1 水の都

サンクトペテルブルクはバルト海の一部であるフィンランド湾の東側の一番奥にある。町を流れるネヴァ川がフィンランド湾にそそいでいる。水の都である。バンコクが東洋のヴェニスと言われたように、サンクトペテルブルクは北のヴェニスの異名をとる。

18世紀初頭にピョートル大帝がここに都を建設した。そのさいの名前がドイツ語風のサンクトペテルブルク。1914年に第1次世界大戦がはじまり、ロシアがドイツと敵対した。ドイツ語風の響きのある名前はまずかろうということで、サンクトペテルブルクからペトログラードに改名した。1917年にレーニンが亡命先のスイスから封印列車で帰ってきたときはペテログラードだった。

レーニンの死後、1924年にペテログラードからレニングラードに名前が変えられた。第2次世界大戦でレニングラードはドイツ軍に包囲された。ドイツ軍の包囲は194198日から1944127日までの900日におよんだ。1100グラムちょっとのパンで飢えをしのぎ、暖房の切れた冬にたえた。60万人が飢えと寒さで死んだ。だが、レニングラードの市民と兵はドイツ軍に町を明け渡さなかった。米通信社UPの特派員としてモスクワからレニングラードに入ったハリソン・ソールズベリーが、当時の取材をもとに書きあげた『攻防900日――包囲されたレニングラード』(ハヤカワ・ノンフィクション)は見事なドキュメンタリーで一読に値する。

1991年に名前がレニングラードからサンクトペテルブルクに戻った。1991年の市民投票で改名が決まった。改名に関しては全国的な議論になった。ゴルバチョフは、レニングラードという名前には歴史的な重みがあると改名に反対した。ソルジェニーツィンも、改名はいいけれど何もロマノフ時代の名前に戻すことはなかろう、とサンクトペテルブルクに反対した。だが、スーターリン批判ののちスターリングラードがヴォルゴグラードと呼び名を変えたように、共産党支配の記憶を嫌った市民の気分が勝った。

サンクトペテルブルク滞在中のホテルは「サンクトペテルブルク・ホテル」にした。1960年代のソ連時代に建設された、当時は大型の豪華ホテル「レニングラード・ホテル」だった。19912月に大火事を起こした。今では施設は古び、旅行社の評価で星3つから星4つの間をさまようホテルになっている。部屋数は500もあり、団体客が多く泊まる。団体客が多いので、朝食の時間帯はレストランがマンモス大学のカフェテリアのような状況になる。

したがって、宿泊料金は手頃な設定である。川側の最上階9階の広々とした部屋をもらって、朝晩、ネヴァ川の眺めを満喫堪能した。眺望値千金。



2 巡洋艦オーロラ号

朝ホテルで目を覚まし、全面ガラスの窓のカーテンを開けると対岸に巡洋艦オーロラ号が浮かんでいた。ロシア語ではアヴロラ号と表記される。ローマ神話の暁の女神オーロラのロシア語形である。1900年に建造された7000トンほどの巡洋艦だ。サンクトペテルブルクの中心部のネヴァ川河畔に係留されている。もちろん現役の軍艦ではない。3本煙突の見るからに年代物の船である。巨大なプラモデルのように見える。博物館として保存されている。



オーロラ号は日露戦争の時フィンランド湾を出て、はるばる対馬沖まで遠征してきた。1905年の対馬沖海戦で日本海軍に大敗したバルチック艦隊生き残りの一隻だった。ハワイ・オアフ島の真珠湾には、日本軍の奇襲攻撃を受けて沈没した戦艦アリゾナが沈没状態のままで保存されているが、ソ連とロシアがオーロラ号を保存してきたのは、少々趣旨が異なる。

1917年のボルシェヴィキによる10月革命の117日――変な記述になるが、当時ロシアではロシア正教など東方教会が採用していたユリウス暦を使用していて、ローマ・カトリックなど西方教会が使っていたグレゴリオ暦と日付がことなっていた。グレゴリオ暦の117日はユリウス暦では1025日になる――に、オーロラ号が果たしたとされるシンボリックな行為を記念してこの旧式な巡洋艦は保存されている。

ソ連邦時代の通説では、権力を掌握していたケレンスキー率いるメンシェヴィキから権力を奪取しようとボルシェヴィキが蜂起したのが10月革命で、ペトログラードのメンシェヴィキの本部である冬宮(現在のエルミタージュ美術館)へ攻め込むにあたって、その合図となる号砲(空砲とされている)を放ったのがネヴァ川にいたオーロラ号だった、とされてきた。講談調で語れば、オーロラ号が砲塔を冬宮に向け空砲を放つやそれを合図にボルシェヴィキの革命勢力が冬宮に突入、ここに10月革命が始まった、という名調子になる。

この言説を定説としてきたボルシェヴィキの血筋をひくソ連共産党の一党支配時代が終わり、百花斉放百家争鳴の時代が始まると、ロシア内でもオーロラ号の役割見直し論議が盛んになった。①オーロラ号は冬宮に向けて空砲を撃ったのではなく、ネヴァ川に架かる橋を守るメンシェヴィキの兵に向けて実弾を撃ったのである。②オーロラ号が砲撃してから、ボルシェヴィキの軍勢が冬宮攻撃を始めるまでに2時間が経過していた。③いや、オーロラ号の砲撃以前にボルシェヴィキは冬宮のメンシェヴィキ攻撃を開始していた、などの異説が唱えられるようになった。

なかでも面白いのは次のような説である。モンタージュ理論で有名なエイゼンシュテインが1928年に監督した作品『十月』で、映画をドラマティックに仕上げるため、オーロラ号の号砲一発、それを合図にボルシェヴィキが冬宮突入という筋書きをつくった。その映画が人気となり、オーロラ号の役割が固定化された。ブーアスティン『幻影の時代―マスコミが製造する事実』の具体例のような話だ。

E.H. カーは大著 A History of Soviet Russia の第1The Bolshevik Revolution に「19171025日の早朝ボシェヴィキの軍は行動を開始した。市内の主要な拠点を確保し、臨時政府のメンバーは捕虜になるか逃亡した。午後になってレーニンがペトログラード・ソヴィエトの会議で労働者・農民による革命の勝利を宣言した」と書いている。

オーロラ号が砲撃したのは25日の夜に入ってからの事であり、その後にボルシェヴィキの兵が冬宮に突入したのは夜が更けてからだった。すべてはレーニンの革命勝利宣言のあとの事だった。残務整理だった。

おそらく歴史的事実はそのようだったのであろう。十日の菊ではドラマの力が薄まる。エイゼンシュテインがえいやっと順番を組み替えたフィクションとしての筋書きが歴史的現実としてまかり通るようになった。

日本では司馬遼太郎の明治物の小説を歴史と勘違いするような人々が増えて明治賛歌が声高になり、その風潮を何らかの政治的意図をもって利用する勢力が現れている。胸の高まりを誘うような歴史叙述には往々にして作為がある。迂闊に信じては、危ない、危ない。



3 フィンランド駅


フィンランド駅は宿泊したホテルから意外に近く、バス停で3つ目だった。ホテルのフロントの人は、歩いて10分と言っていた。大柄なロシア人が徒歩10分なら、地理不案内で小柄な日本人の場合、15分くらいになることだろうと判断してバスに乗った。

フィンランド駅――ロシア名ではフィンリャンツキー駅は19174月、ドイツが仕立てたいわゆる封印列車で、レーニンが亡命中の同志らとともに亡命先のスイスから帰国した時、降り立った駅である。



レーニンを乗せた列車はスイスのチューリッヒからドイツを北上。そのあとレーニンらは海を渡ってスカンジナビア半島に行き、半島を北上してスウェーデンからフィンランドに入った。そののち南下してペテログラードに到着した。ドイツ領内通過中はドイツ国民と接触しないことが条件だったので、封印列車と呼ばれるようになった。

1次世界大戦中のことで、ロシアと交戦中のドイツとしては1917年の2月革命の後のロシアにレーニンを送り返して、ロシア国内の政治的混乱を増幅させるのが狙いだった。ユリウス暦で43日(グレゴリオ暦で同月16日)夜、レーニンの一行30余人がヘルシンキ駅に降り立った。

この歴史的な帰国を記念してフィンランド駅前の広場にはレーニンの像が建てられている。駅構内にはフィンランドからレーニンを乗せた列車をけん引してきた古風な蒸気機関車「293」が保存されている。ソ連邦が崩壊したのちもレーニンに対する敬愛の気持は存続しているようである。

 

レーニンが帰国した当時、フィンランド駅にはロシア皇帝が利用する貴賓室があって、皇帝がすでに排除されていた19174月、レーニンはその貴賓室でペトログラードの革命家たちとあいさつを交わした。いまでは駅舎は建てかえられ、皇帝貴賓室も消え、フィンランド駅はヘルシンキとサンクトペテルブルクを結ぶ特急列車の発着駅という平凡な駅になった。プラットホームには屋根が無い。

ドイツが仕立てた列車で帰国したことで、レーニンにはドイツのスパイという風評が付きまとった。

2月革命を主導したメンシェヴィキにはレーニンやトロツキーをドイツに買収されたスパイとみなすものが多かった。ボルシェヴィキがメンシェヴィキから権力を奪取し、ケレンスキー政権を倒したのちになっても、海外に避難したケレンスキーは執拗にレーニンやトロツキーがドイツのスパイだったと著書に書いた、とトロツキーは回顧録『わが生涯』に書いている。

レーニンはロシアに帰りたかったし、ドイツはレーニンをロシアに返したかった。両者の利益が一致して封印列車が仕立てられた。1917年の10月革命でボルシェヴィキはロシア共和国の主導権を掌握し、19183月にドイツとブレスト=リトフスク条約を結んで、第1次世界大戦から離脱した。ドイツ降伏の8ヵ月前である。レーニンもドイツ望むものを手に入れた。はっきりしているのはそこまでで、封印列車にまつわるスパイ論議の真偽の詳しいことは歴史の霧の彼方である。

レーニンは帰国後、ボルシェヴィキの勢力拡大に奔走していたが、7月になってペトログラードで暴動が起き、臨時政府がこれを理由にボルシェヴィキに対する弾圧を始めた。トロツキーは短期間だが投獄され、身の危険を感じたレーニンはフィンランドに身を隠した。

1917109日、レーニンは変装してペトログラードに入った、とE.H.カーは『ボルシェヴィキ革命』に書いている。その翌日の1010日に開かれたボルシェヴィキの会議で、レーニン、トロツキー、スターリンらが武力蜂起路線の採用を決定。武力革命準備のための政治局(ポリトビューロー)を発足させた。レーニンは1917年に2度にわたってフィンランド駅に到着している。1度目は華々しい歓迎を受けて、2度目はこっそりと。

去年(2017年)はロシア革命100周年で、カナダ共産党機関紙が興味深い特集付録を発行した。その特集に変装したレーニンの写真が載っている。ヒゲを剃り落し、かつらをかぶって若々しい姿になって写真におさまっている。

変装したレーニン以外にも興味深い写真や絵がたくさん載っているので、ご覧になるとよい。書かれた絵にはレーニンに寄り添っているのはたいていの場合、スターリンである。トロツキーの姿は見たらない。そういう風に歴史はつくられるのである。



4 バルコニーのある館

滞在したホテル近くのバス停から、フィンランド駅とは反対方向に行くバスに乗って3つ目のバス停で降りる。そこに国立の政治史博物館があって、19世紀末から20世紀のスターリン時代までの政治資料が展示されている。ソ連邦時代の名は革命博物館だったが、ソ連崩壊と共産党支配の終焉にあわせて、政治史博物館と改名された。



この建物はもともと帝政末期の著名なバレリーナ、マティルダ・クシェシンスカヤの邸宅だった。マティルダはロマノフ朝最後の皇帝となったニコライ2世が皇太子だったころの愛人だった。皇太子時代のニコライ2世はしばしばこの館を訪れていた。

1917年の2月革命でマティルダの館は革命勢力が接収し、ボルシェヴィキが党の本部に使った。19174月に帰国したレーニンはこの建物に執務室を設けた。

執務室は2階にあって道路に面し、バルコニーがついていた。道路にボルシェヴィキ支持派が集まるたびに、レーニンはバルコニーに立って演説をぶった。レーニンの執務室だった部屋は当時のまま保存されていて、壁にはバルコニーに立って手を大衆にさしのべるレーニンの絵が掛けられている。絵の背景にネヴァ川が描きこまれている。館はネヴァ川から遠くない。

よく言われることだが、マルクスもエンゲルスもプロレタリア革命はロシアでは不可能だとみていた。皇帝と貴族地主、その他の農場主と農奴からなる農業国ロシアには革命の主体となるべきプロレタリアートの存在が希薄である。同時に、プロレタリアートの階級敵であるブルジョアジーも存在感に欠ける。プロレタリアートとブルジョワジーのいない国で社会主義革命は起きようがない。ロシアで社会主義革命が起きるとすれば、それは資本主義経済が発展しプロレタリアートとブルジョワジーの階級対立がはっきりしたのちである、と、2人は科学的社会主義者らしい至極まっとうな見解を持っていた。
1917年にロシアで起きた革命は、そういうわけで、マルクス主義者のいう社会主義革命とは少々性格の異なるものだった。

2月革命は帝政末期の、澱のようにたまった社会的不満が首都ペトログラードの労働者のストライキを誘発し、ストライキが首都全域に一気に広がり、鎮圧ために送り出された兵士までが造反した。「労働者兵士ソヴィエト」が皇帝から権力を奪った自然発生的な革命の性格を持っていた。国会(ドゥーマ)はペテログラード・ソヴィエトの承認を受けて臨時政府を発足させ、2月以降、ペテログラードは臨時政府と労働者兵士ソヴィエトの二重権力の下にあった。

こうした状況のもとで43日に夜帰国したレーニンは翌4日さっそく、のちに「4月テーゼ」と呼ばれることになる演説をした。演説のさわりは以下の通りである。

――プロレタリアートの階級意識と組織が不十分であったために権力がブルジョワジーの手に落ちた。こうした革命の第1段階から、権力をプロレタリアートや最貧層の農民が権力を手にする革命の第2段階へ移行させなければならない。臨時政府を支持しない。

レニーンはこの演説を4日、ペテログラードのボルシェヴィキ委員会で行ったが拒絶された。

だが、この演説をボルシェヴィキの機関誌『プラウダ』がレーニンの私見として掲載した。4月末のボルシェヴィキの第7回全国会議がこれを行動計画として採用、「すべての権力をソヴィエトに」というスローガンまで付け加えた。

ロシア史や社会主義の専門家ではないので、詳しい背景はわからないのだが、この急転直下の展開はレーニンの時代の読みと説得力の卓抜さがあってのことだったのであろう。彼は抜きんでた革命政治家であった。

とはいえ、この4月テーゼの気分がペテログラードの7月暴動の遠因ともなり、レーニンは一時的にフィンランドに逃れて身を隠し、ボルシェヴィキの主だった人々が臨時政府によって逮捕されることになった。

5 クロンシュタット

政治史博物館で学芸員さんの説明を聞きながら展示されている資料をみて、歴史のおさらいをした。



レーニンとその同志たちは革命の中核となるべき前衛を組織し、大衆を指導し扇動して191710月の革命を実現させた。帝政を打ち倒し、メンシェヴィキが指導することになった2月革命をブルジョワ革命と定義し、権力をブルジョワから農民・労働者・兵士の手にと標榜してボルシェヴィキがメンシェヴィキから権力を奪取したのが10月革命である。メンシェヴィキが標榜した社会民主主義路線を支持する勢力からみれば、これは極左のクーデターである。政治権力の争奪戦というドライな観点からすれば、レーニンは見事な職業革命家であった。

ボルシェヴィキはメンシェヴィキから権力を奪うと同時に、メンシェヴィキ政権が抱えていた困難なロシアの政治状況もそっくり引き継いで責任を負うことになった。皇帝派の残党・白軍との内戦、シベリア出兵にみられるような英仏米日の対ソ干渉への対応、何よりも食糧問題を核とした危機的な経済状況があった。

レーニンが指導するソヴィエト政権はその対策として、戦時共産主義体制を採用した。国内の反革命勢力や外国からの干渉に対抗するための軍事優先、今の北朝鮮風にいえば「先軍政治」体制である。農民から穀物を供出させて、まず軍に優先的にまわし、次にソヴィエトの支持者である都市部の労働者・市民にむけた。穀物を隠匿する農民は捕えられて、反革命行為でシベリア送りになった。ロシア各地で不満な農民の一揆的暴動が起きた。



サンクトペテルブルクの市街地から30キロほどのフィンランド湾の沖合にコトリン島が浮かんでいる。バルチック艦隊の基地・クロンシュタットがあった島だ。クロンシュタットの水兵たちは10月革命のさいボルシェヴィキの中核的戦闘組織として働いた。同時にクロンシュタットでは過去、アナキストたちが勢力を保持したことがあり、有力なアナキスト運動家はすでにいなくなっていたが、水兵や住民にアナキズムへの親近感は残っていた。そして何より、水兵には農村出身者が多かった。

そのクロンシュタットの水兵たちが、19213月、レーニンの指導体制に対して反旗を掲げて決起した。身内からの反乱はソヴィエト指導者にとって衝撃であった。対応をひとつ誤ると、反ソヴィエト反乱がロシア全土に波及し、場合によっては10月革命で手にした権力を失いかねないという恐怖感があった。ソヴィエト指導部はクロンシュタットの反乱の徹底的弾圧を決めた。

人民軍事委員だったトロツキーが192135日、「無条件で降伏する者だけがソヴィエト共和国の慈悲を期待し得る」とクロンシュタットの反乱兵に厳しい最後通牒を突き付けた。これに激高したクロンシュタットの水兵たちが反抗の度合いを強めた。トロツキーの伝記3部作を書いたドイッチャーは「歴史の皮肉」だったと嘆息している。10月革命のペトログラードにおける重要な勢力だったクロンシュタットの兵士たちとトロツキーは堅く結ばれた同志だった。1917年の10月革命に向けてトロツキーはクロンシュタットの海軍基地に何度も足を運んで演説し、水兵たちはトロツキーを肩に担いで歓迎した。

クロンシュタットの出来事は、プロレタリア独裁の厳しさに対するプチ・ブルジョワジーの武装反乱だった、というのがトロツキーの一貫した見解だった。トロツキーの最晩年の言葉を使えば、ボリシェヴィキがクロンシュタットにおいて行ったことは『悲劇的必要』だった。左翼革命のどうしようもない亀裂線が表に出たのだ。

ポール・アヴリッチ『クロンシュタット 1921』(現代思潮社、1977年)は、レーニンは10月革命の後、中央集権主義へと走り、農民・労働者・兵士のソヴィエトがロシア共産党の統制に従属するようになってしまったことで、クロンシュタットの水兵たちが抗議に立ち上がった、と書いている。クロンシュタットの水兵たちは、単一政党の排他的支配に反対して、労働者と農民のための、言論、出版、集会の自由を確保することによって、共産党の権力独占を打破しようとしたのだ、とアヴリッチは著書に書いている。

317日、クロンシュタットの革命委員会は政府軍の猛攻を受けて敗北した。死傷者の正確な数字は不明だが、双方合わせて数千から数万になる。



政治史博物館のクロンシュタットの反乱のコーナーには、トロツキーの風刺絵が掲げられている。胸に悪魔の象徴とされる五芒星のペンダントをぶらさげて塀の上に座るトロツキーが裸の野獣風に描かれ、その手と足は血に染まり、血が滴っている。門の前にはおびただしい髑髏が積まれている。そして、この風刺画に「ソヴィエトにおける平和と自由」という言葉が書きこまれている。



6 砦の監獄

1921年のクロンシュタットの反乱は赤軍によって粉砕された。クロンシュタットの多くの兵士がフィンランド湾の氷の上を渡ってフィンランドに逃げこんだ。捕えられて銃殺された者もいた。捕えられた兵士たちはロシア国内あちこちの監獄に送られた。ペトログラードではペトロパブロフスク要塞にあるトゥルベツコイ砦の監獄に放り込まれた。



ペトロパブロフスク要塞は政治史博物館のすぐ近くある。ロシアを西欧化したかったピョートル大帝がサンクトペテルブルクを建設して首都をモスクワから移したさい、この要塞も築いた。当時のロシアの潜在的脅威であったスウェーデンから首都を防衛するためだった。19世紀になってスウェーデンの脅威がおさまると、この要塞は、国内の脅威からロマノフ朝による帝政を防衛する場所になった。要塞の中の砦の1つ、トゥルベツコイ砦が政治犯専用の監獄になった。

これはロシア史の中でも由緒ある政治犯収容施設のひとつだった。アナキストのピョートル・クロポトキン、レーニンの実兄・アレクサンドル・ウリヤノフ、レオン・トロツキー、マキシム・ゴーリキー、若いころ社会主義者のグループに名を連ねたフョードル・ドストエフスキー、19世紀アナキスト運動の旗頭・ミハイル・バクーニンらがここに閉じ込められたことがある。

ロマノフ朝に反抗的な思想家や政治活動家を拘束する監獄だったトゥルベツコイ要塞は、1917年の2月革命後には、メンシェヴィキが主導する臨時政府が、帝政時代の大臣たちをここに投獄した。さらに10月革命後はボルシェヴィキ政権がケレンスキー臨時政府の大臣たちを投獄した。1921年にはレーニンの政権がトゥルベツコイ監獄をすでに廃止していたが、緊急措置で復活させた。10月革命で共に働いたクロンシュタットの兵士たちを革命に対する裏切り行為で投獄するためだった。このあと監獄として使われたことはない。現在、歴史資料として保存されている監獄跡は2階建てで、壁面は塗り替えられて比較的新しく見える。



権力者は気に入らない者を投獄する。

「自由は、つねに、思想をことにするものの自由である」とローザ・ルクセンブルクは『ロシア革命論』に書いている(『ローザ・ルクセンブルク選集 4』現代思潮社、1970年)。ルクセンブルクはレーニンの理想主義は認めるが、一方で、レーニンは完全に手段を誤っていると厳しく批判した。レーニンの独裁論は、革命政党は社会主義革命の完全な処方箋を持っていて、それをエネルギーで実践するだけである、という前提に立っている。だが、そういうものではないのだ。綱領は道しるべに過ぎない。さらに、命令、工場監督官の独裁権、厳罰、恐怖政治は間に合わせの方法である。普通選挙、出版及び集会の自由、自由な論争がなくなれば、官僚制度だけが残る。ルクセンブルクはこの『ロシア革命論』を1918年にポーランドのブレスラウ監獄で書いた。

10月革命直後の憲法制定議会選挙は20歳以上の男女を有権者とするロシア最初の普通選挙で行われた。レーニン率いるボルシェヴィキは社会革命党(エスエル)に第1党の座を奪われて敗北した。

レーニンはこれをソヴィエト政権の危機と認識し、翌181月に議会を封鎖した。ボルシェヴィキによる政敵の投獄、議会主義の否定、秘密保安機関チェカを使った恐怖政治などを伝え聞いて、ルクセンブルクはロシアの暗い将来を予感したのである。

これはまっとうな批判だった。この問題はマルクスとエンゲルが『共産党宣言』で「労働者革命の第一歩は、プロレタリア階級を支配階級まで高めること、民主主義を闘いとることである。プロレタリア階級はその政治力を利用して、ブルジョア階級から次第にすべての資本を奪い、すべての生産手段を国家の手に、すなわち支配階級として組織されたプロレタリア階級の手に集中し、そして生産諸力の量をできるだけ急速に増大させるであろう」(『共産党宣言』岩波文庫)と書いたときから生じていた。

19世紀におけるマルクスの論敵バクーニンは「もしプロレタリアートが支配階級になるとすれば、いったいだれを支配するのか。つまりこの新しい支配、新しい国家に従属させられるもう一つのプロレタリアートが残るわけである……国家があれば必ず支配があり、したがって奴隷制が残る……人民の支配ということで彼らが考えているのは、人民によって選出された少数の代表者が人民を支配することなのだ」と『国家制度とアナーキー』(白水社)に書いた。

バブーフ→ブランキ→トカチョフ→マルクスとつながる、革命へ向けて大衆を教育し、鼓舞・指導する革命の前衛党組織とその独裁という考え方は、レーニンによって歴史上初めてロシアで現実のものになった。

バクーニンのマルクス批判、ルクセンブルクのレーニン批判は「カサンドラの予言」であって、予言はなされたがそれを信じる人は少なかった。プロレタリアートの前衛としての革命組織と、前衛による独裁という問題はソ連の政治のアキレス腱となった。その負の遺産は膨らみ、ゴルバチョフの時代には、もはや手に負えなくなっていた。

レーニンの誠実な信奉者だったゴルバチョフが、レーニン主義の崩壊に大きな役割を果たしたのは、巨大な逆説である、とロバート・サーヴィスは『レーニン 下』(岩波書店)に書いた。「彼は共産党による政治の独占を廃止した。行政を分権化した。検閲をゆるめた。宗教的、民族的自己表現を自由化した。国家の経済にたいする支配権を弱めた。共産党支配の恣意性を批判した。自分はレーニンの精神をソ連に復活させつつあると信じながら、以上のすべてを行ったのである」とサーヴィスは書いている。

ゴルバチョフはソ連を立て直そうとしてソ連を壊してしまった。したがって、ゴルバチョフは西側世界では評判がよく、ノーベル平和賞を受賞した。ロシア国内ではかつての大国ソ連を発展途上国にまで後退させた男、と評判がわるい。レーニンは現在でも、ロシア人に国父のような存在として尊敬されている。




7 大聖堂からの眺め

サンクトペテルブルクの中心部・歴史地区はユネスコの世界遺産に登録されている。そこには美しい建物群がぎっしり詰まっている。パリかローマ、あるいはマドリードがロシアに引っ越して来たかのようである。

サンクトペテルブルクのプルコヴォ空港は市の中心部から20キロ弱離れた郊外にある。そこからタクシーで市内に向かうと、新市街には巨大でいかつい造りのソ連型アパートが多く、社会主義国の風景の名残がある。市の中心部に入ると、ロシア革命以前の古風な中層の建物が建ち並ぶ。

最近では、歴史地区の古い建物の内部を改装したブティック・ホテルが流行しているそうだ。市街地のこじんまりとした便利な宿は楽しいが、建物自体が古いので、部屋は改装してもエレベーターのないブティック・ホテルもある。旅行荷物をもって5階まで歩いて登るのは若い人でも大変だ。

サンクトペテルブルク歴史地区の建物は総じて中層どまりだ。ネヴァ川対岸のホテルからながめると、歴史地区の中では聖イサク大聖堂が屹立している。高さ100メートルほど、歴史地区ではもっとも高い建造物だ。

水曜日の夕方近く聖イサク大聖堂へ行った。切符売り場でクレジットカードを出して入場券を買おうとしたら、ニェット。それではと現金を出したがニェット。「明日来い」と窓口の係が言う。水曜日は休館日だったのだ。休館日のあるキリスト教の聖堂はこれが初めての経験だった。

後で調べると、聖イサク大聖堂の公式の名称は「国立博物館・聖イサク大聖堂」だった。だから、週1回の休館日がある。イスタンブールのアヤ・ソフィアは宗教施設であることをやめ、博物館に徹しているので週1回の休館日がある。その隣のブルー・モスクは宗教施設なので、無休であり、現在はどうか知らないが、かつて行った時は入場料不要だった。

ドームの回廊から市内を眺められる。水曜日でもそこだけは行ける、というので切符を買った。だが、それがまあ、延々と続くキツイ螺旋状の階段の登りだった。バルセロナのサグラダ・ファミリア教会の塔の登りを思い出した。だが、あの時はまだ若かった。大聖堂のドームの回廊に登りつたときは脚が自分のものではない感じだった。



高さ60-70メートル。見渡すと、確かにサンクトペテルブルクには超高層の建物が無い。高いのは煙突とテレビ塔ぐらいだ。

ネヴァ川とその向こうの市街地を35ミリレンズのカメラで撮った。写真をPCで見ると、左手上部になにかオベリスクが霞んだような小さな影が写っていた。

その影の部分を強引に拡大したのがこの写真だ。

高さ463mの超高層オフィスビル「ラフタ・センター」だ。ヨーロッパでもっとも高いビルである。

建物に厳しい高度制限を課しているサンクトペテルブルクの市街地に建てようとして猛反対にあったビルである。結局、市街地の中心から8キロほど離れた港湾地区に場所を変えて建築が始まり、間もなく完工となる。政府系企業「ガスプロム」が計画した。

計画当時の報道を読むと、サンクトペテルブルク市が建設費用を全額拠出、完成後、ガスプロムの関連会社である「ガスプロムネフチ」の所有になるという計画だったので、世論の大反発にあった。企業受け入れによる税収の増加や再開発による経済効果を市は見込んだ。今治市が加計学園に大学用地を無償譲渡した話を思い出した。ラフタ・センターの場合は、最終的に出資比率はガスプロムネフチが51%、サンクトペテルブルク市が49%の出資と決まった。

プーチン大統領もメドヴェージェフ首相もサンクトペテルブルクの出身で、メドヴェージェフ首相はガスプロムの会長をしていたこともある。

プーチン・メドヴェージェフのコンビが統治する今のロシアは腐敗蔓延の国家、貪官汚吏の国であるとメディア――特に欧米の――が報じる。2017年の春には、野党指導者の1人で有名なブロガーでもあるアレクセイ・ナバリヌイ氏が、メドヴェージェフ首相が豪邸やワイン畑を持っているとネットの動画で暴露した。あっというまに視聴回数が1100万回を超えた。 このニュースは日本の新聞でも伝えられた。ロシアの富豪から寄付を受けて、保養地ソチに豪邸と豪華ヨット、イタリアにワイン畑を保有しているという内容だった。



8 宗教と政治

日本政治史の舞台に仏教の怪僧・道鏡が現れたのは奈良時代後半の8世紀のことだ。孝謙上皇の病を祈祷によってしずめ、もともと仏教の信仰に厚かった上皇から絶大な信頼と寵愛を得た。孝謙上皇は再び皇位について称徳天皇と名乗った。道鏡は称徳天皇によって「太政大臣禅師」という最高権力者の地位を与えられた。さらには「法王」に任ぜられた。こちらは天皇と並ぶ地位である。だが、「道鏡を天位に即かしめば天下太平ならん」という宇佐八幡宮神託事件を起こして失脚した。

歴史好きの日本人が道鏡と対にして持ちだすのが20世紀初頭のロシア正教の怪僧・グリゴリー・ラスプーチンである。ロシア皇帝ニコライ2世と皇后アレクサンドラの子で皇太子のアレクセイの血友病を祈祷で治療したとしてアレクサンドラとニコライ2世の信頼を得た。ロシア革命前夜の政情に首を突っ込み、ついには1916年、貴族たちによって射殺された。ラスプーチンの死体はネヴァ川に投げ込まれた。

道鏡もラスプーチンも彼らの巨大な交接器と性的エネルギーの噂や、孝謙上皇やアレクサンドラ皇后と性的関係があった、なかった、との憶測が面白おかしく伝えられてきたが、どこまでが本当の事かはっきりしない。

ラスプーチンについては1917年のロマノフ王朝の滅亡に影響を与えた人物とされ、ロシア政治史博物館に関連資料が展示されている。博物館の資料コーナーでアレクセイ・クレーギン著『誰がラスプーチンを殺したか?』(ロシア政治史博物館、2011年)という小冊子が売られていた。

その中に興味深い推測が書かれている。ラスプーチンは、ドイツとの戦争は犠牲が大きすぎるので、ロシアは第1次世界大戦から離脱すべきだ、と皇后アレクサンドラを説得し、2人は戦争からの手を引くように皇帝ニコライ2世に働きかけていた。このことを知ったイギリスが、ロシアの離脱を食い止めようとして、ラスプーチン暗殺チームをペトログラードに送り込み、ロシアの貴族たちと協力のうえ、ラスプーチンを暗殺した、という説である。

レーニンはロシアを第1次世界大戦から離脱させようとし、ついには離脱した。ラスプーチンは離脱させるために宮廷内で運動を始め、それを嫌ったイギリスの諜報機関によって暗殺された――となると、ラスプーチンがロマノフ朝の宮廷内でやっていた政治介入とは何だったのか、調べてみたくなるではないか。

それはさておき、1917年のロシア革命後にボルシェヴィキ政権がロシア正教を弾圧したのは怪僧ラスプーチンの政治介入とは無関係である。

唯物論者は無神論者である。「宗教は民衆の阿片である」と言ったのはマルクスである。マルクスは、専制政治の非情さに苦しむ民衆に対して、宗教がひたすらそれに耐え忍び、宗教によって慰めとあきらめを得ることを教え、その結果、宗教が現実を改革しようという民衆の力を抑え込む役割を果たしていることを批判した。

レーニンをはじめとするボルシェヴィキは、ロシア正教はロマノフ朝の専制政治と組み、民衆を支配する権力の側に回っていたと批判してきた。宗教はロシアの民衆にとってくびきであり、ロマノフ朝の道徳教育マシーンだったと非難した。



そういうわけで、ボルシェヴィキは宗教にくびきを科した。レニングラードのイサク大聖堂は博物館に変えられ、現在は観光スポットになっている「血の上の救世主教会(ハリストス復活大聖堂)は閉鎖されてゴミ捨て場になった。第2次大戦後は倉庫として利用された。

ネフスキー通りのカザン大聖堂はボルシェヴィキによってミサがさしとめられ、「宗教と無神論の歴史博物館」と名前が変えられた。ロシア正教の宗教画とともに反宗教プロパガンダも展示された。ソ連崩壊後の現在では、定期的なミサが再開された。ただし大聖堂の扱いは博物館のままで、博物館機能と宗教機能が同居している。「無神論」という看板だけは博物館からはずされた。



ソ連時代に共産党による敵視と徹底的な政教分離政策によってロシア正教は勢力を失ったが、何とか政権と折り合いをつけながら生き延びてきた。1980年代後半のゴルバチョフのペレストロイカによって、ボルシェヴィキによってかけられた重いくびきから解放された。



9 ネフスキー修道院

ネフスキー修道院もまたロシア正教の施設で、サンクトペテルブルクの観光名所の1つである。

ピョートル大帝がサンクトペテルブルクを建設した18世紀初めに教会を建て、後世エイゼンシュテインの映画やプロコフィエフの音楽で世界に知れ渡ることになるロシアの英雄アレキサンドル・ネフスキーを祀った。ロマノフ朝の庇護の下で修道院は大きくなり、1917年のロシア革命の直前には敷地内に16もの教会建物を持つ修道院複合体になった。

10月革命の後、ペテルブルクの主要な教会を抑圧したボルシェヴィキ政権は当然、ネフスキー修道院にも圧力を加えた。政権は修道院を占拠しようとしたが、信者たちが体を張って阻止した。だが、抵抗は長続きせず、修道院は閉鎖され、やがて貴な文物が文物が盗難にあった。

ペレストロイカが始まる1980年代まで修道院は施設は荒れるがままだったが、なんとか困難な時代を生き延びた。現在では修復が進み、教会建物も5つになった。



修道院の敷地にはいくつかの墓地があり、著名人の墓がある。音楽ならチャイコフスキー、アントン・ルビンシュテイン、ムソログスキー、リムスキー=コルサコフ、ボロディン。もちろん、泣く子も黙るドストエフスキーの墓もここにある。

また、修道院の中には神学大学もあって、幕末に函館に来て、明治になって東京にニコライ堂を建てた聖ニコライはそこでキリスト教学を学んだ。怪僧ラスプーチンもペトログラードにやって来てこの修道院の僧と親しくなり、そのつてでロマノフ王朝に食い込んだといわれている。



10 ネフスキー大通り

エルミタージュ博物館前の宮殿広場近くからネフスキー修道院付近までの5キロほどの通りがサンクトペテルブルクの目抜き通りネフスキー大通りである。ニューヨーク市でいえば5番街、パリでいえばシャンゼリゼ―通りにあたるような豪華絢爛の通りと旅行案内書にあるが、それにしては少々華やかさに欠ける。



サンクトペテルブルクは、お土産を買おうにも、これといった気の利いたものは売っていなかった。ロシアはどこへ行ってもお土産はマトリョーシカ一辺倒である。それに魅力的なショーウィンドーが少ないので目の保養の機会もあまりない。

ロシア語を少しばかり知っている知人が教えてくれたのだが、ロシア語でお土産は「スヴィニール」という。これはフランス語のスヴニールから来ている。お土産というより記念・思い出のニュアンスが強い。ロシア語にはもともとお土産という言葉がなかった。本当だろうか? 

英和辞典でスーヴェニアをひくと、英米には旅行先から何かを義理で買って帰り配るという習慣がない、と注がついていた。だが、アメリカ人の知人が中国旅行の帰途わが家に立ち寄ったさい、骨董品のような置物をお土産にくれたことがある。



ネフスキー大通りを歩いて記憶に残ったのはカザン聖堂前の公園と、その公園からみたシンガー・ビル程度である。

シンガー・ビルはサンクトペテルブルグでは珍しいアールヌーボ様式のビルで20世紀初めに建てられた。アメリカのミシン会社シンガーがロシア支店を置くために建設した。

ロシア革命のあと政府に接収された。ソ連政府はこの建物を使って国営書店を開いた。それで(本の家=ドム・クニーギ)とよばれていた。

現在でも1階と2階に書店が入っている。この建物はアメリカ企業がロシアに残した文化遺産である。今ではネフスキー大通りを散歩するさいのよい目印になっている。



11 深い深い地下鉄

日本の地下鉄で一番深い所を走っているのは東京の都営地下鉄大江戸線である。駅によっては地下40メートルを超える深さだ。同線の六本木駅などは、エスカレーターを何度も乗り継いでプラットフォームにもぐり、地上にもどる。

サンクトペテルブルクの地下鉄の深さは大江戸線の2倍だ。エスカレーターは日本のそれよりも急勾配で、運転速度も速い。一気に奈落に下って行く感じだ。

日本ではエスカレーターにのって、さらに自力で歩く人が大勢いる。サンクトペテルブルクのエスカレーターでは歩く人をあまり見かけなかった。

下りは下を見ていると歩くのが怖くなる。上りは上を見ていると歩く気にならない。ゴールはそれほど遠い。地下鉄をこれほどまでに深くしたのは核戦争に備えるためと言われている。また、ネヴァ川の三角州に造られたサンクトペテルブルクという街の地質の関係もあるのだそうだ。

乗降客の多い駅ではこのところ改札口に金属探知機が設置され、武装警察官が警戒している。去年4月、サンクトペテルブルクの中心部を走る地下鉄で爆弾テロが発生、14人が死亡、40人以上が負傷する事件があったからだ。犯人は自爆によって死んだと報道されている。

車両は最新鋭のものから、旧型車両までが走っている。新しい車両には列車が今どこを走っているか、次の駅はどこか、など情報がディスプレーに表示される。古い車両では車内放送だけだ。駅間の距離が日本より長く、列車は速度を上げ、大音響を立てて走る。したがって、ロシア語の車内放送で次の駅名を聞き取るのは難しい。○番目の駅と覚えておいて指折り数えたものの、数え間違って違う駅に降りてしまう。

サンクトペテルブルクは地下鉄駅の美しい装飾で有名だ。なかでも最も優雅とされている地下鉄1号線のアヴトヴォ駅のプラットフォームへ行き、写真をとった。円柱、壁面、天井、シャンデリア……過剰なまでの装飾である。地上に出ないまま折り返したのだが、その帰りに駅の数を数え間違えて、予定外の駅に降りることになった。





12 青空野菜市

目的地より1つ手前の駅で地下鉄を降りてしまった。プラットフォームの駅名表示で間違いを知った。地上はどんな様子か好奇心もあって、長いエスカレータに乗って地表に登り、街に出てみた。

曇り空で、ときどき雨がぱらつく天気。

駅の周辺をふらついていると、歩道の端に野菜の青空市があった。売っているのは年配のおばさんが多い。買っているのもそれなりの年配の女性がおもだ。

9月初旬なのにもう厚着の人がめだつ。夕方近いので気温が下がるのを心配してのことだろう。

イチゴをはじめとするベリー類、青菜、ニンジン、ネギ、それに秋を感じさせるキノコも並んでいる。

ロシアの人もスカンジナビアの人もキノコ好きだ。キノコ狩りは彼らにとっては秋のリクレーションである。日本でもキノコを採りに山に入って事故死する人が秋には多くなる。

都会に住むロシア人にとっては、キノコが採れるような田園にダーチャ(別荘)を持つのが夢であると聞いた。

ところで、この青空野菜市のおばさんたち、野菜はどこで仕入れてくるのだろうか。ベリーやキノコはサンクトペテルブルク郊外で摘み取ったものだろうか――など、どうでもいいことを考えながら青空野菜市を眺めていた。

スーパーマーケットで並んでいる野菜をカゴに入れてレジで支払うよりは、売り手のおばさんと会話しながら野菜を受け取り、お金を相手の手に渡すほうが楽しい売買なのだろうなあ。

大抵の都会で見られる路上風景なのだが、旅先で見るとなんとなく旅情を感じてしまう風景でもある。



13 開閉橋

フョードル・ドストエフスキーはモスクワで生まれ、サンクトペテルブルクで死んだ。彼の墓はネフスキー修道院の敷地内の墓地にある。旺盛な作家活動の舞台はサンクトペテルブルクである。

代表作の1つ『罪と罰』は次のように始まる。「7月初旬の異常に暑い日の夕方1人の若者がS街の下宿の屋根裏部屋を出て、ためらいがちにゆっくりとK橋に向かって歩いた」

そう――ネヴァ川とその運河の町であるサンクトペテルブルクは橋の町でもある。観光ガイドブックによると、サンクトペテルブルクには300以上の橋が架かっている。さまざまなデザインで運河に架けられた橋が観光名所になっている。

なかでも、特にツーリストを吸い寄せる橋がネヴァ川の本流をまたぐ12の開閉橋だ。時間を決めて未明から明け方にかけて数時間橋を開く橋が9つ。開閉橋そのものは世界のあちらこちらにあるが、定刻になると橋を揚げているのは、サンクトペテルブルクの9つの橋とロンドンのタワーブリッジだけだそうだ。さらに、サンクトペテルブルクの残る3つの開閉橋は要望に従って随時適当な時間帯に橋を開ける。開閉橋が12もある都市は世界に例がないそうで、「サンクトペテルブルクは橋の町である」と観光案内書は誇らしげである。

開閉橋は観光目的のために、橋上の交通量が減る深夜帯を選んで橋を開けているわけではない。ネヴァ川とフィンランド湾を往来する貨物船を通すのが現在でも第一義的な目的である。ヴォルガ川とフィンランド湾をむすぶヴォルガ・バルト水路の出口にあたっている。ソ連時代はロシア中央部とヨーロッパをむすぶ物流の主要ルートの1つだった。

ツーリストに人気のある開閉橋は、歴史地区の宮殿前広場付近から川向こうのヴァシリエフスキー島にかかる通称パレス・ブリッジ(ドヴォルツォヴァヤ橋)と歴史的地区の夏の庭園近くの川岸とペテログラード地区をつなぐトロイツキー橋である。

深夜、エルミタージュ美術館沿いのネヴァ川岸に陣取れば、2つの開閉橋が開いて行く様子を同時に眺めることができる。



そこまで観光熱心ではない私は、丑三つ時に起きて、ホテルの窓から2つの開閉橋を眺めた。写真の手前に写っているのがトロイツキー橋で、橋の夏の庭園側の部分が引き上げられている。写真奥がパレス・ブリッジで、橋のほぼ中央部分が開いている。

橋の電飾がすこぶるきれいである。



14 ロシア美術館



エルミタージュ美術館がいわゆる泰西名画を中心に展示しているのに対して、エルミタージュからそう遠くない――歩いて行ける――所にあるロシア美術館は、もっぱらロシアの作家の作品を展示している。

ギリシャ正教・ロシア正教のキリストやマリアを描いた聖画像「イコン」のコレクションは好きな人にはたまらないだろう。

ロシア美術館のコレクションは壁いっぱいの大画面のロシア作家の大作もあるが、エルミタージュのそれと比較すると少々吸引力が不足するのか、観光客の団体が少なくて館内には美術館らしい落ち着いた雰囲気がある。

ロシア美術館の建物はパーヴェル1世の第4皇子ミハイル大公の御屋敷だった旧ミハイロフスキー宮殿を使っている。美術館はミハイロフスキー公園に隣接していて美術館から直接公園に出ることができる。





15 エルミタージュの階段

それほど魅力的な階段とは思わないのだが、エルミタージュ美術館を訪れる観光客はこの階段に群れる。



美術館の階段としてはウィーンの美術史美術館の階段の方が魅力的だと私は思う。階段の造りといい雰囲気といい、手がこんでいる。それに、階段のステップに座り込んで記念写真におさまろうとする人は見かけなかった。私が見なかっただけで、実は、いるのかもしれないが……。

昨今のサンクトペテルブルクは観光ブームだ。年間600万人を超えるロシア人や外国人の観光客が街にやってくる。年間観光客は市の人口500万余を超える。ロシア第一の観光都市である。

そのサンクトペテルブルク観光の目玉がこのエルミタージュ美術館である。

東京の浅草寺にはもっとたくさんの人が集まるが、それをもって信仰心が広がっているとは言えない。

同様に、エルミタージュの来館者が増えていることをもって、美術愛好者の輪が広がっているとも言えない。階段に座って写真におさまることを目的とする旅もある。



16 エルミタージュの椅子


エルミタージュ美術館は皇帝の冬の居城を転用したものだ。ロマノフ家の威光にふさわしい壮麗な建物である。入館者は入り口でもらった館内マップをたよりにひたすれ歩くことになる。

海外の美術館から日本の美術館に持ち込まれる「○○美術館名画展」の場合は展示品も少なく、入り口から出口までわかりやすい動線が敷かれている。入口から入って人の流れに身をゆだねていれば、間違いなく出口にたどり着く。

元ロマノフ朝の王宮ともなれば部屋数も1000を超える。それらの部屋すべてが展示室として使われているわけではないのだろうが、午前から夕方まで館内を歩き回ると疲れる。お昼と3時ごろカフェテリアでサンドイッチのようなものを食べコヒーを飲んで休憩はしたのだが……。

そのうえ展示室に出入り口が前後左右4ヵ所もある部屋が多くあり、一つ選択を誤ると予期せぬ方角に迷い込み、ここはどこ?と思い悩むことになる。



この迷宮のような美術館内で私は環状彷徨を繰り返した。写真のレンブラントの『放蕩息子の帰還』の前にはご覧のような盛大な人だかりができていたが、しばらくして再びここに迷い来たときには、ほんの数人が見ているだけだった。

歩き過ぎて足が重くなるのは辛い。だが、エルミタージュ美術館には坐って壁の名品を眺める椅子が無いのがなお辛い。椅子に座っているのは美術館の会場整理係の職員だけである。

ウィーンの美術史美術館には展示室の中央に立派なソファーが置かれ、そこに腰を下ろしてゆったりとした気分で名画を眺めることができた。そういう贅沢はここにはない。

立派な椅子はところどころの展示室で見かけたが、すべてテープが張られ「坐るべからず」と規制されていた。



あれって、展示品だったのだろうか。

イギリスの美術館専門紙・The ART Newspaperの記事によると、2015年のエルミタージュ美術館は370万人の入館者で、世界で9番目に入館者の多い美術館だった。一方、ウィーンの美術史美術館は76万人で81番目。来館者の多いエルミタージュには美術史美術館ほどゆったりと来館者をもてなす物理的余裕がないのかもしれない。

(写真と文: 花崎泰雄)