ソウル 2009 冬
文・写真 花崎泰雄


1 歳月

ソウル地下鉄2号線のウルチロ3ガ(乙支路3街)駅のホームに『1Q84』の大きな広告があった。広告には著者である村上春樹のポートレートが添えられていた。それは私の記憶にある村上春樹よりもずいぶん老けていた。



村上春樹の小説は読んだことがないが、彼のポートレートぐらいは新聞の書籍広告や書店の張り紙などで見たことがあった。私の記憶にある村上春樹の顔は青年のそれだった。

ひところ現代日本文学研究のために日本へ留学してきた学生の多くが、村上春樹の名を口にするという話を聞いたことがある。外国人の心に響くような何かを持った小説家なのだろうと想像していた。だからといって、村上春樹の小説を読んでみようという気にはならなかった。

小説は30歳の朝飯前に読むのをやめてしまった。以来、身過ぎ世過ぎは草の種という生活の中で、ノンフィクションから社会科学の無味乾燥な文献へと、本とのつきあいがどんどん狭くなっていった。そのうえ一冊を最初から最後まで読み通すというよりも、目次と索引から必要な個所を探し出してデータをとりこむために文章を読むだけの本が多くなった。村上春樹が『風の歌を聴け』をひっさげてデビューしたのは1979年のことだ。そのころには、私は楽しみのために本を読むという習慣を失っていた。

そういうわけで、2009年冬、ソウルの地下鉄駅で『1Q84』の広告の村上春樹の写真を見たとき、その老けた顔に私は少々の感慨をおぼえた。村上春樹のポートレートの変わりぶりそのものではなく、その背後にある過ぎ去った歳月を思い知らされて、いまさらながら愕然としたのだ。

ソウルをはじめて訪れたのは1Q84年より10年前の1974年だった。1973年には東京でKCIA(韓国中央情報部)によるキム・デジュン(金大中)拉致事件が起きていた。197488月には在日韓国人ムン・セグァン(文世光)によるパク・チョンヒ(朴正煕)大統領狙撃事件があった。パクは難を免れたが、大統領夫人のユク・ヨンス(陸英修)が銃弾にあたって死んだ。その数ヵ月後の11月のソウル行きだっただけに、ビザ申請のときは、領事館で担当領事の執務室に呼び込まれて面接を受けることになった。北朝鮮へ行ったことはないか、中国やソ連、その他の社会主義国を旅行したことはないかなど、丁重ではあるがしつこい質問を受けた。

1974年には羽田空港と金浦空港が東京とソウルのメインの国際空港だった。羽田を出て金浦空港に着いたのは夕方だった。空港のあちこちで高射砲の長い砲身が空をにらんでいた。朝鮮戦争休戦からすでに21年が経っていたが、朝鮮半島はドイツ、ベトナムと並ぶ厳しい東西冷戦の現場の一つだった。今回2009年冬のソウル旅行では、成田‐仁川便ではなく、羽田―金浦便を利用した。35年前の記憶につながるものといえば、金浦空港国際線ターミナルビルの滑走路に面した側の窓に写真撮影禁止のマークがあったことぐらいだ。

35年前、金浦空港からソウル中心部のホテルへ車で向かったとき、たそがれてゆく街は埃っぽく、薄暮の中で乏しい灯りがちらついているだけだった。寒々しい空気を切り裂いて軍用車が疾走した。夜には外出禁令がしかれていた。朝が来て街に出ると、新聞売りの少年、というよりは小学校低学年の児童の年頃の子どもが「シンムン」と叫んで、抱えていた束から一部を抜き出して私に突きつけた。『京郷新聞』というその新聞の題字はいまでも覚えている。

やがてパク・チョンヒは1979年、腹心のKCIA部長によって暗殺された。パクと同じ軍出身のチョン・ドファン(全斗煥)が後継者になり、パク政権と同じいわゆる開発独裁型の軍事政権を継承した。

その次にソウルに来たのは1Q84年の3年あとの1987年だ。民主化要求の大衆運動が盛りあがっていた時期で、学生たちも元気だった。ソウルの学生街では学生が民主化要求の集会を開いていた。通りの目立たないところに警察の警備車両が隠れていた。19876月に盛りあがった民主化闘争の余熱がまだ残っていた。チャン・ドファンはこの年に大統領を辞任を表明、軍出身のノ・テウ(盧泰愚)が政権を引き継いだ。パク・チョンヒの開発独裁が韓国を豊かにし、中間層が厚みを増し、彼らの子どもたちである大学生が開発独裁に反対し、民主化要求の急先鋒になったと説明されていた。



このとき初めてソウルの地下鉄に乗った。トレーニング・ウェアを着てリーボックのスニーカーを履いた壮年男子−つまりはオヤジさんが新聞の束を抱えて地下鉄車内を走り回っていた。児童労働がなくなったのだ。そのころインドやインドネシアでは、まだ児童労働が蔓延していた。韓国はそうした途上国の風景から一足先に抜け出していた。

街の広場で中年のオジさんたち十数人が集まって口角泡を飛ばし、いまにもつかみかからんという激しさで怒鳴りあっているのを見た。私と連れ合いを案内してくれたソウルに留学中の知人に尋ねると、「議論をしているだけですよ」ということだった。あのときのソウルは、どこかで何かが激しく燃えあがっているような緊迫感があった。だが、夜になると街には明かりがあふれた。



1988年にはソウルでオリンピックが開催された。その後、大統領はノ・テウからキム・ヨンサム(金泳三)、キム・デジュン(金大中)、ノ・ムヒョン(盧武鉉)、イ・ミョンバク(李明博)と代わった。チャン・ドゥファンは民主化要求運動を流血で抑え込んだ光州事件を問われて1996年に死刑判決を受け、ノ・テウも懲役刑を言い渡された。2人とも後に特赦を受けた。チャン政権によって光州事件の責任を問われていったんは死刑判決を受けたキム・デジュンは後に大統領になりノーベル平和賞を受けた。キム・デジュンの後継大統領ノ・ムヒョンは不正献金問題で捜査の対象になり、崖から投身自殺した。

楽は苦の種苦は楽の種。禍福はあざなえる縄にして人間万事塞翁が馬。ケンチャナヨ。政治の有為転変の中で、韓国はいつしか豊かな民主国家になっていた。

そして2009年冬のソウル。ちょうどクリスマスのころだったので、地下鉄車内でサンタクロースの帽子を被り募金箱をかかえた男たちが楽器を奏で、歌をうたっていた。1974年に1路線だけで始まったソウルの地下鉄はすでに13路線に拡充されていた。繁華街ミョンドン(明洞)の夜は韓国の若者と日本と中国の旅行者で熱気にあふれていた。



35年の歳月はソウルの街をかくも華やかに変貌させた。35年という歳月はそれだけのことが可能な長さなのだ。35年前のパスポートの写真と比べると今のパスポートの写真の私はずいぶん老けた。私の場合、その老いに値する35年だったのだろうか? ふと、自問するとき、ソウルの冬の冷え込みが厳しい。

2010.1.1





2 ウリマル

日本の勤労者のうちいまや3割台が非正規雇用だ。韓国ではその割合は5割台に達している。韓国企業の人件費削減は日本以上に徹底している。東京の地下鉄は自動改札だが、改札口の付近には駅員がいる窓口があっていろいろな問い合わせに応じてくれる。ソウルの地下鉄も自動改札だったが、付近に駅員の姿はなかった。乗客は乗車カードを自動販売機で買い黙々と自動改札を抜けて行く。

むかしミュンヘンの地下鉄に乗ったことがある。改札口に駅員の姿はなかった。といって改札は自動でもなかった。乗客は切符を買って、そのまま改札ゲートを通って地下鉄に乗り、目的の駅で無人の改札ゲートを出る。そのとき切符を改札ゲートにぶら下げてある箱に投げ込む仕組になっていた。ミュンヘン市民の公徳心の高さに感心したものだ。

だが、あとでミュンヘン在住のドイツ人が教えてくれたところでは、それは市民の高い公徳心のからきたものではなく、冷徹な損得勘定によるものであった。無賃乗車は発見されると非常に高い反則金を取られる。この高額反則金によって無賃乗車をはかろうとする人の数を抑制できるので、フリーライダーによる鉄道側の損失は、各駅に自動改札装置を設置し維持する費用を下回るということであった。

フリーライダー予防法で最も感銘深いエピソードは、長江がもっぱら揚子江とよびならわされていたころの引き船に関わる話である。上海から重慶まで揚子江をさかのぼる船は現在の三峡ダムあたりの急流を乗り越えるため、人夫をやとって船を引かせた。人夫たちは川岸から船をロープで引いた。ボルガの舟歌のような歌を歌う代わりに、スレーブドライバーのような男が、さあ働けと人夫を鞭打っていた。それを甲板から見ていたアメリカのご婦人が「あの非人道的な行為を直ぐやめさせなさい」と船長に抗議した。

抗議を受けた船長は憮然とした表情で「私にはどうすることもできません。あの鞭をふるっている男は、船を引く人夫たちが給金の一部を出し合って雇っているのです。手抜き労働をして仲間に過剰な負担を与える不心得なフリーライダーを出さないためにね」と説明したそうである。おっとっとっと……話が脱線した。

ソウル地下鉄の乗車カード自動販売機は、ディスプレーに「日本語」のマークがあり、それに触れると、日本語でカードの買い方を指示してくれた。

関川夏央が1980年代初頭に書いた『ソウルの練習問題』に次のようなくだりがある。「故朴大統領政権下で国語浄化運動が行われ、すべての日本文字と、ほとんどすべての漢字、英文字がこの国から忽然と姿を消した」



また、劇作家で在日韓国人であるつかこうへいが、1980年代の中ごろ祖国である韓国を訪れたさいの体験談を著書『娘に語る祖国』のなかでこう書いている。「税関で、なんのために韓国に来たと聞かれ、ハワイに行ったときを思い出し、『あの、その、サイトシーイング』と英語で答えると、『おまえは韓国人のくせに、なんで祖国の言葉がしゃべれないんだ』とパスポートを叩きつけられました」

韓国では朝鮮語のよびかたは、ハングゴ(韓国語)という中立・客観的な言葉から、日本の「国語」と同じややナショナリスティックな響きの言葉クゴ(国語)を経て、ついには祖国愛に満ちたウリマルにいたる。韓国ではハングルが公布された1446109日を記念して、毎年109日がハングルの日という記念日になっている。197080年代にはこの日は国民の休日だった。

ハングルにこめられたコリアン・スピリットと、それに付随する反日ナショナリズムがひところのソウルには満ちあふれていた。私のような年代の者は「行き先の駅名を押してください」と地下鉄乗車券発売機に大きな音の日本で語りかけられると、気になってふと周囲を見回したくなるような気分になる。

ハングルの普及はナショナリズムの燃え広がりとかかわりが深い。ハングルは15世紀半ばに考案されたが、李朝時代の公文書はすべて漢字をつかって記録された。ハングルはながらく正字である漢字に対する民間の文字だった。ハングルが公文書に使われ始めたのは19世紀末になってからだ。その当時の漢字とハングルを併用した行政告示を国立民族博物館で見た。大を意味する古語「ハン」と文字を意味する「クル」を結びつけたハングルという名称ができたのは、朝鮮が日本の統治下に入ってからのことだ。



ある晩、ソウルのホテルのテレビで、インドネシアの少数民族が2009年半ばから自分たちの言語の表記にハングル文字を使っているというニュースを見た。このニュースは東京でも見ていたが、ソウルでみると格段に感慨深いものがあった。インドネシア・南東スラウェシ州のブトン島バウバウ市に住む人口6万人ほどの少数民族チアチア族が彼らの言語の表記にハングルを公式文字として使っているというニュースだ。

韓国のハングル普及団体が50万ドルを出してバウバウ市に文化センターを作り、ハングル文字を使ったチアチア語のテキストを作ったという。

これは文化援助だろうか?

「一つの祖国、一つの民族、一つの言語」というインドネシア・ナショナリズムの出発点である19281028日の「青年の誓い」をモットーとするインドネシア共和国とって、自国内でハングル文字が少数民族によって公式に使われるのは愉快なことではない。インドネシア語はオランダ植民地時代に使用が始まったローマ字を表記法として採用している。だが、彼らがインドネシア・ナショナリズムに目覚めたとき、ローマ字表記によるインドネシア語がすでに彼らにとっての「一つの言語」なのだから。

19世紀末、福沢諭吉門下の井上角五郎が朝鮮で初めての漢字ハングルまじりの官報兼新聞『漢城週報』の発刊に尽力した。井上は日本からハングルの活字を朝鮮に持ち込んだ。井上がやったことはハングル普及への貢献と日本ではいわれているが、韓国ではそれは侵略性を帯びた日本の文化政策だったとみなされている。韓国を漢字圏の中国から引き離し、漢字かなまじり文を書く日本語と同じような朝鮮語の表記体系を作り、朝鮮に対する日本の影響力を強めようとしたという解釈なのである。

アメリカがcocacolanizationを始めたように、21世紀のいま、経済力を獲得した韓国がhangulizationを始めているわけだ。

2010.1.6





3 こども

クリスマスの夕方だった。ソウルのホテルのロビーで子どもたちがクリスマス・キャロルを合唱していた。子どもたちは歌いながらリズムに乗って軽く身体を左右にスイングさせ、笑顔をつくっていた。舞台なれしている。寒い外から帰ってきたところなので、ホテルの暖気と子ども歌声が心地よかった。



子どもたちからちょっと離れたところに、背の高い初老の西洋人男性が立っていて、子どもたちをじっと見守っていた。子どもたちはみんな豊かな家でなに不自由なく育っているようにみえた。どこかのキリスト教会の児童合唱団か、キリスト教系私立学校の子どもたちなのだろう。

その子ども合唱団を取り巻いて、子どもたちの親なのだろうか、おおぜいの大人たちが歌う子どもの写真をデジタルカメラで写していた。ソウルのアッパー・ミドルだ。

ずいぶん前に見たハリウッド映画で、男たちが苦労の末どうやって金を手に入れたかという自慢話を繰り広げ、最後の男にひとこと「オレは金持ちの家に生まれた」としゃべらせるシーンがあった。裸一貫立志伝もいいが、金のある家に生まれてぬくぬくと育つのも悪くないだろうな。

一人っ子政策の中国で「小皇帝」「小公主」と大事にされる子どもたちが現れたのは1980年代のことだ。アメリカ合衆国でdouble income no kidsの短縮語 ディンクス(dinks)あるいはディンキーズ(dinkies)が流行り言葉になったのも1980年代だった。

いまのところアメリカだけがかろうじて合計特殊出生率2人台を維持している。中国も韓国も日本と同じように1人台に落ち、将来の人口構成のゆがみに不安を感じている。特に韓国の出生率はここ数年日本を下回って危機的な状況だ。

聞くところでは韓国の少子化の理由も日本と似たようなものだ。子どもにかかる教育費の増大する一方で、老後を子どもに頼ろうとするそれまでの親の意識が変わってきた。女性の社会進出が進み、結婚する年齢が遅くなった。

日本では少子化社会対策基本法を作り少子化に歯止めをかけようと必死だ。基本法は前文で「もとより、結婚や出産は個人の決定に基づくものではあるが、こうした事態に直面して、家庭や子育てに夢を持ち、かつ、次代の社会を担う子どもを安心して生み、育てることができる環境を整備し、子どもがひとしく心身ともに健やかに育ち、子どもを生み、育てる者が真に誇りと喜びを感じることのできる社会を実現し、少子化の進展に歯止めをかけることが、今、我らに、強く求められている。生命を尊び、豊かで安心心して暮らすことのできる社会の実現に向け、新たな一歩を踏み出すことは、我らに課せられている喫緊の課題である」と、なかなか結構なことをいっている。

だがその一方で、厚生労働大臣だった柳沢伯夫が女性のことを産む機械と言ってみたり、東京都知事の石原慎太郎が、
文明がもたらしたもっとも悪しき有害なものはババアで、女性が生殖能力を失っても生きているってのは無駄で罪だ、と言ってみたり、総理大臣をやったことのある森喜朗が、子どもをつくらなかった女性の面倒を税金でみなさいというのはおかしい、といってみたり――間抜けな政治家どもが、少子化対策の足をひっぱってみせた。柳沢も石原も森も聴衆の笑いをかおうという浅ましい下心から、ジョークのつもりで言ったのだろうが、ほんと、日本にはジョークの何たるかも知らぬ質の悪い政治家がいるねえ。

韓国も少子・高齢社会対応のための国家戦略を策定し、育児支援や保育サービスに力を入れている。90日の出産休業や1年までの育児休業がとれるが、日本と同じようにそれを利用する人は少ない。保育所も日本と同じように空き待ち待機の子どもが多いそうだ。少子化対策のインフラストラクチャーづくりがはかばかしく進まないなか、出産にあたって地方自治体が現金給付をしたり、子沢山の女性を表彰し旅行券をプレゼントしたりしているそうだ。もちろん、そんな馬鹿げたキャンペーンはやめようとの批判も出ている。

将来の労働力不足をどう充足させるか。韓国はやがて崩壊するであろう北朝鮮の労働力をあてにできるが、日本の場合どうなんだろうだろう。日本も韓国も人口密度が高い国だ。押し合いへし合いしながら暮らしている。過度に高い人口密度が低くなるというのも悪くないことだ。だが、ゆったりと暮らせる人口密度へソフトランディングするための名案がまだない。



むかしソウルの街で撮ったこのスナップに写っている子どもたちが、いまではホテルでクリスマスの歌を合唱していた子どもたちの親と同じ年頃になっている。時の流れは速く変化は激しい。

2010.1.15





4 ミョンドン聖堂

韓国大統領のイ・ミョンバクはキリスト教徒で、キリスト教徒を優遇し、仏教徒を抑圧していると、このところ韓国の仏教界がさかんに異議申し立てをしてきた。2008年の夏には、政権は仏教を弾圧していると抗議して僧侶が切腹をはかったそうである。

韓国の古刹サンウォンサ(上院寺)の元住職が、ソウル市で開かれた仏教弾圧に抗議する全仏教徒大会に参加したあと、ソウルにある韓国仏教の最大宗派・大韓仏教曹渓宗の総本山チョゲサ(曹渓寺)へやってきて、イ・ミョンバク政権は仏教弾圧をやめろと血書をしたため、そのコピーを信徒に配ったあと、切腹したという。切腹の傷は皮下脂肪を切った程度で命には別状なかったそうだが、血書といい切腹といい、その宗教的熱狂はなんとも凄まじい。

韓国の宗教人口は仏教25%、プロテスタント20%、カトリック7.4%(日本外務省サイト)でキリスト教徒のほうが仏教徒より多い。国民全体に占めるキリスト教徒の割合は、アジアではフィリピンと東ティモールに次いで3番目だ。韓国大統領もキリスト教が続いている。イ・ミョンバク以前のノ・ムヒョン、キム・デジュン、キム・ヨンサムはそろってキリスト教徒である。

日本では仏教系26%、神道系2%、キリスト教系1%(1995年朝日新聞世論調査)と推定されているが、なに、本当のところはよくわからないのだ。宗教法人を対象にした文部科学省の2007年調査では、神道系の信者1億人、仏教系の信者9千万人、キリスト教系信者200万人、他の諸教信者を入れると、宗教人口が総計2億人と日本の実人口をはるかに超えてしまった。どうやら新年初詣の推定人数や国会議員の靖国参拝までをみんな信者として数に入れているらしい。

韓国のキリスト教団も仏教団に劣らず激しい宗教的情熱を見せている。プロテスタントの教団は世界の百以上の国に1万人以上の宣教師を送り込んでいるそうだ。2007年にはアフガニスタンに入っていた韓国人の牧師やキリスト教徒ら23人がタリバンの人質になり、うち2人が殺害され、のこり21人が解放された。身代金は2000万ドルだったといわれている。韓国のキリスト教徒が何のためにアフガニスタン行ったかについては、純粋な人道援助であったとか、アフガニスタンのムスリムをキリスト教に改宗させるための密かな宣教活動であったとかいわれている。

タリバンが息を吹きかえしたアフガニスタンへキリスト教の布教に出かけるのは、江戸時代のキリシタン禁制令下の日本にもぐりこむ伴天連と同じようなものだ。いい度胸である。その宗教的情熱の後始末に払った身代金で、タリバンは武器を手に入れた。タリバンはその武器でアフガニスタンに駐留しているアメリカ兵に攻撃をしかけている。大風が吹けば桶屋が儲かるという因果関係である。

前置きが長くなってしまった。

そういう韓国キリスト教徒の宗教的情熱をこの目で見たくなり、クリスマスの夜、ソウルのミョウンドン聖堂のミサを見に行った。

聖堂へ行く前に腹ごしらえにサムギョプサルを食べた。焼いた豚肉をキムチで巻き、それをサンチュで包んで食べる。聖堂にお邪魔する前に食べるようなものではないかもしれないと思いつつも、つい食べてしまった。



ミョンドンの中心を走るミョンドン通りはクリスマスの夜とあって、浅草の三社祭の夜のように込み合っていた。その雑踏にもまれながらしばらく歩いていると、ミョンドン通りがややのぼりの坂道になってくる。だらだら坂道を登りきったあたりの右手にカトリックの聖堂が見えた。ライトアップされていた。ここにも大勢の人がいた。

右手に折れてまたしばらく坂道を登って行くとミョンドン聖堂の前についた。聖堂の正面入り口とむかって右手の入り口は閉じられていた。左のドアの前に長い列ができていた。ときどきドアがあけられ、数人の人が聖堂内部から出てくる。出てきた人数分の人が内部に招き入れられている。

気温が確実に零度を下回っている聖堂の外で並ぶこと約20分。この回のミサの最後の賛美歌合唱のころやっと中に入れてもらった。ミサが終って大半の人々が聖堂の外へ出たころ、聖堂の正面が見え、写真がとれた。



わたしは子どものころ母親に連れられて、プロテスタントの教会のクリスマスに一度だけいった事がある。この教会は教会の日曜学校に出席している子どもたちにはクリスマス・プレゼントを与え、私のようないちげんの子どもには何もくれなかった。わたしは子どもながら深く傷つき、そのことを陰湿なまでに根に持ち、以来、観光目的外で教会をのぞいたことはない。

それにしても、命がけで布教に来た宣教師もいた日本でキリスト教が普及せず、そのあとで布教が始まった朝鮮半島ではキリスト教がやすやす広まった。時の運というヤツだ。日本が一足早く富国強兵に励み朝鮮半島を植民地にしたのも、時の運かもしれない。朝鮮が一足早く近代化に着手し、日本を植民地にしていた可能性だって、時の運によってはあったかもしれない。

日本植民地時代の韓国のキリスト教は抗日運動を支えた。独立後のパク・チョンヒ軍事政権に対する民主化要求運動も支えた。政治的実績を持つ宗教なのだ。そういうわけで、民主化を達成し経済力もついた現在、発散の明確な対象を失ったその熱狂が外に向かってあふれ出しているのが、韓国キリスト教の海外布教熱なのだろう。はは、これはどうも、サムギョプサル食いすぎによるとんだ妄想であった。

2010.1.20





5 寒々しい記憶

2009年の暮れに寒いソウルにやってきたのは、新築オープンして間もない国立中央博物館へ行きたかったからだ。200510月、ソウル市龍山にオープンした豪華な博物館だ。地下鉄4号線のイチョン(二村)駅のそばにある。



昔訪れた国立中央博物館はキョンボックン(景福宮)の中にあった。青磁の壷など魅力的な展示物はあったが、建物はいたって古めかしく、東京国立博物館本館内部のような薄暗い気分の博物館だった。建物は日本が朝鮮を植民地にしていた時代の朝鮮総督府庁舎だった。

朝鮮総督府だったその建物は1993年、当時の韓国大統領キム・ヨンサム(金泳三)が、民族の誇りと精気を回復するために、朝鮮総督府を速やかに解体することが望ましい、と建物の解体を決定した。建物はもはや存在しない

旧朝鮮総督府庁舎については移転先を探して保存か、解体かで議論があったらしいが、文化財として保存するよりも、忌まわしい記憶の取り付いている建物をきれいさっぱりと消してしまうほうに意義があるという気分のほうが強かったようだ。建物が国立中央博物館だった時代から、民族の遺産を日帝の建物に収蔵するのは恥であるという意見があった。一方、台北市の台湾総督府の建物は現在でも台湾総統府庁舎として使われている。なぜか激しい憎しみの対象にはなっていないようである。

キョンボックンは14世紀末に建てられた。豊臣秀吉の侵略の際に消失、19世紀に正宮として再建された。19世紀末には正宮としては使われなくなった。その旧正宮のかなりの部分を取り壊して、日本は植民地事務所を建築した。総督府の建物はキョンボクンの中心的建物になった。


(国立中央博物館で買った絵葉書から)

メキシコを征服したコルテスがアステカの都テトチティトランのケツァルコアトル神殿を破壊し、その石材をつかって現在のメキシコ・シティーのカテドラルを建造し、新しい権力者が誰であるかを示したのと同じ趣旨の政治的構造物である。大阪産業大学のサイトがキョンボックンの歴史的写真をアルバムに収めている。これを見れば解体撤去を決定したキム・ヨンサムの主張が理解できる。

1895年にはキョンボックンで李朝第26代高宗の妃・閔妃が暗殺されている。この事件についてはいわゆる歴史認識という厄介な問題があり、このコラムのような短文では処理しきれないので、平凡社の『世界大百科事典』から吉野誠の記述を引用する。

閔妃虐殺事件とは「1895年、日本公使三浦梧楼の指揮により日本軍人・大陸浪人らの手で閔妃が殺害された事件。三国干渉を契機として復活した閔氏政権の排日政策に対抗して勢力挽回を図った三浦は、108日早朝、ソウル駐在の日本守備隊および岡本柳之助、安達謙蔵ら日本人壮士のグループに命じて景福宮を襲撃させた。宮殿内に乱入した彼らは閔妃を斬殺して奥庭にひきずり出し、死体を凌辱したうえ石油をかけて焼き払い、これと同時に、大院君をかつぎ出して金弘集を首班とする親日開化派政権を成立させた。三浦は朝鮮軍隊の内紛を装ったが、王宮の内部にいた外国人の目撃などから国際的な非難をあびた。そこで日本政府は、三浦以下48名を召喚して形ばかりの裁判を行い、翌年1月、証拠不十分として全員を免訴・釈放した。日本のこうした蛮行に対して、朝鮮各地で反日義兵闘争がまきおこった」

虐殺事件の背景を同百科辞典は次のように説明している。閔妃は宮中内外で閔氏一族を引き立て、義父である大院君と対立した。閔妃と大院君の対立を利用して清国、ロシア、日本が朝鮮半島での勢力拡張争いを繰り広げた。18947月には日本軍が大院君をかついで王宮を占領し、閔妃の一派は政権から追われた。しかし翌年、三国干渉ののち閔妃はロシアと結んで巻き返し、政権を回復。このため、日本は勢力後退で焦燥感にかられていた。

内紛に乗じて勢力拡大を図るのは植民地主義者の常套手段であるにしても、自らが抜刀のうえ王宮に殴りこみをかけ、独立国の王妃を斬殺したことには、当時の帝国主義国家の指導者もそのプリミティブな政治行動に驚いたことだろう。

1963年ケネディー政権がベトナムでアメリカの手に負えなくなったゴ・ディン・ジェム大統領打倒のクーデターを企画した。サイゴンのアメリカ大使の息のかかった南ベトナム軍の将軍らが大統領官邸を襲撃し、大統領官邸を脱出して逃亡中の大統領と弟のゴ・ディン・ヌーを殺した。

このときケネディー政権のアメリカはクーデターのゴーサインは出したが、襲撃には参加しなかった。最後の流血現場は現地の人々に任せて、責任逃れの道を作っておくのが国際的陰謀の常道だ。だが、ちょんまげを切って国際舞台にデビューし、はるか坂の上をのぼってゆく先行植民地勢力の後追いを始めたばかりの当時の明治政府には、まだそれだけの知恵もなかったのだろう。

1988年のソウルオリンピックでのバレーボールの日本対ソ連の試合で、会場の応援が圧倒的にソ連に傾いていたのを記憶している。当時、ソ連は韓国と国交のない社会主義国家だった。ソ連への応援は日本への反感の裏返しだった。傷ついた自尊心の回復には時間がかかる。

2010年は日本の韓国併合100年にあたる。ソウルの東亜日報が200912月に実施した世論調査では、「日本が嫌い」という回答が36%。「好き」118%の約3倍だった。「どちらでもない」が52%だった。20053月に東亜日報が朝日新聞と共同で実施した世論調査の「嫌い」63%比べて、反日感情がかなりやわらいだという。 北朝鮮ついては9%が「好き」、34%は「嫌い」だった。韓国の庶民感情では、日本に対する好悪は北朝鮮に対するそれとどっこいどっこいである。

そういうわけなので、新しい国立中央博物館に入るときは、むかしの博物館に入ったときのような重苦しい緊張感はなかった。それに、新築オープンのご祝儀がまだ続いているのか、日本人の私でも常設展は無料で入れてもらえた。

2010.1.28





6 パゴダ

ソウルの国立中央博物館の常設展示館は3階建てで、1階の通路はゆったりとした開放感をあたえる天井までの吹き抜けになっている。その突き当たりに灰色の大きな石塔が展示してある。キョンチョンサ(敬天寺)十層石塔とよばれる韓国の国宝だ。

高さ13.5メートル。もともとケソン(開城)近くのケプン(開豊)の寺にたっていた。現在、ケソンもケプンもパンムンジョム(板門店)から数十キロほど北朝鮮内に入ったところにある。ケソンが高麗王朝の都だった1348年に建てられた大理石造りの石塔である。

   

韓永大『朝鮮美の探究者たち』(未来社、1992年)によると、1907年、大韓帝国の皇帝高宗の子・純宗の結婚式に日本から特使とてやってきた宮内大臣・田中光顕が、大韓帝国の宮内大臣に「この塔が欲しい」と言ったところ「もって行きなさい」ということになったという。田中が帰国後、武装した憲兵をふくむ80人ほどの日本人がやってきて、この石塔を分解して日本に持ち帰った。

この一件をソウル在住のイギリス人とアメリカ人のジャーナリストが文化財の略奪だとして国際世論に訴えた。日本は周囲を納得させるにたる譲渡契約書をもっていなかった。結局、1918年になって、日本はこの石塔をソウルに送り返した。石塔は日本では組み立て復元されることなく、解体されたまま東京帝室博物館(いまの東京国立博物館)に放置された。また、ソウルに帰ってきた石塔は朝鮮が日本の支配から解放される1945年までキョンボクン(景福宮)内に放置されたままだったという。

外国に持ち去られたお宝は例にこと欠かないが、それが元の場所に返された例はそれほど多くない。1937年にベニト・ムッソリーニがエチオピアに攻めこんだイタリア軍に持ち帰らせてローマの町に飾ったアクスムのオベリスクは2005年にエチオピアに返還された。

フランスのルイ16世やマリー・アントワネットがギロチンで公開処刑されたパリのコンコルド広場には、現在、19世紀にエジプトから運んできたオベリスクが建っている。もともとルクソール神殿まえに2本並んで建っていたオベリスクの一本だ。フランスが大時計と引き換えに、エジプトの太守メフメト・アリからもらったといわれている。そのころエジプトはイスタンブールを都としていたオスマン帝国の支配下にあった。イスタンブールの広場にもオベリスクが1本たっている。

   

コンコルド広場のオベリスクをもとあったルクソール神殿に返せと言う声がないわけではない。フランス側に、では返そうかという気があるわけでもない。

ロンドンの大英博物館に鎮座するロゼッタ・ストーンは18世紀末のナポレオンのエジプト遠征を機にフランスの兵隊が掘り出し、そのあと、エジプトでフランスの軍勢を攻めたイギリス軍が戦利品としてロンドンに持ち帰った。エジプトの考古学関係者はロゼッタ・ストーンを返してくれというが、いまや、大英博物館の目玉展示物となっている石を返す意思はイギリス政府にはないだろう。

さて、ソウルの中央博物館2階の寄贈文化財展示室に入ると、青銅製の古代ギリシャのヘルメットが飾られていた。「これは何だ」と人目を引いている。19世紀にドイツの考古学者がギリシャのオリンピアで掘り出した紀元前8世紀ごろのヘルメットであるとされている。このヘルメットは1936年のナチの祭典ベルリン・オリンピックの男子マラソン競技で優勝したソン・キジョンに副賞として贈られたものだ。



1936年の副賞の古代ギリシャのヘルメットは長らくの間ソン・キジョンの手に渡されないままでいた。1980年代なってあらためてソンに贈りなおされた。それをソンが博物館に寄贈した。

朝鮮は日本の植民地で、ソンは日本選手としてオリンピックに出場した。男子マラソンの金メダリストで朝鮮ナショナリストであるソンが表彰台でうつむいて日の丸を見ようとしなかったというエピソードはよく知られている。ちなみに約30年後、1968年のメキシコ・オリンピック大会では、アメリカの黒人選手トミー・スミスとジョン・カーロスが陸上男子200メートルの表彰台で、黒い手袋をはめた手を突き上げて黒人差別の国アメリカの国旗・国歌に異議をとなえた。2人はこのことで選手村から追放された。

ソウルでは、日刊紙の東亜日報がベルリンから電送されてきた表彰台のソンの写真を、ソンのランニングシャツについていた日の丸の部分を塗りつぶしたうえで紙面に掲載した。

裸体写真の局部を塗りつぶすが如くに日の丸を塗りつぶした、その明白な政治的メッセージに怒った朝鮮総督府は東亜日報に無期限発行禁止を命じ、社長をはじめ関係した社員ら合計8人を投獄した。

この新聞社の剛直な性格は独立後も変わらず、パク・チョンヒの専制政治を批判した。1974年から75年にかけて、政権は懲罰のため広告主に圧力をかけた。広告主は『東亜日報』との広告契約の解除を強いられた。『東亜日報』は新聞の広告スーペースが空白のまま印刷発行した。

似たような武勇伝はアメリカにもある。1971年、『ニューヨーク・タイムズ』がペンタゴン・ペーパーをすっぱ抜いたときのこと。掲載すべきか、すべきでないか、記事の扱いをめぐってタイムズ社内で深刻な議論が交わされたという。タイムズの顧問弁護士は機密文書の暴露は法に反する売国行為であり、訴えられた場合、法廷で勝てる見込みはないと、編集幹部に告げた。政府は新聞に攻撃をかけてくるだろう。会社が資金的に苦しくなることもあるだろう。その場合は、新聞社のビルを細切れに売りながらしてでもしのぐしかない。ともあれ編集幹部は、ニュース価値のあるものを印刷するのがわれらの仕事で、その仕事の結果、政府がわれらを牢屋送りにするというのであれば、みんなして牢屋に行こうではないか、という意見で一致し、印刷に踏み切ったといわれている。

1936年、『東亜日報』の編集部が日の丸を塗りつぶしたソンの写真を掲載したとき、新聞編集者たちは似たような気持の高ぶりを感じていたのであろう。1970年には訪独中の韓国国会議員パク・ヨンロク(朴永禄)が、ベルリン・オリンピック競技場の優勝者記念塔に銘記されたソン・キジョンの国籍「日本」を工具で削りって「韓国」と書き換えた事件があった。国際オリンピック委員会と日本オリンピック委員会の公式記録では、ソン・キジョンはいまなお「孫基禎(そん・きてい) 日本」のままになっていて、韓国に返還する動きはないようである。

2010.2.3





7 本家争い

ソウルの国立中央博物館の特別室に国宝弥勒菩薩半跏思惟像がおさまっている。ライトのあて方など展示方法に工夫がこらされていて、見る角度によって陰影が異なり、見て心地よかった。京都・広隆寺や奈良・中宮寺の弥勒菩薩半跏思惟像と写真を並べてみると面白いのだが、いずれの仏像も写真撮影禁止になっていて、手元に画像がない。インターネットには出所不明のこれらの画像があふれている。ご覧あれ。至文堂の『日本の美術 9 弥勒像』(1992)がお手ごろな参考書。こちらは図書館で。

いつごろのことだったろうか。パリのルーブル博物館では、フラッシュさえ使わなければ「モナリザ」の写真を撮るのも自由だった。しかし、全自動カメラは露出計とフラッシュが連動しているので、あちこちで観光客のカメラがピカピカ光り、そのたびに警備の人が「ノー・フラッシュ」と大声で叫んでいた。

この時期には海外の大都市で韓国の団体旅行者をよく見かけるようになっていた。旗を持ったツアー・コンダクターの引率で韓国の団体さんがレストランに旋風の如く舞い込んで来て、あっという間に食事をすませて、また旗をひるがえして風のごとく去って行く。ツアーはどの国でも一緒だ。パリのコンコルド広場で、そうした団体旅行の韓国の若いお兄さんに韓国語で声をかけられた。

知っている唯一の韓国語「イルボンサラミエヨ。モルラヨ」と言ったのがまずかった。あいてはますます早口の韓国語をしゃべった。どうやらピラミッドを背景にしてカメラのシャッターを切って欲しいようだった。

話はルーブルにもどるが、この博物館では目玉のミロのビーナスの写真も自由にとらせてくれた。1964年にミロのビーナスが日本で公開されたとき、会場は順番待ちの見物の長い列ができ、蛇がトグロを巻くように会場をとりまいたという伝説がある。そのことを思いだし、感激してシャッターを押した覚えがある。ルーブルでミロのビーナスをフィルムからスキャナーでデジタル化したのがこの写真だが、偶然というか韓国の観光客のおばさんがビーナスの横に立っていた。その存在感はビーナスと比べてひけをとらない。



ソウルの国立中央博物館のいまひとつの目玉である新羅の王冠は撮影自由だった。新羅の都だった慶州の古墳から出土した6世紀ごろの金冠だ。冠に多数の翡翠の勾玉がついている。勾玉は日本独自の造形で、それが朝鮮半島に伝わって新羅金冠の飾りなったと日本側ではいう。韓国では勾玉は韓国から日本に伝えられたものという意見がある。海峡を挟んで目と鼻の先にある土地同士だから、昔から人や物の往来があった。近いがゆえの近親憎悪的反目である。



キムチに使われる唐辛子は16世紀に日本から朝鮮半島に持ち込まれたという説が有力だ。コロンブスが南米からヨーロッパに持ち帰り、それが日本に伝えられて、そのあと韓国に持ち込まれたという。韓国の食品研究所の学者が16世紀以前からコロンブスが持ち帰ったものとは別種の唐辛子が半島にはあったという研究結果を発表したことがあった。

こういう本家争いの論争は民族感情が絡むだけに、科学的立証だけでは決着がつかない。現代の日本では、朝鮮半島伝来のキムチが日本の伝統的漬物を駆逐している。半島の愛国者たちは快哉を叫んでいることだろう。いっぽうで韓国では自家製のキムチをつくる家庭が急減、昔のようにキムチをつける壷が家の目に並ぶ風景は少なくなった。



冗談はさておき、ソウルの国立博物館に巨大な甕棺が展示されていた。甕は二つに分かれていて、開口部をつないで使う。埋葬用の甕棺は吉野ヶ里遺跡など九州でもたくさん見つかっている。さらに甕棺を使った埋葬はインドネシアなど東南アジア島嶼部、中国、朝鮮半島、日本に広がっている。こうなると、日朝ウチが本家争いはやりにくくなる。



でも、なんとなくとぼけた形で居心地よさそうに見えるではありませんか。

2010.2.14





8 明眸皓歯

ソウルの冬は東京より寒い。体感的にいえば札幌あたりの寒さである。ソウルでは札幌ほど雪は降らないが、ときどきは雪が降りしきることもある。



北海道を除いて日本の家屋の防寒はいい加減だ。以前、といってももう半世紀ほども前のことだが、盛岡で2年ほど仕事をしたことがあった。勤め先の会社が紹介してくれた下宿が、土塀で囲まれた南部藩時代の旧家の一室だった。冬は灯油ストーブを使った。寝るときストーブを消して朝起きると、ちょうど顔の辺りの掛け布団に霜が降りていた。

朝鮮半島の人は床暖房オンドルを使う。オンドルで焚く薪をとったせいで半島に禿山が増えた、といわれている。私が昔見たソウルの街にはオンドル燃料用の練炭が山積みされていた。そのころはオンドルに使う練炭の不完全燃焼による一酸化炭素中毒死が問題になっていた。今ではお湯を使った床暖房が普及している。



床を暖めるのがオンドルなら、壁を暖めるのはペチカだ。冬の軽井沢の某山荘でペチカに薪をぼんぼんくべて焚いたところ、壁があったまりすぎて、部屋の中が焦熱地獄のようになり、窓を開け放って冷気を入れたことがあった。

それにしても冬のソウルは寒い。繁華街ミョンドンも日暮れ時にはもう気温が氷点下に落ちている。ミョンドン名物の屋台から食い物が湯気を立てている。湯気に誘われるかのようにぞろぞろ人が集まってくる。



たいていは完全防寒の衣装だが、中には大胆不敵、ミニスカートで美脚を氷点下の外気にさらしているあっぱれな女性がいる。人ごみのなかで韓国の若い人を眺めていると、一昔前に見た韓国人と顔つきが大いに異なっていること気がつく。みんなお目々パッチリさんなのだ。



数年前まで私は地方某国立大学で留学生を対象にした日本事情のクラスを1コマ持っていた。ある時期からソウルの某私立大学と交流協定ができて、どっと韓国から交換留学生が来るようになった。可愛い子チャン風の服を着た韓国の女子学生10人ほどが前列に陣取り、クリッとした目で先生をみつめるのである。その目は東北アジア型の、厚いまぶたに隠され、つリ上がった細い目ではなくて、東南アジア・マレー系の二重まぶたの丸い目である。みんな似たような目元であった。

ちょうどそのころだったか。当時の韓国大統領だった故ノ・ムヒョンが目を二重瞼にする整形手術をうけたというニュースを読んだ。韓国の美容整形ブームが国際的な話題になったころだった。

韓国は「身体髪膚これを父母に受く、あえて毀傷せざるは孝の始なり」という儒教のシッポを残す保守的な社会だが、同時に、日本よりはるかに激しい競争社会でもある。たかが目元程度のことで子どもが妙にいじけたり、さまざまな選抜などで不利な扱いを受けるのはかわいそうだからと、親が整形を進めるケースもある、などと報道されていた。



顔つきだけではなく、身長も男の子なら1メートル80は欲しい、というのが韓国の相場である。子どもを対象に身長を伸ばす針治療や、ホルモン注射を使う成長クリニックが繁盛した。新聞が伝えるところでは、ともに背が低い父母が、同年齢の子に比べて背の低いわが子の身長をのばし、劣等感を取り除いてやるために、毎月七、八万円を費やしている例もあった。

日本もそうだが、栄養状態がよくなったので、韓国の青少年の背丈はずいぶん高くなった。この30年ほどの間に、高校3年生男子の平均身長は9センチほど伸びて171センチ、女子の場合は5センチ伸びて158センチになった。

韓国に比べて北朝鮮の子どもの発育はよくない。栄養状態が悪いからだ。韓国に住むことになったある脱北家族の16歳の男の子は身長が150センチそこそこだった。韓国の同年齢の男の子に比べて10センチ以上低かった。だが、北朝鮮では同年齢の子に比べて特に背が低かったわけではなかったそうだ。こういうことでは、南北統一のさい、同胞が肩を並べるという形容が通らなくなる、と新聞はその記事につまらぬオチをつけていた。キム・ジョンピルの身長は公称1メートル60数センチとされているが、彼はあげ底の靴をつかって、偽装しているという説がある。

私事で恐縮だが、若いころ短期間ホノルルに住んだことがあり、あるときハワイ諸島の某島へ仕事仲間と出かけたことがある。砂浜を歩いていると、小川が海に流れ込んでいた。河口の幅10メートルほど。みんなで川を歩いて渡った。浅い川だったので、背の高い西洋人は水泳パンツをぬらさなかったが、私のパンツだけ下のほうが川水に浸かり少しぬれた。

だが、よく見ると、私とほぼ似た背丈の小柄なイギリス系オーストラリア人のパンツも全くぬれていなかった。なーんだかなーあ。

グローバル時代を見すえれば、目元、身長程度のことで子どもに引け目を感じさせたくないという、韓国の親心はよくわかる。

2010.3.22)





9 暖衣飽食

むかし、ソウルにはじめて来たとき、行く先々で朝鮮人参茶のにおいをかいだ。乗った大韓航空の機内も人参茶のにおいがした。

日本に来た外国人は街にあふれる醤油のにおいを記憶に刻み込んで帰るのだろう。アメリカの空港は料理油のにおいがした。空港内がまだ禁煙でなかったころのジャカルタ空港はクローブ入りタバコ・クレティックのにおいが漂っていた。

しかし、今回、ソウルで朝鮮人参茶のにおいに気づくことはなかった。キムチは日本でもいまや普通の漬物になってしまい、そのにおいにことさら気づくこともなくなった。



ソウル滞在中のつまらぬ講釈ばかり並べてきたので今回は食べ物の話だ。一度きちんとした韓国料理を食べようと、某レストランへ行った。味よりも店の構えで売っているようなレストランだ。



韓国料理といえば、テーブルの上に立錐の余地がないほど料理を並べるもの聞いていたが、個のレストランは西洋料理風のフルコースのように、一皿ずつ運ばれてきた。





















これだけ食べれば腹いっぱい。



夜、地下鉄の通路でホームレスのダンボールハウスを見た。寒いだろうな。ご馳走をたべたあと、途上国を旅しているときは飽食の罪滅ぼしに、小銭を乞食にあげるのだが、ソウルでは乞食の姿を見かけなかった。ホームレスはいるが乞食はいない。日本の街もそうだ。

2010.2.27





10 光化門

伊藤博文をピストルで射殺したアン・ジュングン(安重根)は、日本、中国、北朝鮮でその歴史的評価に温度差がある。韓国では「義士」ということになっていて、ソウルの南山の麓に安重根義士記念館が建てられている。

興味深いのはその記念館が建っている場所だ。日本が朝鮮半島を支配していた1920年に、日本が朝鮮神宮を建てたところだ。朝鮮人に参拝を強要、精神的支配を画策した場所である。韓国の国定高等学校歴史教科書『韓国の歴史』(明石書店、 1997年)は「日帝の内鮮一体、日鮮同祖論、皇国臣民化のような荒唐無稽なスローガンの下で、民族の言葉と歴史を学ぶことが禁じられ、皇国臣民の誓詞暗誦、宮城遥拝、正午黙祷など絶対服従を強いられ、そのうえ名前まで日本式に変えるよう強制された」「この時期にわが民族は日帝による民族抹殺統治を受けるようになった」と生徒に教えている。

日本が朝鮮支配の象徴として建てた朝鮮神社を打ち壊し、その後に韓国統監府の初代統監として日本の韓国支配を確立した伊藤博文の狙撃者アン・ジュグンの記念館を建てて抗日成就・権力回復の記念とした。

日本の植民地統治時代に日本の支配を象徴するような建物がソウルにいくつか建てられた。壊されたものがある一方、保存されているものもある。支配の象徴のような構造物は壊され、実用的なものは保存されている。

旧京城駅舎はそうした実用的な建物一つで、解体されず文化財として保存されている。また、かつては日本の三越デパート京城店の建物は、いまでもシンセゲ(新世界)デパート旧館として使われている。日本が建てた朝鮮銀行の建物は韓国が中央銀行として使っていたが、現在は貨幣金融博物館になって残っている。



かつての京城府庁で旧ソウル市庁の建物は2009年冬、解体工事中だった。日帝支配の象徴だったためなのか、老朽化のためなのか――おそらくはその両方の理由によるものと想像される。

ソウルのメイン・ストリートであるセジョンノ(世宗路)がキョンボックン(景福宮)に突き当たる所では、クァンファムン(光化門)が復元工事中だった。



光化門は14世紀に京福宮の正門として建てられたが、16世紀には火事で2度も焼け落ちている。再建された光化門を20世紀になって朝鮮総督府がとり壊そうとしたが、朝鮮美術工芸に魅せられた民芸運動の柳宗悦が取り壊し反対の論陣を張るなどしたため、移築保存はされたが、結局、1950年に朝鮮戦争で焼失した。パク・チョンヒ(
朴正煕)が1970年代に鉄筋コンクリートで光化門を再建した。だが、ノ・ムヒョン(盧武鉉)が、パク・チョンヒが建てた門を取り壊して、新しく木造の光化門を建てることを決めた。2009年冬、工事が進んでいた。

パク・チョンヒが建てたコンクリート製の光化門には、彼が筆をとってハングルで書いた「くぁんふぁむん」の額がかかっていたが、それも撤去された。新しい木造の光化門には漢字の額がかけられるそうだ。

    

権力は巨大構造物を建ててその象徴とする。その建物をつかって民衆の情緒を操作し、権力の意思に従わせる。ピラミッドや古墳、阿房宮の時代からドバイの超・超高層ビルの今にいたるまで、どこの街にもころがっている物語である。

2010.3.9

                           ――おわり――