1 ともあれウィーンにたどり着いた

EUに難民・移住者が押し寄せてくる事態は今に始まったことではない。2014年には60万人を超える人々がEU諸国に難民としての受け入れを申請し、20万人弱が認められた。

EUを目指す難民・移住者――メディアは難民と移住者の両方の言葉を使っているが、ここでは煩雑さを省くため難民としておこう――の存在が、世界のメディアの関心を一挙に引くことになったのは、次の2つの痛ましい事件があったからだ。

ひとつは8月下旬、オーストリアの自動車道路に放置された保冷車の中から71人の難民の遺体が見つかったこと。いま一つは、9月初旬にトルコの海岸に難民の子どもの遺体が漂着したこと。

今回の中欧の旅ではプラハ‐ドレスデン‐ベルリン‐ワルシャワ‐クラクフ‐アウシュヴィッツ‐ウィーンを回ってきた。新聞もテレビも――難民とそれに対応するためのEU各国の対応を克明に報じていた。といっても、理解できる外国語は英語だけなので、情報源はBBCCNN、ニューヨーク・タイムズ紙の国際版などに限られ、地元のメディアの報道には接していない。情報量は日本で日本語の新聞を読み、日本のテレビを見ているのと五十歩百歩といったところだった。

それでも、やはり地の利というか、難民に対応しなければならないEUの緊張は、たとえば地元紙の写真からうかがえた。2014年をはるかに上回るスピードで難民がEUに押し寄せてくるからだ。

列車でプラハからドレスデンに着いたとき、ドレスデンの市民が難民の受け入れを支持する街頭デモをしていた。ベルリンではテレビが子どもの漂着死体の痛ましい映像を繰り返し報じていた。そうして、旅の最終目的地であるウィーンの西駅(Westbahnhof)に、ハンガリーのブダペストから、難民が続々到着していることも報じられた。

西駅近くの宿を予約していたので、5日間のウィーン滞在中、朝夕足しげく西駅へ難民の様子を見に行った。

これからしばらくの間、その時撮った写真をお見せしようと思う。



2 難民歓迎

内戦から逃れてきたシリア人を中心にした難民が一気にウィーンの西駅に現れたのは831日のことだった。この日ブダペストなどハンガリーから、列車6本で難民がウィーンに到着した。このニュースを私はベルリンのホテルで見た。

ウィーン西駅にはウィーン市民の有志が集まり難民をあたたかく迎えた。オーストリア政府当局はウィーン西駅に到着した難民に対して、オーストリアで難民申請の手続きをしたいかどうか、希望を聞いた。大半の人々はドイツまで旅を続け、ドイツで手続きをしたいと答えた。難民はウィーンからザルツブルクまで列車で移動、そこからさらにドイツのミュンヘンまで旅を続けた。



一方、ハンガリーは難民の入国を阻止するためにセルビアとの国境の管理を厳重にし、密入国を阻止するために国境に有刺鉄線を張った。また、ハンガリーは法律を改正して、難民の不法入国阻止のため状況次第で警察官に武器使用を認めることにした。BBCはハンガリーの元首相が、難民のために自宅を開放すると語ったインタビューを流した。

当初はこうしたハンガリー政府の強硬手段に批判的だったEU諸国でも、やがて一時的にであれ、国境管理を強化に転じる国がではじめた。私は日本からの飛行機が到着したウィーンの空港で入国手続きをすませ、あとは自由にチェコ、ドイツ、ポーランドへ移動した。これらの国が域内での国境管理を廃止したシェンゲン協定に加盟しているからだ。難民はこの協定を利用してドイツに向い、そこで難民申請をしようとしている。難民排除するために国境管理を強化すれば、シェンゲン協定が危機にさらされる。

ドイツのメルケル首相は2015年には80万人の難民を受け入れる、と語った。だが、一方で、ミュンヘンには何万もの移民が到着して、受け入れ施設がパンク状態になった。そこで、ドイツ政府は、一時的ながら難民のミュンヘン流入をストップする措置をとった。

そのことで、ドイツに向えなくなった難民がザルツブルクにあふれ、ザルツブルクの施設では難民の仮眠用ベッドが満杯になった。そこでこんどは、ウィーン西駅からザルツブルクに向う難民の流れも制限されることになった。

最終的にはオーストリアも、ハンガリーオーストリア間の鉄道の運行を凍結する措置をとった。

私がベルリンからポーランドを回ってウィーンにたどりつた910日ごろ、状況は難民にとって厳しくなり始めていた。私が宿泊したウィーン西駅近くのホテルの従業員は、難民受け入れで、ウィーン市民の方も落ち着かない気分になっている、と語った。

  

それでも、ウィーン市民は難民に対して優しかった。西駅前の駐車場に救急車45台を常時待機させた。駅構内に救急診療所を設けた。駅のトイレが難民で混み合うと、プラットフォーム横に移動トイレット車を運び込んだ。

難民の空腹をいやすため、食事、果物、飲料水をふんだんに提供した。通訳をプラットフォームやコンコースに待機させた。また、コンコースには難民の子どもたちの心の安らぎを目的に、子ども広場を設けた。ボランティアの女性たちが子どもたちと一緒に遊んだ。カトリックの社会活動団体・カリタスの人々が募金箱を持って駅構内に立ち、旅行者に協力を要請した。

  

ヤミの手配師に大金を払って出国し、EU域内にたどりつくことができた人々だから、それなりにお金は用意して来たのだろう。だが、難民の中にはウィーンまでの長い旅路のうちにお金が底をつき、駅構内でもじもじとなれない物乞いをする人も出始めていた。



3 シリア発ドイツ行き

ウィーンの西駅にたどりつたシリア難民は、長い旅路の最終段階にいる。長旅の疲れと、目的地ドイツのすぐ手前まで来たという安堵感をにじませている。



ヨーロッパに向かう難民の移動ルートは難民を送り出す破綻国家によって変わる。その移動ルートはいくつかあり、主要ルートは時々の政治状況を反映している。

北アフリカからヨーロッパを目指す難民は、地中海の西側をスペインに向かうルート、地中海中央部をイタリアに渡るルートをとる。とくに、リビアからの難民は地中海中央部を船でイタリアを目指した。途中、ヤミの手配師が用意したボロ船が難破して多くの人が死んだ。惨事は日本でも大きく報道された。統計によるとこのルートでは2014年、死者が3000人に迫った。

いま焦点になっているのは、地中海東部のルートである。難民はトルコに来て、そこから船でギリシャの島々に渡り、あるいは陸路をたどってヨーロッパへ向かう。焦点のルートが移動したのは、破綻国家シリアを捨てる人々がいっきに増えたからだ。

シリア人を中心にした難民の移動の幹線がハンガリーからオーストリア経由ドイツ行きのルートだった。シリア難民はまずトルコ領内に入り、そこから陸路あるいは海路でギリシャに渡る。ギリシャからセルビアを経由して、ハンガリー経由オーストリアを目指した。

ハンガリーになだれ込む難民の急増に対して、ハンガリーはセルビアとの国境に有刺鉄線を張り、軍隊を国境に派遣し、場合によっては発砲を認めた。さらには警察が不法入国した難民をかくまっていると疑ったばあい、ハンガリー市民の住居を捜索できるように法改正をした。こうした強硬措置は、EU加盟国の多くから批判されたが、ハンガリー政府はEUの門番役を務めている主張している。

ハンガリーがセルビアとの国境を閉ざすと、難民はセルビアからクロアチアに向かった。クロアチアはセルビアと結ぶ幹線道路の国境管理を厳重にした。スロバキアとオーストリアはハンガリーとの国境で、難民の多くが最終目的地にしているドイツもオーストリアとチェコの国境で、それぞれ国境管理を始めた。

協定国の域内を自由に通行できるシェンゲン協定の精神がひび割れはじめたのだ。

EU9月下旬にはいって、EU各国に難民受け入れの割り当てを決めた。EUの会議は全会一致が通例だが、この割り当て案は多数決で決めた。ハンガリー、チェコ、スロバキアが反対に回った。

EUの一体感に亀裂が走った。

西ヨーロッパに比べて、かつて社会主義圏にあった中欧の国の経済力は、多くの移民を受け入れるほどの力がない、というのが理由である。だが、それだけではない。イスラム教を信仰する人々に対する不信の念も底流にある。

ソ連崩壊に先だってハンガリーは東ドイツ市民の脱出のために領域通過を許した。1989年に西ドイツに脱出しようとする東ドイツ市民が、休暇の名目でハンガリーに大挙してなだれこんだ。その数は6万人にも達した。ハンガリー政府は東ドイツ政府の抗議の声に耳を貸そうとせず、東ドイツ市民の一時滞在を認め、さらにはハンガリー国境を越えてオーストリアに入り、西ドイツに向かうことを止めようとはしなかった。

いまハンガリーに入ってくるのは、キリスト教の風土で育ったヨーロッパ人ではなく、イスラムの風土で育った中東人である。ハンガリーは過去、といっても今では遠い昔の話だが、イスラム教を信じるオスマントルコの支配下にあったことがある。

ヨーロッパに流入するシリア人は難民なのか。それとも暮らしの向上を目的とした不法な経済移民なのか。そのての議論が浮上している。



4 受け入れる国、締め出す国



シリアの人口は約2200万。その5分の1にあたる400万人以上が、内戦が始まった2011年からこれまでに、シリアを捨て、難民になって国外に脱出した。

いま、ドイツを中心にヨーロッパの国々に逃げ込んでくる難民はそのごく一部で、大半のシリア難民はシリアの隣国であるトルコ、レバノン、ヨルダン、イラク、エジプトなどに避難している。

その中で最も大勢のシリア難民を抱えているのがトルコで、その数200万人近い。次がレバノンで、100万人を超えている。

これらシリアの隣国は、もう何年も前から、押し寄せ、膨れ上がる大量の難民を抱えてきている。トルコなどは難民のための出費がかさんで、資金が底をついている。トルコに逃げ込んできた難民も、収容キャンプで悲惨な暮らしを強いられてきた。トルコや国連は国際社会に支援を求め続けてきた。だが、舞台がトルコであるかぎり、シリア難民問題は国際的なメディアにとって核心的報道対象の枠外にあった。

今回、押し寄せる難民の大波でEUが危機的状況になって初めて、トルコの難民問題にも目が向けられるようになった。

EU首脳会議は難民支援をしているUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)やトルコ、レバノンなどに、資金援助をすることを決めた。

要するに、シリア難民の流出をシリアの隣国にとどめ、ヨーロッパまで流れ来ないようにするための資金援助である。

シリア難民はトルコ、レバノン、ヨルダン、イラク、エジプト、リビアに流れ込むが、湾岸のサウジアラビアやアラブ首長国連邦には向かわない。湾岸諸国が難民の流入を拒否しているからだ。

たとえばアラブ首長国連邦の経済的な中心的であるドバイは、人口200万強だが、その80パーセントがドバイの国籍を持たない外国からの出稼ぎ人口である。4割がインド人、2割弱がエジプトなど他のアラブ人、1割強がパキスタン人である。

これらの出稼ぎ外国人は家族を伴ってドバイに来ることを許されていない。ドバイで職を失えば、本国に強制送還される。ドバイ国籍を持つ2割の人々は、豊かな石油収入に群がるように集まってくる外国人労働者の働きによって、安逸な生活をしている。したがって、幸運な2割の既得権益を侵すような、国民の増加に拒否反応をしめす。

こうした湾岸諸国のシリア難民拒否の態度は、国際的な批判の的になっている。湾岸諸国は難民支援のために十分な資金提供をしてきた、と反論する。

東アジでは、日本、韓国、シンガポールが難民受け入れを渋っている、とアムネスティ・インターナショナルが指摘した。いずれも裕福なアジアの東アジアの国である。

シリアのアサド大統領は、シリア難民は反政府勢力支配地域から脱出する人々であり、反政府勢力を一掃しない限り難民問題は解決しない、と強弁する。人権問題を重く見る欧米がアサド政権に攻撃をしかけるのではないかと、アサド大統領はロシアのプーチン大統領に助けを求める。中東でアメリカに対抗するための戦略として、ロシアはシリアのアサド政権を抱え込む。こうした構図が続く限り、シリアから難民は流出し続ける。

間もなく日本に対しても、シリア難民受け入れの国際的な圧力がかかることになろう。これを察知した日本政府はこのほどシリア難民の若者を留学生として日本で受け入れる検討を始めた。

だが、新聞によると、受入数はいまのところ数十人程度という。焼け石に水というか、ていのいいイクスキューズである。新聞報道によると昨年5000人が日本で難民申請をした。そのうち難民と認定されたのは11人にすぎなかった。日本も難民受け入れによって、いまの同族国家の居心地の良さを失いたくないのである。



5 鉄路

ウィーンに来る前はポーランドのクラクフにいた。いまは博物館として保存されているアウシュヴィッツ・ビルケナウのユダヤ人強制収容所・最終処理場の跡を見るためだった。

アウシュヴィッツに行くなら心の準備が必要だ、とよく言われる。かつてユダヤ人が強制収容されていた建物内に展示されている、収容されたユダヤ人の持物――カバン、メガネ、義足・義手、ブラシ、さらに毛髪などの遺品、ガス室の跡、遺体を焼いた焼却炉など、ホロコーストの衝撃的証拠物件を見た。それらにまして、忘れられない光景は、アウシュヴィッツに隣接するビルケナウの収容所跡で見た、ユダヤ人をヨーロッパ各地から最終処理場に運んで来た鉄路の跡だった。なぜかこの鉄路の残像がウィーン西駅の鉄路と重なって仕方がなかった。



ユダヤ人はナチによるホロコーストよっても絶滅せず、逆に、ホロコーストを道義的な梃子につかって、イスラエルの建国に成功した。

ユダヤ人がイスラエルを建国したのが1948年。シオニズムというユダヤ・ナショナリズムが、アラブ・ナショナリズムの地に割って入ってきた。そのとき、70万人のパレスチナ人が難民になった。2000年に渡るディアスポラで、ナチスの時代の難民であるユダヤ人が、彼らのナショナリズムを完成させた時に、新たな次の難民が生まれたのは、歴史のアイロニーである。

以来、かぞえ方にもよるが、パレスチナ難民は500万人に増えたという意見もある。アラブの海に浮かぶ人口800万の孤島・イスラエルはハリネズミのようになって自己防衛をするしかない。その一つがヨルダン川西岸の分離壁だ。壁でパレスチナ人から身を守ろうとしているのだが、自らの手でアラブの地に豊かなゲットーをつくっただけ、という皮肉な見方もできる。

ユダヤ人が多く住んでいたワルシャワには、『戦場のピアニスト』で有名になったユダヤ人ゲットーがあった。ワルシャワに新しく作られたポーランド・ユダヤ人歴史博物館には、イスラエルから大勢の高校生が修学旅行でやって来ていた。その高校生の一行に耳にイヤホンをつけた保安要員が付き添っている。博物館では入り口でセキュリティー・チェックを受けなければならなかった。かつてブダペストで名高いシナゴーグ行ったときも同様のセキュリティー・チェックを受けた。イスラエルに関連する施設は四六時中破壊工作に対する備えを迫られる。

現在のシリア難民問題をめぐって、イスラエル国内でもシリア難民を受け入れて周辺国との融和を促進させようとの意見が野党から出されている。だが、ネタニヤフ政権は難民流入阻止のため国境警備をさらに強化している。「イスラエルは人道上の悲劇に無関心なわけではないが……イスラエルは小さな国なので、地理的・人口的に余裕がない」というのが、その理由である。

似たようなロジックは日本の安倍首相によっても用いられた。今国連総会の最大のテーマは難民問題である、と彼は発言しながらも、日本は難民受け入れよりも先に、女性や高齢者の問題などやるべきことがある、と記者会見で語った。

難民問題は国連や周辺国、ヨーロッパでは大問題だが、イスラエルの政治責任者にとっては国家安全保障上の問題であり、日本の政治責任者にとっては対岸の火事にすぎないのである。

                 <終わり>

(写真と文: 花崎泰雄)