1 フラッグスタッフ

メルボルンへ行ってきた。これといったたいそうな用があったわけではない。まあ、センチメンタル・ジャーニーといったところだ。

メルボルン行きを言い出したのはつれあいの方だった。メルボルンのモナシュ大学コールフィールド・キャンパスで11月下旬に全豪社会学会の50周年記念大会があるのでそれに出席したいということだった。さらに、記念大会のキーノート・スピーカーの一人のシドニー大学の教授が、かつてアメリカの大学で在外研究をしていた頃からのつれあいの知り合いで、著名なジェンダーの社会学の研究者。夫婦で日本に来てわが家に泊まった時も、こちらがシドニーで泊めてもらった時も、教授は男性だったが、いつの間にか性別変更をして女性になっていた。その彼、いや彼女も今年70歳になり教職から退く。

私はメルボルンに1993年から1996年にかけて住んだ。50歳で繰り上げ定年を選択し、割増しで膨らんだ退職金の一部を使って優雅な学生生活にもどったのだ。大学はメルボルン郊外にあるオーストラリア最大のマンモス大学モナシュ大学。大学院のアジア研究科博士課程に入れてもらって、せっせと論文を書いた。

モナシュ在籍中の1年弱はジャカルタでフィールドワークをし、博士論文を書き上げて日本に帰った。1年ほどは失業者の暮らしをしたが、運よく大学で教職に就くことができた。教職10年弱、2度目の定年からすでに7年がたつ。

モナシュ大学のサイトに、学位論文の指導にあたってくれた政治学科の先生が70歳になったのを機に今年12月で退職するという記事があった。

そこで先生に「メルボルンへ行く」とe-mailを送った。ついでにジャカランダの花は咲いているだろうかと問い合わせたら、あれは夏の花、家の近くのジャカランダはまだ咲いていないと返事が来た。

メルボルンの宿は郊外電車がメルボルン中心部に地下鉄になって入ってくるシティー・ループのフラッグスタッフ駅近くのホテルにした。

11月下旬のメルボルンは晩春の冷え込みと初夏の強い日差しが交互にやって来た。Tシャツを着た翌日はコートを羽織るという気候だ。



ホテルの近くのフラッグスタッフ・ガーデンズには2本のジャカランダの木があって、薄紫の花を咲かせていた。

先ごろネルソン・マンデラ氏の追悼式が行われた南アフリカのヨハネスブルグもジャカランダの花で有名だが、何と言っても南アフリカのジャカランダといえば10月のプレトリアだ。道路沿いの7万本のジャカランダの花が一斉に咲き、街中を薄紫に染めあげる。



それに比べると、メルボルンのジャカランダはあちらに一本、こちらに1本とつつましいが、それでも日本でいえば桜の季節を迎えたような華やぎを感じさせる。メルボルンでよく見るジャカランダは jacaranda mimosifolia という種類で、花のかたちは桐のそれに似ている。



2 クレイトン

フラッグスタッフ駅でメルボルンの新しい公共交通機関のカードを買った。日本のパスモやスイカに似たプリペイドの乗車カードで、その名をmykiという。このカードで路面電車、郊外電車、バスが利用できる。案内係の女性の職員がmykiの種類について親切に説明してくれた。

そのmykiを手にれて、フラッグスタッフ駅から地下のシティーループを抜けて、母校のモナシュ大学クレイトン・キャンパスへ行ってみた。多分、私が在籍していたころと大して変わっていないだろう――変わっていなことを確認に行く。



ところで、このフラッグスタッフ地下駅は面白い駅で、土日祭日には駅全体が閉鎖される。シティーループを走る全列車がこの駅を通過してしまう。この駅を利用する人のほとんどが通勤客で、土日祭日には利用者が激減する。したがって、駅を閉めてもかまわないだろう。どうしても土日祭日にシティーループを利用しなくてはならない人は700メートルほど離れたメルボルン・セントラル駅まで、徒歩か、無料のシティーサークルのトラムを使って行ってくれというわけだ。それも理屈だが、市の中心部の公共交通機関の駅が土日祝日になると閉鎖休業するといのも、珍しいことだ。東京でいえば大手町の地下鉄駅が閉まってしまうようなものである。



モナシュ大学に在籍していた頃は、車で学校に行き来していた。したがって、電車で通学することはほとんどなかった。郊外電車パケナム線のクレイトン駅で電車をおりて、大学キャンパスを経由するバスに乗る。クレイトン駅周辺の商店街も、20年近く前とさほど変わっていない。さびしげな田舎の匂いが立ち込めている。

大学も予想した通り、たいして変わっていなかった。キャンパス正面に、巨大な要塞のように立ちはだかる醜悪な人文学部のビルがあった。日本のマンモス大学の校舎もこんな雰囲気だ。メルボルンの老舗のメルボルン大学は由緒ありげな建物を多く残し、イギリスの大学の雰囲気がただよっている。



キャンパスの庭も、カフェテリアから揚げ物の油の匂いが漂ってくる学生会館も昔の通りだった。

昔と違うのは、モナシュ大学のキャンパスでも中国人留学生がずいぶんと増えていたことだ。中国の経済高度成長にともなって、英語圏の大学に中国人留学生が急増した。オーストラリアでは2011年の統計によると、外国人留学生総数24万人のうち4割が中国からの留学生だ。アメリカ合衆国では2012年の統計によると、留学生総数82万のうち24万人弱、ざっと3割が中国からの留学生である。オーストラリアでもアメリカでも、教育産業の海外お得意先として中国が存在感を強めている。



大学からフラッグスタッフ駅にもどる、先ほどmykiで世話になった案内係の女性がにこやかに近づいてきた。

「日本のどこから来たの?」
「東京ですよ」
「仕事?」
「いや、友達に会いに来た。むかしモナシュ大学にいたものだから」
「私はモーリシャスからメルボルンに来たの。お父さんがフランス系でお母さんがモールシャスの人」
「メルボルンの住み心地はどうですか」
「ここの仕事はペイがいいし、暮らしやすい町よ」

てな具合に、初対面で話がはずむのも、勤務中の駅職員が乗客と世間話に興じるのも、乗客サービスの一環――という雰囲気がいかにもメルボルンらしくのんびりしている。この雰囲気は昔住んでいたころと変わりない。



3 チャペル通り

モナシュ大学で学生生活をはじめたのは1993年の2月からだった。

メルボルンの海が眼前に広がるセント・キルダ・ビーチにアパートを借りた。家具付きではなかったので、机や椅子、食器、料理道具などのうち、かなりのものを古道具屋で買った。



セント・キルダのアパートからそう遠くないサウス・ヤラのチャペル通りに古道具屋が集まっている一角があって、たいていのものはそこでそろう――そう教えてくれたのは知り合いのメルボルン大学の先生である。



行ってみるとその通りで、机、椅子、ソファー、台所道具、電気掃除機…などなど安く買えた。中でも掘り出し物が多かったのは救世軍がやっていた古道具店で、論文執筆用の机と椅子もそこで買った。



机は卓上が広くて板の厚いどっしりとした重々しいものを買った。椅子は木製のベルベット張り古風なデザインのものにした。

机の上に資料をおき、椅子に座ってさあ書くぞ……。



数日たったところで、椅子の下に陶製の白い容器がついていることに気がついた。よく使いこまれたグリーンのベルベットのクッションがはねあげ式になっていることにも気づいた。クッションの下には板があり、その中心部に丸い穴があいていた。その真下に、白い容器があったのだ。

げんなりしてその白い陶製の壷を外して、その椅子を来客用の椅子にした。執筆用には新しい椅子を家具屋で買った。

チャペル通りがコマーシャル通りと交差するあたりに、プラーン・マーケットがあって、よく買い物に行った。このあたりはヤラ川の南に位置するサウス・ヤラというメルボルンの高級住宅地の1つで、プラーン・マーケットもいい商品をそろえていた。中でも鮮魚屋は抜群で、刺身用の魚や殻つき生ガキなどを売っていた。



気のいい魚屋さんで、タイのおかしらなどを「持ってきな」と気前よくただでくれた。かぶと煮や吸い物をつくって食べたものだ。オーストラリア人はこんな食べ方をしないのだろう。



チャペル通りを少し北上すると、郊外電車のサウス・ヤラ駅周辺のトゥーラック通りに出る。地元の人が、たしか、メルボルンのサンジェルマンなどと言っていたように記憶している。パリの人が聞くと憤慨するかもしれないが、まあまあしゃれたブティックやカフェが多いところだった。

久しぶりに行ってみるとだいたい昔の通りの風景があった。



当然のこととはいえ、かつて住んでいたころに比べると、日常の物価がずいぶん値上がりしていた。日刊紙を買うと2ドル以上もした。カフェで簡単なランチを食べても10ドル以上だ。ちょっとしゃれたレストランでディナーとなると、50ドル以上かかる。バブルのころの日本そっくりだ。デフレの日本の方が生活費は安くなった感じが強い。

それもそのはず、好景気のオーストラリアの1人当たり2011年のGDP67千ドルで世界第5位、日本のそれは46千ドルで、世界12位だった。



メルボルンのいま一つの有名な市場・クイーン・ビクトリア・マーケットがホテルから歩いてすぐのところにあったのでのぞいてみた。ここのカフェテリアで軽くランチを食べたが、焼きサンドイッチにコーヒーで日本円にして千円以上についた。もはや年金生活の日本人にとって住みやすいオーストリアではなくなってしまったようだ。



4 セント・キルダ・ビーチ

シティー最大の目抜き通りバーク・ストリートから96番の市電に乗ると、20分ほどでセント・キルダの海岸に出る。

ポート・フィリップ・ベイの海岸線にいちばん近い風光明媚な通りを電車は走る。通りの名はThe Esplanade。メルボルンでは最初にここに住んだ。



一時期セント・キルダは麻薬がらみの評判の悪いところだったそうだ。1990年代には安全な地域になっていたので、メルボルン暮らしを楽しむには格好の場所だと聞いた。

アパートの窓からは海の眺めが楽しめた――ポート・フィリップ・ベイはシドニーに比べると海岸線が単調で退屈だ。天気のいい日は海岸を散歩できたし、日曜日になるとビーチはサンデー・マーケットでにぎわった。近くのアクランド通りには商店街があり、うまいサワーダウのパン屋や、ギリシャ料理のグルメ店、ピザ屋、インド料理のレストラン、ケーキショップなどがあった。

そのアパートの建物は今でも残っていた。写真の左端の建物である。



アパートのすぐ近くにエスプラナード・ホテルがあった。ライブ音楽とバーで有名な古びたホテルだった。もともとは19世紀、セント・キルダがシティーから最も近い海浜リゾートとして開発されたころからの由緒あるホテルだった。



メルボルンの人の話では、私が日本に帰ってから、このエスプラナード・ホテルを取り壊して、高級アパートと小売店の複合施設を建設する計画が持ち上がったが、由緒あるホテルを残せと住民らが反対運動に立ち上がり、計画をご破算にしてしまった、という。

毎週末、このホテルのバーは酔っ払いでにぎわった。深夜から未明にかけて、酔っ払いの咆哮――だみ声の上に英語と来ているから意味不明の咆哮にしか聞こえない――がアパートの寝室まで届いた。時には、酒瓶が路上に叩きつけられて割れる、危険な音も。夜明けごろ、その騒ぎが静まると、今度は路面電車が、ガタガタ、ダッダッダ、キッキッキィ…とすさまじい音を立ててアパートの前を走り抜けた。線路がエスプラナード・ホテルの近くで90度近いカーブになっていて、夜明けの回送電車がそのカーブを急スピードで曲がる時の軋み音である。

最初のころは耳栓が安眠のおともだったが、やがてその噪音にもなれた。



ビーチの近くに小規模なLuna Parkという遊園地があった。浅草の花やしきのようなものである。子どもの学期中は週末だけオープンする。ここのローラーコースターはそのやぐらが木造であることで有名だった。私が住んでいたころは一目で木造とわかる色をしていたが、今回みると白いペンキが塗ってあった。おそらく木造のままなのだろう。

ローラーコースターからは海が見えてセント・キルダ最高の眺めが堪能できると、勧められたが、おっかないので乗らなかった。

アクランド通りはすっかり様子が変わっていた。パン屋さんも、お菓子屋さんも、ギリシャのグルメ店もなくなっていた。そのかわり、通りのほとんどを行楽客相手のカフェ、レストランが埋め尽くしていた。



5 キングズ・ドメイン

キングズ・ドメインはメルボルンの中心であるシティーの、ヤラ川を越えてすぐ南側にある広大な公園・緑地帯・植物園の総称である。

セント・キルダ・ビーチのアパートに1年ちょっと住んだのち、フィールドワークのためにジャカルタに移った。そこで1年ほど、スハルト時代の政治とメディアの観察をして、メルボルンに帰ってきた。そのとき、このドメインの一角にある戦争慰霊館(Shrine of Remembrance)の近くのアパートに住んで、論文を書いた。「この部分はもっとニュアンスを込めて書きかえよ」など、指導教官は難しい注文を出した。日本語なら何とかなるかもしれない。暗号を覚えるように習った英語ではそうはいかなかった。悪戦苦闘を続けた、そのなつかしいアパートの建物は健在だった。



論文書きにうんざりすると、戦争慰霊館のあたりへ散歩に出かけた。戦争慰霊館の石造りの建物を見てどこかで見たようなつくりだな、と感じた。



日本の国会議事堂のデザインとよく似ている。国会議事堂は1936年、戦争慰霊館は1934年に建設されている。戦争慰霊館は古代ギリシャ時代のハリカルナソス(小アジア)のマウソロス霊廟のデザインを参考にしている。日本の国会議事堂も古代ギリシャの霊廟のデザインを模した可能性がある。



霊廟のモチーフを国会議事堂にうつすというのも妙な話だが、考えてみれば、議事堂ができたときには日本の議会政治はすでに病重篤だった――というくだらないオチをつけて了解することにしておこう。戦後になっても、日本の国会議事堂は議会制民主主義の墓所であり続けている。

1次世界大戦で、オーストラリア兵はイギリス兵、ニュージーランド兵とともに、トルコのダーダネルス海峡にあるガリポリでオスマントルコ軍と戦い、いくさに敗けて大勢の死傷者を出した。戦争慰霊館はそうしたオーストラリア人を慰霊するために建てられた。



その後、オーストラリアの兵士は第2次世界大戦で日本の兵士と戦い、朝鮮戦争で戦い、インドネシアのスカルノ大統領がマレーシアと戦火を交えたときは、マレー半島・ボルネオ島で戦い、イラク戦争、アフガニスタンの戦闘にも参加している。



オーストラリアのような、一見、世界の紛争と遠く離れたようにみえる国であっても、軍隊を持ちその武力を海外で行使することが禁じられていないと、諸大国との国際的お付き合いで、国民を海外の戦地で死なせなければならなくなる。一方で、戦争で死んだ兵士を祀ることがナショナリズムにつながり、20世紀の初めに独立国家になったオーストラリアの一体感を強める一助になった。



オーストラリアはかつてはイギリスとの付き合いが深く、いまでは米国の同盟国である。悪名高い軍事通信傍受ネットワークのエシュロンは米国を中心にイギリス、オーストラリア、ニュージーランドのアングロサクソン国家が運営している。私のメルボルン滞在中に、オーストラリアの情報機関が、ユドヨノ・インドネシア大統領の電話を盗聴していたと、インドネシアに暴露された。

また、今回のメルボルン滞在中にオーストラリア政府は中国の東シナ海上の防空識別圏設置を「東シナ海の現状を変えるための威圧的、一方的な行為」と批判した。オーストラリア‐中国の貿易は、輸出入とも豪中貿易を抜いている。

日米からの非難は織り込み済みだった中国だが、オーストラリアからの批判は予想外だったらしい。この9月にオーストラリアでは6年ぶりに政権交代があり、労働党に代わって自由党のアボット党首が首相に就任した。労働党政権下では、オーストラリアは日本より中国に関心を寄せていた。保守のアボット政権になって、オーストラリアの視線が経済成長が鈍化している中国から、かつてのように日本寄りにもどる予兆ではないか、などオーストラリアのメディアはさまざまな観測を流していた。



6 ロイヤル・ボタニック・ガーデンズ

キングズ・ドメインのかなりの部分をロイヤル・ボタニック・ガーデンズが占めている。



オーストラリアはイギリス系の国だから、ロンドン郊外のキュー王立植物園にならってメルボルンに広々とした植物園をつくった。単なる緑地ではなく、世界中の貴重な植物の遺伝子を保存する植物遺伝子バンクとしての役割がこのところ注目されている。世界中に植民地を築いたイギリス人の、まあいってみれば悪知恵である。

イギリスの植民地だったシンガポールにも立派な植物園がある。イギリスの植民者ラッフルズの発案だという。インドネシアにもボゴール植物園という、これまた立派な熱帯植物園がある。ボゴールの大統領宮殿と隣接している。その昔、そのあたりに、オランダに代わってジャワを支配下においたイギリスのラッフルズの官邸があったところだ。ラッフルズの官舎の庭から始まり、ラッフルズ夫人が木を植え、再びジャワがオランダの植民地になってから、本格的な植物園になっていった。

ロイヤル・ボタニック・ガーデンズは指導教官や大学のスタッフと一緒にピクニックに行ったことがある。園内にカフェテリアがあり、アフタヌーンティーの普及版であるデボンシャーティーをみんなで楽しんだ。スコーンにホイップ・クリームとジャムをつけ、紅茶とともに食べる。そのあと、強烈なにおいの漂う蝙蝠の林を歩いたことを覚えている。



私には指導教官が2人いて、1人はアジア学科の先生、いま1人が政治学科の先生だった。2人とも気のいい、優しい女の先生だった。2人してホームパーティーだの、コアラを見に行くブッシュウォーキングだの、街の食べ歩きだの、映画鑑賞だの、盛り沢山の楽しい思い出を作ってくれた。

ある時、冗談半分に、学生を遊ばせ過ぎではないですか、とアジア学科の指導教官に言ったら、あら、はるばる東京からメルボルンにやって来て、勉強ばかりしていてはつまらないでしょ、と返事が返ってきた。

その先生はのちにモナシュ大学からタスマニアの大学に移り、そこで名誉教授なった。なんでも、講義はしないで研究をするという良い仕事をいまでも続けている、と聞いた。

政治学科の指導教官だったもう一人の女の先生が70歳で退職するので会いに行ったのだが、よく来たよく来たと、クランボーンの植物園へ案内してくれ、その後で、海岸沿いのしゃれたカフェテリアで夕食をごちそうしてくれた。



クランボーンの植物園は、キングズ・ドメインのロイヤル・ボタニック・ガーデンズの分園で、最近整備されたものだ。オーストラリア大陸固有の植物を集めている。夏になるとコパーヘッドという毒蛇も出る。道を横断している蛇を見たら、通り過ぎるまで待ってやりましょう、蛇もここの重要な生態の一員です、と案内パンフレットに書いてあった。

シンガポールの植物園に行ったときは、私の前を歩いていた人たちが「先日ここでこのくらいの太さの大蛇が遊歩道を横断しているのを見た」と両手で大きな輪を作って面白がっていた。

クランボーンのオーストラリア固有種の植物園はどこか砂漠的で、キングズ・ドメインのうっそうとした植物園と違った趣だった。



カフェテリアには彼女の夫である政治学者が先に来て待っていた。70歳半ばで、すでに大学は退職、いま国際関係論の本を書いている。

夕食の会話は過去の仕事柄、政治の話になってしまった。戦前の天皇を家長とする家族主義的集団主義国家日本は、敗戦と占領でアメリカ式の個人主義を教えられたのだが、今では再び個人よりも日本国を前面に押し出す復古主義が国民の支持を受けている、と私はさえない話をした。

夫の方の政治学者はアフリカの部族国家の政治体制を例に挙げて、政治権力と政治体制(レジーム)を語った。レジームは国民よりも支配する権力側の都合を反映するという議論だった。

妻の方の政治学者は、アフリカの部族国家と日本を同列において比較し、結論を出すのはおかしいのではないか、言った。夫の政治学者は、レジームはレジーム、その本質はどこでも同じだ、と言った。

日本は永らくにわたって、マックス・ヴェバーのいう支配の3類型のうち「伝統的支配」が続いた国だ。戦後しばらくの間のアメリカのおかげで「合法的」支配が現れたが、鳩山首相の孫が首相になり、吉田首相の孫が首相になり、福田首相の子が首相になり、岸首相の孫が2度も首相になり、政権党では世襲議員が増えて日本の衆議院はイギリスの貴族院のようになってきている。いわゆる「美しい国」へ先祖返りしているのだ。

それはさておき、70歳になった恩師は引退後の自由時間にそなえて、すでにピアノ、油絵、フォークダンスなどの余暇活動を開始している、と言った。その夫は軽い脳梗塞で倒れたことがある。彼女の教え子の私は72歳で、左足に軽度の変形性関節炎があり日本式の正座が困難になっている。日本に帰ったらすぐ白内障の手術を受ける予定だった。そのままでは運転免許の更新に必要な視力の確保が難しくなってきていた。

私の晩学で始まった付き合いだからこれも当然なのだろうが、師弟ともおたがいに老いの日が来るのが早かった。



7 ヤラ川

ヤラ川はメルボルンのシティーのすぐ南を東西に流れ、やがて南に方向を変えてポート・フィリップ・ベイに流れ込む。

メルボルンの南北の目抜きりであるスワンストン通りを南方向に進む路面電車はすべてフリンダーズ・ストリートの前を抜けて、プリンシズ・ブリッジでヤラ川を渡り、セント・キルダ通りに至る。



そのプリンシズ・ブリッジすぐそばのヤラ河畔にたくさんのボートハウスがある。初夏のこの時期になると、女学生や町内会のオジサン、オニイさんたちがやって来て、ヤラ川でボートを漕ぐ。本格的なレガッタである。市民ボートクラブの初夏の楽しみである。



ヤラ川の流れはお世辞にも清流とはいえず濁っているが、においはしない。ボートを漕ぐ人も川風にあたって涼しいだろうし、岸辺でぼんやり眺めている方もなぜか涼風を感じてしまう。



ボートハウスの裏手にあるアレクサンドラ・ガーデンズでは、ナイト・ヌードル・マーケットの催しが開かれていた。オーストラリア人はけっこうヌードルを食べる。メルボルン大学近くのライゴン通りはイタリア街で、うまいスパゲッティーが食べられる。中国の麺はチャイナタウンをはじめ市内のあちこちで食べられる。ノース・リッチモンドのヴィクトリア通りはベトナム街でフォーなども食べられる。

ナイト・ヌードル・マーケットへ行ってみたが、ヌードルを買って食べる気にもなれないほどの混雑ぶりだった。



そこで市電に乗ってスワンストン通りを北上してシティーにもどり、店先にローストダックや焼き豚をぶら下げている店で、ローストダック入りの中華汁そばを食べた。ローストダックを中華包丁でトントントンと断ち切り、汁そばの上にたっぷりのせてくれて10ドル。

1990年代のはじめは6ドルくらいで食べられたような記憶がある。そのころよく通った店があって、ローストダックや焼き豚を買って帰ったものだ。ある日の夕方、その店に行くと、ガラスのドアがロックされていた。その翌日行っても閉まっていた。ほんの数日前は営業していたというのに。ご近所で聞いてみたが事情はよくわからなかった。

そのころのヴィクトリア州首相はジェフ・ケネットというなかなかの商売人で、経済活性化のためと称してフォーミュラ1のレースをメルボルンに誘致したり、カジノをつくったりした。

そのカジノに客を集めるために、チャイナタウンの周辺に無料送迎バスを巡回させ、中国系の市民をカジノに運び込んでいた。中国系はギャンプルが好きでカジノにとってはいいお得意だからだ。ギャンブルにのめり込んで、ついには店をつぶした店主も出ている。そういう記事が地元紙の『エイジ』に載っていたことに思い当たった。

そうか、ここも店主がカジノで穴をあけて、夜逃げしたのか。



8 イースト・メルボルン

かつてメルボルンに住んでいた時、知り合いのメルボルン大学の先生のお宅に招かれたことがある。シティーの北にある郊外の住宅だった。

築後1世紀以上の古家を買い取り、安全にかかわる部分は専門家に修復を依頼し、室内のペンキ塗り、壁紙張りなどは日曜大工よろしく自分の手で進めていた。

メルボルンには古い家がたくさん残っており、いまでも人が住み続けている。日本では萩や金沢、角館の武家屋敷などが郷愁をさそう観光地になっているが、メルボルンの古家は町のあちこちに点在している。

イースト・メルボルンには19世紀に建てられた住宅がたくさん残っていて、好事家のための古住宅めぐりの地図がつくられている。

シティーの東に隣接するフィッツロイ・ガーデンズを横断して東に向かうと、途中、公園の中にキャプテン・クックの生家が保存されている。キャプテン・クックはイギリス生まれのイギリス海軍の軍人で、オーストラリアのシドニーまでは航海してきたが、メルボルンに来たことはなかった。



キャプテン・クック・コテッジの説明書によると、1933年にイギリスでこの古家が売りにだされたとき、メルボルンのお金持ちが買い取って寄付したものだという。オーストラリア人のイギリスへの郷愁であろう。

フィッツロイ・ガーデンズを横切り終わると、古い住宅が比較的集まっている地区につく。ツーリスト・インフォメーション・センターでもらった地図をたよりに、町内をぐるぐるまわって写真を撮った。基本的にはイギリスをはじめヨーロッパの建築様式のコピーであるが、せっかくだから撮った写真の一部をここでお目にかけよう。

















9 アーケードと路地裏

かつてメルボルン住いの長い日本人の知人とチャイナタウンの中華料理店に行ったことがある。

店員が笑顔で日本語のメニューを持ってきた。即座に知人が「英語のメニューを持ってきて」と言った。知人は小声で「日本語メニューと英語メニューでは値段が違う」と言った。二重価格。世界中どこにでもある現象だ。



その懐かしいチャイナタウンにもよく見ると味のある古ビルが建っていた。

チャイナタウンの一つ北のロンズデール通りはギリシャ地区だ。メルボルンは世界有数のギリシャ系人口を抱える都市だが、こちらの方は中国人街とくらべて勢力拡大の様子がなく、いまひとつ元気がないように見えた。



チャイナタウンがあるリトル・バーク通りの1本南の通りがバーク・ストリートで、ここにもこんな魅力的な壁面の古びたビルがたっている。



さて、メルボルン最大の目抜き通りバーク・ストリートがスワンストン通りとエリザベス通りと交差する間はバーク・ストリート・モールと名付けられた商店街だ。マイヤー、デービッド・ジョーンズといった百貨店もこのあたりに面している。デービッド・ジョーンズの地下のグルメショップへ行って、むかしよく食べたイチジクとショウガのジャムの瓶詰を買った。

ここからちょっと北の、シティー・ループのメルボルン・セントラル駅近くには、かつて大丸デパートがあった。日本食のカフェテリアがあり、オーストラリアの若者がおむすびを食べながらコカコーラを飲むという、日本人にとっては珍しい光景が見られた。

大丸デパートのお肉屋さんは、牛肉をしゃぶしゃぶ用に薄くスライスしてくれた。オーストラリアのお肉屋さんは、たいてい、肉はかたまりかステーキ用に切って売るものと心得ているので、大丸の肉屋さんは貴重な店だった。

その大丸も10年ほど前にメルボルンから撤退した。いまメルボルンでは日本勢は失速している。メルボルンの繁華街でのしているのは中国系の商人だ。バーク通りから一つ北のリトル・バーク通りの東半分がチャイナタウンで、中国系店舗はチャイナタウンからさらに、スワンストン通りにあふれ広がっている。



バーク・ストリート・モールから、立派な天井を付けて、しゃれた装飾を施したアーケードに入る。シティーの中心部のビルとビルとの間のアーケードや細い路地裏をあるくと、面白い風景が眺められる。

ひとつの路地を通り抜け、別の路地に入ると、そこもまた裏町の路地で、飲食店がひしめいている。東京に新宿・ゴールデン街を愛してやまない人がいるように、メルボルンにもこうした路地裏文化を愛好する人がいるのだ。



前日の初夏の陽気が一転、雨の早春にもどった日でもこうした路地はにぎわっている。



路地を抜けると、突如、ストライキの決行中の人々に出会った。





10 フェデレーション・スクエア




オーストラリア連邦成立100年を記念して、2001年、メルボルンにフェデレーション・スクエアがつくられた。オーストラリアは若い国なのである。



フェデレーション・スクエアの場所はスワンストン通りをはさんでフリンダース・ストリート駅の向かい側。フリンダース通りの向かいにはカテドラルが建っている。



ヤラ川を渡った右手には、レストラン、カフェ、ショッピング施設を集めたサウス・ゲイトがある。



フェデレーション・スクエアには美術館もあって、アボリジニ絵画もたくさん展示されている。

イギリスの流刑船が来る前からオーストラリア大陸に住んでいたアボリジニとトレス海峡諸島民をオーストラリアでは先住民としている。先住民の運命は北米の先住民のそれと似ている。

私がメルボルンで暮らしていた1992年にオーストラリアの裁判所が先住民の土地の権利を認める画期的な判決を出したことがある。それまで、オーストラリアでは、イギリス人が来る前はterra nullis (無住地)だったという説がまかり通っていたが、判決は先住民が放浪の民ではなく、一定の土地と強いつながりを持っていたとした。



この判決はトレス海峡諸島民のエディー・マーボが率いる訴訟団が10年間にわたっる法廷でのたたかいによって勝ち取ったものだった。彼の名をとってメディアは「マーボ訴訟」とよんでいた。

渡来したイギリス人による虐殺などの物理的排除のせいで人口を減らし続け、1930年代には5万人台までに落ち込んだ先住民の人口は、オーストラリア政府の統計によると、現在では先住民の血を引く人口は50万人にまで回復している。

だが、社会的な偏見や蔑視は消え去っていない。2013年になっても、先住民の血を引く混血のオーストラリア式フットボールの有名選手が、試合中、相手チームのファンから「猿」と呼ばれるできごとがあった。

さて、スクエアにはオープンからこれまでに累計9000万人の人が集まり、オーストラリア随一の広場になっているという。

40年ほど前に、『オーストラリアン』の記者と知り合ったが、彼の目標はロンドンの特派員になることだった。連邦発足から70年ほどたった時期なので、イギリス系のその記者にとっては祖国イギリスに駐在することは、大きな夢だったのだろう。日本ではアメリカ大使になるのが外交官の夢である。



後年、大学で教えるようになって、ウルグアイから留学してきた日系の院生を指導したことがある。その学生は、初等教育で祖国はスペインであると教えられた、と言った。

2007年の11月、中南米諸国と旧宗主国スペイン、ポルトガル両国が開いたイベロアメリカ首脳会議で、スペイン批判を繰り広げたベネズエラの故チャベス大統領に対して、スペインのファン・カルロス国王が「黙りなさい」と一喝する面白い出来事があった」。チャベス大統領は中南米の自立に対するスペイン王室の苛立ちだ、と国王を批判した。まだ、スペインと中南米にあいだには、そのような微妙な感情が残っているのだ。

オーストラリアにはいま駐留するイギリス軍はなく、アメリカ軍が少数ではあるが北部のダーウィンに駐留している。将来は2500人程度の海兵隊が常時駐留する予定だ。

イギリスへの忠誠が望郷に代わり、一方で米国と安全保障上のつながりが強まった。排他的な白豪主義が多文化主義にかわった。イギリス風退屈な食生活が多彩な国際的雑種料理になった。

時がたてばたいていのものは変わって行く。

                     (写真・文 花崎泰雄)