ジャワ追憶
        文と写真 花崎泰雄


第7章 クーリー・ティンタ


81 ダンドゥット

それはさておき、話しかわって……。

調査のためにジャカルタに住み着く前、メルボルンから何度かジャカルタかよった。そのころの話である。ジャカルタ在住の旧友のブル・ラスアントが「海でも眺めようか」と、私を連れ出してくれたところが、アンチョル公園だった。正式にはTaman Impian Jaya Ancol、アンチョル大ドリームランドといったところだが、最近になってAncol Jakarta Bay Cityと改名された。海岸にある家族向け複合娯楽施設である。

アンチョルの海岸は、ジャカルタ旧港のあるスンダ・クパラと新港のあるタンジュンプリオクはさまれ、海はそうとう汚れている。海面に光って見えるのは廃油であり、木片やプラスティック容器がプカプカ浮かんでいる。週日の正午ちかくなので、あたりに人かげはまばらである。海岸の日陰に座りこんで、近くの売店で買ってきたココナッツ・ジュースをストローで飲む。

そこへダンドゥットの曲が近くの売店から流れてくる。ダンドゥットはインドネシア人が大好きな大衆歌謡曲だ。インド音楽とアラブ音楽とマレー音楽が渾然一体となったロック風の音楽である。都会的ではない、大変ひなびた印象を与える。1970年ごろからインドネシアで流行し始めた。

あの音楽は何というか知っているかいとブルが言った。
 「ダンドゥットだろ」
 「なぜダンドゥットというか知っているか」
 「何でだ」
 「あのリズムをもじって、『テンポ』が命名したんだ」
ブルは1970年代に創刊まもない週刊誌『テンポ』の編集幹部をしていた。

それにしても、騒々しい音だ。noisy musicというよりはmusical noiseである。インドネシアのスピーカーはいつもボリュームをめいっぱいあげている。

1990年代のクバヨラン・バルー・ブロックMの地下商店街もそうだった。身動きもとれないような雑踏と、あっちの店こっちの店が通路に置いたスピーカーから流す音楽的騒音につつまれ、もうそれだけで疲れきる。ジャカルタの街にはあちこちにイスラムの礼拝所が散らばっており、祈祷の時間になると、日本の右翼の宣伝車のようなとびきりの大音響でアラビア語の祈祷を流す。これは異教徒の外国人にとってはそうとう気になるおしつげがましい音とみえて、外国人向けの貸家案内には「礼拝所から離れている」という一項目が、書きこまれていることが多い。



本来、肉声で静かに流れるイスラムの祈祷は、仏教の声明を思わせるような趣もあって、すてがたいものなのだ。ジョクジャカルタ郊外のホテルに泊った夜明け、朝霧の中におぼろにみえるヤシの木立の向うから、ニワトリの鳴き声とともにかすかに聞えてきた祈祷には捨てがたい趣きがあった。

街の大音響はイスラムに限らなかった。ガジャマダ大学とモナシュ大学が開いていたインドネシア語特訓サマースクールに出席するため、バンドゥンから夜汽車に乗って、日曜日の未明ジョクジャカルタにたどりついたことがあった。繁華街マリオボロ通りの裏手にある安ホテルにころがりこんだ。寝入ってものの数時間後に、夢うつつの中で黒人霊歌のような、救世軍の樂隊のような音を聞いた。とおもうまもなく、突然の大音響でたたき起こされるはめになった。午前6時ごろだった。ホテルの裏手にキリスト教会があり、日曜日の礼拝が行われていたのである。朝っぱらから…と、ぶつくさ言っていたら、「朝の6時には普通の人はみんな起きているよ」と、インドネシア人に一蹴された。





82 ブル その1

ブル・ラスアントは1974年にホノルルで会って以来の友人である。ホノルルにある東西センターのジャーナリスト・プログラム、ジェファソン・フェローシップにインドネシアから参加していた。このフェローシップは私にとってはワイキキ・ビーチつきの休暇にひとしいものであったが、ブルの方は「もう、にっちもさっちもゆかなくなり、しばらくジャカルタを留守にするしかない」状態でホノルルにたどりついていた

ブルはそのころ創刊まもないニュース週刊誌『テンポ』の編集長だった。だが、のちにマラリとよばれることになった1974115日の田中角栄ジャカルタ訪問のさいの暴動事件以来、「書くもの書くものすべてに当局からいちゃもんがついて、いいかげん疲れてしまった。それで、センターのコミュニケーション研究所長をしていたウィルバー・シュラムに手紙を書いて、呼んでもらった」のだ、と彼は説明した。

ここでちょっと話が脱線する。ウィルバー・シュラムといえばコミュニケーション理論の大御所だった人だ。私がもっとも感銘深く覚えているシュラムの講義は、ニュースの報酬性に関する理論でもなければ、プレスの自由に関するものでもなく、彼がフェローたちを自宅に招いてくれた時、実に楽しそうに身ぶり手ぶりよろしく語ってくれた、ウィルバー少年が初めて自分でアイスクリームの手作りに成功した時のたあいない回顧談である。この時以来、私はゴリラのような大男が目を細めてアイスクリームをペロペロなめているのを目撃してもなんらショックを感じることがなくなった。



1974115日のマラリはスハルト政権が成立後、初めてみまわれた深刻な危機だった。日本の経済進出を侵略としてとらえた学生の反日デモの背後に、スハルト体制内部、とくに軍部内の政治路線と主導権をめぐる争いがあったとされている。

この事件のあおりで12の新聞・雑誌が発禁処分になった。なかでもロシハン・アンワルの『プドマン』、モフタル・ルビスの『インドネシア・ラヤ』、それにノノ・アンワル・マカリムの『ハリアン・カミ』といった急進的な新聞はこの時以来、永久にインドネシアのジャーナリズムから姿を消すことになった。発禁の対象からまぬがれたテンポ誌をかかえて、ブルは毎週、何をどういうふうにどこまで書けるか、治安当局や情報省の検閲のなかで考えあぐねて疲れきっていたのである。





83 ブル その2

1971年の『テンポ』創刊にかかわり、それまで勤めていたモフタル・ルビスの『インドネシア・ラヤ』を離れたブルが、19721月に古巣の『インドネシア・ラヤ』に寄稿した文章は抑圧的なスハルト政治にたいする不服従の気迫にあふれたものだった。

スハルト大統領夫人ティンが中心になって計画した、ジャカルタ郊外にインドネシア各地の家屋、民俗資料を集めた公園ミニ・インドネシア・インダの建設に対して、当時インドネシア大学の学生だったアリフ・ブディマンら学生や人権活動家プリンセンらは、それでなくても乏しいインドネシアの財政の無駄づかいだして抗議デモをした。

彼らは当局に逮捕された。ブルは激しく抗議した。その要旨は以下の通りだ。

脆弱な政府は国会外の活動を禁じ、同時に国民にたいして超憲法的な措置をとる。国民が路上で逮捕され、いずこともしれない牢にぶち込まれるなら、それはたいていの場合、体制内に腐敗が始まった兆しである。そうした「市民の権利を否定するような政府の費用をまかなう税金を、市民は支払うべきでない」。



「ロサンジェルス郊外の小さな地域新聞社を一緒に見学したことがあっただろう」と、ブルが筆者に語ったことがある。この時から彼は地域に密着したジャーナリズムに関心を深め、インドネシアに帰国してから『テンポ』の仲間と、都会のインテリ向けではなく農村の住人を対象にした新しい雑誌の発刊を相談するのだが、彼のアイディアは受け入れらなかった。2つの雑誌を同時に刊行するだけの体力はまだついていない、というが反対の理由であった。ブルはテンポを去って、新しい雑誌創刊の準備を進め、雑誌名を『オボール』(たいまつ)と名づけるところまでこぎつけた。

だが、最後の段階でつまずいた。情報省から雑誌発刊のための免許を拒否されたのだ。スハルト時代のインドネシアでは、新聞・雑誌の発行には政府からの発行免許が必要だった。情報省の役人はブルこう言った。「実に良いアイディアですね。大賛成ですねえ。ただし、もしあなたがブル・ラスアントでなかったならの話ですが……」。ブルは皮肉っぽい冷やかな口調で、役人のセリフを私に教えてくれたのだが、私の想像するところ、その丁重さでもってなるインドネシア人のひとりとして、その役人はいかにも辛そうに、困ったような口調でそのセリフをブルに聞かせたにちがいない。

新聞の太平洋戦争についての責任を感じたむの・たけじは敗戦後、朝日新聞を去り、故郷の秋田で『たいまつ』を発刊した。制限つきの言論の自由しか認めなかった明治憲法とそれにもとづく新聞紙法をはじめマスコミ統制法は、敗戦によって効力を失った。むのの『たいまつ』に国家はもう干渉できなくなっていたが、ブルの『たいまつ』は政府によって幻の雑誌にされてしまったのである。

ブルとともに『テンポ』誌の創刊に加わったクリスティアント・ウィビソノも『テンポ』を辞し、新しい雑誌『パートナー』を創刊しようとするのだが、彼もまた、発行免許を拒否された。のちにウィビソノのは拒否の理由をある月刊誌でこう推測した。

「おそらくブル・ラスアントも私も、ロシハン・アンワルやモフタル・ルビスに似た人物とみなされたのだろう。ラディカルすぎる。よって、発行免許は出せない」





84 ブル その3

ここでインドネシアの新聞・雑誌の発行免許の問題にかるくふれておこう。

インドネシアのジャーナリズムは1950年代の短い民主主義の実験時代を唯一の例外として、スハルト退陣の1998年までつねに権力による厳しい統制下におかれてきた。

オランダ植民地時代や日本軍政時代には、異民族支配の下での統制があった。立憲民主政治を葬り去ったスカルノはSITとよばれる出版免許を義務づけた。スハルトも1966年に制定したプレス法でこのSITを受け継ぎ、1982年のプレス法改正ではSITに代えて出版事業免許SIUPPを義務づけた。

さて、わが友ブルはどの程度のラディカルだったのか? それを知るには古本をめくらなくてはならない。イマム・ウォルヨ、コンス・クレーデン編著、山本春樹訳『これからのインドネシアーー発展を模索するパンチャシラ社会』(サイマル出版会、一九八五)に収められたブルへのインタビュー「文化改革の必要性ーー2つの基本的問題」のなかで、彼が語ったインドネシアの建国5原則パンチャシラ(唯一神への信仰、公平で文化的な人道主義、インドネシアの統一、協議制と代議制にる英知よって導かれる国民主権、インドネシア全国民に対する社会正義)とインドネシアの現憲法である1945年憲法についての部分を、時代背景の比較しながらみてみよう。



スハルト政権は1978年からP4とよばれる政権の独占的公式解釈によるパンチャシラ道徳教育運動を全国で展開した。1985年にはすべての大衆団体に、パンチャシラを唯一の組織原則とすることを義務づけた大衆団体法を制定した。「ジャカルタのテニス・クラブの会員規約までがパンチャシラをクラブ規約の基本原則にさせらてしまった」と、ある著名な学者が肩がすくめてみせた事がある。そうしたイデオロギーのブルドーザー整地といった感じで、パンチャシラの神聖化が進められたのである。

これはアッラーの教えを唯一原則とするイスラム宗教団体にとっては重大な問題であった。著名なイスラム教徒の政治家シャフルディン・プラウィラヌガラは1983三年、スハルト大統領に書簡を送り「パンチャシラがインドネシア全国民の暮らしのすべてに関わる事実上の宗教として強制される」と抗議した。スハルト政権は一方で1945年憲法の絶対不可侵性を図るため、1985年の国民投票法で憲法改正には国民の90パーセントが投票しその90パーセントが賛成することが必要だと定めた。下位の法律によって憲法を拘束した珍しい例である。こうしてパンチャシラと憲法を絶対化し、その解釈権を独占することで、すべてをその前にひれ伏せさせる水戸光圀公の印篭のようなものをスハルトは作りあげたのだ。

こうした動きのなかで、ブルはインタビュアーにこう話していた。「パンチャシラにおいて重要なのは5つの項目それ自体ではなく、人間を中心に据えているという点にある……適切でないのは、45年憲法という形にこれを演繹したことである。45年憲法とパンチャシラは別個のものであって一体ではない」「この憲法の欠点は、まず第一に、その構造にある。そこには権力の問題しか規定されていない。一番の欠点は人々の基本的権利を将来の問題にしている点にある……基本的人権は都合に応じてかわるようなものであってはならないのだ」「共和国の歴史上、われわれは2つのちがった憲法をもったことがあった。そのいずれもがパンチャシラをとり込んだものであった。つまり、45年憲法以外にもパンチャシラを表現する方法はあるのである……45年憲法だけがパンチャシラを表現しうるものであるという必要は少しもない」

45年憲法の前文に書き込まれた5原則をパンチャシラ正文とし、パンチャシラと1945年憲法は不可分なものであるとする政府に対して、ブルは基本的人権を保障するには憲法を変える必要があると叫んだのである。ブルのいう2つの違った憲法とは、インドネシアが1949年、オランダから正式に主権委譲を受けて独立国インドネシア連邦共和国となったとき、オランダ側と共同で作り上げた1949年連邦共和国憲法である。いま一つは翌年、連邦共和国が単一の共和国に変ったさい、49年憲法を多少修正した50〇年憲法である。例えば49年憲法では、基本的権利と自由に関する規定が第7条から第33条までの27条にわたって詳しく規定されている。この憲法のもとで生まれたばかりのインドネシアは、文民、政党が主要な役割をにない、権力争いや政治指導者のふるまいも憲法のルールを尊重し、市民の自由が侵害されることは少なく、政府が強制力を行使することもまれであった。

この自由な憲政時代は、1955年の総選挙に30以上もの政党が乱立し勢力を競い、内閣は短命で、地方で反乱が起きるなどして自由主義への倦怠感が強まり、戒厳令、スカルノの大統領令による50年憲法の否定と45年憲法への復帰、国会の解散によって終わった。45年憲法は、日本軍政時代に草案が作られた全文37条、過渡規定4条の短い憲法だった。なによりも、この憲法の起草の中心になったスポモという法学者は憲法草案を審議した19455月の独立準備委員会でつぎのように演説した人物であった。

「(日本の)天皇は全国民の精神の中心である。国家は家族という考え方に基礎を置いている……この家族と統一という基礎はインドネシア社会の本質に大いに合致する……国家に対する個人の権利や自由を保証する必要はない。なぜなら、個人は国家の有機的な一部であり、国家の栄光の実現に協力する義務と立場にある……」

スカルノにとって代ったスハルトにとっても、この憲法は有用であり、改憲の必要はまったく無かった。ブルはさきのインタビューでこう嘆いていた。

「スカルノとの対立が頂点に達した時、彼(ハッタ)は副大統領を辞任すべきではなかった……もし彼が副大統領に留っていたなら、スカルノが45年憲法への復帰に踏み切ることもなかったかもしれない」




85 クーリー・ティンタ

インドネシア語では新聞記者はワルタワン(wartawan)だが、そのころの新聞記者の中には自虐的に、「しょせんわれわれはクーリー・ティンタ(kuli tinta)にすぎないのだから……」などと古い隠語を使ってみせる人もいた。

「クーリー」は漢字では「苦力」と書かれるが、英語ではcoolieと表記される。もともとはインド・グジャラートの部族の名で、ヨーロッパ人が下層労働者をするアジア人に対して使った。当然、侮蔑の気分がただよう。ティンタ(tinta)はポルトガル語でインクのこと。「インクの苦力」というわけだ。

筆者がブル・ラスアントと最初に会ったのが、ホノルルの東西センターのジャーナリストを対象にしたジェファソン・フェローシップ・プログラムで、プログラム名のジェファソンはアメリカ第3代大領のトマス・ジェファソンに由来していた。



ジェファソンが「新聞のない政府が、政府のない新聞か、どちらかを選べといわれたら、私は一瞬の躊躇もなく後者をえらぶ」などと、新聞に対して気前のいい発言をしたからだ。ただし、ジェファソンは別のところではこうも言っていた。「新聞の中で信じるにたる真実があるのは広告だけだ」

ジェファソンにしてこうであるから、独立後のスカルノやスハルトが政府や大統領に対してとやかくうるさいことを言う新聞を忌み嫌って、隠すことなく新聞を抑圧したとしても何の不思議もなかった。

スカルノやスハルトがインドネシアの新聞となかよくやっていたら、筆者が日本の新聞社を繰り上げ定年で退職し、インドネシアの政治とジャーナリズムの研究に血道をあげたあげく、ジャカルタにでかけてフィールドワークをすることもなかっただろう。

さて、これからしばらくは、筆者が見聞した1990年年代中ごろのインドネシアの新聞にまつわるお話を書き綴ってみる。ただし、これからお花見などで忙しくなるので、この続きは桜の散り終わるころまでお待ちあれ。




86 さるやんごとなきお方のご不快

桜が散った。かわって、ツツジが咲き始めた。紫木蓮も開いている。

まもなくロシア大統領の座を退いて、次期大統領を操る首相の座に納まるプーチンの離婚・再婚話を報じたロシアの大衆紙が休刊をきめた。

『モスコフスキー・コレスポンデント』という名の、20079月に創刊されたばかりの大衆紙が数日前、55歳のプーチンが妻を離縁して、24歳のアテネ・オリンピック新体操のゴールドメダリストで現在国会議員のアリーナ・カバエワと再婚すると報道した。その直後の418日、イタリア訪問中のプーチンが「でたらめだ」と否定した。それと同時に、『モスコフスキー・コレスポンデント』の経営陣がネホロシェフ編集長の辞任と、新聞の休刊を発表した。

プーチンは8年間、大統領としての権力を巧みに使って、現在ではあたかもロマノフ王朝から権力を継承したような帝王ぶりだ。彼がちょっと眉を動かしただけで大衆紙のひとつぐらい吹っ飛んでしまうのである。

いまでは故人となったスハルトの大統領時代のインドネシアもそうだった。1980年代末から1990年代はじめにかけて、インドネシアでは「クトゥルブカアン」という名の言論の開放政策が始まった。上からの開放政策である。

開放政策の波に乗ってどこまで書けるか。各新聞が手探りでその限界を探っていた。きわどい部分を書けば、それだけ新聞が売れるかである。ある週刊誌が大統領の任期と大統領候補に求められる経歴についての世論調査結果を掲載した。この件では、政府から何のおとがめもなかった。するとその週刊誌はさらに大胆になり、一歩踏み出して限界を探ろうとした。『インドネシアにおける1965101日のクーデターの予備的分析』(Preliminary Analysis of the October 1, 1965, Coup in Indonesia, 1971)の出版で、スハルト政権のペルソナ・ノン・グタータとなったコーネル大学教授、ベネディクト・アンダーソンが書いた論説を掲載したが、こちらもとくに問題にはされなかった。

しかし、日刊紙『メディア・インドネシア』の場合は、裏目に出た。同紙はとある論説の中でスハルトを古代エジプトのファラオにたとえた。「スハルト=ファラオ」は政府のとがめるところとなり、情報省が同紙に強く警告をした。この警告を受けて、同紙は論評を書いた記者と、編集者を解任した。

あのころのインドネシアの新聞・雑誌はスハルト政権の顔色をうかがいながら、読者の興味を引く言論の小冒険を繰り返していた。新聞者幹部にとっては神経を使う日々だった。冒険しなければ新聞は売れないし、下手をすると政府の処分で新聞自体がダメージをうけることになる。



スハルト政権は1980年代の中ごろ、インドネシアは米の自給を達成したと、農業政策の成功を宣言した。しかし、こののちも、不作の年は米の輸入に頼ることもあった。あるとき、インドネシアが米不足でタイから米を輸入するという話しを聞きつけた某高級の記者が、「インドネシア、タイから米を輸入」という記事を書いた。しかし、政府のご不快をおそれた編集幹部は、その記事の見出しを

     タイ、インドネシアに米を輸出

と変えて掲載した。