
1 セーヌのリベルタス
7年ぶりにパリに来た。前回の訪問のさいは、パリで交通ゼネストが続いていて、市内の移動が大変だった。クリスマスのころだったので、夜間の観光バスでイルミネーションに輝く夜のパリを眺めた。今回は、パリが東京並みの猛暑に襲われていた7月下旬から8月上旬にかけて。午前中は涼しい風が吹いたが、正午から日没の午後9時ごろまで頭がくらくらする日差しと気温だった。とにかく暑かった。
シテ島のノートルダム大聖堂へ行った。聖堂前の広場には入場待ちの観光客があふれかえっていた。聖堂内部への入場を数時かけて炎天下で待つ気力もなく、シテ島から橋を渡ったところにあるカフェで冷たいものを飲んで涼もうと考えた。橋を渡っているとき、シテ島と左岸の間のセーヌ川の土手に川風を求める人の姿が見えた。冒頭の写真でわかるように、日陰になった左岸の土手の遊歩道には川風に涼を求める人影が点々と続いていた。日当たりのいいシテ島の遊歩道には人の気配がなく、無慈悲な日光が乾いたコンクリートをカンカンと照らしていた。
橋のたもとのカフェで体を冷やし、夕方6時、シテ島の船着場からセーヌ川遊覧船に乗った。セーヌ川の遊覧船には初めてパリを訪れた1980年代に乗った記憶がある。だが、自由の女神像とエッフェル塔が並んで見える風景は今回初めて見たような気がした。

自由の女神像(Statue
de la Liberte)は、ローマ神話の自由の女神リベルタスをモチーフにしている。高津春繁『ギリシア・ローマ神話辞典』によると、ローマ時代の自由市民が享受する自由の擬人化神で、ローマ帝政時代には政治的自由の女神とされた。
ニューヨークの自由の女神像はアメリカ合衆国独立100年を祝って、フランス市民の寄金などで、フランス市民が合衆国市民に贈った。セーヌ川の自由の女神像はフランス革命100年を祝賀してアメリカらフランスに贈られた。米仏あい和して市民的自由の賛歌を歌いあげたのだが、両国政府の外交姿勢、あるいは世界観は時に対立した。
ドゴール元仏大統領は米国のベトナム戦争を厳しく批判した。米国に牛耳られるNATOの軍事部門から一時的な撤退を決めたのはドゴール大統領だった。今では、米国のトランプ大統領が、NATOの加盟国に対して防衛費の増額を求め、それが達成できないのであれば、米国はNATOから手を引くと脅している。フランスは米国が去った後のNATOに備えて、自国の核兵器増産し、NATOをフランスの核の傘に下におく意欲を示唆している。
かつてニューヨークの自由の女神像は圧政から逃れて米国へ移民してくる欧州人の希望の松明だった。今ではトランプ政権が移民・不法滞在者の追い出しに躍起になっている。
さて、船を降りてモンパルナスの大衆食堂のブイヨン・シャルティエ・モンパルナスに行った。しかし、店内の席がいっぱいで、順番待ちの客が店の前に行列をつくっていた。パリの物価は高い。日本で予約したルーブル美術館の入館料は32ユーロ。EU加盟国の人なら20ユーロ少々である。二重価格に加えて、1ユーロ180円台までに弱くなった日本円にげんなりしてしまう。最初にパリに来た1980年代にはサンジェルマンデプレのアメリカ風ビジネスホテルに泊まった。ホテルの人が教えてくれたレストランで奮発してフルコースを頼んだ。お代は1人前1万円ほどだった。サンジェルマンデプレのそのホテルが今では1泊10万円。
今回の旅ではレストランのフルコースはもはや高嶺の花。ホテルのコンシェルジュに、おいしいクロワッサンはどこで買えるかと尋ねたら、ラファイエット百貨店のグルメ館へ行くのが手っ取り早いと教えてくれた。グルメ館でクロワッサンとバゲットを買い、お菓子ショップのテーブルで飲み物を頼み休憩していると、こども2人を連れたスペイン人らしい夫婦がやってきた。私たちはテーブルを移り、4人分のスペースをつくってあげた。感謝のしるしにと、お父さんが手に持っていたよく冷えたエビアンのペットボトル2本をくれた。330ccのエビアンの小ペットボトルの値段は、お菓子屋さんの店頭価格で1本5ユーロ、900円と表示してあった。
食費節約のために大衆食堂ブイヨンには何度かお世話になった。その一つブイヨン・ジュリアンで私たち2人が食べた前菜のエスカルゴ、ウサギ肉のテリーヌ、肉料理、魚料理の写真を添えておこう。


この料理に少量のワインとスパークリング・ウォーターを合わせたお代は50数ユーロ、日本円で1万円である。ブイヨンはスープであるが、安レストランも意味する。予約は受けないし、テーブルは相席が原則だ。物価高のパリではこの手の大衆食堂が増え始めていると聞いた。ただし、ブイヨン・ジュリアンはブイヨンに転向する前は由緒あるレストランだったとかで、食堂は天井に至るまでアール・ヌーボーの装飾であふれていた。
2 クロード・モネ
2026年はクロード・モネ(1840-1926)の没後100年にあたる。パリの美術館をめぐってモネの睡蓮を思う存分見たいと言い出したのはつれあいだった。ついでに、モネが池を掘り、睡蓮をそだて、晩年の一連の睡蓮を描いたジベルニーの旧宅もたずねたいといった。私の方は、モンパルナス、モンマルトル、ペール・ラシェーズのパリの3大墓地を訪れ、これまでに書物を通して知った先達の墓参りをしたかった。ついでに、写真家の故アンリ・カルティエ=ブレッソンを記念する財団のギャラリーを訪ね、70年ほど前に初版が出て、その後絶版になっていた、ブレッソン最高の写真集・Images
a la sauvetteを同財団が復元出版したので、その1冊を買い求めたいと思い、パリ行きに賛成した。

テュイルリー庭園のコンコルド広場寄りにあるオランジュリー美術館のクロード・モネの「睡蓮の間」はテレビ放送やインターネット上の写真で見たことがある。だが、美術館内で実物の絵をまぢかで見ると、迫力を感じる。迫力ねえ、もっときりっとした感想はないの、と言われても、私には絵画の鑑賞のための基礎知識もない。モネの睡蓮の間は円形で、2部屋設けられている。湾曲した壁に映画のシネマスコープよりさらに横長の大画面が広がっている。
オランジュリー美術館の「睡蓮の間」に圧倒された数日後、パリから70キロほど離れたジベルニーのモネの旧居へ行った。エッフェル塔の近くに決められた時刻に集合し、バスで1時間半かけてジベルニーに直行。ガイドが旧居の睡蓮と柳の池に案内してくれる日帰りバス・エクスカーションである。

遠足の日も暑かった。モネの池の水も日差しでぬるんでいるように見えた。蛙が飛び込めば行水の湯と感じるほどの暑さだった。モネが描いた睡蓮の池のような冷涼感はなかった。大勢の来客が金魚の糞のように連なって池の周りを廻っていた。静物画の果物はおいしそうに描かれているが、それは画家がおいしそうに描いたからだ。西洋の美術館では時に、大きな獣肉の塊を描いた絵を見ることがあるが、画家はその肉の塊のどこに芸術的に感応したのだろうか。
マルモッタン美術館はブローニュの森に近い高級住宅地にあった。もとはお金持ちの別宅だったそうだ。おとづれた日、美術館ではジョバンニ・セガンティーノの作品展をやっていた。涼しげなアルプスの風景画を眺め、そういえば中学生のころの美術の教師がセガンティーニの絵が好きだったことを思い出していた。
マルモッタン美術館はモネの絵のコレクションで有名だ。ここにも睡蓮の絵が展示されていた。つれあいがいう。「たくさん集めていることと、いい絵があるといことは、違う話なんだね」

マルモッタン美術館のモネ・コレクションは美術館の地階のギャラリーに展示されている。壁にさりげなくモネの『印象 日の出』がかけられていた。かつて銃を持った盗賊に強奪され、数年後にコルシカ島で回収されたいわくつきの絵である。この絵をもってモネを印象派の先駆者とする説もある。精選版日本国語大辞典によると、1874年に開かれた第1回印象派展覧会にこの絵が出品された。意地の悪い美術記者が、「印象だなんて」と嘲笑する記事を書いたのが、印象派という名の由来だという。モネが描いたこの太陽が、日の出なのか、日の入りなのか、論争もあったが、日の出ということで決着した。絵のタイトルはフランス語で、Impression, soleil levant。

3 ヴァンドームのナポレオン
オランジュリー美術館へモネの睡蓮を見に行ったのは7月26日の日曜日だった。モンパルナスのホテルを出るときフロントから声をかけられた。「今日はツール・ド・フランスがパリにゴールインする日なので、あちこちで交通規制が行われます。おきをつけて」
モンパルナスから地下鉄12号線に乗ってコンコルド駅で下車、広場を横切ってオランジュリー美術館の玄関たどり着く予定だった。しかし、地下鉄はコンコルド駅の一つ手前、アサンブレ・ナシオナル(国民議会)駅で停車。「この列車はここまで、皆さん、下車してください」。
地上に出て、セーヌにかかるコンコルド橋を渡れば美術館はすぐそこにある。そう思っていたら、コンコルド広場が閉鎖されていて、結局、一つ上流の橋まで歩き、そこからテュイルリー庭園に入り、美術館玄関に戻る大迂回を余儀なくされた。
コンコルド広場のシンボルであるオベリスクは見えるが、広場は車やテントなどで占拠されていた。

美術館を出た後、庭園をルーブル美術館に向かって歩き、途中からヴァンドーム広場へ出ようとしたが、庭園からヴァンドーム広場に向かう道は、ゲートで閉鎖されていた。ゲートの向こうに高い尖塔があり、てっぺんにナポレオン・ボナパルトの像がある。若いころMJQの典雅な演奏「ヴァンドーム」を聞き、マルクスの『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』(伊藤新一、北条元一訳、岩波文庫)を熱読したのちに、初めてパリに来て、やおらヴァンドームのナポレオンを見上げたときは、ノスタルジックな気分でいっぱいだった。
ナポレオン・ボナパルトとルイ・ボナパルトの叔父・甥の2人組は、「ボナパルティズム」という政治用語を残した。議会で拮抗する二つの政治勢力を操って、結局、自分が独裁者としての権力を握る政治術である。あるいは、議員は民主的な議会制度を守るのがたてまえだが、自派の影響力や自らの権益をも守るために、時には専制的な政治勢力と組むこともある、という教訓でもある。当時のフランスでは未成熟なブルジョワジーと未成熟なプロレタリアートが対立していたが、いずれも政治権力を掌握するだけの力がなかった。
ナポレオンのフランスから遠く離れた20世紀のインドネシアで、初代大統領だったスカルノは軍部とインドネシア共産党の2大政治勢力を競わせ、双方がスカルノの力、あるいは人気を頼りにスカルノにすりよるシステムを創りあげた。そのシステムが老朽化して機能不全に至った時、反スカルノの軍事クーデタが発生し、軍部がイスラム勢力と反共派のインドネシア国民を巻き込んで、大殺戮を始めた。その屍の上にスハルト大統領が堅固な独裁体制を構築した。スハルト独裁体制が崩れるのに30年以上の年月が必要だった。権力争奪ゲームは恐ろしい。
マルクスの『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』は抜群の政治ドキュメンタリーである。物語はマルクスの皮肉、当てこすり、ののしりの言葉に包まれて進行する。精気あふれるジャーナリズムの作品である。ヴァンドーム広場のナポレオン像を乗せた塔は、ナポレオン率いるフランス軍がアウステルリッツの会戦で勝利したことを記念するため、ナポレオン・ボナパルト自らが建設した。ナポレオンが失脚すると、彼の像は塔から外された。その後ルイ・フィリップ王と、ナポレオン3世が像を復元した。権力が誰の手におちるかによって、ナポレオン像は塔の先端から外され、また復元された。権力のシーソーゲーム。

そうしたいきさつを踏まえて、マルクスは『ブリュメール十八日』で、彼が軽蔑していたルイ・ボナパルトについて次のように書いた。「やがて皇帝マントがルイ・ボナパルトの肩に落ちかかるときには、ナポレオンの銅像はヴァンドーム柱のてっぺんから転げ落ちるだろう」と『ブリュメール十八日』の巻末で予言した。
1871年、パリ・コミューンが始まると、政治的にも活発だった画家ギュスターブ・クールベがヴァンドームの塔をナポレオン像もろとも破壊することを提唱、実践した。だが、パリ・コミューンの時代が終わると、次の権力者が塔の再建を決めた。そのうえ、塔とナポレオン像の破壊を主導したクールベに再建費用を支払わせようとした。当局は画家の作品や資産を押収を始めた。クールベはスイスに亡命、その後パリに帰ることはなかった。
マルクスが『ブリュメール十八日』の冒頭で言っている。世界史的事件は二度起こる。一度目は悲劇、二度目は茶番。

ヴァンドーム広場へ行くのをあきらめ、連日の日照りで埃っぽくなり風に砂が舞い上がるテュイルリー庭園をルーブル美術館に向かって歩いてゆくと、目の前に巨大な気球が浮かんでいた。なんだ?これは。
4 ビーナス、その後ろ姿

ルーブル美術館は毎週金曜日、午後9時まで開いている。ミロのビーナスを背後からぼんやりと眺め、なるほど彼女はバックシャンでもあったと感心し、階段のサモトラケのニケを横目で見て、モナリザのへ部屋をのぞいた。あとは館内をぶらぶらと歩いた。展示されている絵画は、これでもか、これでもか、という無尽蔵ぶりで、正午ごろ入館、閉館時刻の午後9時まで、ざっと2万歩は歩いただろう。名画鑑賞は疲れる。

今回は美術館の地下に改修・公開されている、ルーブルがセーヌ川沿いの軍事要塞だったころの石組みの空間で一息いれた。空気はひんやりしていて、何よりも人間が少ないのがありがたかった。

最初にルーブルに来たとき――まだ現在の入り口のピラミッドの建設ははじまっていなかった――地下に工事現場の石組みのような岩石があり、その傍に美術館の通路があった。あの空間がこんなになったのか。ルーブルは要塞として始まり、宮殿になり、美術館になった。

午後9時ごろルーブルを出ると、テュイルリー庭園の方角に太陽が沈み始めていた。カルーゼル凱旋門がシルエットになっている。門のてっぺんの4頭だての戦車(quadriga)がくっきりと見える。いま飾られているクアドリガは新しくつくられたもので、それ以前はナポレオンの軍がベネチアを攻めた時、戦利品として持ち帰った戦車が飾られていた。ナポレオン失脚後にその戦車はベネチアに返され、サンマルコ寺院の宝物になっている。この4頭立て戦車はベネチアが十字軍遠征のころ、コンスタンチノープル(イスタンブール)から略奪したものだ。クアドリガがイスタンブールに帰る気配はない。ナポレオンはベルリンを攻めた時、ブランデンブルク門のクアドリガをフランスに持ち帰った。のちにパリに攻め込んだプロイセン軍がこれを奪い返した。
EUに集結して小康状態のヨーロッパだが、ほんの最近までは取ったり取られたりの戦国時代の様相があった。
パリ市内には戦勝記念の凱旋門がいくつかある。カルーゼル凱旋門のほか、ドゴール広場にエトワール凱旋門があり(写真左)、街中にはポルト・サンドニの凱旋門がある(右)。私はこじんまりとしたポルト・サンドニの門が好きだ。

パリでは、最近、新市街のビジネス地区に凱旋門のような建造物がつくられた。「グランダルシュ(Grande Arche)。パリ市の西北近郊のラ・デファンスの高層ビルだ。旅行案内書などには「新・凱旋門」と書かれることが多いが、正式には「友愛のグランド・アーチ」(la Grande Arche de la Fraternite)。
米国のトランプ大統領がワシントンD.C.に凱旋門を建設したがっていると米国の新聞などが伝えているが、どうなんだろう。「トランプのアーチ」とよばれる計画だが、トランプ凱旋門が建つのか、白昼夢に終わるのか。11月の米中間選挙という関門をトランプ氏はくぐり抜けねばならない。
5 マリー・アントワネット
パリのマドレーヌ広場に建つマドレーヌ寺院はユニークなカトリック教会である。列柱を強調した古代ギリシアの神殿を模してデザインされている。この聖堂はルイ15世の時代に教会としての建築が始められた。ルイ16世の時代にフランス革命がはじまり、基礎工事の段階で建築は中断。ナポレオン皇帝の時代にギリシア風の軍事記念神殿として設計しなおされた。ナポレオン失脚後、ルイ18世がカトリック教会として建設を進めた。
建物の内部に入ると、そこはれっきとしたカトリックの教会である。カトリックの聖堂に見られるステンドグラスはないが、立派なパイプオルガンがある。フォーレのレクイエム初演のときこの聖堂が使われた。寺院の内部はひんやりとして、落ち着いた雰囲気である。とはいえ、マドレーヌ寺院にお参りに来たわけではない。近くのフォションへ行き、ついでに寺院に立ち寄った。

1793年にコンコルド広場の刑場でギロチンによって首を切り落とされたルイ16世とマリー・アントワネットの遺体は、このマドレーヌ寺院の近くのマドレーヌ墓地に埋葬された。ルイ18世の時代に2人の遺骨・遺物は掘り返されて、パリ市郊外の、モンマルトルの丘を越えたサン・ドニのサン・ドニ聖堂の地下に移葬された。サン・ドニ聖堂はブルボン家の墓所になっている。キリスト教布教のために3世紀ごろパリに来たサン・ドニが何かの理由で、モンマルトルで首を切られた。サン・ドニは斬首された自分の頭を抱え、モンマルトルの丘を越え、サン・ドニまで歩き、力尽きて倒れた。その場所に建てられたのがサン・ドニ聖堂だという伝説が語られている。
マリー・アントワネットはなぜギロチンで首をはねられることになったのだろうか。彼女は濫費癖と民衆蔑視の傾向が強くフランス革命のとき反革命の陰謀の中心とみなされた、と精選版日本国語大辞典は解説する。平凡社の『世界大百科事典』は「その運命は悲劇的であるが、嫁して夫を軽んじ、王妃でありながら国民を裏切った彼女にとって、それはむしろ当然の報いであったといえよう」と、冷酷かつ古風な言い方をしている。
バーナード・ショウがジャンヌ・ダルクを主人公にした戯曲 Saint Joan(1924)の前書きで、ジャンヌ・ダルクは字が読めなかった、と書いている。ジャンヌ・ダルクの時代,そしてその後も長らく、王女様の多くがそうだった。「たとえばマリー・アントワネットはジャンヌ・ダルクの年頃、自分の名前をきちんと書けなかった」とショウは言う。
シュテファン・ツワイク『マリー・アントワネット』(岩波文庫)は、こんな風に彼女の伝記を書き始めている。オーストリアのハプスブルク家とフランスのブルボン家は長らく抗争を繰り返してきたが、プロイセンの台頭に対処するために外交方針を転換し、双方が手を結びあうことにした。そのためにハプスブルク家のマリア・テレサは娘のマリー・アントワネットを将来のフランス王になるはずのルイ15世の孫と結婚させる取り決めをブルボン家と交わした。しかしマリア・テレサは自分の娘である未来のフランス王妃が「13歳にもなりながら、ドイツ語もフランス語も正しく書けず、歴史や一般教養の極めて表面的な知識さえ身につけていないことに、ある日、気がついてびっくりする」とツワイクは書いている。
ハプスブルク家の凡庸な皇女が14歳でフランスへ行き、そこで革命と遭遇、夫であるルイ16世はギロチンで首を切られ、彼女自身もまた斬首された。子どもの多くも失った。ロシア革命では、1918年にロマノフ家のニコライ2世と妻と5人の子どもがボルシェビキの兵士によって皆殺しにされた。人間の生涯はすべて偶然、とヘロドトスが『歴史』で言っている。歴史と個人の関わりあいについて、こうした言い方以外にどんな説明ができるのだろうか。
そういうわけでベルサイユへ行き、宮殿の敷地内にあるマリー・アントワネットが隠棲した小トリアノン宮を見た。小トリアノンと呼ばれるこじんまりとした離宮は、ルイ15世が愛人のポンパドール夫人のために建設し、それをマリー・アントワネットが受け継いだ。わが亡き後に洪水よきたれ、と言ったとされるポンパドール夫人はマリー・アントワネットより24歳年上だった。ヘロドトスが言う「偶然」の歯車のかみ合わせがほんのちょっと違っていたら、マリー・アントワネットが「わが亡き後に……」とつぶやき、ポンパドール夫人がコンコルド広場で首を切られる、そうしためぐりあわせがあったかもしれない。小トリアノンのマリー・アントワネットの食堂でふと馬鹿げた空想に誘われた。
マリー・アントワネットが「パンがないのならお菓子を食べればいい」と言ったとか、断頭台の上で処刑人の足を踏んでしまい、「ごめんなさいね、わざとじゃないのよ」と言ったとか、これらは作り話らしい。マリー・アントワネットに関する伝聞はそのほとんどが捏造であるとツワイクが伝記『マリー・アントワネット』の巻末に書いている。ツワイク自身も伝記で、ルイ16世が包茎だったため、しばらくの間、夫婦に子どもができなかった、と書いたが、これとて100パーセントの確証はない。
マリー・アントワネットの浪費癖が国庫を窮乏させたという説もでたらめである。フランスはルイ14世のころからの対外戦争の経費などがかさんできた。くわえて聖職者と貴族の税金逃れが財政破綻の主因であることは今日の歴史家の常識である。フランス革命は王制とその周辺の第一身分の聖職者、第二身分の貴族に対する、第三身分である平民の戦いであった。したがって、国王とその妃は打倒すべき旧体制・アンシャン・レジームそのものだった。ルイ16世や王妃マリー・アントワネットネットについての世間の悪態は、革命の景気づけだった。王と王妃の人格・政治的才覚など個人的な要素は関係なかった。

ルイ14世が建造したベルサイユ宮殿そのものがアンシャン・レジームの濫費癖の表れでもあった。宮殿の鏡の間は、第1次世界大戦終結のベルサイユ条約が署名された部屋である。ドイツに対する戦勝国の莫大な賠償支払いの要求は、やがて、ドイツにヒトラーの政権が生まれる原因の一つとなった。
6 スーザン・ソンタグ
パリには大きな公営墓地が3つある。モンパルナス墓地、モンマルトル墓地、ペール・ラシェーズ墓地である。今回、この3つの墓地をめぐってきた。いずれの墓地にも名だたる文人・墨客・論客の墓が、こういう言い方は不謹慎かもしれないが、すずなり・目白押しである。
まずモンパルナス墓地。お参りしたかった墓は、スーザン・ソンタグ。シモーヌ・ド・ボーヴォワールとジャン=ポール・サルトル。それにレイモン・アロン。
2004年にニューヨークで死去したスーザン・ソンタグがなぜパリに埋葬されているのか? スーザン・ソンタグの本は『ハノイで考えたこと』(1969年)と『写真論』(1979年)の日本語訳が私の書棚に残っている。その当時私は新聞記者だった。自分の稼業に関連する本として買ったものだ。『ハノイで考えたこと』はすでにニューヨーク・タイムズのハリソン・ソールズベリーがハノイへ行き、同紙に記事を掲載した後だった。メアリー・マッカーシーもハノイに招かれ、見聞をレポートした。ソンタグのこの2冊に深い感銘を受けたという記憶はない。しかし、そのころのスーザン・ソンタグには時代を語る米国の知識人の光背が見えた。ソンタグを読むことが時代の思潮を知ることである、という気分がどことなくあった。
スーザン・ソンタグは病がちな人で、がんを患い、最後には骨髄異形成症候群で死んだ。彼女の一人息子デイヴィッド・リーフが著書『死の海を泳いで――スーザン・ソンタグ最後の日々』(上岡伸雄訳、岩波書店)に、2004年にニューヨークで亡くなった母をパリのモンパルナス墓地に埋葬したときのことを書いている。スーザン・ソンタグはパリの街が好きだったし――彼女は死を予感したとき、新聞記者に、パリに埋葬されたいと語っていた――息子は母をアメリカの墓地に埋葬する気になれなかった。スーザン・ソンタグは17歳で社会学者と結婚、19歳でデイヴィッドを産み、25歳で離婚、息子を育てた。息子は火葬を嫌った母の遺体を航空機でパリに運んだ。母の遺体は貨物室で、トランキライザー服用した息子は客室で、大西洋を越えた。その時のことをデイヴィッド・リーフは次のように書いている。

「夕方のフライトだった。母との最期の旅だった……そして旅はヴォルヴォの霊柩車で終わった。パリのはずれの葬儀場からモンパルナス墓地までの静かなドライブ。母が熟知し溺愛していた街路を通って行った。ペリフェリーク大通りからオペラ座へ、オペラ座からマドレーヌ寺院へ、マドレーヌ寺院からコンコルド広場へ。セーヌ川を渡って、サンジェルマンに入る――母が1957年24歳で初めてパリに足を踏み入れていらい、自分の町と考えていた場所だった。さらに国会議事堂とラスパイユ大通りを経てモンパルナス大通りへ。そこからエドガール・キネ通りに入り、墓地の正門に至る。母は最期にパリ市内をぐるりと周回したのだ。それから私は母を埋葬した」
リーフは『死の海を泳いで』の中で、がんで入院した母を見とったシモーヌ・ド・ボーヴォワールの記録『おだやかな死』(日本語訳は紀伊国屋書店)に触れている。リーフのソンタグ野辺おくりの記は米国の書評で好意的な評価を受けた。
シモーヌ・ド・ボーヴォワールの母はがんで他界した。自宅で転んで骨折、入院しているうちにがんであることが判明した。ボーヴォワールとリーフの親子のこの世での別れの記は、バームクーヘンのような親子の記憶の積み重ねを解きほぐす作業であり、赤の他人が立ち入る余地はなく、読者は各人各様にその記述を自らの体験と引き比べるしかない。
シモーヌ・ド・ボーヴォワールの墓もモンパルナス墓地にある。ボーヴォワールはジャン=ポール・サルトルと一つの墓で眠っている。墓石は落書きでいっぱいだった。サルトルの実存主義について私は不勉強である。サルトルもボーヴォワールもファッショナブルな時の人であり、そのアイディアの断片が大衆社会の中で人口に膾炙された。彼らが書いた本よりも、むしろ彼らの生き方がいまなおファンを引き付けるのだろう。墓石の上の氾濫がそのことを物語っている。
サラ・ベイクウェル『実存主義者のカフェにて――自由と存在とアプリコットカクテルを』(向井和美訳、紀伊国屋書店、2024年)は、1932年から33年にかけて、サルトル、ボーヴォワール、レイモン・アロンの3人がモンパルナスのカフェ、ベック・ド・ガーズでアプリコットカクテルを飲みながらレイモン・アロンがドイツ留学で仕入れた現象学を話題にしているシーンから始まる、ボーヴォワール25歳、サルトル27歳、アロンはサルトルと同じ27歳。サルトルとアロンはエコール・ノルマル・シュぺリウールの同窓生だった。アロンはドイツに留学中、サルトルとボーヴォワールは地方で教員生活をしていた。3人とも冬の休暇をパリで過ごしていた。青春真っ盛りのころだった。
レイモン・アロンはのちに『レーモン・アロン回想録』(上下、三保元訳、みすず書房、1999、レーモンは訳者の表記)の中で、アロン自身は典型的な優等生だったと自認する一方、サルトルの精神と文筆にあふれる豊かさ、ボーヴォワールの聡明さに驚嘆していたと書いている。
人は歳を重ねるうちに、自分の頭の中の理屈と現実の有様をめぐって、両者の調整を迫られ、やがて考え方をかえてゆく。アロンは「マルクス=レーニン主義は迷信である」として、ナチズムと共産主義を嫌うブルジョワ民主主義世界のリアリスト思考様式になじみ、サルトルは現実よりも自分の内なる夢を見続けた。サルトルとアロンがフランスでその知的影響力を競い合った時代のことをアロンは次のように回想している。
「アロンにしたがって正しくあるよりサルトルとともに誤るほうがよかった、という不思議な命題だけが左翼人の記憶に残っていることが多い」。アロンは、サルトル追従者には何の功績もなかったし、それは自由の哲学者のたわごとである、と切り捨てた。
レイモン・アロンの墓を墓地の案内図を頼りに探してみたが、示された区割りの場所に見つからなかった。同じ区画を2度歩いてみたが見当たらなかった。
モンパルナス墓地を出て、ダンフェール・ロシュロー広場のカフェで休憩した。すぐ近くにパリの地下ネクロポリスであるカタコンブ・ド・パリの入り口があった。カタコンブ・ド・パリはもともと地下採石用のトンネルで、パリの古くなった墓地から衛生上の理由で人骨を回収し、その納骨堂として使われている。
ここにはフランス革命で政敵をギロチンで処刑し、自らも敵対勢力によってギロチンにかけられたマクシミリアン・ロベスピエールや、ジョルジュ・ダントン、ガルガンチュアとパンタグリエルの物語の作者フランソワ・ラブレーの遺骨があるそうだ。ロベスピエール側に死刑を宣告されたダントンを処刑場へ運ぶ車がロベスピエールの家の前を通ったとき、ダントンが「ロベスピエール、次はお前だ」と言ったとか、テルミドールの反動でギロチンにかけられたロベスピエールの最初の墓に「俺が生きていたら、お前は死んでいる」という墓標があったとか、後世に潤色されたと思われる、できすぎた伝聞が残っている。ミシュレの『フランス革命史』(桑原武夫ほか訳、中央公論社版世界の名著)によると、ダントンは「わたしはロベスピエールをひきずってゆく」と叫んだ。のちにロベスピエールを乗せた馬車が断頭台へ向かう路上で、恐怖政治の犠牲者の親と称する者たちが呪いの声をあびせた。人民史家のミシュレはこれを古代風の復讐であり、白色テロの第一幕だったとしている。ロベスピエールの恐怖政治の時代、1万6千人が断頭台に送られ、地方の内乱で殺されたりした人をあわせると、犠牲者の総数は4万人前後になる(ミシェル・ダンセル『図説 パリ歴史物語』原書房)。
ラブレーは『ガルガンチュア物語』(渡辺一夫訳、岩波文庫)で、笑うはこれ人間の本性、「楽しく生き給え」と言った。
歴史の呻きと哄笑にみちているカタコンブは地下20メートにある。エレベーターもエスカレーターもない。百数十段の階段を自力で上り下りするしかない。
かつて、エジプト・ルクソール対岸の王家の谷の、とある王墓の入り口でたたずんでいる年配の女性に「下りないのですか」と声をかけたら、「足に自信がなくてね。ここでみんなが帰ってくるのを待っている」と返事が返ってきたことがあった。
それから幾星霜。いまではそれはわが身のこと。ラブレー、ダントン、ロベスピエールら約600万人の遺骨が納められた地下納骨堂カタコンブ・ド・パリへ降りるのはあきらめた。せめて、
https://www.catacombes.paris.fr/
で、その雰囲気をご覧あれ。
7 Oguiss
萩原朔太郎が『純情小曲集』を出版したのは1925年である。その詩集に収められた「旅上」はつぎのように始まる。
ふらんすへ行きたしと思へども
ふらんすはあまりに遠し
せめては新しき背廣をきて
きままなる旅にいでてみん
大学などが把握している日本人学生の海外留学者数は文部科学省のサイトを見ると、2024年度で91,054人となり、前年度から増加しているものの増加率は鈍化している。留学期間別は1ヵ月未満の短期が60,301人で前年度から増加しているが、それ以外の中・長期留学者は減少している。
国会図書館がつくったサイト「近代日本とフランス」
https://www.ndl.go.jp/france/jp/index.html
の年表によると、明治以降たくさんの芸術家がフランスを訪れている。1884年に黒田清輝(1884)、有島生馬、藤島武二(1905)、永井荷風(1907)、与謝野晶子(1912)、石川三四郎(1913)、島崎藤村(1913)、大杉栄(1914)、九鬼周造(1920年代、ヨーロッパ)、辻潤(1928)、金子光晴・森三千代(1929年ごろ)、岡本一平・かの子(1929)、林芙美子(1931)。第2次大戦前はこんなところである。日本が敗戦後、1950年に戦後第1回のフランス政府給費留学生として森有正が渡仏、翌51年には加藤周一がフランス政府給費留学生として渡仏、日本人がフランスもうでを再開した。
森有正や加藤周一の前に、荻須高徳が1948年にフランスに渡り、戦後初の訪仏画家になった。荻須は戦前からパリに住みついて絵を描き、ヨーロッパの戦争拡大で日本に帰っていたらから、ある意味で、荻須の渡仏は里帰りであった。以後、荻須はパリで絵を描き続け、パリで死んだ。荻須の墓はモンマルトル墓地にある。

茶色の石柱にOguiss
と彫られた墓標には、荻須の死後もパリ暮らしを続け、パリで死んだ妻・荻須美代子の名も刻まれている。荻須夫妻にとってパリは楽しく暮らせる街であり、夫妻はパリにぞっこんだったのであろう。荻須画伯はフランスからたくさんの勲章を、日本からは文化勲章を贈られた。
荻須の絵が話題になると引き合いに出されるのが佐伯祐三である。佐伯は若くしてパリで死に、遺骨が画家で妻の佐伯米子に運ばれて日本に帰った。
駐フランス日本大使館のサイトの「 パリに眠る日本人(2021年2月12日)」がパリで死んで、パリの墓地に埋葬された日本人のことを話題にしていた。
https://www.fr.emb-japan.go.jp/files/100544960.pdf
それによるとパリを訪れた日本人の数の割に、そこで生涯を閉じた人の墓は意外に少ない。モンマルトル墓地の荻須夫妻の墓と、ペール・ラシェーズ墓地の野中元右衛門の墓。この人は1867年のパリ万国博覧会に佐賀藩から派遣されパリで客死した。モンパルナス墓地には、初代 駐仏特命全権公使の鮫島尚信の墓がある。
かつて若者が口ずさんだカール・ブッセの詩の上田敏の名訳
山のあなたの空遠く
幸さいはひ住むと人のいふ。
噫、われひとゝ尋とめゆきて、
涙さしぐみ、かへりきぬ
永井荷風はフランスから帰国後『ふらんす物語』を書いたが、当局はこれを発禁処分にした。大杉栄は帰国後、伊藤野枝、橘宗一(6歳)ともども官憲に虐殺された。伊藤野枝の前夫・辻潤は日米戦争のさなかの1944年、貧困のうちに餓死した。島崎藤村は姪との性的スキャンダルから逃れるためにパリへ行った。帰国後、そのスキャンダラスな体験をもとに小説『新生』を書いた。転んでもただでは起きぬ作家魂である。森三千代をめぐる三角関係解消のために、金子と森はパリで貧乏暮らしをした。あるとき森三千代がパリで岡本かの子の家を訪れた。森はしばらく応接室で待たされた。テーブルの上のガラスの容器にブドウやナシなどの果物があった。おなかをすかせていた森はその果物を平らげた。そのとき岡本かの子が現れ、空になったガラス容器に気づいた。岡本かの子は女中をよんでナイフと皿を用意させてもっと食べるようにすすめた。金子光晴が『ねむれ巴里』(1972年)で懐古している。
パリで貧乏暮らしをしていたころのアーネスト・ヘミングウェイが、リュクサンブール公園のメディシス噴水の傍で、ひもじさのあまり鳩を殺した、という伝説があるとジョン・リーランド『ヘミングウェイと歩くパリ』(高見浩訳、新潮社、)は言う。森三千代の果物、ヘミングウェイのハトは伝説かもしれないが、パリには食いつめたエトランジェもいたのである。金にものをいわせてパリを享楽の舞台にして飛翔した極楽とんぼ・バロン薩摩や、官費でゆったりとパリ遊学を楽しんだ人ばかりではなかった。
帰り道、ハインリッヒ・ハイネの墓にもお参りしておいた。「歌の翼に」や「ローレライ」で有名な詩人だが、彼はなかなかにきついジャーナリストでもあった。1844年に織物工が貧窮に耐えかねて起こしたシレジアの職工たちの蜂起を題材にした時事詩「シレジアの職工」を書いた。フリードリッヒ・エンゲルスがこれを激賞した。
「……老いたドイツよ、俺たちが織るのはお前の経帷子 三重の呪いを織り込んでやる――」といった激しい調子で始まり、期待外れの神を呪い、最後の小銭まで搾りとる王を呪い、腐敗が蛆をふとらせる腹黒い祖国を呪う、と展開する(岩波文庫『ドイツ名詩選』)。
ハイネはそうした政治的言動ゆえにドイツで活動しにくくなり、パリに暮らし、パリで死に、モンマルトル墓地に埋葬された。
そのハイネの墓を見て、日本から来た哲学者・九鬼周造が短歌を詠んだ。
秋なかばハイネが墓に己れから
死にけりと聞くあたら若人
九鬼の詩歌集『巴里心景』に収録されているが、これだけでは隔靴掻痒である。同詩歌集の詩の部分に「ハイネの墓」があり、「秋の日和の ハイネの墓」で始まるその詩のエンディングにこうある。
チェックスロヴァキアの学生が
この墓前で自殺をしたのは
ちょうど去年の今頃であつたろう
九鬼周造の母は彼を身ごもっていたころ、岡倉天心と愛を語るようになった。
独仏に遊学した九鬼は豊かな留学費用にまかせ、当時まだ学生だったジャン=ポール・サルトルからフランス語の個人教授を受けている。「くしけづるブロンドの髪灯に映えて明し幸ある閨の空気よ」(『巴里心景』)とパリ暮らしを楽しみ、一方で、東欧の留学生の自殺に過敏に反応する。悪くない遊学だったようだ。
後年、九鬼は京都の自宅に北京から帰ってきた林芙美子を迎えた。林の希望で小唄のレコードを聴いた。そのことを「小唄のレコード」という随筆に書いている。林が「小唄を聴いているとなんにもどうでもかまわないという気になってしまう」と言った。この言葉で九鬼も、林もつい涙ぐみ、人間は深淵の上に壊れやすい仮小屋を建てて住んでいる、と感じる。九鬼のこの随筆は、
「どうせこの世は水の流れか空ゆく雲か……」
Avalanche,
veux-tu m'emporter dans ta chute ? (雪崩よ、汝が落下の裡に我を連れよかし)
という詠嘆で終わる。お気楽な随筆とはいえ、これはどうも。『「いき」の構造』を読む気が薄れてしまうではないか。
8 ゲルダ・タロー
パリの地下鉄乗り換え通路でロバート・キャパの写真展の広告をみた。ノルマンディー上陸作戦に同行して撮った写真が印刷されていた。いまなおキャパの写真を見たいと思う人がいるのだと知った。
ドイツに住んでいたユダヤ系ポーランド人ゲルタ・ポホレリとユダヤ系ハンガリー人アンドレ・フリードマンが1930年代のパリで出会った。2人はフリーランスの写真家としてコンビを組み、「ロバート・キャパ」というアメリカ風の名前で新聞・雑誌に撮影した写真を売った。ゲルダは1937年に、パリの左派系新聞『ス・ソワール』とゲルダ・タロー名義で写真取材の契約をし、内戦のスペインに行った。以後は写真にゲルダ・タローのクレジットを使った。それまで「ロバート・キャパ」名義の写真は、キャパとタローが撮影した写真が入り混じった共同制作だった。
ゲルダ・タローの撮影した写真が「ロバート・キャパ」名義から切り離されて、彼女が撮影した作品の写真展で展示されるようになったのは1990年後半の米国だ。日本では2013年に横浜美術館が『ロバート・キャパ/ゲルダ・タロー 二人の写真家』展を開催した。
https://yokohama.art.museum/special/2012/capataro/tenji.html
沢木耕太郎の『キャパの十字架』(文藝春秋、2013年)が出版された年だ。
沢木は『キャパの十字架』で、1936年にキャパが撮影したとされてきた「崩れおちる兵士」の写真は、そのときキャパに同行していたゲルダが撮影したものであると断定した。ゲルダが撮影した6X6判のネガをライカ版のサイズにトリミングしたものであるという説を補強した。
「崩れおちる兵士」の写真については、1975年にフィリップ・ナイトリーが、実際の戦闘場面の写真ではなく、演習中の兵士に演技を依頼した「やらせ」(staged)だったと、スペイン内戦を取材に来ていたイギリス人の記者にキャパが語った、という話を書いている(Phillip Knightley, The First Casualty (日本語版は『戦争報道の内幕』)。ナイトリーの記述に対して、キャパの弟のコーネル・キャパは信頼性に欠ける情報にもとづいた中傷だと抗議した。
それ以来、「崩れおちる兵士」の報道写真としての価値について議論は絶えることがなかった。スペインのコミュニケーション研究者・ホセ・マヌエル・ススペレギ(Jose Manuel Susperregui)が、2009年6月に出版した著書『写真の暗部』(Sombras de la Fotografia)で、「崩れおちる兵士」がフェイクであると、克明な調査にもとづいて主張した。従来いわれていた撮影場所が、数十キロ離れた別の場所であり、撮影の日時にその場所で共和国軍とフランコ反乱軍の戦闘はなかったことなどを明らかにした。
キャパはタローの死後、アメリカに活動拠点を移して、アメリカの国籍も取得した。キャパの母も弟もアメリカに移住している。インドシナで地雷を踏んで死んだキャパの墓はアメリカ合衆国にある。アメリカはキャパのゆかりの地になっている。ススペレギの著書は、出版後まもなくの8月、ニューヨーク・タイムズ紙が取り上げた。その2日後、同紙は社説で「崩れおちる兵士」のフェイク疑惑を取り上げた。「報道写真のフェイクは由々しき悪行である。『崩れおちる兵士』についての真実は特に重要だ。この兵士が倒れ二度と起きあがることがなかったのか、立ちあがってすたすたと歩き去ったのか、それを知ることは我々にとってもキャパの名誉にとっても、重要なことである」といった調子だった。
米国は1962年にブーアスティンが書いたThe Image: A Guide to Pseudo-events in America(日本語版『幻影の時代―マスコミが製造する事実』)にあるように、疑似イベントの消費が盛んな国である。また、写真家が現実を切り取って映像作品にするにあたって、どこまで事実に対して公正・誠実でありうるのだろうか、とスーザン・ソンタグは『写真論』で疑う。アメリカは第1次トランプ政権の時代に「ポスト・トゥルース(post-truth)」の社会になった。影響力を持つのは、客観的事実ではなく感情や信念である。これがいまのアメリカである。写真家の代わりに画家が歴史を記録していた19世紀、ナポレオン・ボナパルトのサン=ベルナール峠のアルプス越えの歴史画を描くにあたって、ダヴィッドはナポレオンを馬にのせ、ドラローシュはボナパルトをラバにのせた。
ところで、ゲルダ・タローの墓があるペール・ラシェーズ墓地はパリ市内で一番広く、その面積は東京の青山霊園の2倍近くある。ゲルダ・タローの墓がある第97区画は、入った門から遠く離れたところにあった。ゲルダの墓にたどりつくまでに、フレデリック・ショパンとエディット・ピアフの墓を見た。ショパンの墓では、遺体はここに埋葬されているが、故人の希望で心臓は取りだされ、ブランデーを満たした容器に入れて、肉親がポーランドに運んだ、という説明をガイドが墓参りのグループに説明していた。エディット・ピアフの墓にはたくさんの追慕の花があった。

道草を食って、ゲルダの墓がある区画につくのが遅くなった。墓地に入ったのが午後3時ごろ。ペール・ラシェーズ墓地は午後6時に閉まる。
ゲルダの墓がある第97区画は広く、新旧の墓石が密集している。ゲルダの墓をしらみつぶしにあたった。沢木耕太郎『キャパへの追走』(文藝春秋)によると、沢木はゲルダ・タローの墓を探しにペール・ラシェーズ墓地に行ったが、最初は墓石を見つけられなかった。しばらくして沢木はゲルダの墓があったと読者から手紙をもらう。沢木があらためてペール・ラシェーズ墓地へ行くと、読者が手紙で知らせてくれた場所に、ゲルダの墓があった。「Gerda Taro 1911-1937」とゲルダの生年がまちがって刻まれた墓があった。

2026年の夏、私が見たゲルダの墓石には、沢木が見たものと同じゲルダの生年が間違って彫られていた。墓の上にゲルダ・タローの写真ジャーナリズムの業績が表示された白い石板が置かれていた。ゲルダのファンか彼女の関係者が作成して置いたものだろう。こちらの方にはゲルダ・タローの生年が「1910」と、正しく表記してあった。「ゲルダ・タロー 1910-1937 『ス・ソワール』の写真記者 1937年7月25日スペインのブルネテの前線で取材中に死亡」と石板に書かれていた。
ベルナール・ルブラン、ミシェル・ルフェーブルの『ロバート・キャパ』(原書房、2012年)によると、インドシナで取材中に地雷を踏んで死んだロバート・キャパをゲルダ・タローの墓の隣に埋葬する話があったが、キャパの母は米国に住んでおり、パリは墓参りにはちょっと遠いという理由で実現しなかった。こういう伝説に敏感に反応する人と、冷淡な人では、「崩れおちる兵士」の写真への評価が違ってくるのだろう。
写真を撮り終えると午後6時近かった。入ってきた門へ急ぐ。数十メートル先を歩いていた2人連れが、墓地の管理職員と立ち話をしたあと、踵を返して戻ってきた。「こちらの門は閉めたそうだ。反対の門へ行く」という。この2人のあとを追おうとしたら、管理職員におーいと声をかけられた。見ると、こっちにおいでと手招きしている。管理職員は私とつれあいを作業用のバンにのせ、開いている別の門まで送ってくれた。
思い返せば、今回、パリの人たちはわれわれに優しかった。地下鉄に乗るとしばしば席を譲ってくれた。片手に大きな荷物を持って、あいている方の手でてすりをつかみ、地下鉄の階段を下りていると、登ってきた若いお兄さんが、荷物をほいほいと階段下まで運んでくれた。
ああ、そういうことか。私85歳。つれあい78歳。「彷徨」などと気負ってみても、周りの人には高齢者のヨタヨタ歩きにしか見えず、あの2人大丈夫かな、と心配をかけていたのだろうと気づく。ここらが幕のひきどころ、パリがわれらが「彷徨」の終点なのだ。
パリから東京に帰り、しばらくすると、ジャカルタの知人からメールが届いた。「おはよう、ヤスオ。連絡が遅れてごめん。母のイブ・スリ・アトマが8月8日土曜日午前9時、死去した。83歳。クボン・ナナス公共墓地のパ・アトマのそばに埋葬した」。スハルトの権威主義政治の研究でジャカルタに住んだとき、楽しい記憶を共有したご夫婦が2人ともこの世を去ってしまった。
9 アンリ・カルティエ=ブレッソン
ポンピドー・センターは2030年を目標に全面的な改修工事を始めた。したがって全施設が休館中である。ポンピドー・センターは文化センターとして開館した1977年に、そのけばけばしいデザインが賛否両論の話題になった。

ポンピドー・センタ―の前を通ってアンリ・カルティエ=ブレッソン財団の建物を目指す。道に迷い、通りがかりの人にルートを教えてもらいながら、歩いて10分ほどのところに財団が入っている建物があった。財団のギャラリーでは森山大道の写真展が開かれていた。

なぜカルティエ=ブレッソン財団を訪ねたかというと、同財団が絶版になっていたブレッソンの写真集で最も有名な Images a la sauvette の新版を出しので、その写真集を買い求めに行ったのである。 Images a la sauvette は、英語版の The decisive moment ともども1952年に出版された。今では古書市場で、程度の良いものは数十万円の値段がついている。Images a la sauvette は日本語で言うと「逃げ去るイメージ」「遁走するイメージ」「うたかたのイメージ」といった感じだ。一方、英語版のThe decisive moment は「決定的瞬間」と日本語に翻訳され、多くの写真好きがこの言葉を念頭に、アンリ・カルティエ=ブレッソンの写真を見るようになった。英語版の写真集はアクティブな印象を与える書名が欲しかった。ブレッソンがこの写真集の序文で「この世のものにはすべて決定的瞬間がある」(Il n‘y a rien en ce monde qui n’ait un moment decisif)という17世紀のレス枢機卿の文章を引用していたので、英語版の出版社がそこからdecisive moment=決定的瞬間という名文句を引っ張り出してタイトルに使った。この写真集の表紙をデザインしたのはマティスだった。

わたしが若い新聞記者だったころ、ブレッソンに会ったことがあると、つれあいが受付の女性の語ると「いつ頃、ブレッソンはどんな人だった」と尋ねられた。
「半世紀以上前の1965年。日本の盛岡で。カルティエ・ブレッソンは物静かで、エレガントな感じの人だった」というと、尋ねた受付の女性が大きくうなずいた。そしてうれしそうにほほ笑んだ。
あれは1965年の初秋。私は新米の新聞記者だった。勤め先の朝日新聞社がブレッソンを日本撮影旅行に招いた。当時、盛岡支局に勤務していた私は、ブレッソンと彼の通訳を南部鉄器の工芸家の工房へ案内した。
ブレッソンは南部鉄瓶の仕上げに余念のない工芸家の傍らに気配を消して立ち、工芸家はブレッソンの存在を気に留めず仕上げ作業に専念した、ブレッソンはその作業をしばらく見つめ、さっとライカをかまえ、シャッターを切った。24歳の若い記者は、当時57歳だった巨匠の仕事ぶりを憧憬のまなざしで見た。ブレッソンはそのころ出版されて間もなかった日本語版のブレッソン写真集に、お駄賃代わりに署名してくれた。
ライカを持って、ヨーロッパ、アメリカ、インド、インドネシア、中国、日本などを駆け回ったブレッソンは、柏倉康夫『アンリ・カルティエ=ブレッソン伝』(青土社、2007年)によると、日本からパリに戻ったあと、30年間つれそったジャワ舞踊のラトナ・モヒニと離婚し、写真家集団・マグナム・フォトから離れ、写真家マルティーヌ・フランクと結婚した。娘メラニーが誕生すると、写真撮影の時間を減らして、娘の成長を楽しむ子育ての時間を増やし、再び絵を描きはじめた。
そして30年の穏やかな日々をすごし2004年に95歳で南フランスの自宅で死去。その前年には妻と娘がブレッソンの資料保存と写真家たちの機会拡充の目的で、アンリ・カルティエ=ブレッソン財団をパリで発足させていた。
マグナム・フォトを一緒に立ち上げたロバート・キャパは、インドシナで1954年地雷を踏んで死亡、40歳。デービッド・シーモアは1956年第2次中東戦争を取材中、スエズで銃弾を受け死亡、45歳。キャパの盟友だったゲルダ・タローはスペイン内戦で1937年に戦車にひかれて死亡、26歳。決定的瞬間を戦場に求めた報道写真家は短命だった。
悪くない人生を楽しんだアンリ・カルティエ=ブレッソンだった。
Hasta la vista.

(写真と文: 花崎泰雄)
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