1 カール・マルクス・ホーフ

「中欧 初秋2013」は「プラハ編」が終わったあと、「メルボルン2013年初夏」が入ってきたので、中断のかたちになっていた。新年から「ウィーン編」を続ける。



ウィーンからプラハに向かった時はジェット機だったが、プラハからウィーンに向かうときはプロペラ機になった。プロペラ機は空中での浮揚感が強い――ような気がする。スピードが出ないので、ふんわり浮いた感が強まるのかもしれない。



プラハとウィーンの飛行距離は300キロもないので、飛行機が飛びあがって、上空からナスカの地上絵のようにも見える道路を見ているうちにウィーンについた。

空港バスに乗って終点のウィーン西駅まで行き、駅に隣接するホテルに荷物をあずけてから、地下鉄に乗った。行く先はウィーンの森の一角にあるカーレンベルクの丘だ。丘の上からウィーンの街を見下ろそうというわけである。

ウィーン西駅から地下鉄6号線に乗ってシュピッテラウ駅へゆき、そこで4号線に乗りかえる。



シュピッテラウ駅の前に奇妙な塔がたっている。芸術的モニュメントのように見えるが、これはゴミ焼却場の煙突なのである。

フンデルトヴァッサーというオーストリアの芸術家がデザインした。ごみ焼却場が観光資源になった世界でもまれな例である。この芸術家の手になる同種の焼却場は日本の大阪市にもある。

地下鉄4号線に乗りかえて、ハイリゲンシュタット駅で降りる。駅前でカーレンベルク行のバスに乗るのだが、その駅前に巨大な建物があった

集合住宅カール・マルクス・ホーフである。第1次世界大戦の結果、ハプスブルク帝国が解体し、共和国になったオーストリアで社会主義政党が政権を担った。ウィーンはとくに社会民主党の勢力が強く、第1次大戦と第2次大戦の戦間期に、「赤いウィーン」と呼ばれる社会主義市政を推し進めた。



カール・マルクス・ホーフはこの時代に建てられた。長さ1キロにも達する建物で、1000世帯以上の住宅と、図書館、郵便局、託児所、診療所、薬局などが入るように設計された。

1次大戦後のオーストリア共和国は、ハプスブルク帝国時代の領地を失い、経済的に困窮していた。記録によると、ウィーンでは25万人労働者が水道さえもない劣悪なアパートに住んでいた。社会主義ウィーン市政は1920年代から30年代にかけて強力な社会改革プログラムを実行した。

その改革の中心が400以上の集合住宅を建てることだった。カール・マルクス・ホーフはその象徴的存在だった。そのころ日本では社会主義運動に対する政府の弾圧がどんどん強まっていた。

カール・マルクス・ホーフはナチ併合時代、ハイリゲンシュタッター・ホーフと改名されたが、ドイツ敗戦後に元の名前にもどった。現在の建物は1980年代後半から1990年代にかけて改装されたものだ。

ハイリゲンシュタットからバスに乗ってカーレンベルクの丘へ向かう。



2 カーレンベルク

ハイリゲンシュタットのバス停を出ると、バスは大都市市街地の風景の中をゆっくりと走った――こんな言い方はあいまいだ。つまりは何の変哲もない郊外の住宅地を走った。

やがて、郊外の住宅地風景が田園風の風景に変わり始めるころ、バスはウィーンのワイン産地の1つ、グリンツィングにつく。そこを出ると丘陵地が始まり、傾斜地の木々の間を蛇行する道路を登って行く。

カーレンベルクの丘は標高500メートルほどだ。ウィーンの町そのものが標高200メートルほどの所に位置するので、差し引き、実質的な昇りは300メートルほど。スカイツリーの展望台の方が高い。



とはいうもの、展望テラスから見おろすドナウ川とウィーンの町は、絶景と言ってよい。ドナウ川本流と放水路として掘られた新ドナウ川が並行して流れている。



カーレンベルクがその一部であるウィーンの森は、アルプス山脈の東の端なので、西の方角にはかすんではいるが山なみも見える。



丘の上にはピクニックの人が登ってきている。元気のいい人は自転車で。見るとけっこうな年配者もペダルをこいで登ってきている。普通の年配者は自家用車やバスでやってきて、のんびりカフェテリアでワインやビールを飲んでいる。



なかなかの賑わいであるが、ドナウ川とウィーンを鳥瞰してしまえば、あとやるべきことは周辺の森歩きだけだ。それもそこそこに、バスで麓のグリンツィングの町へ下りてゆく。有名なワイン居酒屋をのぞいてみたいからだ。



3 ホイリゲ

カーレンベルクからバスでグリンツィングまで下る。バスの運転手にとってはなれた道なのだろう、かなりのスピードでカーブの多い下り坂を走る。



グリンツィングは可愛らしい町だ。教会があって、おいしそうなハムやソーセージを売るグルメショップがあって、道路沿いに点々とワイン居酒屋・ホイリゲがある。

ガイドブックによると、ハプスブルク帝国のヨーゼフ2世がウィーンのブドウ農家に副業として自家製ワインの飲ませる居酒屋の開業を認めたのがホイリゲの始まりだという。



ホイリゲは「今年の」というドイツ語の形容詞だ。出されるワインは醸造から1年以内の新酒で、日本酒の今年酒、フランス・ワインのボージョレ・ヌーボーと似たような飲み物である。

最初はワインのつまみ程度の家庭料理を出していたが、バスで観光客がやって来るようになった今では、ビュッフェで好みの料理が注文できるようになった。



ホイリゲはエンターテイナーと契約していて、飲み客の気分を高揚させる。私が行ったのは9月の初め。今年酒も終わりのころだった。その店では、アコーディオンを抱えた生真面目そうなオジさんが歌謡漫談をやっていた。



あれこれと歌を歌い、歌と歌の合間に、漫談を挟む。かつてのウクレレ漫談の牧伸二のような芸をやっていた。ドイツ語でやっていたので、その内容はかいもくわからなかった。だが、漫談ををさっと切りあげて歌にもどる、その呼吸は鮮やかだった。アコーディオンのオジさんは謹厳実直、ニコリともしないで冗談を語り、客は大笑いしつつワインをがぶりと飲んで、店は商売繁盛。



ホイリゲを出て、またバスに乗ってカーレンベルクの展望テラスに行った。ウィーンの夜景を見るためだ。9月初旬、丘の上にはやや強い風があって、もう夜寒の季節だ。



頂上からバスでグリンツィンに下り、そこから路面電車に乗りかえてウィーン市街まで戻る。



4 メルク

ここ3年連続してウィーン経由でヨーロッパの初秋の風景を見に行っている。いつもどウィーンに数日滞在して、あちこち市内を見て歩くのだが、さすがに古都ウィーンには見るところが多い。したがって、ウィーンの郊外にまで足をのばす時間がなかった。今回は有名なヴァッハウ渓谷を見に行くことにした。

ウィーンからヴァッハウ渓谷へ行くのは、東京から箱根に出かける感じである。ホテルで朝食をしっかり食べて、ホテルのすぐ隣のウィーン西駅から9時半ごろの――たしかチューリッヒ行だったと思う――急行列車に乗った。往復の列車の切符と渓谷めぐりの乗船券がセットになった、ヴァッハウ渓谷観光切符を前日に駅の切符売り場で買っておいたので、直接ホームに行って列車に乗る。

例によって、ウンともスンとも言わず列車が動き出す。しばらくしてウィーンの街中を抜け、田園風景が広がるころ、列車の速度表示を見ると時速200キロほどで走っている。初期の日本の新幹線と似たような速度である。30分ほどで、ザンクト・ペルテン駅についた。ここで、急行をおりて隣のホームで待っていたローカル列車に乗りかえる。10時半ごろにはヴァッハウ渓谷めぐりの船の乗り場メルクについた。



メルクはお菓子でつくった街のように見える。あるいは、子どものころ見たディズニー映画のおとぎ話の景色を思い出させる。



何ということのない街中の小道が、家々の壁が作り出す雰囲気によって、見飽きることのない風景をつくりだす。



窓と窓飾り、窓辺の花にも、人様にしゃれた姿をお見せしようという心配りがうかがえる。実用を排し装飾物に専念する元自転車が壁にたてかけてあった。



下り坂になった路地があった。つい誘われて奥まで入ってみたくなるような吸引力がある。



小高い丘の上にメルク修道院がある。1000年以上も前にひらかれた由緒ある修道院だそうだ。メルクの町中からその位置を確かめ、標識をたよりに修道院へと坂道をのぼる。



5 メルク修道院




メルクの修道院はドナウ川に流れ込む支流のそばの岩盤の上に建てられている。僧院のテラスからドナウ川をながめることができる。修道院の始まりは11世紀ごろだ。現在の建物は18世紀にその基本的な部分がつくられた。



ヨーロッパでも屈指の修道院の一つとされている。それがカトリックにおける宗教上の指導力によるものなのか聞きそんじたが、建物はなかなか壮麗である。



ヴァッハウ渓谷めぐりにやって来る観光客が、乗船街のあき時間を使って修道院見学に来るせいだろうか、見学受付けには長い列ができていた。



修道院内部はガイド付でないと入れない。言語別のグループに分けた見学者を、ガイドがそれぞれ引率して館内を案内する。



天井のフレスコ画も、館内博物館の展示品も立派なものだ。



中でも有名なのが館内の図書室で、天井のフレスコ画まで届く書架にぎっしりと書物が詰め込まれていた。

ウンベルト・エーコが、『薔薇の名前』を書くきっかけはメルク修道院の図書室で見つかった14世紀ごろの手稿に魅せられたからだと、同書の冒頭に書いたことから、この図書室が一般人の関心を集めるようになった。

図書室の写真をお見せしたいのだが、室内は撮影禁止ですとガイドに前もって言われていたので、残念ながら写真を撮っていない。



6 デュルンシュタイン

メルクの遊覧船乗り場へ行く。



ドナウ川のヴァッハウ渓谷を下る船に乗る。川の水はゆったりと流れ、両岸にはなだらかな丘陵があって、キリスト教の古いお寺や、石造りの中世の城の残骸があり、葡萄畑があって、可愛らしい民家が立ち並んでいる。



展望デッキに出てみたが人でいっぱいのうえ、日差しが強い。我慢して見続けるほどの風景ではあるめえと、下のカフェテリアに下りてお昼ご飯を食べた。隣のテーブルの日本人の女性2人が、子どものこと、夫のこと、親戚のこと、友だちのこと、身近な生活記録を延々と語り合っている。船がデュルンシュタインという小さな町に着き、そこで下船するまでゴシップの交換は尽きなかった。ドナウ下りの遊覧船の中でのおしゃべり、いい思い出になったことだろう。



デュルンシュタインはこじんまりした瀟洒な街である。



近くのワインの地酒を出す店、アイスクリームや、ハーブやはちみつの店が並んでいる。イギリスの獅子王リチャード1世が十字軍遠征の帰りにウィーンでとらえられ、デュルンシュタインに幽閉されたという昔話もまた、この町のうりものである。



丘の上には古い城跡がある。登りに30分以上かかると聞いたので、御免こうむった。



ワインの店の前に木製のベンチが置いてあった。そこに腰かけていると、老夫婦がやって来て腰かけてもいいかと聞いた。二人がしゃべっているのを聞いて、

「オーストラリアからお見えですか?」
「ゴールドコーストですわ」
「オーストリアの印象はどうですか」
「オーストリアは2度目なんだ。最初の旅行は教会ばかり連れて行かれて、どうも退屈だった。今回の方がましだよ」
「団体で来たの?」
「ああ、100人ほどの」
「では、いい旅を」

 

船着き場にもどって、終点のクレムス行に乗った。船を下りてクレムスの鉄道駅までてくてく歩いた。駅に着いたらウィーンのフランツ・ヨーゼフ駅行きの列車がちょうど出たところだった。待合室で、近くの店で買ったピザを食べながら次の列車を待った。



7 楽聖たち

パリは芸術の都として絵描きのあこがれの町だった。ウィーンは音楽の都だった。多分、いまでもそうだろう。



ウィーンの市立公園に金ぴかのヨハン・シュトラウスの像を見に行った。ウィーン市立公園沿いの舗道にはレンタル自転車が並んでいた。ペダルをこぎながらのんびりとウィーンの中心部を回るのも楽しいだろう。



公園に入るとヨハン・シュトラウスの金ぴかの像が見えた。市立公園にはいろんな銅像があるが、この金ぴかのシュトラウスが園内の一番人気だという。観光客はみんなここでシュトラウスとともに写真におさまる。

ワルツの王様ヨハン・シュトラウスがいかにも楽しそうにバイオリンを弾いている像である。19世紀のウィーンをとりこにしたダンス音楽の作曲家だ。父親のヨハン・シュトラウス1世も音楽家だったが、ふつうヨハン・シュトラウスといったばあい、息子のヨハン・シュトラウス2世の方をさす。

毎年お正月にウィーン楽友協会で行われるウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートではシュトラウスの曲が演奏される。日本でもテレビで流されるのでおなじみの行事だ。コンサートの切符を入手するのは至難の業と言われている。毎年12日に翌年のニューイヤー・コンサートの切符の申し込みを受け付ける。ただし、申し込みは12日限定、それ以前でも、それ以後でも受け付けてもらえないそうである。大変な売り手市場なのである。



ストラウスゾウの近くには大作曲家ブルックナーやオペレッタの大家レハールの像などがあるが、シュトラウスに比べると地味である。



市立公園を抜けてしばらく歩くとベートーベン広場があり、そこにベートーベンの像があった。ちょっと身をよじって、いかにも楽聖といった感じに作ってある。シュトラウス像の軽味とくらべて雰囲気は重い。



ベートーベン像から少し歩くと今度はブラームスの像がある。ブラームスの像はベートーベンよりもさらに重くなり、暗い雰囲気がただよっている。



8 ベートーベン・フリース

ブラームスの陰鬱な石像を見た後、クリムトの有名な壁画「ベートーベン・フリース」が展示してある分離派会館へ行った。



分離派会館は遠くからでも一目でわかる。建物のてっぺんに「金色のキャベツ」とよばれるでかい装飾を載せているからだ。

金色のキャベツと呼ばれているが、よく見るとそれは金色の月桂樹の枝葉の集合体だ。



19世紀が終わろうとする1897年、ウィーンの芸術家協会の保守性に耐えかねた芸術家たちが、既成の権威の象徴である協会から飛び出して、クリムトを中心にセセッシオン(分離派)を結成した。モットーは「時代にはその芸術を、芸術には自由を」だった。このモットーは分離派会館正面の金色キャベツの下の壁に刻まれた。

ベートーベン・フリースは分離派会館の地下展示場に展示されている。ベートーベンの交響曲第9番をクリムトが彼なりに解釈して制作した装飾画だ。

1902年に開かれたベートーベンをテーマにした分離派の展覧会のためにクリムトが描いた。展覧会終了後、廃棄されるはずだった絵を、壁画をコレクターが買い取って保存した。それをオーストリア政府が譲り受け、国立文化財管理局で10年をかけて修復し、分離派会館の地下につくった展示室で公開している。

クリムトの壁画は地下展示室の上部の壁(つまり建築用語でフリーズとよばれるところ)に復元されている。原画を8つに切断して保存し、さらに保存のずさんさから絵は相当いたんでいたらしい。傷んでいなかったとしても、ベートーベンの第9番とこの絵のつながりを理解するのはなかなか難しいだろう。

地下展示室の横の小部屋に、クリムトのベートーベンを復元する作業の途中で模写された絵が展示されていた。地下展示室の壁画は撮影禁止なので、こちらの模写の写真を添えておく。



入場者は多くなく、壁画からベートーベンとクリムトのメッセージを聞き取ろうとするかのように、壁を凝視する人がいて、ちょっと緊迫感がある地下室だった。当方は絵にも音楽にも素養がなく、ただぼんやりと見るだけだが、ちょっとそれなりに分ったような表情で壁画の下を一回りしてみた。

普段は1階にも展示室があるのだが、この日は修復か、あるいは次回の展覧会の準備なのだろうか、中で工事をしているような気配だった。



分離派会館を出て、近くのミュージアム・カフェでコーヒーを飲む。



ウィーンはヨーロッパ有数のカフェ文化都市で、立派なカフェが街のあちこちにあって楽しい。





9 ナッシュマルクト

分離派会館のすぐそばから、ウィーンで最も活気のある市場であるナッシュマルクトが始まる。市場は道路に沿って細長く続いている。



市場がある場所はもともと川だった。19世紀後半に川が埋め立て垂れた。そこへ、ナッシュマルクトが近くのカールスプラッツから移ってきた。だからマーケットは細長い。



野菜・果物・肉など生鮮食料品や、チーズ・生ハムのような加工食品まで、日本でいう洋食の食材がずらりと並んでいる。和食の食材が中心の日本の市場、たとえば京都の錦市場あたりとは雰囲気が違う。日本に来る観光客が錦市場に異国趣味を感じるように、日本の市場を見慣れた目には、西洋の市場はエキゾチックである。

チーズやハムをながめていると、店員がやって来て、チーズをスライスして、チーズナイフにのせて差し出してくる。笑顔が、「食べてみな、うめえぞ」と言っている。

市場の中にはカフェもたくさんあって、昼時には近くの勤め人がランチにやって来て賑わう。



市場のすぐ近くに、モーツアルトの『魔笛』の台本を書いた興行師エマヌエル・シカネーダーがつくった劇場テアター・アン・デア・ヴィーンがある。この劇場のパパゲーノ門とよばれるところに、『魔笛』のシーンが彫刻になって飾られている。中央で笛を吹いているのがパパゲーノに扮したシカネーダーであるといわれている。





10 アマデウス

マリア・テレジア広場にある美術史美術館にハプスブルク家のヨーゼフ2世の肖像画がある。のちにヨーゼフ2世の後継者となった弟のレオポルトと一緒に描かれたものだ。マリア・テレジアの息子ヨーゼフ2世とモーツァルトは同時代人である。



ミロス・フォアマン監督『アマデウス』(1984年)をご覧になった方は、すぐお気づきになられると思うが、映画のヨーゼフ2世は肖像画にそっくりにメーキャップをほどこされていた。

映画の中で描かれたヨーゼフ2世は先進的な考えに理解を示そうとする利口ぶった尊大な人物だったが、実際のヨーゼフ2世も啓蒙主義的な試みをつまみ食い的に行った専制君主だったそうである。



それはさておき、ウィーンはモーツァルトならではの都である。世界中でその名を知らない人がいないオーストリア人の筆頭がモーツァルトなのだ。モーツァルトの音楽の背景にはハプスブルク朝の宮廷文化があった。モーツアルトの後、ウィーンはクリムトに代表される19世紀末の世紀末芸術で名をあげた。モーツアルトに代表される芸術と、ハプスブルクに代表される歴史、この2つがオーストリアの観光資源である。

フォアマンの映画『アマデウス』のロケはプラハで行われた。ロケが行われた当時、チェコスロヴァキアは共産主義国であり、プラハからアメリカへ脱出し、アメリカ国籍をえたフォアマンのプラハ・ロケに最初は難色をしめした。

フォアマンはロケのためにウィーンとザルツブルクとブダペストを考えたそうだ。だが、ウィーンの絢爛たる建物群にはモーツアルトの時代よりも遅れて建てられたものが多く、ザルツブルクの風景はピカピカで現代の匂いが強すぎ、ブダペストの建物の様式はごちゃまぜであり、モーツァルト時代の雰囲気が一番色濃く残っているのがプラハであと、フォアマンは考えた。

映画関係者のつながりでプラハでの撮影が許された。チェコスロヴァキア当局には映画撮影で入ってくる外貨が魅力的だった。プラハでの撮影には公安関係者がつきまとい、宿舎も監視下に置かれたという。そうした不快・不便を我慢してまでプラハ・ロケを敢行したのは、プラハ出身のミロス・フォアマンのノスタルジーの強さもあったのであろう。

ウィーンの人にしてみれば、トンビに油揚げをさらわれたような気分だ。だが、プラハの人には、モーツァルトはウィーンでは大勢の音楽家の一人だが、プラハ人にとっては、モーツアルトは別格の音楽家であると、「我らのモーツアルト」気分はウィーンよりプラハの方が濃いという気持ちが強い。



シュテファン寺院にお参りしてから、近くのモーツァルト・ハウスを見に行く。モーツァルト・ハウスの標識がある建物までたどりつたが、入口が見つからない。思案していたらお巡りさんらしい人が通りがかったので、モーツァルト・ハウスの入り口をたずねた。



お巡りさんが指先で、ぐるっと回れ、という風に半円を描くしぐさをして、近くの細い道を指差した。その通り歩いてゆくとそこに入口があった。





11 ウィーン市庁舎

地下鉄2号線をショッテントアー駅で降りた。



精神分析のフロイトを記念する公園に隣接してヴォティーフ教会が建っている。その姿はシュテファン寺院とよく似ているのだが、ヴォティーフ教会は19世紀後半の建物で、シュテファン寺院の方が700年ほど古い。

教会のすぐ近くにウィーン大学の本部がある。ここから南に向かうと、ウィーン市庁舎、国会議事堂、ブルク劇場と壮麗な建物が続いている。ウィーンの中心部を囲むリングシュトラッセの西北側のこの部分はドクター・リューガー・リングと呼ばれている。



ウィーン大学本部の建物は少々くすんで見えるが、入口から中に入るとホテルか大企業のホールのように立派だ。2005年ごろに大改装が施されたという。中庭にはウィーンの大学らしくカフェがつくられている。

ウィーン大学に代表されるオーストリアの大学では、長らく授業料の徴収は行われていなかったが、ごく最近から授業料を課すようになったと聞いた。それでも日本の国立大学授業料の10分の1程度だ。ウィーン大学の授業料が安いのではなく、日本の大学の授業料が国際的には異常に高いのである。



ウィーン大学の隣がラートハウスことウィーン市庁舎だ。この建物は19世紀後半に建てられた。ゴシック建築の教会のような尖塔がついている。少々古びて(正面は改装工事中)はいるが、堂々たる貫禄である。



市庁舎に入り中庭から眺めた建物のファサードが印象的である。役所というよりも少々古びた老舗の豪華ホテルといった感じなのである。



市庁舎の正面は広い広場になっていて、リングシュトラッセをはさんで向かい側にブルク劇場がたっている。ヨーロッパではフランスのコメディー・フランセーズにつぐ歴史のある劇場だ。



ウィーン市庁舎の隣が国会議事堂である。ギリシャの賢人や哲人の像が建物のあちこちにあしらわれていて、ギリシャの国会議事堂かと思うほどだが、ヨーロッパの民主主義はギリシャの民主主義の血を引いているという思い入れなのであろう。





12 リーゼンラート


ハリー・ライムがホリー・マーティンスに言う。

――戦争、テロ、殺人、流血といったボルジア家支配下のイタリアは、ミケランジェロ、ダビンチ、ルネサンスを生んだ。友愛と500年のデモクラシーと平和の下で、スイスは何を生み出したと思う? ……鳩時計だよ。



グレアム・グリーンが脚本を書き、キャロル・リードが監督し、オーソン・ウェルズが主役ハリー・ライムを演じ、アントン・カラスガがテーマ曲を奏でた映画『第三の男』の忘れがたいセリフだ。

プラター遊園地はもともとハプスブルク家が狩猟に使っていた森だった。200年ちょっと前にヨーゼフ2世が一般に開放した。やがてその森に集まる市民を目当てに、屋台の物売りが集まってきた。それが遊園地の始まりだった、とガイドブックはいう。



100年以上前の19世紀末にこのプラター遊園地に大観覧車がつくられた。高さ約65メートル。世界最大の観覧車だったときもある。だが、やがて後発組に追い抜かれた。現在、世界最大の観覧車はシンガポールにあって、高さ約160メートル。

2次世界大戦でウィーンも連合軍の空爆を受けたが、かろうじてこの大観覧車は生き残った。米英仏ソは戦後、ベルリンと同じようにウィーンも共同占領した。『第三の男』は第2次大戦終了直後の、まだ戦争の傷跡が生々しく残っていたころのウィーンを舞台にした映画だった。

『第三の男』がつくられて60年余りののち、筆者は初めてプラター遊園地に行き、大観覧車リーゼンラートに乗った。ウィーンの大観覧車に乗った時は薄暮のころで、食堂車用に改装されたゴンドラでディナーを楽しんでいる人たちもいた。



ところで、冒頭の鳩時計だが、英語ではcuckoo clock という。日本の鳩時計も鳩ではなくカッコウの鳴き声のものが多くある。そんなことはさておき、この有名なハリーのせりふは、もともとはグレアム・グリーンの脚本になかった。

ハリーを演じた異才オーソン・ウェルズがつけ加えたものだ。グレアム・グリーンは映画が配給されたのち、脚本のもとになったアイディア草稿を小説スタイルにして出版した。その小説版『第三の男』の前書きで、映画とこの小説ではさまざまな点で異同があるとことわっている。

さらに、グレアム・グリーンは、映画で有名になったスイスのカッコウ時計に関わるセリフは、オーソン・ウェルズ氏自らが脚本に書き加えたものだ、と書いている。

このウェルズのアドリブは、のちに、いささかの歴史的事実の誤認を指摘されるようになる。

スイスはルネサンス時代にはヨーロッパでも名だたる軍事強国だった、と歴史家は言った。ヴァチカンの衛兵が16世紀初頭からスイスから来た傭兵だったのはこのためだ。鳩時計ことカッコウ時計はスイスの発明ではなく、ドイツ南西部のシュヴァルツヴァルト地方で考案されたものだった。スイスの時計商がウェルズに手紙を送った。

そんな重箱のすみをつつくようなことを言わないでくれ、という人も多いことだろう。誤認のままでいいのだ。でないと、せっかくのハリー・ライムのセリフと映画の余韻がぶち壊しになってしまうではないか、と。



ゴンドラが65メートルの高みに達した時、地上はすでに暮れて明かりの海になっていた。

         (写真と文: 花崎泰雄)