1 仙台

2011年の東日本大震災・津波から5年がたった。

20163月下旬、仙台在住のSK氏に案内してもらって、仙台・石巻・女川の海岸をたずねて回った。SK氏には大震災の3ヵ月後の2011年5月と6月に、生々しい被災地を案内してもらっている。

JR仙台駅3階の東北新幹線中央改札のそばに月の松島を描いたアクリルの絵が飾られていた。地震と津波からの復興と、あわせて東北観光の振興を願ってJRが設置したものだ。

仙台在住の作家が、石巻市雄勝町の特産・玄昌石に描いた。石は震災被害後に雄勝町の瓦礫の中から回収されたものだそうだ。



仙台の売り物はいつになっても松島か、と感心しつつ、仙石線で本塩釜に向かった。塩釜港から遊覧船で松島に向ってみようと思ったのである。

本塩釜の駅には塩釜(竃)市のハザードマップが掲示されていた。遊覧船に乗る前に塩竈神社へ行ってみた。神社へ向かう道路脇に津波がこの地点まで押し寄せたという石柱が建てられていた。

本塩釜駅周辺を見る限り、風景からは地震・津波の痕跡は拭い去られていた。町に住む人々の心のうちは、あわただしく通過するだけの旅人にはわかりようがない。

   

これから遊覧船で松島に向かう。



2 松島



塩釜の船着き場から遊覧船に乗って松島に向かう。その間およそ50分。穏やかな松島湾内の、のんびりした船旅。春分のころだったが、仙台地方は異例の暖かさだった。船室からデッキに出ても、風の冷たさがそれほど気にならない。

この穏やかな海が、5年前の津波の時はどんな形相を見せたのだろうか。東日本大震災と津波は、松島湾内の塩釜市や松島町にも損害を与えた。だが、他の沿岸市町と比較すると、相対的に、深刻な被害は少なかった。湾内の島々が防波堤の役割をはたし、被害を食い止めたといわれている。津波後の松島商店街には、松島湾の島々に感謝するメッセージが掲示された。

震災・津波後の市町の被害調査では、直接的に震災・津波によって塩釜市内でなくなった塩釜市民は17人、松島町では2人だった。

                       (2011年6月撮影)
松島町の東隣の東松島市では1,000人を超える死者・不明者が出た。東松島市の人口は約4万。塩釜市と松島町をあわせた人口は約7万。同じ海岸沿いでも、人口当たりの死者数には驚くほどの違いがある。

この違いは、塩釜市と松島町が松島湾の奥にあり、東松島市が直接太平洋に面していたからだと、説明されている。

東松島市では野蒜の海岸で津波は10メートルに達した。一方、松島町では津波の高さは3メートル程度だった。松島町の海岸沿いの道路に沿った商店街には、津波がこの高さまで押し寄せた、という表示が、今でもある。

松島湾内には大小200を超える島がある。これらの島が押し寄せる津波を食い止めたとされている。松島湾内の人が住んでいる浦戸諸島(行政区域は塩釜市)では、家屋の被害は激しかったが、人々は島内の高台に避難し、人的被害は少なかった。

松島町では、写真でおわかりのように、津波は海岸沿いの商店街に床上浸水位の被害をあたえ、瑞巌寺の参道を進んで山門まで達したが、建造物の大破はみあたらなかった。

 
                                  (いずれも2011年6月撮影)
現在では、松島は津波前と同じ観光地の賑わいをとりもどしたように、旅行者には見えるが、町民の生活に襞をのぞけばまた別のストーリーがあることだろう。



3 荒浜小学校

仙台市若林区荒浜も2011年の東日本大震災で高さ10メートルの津波に襲われた。津波は海岸の松を押し倒し、2キロ余り内陸に向かって平地を走り、仙台東部道路の土手で止まった。


20116月に荒浜を見に行ったとき、高い建物は荒浜小学校がポツンと立っているだけだった。津波以来、荒浜小学校は仙台市内の小学校に間借りすることになった。

校舎だけが荒れ果てた荒浜に残っていたが、20163月末で荒浜小学校は仙台市内の別の小学校と統合されて、閉校になった。

旧荒浜小学校の建物は、現状のまま震災遺構として保存されることになった。建物の補強工事や安全対策を行ったうえ、1年後に一般に公開することになっている。



20116月には、荒れ果てた荒浜に自動車の残骸などが、つぶれたゴキブリのようになって散在していた。荒浜小学校の内部も津波に洗われて手ひどく傷ついていた。

     

荒浜小学校は海岸から700メートルほどのところにあり、学校の児童と教職員、近隣の人々あわせて320人が建物の3階と4階に避難した。

           

           

           



4 閖上の丘

仙台市・荒浜の隣に位置する名取市閖上(ゆりあげ)も、高さ10メートル前後の津波に襲われた。閖上地区は名取川河口部の海岸に町が広がっていた。津波による死者は800人を超えた。

閖上には日和山という標高6.3メートルの山、というか丘があり、頂上に神社があった。津波の高さが日和山の標高を超えたので、日和山は水中に完全に没した。水が引いた後、日和山の頂上には瓦礫がノアの方舟伝説のアララト山よろしくうち上げられていたそうである。

津波から3か月後に閖上地区を見に行ったのだが、瓦礫処理が進んで、日和山より高い瓦礫の山が築かれているところもあった。日和山のすぐそばには津波に流されて漂着したバスが放置されたままだった。日和山頂上の神社跡と、無残に破壊されたバスやその他の瓦礫が、雨に打たれる風景は哀切極まりなく、あたりは物音ひとつなく静まりかえっていた。



あれから5年。

日和山とその神社は修復されていた。閖上漁港の朝市も再開されていた。閖上からちょっと離れた場所に復興仮設店舗「閖上さいかい市場」が開かれて4年になる。閖上という町が消えてしまわないように、頑張っているのだが、夕方近かったせいだろうか、人影は少なかった。



 



5 門脇・南浜

熊本の地震のニュースに驚いて、東日本大震災・津波5年後の写真をアップするのが遅くなった。

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5年前、石巻市の高台・日和山公園から海側の門脇町と南浜町を見おろし、その光景に息をのんだ。巨大は熊手が地表を一掻きしたように、建物は粉砕されていた。かろうじて残っていた建造物は、コンクリート製の病院の建物、小学校、お寺の本堂など数えるほどだった。

津波に洗われた門脇小学校は煙でいぶされたように黒ずんでいた。津波警報を受けて、門脇小学校の教員たちは、訓練どおりに学校の裏山の日和山公園に登って避難した。学校にいた275人の児童全員が無事避難した。校舎の壁面が黒ずんでいたのは、流されて校舎にぶつかった自動車のガソリンタンクがこわれ、漏れた燃料が引火して火事になったとされている。

      

5年がたって、門脇町と南浜町は更地になっていた。津波に襲われた地区を二つの区域に分け、海沿いの南浜町があったあたりの土地を公園化し、海から離れた日和山に近い門脇町だった土地を、土盛して海抜を稼いで居住区にする工事も進行中だった。すでに整地が終わった部分では、都市再生機構(UR)が復興公営住宅を建設中だった。





6 称法寺
5年前、石巻市の日和山公園から海側の門脇・南浜を見下ろした時、大きなコンクリート製の建物に伍して、お寺の本堂が流されることなく残っているのが見えた。被災現場に屹立している姿が、幸田露伴の小説、のっそり十兵衛と川越源太の『五重塔』を思い起こさせた。被災者たちの奮起を促すかのように本堂は不動の姿勢を見せていた。

お寺の名前は門脇町の称法寺。5年をかけて、倒れた墓石を親類縁者が立て直し、立て直されていない墓石や石仏などは、お寺の前の空き地に整然と並べられた。春のお彼岸のころだったので、墓参りの人が絶えず、花と線香が供えられていた。

 

本堂のすぐそばまで行くと、5年前、幸田露伴の五重塔のように見えた称法寺の本堂は、実は、ひどく傷つけられていたことがわかった。柱を残して本堂の壁の多くが壊されて流失して、あばら家のようになっていた。本堂の内部にあった仏像などすべて物が津波に持ち去られていた。

本堂の建物としての安全性の問題から、建物は以来使われず、といって建て直されてもいない。いまでは、復興工事が進む周辺の風景の中で、ぽつんと取り残されて、津波記念碑のような姿で立っている。

お寺の再建が進まないのは、政教分離の原則から公的支援を受けられないからである。お寺に文化財としての価値が認められるのであれば、文化財保護法による復旧・修復の援助を受けるという道もあるのだが。



当面、自力による再建しかないのだが、称法寺の檀家も多くが津波の被害者であり、資金をひねり出す力はないようだ。といって、本山からの援助も期待薄といわれている。



7 がんばろう
石巻市門脇町の津波被害地に「がんばろう!石巻」の大きな立て看板があり、復興への市民の意志のシンボルになっていた。さまざまな催しがこの看板の前で行われてきた。

津波で流された店舗の経営者がその跡地に、津波被害から1か月後に立て看板をつくった。この写真を撮ったのは3月下旬で、4月に入って新しい看板が、公園化が予定されている近くの南浜町の市有地に建てられた。門脇町の元の看板があった場所では、間もなく地盤のかさ上げ工事が始まる。



門脇町・復興のテンポはそれほど速くはないが、徐々にあたりの風景は変わってきている。石巻漁港は改修されて新しくなった。長さ1キロを超える水揚げ岸壁が完成、岸壁に沿って長大な魚市場も建てられた。市場の統計によると、2015年度の水揚げ高は180億円に回復した。震災前の2005年の水準である。

  

漁港周辺の水産物加業も公的支援を受けて操業を再開する工場が続き、2014年には生産額が300億円になった。それでも震災前の2009年の520億円にはまだ届いていない。震災被害でいったん止まってしまった販路の回復がはかばかしくないのが理由の一つだと聞いた。石巻漁港周辺には津波被害の傷を無残にさらす荒れ果てたままの加工工場が放置されているところもある。

漁港を見た後、石巻市中心部の商店街でうな重を食べた。創業100年を誇る鰻屋で、震災の時は津波が店まで押し寄せてきた。100年続く鰻のタレは、店から運び出して営業再開までしばらくのあいだ親類に預けたという。石巻の地元の新聞にそんな記事が載ったそうだ。「復興へ向けて頑張ろう、石巻」の気分を伝えるエピソードだ。うな重そのものは、写真のようにやや黒っぽい感じがしたが、美味であった。




8 女川原発
石巻から女川へ足を延ばした。

女川は町震災と津波で大きな被害を受けた町だ。仮設住宅で暮らす人はまだいるが、5年がたって街の玄関口は化粧直しが進んでいた。石巻経由で女川と小牛田を結ぶ石巻線もすでに前線が復旧し、新しい女川駅舎が完成していた。新しい女川駅は海岸から離れた新しい場所につくられた。駅舎には女川町営の「女川温泉ゆぽっぽ」が同居している。

  

女川駅前にも新しい商店街がつくられた。観光地の「道の駅」によく見られるつくりである。商店と文化・交流施設を集めて女川町に賑わいをとりもどす拠点にしようとする試みである。

女川町は永らく財政豊かな町だった。東北電力の女川原子力発電所があり、町財政はその固定資産税で潤った。16年間にわたって宮城県では唯一の地方交付税の不交付団体だったが、2013年から交付団体になった。原発施設の減価償却で税収が減ったためである。

さて、その女川原発だが、一時2016年の運転再開を予定していたが、現在では2017年以降に先送りされている。

女川原発を海側から眺めることができる女川町塚浜小屋取の海岸まで行った。5年前は海岸沿いの道路に亀裂が走り、家がなぎ倒され、船が打ち上げられ、巨大な鉄製のタンクが道端にころがっていた。女川原発が見える小屋取の海岸には家屋のがれきが波に洗われ、女川原発は静まり返っていた。

  

  

5年ぶりに同じ小屋取の浜辺から女川原発を眺めると、風景が少し変わっていた。原発敷地の海側で海面からの高さ29メートルの防潮堤の建設工事が進んでいた。

福島第一原発は高さ13-14メートルの津波に襲われたとされている。女川原発もほぼ同程度の高さ13メートルの津波に襲われている。福島第一と女川の明暗を分けた一つの要因が、原発敷地の高さだった。



女川原発には原子炉が3つ並んでいるが、原子炉建屋の標高が14.8メートルあった。地震で女川原発の敷地は1メートル地盤沈下し、差し引き0.8メートルの僅差で津波に洗われるのをまぬがれた、といわれている。くわえて幸運もあった。福島第1原発では外部電源のすべてが使えなくなった。女川原発では2系統の外部交流電源のうち1系統が生き残った。

写真と文: 花崎泰雄)