1 ウシュマルの魔術師

メキシコ・ユカタン半島のマヤ遺跡にはたいていの場合ピラミッドが残っている。半島のマヤ遺跡のほんのわずかを尋ねただけの旅だったが、このウシュマルの「魔術師のピラミッド」はことのほか印象深かった。

午後の日差しをあびて明るく輝くピラミッドの壁面、たおやかさを感じさせる優美なフォルムである。ピラミッドの基底は多くの場合矩形だが、このピラミッドの基底は楕円形である。「魔術師のピラミッド」はウシュマルの遺跡の中で最も背の高い構造物で、高さが30メートルほどだ。にもかかわらず「小人の館」とも呼ばれる。伝説によると、ウシュマルの支配者だった小人がある夜、興のおもむくままに一晩でピラミッドを築きあげたという。

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ところで――。

2020年からの新型コロナウイルス禍で世界各国の政府が海外との窓口を閉めている。そのせいで1年以上も新しい旅に出かけていない。旅心はもっぱら過去へと向かう。これからお見せしようとするユカタンのピラミッド巡りの写真もフィルムカメラの時代のもので、おそらく1980年代の旅の土産である。ピラミッドといえば、エジプトとメキシコのそれが有名であるが、建造の時期も目的も違っていた。エジプトのピラミッドは紀元前2500年以前の支配者の墓。ピラミッドの先端部分はとんがっていた。エジプトのピラミッドより2000年以上もあとに築かれたメキシコのピラミッドは支配者の墓ではなく、大きな祭壇の基盤である。てっぺんが平らなるように造られた。そこに祭壇を設けたのである。

ユカタン半島のマヤ遺跡を見物するためにメキシコシティーへ飛び、そこからユカタン州の州都メリダまで国内線を利用した。メリダ行きの飛行機は激しい夕立が去ったあと離陸した。飛行機が水平飛行に移るまえに、機内に青白い光が走った。飛行機が被雷したのである。「ギャー」という悲鳴が機内に満ちた。飛行機はというと、そのご何事もなく雷雲をすり抜けてメリダの空港に着陸した。恐怖に凍り付いていた乗客の緊張がゆるみが、着地と同時に一斉に拍手した。その翌日、メリダから南へ80キロほどのところにあるウシュマル遺跡へバスで行った。

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後日、ディエゴ・デ・ランダの『ユカタン事物記』(『大航海時代叢書 第U期 13』岩波書店)を開くとこんなことが書かれていた。

「ユカタンのインディオの女は、エスパニャの女よりも大体において姿がよかった。背も高く、格好もよかったし、腰も黒人の女のように大きくはなかった。美しい女はそのことを誇りにしていたが、実際、彼女たちは決して醜くはなかった。色は白くなく褐色だったが、それは本来の色というよりも、太陽を浴び、ひっきりなしに水浴するせいだった」

著者のランダは16世紀スペインから派遣された神父で、メリダに住みマヤ人をキリスト教に改宗させるのを仕事にしていた。改宗のためには拷問までした。スペインはランダを咎めて本国に呼び戻した。この本にはそのころランダが見聞したマヤの生活・文化が詳しく書き込まれている(青山和夫『マヤ文明を知る事典』東京堂出版)。魔術師のピラミッドの写真を見ると、ランダ神父のユカタンの女の記述が思い出される。

ウシュマルはスペイン人がやってくる前に、すでに都市として放棄されていたという。ユカタン半島のマヤ遺跡にはマヤ人が放棄した都市が多い。ウシュマルもその一つだが、マヤ人がなぜウシュマルを放棄したかについては定説がない。

ウシュマルの遺跡には魔術師のピラミッドのほか、同じ程度の規模のピラミッドがある。エジプトのピラミッドは頂上まで登ることはできないが、マヤのピラミッドは祭壇の基盤なので古びた石の階段を修復すれば頂上にたどりつくことができる。

さらにウシュマル遺跡には、王宮が残っている。スペイン人がこれの建物を「尼僧院」「総督の館」などと呼んだ。球技場の跡も残っている。スペイン人がユカタンにやってくる前のマヤの遺跡ということで、1996年に世界遺産に登録された。最盛期には人口が3万近かったマヤの都市の構造を知るコンパクトな史料であるとされている。





2 チチェン・イッツアの占い暦

ユカタン州の州都のメリダからカリブ海に面した保養地カンクンまでバスで移動した。カンクンはユカタン半島のキンタナ・ロー州にあり、キンタナ・ロー州はユカタン州と隣り合っている。メリダとカンクンは約300キロの道路で結ばれている。その中間に、チチェン・イッツアのマヤ遺跡がある。

大雑把にいえば、今から1万数千年前、モンゴロイドがアジア大陸から当時は陸続きだった現在のベーリング海峡を通って北米、中米、南米に渡った。ユカタンのマヤ遺跡は、そうした先住民が作り上げた文明である。マヤ文明は起源前1200年ころに始まったとされる(Robert Sharer, The Ancient Maya, 5th edition, Stanford University Press)ので、古代エジプト文明よりは新しい文明である。マヤ文明はスペイン人がメキシコにやってくる15世紀まで様々な発展を続けた。文明の性格によって先古典期、古典期、後古典期に区分される。日本の暦で言えば、縄文時代後期から、弥生時代、飛鳥時代奈良時代、平安時代、鎌倉時代、室町時代にあたる時期である。

こんな話は図書館に行って本を開けば出てくることなので、話題をチチェン・イッツア―遺跡に戻そう。この遺跡は数あるマヤ遺跡に中でもっとも有名である。ピラミッド、天文観測所、球技場、セノーテ、さまざまな建物群など、マヤ遺跡のすべてを短時間で見物できるからだ。

マヤ文明は鉄器を知らず、石器の文明だったとされている。一方で、マヤ文字を発明し、天文学に長じていた。「彼らはわれらと同じように正確に、1年を365日と6時間として勘定していた」と、スペイン人宣教師ディエゴ・デ・ランダが『ユカタン事物記』に書いている。

 

チチェン・イッツア遺跡には天文観測所「カラコル」の遺構がある。カラコルの石造りのドームが崩れかかっていた。紀元900年ごろの建設とされる。マヤ人は望遠鏡を知らず、この観測所から夜空の星を肉眼で観測し、太陽の動きを測った。チチェン・イッツアを訪れたさい、ギフトショップで、あなたの生涯の暦をマヤ語で作ってあげますと誘われた。生年月日と誕生の時刻――早朝、午前中、午後、夕方、深夜、程度の目安の時間帯を告げると、写真のような個人暦を作ってくれた。マヤ文字で何と書かれているのかわからないまま、自宅の書斎入り口にかれこれ30年以上もぶら下げている。マヤ人は天文・暦に詳しく、マヤの出来事をマヤ文字で石碑に刻んで歴史資料を残した。



ピラミッド「カスティリョ」はチチェン・イッツア遺跡の中でもっとも高い構造物だ。底辺は各60メートルの四角形、高さは30メートルで、基壇は9層に積み上げられ、4つの斜面に階段が設けられている。ガイドの説明やその後に読んだ文献によると、このピラミッドは春分と秋分の日の午後、ピラミッドの斜面に豊穣の神・ククルカンの影が映し出されるという。

ピラミッド「カスティリョ」はチチェン・イッツア遺跡の中でもっとも高い構造物だ。底辺は各60メートルの四角形、高さは30メートルで、基壇は9層に積み上げられ、4つの斜面に階段が設けられている。ガイドの説明やその後に読んだ文献によると、このピラミッドは春分と秋分の日の午後、ピラミッドの斜面に豊穣の神・ククルカンの影が映し出されるという。



「戦士の神殿」は、多くの石柱で飾られた魅力的な建物だ。造形的には「カスティリョ」より手が込んでいる。この神殿には「チャックモール」という石づくりの人形が残っている。仰向けに寝そべった姿勢のこの石像はマヤ遺跡に共通するもので、チャックモールのお腹には皿のようなものがあり、ここに生贄の体から取り出した心臓がおかれた、という恐しいうわさが残っている。


チチェン・イッツア遺跡の周辺には大きな川がない。遺跡がにぎわっていた時代の人々は、「セノーテ」という洞窟井戸を水源としてが頼りにしていた。チチェン・イッツアの「聖なるセノーテ」からは金や銅を使った装飾品や翡翠の装飾品など供物と思われる品々がセノーテの底から発掘されている。



 海辺の保養地カンクン

チチェン・イッツア遺跡を訪れた日は、遺跡公園近くのホテルに泊まった。ホテルの裏庭でイグアナを見た。頭からシッポの先まで1メートルくらいか。ホテルで飼っているのか、野生のイグアナが入りこんできたのか、不明。マヤの人たちはイグアナを食料にしていた。ユカタンにやってきたスペイン人もイグアナを食べた。カトリックは四旬節には肉食を慎むが、マヤに来た神父たちは代わりにイグアナの肉を食べた。ディエゴ・デ・ランダはイグアナは健康的なたべものであると『ユカタン事物記』に書き記している。とはいえ、イグアナを目撃して食欲を刺激される人は少ないだろう。



さて、チチェン・イッツアのバス停からカンクン行きのバスに乗る。マヤ遺跡はユカタン半島のメキシコ、ベリーズ、グアテマラ、ホンデュラスに広がっている。チチェン・イッツアがあるあたりはマヤ低地北部、チアパス州のパレンケ遺跡があるあたりがマヤ低地南部である。グアテマラ高地があるあたりをマヤ高地と呼ぶ。マヤ文明はそれぞれの都市国家結ぶネットワークで生まれたもので、「マヤ帝国」といった大きな国家はつくられなかった。言語の統一も行われなかった。

こうしたゆるやかに結ばれた都市国家の文明がヨーロッパのスペインによって侵略され、マヤ文明は失われた文明――映画のインディー・ジョーンズ物語の舞台――のようなものになった。お金持ちになったアメリカ合衆国の大学、研究所などがマヤ研究を始めた。

石田英一郎氏が面白い文章を書いている。195558日の『週刊朝日』が中南米へ出かけた大宅壮一氏が撮影したテオティワカン遺跡の「太陽のピラミッド」の写真を掲載し、それが“マヤ族”の遺跡で、マヤ族は中米のいたるところで“大理石”でこのようなピラミッドを築いたと説明した。当時の日本ではメキシコ文明の知識はこの程度だった。

上記のエピソードは「メキシコの古代文明」『石田英一郎全集7』に収められている(初出は「メキシコの古代文明」『美術手帳』101号、美術出版社)。とはいえ、1971年に出版された『石田英一郎全集7』も口絵の写真説明でマチュピチュ遺跡とクスコの黄金の神殿とピラコチャ神殿で勘違いをしている。昔から後世(校正)恐るべし、と言われてきた。



数時間バスに揺られてカンクンに着いた。カンクンは1970年ごろから造られた保養地だ。以来いろいろな国際会議の会場になって国際的にも知られるようになった。沖合にあったサンゴ礁を陸の土で固めてホテルを建てている。本土とサンゴ礁は埋め立てた土手で結ばれている。サンゴ礁は長さ20キロ、幅は400メートルほどである。リゾートから眺めるカリブ海は青い。青い海の、その先にはキューバがある。



4 海辺のトゥルム

カンクンからバスで2時間弱、トゥルム遺跡に着いた。保養地カンクンに近いだけあってずいぶんにぎわっていた。何よりもカリブ海を一望できる10メートルほどの崖の上に立つ石造りの建物跡が旅人の心をくすぐる。



カンクンから日帰り観光に出かけたトゥルム遺跡は、チチェン・イッツアよりも新しい遺跡で、紀元1200年ごろに繁栄した人口規模1万ほどの小型の都市跡である。カリブ海に面する海岸にあった交易都市だったらしい。ユカタン半島にスペイン人が渡ってくる前の15世紀にはユカタン半島のカリブ海側(低地部北部)には10を超える都市国家があったと言われる。これらの都市国家はスペイン人によって制圧され、スペイン人が持ち込んだ旧大陸の病原菌によって衰退していった。



トゥルムの遺跡も、ウシュマル遺跡やチチェン・イッツアの遺跡と同じユカタン半島の比較的雨量の少ない熱帯サバンナにある。年間雨量は1000ミリほどと聞いた。遺跡の周辺に森が残っているが、熱帯雨林ではない。日差しは強かったが、カリブの海風は爽快だった。



5 密林のティカル

カンクンに滞在中、ホテル内の旅行会社のオフィスに「ティカル遺跡日帰りツアー」の案内が掲示されているのを見た。尋ねるとグアテマラの航空会社がカンクン−フローレス間に11往復を就航させて、フローレス近くのティカル遺跡の見学ツアーを始めたところだという。朝の便で観光客をグアテマラのフローレス市にある空港へ運び、そこから案内人が専用バスで客をティカル遺跡まで運ぶ。遺跡を数時間見学し、夕方の便でカンクンに戻る。ティカル遺跡はマヤ遺跡の中では有名なもののひとつなので、このさい幸運なめぐりあわせに感謝してツアーに参加することにした。



グアテマラのティカル遺跡は熱帯雨林の中にある。密林の高い樹木の上にマヤのピラミッドの頂上部分がのぞいている。ティカル遺跡はグアテマラ政府が国立公園に指定している。1980年代のティカル遺跡は素朴な感じだった。

 

公園の入り口のオフィスも素朴なつくりで、公園を案内してくれたガイドさんもリラックスした感じの人だった。この遺跡はアメリカ合衆国の1960年代にペンシルベニア大学が大規模な発掘調査を行っている。ガイドさんはその時、ペンシルベニア大学の調査隊と一緒に働いた、と言った。

ティカル遺跡は熱帯雨林の中に建造物が散在している。現在では遺跡は修復・整備されているようだが、1980年代の遺跡群の中心部の風景はこんなものだった。考古学調査が終了して、ちょっと薄化粧を施した程度のたたずまいが、厚化粧した観光遺跡にはないマヤ文明の感触を感じさせた。ティカル遺跡が世界遺産に登録されたのは1970年代末の事だった。



ティカルには紀元前から人が定住していて、やがて政治的な共同体が生まれた。それは西暦が紀元前から紀元後にかわる時代だったとガイドさんは説明した。やがてティカルは紀元9世紀ころまでには、マヤ文明圏有数の国に成長した。人口は7万近かったと推測されている。

その後、マヤの有力都市国家・ティカルから、なぜか人が去り始めた。10世紀過ぎるとティカルは打ち捨てられた都市になった。

ティカルの周辺には川がない。そこでティカルの人々は大きな貯水池を作り農業を営んでいた。何らかの理由で貯水池が貯水能力を失ったのか、周辺の畑だけでは住民の食料をまかないきれなくなったのか、あるいは密林の病原菌が人々を襲ったのか、政治指導部に内紛が生じたのか、詳しいことはわからないそうだ。



6 ついでに


カンクンからメキシコシティに舞い戻って、夕暮れどき賑やかな通りでタコスを食べた。

タコスはアメリカ経由で日本に持ち込まれたので、タコの皮がパリパリと固い。固いのは油でフライにしているからだ。メキシコ料理がテキサスに入り、Tex-Mex料理となり、このテクス・メクスの固いタコスが日本では主流だった。

本場メキシコのタコスは、トウモロコシの粉を水で溶いて、鉄板の上で焼いている。したがってタコの皮はやわらかい。一枚のタコの皮は餃子の皮より一回り大きい程度。フランスのクレープやインドのチャパティより小さい。このタコの皮に、肉や野菜を包み込み、ピリッとしたサルサをつけて食べる。

タコスを食べた翌日、テオティワカン遺跡とトゥーラ遺跡を見に行った。



マヤ文明とテオティワカン文明は、相互の拠点が1000キロ程度離れていたが、2つの文明は互いに影響し合っていた、という説があると聞きおよんでいた。テオティワカンは海抜2000メートルの高原につくられた都市の遺跡である。太陽のピラミッド、月のピラミッド、死者の道とよばれる大通りがあり、中米最大の古代遺跡である。

トゥーラ遺跡の方は小ぶりだった。同じようなつくりの神殿がチチェンイッツアにありトゥーラからやってきた土木技師がチチェンイッツアの神殿建造に加わったのだろうといわれていた。



メキシコのピラミッド文明もいまではすっかり観光アイテムになり、インターネットで興味深い写真が見られる。旅行会社のサイトでは珍しい遺跡の話を読むことができる。

そういうわけで、これ以上くどくど書くのも気が引けるので、この回は、テオティワカンもトゥーラも見ましたよ、程度のお話で、お茶を濁しておく。

          ――おわり――

写真と文:花崎泰雄)