1 レインボーブリッジ

筆者は東京の練馬区に住んでいる。埼玉県の熊谷ほどではないが、夏は東京都内で一番暑いところである。コンクリート造りの高層アパートの西北角部屋なので、冬は北風があたってよく冷え、夏は西日に曝されて暑い。夏炉冬扇の住処である。

練馬区がなぜ都内で一番暑いのか。いつかどこかで聞いた話では、東京湾の涼風が都心部を通るさい温められて熱風と化し、練馬に到るからだそうだ。暑苦しい東京の、熱の掃き溜めというわけだ。

そうかい。それじゃいっちょう、オリジナルの東京湾涼風とやらを思う存分浴びてみようではないか。

8月7日の立秋を過ぎ、広島や長崎の原爆慰霊祭が行われ、甲子園の高校野球が始まり、リオデジャネイロから金だの銀だの銅だのとひと山当てたような歓喜の声が流れ届き、天皇の生前退位に関連するビデオメッセージが街に流れ、8月15日を控えた一年でいちばん暑いある日、帽子をかぶって東京水辺(トーキョー・ウォーターフロント)散歩に出かけた。

散歩と言っても、なに、新橋から豊洲まで東京湾の水辺を走る新交通システム・ゆりかもめに乗って、所々で埋め立て地に下りてみるという安直なやり方なのだ。

どうも安直に過ぎる。それでは頭のてっぺんから足のつま先まで、東京の浜風にさらされてみるという体験からは程遠いではないか。

そこで……芝浦からレインボーブリッジにエレベーターで昇り、お台場まで海上遊歩道を2キロ弱歩いた。曇天ぎみだが風だけは滅法強かった。涼風ではなく生ぬるい風である。遊歩道のすぐ隣は車道だが、強風で排気ガスは吹き飛ばされていた。

 

芝浦―お台場の間の遊歩道で見かけた人はたった一人だけ。8月の日盛り、レインボーブリッジを歩く物好きはあまりいないようだ。

橋の上から撮影した東京のウォーターフロントが冒頭のタイトル写真である。12ミリの超広角レンズを使ったので、遠近感がおおげさになっている。現実の風景は海がもっと狭い……。



2 桟橋

新橋からゆりかもめに乗る。

次の駅は汐留だ。汐留は国鉄の操車場があったところだ。国鉄民営化にともなって、国鉄清算事業団が跡地を民間に払い下げた。再開発でいまでは高層ビルが林立するビジネス街である。

その汐留から海に向かって歩くと、浜離宮庭園がある。庭園内の船着き場から、浅草行きの舟が出ている。浜離宮から浅草行きの船賃は、浅草から浜離宮へ向かうときよりも200円安い。浜離宮行の船賃には庭園入園料が含まれているからだ。

隅田川を上り下りするこの船にはいぜん乗ったことがある。汐留ではゆりかもめから下車せず、そのまま次の竹芝まで行った。

ゆりかもめの竹芝駅のかたわらに竹芝桟橋がある。小笠原・父島行の定期船が発着している。そうだねえ、小笠原には一度行ってみたいものだと思っている。東京から約1000キロ。まる1日の船旅になる。

大海原をゆったりと進む船旅だ。ただし、いつも楽しいとは限らない。むかし、よせばいいのに奄美大島・名瀬から神戸行きの船に乗ったことがある。その船がしけに突入、深夜、立っていられないほど大揺れに揺れた。何度もトイレに駆け込むはめになった。ヘトヘトになって翌日神戸につくと、これが、嘘のような快晴。

竹芝桟橋からは伊豆諸島や八丈島へ行く船も出ている。

あいにく、竹芝桟橋をのぞきに行った日、定期船は入港しておらず、東京湾内のクルーズ専門のレストラン船が停泊していた。出港時刻が近いらしく、船内のレストランに人影が見える。

竹芝駅の隣が日の出駅だ。日の出桟橋の半分は貨物専用、半分が旅客ターミナルになっている。ここに出入りする客船は、東京湾内の水上バスと、湾内クルーズのレストラン船。レストラン船の桟橋に船員さんの制服が何着かぶら下がっていた。これを着て記念写真をどーぞ、ということのようである。



乗り物の中で食事をすると楽しいのであろう。むかし暮らしたメルボルンには、夕方から夜にかけて、路面電車の線路にレストランカーが走っていた。映画『第三の男』で有名になったウィーンのプラーター遊園地の大観覧車には、レストラン・ワゴンがついている。ぐるぐる回転しながら食事をする。はて、消化によいのか悪いのか。



3 波止場

桟橋、埠頭、波止場。細かいことを言えば少しニュアンスは異なるが、大雑把にいえば、同じようなもので、船着き場である。波止場・マドロス・酒場の女――セピア色の演歌風感傷には、波止場がよく似合う。

何を隠そう、筆者も子どものころは船員になりたかったが、果たせなかった。後年、ジャカルタで日本の船会社の支店長さんと知り合いになったが、彼は元船長さんで、海運不況で船を降り、陸上勤務に転じたという話を聞いた。

波止場といえば、エリア・カザン監督、マーロン・ブランド主演の映画『波止場』を思い出す。ニューヨークの波止場を牛耳るマフィアのボスに立ち向かう港湾労働者の物語である。

日本の暴力団・山口組も神戸港の港湾労働者を束ねることから勢力を広げた。

波止場は荒っぽい所という印象が強いが、中には思索的な波止場人間もいた。波止場で思い出すことは、サンフランシスコの波止場で沖仲仕の仕事の余暇に読書し、思考し、論文を書いた波止場の社会哲学者、エリック・ホッファーのことだ。

彼の『波止場日記』をあらためて斜め読みすると、そこには知識人への懐疑が色濃くにじんでいる。「選民思想というものは、権力をふるう行動人によってではなく、むしろ知識人によって創り出されているのである」。「大衆に労働意欲を起させえない知識人が、戦闘意欲をおこさせうるのは驚くべきことである。知識人は軍隊を招集するのにたけており、後進的な民衆に戦場での勝利を意欲させるのに抜きんでている」(田中淳訳の『波止場日記』、みすず書房、から)。

そのような語り口をする港湾労働者は、20世紀中ごろには珍しい存在だった。そこをかわれてホッファーはカリフォルニア大学バークレー校で教えたりした。



ゆりかもめの日の出駅の次が芝浦ふ頭駅である。芝浦埠頭は東京港で2番目に古い埠頭である。一番古いのが日の出埠頭、3番目が竹芝埠頭である。それぞれ大正の終わりから昭和の初めにかけてつくられた。芝浦埠頭は内貿埠頭で、写真でご覧のとおり活発に利用されている。

人間が筋肉を使って労働していた昔の波止場の面影は、当然のことながら、消え去っている。



4 ループ



ゆりかもめは芝浦ふ頭駅を出て、レインボーブリッジを渡る前に、大きくループを描いて迂回するように走る。

レインボーブリッジは、大型の船が通れるように、橋の高さを45メートルから60メートルに設計してある。ゆりかもめは高架を走るが、その高さは地面から10メートルから15メートルである。

芝浦ふ頭駅を出てレインボーブリッジにのるには、30メートルほどの高低差を克服する必要がある。芝浦ふ頭駅を出たあと一気にレインボウ―ブリッジの端に達しようとすると、線路の勾配はかなりの急角度になる。

勾配を抑えるために距離を稼ぐ工夫がループで、山間の道路などではよく使われている技術だ。

今回は、それだけの話。





5 砂浜

レインボーブリッジを渡るとお台場海浜公園駅に着く。

海浜公園の汀は砂で造られている。ここは東京港埋め立て第13号地で、砂浜はどこかから運んできた砂で人工的に作られている。



浜辺に寝転んで太陽光で肌を焼いている人がいる。でも、肌を焼いたあとはヒリヒリ痛いんだよね。焼き過ぎるとやがて薄皮が向けてくる。筆者の子どものころの夏休みがそうだった。海に浸かってばかりいたので、一夏に1回は薄皮がむけた。中には2回むけた、3回だ、と競い合うこどももいた。野蛮な時代だった。皮膚がんにならなくてよかった。

お台場海浜公園のビーチで肌を焼いている人はいるのだが、ふと気づくと、水に浸かったり、泳いでいる人がいないのである。遊泳禁止になっているからだ。

なぜ遊泳禁止かというと、水質が遊泳に適しないからである。気象条件などによって、汚濁物やふん便性大腸菌が遊泳不適当なレベルまで増えることがある。

いまは遊泳禁止のビーチなのだが、時々、トライアスロンの大会が開かれ、ここで泳いでいる。その時だけ、遊泳禁止の措置を臨時に解除しているのだろう。2020年のオリンピック東京大会では、お台場がトライアスロンの会場になるらしい。

ここ数年は東京都港区(お台場海浜公園は港区内)が一夏2日間だけ、特別に一般市民にも遊泳を認めている。その条件が「水に顔をつけないこと」というので、話題、あるは笑いのタネになった。

2016年には7月末の2日間、遊泳禁止が解かれた。それを知らせる港区広報には、顔を水につけないこと、とは書かれていなかった。水質が改善されてきたのだろうか?

海があって白い浜辺があってその後ろに高層ビルが建っている。お台場の風景は和製ワイキキ・ビーチだ。年間200万人近い人が集まってくる。

遊泳禁止が全面解除されると、イモ洗い場になるだろう。



6 砲台跡

「台場」に敬称の「お」をつけて「お台場」という。幕末期に砲台のことを台場と言った。大砲の筒先はやって来るかもしれない外国船に向けられた。客船ではなく、力ずくで江戸幕府に開港を迫るために押しかけて来る軍艦である。「太平の眠りを覚ます上喜撰たった四杯でよるも眠れず」のあの蒸気船だ。

お台場と称する砲台は日本の海岸のあちこちに一千ヵ所ほど造られた。関東一円では江戸防衛のために品川沖を埋め立てた品川台場がいまでは「お台場」を代表する。計画では11の台場を築く予定だったが、実際に完成したのは5基だけだった。

品川台場は日本の開国ですぐ不要になり、灯台や牡蠣の養殖場などに利用されながら第2次大戦後まで残っていた。やがて東京港の開発が始まり、台場5基のうち3基が取り壊されて海中に没した。現在では3番と6番だけが残っている。

6番台場は現在離島状態で隔離され、立ち入りが禁じられている。3番台場は公園になっている。13号地の埋め立てで、いわゆるお台場と陸続きなった。



さて、第3台場に行ってみると、砲座跡が2つあった。写真を見ると幕末期の歴史を感じさせる姿であるが、これがなんというかくわせもの。「公園化に伴って置かれたコンクリート製の砲架二基が砲座上に残されているが、これらは史的考証にもとづくものでなく、見学者への誤解を与えるおそれもあるため、撤去することがのぞましい」(浅川道夫『お台場――品川台場の設計・構造・機能』錦正社、2009年)という代物である。

1862年の生麦事件が原因になって1863年に火ぶたが切られた薩英戦争では、イギリスのインドシナ艦隊と薩摩藩が砲火を交えた。長州藩の馬関海峡封鎖が原因となった1863年から64年にかけての長州藩と英仏蘭米4ヵ国の連合艦隊の武力衝突事件では、長州藩の台場は破壊され、占領された。

品川台場建設の指揮をとったのが韮山の反射炉で有名な江川太郎左衛門英龍。いまでは伊豆の観光資源になっている韮山反射建設の目的は大砲製造のための上質な鉄を手に入れるためだった。品川台場の砲台が外国軍艦と一戦交え、江戸の町に火の粉が舞い散る事態にはならなかった。対外政策の失敗で東京の街が米軍機による空襲で炎上するのは、それから80年近くがたったのちである。



7 たいまつ

ここはどこ? 私はだれ?

おぼろげな記憶をたどると、私はフランスでつくられ、ここに運ばれたらしい。

なぜ、ここに? 私がここに据えつけられる前、私そっくりな像がパリから運ばれて、しばらくの間ここに立っていた。1998年ごろのことだと聞いている。日仏友好行事の一つだったらしい。そのときの像は1年ほどでフランスに帰ってしまった。

なぜかジャポネはその像が気に入ってしまった。そこで、フランス政府からOKをもらってレプリカをつくったそうだ。どうやらそのレプリカが私らしい。



元のパリの像はアメリカ人がフランス革命100年を祝ってフランスにプレゼントしたと聞いている。1889年のことだ。

フランス人がアメリカ独立革命100年を讃えてプレゼントし、1886年に完成したニューヨーク港の巨大な像のお返しだった。そのニューヨークの像は右手にたいまつを掲げ、左手に銘板をかかえている。銘板にはアメリカ合衆国独立の日付が刻まれている。

アメリカ人がフランスに贈った、ニューヨークの像の縮小版の像が抱える銘板には、フランス革命の発端になったバスティーユ襲撃の日付が彫られていた。仏米エールの交換というわけだ。

以上、ニューヨークの像のレプリカがパリの像で、パリの像のレプリカがお台場に立つこの私らしい。レプリカのレプリカであるこの私も、同じようにたいまつを掲げ、銘板をかかえている。

で、その銘板には何と彫られているのか、とお尋ねになるのですか?

はて――――。



8 トンネル

首都高速道路湾岸線は東京港埋め立て13号地、いわゆるお台場を通って地下にもぐり、海底トンネル(東京港トンネル)を抜けて品川区大井に出る。

お台場側のトンネル出入り口は、お台場の品川区部分である東八潮にある。トンネル出入り口は海岸線ぎりぎりに位置する。



東京港トンネルは、海底を浚渫して大きな溝を掘り、その溝にあらかじめ作っておいたケーソン(沈埋函)を沈め、海底でケーソンを連結したうえで埋める沈埋工法で建設された。トンネルが比較的浅い位置にあるので、出入り口を海岸線近くに置くことが可能だ。

トルコ・イスタンブールのヨーロッパ側とアジア側をむすぶボスポラス海峡の海底トンネルも、日本の企業が請け負ってこの沈埋工法で完成させた。

写真をご覧になっていただくとわかるように、首都高速湾岸線に沿って、車線の道路がつくられている。首都高速湾岸線に沿って走っている国道357号だ。国道357号の海底トンネルは、お台場から大井に向かう西行き車線が今年開通したばかりである。大井側からお台場に向かう東行き車線は2018年の開通が目標。

国道357号用の新しいトンネルは海底の深い部分を通るので、掘削機を使うシールド工法が採用された。



9 噴水

東八潮で海底にもぐり込む湾岸道路を挟んで南北の海岸沿いに公園が広がっている。その名も潮風公園。13号埋立地では最大の公園である。

とはいうものの、お台場海浜公園にある空調の効いた商業施設の建物内にはそれなりの人出があるのだが、8月の暑い盛り、戸外の潮風公園には人影は少なかった。

日本の夏はバンコクやジャカルタ、シンガポールと同じような蒸し暑さだ。戸外でのんびりしようという気には、ちょっとなれない。

潮風公園内の噴水のある広場には、親子連れがちらほら、水遊びをしていた。



13号埋立地を中心にした臨海副都心にはいろんなものがある。自由の女神もあれば、温泉もあるのだ。

山あいの温泉は火山性温泉、東京都内でボーリンによってくみ上げられている温泉は非火山性の深層熱水である。

都内でも地下1500メートルも掘れば熱水にあたる。水温は50度以上になる。

石油メジャーのボーリング技術の転用で、都会の真ん中や東京港の埋め立て地で温泉が掘れるようになった。

8月の暑い日、噴水も良いが、温泉はもっと気分がさっぱりするだろうね。



10 宗谷

潮風公園の隣に客船を模した大きな建物がある。船の科学館本館だった。

「だった」というのは、5年前から船の科学館本館は展示を休止しているからである。1974年に開館し、新交通ゆりかもめが開通したさい「船の科学館」という駅もつくられた。本館に隣接する岸壁に、初代南極観測船「宗谷」や青函連絡船だった「羊蹄丸」が展示され、かつてはこどもたちに人気の施設だった。



2011年に船の科学館本館が休館したさい、羊蹄丸も払い下げられて解体された。現在では、船の科学館別館で小規模な展示がされ、宗谷の館内見学ができるだけの小規模な施設になっている。

5年間も展示休止のまま、建て替えも、改装工事もされず、放置されているうえ、開館当初から屋外展示されていた戦艦「陸奥」の主砲も今年9月に横須賀市の公園に移設されたことから、船の科学館本館は事実上の閉館とみなされている。

船ならではの浮沈である。

そこで公開されている初代南極観測船「宗谷」の船内を見てきた。

宗谷も9月から館内見学を休止している。対岸のかつて羊蹄丸が係留されていた場所に移転させるためだ。レインボーブリッジをくぐれないような超大型クルーズ船が停泊できる客船用の埠頭を近くに建設する計画があって、宗谷がその工事の邪魔になるからだ。

まだ船内公開中の8月、宗谷の現物を初めて見たが、意外に小さいな、という印象だった。宗谷は基準排水量が2000トン台。現在の1万トンを超える第4代の南極観測船「新しらせ」を思うと、日本が南極観測に参加した1950年中ごろの国力がしのばれる。

船内は天井が低く、居室は狭く、食堂も手狭だ。こんな船に乗って日本からはるばる南極まで航海した当時の乗組員の苦労も同時にしのばれる。

ブリッジから眺めると船首の向こうに大井コンテナ埠頭が見えた。





11 青海

東京港13号埋立地を「お台場」といいならわしている。お台場は埋め立てで生まれた人工島だ。島の誕生にあたって、最寄りの自治体がその帰属を争った。港区と品川区、それに江東区である。

東京都の調停の結果、お台場海浜公園や商業施設、ホテルがあるあたりが港区になり、潮風公園と船の科学館のある地域が品川区、残りが江東区になった。面積でいうと品川区がお台場の1割、港区が2割、残り7割を江戸川区が獲得した。

これと同じような帰属争いが、お台場の沖の埋め立て地「中央防波堤」をめぐって大田区と江東区の間で起きている。あそこはごみを埋めてできた。ゴミ運搬車が通るのを江東区民は我慢してきた。江東区はそう主張する。一方の大田区は、あの海域はもともと大田区の漁民の漁場だった、と主張する。

島の帰属をめぐる争いは、なにも南沙諸島、尖閣列島にかぎらない。

それはさておき、新交通・ゆりかもめのテレコムセンター駅と隣の青海駅周辺の、港湾施設が集中する地域は江東区内である。

江東区青海2丁目には青海コンテナ埠頭がある。水路を挟んで品川区の大井コンテナ埠頭と向き合っている。

日本でコンテナ貨物の取り扱いが多いは東京、横浜、名古屋、大阪、神戸の5港である。とはいえ、この5港が2012年に扱ったコンテナ貨物を合計しても、いまでは韓国の釜山港1港の取扱量に届かない。世界の港湾別のコンテナ扱い量のランキングは2012年の統計では上海をトップに上位10のうち中国の港が7つ(香港をふくむ)を占める。残る3港は釜山、シンガポール、ドバイである。

1980年の統計を見ると、トップがニューヨーク・ニュージャージー港、ついでロッテルダム港、香港、神戸と続いていた。物流にも盛衰がある。

青海コンテナ埠頭と背中合わせにお台場ライナー埠頭があり、コンテナ船以外の外貿在来船の貨物を取り扱っている。各バースごとに上屋が9棟ある。取り扱う貨物は紙・金属くず・製材・タイヤ・パルプ・青果物・鋼材などの外貿雑貨である。



水路を挟んだ対岸が内貿貨物を取り扱う10号地埠頭。ここは江東区有明4丁目になる。

港区の台場、品川区の東八潮はレジャーやエンターテインメントの施設が多かったが、江東区に属するこのあたりは産業活動の基地である。



12 余暇タウン

日本の海辺には、なぜか大観覧車がある。

東京の葛西臨海公園、横浜港、名古屋港、大阪港、それにもちろん江東区青海のウォーターフロントにも大観覧車がある。新交通・ゆりかもめの青海駅に隣接する余暇タウン「パレットタウン」のレジャーランドの大観覧車である。

観覧車に乗りはしなかったが、パンフレットによると、東京タワー、スカイツリー、レインボーブリッジ、ゲートブリッジ、それに東京の街並み、東京港の海面が眺められるとのことである。ということは、登ったことはないが、東京タワーやスカイツリーから、逆に、この大観覧車が見えるだろう。

パレットタウンにはカラオケからバッティング・センター、ゲームいろいろ、音楽のライブをやるホール、自動車展示場、などなどが取り揃えてある。しかし、筆者には関係ないことだ。そんなものを面白がる年頃はとっくに過ぎている。



青海駅の隣には「国際展示場正門」駅があり、東京国際展示場「ビッグサイト」へ通じている。ビッグサイトの案内所の人に、ゲートブリッジが見える場所を教えてもらい、屋上駐車場に行った。

ゲートブリッジは中央防波堤外側埋立地と江東区若洲(埋立地)の間の東京東航路をまたいで架けられた橋だ。この橋を通る道路は東京港臨海道路で、橋を渡り、埋立地をぬけて、海底トンネルで大田区の城南島(これもま埋め立てで生まれた人口島)へ出る。

前回の「青海」の項で書いた、大田区と江東区の中央突堤外側埋立地の帰属をめぐる争いは、この東京港臨海道路をロープ代わりにした綱引きである。埋立地を江東区は若洲側に、大田区は城南島側に引き寄せようと、政治的な力比べをやっている。



ゲートブリッジは日没から深夜12時まで、日を決めてライトアップされる。10月は乳がん検診促進運動ピンクリボン月間にあたり101日に「秋草色」のライトで照らす。秋草色とは、どんな色だろう。1016日は臓器移植法施行日で青葉色のライトで橋を照らす。東京都港湾局のサイトにそんな記事があった。



13 秋の日暮れに途方にくれて




20168月、築地市場の後継として建設が進められている豊洲・新市場にはこんな横断幕が景気よく張られていた。

そして9月。豊洲市場のオープンは延期され、その日がいつになるか、日を追って見通しがきかなくなってきている。

かつて東京ガスが石炭から都市ガスを生産していた工場跡地へ食品を扱う市場を移すということで、計画当初から土壌汚染の問題があった。専門家は敷地すべてに盛り土をするように提言したが、都庁の関係者は建物の内部に地下室をつくり、盛り土をしていなかった。

誰がいかなる理由で、そのような方針の変更を決めたのか、はっきりしない。若いころの障子破り、往年の横紙破りの石原慎太郎・元知事までが「都庁は伏魔殿」というのだから、そのゆるふんぶりに笑止千万というか、あきれ返って開いた口がふさがらない。

市場の建物もあらかた完成し、豊洲と晴海の間にかかる豊洲大橋もできあがっている。この橋を渡る道路が環状2号である。

環状2号は晴海に造られるオリンピック選手村と都心の競技場を結ぶ幹線道になる予定。晴海と築地の間にかかる築地大橋もほぼ完成。築地大橋を渡った環状2号は現・築地市場あたりで地下トンネルに入る。

豊洲新市場のオープンが遅れると、築地市場の移転が遅れる。築地市場が空にならないと環状2号のトンネル出入り口の着工ができない。環状2号の開通が遅れると、オリンピック選手村とメインの競技場を結ぶ別のルートを工夫しなければならなくなる。

東京オリンピックの選手村になる晴海には、晴海客船ターミナルがある。豊洲新市場建設現場から豊洲大橋を渡れば左手に特徴ある建物が見える。それが晴海客船ターミナルだ。この施設もオリンピックを契機に移転させる計画がある。



移転先は船の科学館があるあたりだ。このことは第10回「宗谷」の項で少しだけふれた。

9月も末だというのにここ数日は暑さが厳しかった。だが、間もなく本格的な秋の風が吹きはじめるだろう。涼しい海風を求めて出かけた東京ウォーターフロントの散歩は、このあたりでおしまいとしよう。

(写真と文: 花崎泰雄)