1 ポカポカ陽気

I don’t know.  You tell me. 

『近代世界システム』論で有名なイマニュエル・ウォーラーステインが発言席で言った。

ポルトガル・リスボンのグルベンキアン財団で1月中旬開かれた Interdisciplinary Futures: Open the Social Sciences 20 Years Laterという会議の基調講演の時だった。

この会議はヨーロッパのある学際研究ネットワークがグルベンキアン財団の後援で主催した。1996年にウォーラーステインが中心になってまとめた Open the Social Sciences: Report of the Gulbenkian Commission on the Restructuring of the Social Sciences の出版20年を記念して、過去20年の検討と将来の見通しを議論する企画だった。

ウォーラーステインが会議冒頭で、“Forty Years Later: Are the Social Sciences More Open?” という題で話をすることになっていた。1930年生まれのウォーラーステインはもう86歳で、足元がちょっとおぼつかない感じになっていた。演壇に立って過去20年を手短に回顧して、さっさと自席にもどってしまった。

会議のオーガナイザーが、あなたのスピーチのタイトルは40年後の予測がテーマなのだから、そのことについて語ってほしいと、ウォーラーステインを壇上のオーガナイザーの隣の席に呼び戻した。

その時のウォーラーステインが言ったのが冒頭の言葉である。ウォーラーステインの軽口なのだが、私には本音のようにも聞こえた。

ウォーラーステインの世界システム論については、理論的にはヨーロッパを資本主義経済発展の中心、ラテンアメリカなどを周辺とみなした従属理論への共感であり、その叙述はフェルナン・ブローデルのアナール学派の手法の応用にすぎないと批評する学者もいる。しかし、国際社会学会の会長を務め、あちこちの学会で記念講演に引っ張り出されてきた学会の大御所である。

とはいえ、歴史を振り返って近代世界を一つのシステムとみなす大きな分析枠組みを提示したウォーラーステインにしても、将来を予測することは、過去を整理する作業よりもっと難しい。

私がリスボンにやって来たのは、ウォーラーステインの肉声を聞く最後の機会になるだろうという予感と、彼が『近代世界システム』でふれたヨーロッパ海洋帝国の先駆けであるポルトガルの栄光の残照と現在の姿を見たくなったからだ――気取らないでありていにいえばリスボン観光である。

ウォーラーステインの『近代世界システム T』(名古屋大学出版会、2013年)は、ポルトガルが世界帝国の道の先陣を切った理由を@大西洋岸にあってアフリカ」に隣接していたA遠距離貿易の経験があったBヴェネツィア人の仇敵ジェノヴァ人がポルトガルに投資したC西欧諸国が内乱に状態にあったとき、ポルトガルだけが国家機構が強大で国内が安定し、投資しやすい環境にあった、などと説明している。

ポルトガルは15世紀にアフリカに進出、喜望峰に到達、そして喜望峰回りでインドへの航路を開いた。16世紀には東南アジアへ向かった。16世紀にはブラジルへの移民を始めた。



こうした海外進出によってポルトガルの支配者は富を手に入れた。その冨がどのように使われたのか――その見本の1つがリスボン・ベレン地区の壮麗なジェロニモス修道院である。16世紀初めに着工され、1世紀をかけて完成にこぎつけ、その後も増改築を重ねてきた華麗にして厳かな建物である。世界遺産に指定されている。EU基本条約を修正した2007年のリスボン条約の調印式がここで行われている。

グルベンキアンの会議はほどほどにして、ポルトガルの海洋進出に関わる風景を中心にリスボンを散歩して回った。そのときの写真をこれからシリーズでお見せしようと思う。リスボンの1月は温暖で、日差しの強い日は最高気温が15度くらいまで上昇することもあった。

宿泊していたホテルのすぐ近くにある百貨店の地下食品売り場で、つれあいが日本人の女性に声をかけられたそうだ。ドイツ人と結婚している女性で、10年ほどドイツで暮らしたあと夫の転勤でリスボンに移り住んだと言った。「リスボンの人は暖かで優しい。ドイツ人は冬になると冷たくなる」。彼女はつれあいにリスボンの感想をそう語ったという。ドイツ人は冬になると冷たくなる――という表現がなんとも面白い。

東京に帰る時、リスボンの空港を午後2時過ぎにたった。そのとき気温は10度を超えていた。経由地のドイツ・フランクフルトに着いたのは、時差の関係もあってドイツ時間午後6時過ぎ。気温は零下3度との機内アナウンスがあった。



2 金と奴隷

ジェロニモス修道院からテージョ川に向って公園を抜け、ブラブラ歩いて行くと「発見のモニュメント」に行き着く。高さ50メートルほどのコンクリート製の塔だ。このモニュメントはジェロニモス修道院とはちがって世界遺産ではない。1960年に建てられた。

モニュメントは大航海時代を開いたポルトガルの冒険者たちが使っていたカラベル船の形をなぞっている。「発見のモニュメント」は最初、1940年のリスボン世界博覧会にあわせて建てられた。それを1960年になって、大航海時代の先駆者エンリケ航海王子の死後500年を記念して、現在の物に建て替えられた。

モニュメントの地上近くの部分の、テージョ川に面して左右両側には、多くの人物像が彫り込まれている。先頭がエンリケ航海王子で、その後にポルトガル国王マニュエル1世やヴァスコ・ダ・ガマ、マジェラン、宣教師ザビエルらの像が続く。

ポルトガルにとっては栄光の過去を讃えるモニュメントで、彫られた人々は英雄だが、大航海時代にポルトガルによって“発見”された側にとっては、「災難のモニュメント」で、彫られた人々は強盗、ということになろう。

ポルトガル船は大西洋を横断してブラジルに行った。また、アフリカ西海岸をたどって喜望峰を回り、さらに東海岸伝いにインドへ。さらに東南アジア、中国、日本に至った。

その航路に沿って、ポルトガルはアフリカのカーボベルデ、ギニアビサウ、アンゴラ、サントメプリンシペ、モザンビークを植民地にした。これらの地域はポルトガルで1974年のカーネーション革命が起きるまでずっと植民地だった。

アフリカの西部海岸、ギニア湾沿岸には、かつて香辛料(穀物)海岸、象牙海岸、黄金海岸、奴隷海岸とよばれた地域があった。ポルトガルをはじめヨーロッパのアフリカ進出国が狙ったアフリカの冨、穀物、香料、象牙、金、奴隷を手に入れた海岸である。

ポルトガルは15世紀から16世紀にかけて、毎年平均800キロの金を持ち帰った。

デイヴィッド・エルティス他『環大西洋奴隷貿易歴史地図』(東洋書林、2012年)によると、1501年から1867年までの間に、12522570人がアフリカから奴隷として連れ出された。最も大勢の奴隷を運んだのがポルトガル・ブラジル船籍の船で、合計5849300人に達した。2番手がイギリス船で3259900人、3番手がフランス船籍の船で138970人だった。

ポルトガルはエンリケ航海王子の時代に、ギニア湾沿岸を支配して、香辛料、象牙、金、奴隷を手に入れた。大西洋上のポルトガル領サン・トメ島が奴隷を新大陸に贈るための奴隷貿易の中継地になった。15世紀半ば、ポルトガル王アフォンソ5世は異教徒を奴隷にしてもさしつかえないという許可をローマ教皇ニコラウス5世から得ていた。

16世紀初頭、ポルトガルはアフリカの金、アジアの香辛料で大儲けしてその勢いは絶頂に達したが長続きはせず、16世紀中ごろから香料貿易の独占が失われて衰退期に入った。



ポルトガルは16世紀から19世紀にかけての王政時代、ヨーロッパでアフリカ系人口が最も多い国だった。

アフリカを肥やしにして、近代資本主義世界の中心である西ヨーロッパの経済は成長した。



3 ファド

テージョ川沿いのアルファマの丘の上にあるサン・ジョルジュの城跡に登ってみた。イベリア半島をムーア人が支配していたころに建てられた城だ。ムーアとは辞書によるとイベリア半島を78世紀ころに征服したアラブ人、ベルベル人混成のイスラム軍の呼称であり、ヨーロッパ人がマグレブ(北西アフリカ)のイスラム教徒を呼ぶ言葉でもある。

サン・ジョルジェの城は10世紀ころにムーア人が築き、王城として使っていた。スペイン・グラナダのアルハンブラ宮殿ほどには名が知られていない。城跡は時の流れのなかで荒れ果ててしまっていたが、1930年代に復元された。城壁の通路からはリスボンが360度見渡せる。リスボン市内で最も眺めのよい高台である。

サン・ジョルジェの城跡を出て、テージョ川沿いのファド博物館へ向かってアルファマの坂道を歩いて下った。

「日本人ですか?」。

日本語で声をかけて来たのは南方アジアふうの顔立ちの男性だった。ええ、そうですよ、と答えた。

「どこからきましたか?」
「東京です」
「わたし、東京に住んでいました。日暮里です」
「日本で仕事をしていたのですか? ご出身は?」
「バングラデシュです。仕事ではなく、日本語学校で勉強していました」

東京に日本語を習いに来たバングラデシュの人が、どういう事情でリスボンにいるのだろうか?

「リスボンには何年ほど住んでいますか?」
「もう10年になります。自分の店を持っています」
「リスボンの暮らしはいかがですか?」
「暮らしやすいところですよ。これからもずっと住み続けるつもりです」

ごきげんよう、さようなら、とバングラデシュの人と別れ、坂道を下り続けた。サン・ジョルジュ城跡からファド博物館にいたる坂道はリスボンの旧市内アルファマを通る。アルファマの「アル」はこの街がムーアの城の下のムーア人の街だった名残と言われている。急な坂道に沿って建物が密集し、細い小路が入りくんでいる。窓に洗濯物が干され、壁のタイルはアラベスク模様だ。



夜になると、こうした路地にあるレストランに観光客がファドの演奏を聴きに来る。ファドは音楽としては私の趣味ではないのだが、リスボンに来てファドに見向きもしないのはファドに対して失礼と思い、ファド博物館へ表敬訪問に向ったのである。

アルファマの坂道を下りきり、テージョ川沿いの平地にでると、広場の向こうにファド博物館が見えた。

館内には写真やイラスト、ギターなどが展示され、録音されている過去のファドの演奏が聴ける部屋もあるが、総じて博物館として見るほどの物は少なかった。音楽には形がないから、展示物は限られる。

館内に標語のようなものが掲示されていて、観光客むけであろうか、英語で書かれていた。

「ファディスタ(ファドの歌手)はなりたいと願ってなれるのものではない。ファディスタになるべくして生まれてくるのだ」

なるほど、と思うしかない決定論である。

ファドは胴の丸いポルトガル・ギターと胴のくびれたスパニッシュ・ギター(クラシック・ギター)の2丁の伴奏で歌手が歌う。ファド発生については諸説があるが、19世紀の初めにブラジルからアフリカ系ブラジル音楽が持ち込まれ、やがてビートの効いた部分がきえてポルトガル化されたとする説が有力である。日本の歌謡曲や演歌に類する歌である。したがって曲は概して平板であり、私の好みに合わない。

ファドはリスボンのファドとコインブラのファドが有名だ。リスボンのファドは女性の歌手が歌うことが多く、コインブラのファドは男が歌う。歌う男はコインブラ大学の男子学生が多いとかいわれている。コインブラのファド歌手は髭面で長い黒のマントを着て弾き語りする。このマントをcapaという。スペイン語でもcapa、イタリア語でcappa、英語でcape、日本語で「合羽」という。

ファドというとsaudadeという言葉が帰って来るが、もともとファドは物悲しいだけのポルトガル演歌ではなく、19世紀後半にはクロポトキン、バクーニン、マルクスといった名前が出てくる社会主義ファドが労働者階級の間で流行した。ファドは労働歌でもあった。

1900年の社会主義ファドはこんな風だった。

「5月1日。進め、進め。おお、自由の戦士よ。前進して打ち壊せ。国境と私有財産を」

こうしたファド労働歌はポルトガルを支配したファシスト政権のサラザール時代に葬られて消えはてたとイギリスの政治雑誌『ニューステイツマン』(20071011日)の記事にあった。



4 東ティモール

東ティモール民主共和国という国をごぞんじだろうか。インドネシアの南、オーストリアの北の海域に浮かぶティモール島の東半分を領域とする人口百万ちょっとの小さな国である。基本的には農業国家で、輸出用の特産品はティモール・コーヒー。れっきとした国連加盟国である。東ティモールの歴史は力のある国家が弱小民族を容赦なく食い物にする過酷な歴史の典型である。

現在、東ティモールの国語はテトゥン語とポルトガル語と定められている。テトゥン語は土地の言葉、ポルトガル語は東ティモールを植民地にしていたポルトガルの言葉である。実用語として英語とインドネシア語が流通している。インドネシアは1976年に東ティモールを武力で併合、以来、24年間にわたってインドネシアの27番目の州にし、反インドネシア独立運動に過酷な弾圧を加えた。

東ティモールが独立した2002年当時、インドネシア語は憎悪を呼び起こす言語だった。その憎悪の反動で、3世紀にわたって東ティモールを植民地にしてきたポルトガルの言語が郷愁を呼びおこすものになっていた。

リスボンの「発見のモニュメント」がある広場には、ポルトガルの航海者が東南アジアに到達した年が刻み込まれた地図が敷かれている。地図によるとポルトガルの航海者は1512年に香料を求めてモルッカ諸島に到達した。同じ1512年には、ポルトガル人は白檀を求めてティモール島へも来た。

  

16世紀中にポルトガルはティモールを占領。その後にティモールへやってきたオランダと領地争いを続けた。最終的に19世紀半ばに、東ティモールをポルトガル領、西ティモールをオランダ領とすることで、両者は折り合いをつけた。

2次世界大戦中は、日本軍がオランダ領東インド(現在のインドネシア)からオランダ軍を駆逐し、西ティモールを含めた蘭領東インドを占領した。日本のさらなる南下を警戒して、オーストリアの手前で日本軍を食い止める目的で、オーストラリア軍が東ティモールを占領した。最終的には日本軍が東ティモールのオーストラリア勢力を一掃して、ティモール全島を占拠した。

日本の敗戦のち、オランダとの独立戦争を経て、旧オランダ領東インドの領域を基礎にしてインドネシアが共和国として独立した。東ティモールにはポルトガルが宗主国として戻ってきた。

気の毒なティモール島民の歴史だが、ポルトガル領東ティモールの歴史はこののち悲惨さの度合いを強める。

インドネシアを植民地にしてきたオランダでは、植民地時代の後半になると、人道的観点から植民地支配のありかたを反省するする機運が本国から生じた。これがインドネシアにおける近代的ナショナリズムの誕生の1つの契機になった、とインドネシア史の教科書は教える。

ポルトガルはカトリックの国で、ヨーロッパの中では政治的覚醒を含めて後進性の強い国柄だった。ポルトガルは植民地から富を収奪するだけで、海外領土の発展のための投資をしなかった。というより、ポルトガル本国自体が経済的に停滞していて、植民地からの収入で本国の経済をまかない、開発の投資など望むべくもない状態だった。

ポルトガル植民地は1974年のカーネーション革命を契機に次々と独立した。東ティモールでは、ポルトガル派、インドネシア派、独立派の3派が主導権を争って戦闘状態になった。ポルトガル本国から派遣されていた植民地官僚は、この混乱を解決するどころか、ティモール島向かいのアタウロ島にあたふたと逃げた。

主導権争いで勝った独立派で左派のフレティリンが独立宣言を発した197512月、インドネシア軍が東ティモールに攻め込んだ。

インドネシア軍が東ティモールに侵攻する前日の126日、フォード米大統領はキッシンジャー国務長官ともども、当時のスハルト・インドネシア大統領と会談した。この席で米国大統領はインドネシアの東ティモール侵攻に同意した。

1975年は南ベトナムが崩壊した年であり、東ティモールにフレティリン主導の社会主義政権が誕生すると、インドネシアの正面と背後、南北に社会主義政権ができることになる。米軍は核ミサイルを搭載した原子力潜水艦を、ソ連の偵察衛星に察知されることなく、潜航したままで太平洋からインド洋に行き来させる深い水路としてティモール沖を利用していた。東ティモールがインドネシアの手を離れ、社会主義国として独立すれば、この水路の確保が難しくなるという懸念が米国にはあった。

オーストラリアはティモール島とオーストラリアの間にある海底油田・ガス田開発計画をインドネシアと共同で進めていた。日本は名だたる米国追随の国であり、また、インドネシアの石油・ガスに依存していた。インドネシアの東ティモール侵攻・併合に対する非難決議が国連で何度も繰り返されたが、これらの国は決議に反対したり、棄権したりした。

24年にわたる年月、インドネシアが軍の力で東ティモールの独立運動を抑え込んできた。活動家はゲリラとして山岳地帯で抵抗運動を続けた。東ティモールはインドネシア軍の対ゲリラ戦争の実践訓練場になった。正確な統計は残っていないが、ゲリラや東ティモール住民の死者は20万人に達するという説もある。

ポルトガルは東ティモールの教育をはじめとする社会的インフラストラクチャー整備のために、金を使わなかった。インドネシア政府は州の一つになった東ティモールに社会的な投資をした。インドネシアはポルトガルが投資した以上の金を東ティモールのために使った。たとえば、ポルトガル時代に比べると、識字率ははるかに向上している。なのに、なぜ嫌われるのだろうか? そういう声をスハルト時代のインドネシアで聞いたことがある。

向上した識字率がインドネシア語の識字率だったからからだろう――多分。



リスボンのテージョ川沿いのコメルシオ広場はかつてポルトガルの海外植民地との貿易に関係する施設が集まっていた場所である。ポルトトガルが海外進出の突破口を開いたことで、世界から富を集めたマヌエル1世の宮殿もかつてここに建っていた――1人の王様の冨はその他大勢の貧困。



5 ザビエル

リスボンのジェロニモス修道院についてはこのシリーズの第1回で少しふれた。世界遺産の指定をうけているリスボンのとっておきの観光資源の1つだ。だが、修道院の機能はすでになく、俗界の建物となって保存されている。

修道院でなくなったのは今から1世紀以上もまえの19世紀のことである。現在では、この壮大な建築物は、歴史的展示物としての旧修道院回廊、地元教区のサンタマリア教会、考古学博物館、海洋博物館として利用されている。

サンタマリア教会の内部は、修道院時代の聖堂の記憶をとどめる立派な装飾を誇る。のぞいてみると結婚式の最中だった。神父と新郎新婦と少人数の列席者。なかなか良い雰囲気であった。

ジェロニモス修道院の建物の一番西側の部分が海洋博物館になっている。海洋博物館の展示物の中に面白い絵があった。フランシスコ・ザビエルがリスボンを出港してアフリカ経由アジアに向かう途中のエピソードを絵にしたものだ。

絵に添えられた解説文によると、長い船旅で飲料水が底をついて、船乗り一同が渇水の危機にみまわれたさい、ザビエルが身をロープで縛り、船端から吊るされて海水面におり、何やら呪文を唱えて十字を切ると、あら不思議、あたりの海水が淡水に変わった、というお話である。

ザビエルがアジアに向けてリスボンを出港したのは1541年のこととされている。日本では戦国大名が割拠していたころだ。ヨーロッパでは異端審問がまだまだ続いており、魔女狩りも盛んだった時代である。ジャンヌ・ダルクが火あぶりになって1世紀がたったころだ。浄水装置なしで、呪文によって真水をつくる話がそれなりに説得力を持っていた。

ザビエルがインドのゴア、マレー半島のマラッカ、明国などを経て、日本にやって来たのは1549年のことである。

ポルトガルと日本の最初の接触は1541年とも、1543年ともいわれている。1541年説によるとポルトガル船が豊後に漂着して、その際ポルトガル船の船員がカボチャを日本に伝えたという。1543年説によると、ポルトガル船が種子島に漂着して鉄砲を伝えたという。

ポルトガルと日本の初接触の年は、ポルトガルでも両説があって、「発見のモニュメント」広場の年表は1541年説、海洋博物館の説明では1543年説をとっている。

それはさておき、ザビエルは日本に来たもののキリスト教布教は期待するほどには進まなかった。ザビエルは日本から一時撤退して、インド、中国と布教の旅を続け、1552年に明国の上川島で病没した。

ザビエル遺体はマラッカ経由でゴアに運ばれた。遺体がゴアで公開されたさい、遺体を見にきた女性がザビエルの右足の指2本を歯でくいちぎって自宅に持ち帰ったという言い伝えがある。また、ザビエルの右腕は17世紀の初めになって、ローマのイエズス会の命令で切断されローマに運ばれた。ザビエルの遺体は死後もなお生きているように見えた、と伝えられている。切り取った腕は奇跡好みのカトリックが、ザビエルを聖人に列するための判定資料だったといわれている。

ローマで保管されていた右腕は、1949年に日本に運ばれ公開された。1949年はザビエルが日本やって来て400年にあたる年だった。

その時のことを、当時、京都で新聞記者をしていた司馬遼太郎が著書『南蛮のみち T』に書いている。司馬遼太郎はザビエル400年記念の取材のあと、公開されたザビエルの右腕と対面する。その時のことを次のように書いた。

「右腕はローマに送られ、委員会で確認された。そのあと、腕型の箱におさめられて、ローマで保管された。昭和245月の400年祭のとき、私どもが見た右手――実際に見たのは腕型の箱の外観……」。

落語「長さ6尺の大イタチ」を思いださせるお話である。

ザビエルの遺体が一時安置されていたというマラッカの丘の上にあるセントポール教会跡には、ザビエルの白い立像が建っている。ふと気がつくと、えっ、右腕の先がない! 右手のないこのマラッカのザビエル像にも諸説がある。言い伝えにしたがって最初から右手が無い状態で制作した、という説。右手は制作した時はあったのだが、像を建てたのちに、天意(落雷あるいは倒木)によって右手が切り取られた、という話がまことしやかに語られている。

日本と西洋の海洋帝国の接触はこのようにして始まったのだが、16世紀中には日本人奴隷がポルトガルとの貿易の対象になった。池本幸三他『近代世界と奴隷制』(人文書院、1995年)によると、豊臣秀吉は1587年に宣教師追放令をだし、その中でポルトガル商人による日本人奴隷の売買を禁じた。とはいうものの、豊臣秀吉が朝鮮に兵を出したさい、連れ帰った朝鮮人をポルトガル商人に売ってもうけた日本人もいた。



6 ペソアのリスボン・ガイドブック

フェルナンド・ペソアといえば、知る人ぞ知る20世紀ポルトガルの国民的詩人である。

ノーベル文学賞を、ポルトガル語圏で初めて1989年に受賞したジョゼ・サラマーゴの小説『リカルド・レイスの死の年』は、ポルトガル人のペソアの記憶を巧みに使っている。「リカルド・レイス」という名は、フェルナンド・ペソアが詩を書くとき使ったペンネームの1つだった。

詩人フェルナンド・ペソアが死んだのは1935年のことだ。小説『リカルド・レイスの死の年』の設定は、1935年ペソアが死んだことを聞いて、ながらくブラジルに移住していたペソアの異名「リカルド・レイス」を名乗る人物がリスボンにもどってくるという設定。リカルド・レイスが戻ってきたポルトガルはアントニオ・サラザールの独裁体制がほぼ確立され、恐怖政治が始まっていた。

小説はそういう仕掛け。面白そうだから図書館で借り出してお読みになることをお勧めする。ついでに、フェルナンド・ペソアの詩集などもお読みになるといい。

ペソアは今ではポルトガル文学のチャンピオンの1人だ。ペソアに対する尊敬の念が高まり、彼の墓石は元の墓地からジェロニモス修道院の回廊に移された。1980年代のことだ。彼がノーベル文学賞を受賞していないことは、ポルトガルのファンとっては大いに残念なことであろうが、いまのようにペソアの名前と作品があまねく知られるようになったのは、彼の死後のことなのである。

ペソアは書きためた未出版の原稿の山を残した。その山の中から見つかった英文のリスボン案内書 Lisbon――What the Tourist Should See (邦訳は近藤紀子『ペソアと歩くリスボン』彩流社)を読みつつリスボンの街を歩いた。ちなみペソアがなぜ英文でリスボン案内書を書いたかというと、彼は若いころの10年ほどを南アフリカで育ち、英語には達者だったからだ。



ペソアは彼のリスボン案内書で、海からやって来る旅行者が最初に見るリスボンの風景として、ベレンの塔をあげている。20世紀の初め、船旅はまだ旅の主流だった。

ペソアはベレンの塔を Stone Jewel (石の宝石)と讃えている。1515年から6年をかけて建設された。「かつて世界を制覇したポルトガルの国力を、これほど雄弁に物語るものはない」とペソアは書いている。リスボンを出港して新世界に向かう船を見送り、アジアから香料を満載して帰って来る船を迎えた塔である。テージョ川とリスボンを守るための要塞で砲台もあった。ロンドン塔がそうであったように、権力闘争に敗れた高位高官が幽閉された水牢つきの塔でもあった。

ベレンの塔はもともとテージョ川の流れの中に建てられたが、テージョ川の流れが後退してペソアのころには川岸と陸続きになっていた。

ペソアはリスボン案内書にリスボンの主だった観光の対象を網羅しているが、リスボンの眺望という点では、このベレンの塔の最上階と、サンジョルジェ城跡、18世紀につくられたアグアス・リヴレス水道橋を推している。

サンジョルジェ城跡からの眺めは、このシリーズ第1回の市内を俯瞰した写真がそうだ。城跡は丘の上にあり、歩いて登るには少々きびしい。マイクロバスが路線バスとして使われている。運転手はくねくね曲がる細い登りの道を縫うようにして運転し、城跡の下まで乗客を運ぶ。

水道橋は起伏の多いリスボンに水源から水を引くために18世紀に建設された。「七つの丘の町、リスボン」とペソアは案内書の冒頭に書いた。ローマもイスタンブールも7つの丘の町とよばれた。それぞれが立派な水道橋をつくった。

ペソアの案内書によると、かつては水道橋の上を歩き、眺望を楽しむことができたが、ペソアのころは飛び降り自殺や犯罪が多発したので出入り口が封鎖された、とある。ただし、職員の許可を得れば水道橋の上にのぼることができる、とも書いてある。「そこからの眺望の素晴らしさは、ご想像におまかせしよう」とペソア。



水道橋は1967年から通水の仕掛けとして使われなくなった。現在ではもっぱら観光資源である。31日から1130日の間の午前10時から午後6時の間、水道橋に登って歩くことができる。筆者がリスボンへ旅行したのは1月のことで、水道橋は冬季閉鎖中。登ることはかなわなかった。



7 サンタ・アポローニア

リスボンのサンタ・アポローニア駅はテージョ川沿いにある。ポルトやコインブラなどのポルトガル国内の比較的遠距離にある都市とリスボンを結ぶ鉄道のターミナル駅である。

また、スペインやヨーロッパからくる国際列車もこの駅から発着する。この連載の第5回でふれた司馬遼太郎の『南蛮のみち』にも、司馬遼太郎がスペイン経由でサンタ・アポロ―ニアに到着したと書いている。

いまひとり、古典語を教えている高校教師のライムント・グレゴリウスがスイスのベルンから列車を乗りついでリスボンに来たときも、彼を乗せた列車が到着したのはこのサンタ・アポローニア駅だった。

「高校教師のライムント・グレゴリウス」と、まるで実在する人物であるかのように書いたが、じつは彼は、パスカル・メルシエの小説『リスボンへの夜行列車』の主人公だ。この小説はヨーロッパで話題になり、映画化もされた。小説はミリオンセラーとなり、邦訳も出版されているので、興味があればお読みになるとよい。

私がリスボンにやって来たのは、イマニュエル・ウォーラーステインの話を聞きたかっただけではなかった。パスカル・メルシエの小説をパラパラとめくって、そこの書かれていた思索の痕跡がどことなくフェルナンド・ペソアの雰囲気を漂わせていたこと。さらに『リスボンへの夜行列車』で、アントニオ・サラザールの独裁体制「エスタド・ノヴォ」の時代の重苦しい社会の空気と反体制運動が背景に使われていたこともある。

とはいっても、パスカル・メルシエの小説ではエスタド・ノヴォの抑圧の実態が政治現象としてリアルに活用されていたわけでなく、人間というものを考える内省的な小説のバックグラウンド・ミュージック風に利用されていた。同じ時代を背景として利用したジョゼ・サラマーゴの『リカルド・レイスの死の年』はエスタド・ノヴォの描き方が生々しい。パスカル・メルシエは哲学者でジョゼ・サラマーゴはジャーナリストだった。

まあ、そういうわけで私もリスボンにやって来て、サンタ・アポローニア駅を表敬訪問した。小さなターミナル駅だった。



アントニオ・サラザールからマルセロ・カエターノと続いたエスタド・ノヴォ体制は1974425日のカーネーション革命で崩壊した。サラザールは1968年に椅子から転がり落ちて執務不能になっていた。カエターノが後継首相の時である。サラザールが椅子から落ちたことで権力の座を降りたように、ポルトガという国はサラザールの時代にヨーロッパの貧しい国の1つに零落した。サラザールは1970年に死に、アフリカのポルトガル領では独立運動が本格化した。植民地の独立勢力を抑え込み、ポルトガル国内に睨みを聞かせていた軍も国の将来を憂慮せざるを得ないところに追い込まれた。カエターノ首相にはそうした反エスタド・ノヴォの動きを止める力がなかった。

1974425日の午前零時過ぎ、反体制のコインブラ・ファドの歌手ジョゼ・アフォンソの「グランドラ、ビラ・モレナ」がラジオから流れた。放送禁止の曲だった。それを合図に、ポルトガル軍の改革派若手将校に率いられた兵士がクーデタを試みた。クーデタは成功し旧体制を打ち倒した。クーデタによる死者は4人だけだった。夜があけてエスタド・ノヴォ体制の崩壊を知った市民が、兵士たちの銃をカーネーションの花で飾った。ポルトガルの民主化革命がカーネーション革命とよばれるのはこのためだ。

クーデタのあとの新しい政治路線をめぐって右派と左派の主導権争いがあったが、ともあれ、ポルトガルは今日のEUの一員としての席を手に入れ、穏やかなこぢんまりとした国になった。

テージョ川の最河口部にかかる橋が「425日橋」とよばれている。この橋はカーネーション革命以前からあったもので、サラザールの時代には「サラザール橋」とよばれていた。今日のリスボンで1974年のカーネーション革命を思い出させる風景はこの橋ぐらいしかない。

ロシアのペテルブルクがレニングラードと改名され、またペテルブルクにもどったように、政治体制の変化を物語る名称変化である。



ただ、425日橋はちょっと実質的な変化もともなっている。425日橋は長さ2キロ超のつり橋で、上部が道路、下部が鉄道の2層構造になっている。下部の鉄道部分はカーネーション革命後に造られている。



8 グルベンキアン

リスボンは温暖な気候と美しい風景に恵まれた町である。詩人バイロンはリスボンのことを次のように形容した。

 遠目にひかり天上の趣見する此都市の
    (土井晩翠訳『チヤイルド・ハロウド』金龍堂、1938年)

もっとも、そのあとは「中にひとたび入らんもの 見る目いぶせき面影に 心わびしく、さまよはむ、 宮も藁屋も垢つみて 民は汚れの中に行き 貴賤を問はず身にまとふ上着下着の清らさを 絶いて願はず、エジプトの禍の虫やどせども 浴みず、櫛の歯をいれず、しかも其のため害うけず 憐むべき賤しき奴隷! しかも最美の地に生まる」と、リスボンの街と市民の生活の薄汚さをののしっている。

リスボンは1755年に大地震に見舞われ、市街は瓦礫と化した。リスボンの復興を指揮したのが剛腕の宰相ポンバル侯爵だ。バイロンがリスボンなどを旅し、『チャイルド・ハロルドの巡礼』を出版したのは19世紀初頭である。バイロンが見たリスボンには地震の後遺症が、その半世紀後でもありありと残っていたのか、詩人バイロンの大げさなレトリックなのか、それはよくわからない。



リスボンは起伏にとんだ地形で、なだらかな坂道の上から見おろす街並みとテージョ川の風景は「風味絶佳」である。とくにエドゥアルド7世公園前のポンバル侯爵広場を見下ろす眺めは、リスボン随一の風景だ。ロータリーの中心には塔が建てられていて、その先端にポンバル侯爵の像がある。その向こうに中規模のビルが建ち並び、さらにその先にはテージョ川が光っている。

21世紀初めのリスボンの風景は依然として天上の甘美を保ち、現在のリスボン市民は身なりも暮らしもこざっぱりとしている。

2次世界大戦中の1942年のことである。カルースト・サルキス・グルベンキアンという大金持ちの老いた男がリスボンにやって来た。グルベンキアンはナチス・ドイツに占領されたパリからリスボンに引っ越して来たのだ。彼はリスボンがよほど気にいったとみえて、第2次世界大戦が終わったのちも、リスボンに住み続け、1955年に死去。彼の遺志で彼の財産の一部をつかって、リスボンに「グルベンキアン財団」という文化活動の拠点がつくられた。

グルベンキアンはコンスタンティノープル(イスタンブール)のアルメニア系実業家の家に生まれ、ロンドンで教育を受けた。イスタンブールに帰り、石油事業に手をそめた。オスマン帝国末期の時代にトルコ石油会社の立ち上げに参加、同社の株式の5パーセントを取得した。第1次世界大戦後にオスマン帝国は瓦解したが、トルコ石油会社が引き続きイラクでの採掘権を保持できるようにグルベンキアンは交渉し、それに成功して大金持ちになった。

市之瀬敦『ポルトガル 革命のコントラスト』(上智大学出版部、2009年)によると、ナチ占領下のパリのホテルで暮らしていたグルベンキアンにリスボンに引っ越すよう勧めたのは彼の息子だった。リスボンは気候が温暖で、食べ物はおいしく、人々は善良であり、サラザールという独裁者の下で治安が保たれている、というのがその理由だった。

グルベンキアンは妻と、フランス人の秘書の女性、料理人、マッサージ師、使用人を引き連れて、リスボンでホテル暮らしを続けた。市之瀬の著書は、サンタ・アポロ―ニア駅からのテージョ川の眺めはグルベンキアンにイスタンブールを思い出させた、と書いている。だが、グルベンキアンはリスボンの市民とは隔絶した隠遁者の生活をした。リスボンの人々との交際は極度に少なかったという。

ともあれ、グルベンキアンの遺志と遺産の一部でつくられたグルベンキアン財団は、美術館、オーケストラを持ち、芸術、文化、科学、教育の面でポルトガルの芸術・学術活動をけん引する役割を果たしている。グルベンキアン財団の前庭の芝生にはエジプトのホルス神を表す大きなハヤブサの像の前に腰を下ろしたグルベンキアンの像が飾られている。



さて、このシリーズの第1回で紹介した “Interdisciplinary Futures: Open the Social Sciences 20 Years Laterという国際会議もグルベンキアン財団の学術調査活動の一環だった。会議のもとになった最初の報告書は日本語訳(イマニュエル・ウォーラーステイン、山田鋭夫訳『社会科学をひらく』)が出ているので、詳しいことはその本をお読みいただくことにして、あえて極度の要約を試みると、社会科学は社会学者の独占物ではなく、経済問題は経済学者の独占物ではないのであるから、現在の学問分野の境界線を突き破るような学際的研究へ向けた学問分野と大学の研究・教育組織の再編が必用だ、という内容だった。

そのことを踏まえて、社会科学の将来をどう予測するかについて答えた2017年のウォーラーステインの答えが、I don’t know. You tell me だったことはこのシリーズの第1回に書いた。

この発言のあと、ウォーラーステインは、大学院生だったころ、ケインズ経済学は彼にも理解できたが、やがて、大学の同僚の経済学者が黒板に書く経済学の数式が彼にはちんぷんかんぷんになってきたし、大学院生は隣接科学を学ぶことが必要なのだが、博士論文を書いている現在の大学院生の専攻分野はますますタコツボ化してきている、と述懐した。学問を制度と枠組みの拘束から解き放つのはなかなか難しいことである。



9 坂のある町

リスボンの中心部の多くは、特に旧市街とよばれるあたりは、人が歩き馬車が走っていた中世のころの造りが残り、道路が狭い。狭い道路にレールが敷かれ、路面電車が道路わきの軒先や店舗の看板をかすめるようにして走る。



同じ道を自動車も走っている。電車には当然のことながらステアリングは無く、あるのはブレーキだけである。線路に入ってくる自動車と共存しながら電車を運転するのは神経が疲れる仕事だろう。

路面電車に乗って、運転士の電車操作を見学した。さすがにプロの業で、緩急自在の運転ぶりだ。まるで自動車をすり抜けて運転しているような錯覚に襲われるほどの名人芸である。

また、リスボンは起伏の多い町だ。なだらかな坂なら路面電車が登って行けるが、急な坂になると、専用のケーブルカーで上り下りする。車内の床を水平に保つために、坂下側の車体床下が高く、坂上側のそれが低く設計されている。

  

さらに、低地の地区から高地の地区への垂直移動手段として、エレベーターが設けられている。

テージョ川に面したコメルシオ広場から北側の巨大なアーチをくぐって、リスボン第1の繁華街アウグスタ通りにでる。アウグスタ通りを北に向かうとロシオ広場に出るのだが、その途中、サンタ・ジュスタ通りと交差するところで左折すると、サンタ・ジュスタのエレベーターが見える。

アウグスタ通りのあるあたりはバイシャ地区とよばれている。バイシャとは低いという意味である。バイシャ地区の西隣がバイロ・アルトとよばれる地区。この地区もリスボンでは古い町だ。現在では、アルファマと同じように、ファドを演奏するカフェが多く集まり、夜はにぎわう。バイロ・アルトとは高い地区という意味だ。

サン・ジュスタのエレベーター鋼鉄製の塔の中を上下している。高さ50メートル弱。エレベーターで上階に上がると、そこには空中渡り廊下のような連絡協があり、それを渡るとバイロ・アルトの丘の上にでる。

バイシャとバイロ・アルトの間を急な坂道で上り下りするのは大変だということでこのエレベーターがつくられた。20世紀の初めのことである。それがいつの間にか観光の対象になった。



10 コインブラ大学

日帰りでコインブラ大学を見に行った。13世紀に開校したポルトガル最古の大学で、ヨーロッパでもイタリアのボローニャ大学、スペインのサラマンカ大学、フランスのパリ大学、イギリスのオクスフォード大学やケンブリッジ大学と肩を並べる古い大学である。

コインブラ大学には新旧二つのキャンパスが隣接している。オールド・キャンパスの建物群はユネスコの世界遺産に指定されている。観光客がやって来る。入場券を買えば大学スタッフや学生に限定された場所以外の大学施設を自由に見て回ることができる。

オールド・キャンパスの校舎の2階の廊下を歩いていると小さな窓があった。窓から古めかしいホールをのぞくことができた。ホールは1階と2階が吹き抜けになっているが、それほど大きくはない。案内書によると「帽子の間」とよばれている。

ちょうどある種の行事が進行しているところだった。



ホールのフロアに机に向かっている人がいる。その人と向き合って、壇上には3人の人物がいる。だが、写真ではシャンデリアに遮られてはっきりと見えない。手前にベンチ席があり、8人ほどの人が着席している。ベンチ席とフロアの間には仕切りがあり、その左手に坐っている人が見える。さらに、正面の一段高い権威を示す席にも人が座っている。

どこか法廷を思わすような風景だった。大学で裁判ごっこをして遊ぶわけはないだろうから、察するに博士号授与のための口頭試問であろう。論文の審査で博士号に値するかどうかはすでに分かっているのであるから、口頭試問は博士号権威づけのための古臭い儀式である。その古臭さが、ポルトガル最古の大学の世界遺産のキャンパスによく似合っている。

世界遺産のオールド・キャンパスのいま一つの観光対象は旧図書館である。オーストリアのメルクの修道院の図書館をはじめヨーロッパの修道院や大学には観光の対象になるような美的な古書収蔵庫がある。東京の東洋文庫のモリソン・コレクションの書棚はなかなか美的に構成されている。メルク修道院の図書館やコインブラ大学の旧図書館はこれを大型化したようなつくりである。いずれも撮影禁止なので、インターネットで画像をご覧あれ。

図書館の階下には「牢屋」のあと残っている。大学のスタッフや学生を対象にした専用の牢屋だったそうである。大学人にあるまじき行為をした者を懲らしめのために大学長が投獄した。

あまり関係のない話だが、秘密警察を使って反体制活動家を次々と逮捕投獄したポルトガルの独裁者サラザールは、もともとコインブラ大学の経済学の教授だった。

コインブラ大学があるコインブラ市は山間の美しい町である。リスボンのホテルで朝ごはんを早めに食べて、地下鉄でサンタ・アポローニア駅へ行った。そこから列車で2時間ちょっとでコインブラB駅に着く。B駅で列車を降りて、コインブラ駅行きの列車に乗り換える。一駅である。

コインブラ大学は小高い丘の上にある。駅前から徒歩で坂道を直登する方法と、タクシーで丘の裾を半分ほど回って、そのまま坂道を新キャンパスまで登る方法がある。私は坂道を徒歩で登った。途中、坂道は何度も分岐したが、いずれにせよ大学は丘の上だから、登り坂をたどればよかった。



丘の上のオールド・キャンパスからの眺めはこの通り。左手の古びた建物の先端に列柱が見えるが、そこが旧図書館の入り口である。



11 ムーアの城跡

ポルトガルにおけるイスラム時代の名残はリスボンのサン・ジョルジェ城跡がその記憶をとどめ、城の下の坂道にあるアルファマ地区はその名にイスラムのひびきをとどめている。

リスボン郊外のシントラという町の山に「ムーアの城」跡があるというので、コインブラへ遠足に出かけた翌日、シントラへ行った。リスボンのロシオ駅から電車に乗ってシントラ駅へ行き、そこから山を登ってムーアの城経由ペナ宮殿に行くバスに乗った。



ムーアの城は城跡そのものよりも、城跡から眺める尾根伝いの城壁の跡がみものである。城壁は9世紀から10世紀にかけて要塞として築ずかれたものだ。異教徒の地を占拠して暮らす支配者ムーア人の安全保障の壁だったことがよくわかる。

ところで、ムーア人によるイベリア半島支配の名残は、遠い極東の国日本にも届いている。

和服の肌着「襦袢」(ジバン、ジュバン)はポルトガル語のgibaoあるいはjubaoから来たものだと日本語辞典に説明がある。襦袢は当て字である。もともとは胴着のようなものをさす言葉だったが、日本語になって和服の肌着になった。さらにたどれば、ポルトガル語のgibaoあるいはjubaoはアラビア語の「ジュッパ」からきている。羽織のような長衣を意味した。

矢島文夫『アラビアンナイト99の謎』(PHP文庫、1992年)によると、アラビア語「ジュッパ」が直接ポルトガルに入ってきたのか、スペイン語経由でポルトガルになったのかは不明である。スペイン語辞書には「jubon=(中世の)胴着」とある。

イベリア半島がムーア人の支配下にあった時代の名残である。

8世紀初頭に北アフリカからイスラム勢力がジブラルタル海峡を渡ってイベリア半島に攻め込んできた。イスラム勢力は西ゴート王国を征服し、イベリア半島北部を除くほぼ全域を支配するようになった。

なぜ北アフリカのイスラム教徒がイベリア半島になだれ込んできたのか。

イスラムの最初の世襲王朝ウマイヤ朝がアッバース朝にとって代わられ、アッバース朝の勢いに押されてウマイヤ朝の残党が北アフリカからイベリア半島へ移動した。彼らはイベリア半島でウマイヤ朝を打ち立て、都をコルドバに定めた。後ウマイヤ朝はやがて内紛で自滅、イベリア半島各地は小規模なイスラム王国が支配する分裂状態になった。

やがてキリスト教勢力が国土回復運動(レコンキスタ)をはじめ、イベリア半島からイスラム勢力を駆逐し始めた。1492年にイスラム勢力最後の都グラナダが陥落し、レコンキスタは完了する。

ちなみにシェイクスピアの『オセロ』はアフリカ系黒人の将軍の悲劇と解されることが多いが、イベリア半島出身のムーア人だったという説もある。

シントラのムーアの城はムーア人が撤退したのち荒れはてたが、19世紀なって修復された。

 

ムーアの城の近くにペナ宮殿がある。かつてポルトガル国王の夏の離宮だった。現在では修復され色鮮やかなディズニー調の宮殿になっている。宮殿内のテラスからの海の眺めは素晴らしい。さらにテラスの柱はイスラム風のデザインを残している。ムーア人がもたらした文化のなごりがポルトガルの海の眺めを一層引き立てている。



12 ロカ岬

リスボン冬の旅のおわりはロカ岬。欧亜大陸の最西端の地点だ。

16世紀のポルトガルの詩人、ルイス・デ・カモンイスが「大地こに地終わり、海始まる」と歌った場所である。北緯3847分、西経930分。ユーラシア大陸最東端の地、北緯660445秒、西経1693907秒のロシアのデジニョフ岬と対比される。

冷たい風の中で夕陽が海に入るのを待つ。



太陽が大西洋に沈んだ瞬間、ワーッと歓声があがり、大きな拍手がわきおこった。日本では日の出に向かって手を合わせたり、柏手を打ったりするが、沈む夕日に拍手を送ることはない。ポルトガルの習慣なのだろうか?

古代エジプトの神話風にいえば、ロカ岬で拍手に送られた太陽神はメセクテトという夜の舟に乗って地底の川を東に向かって漕ぎ行き、デジニョフ岬沖の太平洋に姿を現すのだ。

シントラでムーアの城跡とペナ宮殿を見た後、急いで山を下り、ロカ岬行きのバスに乗った。急ぎ過ぎで日没までまだ1時間以上もあったので、レストハウスのカフェテリアでお茶を飲みながら、壁にかかっていたロカ岬の風景画を見ていた。

「あらゆる波止場は、石のサウダーデ(郷愁)」とフェルナンド・ペソアの『新編 不穏の書、断章』(澤田直訳、平凡社2013年)にある。またその書物には、

 塩からい海よ お前のうちのなんと多く塩が
 ポルトガルの涙であることか

という断章もあって、こちらもまたファドの雰囲気である。

ペソアはこの「塩からい海」の言い回しがお気に召したらしく、彼の詩「ポルトガルの海」でも、

 塩からい海よ お前の塩のなんと多くが
 ポルトガルの涙であることか

と歌っている(「ポルトガルの海」(池上岑夫訳『フェルナンド・ペソア詩選 ポルトガルの海』彩流社、2006年)。

この詩は、ポルトガル人が海を渡ったことで多くの母親が涙を流し、多くの許嫁が花嫁衣装を着られなかったことかと、続く。とはいうものの、後半では、魂が卑小でないのであれば悲痛もまた乗り越えなくてはならない、とポルトガルの歴史を肯定する。

しかしペソアには悪いが、このような構成は私の趣味ではない。少なくとも、近づく終末の足音が聞こえ始めたいまとなっては、ペルシャ中世の教訓話『薔薇園』(サアディー、蒲生礼一訳、東洋文庫)に載っている以下のような話しの方に共感を持つ。

物語の主人公が若かったころ、彼は信仰に没頭していた。ある晩、彼は父とともに夜を徹して眠らずコーランを膝においていた。だが、周囲の人は皆寝てしまった。そこで彼は父親に、だれ一人として祈りをささげるものがいない、まるで死んでいるようだ、といった。すると父親が息子に言った。「息子よ、かように他人の陰口をきこうより、お前もまた寝ていたほうがよかったのだ」

大航海時代の海洋帝国・ポルトガルは消えさった古い夢、植民地の宗主国としてのポルトガルの記憶も薄れて行く。EUのなかの目立たない小国になった現代のポルトガルである。だが、リスボンであった、日本経由でポルトガルにやって来たバングラデシュの人も、ドイツ経由でリスボン来た日本人も、ポルトガルはいいところだと言った。一仕事終えたあとの夕方のくつろぎ――この雰囲気が漂うのがリスボンである。

(写真と文: 花崎泰雄)