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朝の交差点

ジャカルタ、バンコク、ホーチミン・シティー同様、タイペイの朝の路上はバイクがいっぱいだ。ヘルメットをかぶり、排気ガス・埃対策のマスクをつけ、黒っぽいジャンパーを着込んだ、バイク乗りが横一列に並び、信号が青に変わるのをじりじりしながら待っている。東南アジアの都市で見かける風景がここにもある。

台北は亜熱帯気候なので12月の気温は東京より高い。それでも街を歩く人たちの多くは東京と同じようなダウンを着込んでいる。バイク乗りはさらに厚手の防風ジャンパーを着こんでいる。バイクで風を切って走っていると、体感温度はぐっと下がる。それに、横転した場合のけが防止に役立つ。

ホテル付きの極安航空券が買えたので台北にやってきた。久しぶりに故宮博物院のお宝を拝見するのがおもな目的である。



2 ナショナル・パレス・ミュージアム

台北の国立故宮博物院を英文表記すると The National Palace Museum である。圓山大飯店が The Grand Hotel Taipei、大倉久和大飯店が The Okura Prestige Taipei となる。桃園国際空港は Taoyuan International Airport だが、2006年の改名前は中正国際空港で Chiang Kai-shek International Airport だった。漢字表記とアルファベット表記の間の距離感には興味深いものがある。

それはさておき、故宮博物院までタクシーで行くと、博物院の地下1階(地下ではないが、博物院が「B1」と表示しているのでそれに従う)の車寄せにつけてくれる。団体の専用大型バスもここに到着する。市内バスを利用すると博物館前の道路で降ろされる。そこから「1F」のエントランスまで階段のある坂道を登って行くことになる。



故宮のB1エントランスホールはえんじ色のジャージーを着た中学生らしい生徒で一杯だった。校外授業なのだろう。前回5年ほど前ここに来たときは、中国本土からの参観客で一杯だった。一般に中国人の会話は大声で――日本人が酔っ払ってしゃべる時の音量に近い――行われる。それがエントランスの天井で反響して、それがさらに団体客の興奮をかきたてる。館員が『請軽声細語』と印刷された団扇のようなものを手に持って団体客の間をぬって歩いていた。

『請軽声細語』の団扇はまだ使われていたが、今回は中国人の団体客が5年前に比べて減って少し静かになったような感じがした。2016年に台湾の総統が中国と友好的だった国民党の馬英九氏から台湾独立志向の民進党の蔡英文氏に代わってから中国本土からの台湾訪問者が激減した。一方で、本土からの客が減った分、アジアのあちらこちらから観光客がやってくるようになり、2018年の台湾訪問客は総数で史上最多の1100万人になった。そうしたトレンドが故宮博物院にも変化となって表れている。ベトナム語、タイ語、マレー語の館内案内パンフレットがあった。

故宮博物院を師走に訪れる気になったのは、昨年の11月ごろだったが、台北の新聞が、2020年暮れから3年間ほどかけて故宮博物院の建物を大改装する予定で、その間博物館は全面休館すると報じ、そのあとすぐ、いや全面休館しないで改装工事中も部分開館する、と続報があったからだ。全面休館なのか部分休館なのか、年が明けないとはっきりしないだろうが、ともあれ、開いている間に行ってみようという気になった。もし3年間の全面休館ともなれば、次の再オープンの時まで、元気でいられるかどうか、保証はないからだ。



3 翠玉白菜

国立故宮博物院の個人客用のエントランスは1Fにある。そこにこんな掲示板があった。

  

「肉形石」は「翠玉白菜」と並ぶ台湾故宮博物院の目玉展示物である。そのひとつが台湾南部の故宮南部院で展示中なので、今回は翠玉白菜だけを拝見した。

翠玉白菜は故宮の骨董品の中では制作年代が比較的新しく、18-9世紀だとされている。白と緑のヒスイを削ってつくりあげた細工もの。2014年に東京国立博物館が特別展「台北 国立故宮博物院―神品至宝―」を開いた際、2週間限定でこの翠玉白菜が展示された。大変な数の人が見に来ていると報道されたので敬遠せざるをえなかった。その少し前の2014年の晩春には台北へ行って故宮博物院を訪れていたのだが、この時は中国本土からのお客さんで故宮は満員。翠玉白菜と肉形石の展示室前には入室待ちの長い列が廊下にできていた。混乱を防ぐため時間と人数を限って順番に入室させていた。そういうわけで、この時も翠玉白菜を見ることができなかった。

今回、翠玉白菜を久しぶりに見た。写真を撮っていたら、博物院の専門のガイドさんが「故宮のサイトにいい写真を載せていますよ」と言った。それはそうでしょうよ。ですが、故宮のサイトの写真をこの連載にコピペするわけにはまいりません。下手な写真ながら自力で撮影した。

そのような名品なので、故宮の売店では翠玉白菜のレプリカがよく売れている。いまから10年前の2009年のこと。ある台湾の国会議員が「国家の機関である故宮で販売している白菜のレプリカの中には、中国本土で製造されたものがまじっている。故宮の白菜のレプリカに『メイド・イン・チャイナ』のラベルが見えるのは興ざめであり、台湾産業振興という国の方針から外れてもいる」と批判した。

博物院側は故宮で販売している白菜のレプリカの99パーセントが台湾製で、1パーセントが中国本土から輸入したものだと説明、とりあえず、中国製の白菜レプリカを棚から降ろした。

その翌日、故宮の売店は中国本土製の白菜レプリカに「デザインド・イン・タイワン」のラベルを付けて棚に戻した。

翠玉白菜はもともと中国本土の細工師が造ったもので、本物の翠玉白菜はまぎれもなく「メイド・イン・チャイナ」。それを原型として作ったレプリカが「デザインド・イン・タイワン」とはこれいかに。格好の笑い話のタネになったのだが、中国本土と台湾の微妙な関係を考えると、その笑いは苦笑いだったろう。



国立故宮博物院の展示物の大半は骨董的価値の高い美術工芸品だが、院内かたすみの展示室には、こんなモダンアートも飾られていた。将来に向けて博物院が新しい展示を模索していることが感じられる。



4 蘭亭序

台湾故宮博物院の特別展「以文会友―雅集図特別展」で『蘭亭序』の拓本を見た。

  

王羲之の『蘭亭序』は王羲之の書をことのほか好んだ唐の太宗が冥途の土産に自分の墓に埋めさせたので、真筆は残っていない。あちらこちらの博物館が所蔵している『蘭亭序』はすべてコピーであるとされている。

欧陽詢、虞世南、褚遂良、その他無名の書家がコピーを作った。今回見た『蘭亭序』は定武というところで発見された石碑からとった拓本である。欧陽詢の模写―書道では臨書という―をベースにした碑文であるといわれている。

台湾の故宮博物院で以前、褚遂良の臨書『蘭亭序』を見たことがある。この台北故宮博物院蔵の褚遂良版『蘭亭序』も実は無名の書家による作品という説がある。

同じく故宮博物院の館蔵品である王羲之『快雪時晴帖』もかつて見たことがある。これぞ数少ない王羲之が残した肉筆と思われているが、実は、ここでも偽作説が語られている。中国のコピー文化の底知れないところである。

さて、「雅集」とは中国古代の文人たちの宴席のことで、文人たちはこの席でおいしい食事と酒を楽しみ、詩を書き、絵を描き、音楽を奏でて遊んだ。有閑階級のサロンのようなものだった。

『蘭亭序』は紀元4世紀ころ、王羲之を中心にした集まりで出来上がった詩をまとめ、王羲之がその詩集の序文として筆を執ったものとされている。



最近の故宮博物院はただ骨董を展示するだけでなく、エレクトロニクス技術を使ったお遊びの要素も見せようとしている。『蘭亭序』の拓本をじみに展示するだけでなく、隣室ではコンピューターで制作した蘭亭の流觴曲水を床に投影して、流れのそばに椅子を置き、そこに座って流れてくる杯がとれるような仕掛けをしていた。もっとも、盃を取ろうとする、それはすっと流れの中心部へ逃げてしまうのだが。



王羲之が宴を催した蘭亭は現在の浙江省紹興市郊外の山中にある。ずいぶん以前に見に行ったことがある。曲水があったと推定される場所に流れを作り、石を流れに沿って添えただけの、いたって素朴な曲水の再現だった。



5 三希堂があったころ

前回、王羲之の『快雪時晴帖』にふれた。乾隆帝がこの書を珍重し、王献之の『中秋帖』、王珣の『伯遠帖』とあわせて「三希」と呼んで故宮内の特別室「三希堂」を設けて収納した。

快雪時晴帖の文面は日本語にすると、「快い雪が降り、時には晴れ、あなた様にあっては恙なくお過ごしのことと存じます。さて、お約束の件については力及ばず、お約束を果たしておりません。王羲之頓首。山陰張侯」という短い便り。故宮博物院のサイトには「唐代の精緻な翻刻と考えられている」と説明があった。

国立故宮博物院は2004年から2007年にかけて大がかりな改修工事を行っている。改修前の展示室はガラス張りの棚に展示物をぎゅうづめにした、骨董屋の展示棚を思わせるような雰囲気だった。だが、現在の展示に比べて、いちどきに多くのものを見る楽しみがあった。



改修後から現在までの間に、展示方法はすぶんと洗練された。照明に工夫を凝らし、展示ケースの空間にゆとりを持たせた。落ち着いた気分で展示物を鑑賞できるようになった。だが、圧倒的な物量感が消えてしまった。

改修前の古風な故宮の4階には「三希堂」という喫茶室があった。いかにも中国の喫茶室といった古めかしい室内のつくりだった。鳥かごもぶら下がっていた。展示室を歩き回って疲れると、ここにきて中国茶やコーヒー、お菓子を食べることができた。それも故宮博物院に来る楽しみの一つだった。

改修後、この喫茶室・三希堂もモダンになって、往時の古めかしい気分が失われた。あまり好きになれなかった。

5年ほど故宮にご無沙汰していて、今回来たときは三希堂がなくなくっていた。詳しい事情は聞かなかったが、館内のミュージアム・ショップやカフェテリアの運営方針の影響で、2015年ごろから閉店したままになっている。



6 便當

国立故宮博物院の中には気のきいた――つまり、安くておいしい――食事処がない。改装にあわせて本館の隣にガラス張りのビルを建て、結婚式から宴会までできる複合レストランを造った。しかし、美術品鑑賞の合間にお昼を済ませるには、宴会のコース料理はおおげさだし、といって地下のカフェテリアの単品料理はまずい。

そういうわけで、お昼は博物院を出て、近くの簡易食堂で済ませた。故宮前の道路を横断して左折、「原住民文化主題公園」と向かい合ったところにある、こんな店である。



店の看板に「便當」の文字が見えるだろう。日本人なら「べんとう」と読むだろう。その通り、売っているのは、温かい総菜にご飯を添えた「弁当」である。中国語では「弁当」を「便當」と言わない。物知りによると、日本統治時代の日本語「弁当」に「便當」の字を当てたのだという。

そういわれてみると、以前、台北中心部の台湾料理店の階段で「便所↑」の表示を見たことがある。トイレについてはだいぶ前、北京の街中で「公共厠所」の表示を見たことがあるし、日本の空港ターミナルなどでは「洗手間」と表示されている。台北の「便所」もまた昔の日本統治時代の名残であろう。

そういうわけで、このシリーズのタイトルを「台北的師走」と気取ってみた。台湾では12月のことを師走とは言わないようなのだが……。

簡易食堂の人に、「ここで食べる」と身振りで示したら、こんなランチを出してくれた。肉と野菜とご飯。店内から歩道にはみ出したガタピシのテーブルと椅子で、プラスチックのプレートに盛ったランチをいただいた。1人前400円ほどである。

お腹が落ち着くまで椅子に座って食堂の人の働く姿をながめ、再び博物院に戻った。朝10時ごろ博物院に来て、夕方の6時ごろ博物院を出る。その間、2時間ほど昼食やお茶で費やすから、6時間は館内をうろうろ歩いている計算だ。大学の講義は1コマが90分。教壇を左右に行き来しなら午前に2コマ、昼食後に2コマを教える労働にあたる。博物館訪問はタフでなくてはやっていられない。これを2日間続けた。

閉館時刻の午後6時半近くなると、さすがに、館内は人が去りガランとしてくる。1日の喧噪の果て、宴の終わりの閑散としたこんな空気が、私は嫌いではない。





7 夜市

故宮を見た後は夜市をぶらつくのが台北旅行の習いになった。

台北市や隣接する新北市には夜市があふれている。基本的には路上に屋台が出され、道路の両側に食堂や衣料品、お菓子の店、食堂などが並ぶ構造になっている。集まってくる客のお目当ては屋台食である。屋台食ということでは、市内のどこの夜市に行ってもメニューは似たり寄ったりである。

今回は市中心部のビル街にある、食べ物屋をメインにした夜市と、台北の名刹・龍山寺近くの夜市の2か所へ行った。

ビル街の夜市の屋台で、屋台のハシゴをしている中年女性ふたりを見かけた。日本語を話す女性と、日本語も中国語も達者な女性である。台湾在住の日本人か日本語の達者な台湾人が、日本から来た友人を案内している感じだった。このお二人さんは、皿の上の小籠包をパカパカと平らげて顔を見合わせ、「さあ、次」といって、別の屋台めざして立ち上がった。



「台北小吃」は屋台や食堂でB級グルメのアイテムを少しずつ数多く味見することを言う。あの二人の女性はそれを実践していたようだ。なかなかの夜市の手練れだった。

竜山寺付近の夜市にはずっと昔行ったことがあった。「蛇屋」があって、店先にヘビを入れた籠が並べてあった。ベトナム戦争のころのことだったと記憶しているが、日本の新聞のサイゴン特派員がこんな話を暇ネタのコラムに書いていた。サイゴンの中華料理店に入ってソバを注文した。そばにネギのみじん切りを入れて食べたくなり、給仕さんにネギの絵を描いて渡した、給仕さんは了解といった風情で店の奥に入り、ヘビの入った籠を下げてテーブルに戻ってきた。

夏目漱石『吾輩は猫である』に蛇飯が出てくる。囲炉裏に鍋をかけコメを炊く。コメが煮立って吹いてくる頃合いを見計らって鍋の中にヘビを放り込み、蓋をする。蓋には穴がいくつか開いている。アッチッチと蛇がその穴から首を出す。だが全身を抜け出させることはできない。ほどよく蛇が煮えたころ蛇の頭をつかんで引っ張り上げると、肉は鍋の中に残り、骨だけがスルリと抜け出てくる。文字通りの骨抜き。鍋の中をかき混ぜて、どうぞ召し上がれ、という話である。



今回、龍山寺近くのその夜市に行ったところ、ヘビを売り物にしている店が2店だけ残っていた。そのうちの一つはいかにも老舗といった店構えで、「蛇肉湯 毎碗百五十元」の表示があり、店先の大きな籠の中で白っぽい大蛇が鎌首をもたげていた。や、参った。

  

台北中心部に舞い戻り、まっとうな台湾料理のレストランに入って、鳥の丸焼きのスライスを食べた。黒い皮のトリ、赤みがかった皮のトリ、黄色っぽい皮のトリ、あわせて三色鶏肉の一皿である。これに、冬瓜入りのチキンスープ、サツマイモの葉っぱのソテーを注文した。サツマイモの葉のソテーは癖がなくおいしく食べられた。子どものころ食べたイモズルの醤油煮つけの記憶とはずいぶん違うものだった。

師走の夜市をうろついて台北のクリスマス・マーケットのようなものを見て歩き、クリスマス・チキンのようなものを食べた。充実した夜だった、というべきか。



8 龍山寺

龍山寺は故宮博物院や忠烈祠と並ぶ台北の観光資源である。本尊として祀られているのは観音さまこと聖観世音菩薩。したがって仏教のお寺であるかと言えば、そうとは言い切れないところがある。航海の守護神・媽祖(天上聖母)も祀られているし、文昌帝君や関聖帝君といった受験や商売・お金儲けの神様も堂内にいらっしゃる。聞くところによると、祀られている神様・仏様は両手足の指を使うだけでは数え切れないという。



中国伝統の民俗宗教・道教のお堂と仏教の寺の混交である。日本でお正月に詣でる七福神巡りは、お寺や神社を回ることになる。お参りしてなにがしの幸せと金運を得ようとする。龍山寺もそういった現世利益をあてにしてお参りするところである。



したがって、参拝者は引きも切らず、夜間も開かれている。龍山寺に来るたびにその熱気に圧倒される。東京の浅草寺も東京の重要な観光資源であり、本尊は観音様である。七福神の一つ大黒天も祀っている。浅草寺はもともと天台宗のお寺だったが、天台から独立して聖観音宗を立ち上げた。

台北の龍山寺も東京の浅草寺も観光客であふれている。



9 総統選挙


二階建てのホップオン・ホップオフバスに乗って台北市内巡りを楽しんだ。

官庁街の一角で決起集会風の集まりを見た。そういえば来年の111日は台湾総統選挙と立法院(国会)の投票日だ。今年の台北の師走はホットな選択の季節なのだ。

現職の民進党の蔡英文氏は201811月の統一地方選で国民党に大敗北、支持率も2割台まで落ち込んだ。一時は蔡氏の総統再選は絶望視されたが、再起のきっかけを与えたのが中国の習近平主席だった。習主席が今年1月、香港に適用している一国二制度の台湾版を研究していることを明らかにした。6月からの香港のデモに対して、中国軍の導入をちらつかせ、ついには香港警察による銃弾による鎮圧とキャンパスへの突入にまで踏み込んだ。

これを見ていた台湾市民の間で中国に対する不信感が募り、「一国二制度に反対」することを明らかにしている蔡英文氏への支持が高まった。

台湾からの報道では、蔡氏が国民党の韓国瑜氏に対して有利な選挙戦を進め、そのまま投票日になだれ込むという観測が主流だ。香港のデモ以前は、韓氏への支持率は蔡氏を上回っていた。

「一国二制度」を嫌い、蔡氏を支持するのは若い世代である。



20143月に国民党の馬英九政権の対中接近強化方針に反対して、立法院を占拠した「ひまわり運動」を担った世代である。「ひまわり運動」の見聞記は『彷徨』に収められている

この台湾の「ひまわり運動」が香港の若い世代を刺激し、その年の秋、民主化を要求する香港の「雨傘」運動が始まった。雨傘運動に対する、中国の意を受けた香港当局の運動鎮圧が、今度は台湾の若者に強い危機感を与えることになった。

ホップオン・ホップオフ・バスから見えた集まりは、民進党に一歩先んじられている国民党の集会だった。まだ選挙が告示される前のことだったので、立法院選挙に打って出る予定の台北市議と、総統選挙での国民党候補・韓氏への支持を呼びかける決起集会だった。

写真と文: 花崎泰雄