1 ブルームズベリーの裏窓

今から115年前の1910年に短期間ロンドンを訪れた長谷川如是閑が帰国後、当時の『大阪朝日新聞』に滞在記を連載した。滞在記はのちに1冊の本『倫敦』として出版された。現在は岩波文庫におさめられている――『倫敦! 倫敦?』

1世紀以上も前のダウニング・ストリート10番地のイギリス首相官邸を見に行った如是閑はそのたたずまいを次のように描写している。

「教育省の手前に狭いケチな横町がある。其処を入ると、外務省の向こうに、頗る簡単な、鳶色になった煉瓦家屋の三階建の長屋がある。僕のいた宿よりも、見かけは見すぼらしく、宿料も四、五割方安かろうと思われるような家だが、その長屋の一角が即ち英国の政治の策源地として世界に轟き渡っているダウニング・ストリート十番地の首相官邸である。……どれか周囲の堂々たる建物の一つに移ったらばと思われる所を依然として、この古煉瓦の裡に燻り返っている所が、即ち英吉利風なのだ」

20世紀初頭のイギリスはなお、世界中に植民地を持つ大帝国の残照の中にあり、帝国と見すぼらしい首相官邸についての如是閑の感想に興味を持たれる方は、岩波文庫をお買い求めになるがよろしい。イギリスはEUから離脱し、一昔前の覇権国家の勢いも失い、核兵器を持つ普通の国になったが、代々のイギリス首相はそのくすんだダウニング・ストリート10番地の官邸に住み続けている。時々、テレビのニュースで英国首相官邸の映像を見るが、1世紀以上前の如是閑の観察に添えるべきものはこれといってない。

先月(20256月)ロンドン見物の旅に出た。大英博物館やナショナル・ギャラリーなどの博物館や美術館を時間かけて回り、施設が閉まった後の夕方はロンドンの街歩きを楽しんだ。6月のロンドンは午後9時ごろまで明るい。その街歩きのガイドブック用に長谷川如是閑の岩波文庫『倫敦! 倫敦?』をカバンにおさめた。

このところロンドンに旅行すると出費がかさむ。宿泊料も高い。大英博物館やロンドン大学のある文教地区のブルームズベリーだと、4つ星程度のブルームズベリー・ホテルの宿賃が110万円を超える。

そういうわけで、大英博物館の近くにあるテラスハウスというか、タウンハウスというか、如是閑のいう西洋長屋にあるこじんまりとした朝食付き宿舎に滞在した。それでもブルームズベリー・ホテルの宿泊料の半分近い料金を取られた。ロンドンはヨーロッパでも生活の高い町のひとつだし、ひどい円安が追い打ちをかけている。

如是閑が泊ったホテルよりみすぼらしいと形容した英国首相官邸がある長屋よりさらに見すぼらしい古びた西洋長屋を改修した英国趣味のホテルだから、エアコンはない。古びた扇風機が部屋の片隅にあった。窓はガタピシで蒸し暑くなって開けると小さな虫が入ってきた。ホテルのエレベーターは頻繁に故障した。

滞在した部屋は3階で裏庭に面していた。裏庭の様子は冒頭の写真の通り。向かいの建物は壁面の改装作業中だった。裏庭を眺めていてヒッチコックの映画『裏窓』を思い出した。西洋長屋はイギリスだけでなく、ヨーロッパや米国、オーストラリアなどで建てられたが、実際にロンドンに来て西洋長屋の裏庭を眺めおろしていると、ヒッチコックがイギリス出身の映画人だったことがしみじみ思い出される。



裏庭を挟んで向き合った古びた建物は修復工事中で木造の足場が見苦しい。その建物の向こうに薄緑色のドーム型の屋根が見える。大英博物館の屋根である。ホテルから博物館まで徒歩数分。これだけがこの木賃宿の売りである。



2 ソーホーのマルクス

夏目漱石は長谷川如是閑の訪英の10年ほど前にロンドンに滞在していた。漱石は帰国後作家に転じた。初期の新聞小説『三四郎』は軽やかな青春小説で、その中で図書館について記述がある。三四郎が見た図書館は、広く、長く、天井が高く、左右に窓のたくさんある建物だった。三四郎は毎日本を八、九冊ずつは必ず借りた。三四郎が驚いたのは、どんな本を借りても、きっとだれか一度は目を通しているという事実を発見した時であった。それは書中ここかしこに見える鉛筆のあとでたしかである。ある時三四郎は念のため、アフラ・ベーンという作家の小説を借りてみた。あけるまでは、よもやと思ったが、見るとやはり鉛筆で丁寧にしるしがつけてあった。この時三四郎はこれはとうていやりきれないと思った――漱石はそんなふうに明治の末の大学図書館を描写していた。

ヨーロッパには美術工芸品のような麗しい図書館がある。ウンベルト・エーコが『薔薇の名前』を書くにあたって利用させてもらったオーストリアのメルク修道院の図書館はその一つだ。かつて私もこの図書館を見学したが、館内は写真撮影禁止だと言われた。ウンベルト・エーコはメルク図書館の厚意に謝意を込めて小説の主人公の一人に「メルクのアドソ」という名を与えた。

ウィーンのオーストリア国立図書館も美術館のような図書館だ。ポルトガルのコインブラ大学の図書館もメルクやウィーンの図書館に劣らぬ造りだった。コインブラ大学図書館が入っている建物には、不埒な学生を拘禁するための留置場が保存されていた。東京の東洋文庫モリソン書庫も美的な書棚だが、ひな壇を思わせるような小規模なものだ。

こうした秘蔵の宝石箱のような図書館とは違い、大英博物館に保存されている図書閲覧室には一種の「知識のコロセウム」の趣が感じられる。かつて大英博物館に併設されていた図書館は、新しい大英図書館の建物が完成すると、蔵書のほとんどと、名高い閲覧室が大英図書館に移された。大英博物館にあった閲覧室も使われなくなったが、博物館は閲覧室の歴史に敬意を表して、巨大な閲覧室を博物館の展示物として残した。



史跡「大英博物館図書閲覧室」入ると、かつてこの閲覧室で資料を読み、思索をかさねた人々の名前が表示されていることに気づく。順不同で何人かの名前を紹介すると、Karl MarxSun Yat-sen (英語圏では孫文よりこちらの方が通りがよい)、Mohandas Karamchand GandhiVirginia Woolf

孫文は1895年に武装決起した革命運動に失敗し、清国政府に追われる身となった。孫文は中国をはなれ、日本に向かった。日本経由でハワイに渡った。ハワイからサンフランシスコに向かい、アメリカを経て1896年にロンドンに逃れた。ロンドンでは運悪く清国の公使館に監禁されたが、友人・知人らの奔走で公使館から救出された。出来事の詳細については孫文『ロンドン被難記』(『世界ノンフィクション全集 17』筑摩書房)が詳しい。ロンドン滞在中は大英博物館に併設されていた閲覧室で本を読んだ。平凡社の世界大百科事典は孫文が「三民主義」の発想を得たのはロンドン滞在中だったと書いている。

マルクスは1848年のドイツ3月革命で挫折し、ヨーロッパのいくつかの都市を経て、1849年にイギリスに渡り以後その死までロンドンで亡命生活を送った。ロンドンで最初に住んだのがソーホーの安アパート。当時のソーホーは紅灯の巷で、安アパートには売春婦が多く住みついていた。マルクスはソーホーの安アパートから大英博物館の図書閲覧室に通い『資本論』のための資料の読み込みと構想を思案した。ちなみにマルクスがよく座った席は「E7」だったとある書物で読んだことがある。

カール・マルクスは裕福なユダヤ系の家庭に生まれ、浪費家でもあった。妻のイェニー・マルクスは有力な貴族の娘だった。マルクス夫妻がロンドンに亡命した時も、イェニーの実家から派遣された住み込みの家政婦ヘレーネ・デムートを伴っていた。そのヘレーネが1851年に男の子を出産した。このことがマルクスの隠し子スキャンダルとしてマルクスの政敵に利用されることを恐れたエンゲルスは思い切った手を打った。ヘレーネが生んだ子の父親はエンゲルス自身であると言ってマルクスをかばった。

この逸話はトリストラム・ハント『エンゲルス――マルクスに将軍と呼ばれた男』(筑摩書房、2016年)の262ページに載っている。

マルクスの隠し子の話は日本の新聞も伝えたことがあるが、マルクス主義は勢いを失い、マルクスも歴史上の過去の人物となっていたので、世間を賑わす話題にはならなかった。



マルクスが住んだソーホーのディーン街28番地の建物は今も残っている。1階がレストラン「Quo Vadis」。その上の2階の壁面にロンドンの旧跡案内「ブルー・プラーク」の青い装飾盤が埋め込まれている。「KARL MARX 1818-1883 Lived here 1851-56」と読める。



3 マグナ・カルタ

ロンドンに行ったのは6月である。その1ヵ月前、米国のハーバード大学ロー・スクールが所蔵するマグナ・カルタが、実は正真正銘のオリジナル・コピーであることがわかったというニュースが流れた。ハーバード・ロー・スクールは1946年に、ロンドンのオークションでこのコピーを購入した。オークションのカタログには1327年につくられた模写とあった。記録によると当時の購入価格は27ドル50セント。トランプ政権から目の敵にされているハーバード大学が、かりに、資金繰りに困ってこのマグナ・カルタを競売に出すようなことがあれば、落札価格はいかほどになるか? 初セリの大間のマグロのレベルではなことは必定だ。中世史が専門のロンドンのキングズ・カレッジ教授デービッド・カーペンター氏が、ハーバードのロー・スクールのデジタル画像を解析して、ハーバード所有のマグナ・カルタがエドワード1世の時代の1300年に作成された7部のマグナ・カルタのうちの一つであると結論した。

ロンドンには見るべきものが多くある。忘れないうちにと、ソーホーのカール・マルクス旧居を見た翌日、大英図書館に行った。



図書館の正面玄関を入ると、ホールの左側にトレジャー・ギャラリーがある。この部屋にマグナ・カルタをはじめとする稀覯本が展示されている。英国文化の宝蔵である。貴重な文献を保護するために、部屋の照度は落している。マグナ・カルタを見たが薄暗くて文字が読めない。暗くなかったとしても、その内容は理解できないだろう。なにしろラテン語で書かれた歴史史料なのだから。マグナ・カルタは対外戦役で力を失ったイングランドのジョン王から特権を削り、取り巻きの貴族たちが自らの権限を広げようとした誓約書のようなものだ。ラテン語で書かれたので、一般庶民とのかかわりは少なかった。ほぼ同じころに日本では北条幕府が御成敗式目を定めている。こちらは政治的勢力を増大させた武家社会のしきたり集だ。テキストは漢文である。当時の日本の一般大衆とはかかわりが少なかった。



面白いことに、マグナ・カルタはのちに時代背景が変わる中で、読み替えられて民主主義の基本文献になった。御成敗式目が日本の民主主義と関係があったという話はいまだ聞いたことがない。

シェークスピアの死後間もなくの1623年に出版された彼の戯曲集 First Folio も展示されていた。こちらは本にシェークスピアの肖像があるのでわかりやすい。400年前の本だ。クリスティーズの競売でこの戯曲集に15億円近い値がついたとのニュースを見たことがある。2020年のことだ。



大英図書館を出て、ブルームズベリーの住宅街にあるヴァージニア・ウルフの旧居(写真下左)を見に行ったところ、思いがけない驚きがあった。

 

旧跡案内の表示・Blue Plaque が表示されていて、Virginia Woolf 1882-1941 Novelist and Critic Lived here 1907-1911 とある。Blue Plaque はどこの誰が推進している活動なのか知らない。聞くところによると、夏目漱石が下宿していた家にもこの表示があった。

さて、ヴァージニア・ウルフのブルー・プラークの上に、さらに四角な表示板があった。黒地に白抜きの文字で、George Bernard Shaw lived in this house from 1887 to 1898 と書かれていた。

ブルームズベリーの住宅街の散歩を続ける。大学街の真ん中あたりで、通りがかりの人に「ジョン・メイナード・ケインズがかつて住んだアパートがどこにあるかご存じでしょうか?」と尋ねた。「この道をまっすぐ。道路に突き当たったら右に曲がり、すぐ次の角を左に曲がってください」と返事は澱みなかった。さすが大学街だ。

あった、あった。John Maynard Keynes 1883-1946 Economist lived here 1916-1946.(写真上右

ヴァージニア・ウルフやケインズのブルームズベリー・グループは先進的なイギリス知識階級のサロンのような集まりだった、私はそう理解している。バーナード・ショウはブルームズベリー・グループと交流があったが、ショウやシドニーとベアトリスのウェッブ夫妻らフェビアン協会の中核が語らってLSELondon School of Economics and Political Science)を創立し、社会民主主義のスタンスからイギリス労働党を支援した。ハロルド・ラスキは後年、LSEで政治学を講じた。ショウとラスキのファンである私はブルームズベリー・グループよりフェビアン協会に親近感を持つ。



4 返却願いたし

6月中旬のロンドン滞在中に暑苦しい日があった。そんな日の午後、大英博物館に行くと、エアコンの効きがわるいのか、もともと冷房のシステムがないのか、展示室の壁にある大扉が開け放たれていた。人気のセクションである古代エジプトの展示室だった。博物館や美術館は館内の気温や湿度を気にするが、大英博物館が展示している古代エジプトの遺物は石が多いので、気温・湿度は気にしないのかもしれない。大きくて重い石像や石板を盗み出そうとする人はいないだろうし……。

とはいうものの、2年ほど前に事だが、大英博物館から2000点近くの宝物が盗み出され、スコットランド・ヤードが捜査を始めたとBBCをはじめイギリスのメディが報じたことがる。



さらに大英博物館の有名展示物の中にも、他国から返還を要求されているものが少なくない。例えば、アテネのアクロポリスのパルテノン神殿などの古代建築を飾っていた彫刻作品「エルギン・マーブル」(パルテノン彫像ともよばれる)の有名な一部分の写真をここに添えておこう。ギリシアをオスマン・トルコが支配していた19世紀初頭、イギリスが大使としてオスマン朝に派遣したエルギン卿ことトマス・ブルースが、オスマン朝のスルタンから許可を得たとして、アテネのアクロオポリスから持ち帰ったものだ。当時からヨーロッパではこの行為を問題視する意見もあった。20世紀に入るとギリシア政府が正式に返還を要求している。

ロゼッタ・ストーンも21世紀になってエジプトから返還を求められるようになった。ロゼッタ・ストーンはエジプトに攻め込んだナポレオンのフランス軍が戦利品として獲得。そのナポレオン軍を降服させたイギリス軍とオスマン・トルコ軍がその戦利品を分け合い、イギリスがロゼッタ・ストーンを持ち帰った。

ネレイド廟も返還を求められたことがある。

1年ほどまえにトルコのアナトリア地方へ遺跡を見に行った。クサントスという遺跡に行ったさい、この遺跡から霊廟・ネレイド・モニュメントをイギリス人が運びだしロンドンの大英博物館が収蔵・展示品にしているという言説を知った。

クサントスはかつてエーゲ海文明圏にあり、アテナイを中心としたデロス同盟に加わったこともある。ネレイド廟はエーゲ海文明を反映した霊廟で、ハリカルナッソスのマウソロス王の霊廟の原型と推測されている。マウソロス王の霊廟はかつて世界の七不思議のひとつとされた。

また、クサントス遺跡にあった石棺・ハーピー・トゥームもイギリス人が持ち帰り、大英博物館に飾った。クサントス遺跡のハーピー・トゥームすべてをイギリス人考古学者が持ち去ったわけではないが、遺跡の中なかにハーピー・トゥームは「かどわかされて今大英博物館にある」という立て看板を見た。(詳しくはこの『彷徨』シリーズの「アナトリア 幻視」の第8回をご覧いただきたい)。看板のつくりから見て、官公庁の案内板とは思われず、民間の有志がつくったタテカンのように見えた。

宝があれば人は持ち去る。持ち去った方はあまり気に留めないが、持ち去られた方の恨みは消えない。敦煌文物研究所長だった常書鴻氏が若いころパリのギメ美術館でペリオが収集した文物をみて「わが祖国のかくもさん然とかがやく古代芸術の宝物が外人に奪われ、汚されているのを目のあたりにしながら、中国人として……胸のうずきに耐えきれなかった」(常書鴻『敦煌の芸術』同朋舎、1980年)と回顧している。



5 草原の巨石

ロンドン滞在中の一日をさいてストーンヘンジを見に行った。



ロンドンのエージェントが仕立てた遠足バス。昼前にロンドンを出発,バースに寄ってローマ帝国の遠征軍がつくったといわれている温泉施設を見物、そのあとストーンヘンジまでの途中の町でフィッシュ&チップスでランチをすませた。

語り上手な男性のガイドが案内してくれた。大英博物館の展示品には外国からかすめ取ってきたものが少くない。しかし展示物としては世界最高のものが多い。何よりもうれしいのは、入館無料だ。博物館には盗品倉庫的なところがあるというのがガイドの見解である。

夕方近くストーンヘンジに到着。夕方の風景を楽しんだ。季節が違えば日没のストーンヘンジがみられるのだが、6月の日没は午後9時ごろ。日没のストーンヘンジを見るには適当な季節ではない。ロンドンに帰り着くころには深夜零時をまわってしまう。



英国やヨーロッパには新石器時代の巨石モニュメント・環状列石が残っている。日本にも縄文時代の環状列石が残っている。

ストーンヘンジはそれらの中で規模が大きいことで有名だ。といってもエジプトのクフ王のピラミッドにはかなわない。大まかにいえば、両者は同じ時代の石の構造物である。ピラミッドは王の墓、ストーンヘンジは何のための構造物だったのか正確なことはわかっていない。同じ遠足バスに乗り合わせたアメリカ人の男性は列柱に囲まれた草原に座禅スタイルで座り込み瞑想した。

そういう施設だったのかもしれない。ストーンヘンジには大英博物館の展示品に位負けしない訴求力がある。ハイドパーク辺りに移設すれば大勢が手軽に見ることができる。

だが、やはり野に置け蓮華草的なところが魅力でもあるのだ。



6 トラファルガー

ロンドンの美術館ナショナル・ギャラリーはトラファルガー広場の北側にある。ここへは2日ほど通った。たくさんの絵を見た。あれもこれもと欲張ったので、美術館を出るころにはどんな絵を見たのか記憶が薄れていた。



記憶に残っていたのは、クロード・モネの睡蓮とゴッホのひまわりだけ。モネは睡蓮の絵をいったい何枚描いたのだろうか。世界中の美術館が睡蓮の絵を所蔵している。それでいて美術館の睡蓮の絵には人が集まってくる。その吸引力の源は印象派なのか、モネという名前なのか、睡蓮そのものなのか。

        

ナショナル・ギャラリーにはゴッホのひまわりの絵もある。ゴッホが描いたひまわりの絵のうち最高のできと評価する人は少なくない。ギャラリー自慢のコレクションの一つである。ゴッホのひまわりの前で足を止める人はそれほど多くなかった。

ナショナル・ギャラリーの入り口に立つと、広場に立つネルソン記念柱が嫌でも目に入る。トラファルガー広場は、1805年のイベリア半島のトラファルガー岬の海戦で、イギリス艦隊がスペインとフランスの連合艦隊と戦い、勝利した記念の広場である。イギリス人はこの時の戦いで戦死したホレーショー・ネルソン提督をたたえるために石柱を立て、そのてっぺんにネルソンの像をのせた。



長谷川如是閑『倫敦!倫敦?』は「ネルソン塔の柱台に『英国は各人にその任務を為さん事を望む』という提督の最後の信号が彫りつけてある」と書いている。

“England expects that every man will do his duty.” 旗信号は英語ではこう伝えていた。

トラファルガーの海戦は1805年のこと。100年後の日本海でロシア艦隊と戦った東郷平八郎大将は「皇国の興廃は此一戦に在あり 各員一層奮励努力せよ」と信号を送った。

かくしてホレーショー・ネルソンはトラファルガー広場の石柱の上に、東郷平八郎は東京・渋谷の東郷神社に祀られることになった。

如是閑が『倫敦!倫敦?』の「ネルソンの有難迷惑」という項で、ネルソン記念柱について以下のような意味深長な軽口を書いている。

「英吉利の水夫がこの下を通って、『大将をマストのてっぺんに立たせるという法はねえ』と言ったそうだ」。落語のオチのような趣があり、にやりとさせられる。

この手の国家への献身要求は1961年のジョン・ケネディ米大統領の就任演説にもあらわれた。

“And so, my fellow Americans: ask not what your country can do for you---ask what you can do for your country.”

如是閑はまたウェリントン提督について面白いエピソードを『倫敦!倫敦?』で紹介している。提督とのちにワーテルローの戦いでナポレオン軍を破ることになるウェリントン将軍が植民省の応接室で出会ったことがある。知った人でもないので、挨拶もしなかった。両者が顔を合わせたのはこの時が最初にして最後。「日本では想像もつきかねる話だが、イギリスでは用がなければ顔を知らないで済むという平凡な理屈が、大人物小人物を通じて行われているのが面白い」と如是閑は書くのであった。

調べてみると、2人が出会ったのは1805年のこと。ウェリントン将軍はインド勤務からロンドンに戻ったところだった。ネルソン提督はその後まもなく、トラファルガーへ向かった。ウェリントン将軍は182830に首相を務めた。そののち、ネルソン提督と出会ったことを知り合いに語った。ネルソン提督は自分のことを一方的に語るだけであった。それを会話とよぶのであれば、会話はあった。ウェリントン将軍はそう述懐した。



7 クレオパトラの針

長谷川如是閑は1910年に見たロンドン・テームズ河の築堤・ヴィクトリア・エンバンクメントをほめている。河岸の胸壁の美しいカーヴ、しゃれた街灯、緑の並樹、公園の緑樹の向こうにあるセシル、サヴォイなどいうホテルの倫敦色に鼠がかった大建築が聳えて「下手にはウォータールー橋の細かいアーチが、テームズの流れを梳っている。倫敦の景色はテームズ河を措いて、これを語ることは出来ず、テームズ河の景色は、ヴィクトリア・エンバンクメントを措いて、これを語ることは出来ない」といういれこみようだ。

ピカディリーをぶらつくには夜に限る、ヴィクトリア・エンバンクメントは霧の朝に限る、と如是閑は書いた。私は夕方6時過ぎに川岸に行った。地下鉄のエンバンクメント駅を出てすぐの公園に入って、遊歩道をぶらぶら歩いた。ベンチに腰をおろし、ふと見ると緑の木々の切れ目からオベリスクが見えるではないか。



紀元前1500年ごろのトトメス3世の時代のエジプトでつくられ、現在のカイロに隣接するヘリオポリスにたてられた一対のオベリスクであるCleopatra’s Needles の一つである。プトレマイオス王朝と戦ったローマ軍が2本のオベリスクをヘリオポリスからアレキサンドリアに移設して、カエサルを祀る建物の一部とした。

1869年にスエズ運河が開通したお祝いにアレキサンドリアのパシャ(太守)が英国と米国にアレキサンドリアの一対のオベリスク各一本を贈りたいと言った。イギリスに贈られた1本はエンバンクメントに1878年にたてられた。他の一本はニューヨーク市のセントラルパークに1881年にたてられた。

長谷川如是閑は「これを倫敦人は『クレオパトラの針(ニードル)』と呼んでいる。クレオパトラの都アレキサンドリアから出たからであろうが、70フィートもある無風流な柱を美人の針と名づけたのは、針小棒大の逆さで棒大針小のところが面白い」と冷やかしている。

ところで、気になって調べてみると、「クレオパトラの針」はニューヨークでもCleopatra’s Needle と呼ばれている。帰宅後、OEDをのぞいてみると、needleにはobeliskの意味もあり、著名人の名と組み合わされて使われる。Cleopatra’s Needleという言葉は17世紀中ごろの使用例が初出である、とのこと。この言葉はクレオパトラの2本のオベリスクがロンドンとニューヨークに移設される200年前から存在していた。ただし、クレオパトラとオベリスク・クレオパトラの針のかかわりはないという。

 

写真(左)はクレオパトラの針がたてられたのちのエンバンクメントの風景を伝える1890年代の絵葉書。写真右がクレオパトラの針がたてられる以前の、1820年にジョン・コンスタブルが描いたエンバンクメントの風景画の一部を、ウォータールー橋を強調するために拡大したもの。ウォータールー橋はイギリス一の美橋で、有名な身投げの名所でもあった、と如是閑が書いている。ヴィクトリア・エンバンクメントはホームレスが野宿するところでもあった。1930年代にホームレスにまじってエンバンクメントで夜を明かしたジョージ・オーウェルが『パリ・ロンドン放浪記』にその時の見聞を書いている。寒いので新聞紙にくるまって一夜を過ごすのだが、あまり役に立たない。寒い。如是閑は「エンバンクメントに立って、この橋(ウォータールー)のアーチを眺めると。そぞろに悲しくなって、その上からちょっと身を投げてみる気にならぬとも限らぬ」と感想を述べている。

トマス・フッドという作家が、ウォータールー橋から身投げした若い女性をいたむ詩を書いて、19世紀中ごろのロンドンの話題になった。詩のタイトルは The Bridge of Sighs。この詩が出版されたときは、オフェリアの絵で名をはせたラファエル前派のジョン・ミレイがエッチングを添えた。ビクトリア・アンド・アルバート博物館のサイトでご覧あれ。
https://collections.vam.ac.uk/item/O140176/the-bridge-of-sighs-print-millais-john-everett/

直訳すれば「ためいき橋」だが、如是閑が『倫敦!倫敦?』に書いたように「思案橋」でもOKだ。ただし、行こうかやめようか、旧吉原の思案橋という俗言を振りはらうことができればの話であるが。

ウォータールー橋は古くなったため1940年代に新しい橋にかけ替えられた。



8 ハイド・パークあたり

ハイド・パークを見に行った。ニューヨークのセントラル・パークと並ぶ広大な都市公園である。とはいうものの、見たかったものはハイド・パークの緑陰にある「スピーカーズ・コーナー」だけである。



スピーカーズ・コーナーは地図を見るとハイド・パークの北東側の入り口のすぐ近くにある。最寄りの地下鉄駅はマーブル・アーチ。ここで地下鉄を降り、地上に出ると、すぐ目の前にマーブル・アーチがあった。バッキンガム宮殿の門としてつくられたが、間もなく御用済みとなり、オックスフォード街とハイド・パークが接するあたりに移築された。19世紀なかごろの大理石の建物である。

移築後にこのあたりの都市整備が進み、マーブル・アーチは「パークの門でもな、往来のアーチでもなし。巴里の凱旋門のごとくに五光のようなアヴェニューの中心になっているでもなし……日本の辻便所のように引っ込んで立っている」と長谷川如是閑が『倫敦!倫敦?』で100年余り前のマーブル・アーチの印象を書き残している。

私がハイド・パークへ行った日、オックスフォード街と公園の間の空間に、如是閑に言わせると「ポカンと立つ」マーブル・アーチの前で、演説している人がいた。キリスト教がどうとかなんとか、現代思潮について演説をしていた。その人を横目に、ハイド・パークに入り、少し歩くとスピーカーズ・コーナーにたどりついた。



こちらでは、カウボーイ・ハットにハリウッド映画の牛飼い服を着た男の人が、少人数の聴衆に囲まれて熱弁をふるっている。自由な言論と日曜演説家の舞台の確保という意味で、スピーカーズ・コーナーと似たようなものを世界のいくつかの政府が公園に設置し、言論の自由に敬意をはらっている。シンガポールは建国以来、巧みな人心管理術を用いて人民行動党が事実上の一党支配を続けている都市国家だ。今から4半世紀ほど前のことだろうか、そのシンガポール政府がイギリスに倣って公園にスピーカーズ・コーナーを設置した。興味津々、現地へ見学に行ったが、その日スピーカーズ・コーナーに人の気配はなかった。スピーカーズ・コーナーで演説するためには、警察の許可を得る必要があった。当時、シンガポール国外で知り合ったシンガポールの新聞記者は、「政府がこれだけ国民のために働いているのに国民の一部は政府に反感を持つ。そんなに不満ならシンガポールから出ていけ」というのが政府の態度であると言った。

さて、ロンドンのハイド・パークであるが、如是閑によると1910年ごろ公園は野宿するホームレスが死体のように群れて横たわるところであったそうだ。1933年に出版されたオーウェルの『パリ・ロンドン放浪記』によると、当時、ロンドンには15千人のホームレスがいたそうである。オーウェルは、ロンドンの法律では屋外で座って一夜を過ごすことは出来るが、眠ると警官に追いたてられる、と書いている。ホームレスが路上で寝て死ぬのを防ぐためだというが、家がないため死ぬのであれば起きていようが寝ていようが同じではないか、とオーウェルは不満である。パリではセーヌの橋の下、広場のベンチ、メトロの駅で人が死んでいるが、これという弊害もない、オーウェルは憤る。

2024年のパリ。夏のオリンピックが始まる前に、パリのホームレスがオリンピック期間中はパリから出ていくように当局から求められた。路上生活者のパリ追放だった。欧米のメディアがこぞって伝えた。

2024年の夏、ハイド・パークの南東側の門の近くの高級ホテルに近いパーク・レーン通りに路上生活が集まりテント生活を始めた。1泊数十万円の高級ホテルと路上生活者の野宿姿は現代の風景の鮮やかな対比となった。当局は裁判所の許可を得て路上生活者のテントなどを撤去した。2025年にはパーク・レーンを追われた路上生活者が、ロンドンの目抜き通りのひとつオックスフォード街で野宿を始めた。BBCのサイト
https://www.bbc.com/news/articles/cx27d2lwrdpo
を参照。



9 ビッグ・ベン

ビッグ・ベンは英国国会議事堂(ウェストミンスター宮殿)にある巨大な時計の愛称である。時を知らせる機械の名である。時計をのせた高い塔は「時計塔」(Clock Tower)とそっけないよびかたをされてきた。2012年にエリザベス女王の在位60年を祝って「エリザベス・タワー」と改名すると議会が決めた。長谷川如是閑は『倫敦!倫敦?』で「微妙なるビッグ・ベン」とその音色を讃えた。日本では学校のチャイムに使われた。イギリス時間で2020131日午後11時、中央ヨーロッパ時間で202021日午前0時)、イギリスがEUを離脱したとき、この鐘が鳴った。この時のエリザベス・タワーの鐘の音はBBCで聴くことができる。https://www.youtube.com/watch?v=NvDJ3f1VUPU&t=30s



英国の議院内閣制による統治制度はウェストミンスター方式と呼ばれ、日本でもこのシステムが採用されている。イギリスでは陣笠議員(backbencher)は演壇から遠い後ろの席に座る。日本では陣笠は前方に座り、各政党の大物議員が演壇から遠い本会議場の一段高い後方の席に座る。洋の東西で文化習俗によって細かな違いがある。

英国国会議事堂とその時計塔を見に行った。地下鉄のウェストミンスター駅で降りで地上にでると、そこは一面、観光客であふれていた。今年3月、この時計塔に男がよじ登り、パレスチナ自治区の旗を振った。ロンドン中が息をのんだことだろう。フランスは9月の国連総会でパレスチナを国家として承認すると表明し、イギリスのスターマー首相もイスラエルがガザの人道問題に取り組まない場合はパレスチナの国家承認へ動くと表明した。



10 ビーフィーター

「余が感服してこの甲冑を眺めているとコトリコトリと足音がして余の傍へ歩いて来るものがある。振り向いて見るとビーフ・イーターである。ビーフ・イーターと云うと始終牛でも食っている人のように思われるがそんなものではない。彼は倫敦塔の番人である。絹帽を潰したような帽子を被って美術学校の生徒のような服を纏うている。太い袖の先を括って腰のところを帯でしめている」。夏目漱石がロンドンの古城ロンドン塔を訪れた時のことを『倫敦塔』に書いている。漱石のいう「ビーフ・イーター」はbeefeaterのことである。有名なロンドンのジン「Beefeater」がカタカナで「ビーフィーター」と表記されるようになった現代では、ビーフィーターの方が主流の表記になっている。

ビーフィーターは15世紀後半に始まった国王の護衛隊・Yeomen of the Guard のことであり、また、ロンドン塔の番人のことでもある、とたいていの辞書は説明する。ブリタニカ百科事典は、Yeomen of the Guard は、ロンドン塔の衛兵・ yeomen warders of the Tower of LondonBeefeaters)と混同されることが多い、と説明している。日本でいえば応仁の乱のころ始まった制度なので、いろいろな説があるのだろう。辞書によるとbeefeaterは英国人全体をさす言葉でもあるという。地下鉄の駅からロンドン塔に通じる歩道のわきにビーフィーターの野外肖像写真が置かれていた。


ロンドン塔はケルト人が築いた砦で、それを遠征してきたローマ帝国軍が奪い、のちにイングランド国王の居城になった。やがて、王族・貴族らが反逆などの疑いで捕らえられ処刑された陰惨な場所になった。そのせいもあって倫敦塔を語る漱石の筆致はおどろおどろしいものになっている。石造りの頑丈そうに見える砦である。城壁にかこまれた城内に監禁された最後の人物は20世紀のナチスのルドルフ・ヘス。現在は城内には監禁されている人はいない。宝物殿があって、王室所有のダイアモンドなどが厳重に保管されているだけである。



ところで、ロンドンはビフテキの本場であると聞いた長谷川如是閑は、金融街のロンバード街とコーンヒル街をつなぐ横道にあったビフテキ屋に通ったと『倫敦!倫敦?』に書いている。一間四方ほどの狭い店で、店の常連は金融街の背広を着てシルクハットをかぶった人たちだ。ビフテキにポテトとジャガイモが添えられている。客はそれを黙々と食う。ビフテキ屋の看板には「チョップ・エンド・ステッキ」とあったと如是閑は書いている。チョップは肉片のことだが、「ステッキ」がわからない。



ロンドン塔の外周歩道を反時計回りに歩くとやがてテームズ川の護岸に出る。大勢の人が川を眺めている。川をまたいで架かっているタワーブリッジがかかる。ロンドン塔という古い城塞と古風なデザインのタワーブリッジを組み合わせた英国の技術者の手際を如是閑は称賛するのである。



11 ロンドン・ストーン

ロンドンは世界で最初に地下鉄を走らせた都市である。1863年に蒸気機関車にけん引される列車が地下を走った。長谷川如是閑がロンドンで地下鉄を見たのは1910年のこと。そのころの日本にはまだ地下鉄がなかった。日本初の地下鉄が東京にできたのは1927年である。

如是閑は『倫敦!倫敦?』でロンドン地下鉄の概略を語る。地下鉄のつくり方には2つの方法があり、地面に大きな溝を掘り、そこに地下鉄のトンネルを埋め込み、そののち溝を埋め戻す方法と、地下深くトンネルを掘り進め掘りぬいた空洞に大鉄管を埋め込んでその中に線路を敷いて電車を走らせる方法があると、如是閑は説明する。巨大な管(tube)のなかを電車が走る。だから、ロンドンでは地下鉄のことを「チューブ」と呼ぶのだと、まだ地下鉄を見たことのない明治末の日本の新聞読者に語りかける。

日本の百科事典である平凡社の『世界大百科事典』によると、地下に大鉄管を埋めたチューブがテームズ川の底を掘りぬいて開通したのが1890年のことだったそうだ。ロンドンでThe Tube と呼ばれる地下鉄は、アメリカではsubwaysubway はロンドンでは地下通路のことだ。話が表題の「ロンドン・ストーン」から脱線したついでに申し上げれば、地下鉄などのプラットフォームで聞く「足元に注意」のアナウンスはロンドンでは「Mind the gap」で米国では「Watch your step」だ。

今回のロンドン滞在でもチューブにはお世話になった。地下鉄車内では乗客を見たり、次の駅名を表示する電光掲示板を見たリするしか時間のつぶしようがない。車内の電光掲示板を見ていると、Mind the gap と文字が流れ、続いて between the train and the platform。おー、そうだったのか。「Mind the gap between the train and the platform」。古いトンネルを改修しながら新しい車両を走らせているロントンの地下鉄は、車両とプラットフォームの高低差や車両とプラットフォームの間隙に用心しなければならない。



話の枕はこのくらいにして、ロンドン・ストーンのことを書こう。長谷川如是閑が鉄道のキャノン駅の道路を挟んですぐ向かいの寺院の石の塀にロンドン・ストーンという有名な石が飾られている、と『倫敦!倫敦?』に書いていた。石臼を伏せたような、何かまじないにでも使えそうな石だった、と如是閑が感銘を受けた形跡はうかがえない。だが、如是閑が宿に帰ってその石の話をすると、宿の人が「それ有名な倫敦石だ。全世界に二つとない羅馬時代の遺物で倫敦市中で最も大切な保存物だ。マーブル・アーチやネルソンの塔などはブッ壊れても惜しくはないが、この石がどうかなっては大変だ。知らずに見たのは遺憾だ。もう一遍見直して来い」と言う。


如是閑がロンドン・ストーンを見てから1世紀あまりのちの2025年6月ロンドン・ストーンを見物に行った。

鉄道のキャノン駅の地下にある地下鉄キャノン駅で降りて、キャノン通りを横断し、辺りを探し回ったが、ロンドン・ストーンのありかがわからない。

このあたりで仕事をしている感じの2人の紳士にロンドン・ストーンについて尋ねたが、心当たりがないという。

もう一度辺りをうろつき、鉄道のキャノン駅の真正面のビルの壁にロンドン・ストーンが埋め込まれているのを見つけた。上機嫌で写真を撮っていると、通りがかった人が立ち止まり、ロンドン・ストーンをのぞき込み、その近く張ってあるプレートの説明文を読み、しかし感心した様子も見せず立ち去って行った。




12 バーメイド

エドゥアール・マネ晩年の傑作『フォリー・ベルジェールのバー』を見ようとテームズ川沿いのサマセット・ハウスにあるコートールド・ギャラリーへ行った。絵のセッティングについては、やはりモーパッサンの筆が的をえている。モーパッサンの長編小説『ベラミ』(中村佳子訳、角川文庫)からパリのフォリー・ベルジェールの描写を引用してみよう。



「劇場をぐるりと一周できるエントランスの大回廊には、着飾った娼婦たちが、男たちの黒い集団にまじって徘徊している。娼婦の一群が、三つあるスタンドバーのうちのひとつの前で、客がやってくるのを待っている。それぞれのスタンドバーには、厚化粧のくたびれた売り子が陣取り、飲料水と春を売っている」

「後ろの背の高い鏡に彼女らの背中と通行人の顔が映っている」

マネの『フォリー・ベルジェールのバー』は1882年に発表、モーパッサンの『ベラミ』は1885年に出版された。

マネの『フォリー・ベルジェールのバー』は56年ほど前、東京都美術館でコートールド・ギャラリーの名品展が開かれたさい見た。

バーメイドの背後に大きな鏡があり、ショーを楽しむ群衆の姿を映し出している。バーメイドは侍が甲冑を身に着けるようにきっちりと見事な衣装をまとっている。バーメイドの前には飲み物のボトルや果物が、これまた一点の隙もない手練の筆さばきで描かれている。

アングルの『グランド・オダリスク』は冷たい様式美の極致である。目を凝らすと、絵のオダリスクは無表情である。エドワード・サイードのいう西洋のオリエンタリズムを凍結させた冷たい絵である。いっぽう、マネの『フォリー・ベルジェールのバー』は、ベルエポックのパリに満ち溢れるエーテル(精気)を熱く描いたように見える。だが、画面中央に大きく描かれたバーメイドの表情はうつろだ。アンニュイ。快楽(けらく)の底からにおってくるデカダンス。人に先駆けて時代を批評する絵を描いたマネの面目躍如といったところである。そういうある意味で冷え冷えとしたフォリー・ベルジェールのバーメイドの物語になるほどねえ、と思ったものだ。

ビクトリア・アンド・アルバート博物館に日本の秋葉原名物カフェのメイドの人形が展示されていた。マネのバーメイドと秋葉原のカフェメイド。「かわいい」がキーワードのアキバのメイドはノッペラボーで、マネのバーメイドは暗い放心の表情。百数十年を隔てた2つのイドラ(虚像)が語りかける―ー「人間とは何か}。

ところで、コートールド・ギャラリーが入っているサマセット・ハウスは大きな建物で、以前は政府関係のオフィスが入っていた。現在では、ロンドン大学のキングズ・カレッジや、コートールド美術研究所と研究所が管理するコートールド・ギャラリーがあって、文化活動の拠点になっている。

サマセット・ハウスへ出かけた614日は英国国王チャールズ3世の公式誕生日ということで、ロンドンの空にはジェット戦闘機が飛来し、地には赤い制服のお人形のような兵士がパレードするにぎにぎしさだった。国王の実際の誕生日は11月なのだが、2025年は6月第2土曜日に誕生祝賀式典が行われた。なぜ繰り上げ式典をするのか。詳しく知ろうとも思わない。古めかしいイギリスの伝統の一つなのだろう。






13 オフィーリア

山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹さおさせば流される。意地を通とおせば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい――こんな調子で始まる夏目漱石『草枕』(1906年)。その導入部、峠の茶屋の場面の一節から引用しよう。
          *
 「あい、その桜の下で嬢様の馬がとまったとき、桜の花がほろほろと落ちて、せっかくの島田に斑が出来ました」
 余はまた写生帖をあける。この景色は画にもなる、詩にもなる。心のうちに花嫁の姿を浮べて、当時の様を想像して見てしたり顔に、
   花の頃を越えてかしこし馬に嫁
と書きつける。不思議な事には衣装も髪も馬も桜もはっきりと目に映じたが、花嫁の顔だけは、どうしても思いつけなかった。しばらくあの顔か、この顔か、と思案しているうちに、ミレーのかいた、オフェリヤの面影おもかげが忽然と出て来て、高島田の下へすぽりとはまった。これは駄目だと、せっかくの図面を早速さっそく取り崩くずす。衣装も髪も馬も桜も一瞬間に心の道具立から奇麗きれいに立ち退のいたが、オフェリヤの合掌して水の上を流れて行く姿だけは、朦朧と胸の底に残って、棕梠箒で煙を払うように、さっぱりしなかった。
          *



ジョン・エヴァレット・ミレイが1850年代に描いた『オフィーリア』を漱石は50年後の1900年ごろ見たのであろう。このラファエル前派(Pre-Raphaelite Brotherhood)の有名な作品は、ロンドンのテート・ブリテン美術館で展示されている。作品の詳しい解説はテート美術館のサイトを参照。
https://www.tate.org.uk/art/artworks/millais-ophelia-n01506/story-ophelia?CMP=EMCARTEML6852

この絵は有名になりすぎて、パロディのネタにされたりする。(https://withnews.jp/article/f0160227001qq000000000000000W00o0601qq000013059A

明治人の漱石は小説『草枕』の通奏低音として品よくこの絵を使った。『草枕』をお読みになった方はご存じだろうが、この小説はストーリーに工夫がすくなく、東京の喧騒から逃れてきた画家のひなびた温泉逗留記のような趣がある。そこに描かれた人物の中で、唯一動きのある人物が温泉宿の娘である。『草枕』のヒロインには二人の男がいた。一人は京都の人、一人は地元のお金持ち。親の希望を入れて娘は地元の金持ちと一緒になるのだが、夫の家が経済的に立ち行かなくなったのを機に、離婚して実家の温泉宿に帰ってくる。地元には「長良の乙女」という伝承があって、二人の男が求愛された女が、どちらにしようかと迷った挙句、
   あきづけばをばなが上に置く露の、けぬべくもわは、おもほゆるかも
という歌を詠んで、川に身を投げて死んだ、という。その伝承を地元の人たちはヒロインの上に投影する。

もっとも、『草枕』の主人公は、私なら二人一緒に男妾にしてしまう、というほどの尖がった気性の女性だった。あるときヒロインが「先生、わたくしの画をかいて下さいな」と注文する。画家は「わたしもかきたいのだが。どうも、あなたの顔はそれだけじゃ画にならない」という。画家はヒロインの顔には少し足りないところがある、それが出ないところを描くのは惜しいという。

小説『草枕』の終局は、鉄道の駅である。ヒロインの従兄弟が満州に出征するとになり親族が見送りに行った。画家も同行。偶然にも見送る汽車にヒロインの元夫が乗っていた。人生を挽回するために、ヒロインから金を借りて満州に渡ろうとする元夫とヒロインが見つめあう。

ヒロインはぼうぜんと汽車を見送る。その顔には「憐れ」が一面に浮いている。「それだ! それだ! それが出れば画になりますよ」と画家がヒロインに言った。

はるばるロンドンのテート・ブリテン美術館までやってきて、ミレイの『オフィーリア』の前で、漱石の『草枕』を思い出すのは、ばかげたことだった。漱石は『草枕』に非人情世界へのあこがれをこめた。書き進めているうちに非人情だけでは小説にならないと知り、人情の極致である「憐れ」を持ち出さざるをえなかった。憐れとは、相手に対する愛情・愛惜の気持ち、悲しみやしみじみした情感のことである、と『岩波古語辞典』にある。



14 キュー・ガーデン

1910年のロンドンを闊達・自在に歩き回った長谷川如是閑だが、『倫敦!倫敦?』には美術の話があまり出てこない。西洋美術の神髄とおもわれる裸体は「テート・ガレリーへ行って見ても振るわざることは甚だしい」と書くのみであった。如是閑より10年前にロンドンに滞在し、陰気に宿に閉じこもっていた夏目漱石の方が、かえって、イギリスの絵画をのちの作品に利用している。

漱石は『坊ちゃん』(1906年)でターナーの絵を利用した。作中で、教頭の赤シャツが「あの松を見たまえ、幹が真直まっすぐで、上が傘かさのように開いてターナーの画にありそうだね」という。取り巻きの一人の野だいこが「全くターナーですね。どうもあの曲り具合ったらありませんね。ターナーそっくりですよ」と追従をいう。「どうです教頭、これからあの島をターナー島と名づけようじゃありませんか」とゴマをする。

「たれかターナー描く『金枝』という絵を知らぬ者があろう」とフレーザー『金枝篇』冒頭で引用された絵である。
https://www.tate.org.uk/art/artworks/turner-the-golden-bough-n00371

テート・ブリテン美術館ではジョーゼフ・マロード・ターナーの絵をたくさん見た。自画像を見た。また、20ポンド紙幣にターナーの肖像が使われていることを知った。ターナーは英国の誇る国民的画家である。

 

漱石『坊ちゃん』のモデルになったとされる松山の四十島はいまでは観光名所。小さな岩島に松の木が生えていたが、松くい虫のせいで枯れた。そこで松山の人たちは岩島に松を植樹して「ターナー島」を守ったという。柴又駅前のフーテンの寅さんのような、頼朝公八歳のころのしゃれこうべのようなお話である。おそらく、ターナーのファンのイギリス人は「ターナー島だと!よしてくれないか」と失笑するだろう。



ロンドン滞在の締めくくりにキュー・ガーデン(Royal Botanic Gardens)へ行った。カフェでアフタヌーン・ティーでもと思っていたのだが、すでに予約でいっぱい。初夏6月の庭園の空気をいっぱい吸って宿に帰ったら、その夜、鼻がグシュグシュ、喉がヒリヒリした。ロンドンの花粉症だったのかもしれない。

 ( 写真と文: 花崎泰雄)