ジャワ追憶
                文と写真 花崎泰雄


第5章  チャリ・ウアン


53 銀行が多すぎた

「金儲け」にあたるインドネシア語はさしずめcari uang(チャリ・ウアン)だろうか。cariは「探す」、uangは「お金」。インドネシア各地から大勢の人が首都ジャカルタ路上にお金を探しに来る。

現地調査のためにジャカルタに住みつくまでは、ときどきメルボルンからジャカルタへでかけた。1994年の4月、ジャカルタのホテルに滞在して資料集めをやっていたころ、オーストラリア人のゴードンとマイクの2人と知り合った。2人はゴールドコーストにある都市計画の会社で働いている技術者で、インドネシアとの合弁事業の予備調査のためにジャカルタに派遣されてきたばかりだった。なんどか夕食のテーブルをともにしたが、ある晩、ゴードンがジャカルタの印象をこう語ってくれた。

「僕らは2人とも今回が初めてのインドネシア体験だ。すごいカルチャー・ショックだよ。インドネシアのことを研究している君からみればつまらないことだろうが、僕のカルチャー・ショックというは、なぜジャカルタにはこんなにたくさんの銀行があるんだろうか、ということだ。インドネシアの普通の人の貧しさをみるにつけ、いったい誰にこれだけの数の銀行に金をあずける余裕があるんだろうかと悩んでしまうんだよ」


パサル・イカンで

たしかに。インドネシアには貧しい人が多かった。インドネシア統計局によると、1970年のインドネシアでは人口の6割が貧困線以下の暮らしをしていた。スハルト体制下の経済成長で1996年になると、貧困線以下の人口は11パーセントまでに減った。だが、1997年のアジア金融危機の影響で、再びその人口は拡大した。世界銀行の推計で18パーセント、国連開発計画によると24.2パーセント、インドネシア統計局の推計では39.7パーセントにのぼった。

インドネシア当局が設定した貧困線は、1人あたり収入月額が都市部で143,455ルピア、農村部で108,275ルピアである(2004年)。2007年のレートで円に換算すると、1,950円と1,472円になる。これは絶対的貧困の線を1人当たり11ドルとした世界銀行の定義をさらに下回る。

貧しいわりに銀行が多すぎる。たしかに。そのころのインドネシアには、その経済規模からすれば過剰なほどの銀行があった。日刊紙『レプブリカ』(1994922日付)が、香港で発行されている週刊誌『アジアウィーク』の記事を引用した「インドネシアには銀行が多過ぎる」によると、『アジアウィーク』のアジアの銀行500には、インドネシアの銀行234行のうち68行がランキングされていた。しかし、そのほとんどがランキングの底辺にあった。インドネシアは銀行数では全体の13.6パーセントをしめたが、総資産額ではわずかに全体の1パーセントにすぎなかった。タイの銀行は15行がランキングに入っただけだったがその総資産額は1.2パーセントをしめた。インドネシアでは銀行の創業が簡単で、わずか100億ルピア(当時のレートで約500万円)の自己資金で開業した例もあると同紙は紹介していた。

ジャカルタの大通り、タムリン通りやスディルマン通りの両側の超高層ビルにはそのころ、いたるところ大手銀行の看板がでていた。私はある日、タクシーに乗って走っていてSAKE BANKと書かれた広告塔を見て、おもわず笑いだした。日本人の語感からすれば、預けた金がいまにも飲まれてしまいそうな気がしたからだ。「酒」はsakeあるいはsakiとなってインドネシア語に取り入れられ、ムスリムが人口の9割に近い禁酒の国の辞書にも載っている。

まあ、しかし、当時の日本には「さくら銀行」という都市銀行もあって、これなどはインドネシア人の語感からすれば、日本はヌガラ・サクラ(negara sakura 桜の国)で、さくら――花(bunga)ーー利子(bunga)と、高利率を連想させるめでたい名前だが、一方で、あっとの間に雲散霧消してしまうような危うさもまたイメージさせる名前だった。

1996年に239を数えたインドネシアの銀行は、1997年のアジア金融危機後に整理された。2003年には138行までに減らされた。日本でも1997年から1998年にかけて北海道拓殖銀粉など長期信用銀行3行が破綻した。1980年代13行あった都市銀行も再編されていま6行になっている。1976年には日本全国で1,117あった金融機関が2006年には589に減った。日本でも銀行が多すぎたのであろう。

民の貧困。2006年のインドネシアの貧困線(絶対的貧困)以下の人口については、総人口の17.8パーセントという推計がある(CIA World Fact Book)。一見するとずいぶん高い数字に見える。だが、同じCIAの資料では、英国17パーセント、カナダ15.9パーセント、韓国15パーセント、米国12パーセントという数字と比べてみると、インドネシアの貧困がとりわけひどいとも思えなくなってくる。

一方、2000年のOECD調査では、日本は加盟国の中で絶対的貧困率が最も低いグループに分類された。いっぽう、相対的貧困という考え方による国際調査では、日本は先進国グループの中で米国についで貧困率が高く13.4パーセントだった、としている。毛沢東ではないけれど、貧しきを憂えず、等しからざるを憂う、という観点から見れば、日本もまた貧困問題を抱えている。この貧困感覚を増幅させているのは、いわゆる1周遅れのネオリベラリズム信仰である。





54 ボチョール


さて、この多過ぎるインドネシアの銀行はどんなふうに利用されていたか。

1978年の初めの話である。スハルトの大統領3選を前に、反スハルトの学生運動がもりあがっていたころのことだ。国立インドネシア大学の憲法の先生、イスマイル・スニが治安警察に逮捕された。

彼にかけられた容疑は、当時の『ファーイースタン・エコノミク・レビュー』誌(1978127日)によると、学生とのパネル・ディスカッションの席でイスマイル先生が、国家の高官で、将軍でもある人物が、セントラル・アジア・バンクに当時の金で33000万ドルの個人預金をしていると語ったことだ。

セントラル・アジア・バンクはスハルトの古くからのクローニーで大物実業家の一人が1950年代に創業した銀行である。創業者の名はスドノ・サリム。華人名でリム・スー・リヨンと呼ばれる中国・福建省出身の人物で、スハルトと二人三脚でのしあがった。スハルトは権力の頂上へ、リムはインドネシア一番の金持ちへと。このあたりの詳しい話は、また別の機会に。

国家高官で将軍でもある人物とは、名指しこそしなかったが、スハルト大統領を暗示していたために逮捕されたのだ、と一般にうけとめられた。

また、スハルトの個人資産は150億ドルにのぼり、大統領一族の総資産となれば、その2倍に達し、フィリピン大統領だったマルコスの隠し資産をはるかに凌駕すると、米国のCIA1989年の時点で推定していたという説を、米国のインドネシア研究者が博士論文で紹介したこともあった。のちびなって、スハルトが大統領を辞任した後、米誌『タイム』や『フォーブス』がスハルト一族の隠し資産について書きたてた。それらの記事によると、スハルトとその一族の資産は日本円に換算して兆の単位になった。

スハルト大統領自身の月給は数十万円だった。権力は打ち出の小槌、あるいはアラジンの魔法のランプである。


ジャカルタ市内で

199311月、インドネシア経済学界の大御所スミトロ・ジョヨハディクスモが「インドネシアの開発資金の30パーセントがボチョール(漏れ、いずこともなく消えているといった語感)している」と語ったと、1123日付『コンパス』紙が報じた。

スカルノ、スハルト両政権下で大臣を務め、インドネシア大学で多くの経済学者を育てた大物の発言だけに大騒ぎになった。そのうえ、スミトロの息子プラボウォはスハルトの娘と結婚していた。

たとえば、ある週刊誌は道路建設入札の例をあげてこの消える30パーセントの行方を説明した。「落札業者は落札価格の10パーセントを入札を争って敗れたライバル業者に贈り、10パーセントを道路工事発注責任者に渡し、10パーセントを管理・監督にあたる当局に支払う」

結局、年があけてスミトロ自らがマスコミに登場し、「あの発言は経済学者たちと食事したときの発言が近くにいた記者によって誤り伝えられたものだ。私はボチョールという言葉は使っていない。私の真意は、開発資金が他の国と比べて有効につかわれておらず、その30パーセントが無駄に使われ効果を生んでいなといったのだ」と説明し、騒ぎはおさまった。

インドネシアは世界銀行、アジア開発銀行などからの開発融資、各国からのODA、さらに民間投資を受け入れた。それらの開発関連資金のかなりの部分がリベートとしてひそかに消えていることは、世間の常識になっていた。いったい闇に消えていく金はどのくらいなのだろうか? それについては確証がなかった。

インドネシアでスミトロの「ボチョール、30パーセント」発言が大騒ぎになったのは、誰もが開発資金の目減りがあって何の不思議もなく、ごくごく当たり前のことだ、と常日頃から感じてはいたが、「しかし、30パーセンチにもなるとは」という驚愕せいだった。




55 金庫を開く黄金の鍵

インドネシア経済学界の大御所、スミトロ・ジョヨハディクスモの「ボチョール」発言騒ぎからまもなくの19942月のこと。

インドネシアの国営銀行のひとつインドネシア開発銀行(バピンド、Bapindo, Bank Pembangunan Indonesia)の不良貸し付け事件が発覚した。

新興企業のゴールデン・キー・グループを率いるエディー・タンシルという当時40歳の実業家が、政府高官の推薦状を使って融資を受けた多額の事業資金を流用したうえ、こげつかせて、当時のドル換算で元利合せて5億ドル弱の損害をバピンドに与えた事件だった。



エディー・タンシルのためにバピンドあて推薦状を書いてやったのは、スハルト大統領の腹心で、融資当時には国防治安大臣だったスドモだった。過去に大蔵大臣を務めたこともあるスマルリンも関係しているとして、2人とも当局から事情聴取を受けた。

しかし、被告人として法廷にひっぱり出されたのは、エディー・タンシルとバピンドの幹部だけだった。さらにこの事件のさなか、国営の7銀行で約15兆ルピア(71億ドル)にのぼる貸付金の回収が困難になっていることが明らかになった。この金額は国営7銀行の貸付金総額の2割強に当たるという大蔵省の発表があった。

こうした国営銀行の融資こげつきは、すでに前年の1933年から問題になっており、19936月、中央銀行であるインドネシア銀行の総裁が、1992年には国営銀行の利益が前年比で9パーセント余の減となり、その原因のひとつが回収不能金の穴埋めであると国会で説明していたた。

1992年には民間銀行の利益は前年比32パーセント余の増となっており、国営銀行の融資こげつきは国営という性格のゆえの不祥事という印象を国民に与えた。

「融資こげつきはインドネシアに限らない。どこの国でも起きていることだ。インドネシアとの違いは、よその国ではそうしたスキャンダル、贈賄、腐敗が暴露され、裁かれることだ。インドネシアではこうした火遊びは見過ごされ、関係者が火傷する例はまれだ。こんな無法状態がいつまで続くのだろうか」と、著名なエコノミストのクイック・キアン・ギーが英文の経済週刊誌『インドネシアン・ビズネス・ウィークリー』(1993625日)で嘆いていた。のちなって、スハルト政権崩壊後、かれはワヒド内閣とメガワティ内閣で経済閣僚を務めることになった。

さて、黄金のカギを使って国営銀行の金庫を開けたエディー・タンシルは一審で無期懲役を求刑されたが、判決は懲役17年だった。エディー・タンシルへの融資を担当したバピンドのジャカルタ支店次長は9年の判決を受けた。

スハルト腹心のスドモやスマルリンへの疑惑は立ち消えになった。さらに、スハルト大統領の3番目の息子、トミー・スハルトもエディー・タンシルの事業にパートナーとして加わっていることが裁判の過程で公になったが、深く追求されることはなかった。

トミーはスハルト政権崩壊後に、最高裁判事暗殺事件で牢屋に入ることになるのだが、その話は後日あらためて。




56 安月給

こうした大胆不敵な銀行の不規則利用が横行する一方で、オーストラリアの技師が「インドネシアの普通の人の貧しさをみるにつけ、いったい誰にこれだけの数の銀行に金をあずける余裕があるんだろうかと悩んでしまうんだよ」とカルチャー・ショックを語ったように、私が見聞した1990年代の普通のインドネシア人の暮らしはつましかった。21世紀には行った現在でもそうだ。

たとえば、インドネシアの代表的な安月給取りである――ただし、毎月きまった給料が入るだけでも羨ましいという人も少なくないのだが――公務員の月給を、「この安月給でどうやって生きのびる」という特集をした『ジャカルタ・ポスト』(1995115日)から紹介してみよう。


ランチ・タイム

まず最底辺の男性地方公務員の場合。既婚で子ども3人。基本給月額86,000ルピア(当時の為替レートは20ルピア=1円)に諸手当およびこころづけを加えた総収入が月200,000ルピアだった。

これに対して支出は、電気料金6,000ルピア、子どもの教育費7,700ルピア、子どもの交通費、こづかいその他が20,000ルピア、一家の食費が150,000ルピア、その他の生活必需品購入が30,000ルピア、灯油9,000ルピア、テレビ視聴料3,500ルピアの合計226,200ルピア。この人の場合、幸いにして家賃がいらず、職場が自宅から近いので交通費もかからなかったが、それでも毎月26,200ルピアの赤字だった。緊急に必要な金は知人や上司から借金した。貯金には無縁だった。

次に、南ジャカルタ地区に住む26歳の小学校の体育教師の月給は諸手当込みで130,000ルピア。課外に子どもたちに水泳を教えていて、その謝礼が15,000ルピア。妻はデパートで売子として働いていて、彼女の給料が200,000ルピア。世帯収入は合計345,000ルピア。

この人の場合、収入の中からアリサンとよばれる日本流にいえば頼母子講あたる互助金融組合に20,000ルピア、銀行に50,000ルピアを積み立ている。妻が妊娠中で、出産に備えるためだ。1年分の家賃900,000ルピアを学校の共済組織から借りているうえ、出産後は妻が解雇されることになっているので、教師勤めのかたわら親から授業料450,000ルピアを借りて通っていた大学も退学した。大学までの交通費を節約するためだった。15,000ルピアの出費をけずるために新聞の購読もやめた。

このあたりが、当時のインドネシアの庶民の暮らしぶりだった。




57 副業

インドネシア語で「オラン・クチル」(orang kecil、小さな人)という言い方がよくされた、いわゆる民草の多くは低所得で、常時、金の工面を思案する生活をしていた。

日常的に発生する借金返済や赤字の穴埋めは、副業収入にたよらざるをえなかった。ある警察官は勤務が終わると、バイク・タクシー「オジェック」のドライバーをしていた。ある行政職の地方公務員はタバコや弁当を買いに行くおつかい専門の便利屋をやって、依頼者からのこころづけで給料の不足分を補填していた。

子どもも大人に混じって家計を助けるために働いていた。ジャカルタでは信号機のある交差点や渋滞時の路上に大勢の物売りが集まってきた。売るものは、新聞、雑誌、ペットボトル入りの飲料水、ペルメンとよばれるキャンデー、南京豆、タバコ、プラスチック製のおもちゃ、なかには木彫製品などを車の中の人に売っていた。



炎天下だから楽な商売ではなかった。ときには意地の悪い客もいた。売り子が差し出したペットボトルのミネラル・ウォーターを、太陽にかざして眺めすがめつ、結局、信号が青に変わって車の列が動き出すころボトルを売り子に返した。この売り子は一信号の売り上げをフイにしてしまった。

子どもが働く風景はその国の経済発展の段階を示すひとつの指標である。1970年代の初めにソウルを訪れたとき、ホテルからでたところで小学生くらいの男の子が「シンムン」と叫んで寄ってきた。読めない京郷新聞を買うはめになった。それから15年後の一九八〇年代の後半におとずれたソウルでは、もはや路上に子どもの新聞売りはみられなかった。私が見たのは地下鉄の車内をトーレーニングウエアにスニーカーといういでたちで新聞の束をかかえて歩き回っている新聞売りのおじさんだった。そのとき、韓国経済の変貌を実感した。

ジャカルタの庶民はみんな必死に金をさがしていた。ある日、私がタムリン通りのプラサ・インドネシアで買い物をしていると、見知らぬ男がにこやかに近づいてきて、「あなたの顔には見覚えがある。このあいだ空港で見かけた。私はスカルノ・ハッタ空港で出入国管理の仕事をしている。ところで帰宅するバス代がなくなったので、ちょっとお金を貸してくれませんか」といった。インドネシア語でなく、たどたどしいながらも英語で話しかけてきたので、ひょっとしたら本当に空港で働いている人だったのかもしれなかった。この程度なら外国人観光客相手のご愛敬だが、安月給の公務員の副業にはインドネシアの庶民に評判のよろしくないものが多いのも事実だった。




58 交通警官


たとえば交通警官。交通違反取り締まりを口実にドライバーになんくせをつけては、なにがしかの金をせびり取るので評判が悪かった。

首都ジャカルタ特別市を管轄する警察の最高責任者も、市民からの警察への苦情の投書の中で一番多いのが、この交通警官による金の要求についてであると認めていた。1993年には業をにやした軍の憲兵隊が、交通警官の行状を取り締まるために特別班をジャカルタ市内に展開させることにした。

憲兵隊が警察を取り締まるというのは、普通の話ではなかったが、当時のインドネシアでは国軍は陸、海、空、警察の4軍で構成されていた。警察もれっきとした軍の組織の一部だったので、憲兵隊が警察官の行状を取り締まるのは職務の1つといえた。

運転免許証や車両所有登録の更新などの手続きも評判が悪かった。手続きが繁雑であちこち窓口に回され時間がかかった。

さらに、交通警察の窓口で「この役所は予算難で、こうした書類や、カーボン紙、ボールペンなどもなかなか買えないでいる」などとささやかれ、なにがしかの「献金」を暗に要求されることがあった。

こうした警察行政の窓口業務の渋滞と不快を回避するために手続きを代行してくれる業者がいた。私がジャカルタに住んでいたころにはなかなか繁盛していた。手数料を払ってこの代行業者にまかせると、自分でやるよりもうんと早く手続きがすんだ。代行業者は客から受け取った手数料の一部を、あとでお役所に納めていたので、役所の窓口の係も代行業者に協力的だったからだ。



通勤バスが所定のバスターミナルに入らないで、ターミナルの外側で客をぜんぶ降ろしているのをみて、なんか変だなと感じた人が調べてみたら、バスターミナルの職員が所定のターミナル利用料以上の金をバスの運転手や車掌に要求していたという。その金を払うのがいやでバス運転手はターミナルに入らなかったのだ。バス運転手の給料は運賃収入にもとづく完全歩合制をとる会社が多かったから、こうした金は運転手のポケットから出さねばならなかった。

もっと手のこんだ副業もやっていた。これは『ジャカルタ・ポスト』紙に載った投書(1994922日)で読んだ話で、確認はとれていない。

ジャカルタのスディルマン通りとガトット・スブロト通りの立体交差はジャカルタを代表する立体交差だ。市内でも最も交通量の多い場所のひとつである。ガトット・スブロト通りを西進して来た車が左折してスディルマン通りに出て北上、タムリン通りに向かうためのランプウェイがしょっちゅう警察によって一時閉鎖される。

これは表向きは交通量の調整のためだとされていた。このため左折できない車はなお西へ遠回りしてから反転、ガトット・スブロト通りの東進車線に入りなおして立体交差に戻り、閉鎖されていないランプ入口で左折してスディルマン通りに出る大迂回をよぎなくされる。私もジャカルタ在住中によくこの閉鎖に引っかかって、大迂回を強いられた。だが、急いでいる車は、ランプを少し過ぎたあたりで左折してヒルトン・ホテルの構内に入り、当時500ルピアだった駐車料金を払って同ホテルの駐車場を抜ければ、スディルマン通りに出ることができた。

交通量がさほど多くないときでもこのランプウェイは閉鎖されることがよくあった。投書者は警察官と駐車場の係員がぐるになって、車の流れをヒルトン・ホテル駐車場を抜けるようにしむけて駐車料金を荒稼ぎしているのではないかと疑っていた。その証拠に、と『ジャカルタ・ポスト』に投書した人は書いていた。

 「私が駐車場に入ったときに渡された駐車券には時間が記入されていなかったし、出るときに半券をくれなかった」




59 駐車料

ジャカルタで自動車を運転する人は、営業車、自家用車に限らず、いつも小銭をいっぱいかばんやポケットに詰めこんでいる。その使い道はというと……

路上の物売りから新聞・雑誌、飲料水、スナックを買う。停車中の車から執拗に離れず騒音まがいの音楽を演奏するプガメン(pengamen)にお引取りを願うためのチップ。amenとはアラビア語起源の言葉で、「乞食」という意味。接頭辞のpengがついて、「歌う乞食」という意味になった。それから、伝統的スタイルと物腰の乞食も現れるので、こちらの場合は、ザカート(zakat、喜捨)が必要だ。

路上の物売りは親方から商品を預かって、売り上げによって歩合で報酬をもらう。乞食もそのすべてがフリーランスというわけではなく、元締めがいる、という話を聞いたことがある。元締めは喜捨のかなりを乞食から搾取しているのだそうだ。一方、プガメンはフリーランスが多いそうだ。

路上商売の一日のあがりは、私がジャカルタに住んでいた
1990年代の中ごろで、200円前後といわれていた。

交通ラッシュのジャカルタ都心部は、やたらや一方通行が多く、道路は分離帯で仕切られているため、あちこちで方向転換するためのUターンが必要になる。そうしたUターン場所には、交通警官の代わりにボランティアの交通整理員がいて、車の流れを整理する。そのおかげでUターンできた車の運転手は、自動車の窓を開けて整理員に何がしかの小銭を渡す。



ジャカルタの市営駐車場や道路端パーキングはジャカルタ市駐車場管理部が担当している。駐車場の直接の管理運営は傘下の団体に委ねている。ジャカルタの込み入った繁華街・商店街などでは道路端パーキングがさかんで、そこへ車でゆくと、どこからか人が現れて、駐車スペースへ誘導してくれる。用件を済ませて車に帰ると、さいぜんの人物がさっとあらわれ、駐車料金の支払いを求める。

最近のジャカルタの新聞が伝えるところでは、すべての市営駐車場から入る料金は年間
12億円だそうだ。市営駐車場料金は支払い者駐車場係り管理運営団体ジャカルタ市駐車場管理部と現金が流れるうちに、例によって、お金が漏れてしまう。どの程度の金がだれの懐に入っているのか明らかではない。民間の調査機関が推定したところ、ジャカルタ市の道路端駐車場の年間利用料は4-5億円になるが、市の駐車場管理部に入る金はその半分で、残りの2億円余が闇に消えている、という。

2007年の6月ごろの話だったと記憶しているが、ジャカルタ市南部のマーケットの駐車場管理運営の市からの運営委託をめぐって、2つの団体が争い、集団乱闘騒ぎを起こしたという。この乱闘で2人が死んだ。




60 コーヒーでもいかが?

1990年代中ごろに、調査・研究のためにインドネシアにやって来た人は、いろいろと面倒な手続きをとらなければならなかった。

まず、略称でリピ(LIPI)とよばれるインドネシア科学院から調査許可証をもらう。それをもって警察本部、内務省、調査地の地方行政府へ行き、それぞれのお役所から調査許可証をもらわねばならなかった。その間に出入国管理事務所へ出向き、外国人登録をすませ略称KIMSとよばれる登録カードもらわねばならなかった。

この手続きについては、そのころ某大学の教授だったインドネシア研究の先輩が、「全部自分でやってごらんなさい。おもしろいから。でも、途中で怒っちゃだめですよ」とすすめてくれた。そこで、代行業者に任せなぢで、自分でやってみることにした。

まず、出入国管理事務所。午前10時すぎ事務所へ行き、必要な書類をもらって必要事項をを書きこんで、窓口に出した。ところが、まだ午前中だというのに、「今日中の処理は無理だから明日また来てくれ」という。



「明日は別の用があって来られないからだめだ」というと、「ああ、そう」とじつにあっさりと受け付けてくれた。それから、あちらこちらにたらいまわしされては書類に責任者の署名をもらって歩いた。

それがすむと指紋をとられた。指紋は10本の指全部のものをとられた。手に油性のインクをつけて、係官が私の手首を握って用紙に押しつけた。なるほど、誰かに手首を握られたうえで指紋をとられるというのは、強制されているという感じが強く、愉快な経験ではなかった。

そのころは日本でも長期滞在する外国人は同じように指紋をとられていた。オーストラリアの入国はいたって簡単だった。オーストラリア政府は、四年間有効のビザをくれた。入国すればそれで終わり。外国人登録の必要もなく、指紋をとられることもなかった。しかし、2001年の911日以降は、外国人の指紋をとる政府が増えている。

調査許可証。LIPIでは必要な書類を20分ほど待つだけで作ってくれた。それを持って警察本部へ出向くと、係官が「2時間でできるから待ってくれ」と言った。約束通り2時間ほどで1年間有効の調査許可証をくれた。内務省でも数時間で1年間有効の調査許可証を作ってくれた。ジャカルタ市庁でも同様だった。ただし、ジャカルタ市庁発行の調査許可証は有効期間が3ヵ月。3ヵ月ごとに更新にきてくれといった。

どこのお役所でもなんくせをつけて暗に金を要求しようという雰囲気はなかった。それどころかジャカルタ市庁の職員はいたって親切だった。責任者が書類に目を通しているあいだ、私はその部屋で待つことになったのだが、年配の職員があいている椅子をすすめてくれたうえ、こう言ったものだ。

「コーヒーでもいかがですか」

私は喜んで彼の行為にあまえた。彼は部屋のすみでコーヒーカップに粉末状に細かく挽いたコーヒーの粉を入れ、保温ポットからお湯をそそぎ、砂糖をスプーンで二杯いれたインドネシア式の甘いコピ・トゥブルックを作ってくれた。そのコーヒーをすすりながら待っていると、有能そうな若い責任者は時々チラッ、チラッと私の方に視線を投げかけながら書類に目を通していたが、やがてすらすらと署名を書きこんでくれ、私は晴れてインドネシアで学術調査をする許可を手に入れた。

「おっ、そうか。インドネシアのお役所もずいぶん態度が良くなったものだ。めでたい」と、友人のインドネシア人はこの話を聞いてとニヤリと笑った。「君が外国人だから、役人も警戒したんだ」という人もいた。「LIPI発行の許可証を持っていたからだ」と、ジャカルタ駐在の日本人はいった。




61 書物の利用法


学者や研究者がいい給料をもらっているという国はまずない。

筆者は民間会社で働いていた。早めに繰り上げ定年を選択してオーストラリアの大学院へ入った。そこで博士号をもらい、帰国して大学の教員になった。だが、給与は民間会社勤めのころより著しく減った。

インドネシアの大学教員も薄給だった。薄給を埋め合わせるために大学教員が「副業」をしているという話を聞いた。

オーストラリア人の学者が、キャンベラで開かれたある学界で、インドネシアの学界の状況を報告したときに語られた話である。その報告を聞いた知り合いの学者が、インドネシアにいた私に手紙で教えてくれた。

手紙によると、インドネシアの大学では文献を図書館でなく、研究者が自分の研究室に私蔵する例が多い。日本の大学の先生の研究室も汗牛充棟である。アメリカやオーストラリアの大学の先生の部屋には、本箱が1つか2つ程度。そのかわり図書館には必要な本がたいていそろっていた。

インドネシアの大学の先生も研究室に本を抱え込んでいた。研究室に本を借りに来た人に本を貸すにあたって、先生が何がしかの謝礼をもらっていた、と手紙に書いてあった。

ありそうな話であると感じたのには理由があった。

米国の民間援助団体アジア・ファウンデーションのジャカルタ代表から直接聞いた話だが、研究機関の要望で財団が米国から取り寄せて奇贈した書物がいつのまにかその研究機関から消えている例がよくあるということだった。あるセミナー終了後の雑談の中でのことだった。

 「ひよっとしたら奇贈した本を売って金にかえているのかも」

と、同席していたインドネシア人が疑いをもった。だが、証拠はなく
 
「研究機関を定期的に回り、奇贈そうした書籍の利用状況にも目を配らなくてはならないなあ」

とその財団の責任者は嘆いた。

スハルト時代のインドネシアの大学では、借りたくてもなかなか借りることの出来ない本があった。マルクスの『資本論』のような左翼の本である。大学の図書館でも、公立図書館でも、国立図書館でも、こうした本は鍵のかかる特別の本箱に納めてあった。この手の本を借り出すには特別の厳重な手続きが必要だった。とはいうものの、これは建前であって、著者はジャカルタの某エリートの書斎で、英訳の『資本論』を見た。同じ書棚にサルマン・ラシュディーの『悪魔の詩』もあった。

先ごろなくなったプラムディア・アナンタ・トゥールの本は新刊が出るたびに発禁処分を受けていた。あるとき、プラムディアの自宅を訪ね、オーストラリアの大学の友人へのお土産にするからと著者に直接頼んだら、ほいほいと発禁本を20冊ほどわけてくれた。このあたりが、インドネシアの気楽なところでもあった。



インドネシアでは新刊本がすぐ絶版になってしまう。東京の神田のような古本屋街はないが、スネンという繁華街に屋台の古本屋がならんでいる。ここの古本屋も時々利用した。たまに掘り出し物が見つかることもあった。多くは雑本だった。あるとき、古本を数冊店主に渡したところ、店主はそれを手にとって本の重量をざっと感じたあと、いくらいくらと値段を告知した。古紙の扱いであった。




62 ウアン・アンプロップ

インドネシアの首都ジャカルタで筆者がフィールドワークをしていた1990年代の半ば、インドネシアのジャーナリストたちは「ウアン・アンプロップ」とよばれる謝礼を取材先からもらっていた。

「ウアン」(uang)はインドネシア語でお金のこと、「アンプロップ」(amplop)は封筒だ。ありていに言えば賄賂であるが、それを婉曲に表現したものである。ジャカルタのジャーナリストたちに聞いたら、1994年ごろ封筒の中の金額の相場は7万ルピアから10万ルピアだということだった。そのころのレートでいうと3,000-5,000円といったところだった。

ウアン・アンプロップはインドネシアの政治とジャーナリズムというテーマで調査をしていて筆者の手元にあったクルニアワンの『インドネシア新聞百科事典』にも一項目として収められているほどポピュラーな習慣だった。同事典によると1960年代ごろから盛んになってきた風習だという。『インドネシア語大事典』には「ワルタワン(wartawan、記者)・アンプロップ」という言葉も載っていた。

世間にも記者は取材のさい謝礼をもらうものという常識が根強くあった。1995年初め、ジャーナリスト協会ジャカルタ支部の幹部が新聞に投書し「実在する記者の名刺を悪用して、こまり事を抱えている人に接近、ニュースにして力になってやると騙してお金を要求する詐欺師が出没しているので、ご用心」と警告した。

昔々の日本で、新聞社で働き始めた初日、幹部が記者のあらかじめ用意してあった記者の名刺を手渡し「これで食え」といったという、話が伝わっている。田中角栄は金の力をよく知っていた人で、同業の政治家はもちろん、高級官僚にも何十万円という金を包んで配ったと、当時の新聞記者たちがあちこちで書いたり、話したりしていた。外遊の際などは随行の記者たちに高価なお土産を配ったといわれている。

韓国でもひところ記者への賄賂が問題になった。アメリカ合衆国でも20051月ごろ、教育相がアームストロング・ウィリアムズという評論家に24万ドルの謝礼を払いブッシュ政権の教育政策のちょうちん持ちをするよう頼んだという記事をワシントン・ポスト紙で読んだことがある。

2006年には日本で、和歌山県の公共工事の談合事件で起訴された業者から、朝日新聞の記者が餞別などの名目で2回にわたって15万円をもらっていたという。

ジャーナリストが取材先から金をもらう例はあちこちにあるが、インドネシアでは金額は小さいながらもその頻度が高く、バレても社会的な制裁を受けることがほとんどなかった。

ただし、取材謝礼の習慣はマスコミやそこで働く記者の信用をそうとう深く傷つけていた。いろいろな資料を読んでいたら、1976年のこんな話を見つけた。



「ナポレオンは100人の兵隊より1人のジャーナリストが恐いといったそうだが、私にいわせれば100人の記者団より10人の兵隊の方が恐い。なぜなら、100人の記者団に対しては100の封筒で対抗できるからだ」

こう言って記者たちをからかったのは、当時の検事総長だった。それも、記者会見の席上のことだった。面目ない話である。




63 続・ウアン・アンプロップ


ウアン・アンプロップほどあからさまではないが、ジャーナリスト自らが日ごろの顔のつながりを利用してお役所に便宜供与をたのみ、それが成就した話を、インドネシアの高名な新聞人が語っていた。

役人とジャーナリストの癒着をあっけらかんと話したのは、インドネシアでモフタル・ルビスと並んで尊敬されている長老ジャーナリストで、1974年にスハルト政権によってとり潰された『プドマン』の編集長だったロシハン・アンワルだった。週刊誌『テンポ』に連載された著名人の回顧インタビュー「メモワール」で、ロシハン・アンワルはこう語っていた。

 「あるレセプションで私は宗教省の高官に冗談を言った。彼の名前はカフラウィといい、マドラの出身で私の近しい友人だった。「カフラウィ、メッカへ巡礼に行くチャンスをいつ作ってくれのかね」と私は言った。ほんの冗談のつもりだった。1957年のことだ。当時私は『プドマン』の編集長だった」

 「ある日の夕方、私がテニスから帰宅するとカフラウィから電話がかかってきた。「ロシハン、いまでもメッカ巡礼に出る気はあるのかね。君さえよければ巡礼のリーダーのポストを用意できるよ。往復の旅費は宗教省でもつ」。私は即座に「のった」と答えた。10日後、私は巡礼に出発した」(『テンポ』1992523日付)

興味深いことに、1990年代になっても、ロシハン・アンワルはウアン・アンプロップをさほど重大なジャーナリズム上の問題とは考えていないようだった。「そのことで記事を曲げることがなければ、ウアン・アンプロップは大した問題ではない」と、彼は新聞のインタビューで答えていた。



しかし、大勢としてはこれがインドネシアのジャーナリズム倫理の大きな問題であるとマスコミ側は認識していて、いろいろと対策を考えてきたようだが、今日にいたるまで根本的な解決にはいたっていない。

この連載初回の「ぬるいコーヒーに始まる」でウアン・アンプロップの話にふれた。ジャカルタの大量高速交通システム(MRT)事業の説明記者会見で、準備を請け負った日系広告会社が記者用資料の中に現金入りの封筒を入れて配ったところ、出席した記者の大半が受け取った件である。

いまはそうでもないだろうが、以前は記者にとって謝礼を拒否するのは心理的にも困難だった、という見方もあった。「もし受取りを拒否したら、取材先にきどっていると受け取られてしまう」と、1990年代のはじめオーストラリア大使を務めていたジャーナリストのサバム・シアギアンが雑誌のインタビューで語っていた。1977年のことである。そういう事情で1979年には「9割のジャーナリストがウアン・アンプロップを受け取っている」と、インドネシア情報省のプレス関連の報告書が伝えていた。

スハルト政権によって1974年に発禁処分を受けたモフタル・ルビスの新聞『インドネシア・ラヤ』の場合は、その新聞で編集幹部をしていたアトマクスマの話だと、ウアン・アンプロップを回収してモフタル・ルビス自身が返しに行ったそうだ。返しきれなかったものは、孤児院などの社会福祉施設に寄付したともいう。




64 続続・ウアン・アンプロップ


今でもはっきり覚えている。19941014日の夜、私はアトマクスマが校長をしているジャーナリスト研修所ルンバガ・ペルス・ドクトル・ストモの修了式に招かれた。その夜はジャーナリスト・コースの研修生と政府や軍から派遣された広報担当者の研修コースの合同修了式が行われた。

養成所の講師で、かつてロシハン・アンワルの下で『プドマン』の編集長代理をしていたアミル・ダウドが立ち上がって印象的なコース修了のお祝の言葉を述べた。アミルはまずジャーナリスト・コースの修了生にむかい、

「近い将来ジャーナリストになったとき、絶対にウアン・アンプロップを受け取るような人間になってはならないでください」

と諭した。次に現役の広報担当者に対して、

「ジャーナリストに封筒を差し出さないでください」

と懇願した。

アミル・ダウドは折り目正しい倫理観に満ちた人物で、ジャカルタのジャーナリストから「最後のモヒカン族」とよばれ、尊敬されていた。そのアミルも先ごろ鬼籍に入った。筆者はでインターネット上のインドネシアの新聞で、彼の訃報を読んだ。

19953月、日本の新聞のジャカルタ支局長と、日本から調査にきていたインドネシア学者の夫妻と4人でパダン料理の店で夕食をともにした。約束の時刻になっても支局長だけが現われない。その日は大阪から来た関西経済団体連合会のご一行がスハルト大統領と会見したあと、夕方に記者会見する予定になっていて、それにひっかかっているのだろう、そのうち姿をみせるだろうと、3人だけで食事を始めることにした。

しばらくして記者が姿を現わし、いまにもふきだしそうな表情で開口一番、

「とうとう出ましたよ。ウアン・アンプロップが!」

と言う。

支局長によると、記者会見場になっているホテルのホール入口にプレスの受け付けがあり、そこで記者発表資料とともに、一通の封筒を渡されたそうだ。

封筒を開けてみると中から2万ルピア札3枚、1万ルピア札1枚、5千ルピア札1枚の、合計75千ルピアの現金が出てきたという。

支局長は関経連代表団一行の事務方の責任者の一人に会ってこの現金入り封筒を返し、なぜこんなものを用意したのかと質したという。責任者がしぶしぶながら打ち明けたところでは、ジャカルタ駐在経験のながいある日本人から、ここでは現金入り封筒を記者に配るのがならわしですと入知恵され、相場を聞いたうえで日本人の職員に現金を封筒に詰めさせて用意したのだそうだ。


ジャカルタ市内で

数日後、この話をジャーナリスト研修所校長のアトマクスマにした。日ごろは快活で冗談好きな彼も、このときばかりはひどく顔を曇らせて、

「なぜ日本人までがそんなことをするのだろう」

と、落胆しきりだった。




65 ジョキ

交通渋滞は都市の持病である。

東南アジアではバンコクとジャカルタの交通渋滞がひどい。ジャカルタの大気汚染の原因の7割が自動車の排気ガスであるといわれている。ジャカルタ特別市は、ささやかではあるが、もう15年近く都心部への四輪自動車乗り入れ規制をしている。ただし、渋滞緩和にはそれほど役立っているわけではない。



ジャカルタ市は1993年から朝夕の通勤ラッシュ時に、都心のスディルマン通りやタムリン通りなどに入る車を減らす対策として3-in-1とよばれる規制を続けてきている。1台の自動車に3人以上の人が乗っていないと、朝夕の規制時間帯には都心部に出入りできないという規制である。

規制をかけると、その規制の網の目をなんとかくぐりぬけたいと願う人々があらわれる。そうした人々の需要にこたえる新しいビジネスが生まれてくる。規制がビジネス・チャンスを生むのである。

そのビジネスは「ジョキ」(英語のjockeyから借用したインドネシア語joki)とよばれてきた。朝夕の規制時間帯に、道路わきに立っていて、ドライバーの求めに応じてその車に同乗して、13人の規制をクリアする仕事である。

家計を助けようというけなげな子ども、失業中の青年男女、夫の収入の足りない分を何とかしようとする妻などが道路わきに立っている。都心に自動車通勤するような社会階層に見せかけるため、ジョキたちはできるだけこざっぱりした服装をしている。

ジャカルタの英語新聞『ジャカルタ・ポスト』の記者が、このジョキの物語を書こうとして、自らジョキをやってみた。その記者が書いた体験記事によると、通勤の夫婦がジョキになりすましたその記者を拾い上げ、「そうか、仕事が見つからないのか。あとで相談においで、力になるから」と適当な世間話をしながらなごやかに目的地へ。仕事が終わったとき、車の主は5,000ルピア(約60円)のチップをくれたという。

気楽な稼業に見えるが、警察はジョキを取り締まって待っており、危険な状況に発展することもある。子連れでジョキをやっていた女性が警察に捕まり、むりやり頭を丸坊主にされてしまった、という話を聞いた。ジョキをやっていた子どもが警察に連れて行かれ、殴られて死んだ、という衝撃的な話が新聞で伝えられたこともある。この話は後に誤報とわかった。

3-in-1の規制は週日の午前6時半から10時、午後430分から7時まで行われている。この時間帯がジョキのかせぎ時である。聞くところでは、ジョキは12万ルピア(約240円)から3万ルピアを稼ぐ。運のよい日には5万ルピアになることもあるそうだ。

ただし、2007年はラマダン最終日1012日から19日にかけて休暇シーズンだったので、都心部の道路はガラガラ。この間は警察も3-in-1の取締りをしないと明言していた。というわけで、ジョキたちは一時失業中だった。