1 地中海を抜けて地中海へ

窓のシェイドを上げると、1万メートル下に北極海――多分カラ海、ひょっとしたらバレンツ海かも――が見えた。ちぎれ雲の下に、冷たそうな氷の塊が浮かんでいる。

1万メートルの上空からこれだけの大きさに見えるのだから、氷一塊が1つの小島くらいの大きさなのかもしれない。5月上旬。北極海の解氷期だ。北極圏の早春である。

地球温暖化で北極圏の氷はどんどん融けているそうである。北極の氷が減ると、地球全体の気候のバランスが崩れて、異常気象が頻発するようになると懸念されている。

北極海は北氷洋ともよばれ、太平洋や大西洋と同じ「大洋」と定義する機関もあれば、ユーラシア大陸と北アメリカ大陸とグリーンランドに囲まれた地中海であって、大西洋の一部をなすとする学説もある。

それはともかく、飛行機は無事にフランクフルトに着陸。便を乗り継いでナポリ経由で、まずシチリアに向かった。

今回はシチリアを含む南イタリア見物である。

ローマから北のイタリアには何度か行ったことがあるが、シチリアや南イタリアには足を踏み入れたことがない。「ナポリを見て死ね」(Vedi Napoli, e poi muori.)――もう先があまり長くなくなった身なので、ついこの諺にのせられたのである。行って見ると、ナポリは美しい港湾都市だが、「冥途の土産に」というほどの景色でもない。まだしばらくは年貢をおさめられない。

5月のシチリアは晴れた日は初夏、曇りや雨の日は晩春の気候だった。シチリア見物はパレルモから始めた。時差の関係で早朝に目が覚めてカーテンを開けると日の出だった。



パレルモの宿の窓から結構な地中海の朝焼けがみえた。



2 エトナ山に陽は落ちて

シチリアに向うにあたって、小森谷慶子『シチリア歴史紀行』、ゲーテ『イタリア紀行 中巻』 (岩崎真澄・訳、古典教養文庫)Blue Guide Sicily  3冊のeブックをタブレットに入れた。

しかしながら、これらの3冊を旅の途中で読む機会はなかった。忙しい旅だったからである。

歳をとって自前で旅の準備をしたり、荷物を抱えて交通機関を乗りかえたりするのがおっくうになってきた。それに年金生活者になって旅費が潤沢でなくなったせいもある。ホテルを出たら専用のバスが待っていてくれ、バスに乗ったらその日の目的地まで、居眠りをしていても間違いなく運んでくれる。旅行会社が交通費・宿泊費、食費をギリギリまで値切り倒して組み立てたパック旅行は、たしかに、年寄り向きだ。

半面、朝は7時前に起こされ、朝昼晩、給食のようなメシを食べさせられ、いつも金魚のウンコのようにつながって移動することになる。

「来た! 見た! 買った!」。あらゆる風景がどんどん後ろへ流れ去って行く非情な移動である。あれ見ろ、これ見ろ、とガイドや添乗員に指示されて、持参したeブックを旅の途中で開く余裕もなかった。

ゲーテの『イタリア紀行 中巻』を開いたのは、日本に帰りついてからだ。

そんな旅だったので、タオルミナで2泊したホテルからの眺めた穏やかな夕暮れの風景がいらだつ心を慰めてくれた。

シチリア島東岸のタオルミナという町は、その風光明媚によってヨーロッパでも名高い保養地になっている。

ちなみにタオルミナを訪れた著名人の名前をインターネットであたってご覧なさい。イオニア海の鰯の大群のように次々と名前が浮かんで来るだろう。

Blue Guide Sicily は、トルーマン・カポーテ、セシル・ビートン、ジャン・コクトー、オズバート・シットウェル、サルヴァドル・ダリ、ウィンストン・チャーチル、シベリウス、オーソン・ウェルズ、ジョン・スタインベック、テネシー・ウィリアムズ、リタ・ヘイワース、マレーネ・ディートリッヒ、グレタ・ガルボ、ケーリー・グラント、エリザベス・テーラー、リチャード・バートンの名前を挙げている。

そのきっかけのひとつになったのが、ゲーテの『イタリア紀行』である。ゲーテは保養地タオルミナの恩人である。

タオルミナの近くにはヨーロッパで最大の活火山であるエトナ山がある。目の前にはイオニア海が広がっている。ゲーテは18世紀の後半にシチリアを旅し、タオルミナに滞在した。タオルミナの高台から眺めた風景をゲーテは次のように書いている。



「目路はエトナの長い山背全体に沿って走り、 左方には海岸線がカタニアの 方まで、 否シラクサの方まで延びているのが見える。 そうしてこの遠く連なり広く伸びた光景の尽きる所、 そこは 巨大な煙を吐くエトナの火山である。 しかも物を穏やかにする大気が、この山を実際よりも遠くまた和らげて見せて いるがゆえに、 決して恐ろしい姿ではない」(ゲーテ『イタリア紀行 中巻』)。

タオルミナの高台に建つホテルのテラスから、ゲーテが眺めたと思われる風景をカメラに収めた。

ついでに、タオルミナの夜景も添えておこう。





3 サラセンの城跡

タオルミナの中心部あたりから、さらに高い岩山が2つ見える。左手の岩山には十字架が見える。右手の岩山には城壁のようなものが見える。

右手の岩山の上に立つ「城壁のようなもの」は「ようなもの」ではなく、「カステロ・サラセノ」(サラセンの城)とよばれるれっきとした城塞の跡である。

もともとこの岩山には古代ギリシャのアクロポリスがあった。古代ローマ帝国はこの岩山を砦にした。現存する城塞はまず東ローマ帝国(ビザンチン)が築き、アラブ人がそれを奪取して手を加え、その後、ノルマンが支配、次いでスペインがシチリアを支配下してスペインの砦としたものだという。

古代ギリシャ時代から延々と歴史を積み上げた構造物である。古代ローマ帝国の時代の紀元前2世紀には、この岩山を拠点にして奴隷たちがローマ帝国に反乱を起こした。ローマ帝国軍は岩山を包囲、兵糧の尽きた反乱奴隷軍は人肉で飢えをしのぎながら数ヵ月戦ったと、観光案内書は言う。力尽きて帝国軍の捕虜となった数千人ともいわれる反乱奴隷たちは、ことごとく岩山の上から突き落とされたという。



カステロ・サラセノから見おろす海の眺めは感動的だが、たどり着くには道路から700段を超える階段を上らねばならず、登ったところでは城跡は閉鎖されていると案内書は言う。

地中海に浮かぶシチリア島は紀元前から15世紀ころまでの、地中海が世界そのものであった時代を象徴する場所である。ここは諸民族の交差点だった。

まず、フェニキア人が地中海に舟を乗り出してカルタゴを築いて地中海を支配した。続いて古代ギリシアがシチリアにやって来てシラクサなどに植民都市を築いた。そのあと、古代ローマ帝国が地中海を支配、シチリアはローマ帝国の属州になった。

ローマ帝国はゲルマン人の侵入で崩壊するが、間もなく東ローマ帝国がシチリアを支配するようになる。だがそれも長くは続かなかった。8世紀にイベリア半島に侵入したイスラム教徒のアラブ人が、勢いに乗ってシチリアも支配する。11世紀にはノルマン人がアラブ人を追い払って、シチリアにやって来た。この後もシチリアの支配権はフランス、スペインと引き継がれていった。

こうした地中海の覇権争いの中で、現在のシチリアの日常生活に最も寄与したのがイスラム勢力だった。イスラム教徒は、シチリアに灌漑技術をはじめ、レモンなどの柑橘類やメロン、ピスタチオ、綿花、桑と養蚕、稲やサトウキビをもたらした。シチリアのガイドさんはシチリアにやって来たアラブ人は深い森があるだけのシチリア見て「何もない島だ」と言った、と話してくれた。今日なおシチリアの基幹産業であり続ける農業は、アラブの手土産だったという意味だろう。

『古寺巡礼』で有名な和辻哲郎の著書に『イタリア古寺巡礼』(岩波文庫)がある。和辻がドイツ留学中(1927年から28年にかけて)に3ヵ月にわたって旅したイタリアの印象記である。

和辻はエトナ山とイオニア海の眺めを「山は白く、水は青い。なるほどこれはヨーロッパで一度も見なかった山水明媚な風光である」とほめている。彼はタオルミナでギリシャ人が作りローマ人が改造した古代の劇場を訪れ、海が見える劇場に大いに感心したが、カステロ・サラセノについてはなにも書いていない。



4 アラブの香り

パレルモ郊外のモンレアーレの聖堂を見に行った。



和辻哲郎は『風土』で「地中海は死の海といってよい」と書いた。「黒潮の海は無限に豊饒な海であるが、地中海は痩せ海である」「海の砂漠である」とも書いた。「地中海は古来『交通路』であり、そうしてそれ以上のなにものでもなかった」と和辻はいう。

地中海が死の海であり、海の砂漠であるという表現は、地中海が何よりも交通路であったということを強調するための和辻のレトリックである。

地中海はクロマグロで有名な海である。地中海人は紀元前からマグロを食べて暮らしていた。シチリアの洞窟絵画にはマグロが描かれているし、ギリシアや北アフリカの遺跡には多様な魚類を描いたモザイクの床が残っている。塩漬けのマグロ肉は地中海人の大好物で、コロンブスも好んでこれを食べた。大航海時代にマニラに住んでいたスペイン人は、平戸からの鮮度のよい塩マグロが運ばれて来るのを待ち焦がれていた。鹿児島大学水産学部教授だった田口一夫がそんなことをどこかに書いていたことを思い出した。

9世紀、それまでビザンチン(東ローマ)帝国の領域だったシチリア島に、交通路である地中海を渡って、アラブ人とベルベル人が組んだイスラム勢力が北アフリカから攻め込んできた。イスラム軍は9世の終わりにはシラクサを、10世紀初めにはタオルミナを占領した。

イスラムの脅威に対抗するためにローマ教皇やイタリアの都市国家は用心棒にノルマン人の騎士たちを雇っていた。その傭兵たちが12世紀ごろシチリアに攻め込み、イスラムを追い払った。さらには、傭兵の地位に飽き足らず、ノルマン人たちが自分たちの国家をシチリアに樹立した。

こうして、シチリアにはビザンチンの文化と、アラブの文化、それにノルマンの文化が融合されたアラブ・ノルマン様式とよばれる建築物が残されることになった。

その代表的な建物の1つが、パレルモ郊外のモンレアーレの聖堂である。建物は無骨なノルマン様式。イギリスの古い教会などにみられる良く言えば重厚なつくりで、ロマネスク様式の1つとされている。

聖堂の中に入ると、ビザンチンの金色に輝く壁面装飾やモザイク、イスラムが好んだ尖頭アーチやアラベスク文様で内部が埋め尽くされている。大変にぎやかである。



スペインのコルドバのメスキータほどイスラムの香りは強くないが――それも道理、メスキータとはスペイン語でモスクの意味で、もともとモスクだったものを、レコンキスタの後、キリスト教徒が教会に改修した――モンレアーレの聖堂にもアラブ・ノルマン様式のがもたらすイスラムの香りがそこはかとなく漂っている。



(写真と文: 花崎泰雄)