1 ノーベル平和センター

フィヨルドめざしてベルゲンへ移動する前、1週間ほどオスロに滞在した。オスロで最初にやったことは、ノーベル平和賞関連施設の見学だった。

ウォーターフロントにあるオスロのシティーホールの、大きな壁画のある1階大広間がノーベル平和賞の授賞式の会場に使われる。

シティーホールのすぐ近くに、ノーベル平和センターがある。ノーベル平和センターは10年ほど前に、以前は鉄道のオスロ西駅だった建物を利用して開館した。歴代のノーベル平和賞受賞者を、視聴覚資料を使って紹介している。歴史的な資料やドキュメントを展示しているわけではない。

ノーベル平和センターはある意味で幻滅の館である。ノーベル平和賞の受賞者の選考は、時事的な興味に引きずられている面がある。選考委員会の考え方もスペキュレイティブである。したがって、受賞から一定の時間を経て、受賞者を眺めると、どうしてこの人に平和賞が、といういらだちを感じる。

たとえば、1973年の受賞者、ヘンリー・キッシンジャー。ベトナム戦争はアメリカの介入で始まり、アメリカは50万の兵士をベトナムに送り込んだ。パリ和平交渉はアメリカがメンツを失わないで米国から撤退する環境整備のためのカムフラージュだった。パリ和平会談が行き詰まると、アメリカは北ベトナム(当時)へ激しい攻撃を加え、力づくで交渉のテーブルに着かせた。1973年のベトナム和平協定は蜃気楼のようにあやふやなもので、南ベトナム軍と北ベトナム軍の戦いは1975年のサイゴン陥落まで続いた。

だから、ヘンリー・キッシンジャーとともに受賞者に選ばれたが、きっぱりと受賞を断った北ベトナムのレ・ドクトの方がいまでは輝いて見える。

1974年には佐藤栄作が受賞した。主要な受賞理由が日本に非核三原則「もたず、つくらず、もちこませず」を打ち立てたことであるとされた。授賞式のスピーチでも佐藤は核三原則に触れ、それを自賛している。

ところが、時の流れとともに、沖縄返還にあたって、米軍が沖縄から核を撤去したのちに緊急事態が生じた場合、米軍の核再持ち込みを拒否しないと佐藤政権は米側と密約を交わしていた。米国の史料からこのことがわかった。日本の当時の外務省の高官ものちに密約があったことを認めた。佐藤栄作の遺品の中からこの密約文書が出てきて、大きな話題になった。

バラク・オバマは、核兵器のない世界を! とスピーチしただけで平和賞を受賞した。だが、核兵器削減は遅々として進まなかった。

 

アウンサン・スー・チーはミャンマー民主化の旗手だった。今では、少数民族ロヒンギャへの抑圧を傍観していると非難を浴びている。

いまのところ幻滅を感じさせない受賞者―ーマララ・ユスフザイや、リウ・シャオポーのような、政治権力を持つ側でなく、権力から抑圧されてもくじけなかった受賞者が、気分をほっとさせてくれる。



リウ・シャオポーが20177月に世を去ったばかりだったので、ノーベル平和センターの出口付近に大きなポートレートが飾ってあった。



2 ホルメンコーレンのジャンプ台

「海に向かってジャンプするのです」

子どものころラジオで聞いた記憶がある。オスロ郊外のホルメンコーレンのスキー・ジャンプ台は1952年のオスロ冬季オリンピック大会でつかわれた。そのあともいろんな国際大会のジャンプ台に使われてきたので、オスロ冬季オリンピックの放送で聞いたのか、その後の国際大会の放送だったのか、今となっては、記憶がはっきりしない。



ホルメンコーレンのジャンプ台は標高400メートルほどの丘の上にある。ジャンプ台からはオスロ沖のフィヨルドが眺められる。

選手が海に向かって飛翔するスキーのジャンプ台をみたくなった。オスロ市の中心部から地下鉄に乗って約30分ほど。地下鉄は市街地を出ると地上に現れ、400メートルを登って行く。

傾斜は緩やかで、電車の周りは林だ。林の間から瀟洒な住宅がみえる。いうなれば旧軽井沢のような風景の中を電車は走る。

雪のないジャンプ台は殺風景である。紅葉のシーズンに白馬のジャンプ台へ登った(と言ってもエレベーターで)ことがある。選手が滑走する助走路、踏切から下の着地斜面。見下ろすと、足がすくんだ。

たっぷり積雪した冬のジャンプ台は大鰐で見たことがある。かれこれ40年ほど前のことだ。そのころ、選手はスキーの板をかついで、スタート地点までスロープ横の階段を歩いて登っていた。スタート地点から下をもおろす機会があったが、見えない手でスロープに引きずり込まれるような恐怖感に襲われた。気がつくと、鉄柵をにぎりしめていた。

ホルメンコーレン・ジャンプ台の夏のアトラクションは、ジャンプ台のてっぺんから地上までワイヤロープを張り、そのロープに人間がぶら下がり、海に向かって滑空する遊びである。ジャンプ以上に肝が冷えることだろう。



ノルウェーはノルディック・スキーの発祥の地だけあって、選手たちが夏季練習に励んでいた。スキーの板に車輪を付けて坂道を登り下りして脚力を鍛えている。鉄砲をかついだ選手が車輪付きスキーで走り、標的に向かってパン、パンと銃を撃つ。かつて雪中で狩をしたハンターの名残り、あるいは兵隊の雪中軍事活動の名残である。バイアスロンという競技だ。そういうわけで、日本のバイアスロンの競技者は自衛隊員が多い。





3 海辺の要塞

オスロ港の外洋大型クルーズ船が発着する桟橋のすぐ裏手の丘に、古い要塞跡――現在では王室ゆかりの城跡公園がある。観光名所のアーケシュフース城である。



城跡公園への登り口の1つである坂道の途中に、大きな石像がおかれている。椅子にでんと構えて坐っているのは西洋人の顔をした像だ。台座にFranklin Roosevelt と名前がある。

その名前には見覚えがあったが、石造の顔は写真で知っているその人にはあまり似ていなかった。ニューディール政策で有名な米国の第32代大統領である。

でも、なんで、アメリカの大統領の大きな石の座像がこんなところにあるの?

こういう場合、日本では高札を立ててその由来を公衆に知らせることが多いのだが、ここはノルウェーのオスロだ。そんなものはない。

あとで調べてみたら、ナチス・ドイツがノルウェーに攻め込んだとき、当時米国大統領だったルーズベルト氏がノルウェー皇太子妃と彼女の子どもたちを米国に受け入れたことがあった。国王と皇太子は亡命政権とともにイギリスに逃れた。皇太子妃は一時スウェーデンに行ったが、居心地が悪く、米国の招きに応じたという。第2次大戦終了後、その感謝のしるしとしてルーズベルト氏の石像をアーケシュフース城への道のかたわらにたてた。

このルーズベルト氏の石造の鼻が欠けた事件があった。アメリカの高慢の鼻を嫌った反米主義者の器物損壊事件なのか、自然現象なのか、原因は不明のままらしい。だが、ことはノルウェーと米国の友好関係に関わるので、丁寧な修復がおこなわれた。そのいきさつは駐ノルウェー米国大使館のサイトの写真つき記事で読むことができる。



さて、アーケシュフース城だが、13世紀の終わり頃から要塞として建設がはじめられ、14世紀に完成した。難攻不落の要塞で、17世紀にはルネッサンス様式の建物を建設して王宮にした。

現在の王宮はオスロ市内の別の場所ある。王宮跡の建物は改築して現在も様々な催しに使われているとガイドブックにあった。もちろん、この要塞跡の敷地からオスロ湾が一望できる。





4 港の風景

オスロのウォーターフロントは、残り少なくなった夏を楽しむ市民や観光客でにぎわっていた。遊歩道の海側には古い船を改造したフローティング・レストランがあり、陸側にはテラスのカフェが賑わっていた。



ヨーロッパの人は歩道に面したテラスで食事を楽しむ癖がある。北イタリアのオーストリア国境近くの山岳地帯の街で、真冬に、吹きっさらしのテラスで、防寒具を着込んでコーヒーを飲んでいる人を見たことがある。

日本の街でもヨーロッパの真似をしたカフェテラスがふえているが、どうも見た感じ、シックから遠い。屋台の感じが強くにじむ。

むかし、奄美大島の名瀬の洋食レストランで、暇を持て余していたシェフと時間つぶしの無駄話をしたことがある。関西のホテルで料理長をやっていたが、誘われて名瀬でレストランを開いた。ガラス張りのレストランで歩道から中が見える設計だったが、客の評判は悪かった。日本人はものを食っている姿を他人に見られることを嫌がるのだ、とシェフは言った。

カフェで食事を終えた人たちは、遊歩道の海側のベンチに腰を下ろして、アイスクリームをなめながら、のんびりと海を眺めている。ヨーロッパの高緯度国だから気温はさほど高くない。だが、日差しは強い。ノルウェーでもオゾン層が薄くなって強い紫外線が降り注ぐようになってきた。



港には大型のクルーズ船が停泊している。オスロ・フィヨルドめぐりの観光船や、対岸の街へ向かう小型の連絡船が出入りしている。とはいえ、ウォーターフロントで見るものはさほど多くない。とろんとした気分で、無為の時間を過ごすことが最高の休養なのだろう。



5 樽板教会

オスロの中心にある港から巡航船に乗って、オスロの東南側の海沿いにあるビグドイ地区へ向かう。

ビグドイ地区は緑豊かな、ゆったりとした住宅地区で、ここにトーイ・ヘイエルダールのコンティキ号博物館、ヴァイキング船博物館、北極冒険航海者のナンセンとアムンゼンが乗った船・フラム号の博物館、ノルウェー海洋博物館、ノルウェー民俗博物館がある。

ビグドイ地区へは陸回りのバスでも行けるが、オスロ・フィヨルドの気分を味わってみようと、船で往復した。薄曇りで、ときおり雨がぱらつくあいにくの天気の日だった。風は弱かったので、船は揺れなかったけれど。

ノルウェー民俗博物館は、ノルウェーの国中から集めた200軒近い歴史的家屋を屋外に展示してある。日本の明治村の親戚のようなテーマパーク風屋外博物館である。

そこで見たかったものはただ1つ。左側の奇怪な建物である。この建物を印刷物で見たとき、はっきりとした妖気を感じた。それがノルウェー語でstavkirke英語で stave church、日本語で樽板教会とよばれる12世紀から13世紀にかけての木造のカトリック教会だった。

イスタンブールのハギア・ソフィア(現アヤ・ソフィア博物館)は5世紀ごろから建築をはじめ、火事、動乱、自然崩壊などで改築を重ねて、現在のような巨大な建物になった。中国・朝鮮・日本の仏教の古い建物は木造だが(現在では鉄筋コンクリート造りのお寺も珍しくなくなった)、キリスト教会の建物は、ヨーロッパではたいてい石造りである。ヨーロッパの中部・南部には壮麗な中世のキリスト教会が残っている。11世紀ごろにはパリのサンジェルマン教会の鐘楼はすでに立っていた。

キリスト教の北限だった北ヨーロッパでは、中世にはこのような木造の教会がたてられた。ノルウェーだけでなくスウェーデン、イギリス、ドイツに建てられた樽板教会もあった。最も多かったのがノルウェーで、かつては国内に1000以上の樽板教会があったが、すでにすでにほとんどが失われた。現存する樽板教会は30を切っている。

ノルウェー民俗博物館の樽板教会は、オスロとベルゲンを結ぶ鉄道の中間あたりにあるゴルという町から解体・移築されてきたものだ。



教会の1階部分は立ち入りが許されている。中にはいると薄暗い中に壁画のようなものが見えた。木造建築だから板絵という方が正確かもしれない。

それがこの写真。最後の晩餐である。描かれている人物がダ・ヴィンチの最後の晩餐で描かれた人物と比べると、人間の風貌が野武士風の野性的な雰囲気に満ちている。

三脚など持ち歩かないので、iso 感度を目いっぱいにあげて手持ちで撮影した。



6 名画

せっかくノルウェーまで来たのだからと、値段の張る航空運賃の元を取ろうといわんばかりに、美術館へエドヴァルド・ムンクの絵を見に行った。

元より絵画に深い興味を感じているわけでもないから、お目当ては例の『叫び』だ。この絵は同じ図柄の作品が何点かあるそうで、オスロの国立美術館が所蔵する油彩の作品がなかでも有名である。この絵は過去に盗まれて大騒ぎなったことがある。



芸術品はやはりオリジナルの所蔵館で見るのが一番だ。見る方にも何となく気合が入るし、何よりも混雑しないのがいい。来年、日本でムンクの作品展を開くそうだが、例によって芋洗い状態の混雑の日々が続くことだろう。

オスロの国立美術館へ行ったが、『叫び』の前に人だかりは全くなかった。印刷された複写版に比べると、実物は彩度が抑えられている。

オスロの国立美術館と、同じくオスロのムンク美術館、それにベルゲンのコーデー美術館の特別展でムンクの絵をいくつか見た。今でも記憶に残っているのは、いくつかの作品に描かれている人物の目が大変特徴的だったことだ。

 

 

それらの目をいくつか例示するが、『叫び』の幻聴といい、これらの目の見えざる暗示といい、当方にはそれを解説する才覚も能力もない。作者は相当の怯えを感じていたのだろう。このムンクの怯えに感応して、ムンクを巨匠として高く評価する人たちには、ムンクの怯えの源がわかっているのだろう。それ、何だろう?

写真と文: 花崎泰雄