1  キムポへ

自宅から羽田空港へ向かう電車の中。2020219日。向かいの7人掛けのベンチシートに7人の男女が座っていた。うち、スマートフォンをのぞき込んでいた人6人。マスクをしていた人6人。

夜の羽田―キムポ便だった。チェックインの列があまりに短かったので尋ねてみた。

「すいてますか」
「はい、余裕がございます。3月からはソウル便はしばらくの間、減便となります」

219日夜の羽田空港は、チェックインもセキュリティー・チェックもすいすいと流れた。搭乗までに時間があったのでラウンジでコーヒーを飲んだのだが、滑走路が見える窓際の席ががら空きだった。



「乗務員はマスクを着用させていただきます」と機内アナウンスがあった。そうそう、武漢から緊急帰国の日本人を運んだチャーター便の場合、第1便では客室乗務員はマスクを着用したが、あとの便では防護服も着たと新聞で報じられていた。やがて定期便の客室乗務員も防護服で勤務するようになるのだろうか。まさか。

       ◇

閑話休題――3月になると、マスク不足が始まり、トイレットペーパー・パニックがうわさされた。石油危機のときもトイレットペーパー騒ぎが起きた。オーストラリアでも先の森林火災に続いてコロナウイルスでマスクの需給がひっ迫しているそうだ。また、シドニーなどではトイレットペーパー騒ぎが起きていて、スーパーでトイレットペーパー奪い合いの喧嘩沙汰まで起きたという報道があった。たいていの家庭には洗浄機付き便器があり、温風乾燥機付きのもの多い日本でトイレットペーパー・パニックが起きるのだから、洗浄式便器のないオーストラリアではなおさらだろう。

いくつかの国が日本・韓国・中国からの渡航者の入国を拒否するようになった。中国からの訪日客が激減し、日本企業のサプライチェーンが機能しにくくなった。日中、日韓の間の航空便が減便になった。米国の航空会社は日本行きの便を減便した。たくさんの日本の旅行会社が中国・インド・タイ・バリなどのへの海外団体旅行を取りやめた。

団地のショッピング・センターには人がすくなく、ショッピング・センターの上階にあるスポーツクラブはしばらくの間休業に入った。地下鉄に乗るのもおっくうだから、家にこもってインターネットで国会サイトの審議中継を見ている。話題は中心部分が黒点ならぬ黒川、円環部分が桜色のコロナである。同じことを楽しみにしている人が多いのか、アクセスが込み合って中継が途切れることが多い。

         ◇
話はもどって、こんな時期になぜソウルへ行ったかというと、アカデミー賞の『パラサイト』を見たせいである。急にソウルの街が見たくなった。そこで見たものは、マスク嫌いな韓国の人がマスクをしている姿だった。



2 南大門の衛兵

日本の統治時代に造られた古い駅舎のファサードを残しながら、現代的な駅に変貌したソウル駅まで20分ほど――金浦空港から空港列車に乗った。列車を降りてタクシー乗り場で待つこと、なんと30分。空車待の客の列は長く、やってくるタクシーは少なかった。ソウル駅と光化門の間を走るソウルの大通り世宗路の、ソウル市庁舎と南大門の中間あたりにあるホテルに夜11時ごろ着いた。

翌朝、南大門、正式には「崇礼門」まで散歩した。



古風な衣装をまとったすらっと背の高い人が3人、門の前に立っていた。観光客お出迎えの儀礼用衛兵さんだと遠目にもわかった。だが、その口元で何やら白っぽいものがちらついていた。

近くによってマスクだとわかった。
韓国時代劇でおなじみの李朝時代の衣装に白いマスクはあわない。

とはいうものの、中国・武漢から広がった新型コロナウイルス感染症(COVID-19)で韓国中が神経質になっている真っ只中だ。マスクは着用せざるを得ないだろう。そのうえ衛兵さんは、観光客の姿もまばらな、寒々しい冬のソウルの吹きさらしの南大門外に立ちっぱなしのだから、寒気が身にこたえることだろうね。

南大門の衛兵とその観光ショーは韓国を訪れる外国人が増え始めた2000年代の中ごろから始められた。2008年に南大門が放火で焼け落ち、後復元された2013年から再開されている。

韓国にやってくる観光客は2012年までは日本人が最多だったが、2013年には日本人を抜いて中国人がトップに躍り出た。中国のGDP2010年に日本を追い抜き、さらに中国人観光客もビザ緩和措置によって今年から急増している。このころから繁華街・明洞の看板が日本語から中国語に変わっていった。

1回で韓国映画『パラサイト』(パラサイトは外国用のタイトルで韓国版のタイトルは『キセンチュン=寄生虫』)を見てソウルに来たと書いた。韓国の旅行案内サイトに『パラサイト』のロケ地のいくつか――ごたごたした商店、路地裏の階段、高級住宅地へのぼる坂道、トンネルなどの地図付き案内があったので、パラサイト・ロケ地巡りも悪くないなと考えたのである。

しかし、南大門のマスクの衛兵をみて気が変わった。ロケ地はソウル市内のあちこちに散らばっていて、移動に時間がかかる。それに、映画で見た程度のソウル風景ならどこにでもありそうな気がしてきた。それよりも、日本人に比べれば、過去、マスク嫌いだった韓国人がマスクを愛用している姿の入ったソウル風景の方がトレンディーであろうと思えてきた。

そこで、南大門のすぐそばのソウル最大の市場『南大門』で、マスクの人々を入れた風景写真撮影の練習に励んだ。



3 国民の行動心得

南大門市場を彷徨する前に、市場よりちょっと上品な国立中央博物館を表敬訪問することにした。韓国の国立博物館はだいぶ前から、常設展は入館無料になっている。独立行政法人になった東京国立博物館は入館料をこの4月から値上げする予定だと新聞で読んだ。それはさておき、ソウルの中央博物館へ向かう地下鉄のプラットフォームに設置された広報ディスプレーでこんな案内を見た。



  国民の行動心得
 選別診療所(医療機関)訪問の時
  医療陣に
 海外旅行歴を告げること

新型コロナウイルス感染者が急増しているらしい。「選別診療所」とは、医療機関の中に一般の患者離れた所に別に設けられたコロナ専用の診療窓口である。ここで、検査を受け、ウイルス感染の有無を確かめる。

     ◇

日本に帰ってから新聞で読んだのだが、韓国内の感染者数が大邱のメガ・クラスターが原因で急膨張するに及んで、選別診療所がドライブスルーの検査場を設け、車に乗ったまま検体を採取する仕組みをつくった。このころまでには、韓国はコロナ簡易検査キットを急ぎ開発、政府が大至急でキットを承認して、11万件以上の検査能力を持つに至った。同じころPCR装置だけが頼りの日本の検査能力は1日あたり4000件弱、実際の検査件数は1000にも満たなかった。なぜなんだ、と国会で問題になった。

検査の件数が増えれば感染者の確認数もそれに比例する。韓国はせっせとコロナウイルス感染テストを行い、判明する感染者数をふやし、日本から事実上の入国拒否の扱いを受けることになった。対抗措置として韓国は日本に対してビザ免除の優遇措置を停止した。日韓両国は四六時中いがみ合いのネタを探し合っているようにみえると、日韓以外の国の人は失笑していることだろう。

数字ほど意図的なものはない。日本の外務省のサイトにある世界のコロナウイルス感染数(310日現在)をみると、@中国約8万人Aイタリア約9千人B韓国約7.5千人Cイラン訳7.1千人Dフランス1412人Eドイツ1139人Fスペイン999人Gアメリカ合衆国585人H日本515人の順になる。

おや、 安倍政権が躍起になっている割には、日本の感染者数は思いのほか低いではないか。

これには訳があって、外務省のサイトの統計ではクルーズ船・ダイヤモンド・プリンセスの乗客・乗員の感染者数が「日本」から除外されているからだ。

厚生労働省のサイトでは、コロナウイルスの感染者数は「国内事例」と「上陸前事例」の2本立てになっている。「国内事例」は日本国内での感染者と武漢からチャーター機で帰国した人の感染事例で、感染者数は457人(37日現在)。「上陸前事例」とは横浜港で下船したクルーズ船ダイヤモンド・プリンセスの乗客と乗員で、感染者は696人である。ちなみに、ダイヤモンド・プリンセスの乗客と乗員は全員がPCR検査を受けている。

外務省は何が目的かはっきり言わないが、クルーズ船の乗客・乗員の感染者を日本の記録から削除した。厚生労働省は、クルーズ船の感染者を「国内事例」とは別建てにすることで、日本の事例から遠ざけている。横浜港に入港したクルーズ船のコロナウイルス感染者は日本の感染例ではなく、といって、どこかの国の感染例に入るわけでもなく、統計の大海を幽霊船のごとく漂うのである。

ロイター通信によると、日本の茂木外相は国会で「意図はない。数字として隠しているものでないから、足そうと思ったら足せる」とし「クルーズ船は沿岸国日本の法律は及ぶが、感染症拡大において、(船籍国)英国、(運営会社国)米国、沿岸国日本のどこが国際法上責任を持つか決まっていない。感染拡大防止の目的で自ら日本が対応を取っている」と説明した。

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本題にもどって、訪問した中央博物館では館内のあちらこちらに手指消毒のボトルが置いてあった。夕食を食べた明洞の焼肉屋さんでもテーブルの上に消毒用のボトルが置いてあった。

 

ソウルの国立中央博物館も東京国立博物館も2月下旬から休館に入った。フランスでもコロナウイルスのせいでルーブル美術館が31日から3日間休館した。新型コロナウイルスへの感染を懸念する職員が労働法で定められている撤退権を行使し、就労を拒否したためだ。
『ル・モンド』によると、31日、ルーブルの職員300人が集まって臨時の会合を開き、採決の結果、でほぼ全員一致で休業に賛成したという。お上から命令があってのことではなく、職員からの拒否であるのが面白い。

さて、明洞の焼肉屋さんでサムギョプサルをしっかり食べ、支払いのさい、店員さんにロッテ百貨店までの道を尋ねたら店員さんがアドバイスをしてくれた。

「ロッテへ行くのなら、しっかりマスクをしておいた方がいいですよ。中国人がいっぱい来ているから」

中国政府は1月下旬に中国国民の海外団体旅行を禁止しており、2月上旬には韓国政府が湖北省滞在歴のある外国人の入国を拒否している。2月下旬のこの時期、東京でもソウルでも台北でも中国人旅行者の姿はすでに絶えていた。人間は現状認識に過去の記憶を重ねるものらしい。



4 立ち食い

南大門市場は野趣に富んだ市場で、そこで商いをしている商人たちも、かつては野趣に富んでいた。もう何十年も前の見聞だが、店先で小型電気炊飯器にキムチを放り込んでお昼にしていたおばさんを見たことがある。炊飯器を抱えてそこから直接キムチご飯をスプーンで口に運んでいた。韓国では飯茶碗や汁茶碗を手に持つのはマナー違反と聞いていたので、炊飯器をかかえたその豪快さに感嘆した。

また、豚の首級が店先に並ぶのもここの名物で、観光客はそれを見て大いに感嘆する。日本で育った者は、料理屋の活け造りや魚屋の店頭に並んだ兜煮用の鯛のお頭をみても平気だし、温泉旅館ではく製になった熊の頭部を見て驚くこともないだろう。ミミガーなど冷静に食っている。だが、生首となると、恐怖の対象なのだ。

2月下旬に入ると南大門市場もなんとなく閑散とした感じが漂い、いつもならそれほど目立たないはずの、店先で買い食いをする女性の姿が目にとまるようになった。2月上旬コロナウイルスで客足が遠のき始めたころ、ムン大統領が激励を込めて南大門市場に足を運んだ時と比べてさらに人影は少なくなっていた。



韓国の統計を見ると、新型コロナウイルスの感染者数は累計で、21951人、20104人、21204人、22433人、23602人、24833人と急上昇した。ムン大統領や関係閣僚が作業服姿で会議を開いている様子がテレビで盛んに伝えられるようになった。

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1月までに米国やシンガポール、オーストラリアなどは中国滞在者の全面的な入国禁止を始めた。韓国と日本は湖北省滞在者に限定して入国制限を始めた。このころ日本は習近平主席の来日の予定があり、韓国では習主席の来韓の交渉中だった。日本は35日になって習近平主席来日が延期されると同時に、中国全土からの旅行者の事実上の入国拒否を表明した。中国本土からの入国者数は1月中には1日当たり2万人を超えていたが、2月下旬になると1日当たりその20分の1以下の1千人に激減していた。35日の日本政府の入国禁止措置は、疫学的なものよりも心理的効果を狙ったもののようである。

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韓国の通信社聯合ニュースがyoutubeで流しているKorea Now で3月に入ってからの南大門市場の様子を見た。

いつもなら人をかき分けて歩くような感じの商店街に人の姿はなく、インタビュアーに問いに商店主たちは、客が極端に遠のいた、外国からの観光客も来ない、物も売れない、家賃も払えないありさまだ、と嘆いていた。日本でも、イタリアでも、フランスでも、同じことが起きている。



5 黒いマスク

南大門市場のカバン店の店員さんが黒いマスク姿で店頭に立っていた。手持ち無沙汰のようで、無表情である。いつもなら「アンニョンハセヨ」と笑顔を見せるのだが。



日本人は白いマスクを好んで使い、台湾人はイラスト入りなどのカラフルなマスクを好む。韓国人は、主として20代、30代の若い世代が黒いマスクを好んで使う。黒マスクが白マスクより防御効果が高いという話は聞いたことがないが、黒マスクには黒メガネと同じように、凡庸な顔を引き締める効果がある。

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白い猫でも黒い猫でもネズミを捕るのは良い猫だ、と言ったのはケ小平氏である。以来、中国はイデオロギーの国からプラグマティックな競争の国になった。同氏はまた、豊かになれる者たちから豊かになれ、とも言った。以来30余年、中国は世界の工場になって、いまではmade in China の商品が世界にあふれている。ケ小平氏は、先に豊かになった者が、豊かになれないでいる者を助けて豊かにさせる、と言ったのだが、後半の部分はまだ達成されていない。

もっか世界中の人が血眼になってマスクを探しているが、そのマスクの生産も中国に頼っている。新型コロナウイルス発生以前、世界中で使用されたマスクの半分が中国の工場で生産されていた。私が使っている花粉症用のマスクの箱を見ると「中国製」と表記されていた。Covid-19が世界に拡散した現在、中国は以前の日産2000万枚の態勢から、日産11600万枚に急遽拡大した。それでもマスクはまだまだ不足している。

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人形店の店頭でも若い店員さんは黒マスクである。店内に客の姿はなく閑古鳥が鳴いている。この先どうなるのだろうと、思案というより呆然としている。



韓国の世論調査によると、ムン・ジェイン大統領は黒マスクを好む韓国の若い世代、とくに女性からの支持を失いつつあるそうだ。ムン政権がスタートした2017年には20代の女性の95パーセントがムン大統領を支持していたが、最近ではそれが41パーセントに落ち込んでいる(韓国ギャラップ調査)。新型コロナウイルス感染が拡大するとともに、ムン大統領の支持率が落ちている。大統領のコロナ対策に不備があるという批判より、コロナ禍の陰鬱な気分が支持率に影響しているのかもしれない。

韓国では4月に総選挙があり、現在議会第一党である「共に民主党」がもしも敗北するとムン大統領は、残る任期をやりにくくなる。大統領は気が気ではないはずだ。韓国では過去4人の大統領が退任後に逮捕されている。全斗煥、盧泰愚、李明博、朴槿恵の4氏である。廬武鉉氏は検察の事情聴取後に自殺した。

Covid-19に感染するのは嫌だ。感染しなくても、この騒動に巻き込まれて、思わぬ災難に降りかかられるのも嫌だ。庶民から大統領まで不安は同じだ。



6 白いマスク

南大門市場の店先で2人のアジュモニがなにやら話し込んでいる。年配者らしく白マスクを着用している。



Sarsの時もmarsのときも、大騒ぎなって客足が減ってしまったが、今度のコロナもどうやらひどいことになりそうだねえ。政府のお偉方がテレビでなんだかだと言っているけど、まだ治療の薬さえできていない病気だから、怖さひときわですよ。病気も怖いが、売り上げの数字を見るのも寒気がするねえ。あんた、こんな時にこそ前向き思考だよ。客足が遠のけば売り上げは減るけど、コロナウイルスをもらう災難も減る。あんたとこは貯えがあるからそんなのんきなことが言えるんだよ。うちはからっきし自転車操業でねえ。大統領から救済の手が差し伸べられるのをひたすら待っているんだ。

そんな会話が聞こえてきそうなお二人さんである。

  ◇

2003年のsarsの時も、2015年のmarsの時も、韓国では感染者と死者が出た。一方、日本では感染例は確認されなかった。その違いが今回の新型コロナウイルスへの対処の仕方に現れている。韓国では30万人以上の人がウイルスの検査を受けている(朝日新聞、322日朝刊)。韓国の人口約5000万人の0.6パーセントにあたる。日本の9倍の検査率である。世界各国の中でもっとも検査率の高い国の一つである。「テスト、テスト、テスト」と叫んだWHOのテドロス・アダムノ事務局長の路線を突き進んでいる。

先日毎日新聞の電子版を読んでいたら、今回のcovid-191920年のスペイン風邪を比較する記事が目についた。マスクがべらぼうな高値になっているので、手作りマスクで身を守ろうといった巷の話題が報道されている。100年後の今も同じでマスクがどこかに消えてしまった。とはいいつつも街に出ると多くの人が白いマスクをつけているので、あるところにはあるものだなあとつまらぬ感心をしたりする。百年前との違いは「マスク」という言葉で、1920年の新聞記事には「口蓋」と書いて「マスク」とルビをふり、「呼吸保護器」と書いて「マスク」とルビをふる。マスクを隠匿した「奸商」と対抗するために、晒し木綿を三重に折って作ったマスクで対抗せよと教えている。

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2月下旬は日本ではスギ花粉症が始まっていて、新型コロナウイルスの心配がなかったとしても多くの人が白マスクをつけるシーズンである。韓国には杉の木が少ないのでスギ花粉症になる人は少ないが、中国大陸からPM2.5や黄砂が飛んできて、目や鼻や喉を傷めつける。それでも普段はマスクをつけない韓国の人がまるで日本人のようにマスクを手放さなくなったのは、新型コロナウイルスが5年前のmarsの再襲来を感じさせたからである。



7 失速

ソウル都心の地下通路に路上生活者の寝床が並んでいた。地下だから雨や雪はしのげる。それに吹きさらしではないので、寒風を避けることができる。だが、寒いことだろう。



この写真を2月下旬に撮ってから1か月以上になる。韓国の感染者数や死者数についてのニュースは日本語で伝えられるが、路上生活者が新型コロナウイルスにどんな風に脅かされているかについては、詳報がない。

ロンドンやパリではホームレスの人々のために、ホテルの空き部屋を提供しようという動きがあると、日本の新聞が伝えた。

米国ではカリフォルニア州知事が、州内の路上生活者約11万人のうち、6万人を超える人々が新型コロナウイルスに感染する恐れがあるという試算を発表した。

Covid-19で落ち込んだ景気にテコ入れするためG-20は全体で550兆円の財政出をする構えである。米国は220兆円を予定し、国民に現金を給付することにしている。日本もそれに倣って、国民に現金を支給する案が浮上している。伝統的なバラマキ戦術である。その資金の多くは赤字国債に頼ることになる。

日本では増え続ける赤字国債対策として消費税10%を決めたのだが、増税とコロナ関連の自粛あれこれによる不況で消費が落ち込んだ。経済失速を食い止めるためにカンフル剤としての現金バラマキで赤字国債が増えることになる。いたちごっこ。出口なし。

外出を自粛して、自宅で国会論議のインターネット中継ばかり見ていた。327日は参院予算委員会で安倍首相の妻が友人たちと花見をした記念写真が話題になった。桜の花の前で友人たちと記念写真を撮ったことは確かだが、あれは「花見」ではなかった、と安倍首相は「募っているが募集ではない」に続く珍妙な言語感覚をまたまた披歴した。

そういった国会漫談は別にして、新型コロナ対策論議の中で、日本の路上生活者を新型コロナウイルスからどのようにして守るのか、この点が語られないまま、327日の参院予算員会で2020年度予算案が採決されて通過、続く参院本会で予算が成立した。



8 奇禍を奇貨とする輩

2月下旬、ソウルの金浦空港で羽田へ帰る便を待っていた。

ベンチの向かいに両替と免税払い戻しのオフィスがあった。客が立ち寄ることは少なく、係の人が消毒薬で窓をせっせと拭いていた。



あれから1ヵ月後の3月下旬、日本と韓国を結ぶ路線の飛行機が止まってしまった。日本の外務省は、全世界の国々を不要不急の渡航をやめるようアドバイスする感染症危険情報レベル2に指定、うち49ヵ国を渡航の中止を勧告するレベル3とした(331日現在)。日本国内の空港の国際線ターミナルは閑散としており、関釜フェリーを初めてとする国際フェリーも旅客の利用を断り、貨物だけを運んでいる。イギリスでは仕事がなくなった航空会社の客室乗務員をcovid-19患者のアテンダントとして臨時に働いてもらえるよう交渉中だとテレビのニュースが伝えていた。

何と言うか、江戸の鎖国時代にもどったような気分だ。人・金・物が国境を軽々と超えることを前提に商売をしてきた人たちは大変だろう。とはいえ、新型コロナウイルスが景気に足枷をはめたわけではなく、足かせとなったのは人々の気分の落ち込み、最近の国会用語でいえば「認識」である。おおざっぱに言えば、資本主義経済につきものの景気循環の表れのひとつともいえなくもない。

この新型コロナウイルス禍を奇禍として、自己の権力増強に励んでいる政治家がいると、欧州のメディアが伝えている。ハンガリーのヴィクトル・オルバン首相だ。彼は、ウイルスとの戦いに必要な権限という名目で、「非常事態法」を議会の3分の2以上の賛成を得て成立させた。非常事態法は国会の権限を縮小し、政府に政令による統治を無期限に与える。

ハンガリーのオルバン政権は移民阻止を掲げて登場。偏狭なナショナリズムを煽って人気を集め、その人気を強権政治の基盤にしている。ハンガリー民主主義の破壊者であると欧米のメディアから批判されている。新型コロナ対策を理由に、議会の役割を抑え、立法ではなく政令で政治を行うというヒトラーの全権委任法に似た独裁的権力の根拠をつくった。

さて、日本では、今回のcovid-19騒ぎの中で、北海道知事が「新型コロナウイルス緊急事態宣言」を出して、道民に外出を控えてくださいと呼びかけた。「新型コロナウイルスでお願い。外出を控えてください」と言えばすむ話なのに、しかるべき法的根拠もなく「緊急事態宣言」と大上段にふりかぶったのは、おどろおどろしい「緊急事態」という言葉を使って人を驚かせて効果を上げようという下心があったからであろう。安倍首相の独り決めの全国的な休校・大規模イベントの自粛要請が、「要請」にも関わらず緊急事態宣言に似た効果を持ったのは、お上のご意向に逆らうとろくなことは起きない、というこの国の政治風土を巧みに利用したものである。当時新型コロナウイルス感染者が一人も見つかっていなかった岩手県内まで休校が広がった。

まず既成事実をつくり、そのあとで辻褄合わせをするのが安倍政権の手法である。法的根拠のない緊急事態宣言や自粛要請を出した後、新型インフルエンザ等対策特別措置法の一部改正案を国会に提出し、異例のスピードで首相がcovid-19に関して「緊急事態宣言」を出せる法的根拠をつくった。これによって、首相が、期間と区域を指定のうえで本物の緊急事態を宣言できるようになった。

特措法改正案はおおむね与野党一致で成立したが、首相が緊急事態宣言を出すにあたって国会の合意を求める必要はなく、報告で済ませるなどの点を問題視して、312日の衆議院採決では共産党が改正に反対、立憲民主党の山尾志桜里氏が離党届を出して反対した。また、無所属の議員1人が反対、反対の意思を込めて欠席した議員もいた。

これらの議員は、特措法の向こうに自民党の憲法改正草案にある「緊急事態」条項を見ている。

2012年に決定された「自民党憲法改正草案」は第9章「緊急事態」で、「内閣は法律と同一の効力を有する政令を制定することができる」(第99条)としている。

1991年の湾岸戦争で日本が自衛隊掃海部隊の派遣を決めたとき、シンガポール首相を務めた故リー・クアンユー氏が「アルコール中毒患者にウイスキー・ボンボンを与えるようなものだ」と評したことがあった。

それから13年後、日本の安倍政権は、集団的自衛権を使えるようにするために憲法解釈変更を閣議決定するという尋常ではない手法を用いた。それまで専守防衛の立場から、日本が攻撃されていなくても、場合によっては、自衛隊が他国軍とともに反撃できる態勢への移行を、憲法の変更なしで、認めた。

安倍晋三とヴィクトル・オルバンの距離は今のところ遠いようにも見えるが、新型コロナウイルスでさえ政治戦略に利用するのが政治家だ、と疑う視線は残しておいた方がいい。ウイルスに気を取られている隙に、思わぬところで市民が足をすくわれる恐れが無きにしも非ず。剣呑、剣呑。

写真と文: 花崎泰雄