジャカルタのモニュメント的な建造物作り以外に、アリ・サディキンは地道な都市計画を実行した。道路を補修、拡張、さらには新しく造った。こうした道路の総延長は1,500キロにおよんだと彼自身が語っている。

交通信号機を設置し(もっともしょっちゅう故障するし、日本ほどには信号が守られていないが)、公共輸送機関としてバスをはじめ、バジャイとよばれる自動三輪車の簡易タクシーを導入した。


バジャイ

ここでちょっとバジャイについて。バジャイというのは、写真のようなエンジン付き三輪軽タクシーである。インドのバジャイという会社が一手に生産しアジア地域を中心に輸出していることから、バジャイとよばれるようになった。タイではトゥク・トゥクと呼ばれていた。教科書に出てくるようなインドネシア語ではベチャ・ブルモトール(モーター付きのベチャ)という。ベチャというのはいわゆる輪タクのことで、自転車タクシー。座席が車の前部にあり、その後ろでベチャ引きがペダルを踏んで、ゆるゆると走る。ただし、正面衝突するとまず客から死傷する。ジャカルタも交通渋滞がひどく、最近では渋滞をぬって走れるバイク・タクシーがはやっている。オジェックという。

ジャカルタのホワイトカラーは自家用車か4輪タクシーを利用する。バジャイやオジェックに乗るのは街の庶民である。子どもを抱いた抱いた母親がオジェックに横乗りしている。危ない公共輸送機関である。いつごろのことだったろうか、宗教大臣がオジェックに乗ったというニュースが新聞に載った。公用車で国営テレビ局へ行く途中渋滞に巻き込まれた。テレビ生出演の時間が刻々とせまってくる。そこで、公用車から飛び出し、オジェックにまたがったのだった。

私が住んでいた1990年代は、バス、自家用車、タクシー、バジャイ、オジェックが入り乱れて走っていた。3車線の道路を車が4台並行している風景も珍しくなかった。私が乗っていたタクシーの運転手はそれを見て、「クラン・ディシプリン」(行儀が悪い)と評した。が、やがて辛抱たまらなくなって、車の列の中へ突っ込んでいくのであった。大型バスが黒煙を撒き散らしながら、車体をきしませて別のバスを追い越していた。ポンコツのレース場の趣があった。最近ジャカルタを訪れると、バス専用レーンができ、バス専用乗り場が設けられていた。


バス専用レーンとバス乗り場

アリ・サディキン知事は、住宅地を造成し(私が住んだ新聞記者団地もアリ・サディキン知事時代に造成された)、学校、診療所を建て、水道と電気の普及にも努めた。

ジャカルタからゴミを一掃するようにというスカルノの希望にも応えようと努力した。世界銀行からの資金でゴミ運搬車を購入したりしてゴミ戦争と取り組んだが、結果ははかばかしいものではなかった。アリ・サディキン知事7年目にあたる1972年のジャカルタ市の調査では、ジャカルタ市で生じるゴミは1日約3000立方メートルと推定された。そのうちの76パーセントが家庭のゴミ、14パーセントが市場など流通関係のゴミ、5パーセント余が工場関係の産業廃棄物だった。ジャカルタ市人口35パーセント自分の手ゴミを焼却処分し、15パーセントが穴を掘って埋め、22パーセントが運河や溝にゴミを投げ捨てていた。このゴミが川の流れを悪くし、雨季の洪水に拍車をかける。


ドブ川さらえ

最近のジャカルタでは1日7,000トンのゴミが発生している。このうちの6割が有機物。ジャカルタ市のゴミ堆積場は120ヘクタールを占める。

拙宅では古新聞や古雑誌はお手伝いさんが古紙回収業者に売り、お小遣いの足しにしていた。プラスティックゴミや残飯は道路に面したコンクリートのゴミ箱に捨てていた。私的ゴミ回収人が定期的にやってきて、プラスティックゴミなど資源回収になるものを持っていった。そのあとに、犬や猫やニワトリがやってきて、ゴミ箱をあさった。公的ゴミ回収作業が行なわれるころには、ゴミ箱のそこは黒くドロドロになって腐敗臭がただようヘドロ状のものだけが残っていた。熱帯の途上国の街造りはなかなか難しい。5星のデラックス・ホテルでも、地下の駐車場に入り込むとどこからともなく腐敗臭がただよってくることがあった。

ジャカルタでフィールドワーク中に世話になったアトマクスマ夫妻が数年前、初めて日本を訪れたので東京を案内した。散歩がてら銀座に食事に出た夕暮れ、アトマクスマが笑いながらこういった。

「その昔、スハルト大統領の補佐官が『インドネシアは発展する。10年後にはジャカルタは東京を追い越す』と言ったことがあったが、これでは100年かかっても追いつけない」




49 ゴミの島


これは1990年代のジャカルタで聞いた話である。ジャカルタの高級住宅地住んでいたある外国人居住者のゴミの話である。

先進国からジャカルタに働きに来た外国人は、高級ホテルが経営するアパートか、市内に一軒家を借りて暮らすことになる。一軒家にはたいていプールがあって、家の周りは高いコンクリートの塀がめぐらしてある。

その塀の外側の一角に穴が開けられている。この穴が塀の内側のゴミ捨て場とつながっている。1990年代には、expatsとよばれていた外国人居住者がいくらかの侮蔑をこめてスカベンジャーとよんでいた個人ゴミ回収人がいた。塀の外側の穴から内部のゴミを引っかきだし、めぼしいものを持ち帰るのである。

ある外国人居住者の家庭では、家族が使用した下着類を捨てるさいは、はさみでその下着類をずたずたに切り裂いてゴミ箱に捨てていた。自分や家族が使った下着が、誰かに再利用されるのが耐えられないという理由からであった。


ジャカルタ市内で

さて、現代ジャカルタのゴミ。ジャカルタは扇状地で10数本の小型河川がジャカルタ湾に注ぎこんでいる。新聞記事などによると、それらの川をくだってジャカルタ湾に流れ込むゴミは1日あたり14,00立方メートルになるそうだ。その多くが家庭ゴミである。

ジャカルタ湾に浮遊するゴミの半分以上がプラスチック製品だ。その次に多いのが木製品、続いてゴム製品、衣類などである。

当局はジャカルタ湾に清掃船4隻を出してゴミ回収をしているが拉致があかない。金子光晴が『マレー蘭印紀行』で「うつくしいなどという言葉では云足りない。悲しいといえばよいのだろうか。あんまりきよらかすぎるので、非人情の世界にみえる」と書いたプロウ・スリブの島々を浮かべたジャカルタ湾はいまや、インドネシア屈指の汚れた海になっている。

1990年代にジャカルタ湾をクルーズをしたことがある。サンゴ礁の島に回りにたくさんのゴミが漂着していた。

新しいゴミ捨て場の確保に躍起になっているジャカルタ特別市当局は、このジャカルタ湾に浮かぶプロウ・スリブの島のひとつをゴミ捨て場にしようと、検討を始めているそうである。




50 
かねづる


インドネシアはオランダの植民地だった。オランダ本国政府からさんざん絞り取られた。そのあと、こんどは日本軍によって太平洋戦争に利用された。あげくには、独立にあたって、インドネシア人にすれば身に覚えのない借金まで背負いこまねばならなかった。1945年から1949年にかけてのインドネシア独立戦争に終止符をうったオランダの首都ハーグでの会議で、オランダはインドネシアに主権を委譲するにあたって、オランダ領東インド政府の借金43億ギルダー、当時のドル換算で113,000万ドルの返済を肩代りするよう求めた。インドネシア人にとってなんとも我慢できなかったのは、その借金のかなりの部分が、実は、インドネシアの独立を阻止するためにオランダが戦費として借金したものだったことだ。

インドネシア共和国は借金を背負って出発した。つづいて、スカルノの左傾化で先進資本主義諸国からはうとんじられた。スカルノ時代末期の悪性インフレで経済は疲弊した。アリ・サディキンが前任者からジャカルタ知事を引き継いだとき、使える財源は当時の金でわずか6,600万ルピアしかなかったという。


ジャカルタ市内で

ただ、このときインドネシアは経済成長へ向けて追い風を受け始めていた。1965年の9.30事件のあと、翌1966年になるとスカルノはスハルトに実質的に大統領権限を委譲せざるをえなくなった。さらに1967年には国策決定の最高機関である国民協議会がスカルノから大統領としての権限を剥奪し、スハルトを大統領代行に任命し。最終的に1968年、スカルノは大統領職から解かれ、代ってスハルトが大統領に任命された。

この交代劇がもたらした左傾路線離脱・右派路線への切り替えを西側先進資本主義諸国は歓迎した。スハルト政権も資本主義諸国からの外資導入をてことした経済開発路線をとりはじめる。1967年日本を含む西側諸国はインドネシア援助国会議を結成し、インドネシアへの開発援助を本格的に開始した。加えて、1970年代にはいると石油ブームでインドネシアの国家収入も伸び始めた。

海外からの開発援助と投資、石油収入増で豊かになった国庫から回ってくるジャカルタ市予算、それにアリ・サディキン自身が考え出した独自財源が、ジャカルタの都市近代化のための財源になった。海外からの投資についていえば、たとえば、1967年から5年間にジャカルタ地区への工場進出などの投資は、インドネシア向けの総投資額の約6割をしめた。

アリ・サディキンが考え出したジャカルタの街造りのための独自の財源とは、イスラム教の国インドネシアでは非難のまとである悪徳、ギャンブルと売春を公認し企業化することだった。この2つの悪徳を公認することであがってくる税収入は、1968年の段階で、はやくもジャカルタ市の全歳入の29パーセントを占めるにいたった。

アリ・サディキン自身は、西ジャワ生まれの敬虔なムスリムだったが、世論の反対を押しきってこの政策を強引に実行した。あるときムスリムたちから賭博公認を非難されたアリ・サディキンはこう言い返した。「どうぞ外出はお控え下さい。道路は賭博に課した税金で造りました」。また、別の機会には売春の公認について語っている。「それまでは街頭のいたるところで売春の客引きが行われていた。私は売春などジャカルタには存在しないといったふりをしてみせるほどの偽善者ではない。定められた地区にスチームバス・パーラーやナイトクラブを集め、売春従事者を医師の監督下においた。この方がより文明的だ」





51 WTS

WTS――Wanita Tuna Susila。英語で言うとWoman Without Morals。インドネシアの官庁文書やメディアが売春婦に言及するときは、この用語を使う。Wanita Tuna Susilaの短縮形であるWatunasを使うこともある。英語圏ではSex Workerが頻繁に使われる。インドネシアでも、売春は道徳の問題だけではなかろうと、それをインドネシア語に翻訳したKaryawan Sexという言葉が1970年代の中ごろ作られたが、一般化しなかった。

ジャカルタ特別市の知事になったアリ・サディキンは、ジャカルタの国際港湾地区タンジュン・プリオクに近いクラマット・トゥンガクに売春業者と施設を集め、新興の売春ゾーンをつくった。その目的は売春行為の社会的隔離と、売春従事者の社会復帰であるとされた。

クラマット・トゥンガク地区では1969年には1,668人の売春婦が働いていたという。1990年代になると、256の売春施設で働くセックス・ワーカーは2,000人を超え、ポン引きはざっと230人、保安要員も270人近かった。

セックス・ワーカーには社会復帰のための教育や技能習得が義務づけられていた。また、売春婦は月額3,500ルピア(当時のレートは1ドル2,000余ルピア)、ポン引きは抱えている売春婦1人あたりにつき月額2,000ルピアの拠出金が義務化された。拠出金は財団が管理し、教育費などにあてた。また、売春婦が廃業して社会復帰する際は、25万ルピアが財団から支給された。

以上は、Terence Hull, Endang Sulistyaningsih and Gavin Jones, Prostitution in Indonesia, Jakarta, Pustaka Sinar Harapan, 1999のデータに基づく。同書によると、1990年代の中ごろのセックス・ワーカーの所得は最高級グループが月額3,000ドル、高級グループが1,000-1,5000ドル、中級グループが500-750ドル、低級グループが250ドル、最低級グループが100ドルだった。


タマン・プラサスティ外人墓地で


インドネシア社会省によると、1990年ころインドネシア全土では6万人を超えるセックス・ワーカーがいた。セックス産業の年間売上高は12億ドルから33億ドルと推計された。これはインドネシアのGDP0.8-2.4パーセントにあたった。市財政の歳入源としてアリ・サディキン知事が目をつけたのもうなずける数字である。

東南アジアでセックス産業がもっとも盛んなタイでは、バンコクで深呼吸するとエイズに感染するとまでひところ悪口を言われた。このタイでも1990年代はGDP2-3パーセントを売春婦が稼ぎ出しているといわれた。

バンコクの歓楽街パッポンに隣接して、半ば日本人専用のピンクゾーン・タニヤがある。日本の男がタイのセックス産業に貢献している様子については、日下陽子『タニヤの社会学』(めこん、2000年)が詳しい。日本人駐在員の妻が、日本人男性の知性と品位に欠ける行動に怒り、フィールドワークを重ねたすえ、チュラロンコン大学に提出した修士論文がもとになった本である。





52 ベチャ追放


ジャカルタの住民に仕事を与え、街を近代都市に育てあげるためには「ジャカルタを(外国資本に)売りこむしか方法がなかった」とアリ・サディキンは回顧録で語っている。途上国が発展するためには、先進国からの金と技術が必要なことは、今も昔も変わりない。外国資本が心よく進出してくれる街にするためにも、ジャカルタのカンプンの整理整頓が必要だった。アリ・サディキン知事はここでも思いきった措置をとった。

カンプンあるいはカンポンは、田舎・郷里の意味だが、都会の細民が住む地区もカンプンとよばれる。はやい話が先進国の住人には、スラムおよびスラム化した地区と見えるところである。ジャカルタのカンプンはオランダ植民地時代の1920年代に改良計画がたてられたが、1930年代の世界不況もあって、財政難から効果をあげることができなかった。太平洋戦争中の日本軍政時代には、カンプン住民管理のために日本式の「隣組」が組織されたが、居住環境改良の面ではみるべきものはなかった。

アリ・サディキン知事はながらく放置されてきたこのカンプンの改良計画に手をつけた。また、彼はカンプン発生の原因であるジャカルタへの流入人口をおさえるため、ジャカルタ市住民に身分証明書の携帯を義務づけ、この証明書なしではジャカルタに住むことが(理論上は)できなくした。

ジャカルタでは、1990年代に高級住宅地、一般勤労者用の住宅地が続々と開発されたが、カンプンがなくなったわけではない。カンプンのほとりの運河はよどみ、ごみが浮かんでいる。生活道路には屋台がひしめいている。ジャカルタへの流入人口も減る気配はない。イスラム教の断食月があけると、インドネシア中が休みに入り、ジャカルタに働きに来ている人たちがそれぞれの故郷に帰る。その休みが終わり、彼らがジャカルタに戻るとき、彼らからジャカルタの生活を聞かされた人たちがくっついて来る。その数ざっと25万から30万人。


ジャカルタ市内で

ふくれ上がる人口を吸収できるだけの労働市場があるわけではないので、多くの人はバジャイの運転手、行商人、お手伝い、荷物運びなどで食いつないでいくしかない。筆者が住んでいた新聞記者団地の中にも様々な行商人がやってきた――中華鍋をたたきながら車を押してくる焼き飯・焼きそば屋、アイスクリーム売り、古新聞買い、八百屋、魚屋、肉屋、果物売り・・・。

サディキンのジャカルタ市はさらに、カンプン住民の多くが日々のなりわいにしていたベチャ、カキリマの営業を市内の主要な通りからしめだした。


ジョクジャカルタ市内で

ベチャとはかつて日本にもあった輪タクのことだが、日本にあった輪タクは自転車の後部に箱型の客席をつけたものだった。1930年代にシンガポールあるは香港からジャカルタに持ちこまれたというベチャは客席が自転車の前部についている。カキリマkaki(足)とリマ(5つ)を組み合わせた言葉だ。筆者がバンドンでインドネシア語をおしえてもらった大学教授によると、屋台の車輪2+停車時に車体を支える脚1+屋台を引く人間の足2=5本の足、カキリマという説と、道路端の5フィートほどのところに車を止めて商売するのでカキリマ(kaki limafive feet)という2説があるとのことだった。

ベチャもカキリマもジャワの田舎から稼ぎに来た農民がカンプンに住みついて、、親方から車を賃貸して商売していた。カンプンのその日暮らしの貧民層にとってはアリ・サディキンが始めたカンプン改良計画は彼らの生活の基盤を強権で奪うものと映った。

ベチャゆらゆら揺れながらのんびり走るのどかな乗り物である。Lea Jellinek, The Wheel of Fortune, London, Allen and Unwin, 1991によると、1970年代初頭、ジャカルタには10-15万台のベチャが走り、25-35万人のベチャこぎがいたそうである。農村での労働の約5倍の収入があったという。

1970から72年にかけて、サディキンのジャカルタ市は、ベチャ営業のライセンス制と新規ライセンスの発行停止、ベチャの車体の製造禁止、市内中心部からのベチャの締め出しを行なった。このため、市内のベチャの数は1980年には5万台に減った。

ベチャが減るとベチャこぎが減り、ベチャこぎが減ると、ベチャこぎをお得意さんにしていたカキリマが痛手をうけた。

1990年にはジャカルタ市内でのベチャが全面営業禁止なった。当局は失業するベチャこぎには新しい仕事を斡旋すると約束したが、もちろん空手形に終わった。アジア経済危機の1998年、ジャカルタ市は貧民救済のため市内でのベチャ営業の再開を認めたが、市街から大量のベチャがなだれ込んできたので、あわてて再開許可を取り消した。

いま、ジャカルタの道路にはベチャが走っていない。そのかわり、黒煙を吐いて走る大型バス、タクシー、ワゴン車を改造したミクロレットとよばれる簡易バス、自動三輪のバジャイ、バイクの後部座席に人を乗せて走るバイク・タクシー、オジェックがアナーキーにレーン変更しながら走っている。


ジャカルタ市内で

アリ・サディキンのジャカルタ都市経営ぶりに効率、組織化、指導力、そしてある種のかっこよさを感じた大学生たちがキャンパスで「次の大統領候補にアリ・サディキンを」と声をあげはじめた1977年、スハルト大統領はアディ・サディキン知事を更迭した。自らの権力を脅かすおそれのある者を嫌ったのだというのが通説だ。やがて、アリ・サディキンは「ペティシ50」とよばれることになるスハルト批判グループに名を連ね、スハルト政権によってパージを受けた。