1 クスコへ

ペルーの大統領選挙(20217月)で、ペドロ・カスティジョ氏がケイコ・フジモリ氏を破って当選したと新聞が伝えていた。ペドロ・カスティジョ氏は小学校教員で、急進派の組合活動家だ。ケイコ・フジモリ氏は、かつての大統領アルベルト・フジモリ氏の娘である。

ペルーに滞在したことのある東京オリンピック関係者が2021720日羽田空港に到着し、PCR検査を受けたら陽性で、ペルーなどで広がっていた新型コロナウイルスのラムダ株が検出された。ラムダ株は日本では初めての検出である。政府の関係機関はラムダ株の検出を公にせず、オリンピックが終わってから明らかにした。隠ぺいではないかと世間は騒いでいる。

日本国の首相はワクチン接種を急速に進めたと誇らしげに言うが、たいていの国で接種は進んでいる。接種をどんどん進めよ、と日本の政府は重ねて言うが、接種を担当する地方自治体はワクチンが底をついている、ワクチンをよこせと政府に詰め寄る。新型コロナ感染者は原則入院治療だったはずだが、病床がひっ迫し、軽症の感染者を中心に在宅療養を原則にすると突然政府が言い出す。病床を増やすよりも、入院を制限することで病床に空きを作ろうとする無慈悲な発言だ。家にこもれ、お盆の帰省をやめてくれ、県境を越えるなと行政が音頭をとって大合唱する。日本の医療はこの程度のレベルだったことを知って暗然とする人が多いだろう。国会は閉じられている。政府は憲法にもとづく議員からの臨時国会開催要求に応えようとしない。日本の政治レベルはもともとこんなものと世界に知れている。8月に入って日本列島は長期にわたる大雨に見舞われている。旧約聖書のノアの箱舟のころの豪雨や、新約聖書のヨハネ黙示録の不気味な筆致を思い起こさせる――などと愚痴を肴に酒を飲んでいる人も少なくないだろう。

そういうわけで、今回のシリーズでは今から30年ほどまえのペルー・アンデス山歩きのさい撮影した思い出の写真を並べてみようと思う。

ペルーへ行ったのは、アルベルト・フジモリ氏――ペルーではフヒモリと発音されていたが、ここでは日本でおなじみのフジモリと表記しておく――が大統領に就任して間もなくのころだったから、1990年か1991年の事だろうと思う。冒険旅行の企画が好きなカナダの知り合いからペルー・アンデスを散歩し、ついでに歩いてマチュピチュへ行く旅に参加しないか、と誘いがあった。

この話をアメリカの知人に電話で話したところ、その知人は米国務省に問い合わせてくれた。センデロ・ルミノソの動きが活発なのでペルーの山岳地帯は危ないからよした方がいいと国務省は言っている、とその知人からアドバイスがあった。「左翼ゲリラが潜んでいるペルー・アンデスの高原にテントを張るのと、ニューヨークのセントラル・パークで一夜を明かすのでは、どっちが危険だろうか?」と私が冗談を言うと知人はハッハッハと笑い、「途上国を見たいのであれば合衆国へいらっしゃい。いまやそこら中に途上国の雰囲気が漂っているから」と言った。

成田からサンフランシスコ、マイアミ経由でリマに飛んだ。マイアミ―リマは当時ではもう珍しくなっていたボーイング707に乗った。リマの空港ではアンデス・トレッキングの手配をしてくれた旅行社の係員がクスコ行きの国内線乗り換えの案内をしてくれた。旅行のグループが集まって床に荷物を置き、搭乗時刻を待っている間に、グループの誰かの荷物を持っていこうとする男が現れた。旅行社の人が男を追い払い、ついでにこんなことを言った。

「クスコまでのフライトでサンドイッチが出るけど、食べない方が安全だよ」

ちょっとヤバイところに来てしまったな、と一瞬怖じ気づいた。



クスコは海抜3400メートル。運が悪いと酸欠で高山病の症状が出る。ホテルにチェックインしたあと、歩いてクスコの中心部の広場に行った。

広場には小銃を持った治安警察、もしかしたら対ゲリラ要員の兵士、が立っていた。その姿には緊迫感はなかったが、運が悪いと災難に遭遇するかもしれないと、思ったとたん、あたまがクラっとした。

おっ、酸欠か。



2 石積み

深夜、息苦しさを覚えた。鼻と口で同時に大量の空気を吸い込んで、その呼吸の激しさで目を覚ました。ベッドサイドにおいていた水を飲み、呼吸を整えた。クスコは海抜3400メートル。酸欠だ。ここの空気は海岸の首都リマにくらべてどのくらい薄くなっているのだろうか。とりとめもないことを考えているうちに、クスコまでの空の長旅の疲れもあってか、すやすやと寝てしまった。

この旅の目的はアンデス山中をてくてく歩いてマチュピチュへ行くことだ。マチュピチュまで元気に歩くにはまず高度に順応する必要がある。途中4600メートルの雪の峠越えがある。というわけで、クスコ到着からマチュピチュへ出発するまでの数日間にクスコ近郊の遺跡や集落を尋ねるピクニックを繰り返して薄い空気になれる予定になっていた。



まず第1日。ペルーの旅行社から派遣されたガイドに引率されて、午前中はクスコ市内の散歩。石を敷き詰めたゆるい傾斜の舗道の両側に地中海沿岸でよく見かける白壁の住宅が並ぶ地域があり、見下ろすとごみごみとした途上国ふうの住宅密集地があった。また、街の中心部の古い家屋は土台に使った石組みがそのまま残っていた。インカの人々はスペイン人がやってくるまで鉄器を使っていなかった。金属器は銅、青銅だった。石工たちは鉄器を使わないで石を切り出し、石を割り、削って、一分の隙間も残さない石組みを残したのである。



午後は石積み工事の精密さを見るために、クスコの北側の丘の上に残っているサクサワマンの遺跡へ行った。インカの王が神殿を造り内部に宝物を収納したといわれている場所である。王は支配する地域から2万人の人を集め、石を切り出し、削って石組みを行わえた。シエサ・デ・レオン『インカ帝国史』(岩波・大航海時代叢書)によると、クスコにやってきたスペイン人たちはこの構造物を「城砦」と呼んだ。



石組みは堅牢で、どんな大砲を使っても壊せないだろう、と『インカ帝国史』は書き残している。道具というほどのものを持ちあわせていなかったインカ人が、どうやってこれだけの巨石を積み上げたのか、と不思議に思ったそうである。積み上げた巨石と巨石の間に、薄い硬貨さえ差し込めないほど精緻な技術で石が積み上げられていたからである。





3 青空市

次の日はウルバンバ渓谷へハイキングに出かけた。

ガイドがマイクロバスを用意してくれた。ホテル前から乗り込み、四方を山に囲まれたクスコ市街を抜けて山道を登る。北方のウルバンバ渓谷へ向かう道路の最初の景勝地であるチンチェロを目指した。海抜3000メートルを超えるアンデスの台地に道路が1本だけくねくねと走っている。季節は8月、雨の少ない時期なので草は枯れ、近景、中景は褐色の中に静まり、遠景に雪をかぶったアンデスの高峰が連なっている。いま見てものびやかで心がほぐれる風景である。

チンチェロは、海抜3400メートルのクスコから400メートルほど高度をかせいだ3800メートの地点にある集落だ。

「今日は日曜日なので、チンチェロの青空市場に寄ってみましょう」とガイドが言った。



青空市は適宜開かれているそうだが、日曜の市には近隣の集落から人が集まり大いににぎわうという。古くはケチュア語を話す農民だけの物々交換の市だったが、最近では外国からの観光客が増えたので、観光客目当てのアンデスのお土産類を売る人も出始めていた。売っているものは、トウモロコシ、ジャガイモ、野菜類、衣類などなど。晴れ晴れしいのは日本の最高峰・富士山よりもっと高いところにある青空市であることだけだ。

 

街に出ると、レストランなどの近くで民族衣装の女性たちがアンデスの織物の制作実演をしていた。実演で観光客に足を止めさせ、出来上がっている織物を売りさばくためのパフォーマンスである。アンデスの織物はペルーではチンチェロが有名だ。農村の女性たちの家内手工業を活発にして現金収入の道を開き、やがてはペルーの織物生産へとつないでゆく試みらしかった。だが、その後の専門家の調査研究では、ケチュアの女性の織物パフォーマンスはあいにく、そのいずれともうまくつながらなかったそうである。

泉靖一が『インカ帝国』(岩波新書)に書いている。インカ帝国の農民は朝から畑仕事をし、さらに女性は家族のために食事を用意し、食事の際は男の後ろに座り、控えめに食べた。手すきの時間には女性は家族ための衣服を織った。さらに、夜になるとトウモロコシをゆで、それを噛んで容器に吐き出し、発酵させてトウモロコシ酒・チチャをつくった。ビールよりもアルコール度の低いこのチチャは今ではウルバンバ渓谷の名物になっている。インカ帝国の農民たちは、朝が来ると前日の夕食の残りをチチャで胃に流し込んで畑に出た。そういう単調な日常を繰り返したすえ一生を終えた。江戸時代の農民も似たような暮らしをしていただろうし、現代の勤め人も似たようなものだろう。

チンチェロからウルバンバ渓谷へと道を下る。2021年現在、いまペルー政府はこのあたりに新しい空港を建設しようとしている。チンチェロ・クスコ新国際空港建設計画。現在のクスコ空港は手狭なので大型機の発着が困難である。マチュピチュは海外からの観光客のお目当てだが、あいにくと交通の便が悪い。まず、首都リマまで来て、国内線に乗り換えてクスコに行き、クスコから列車に乗り換えてマチュピチュへ向かう。新しい大きな国際空港がチンチェロにできたら、海外からの観光客はクスコに戻ることなく、マチュピチュ方向へ進み、ウルバンバ渓谷のオリャンタイタンボから鉄道でマチュピチュに行くことができる。



この新空港のアイディアは1970年代に生まれたものだ。長らくの間アイディアは棚上げされていた。2021年現在、建設は韓国のヒュンダイ・グループが中心となった合弁企業が担当して始まったところだ。

マチュピチュには年間200万近い観光客が訪れている。ユネスコが示している年間観光客数の受け入れ上限の2倍を超える数字である。新しい空港は年間500万人の旅客を受け入れることができる。新空港はペルーの国庫に大きな収入をもたらし、ペルー・アンデスの観光振興やクスコ周辺の経済を刺激するだろう。とはいえ、観光客がこれ以上増えると、マチュピチュの遺跡が荒廃するだろう。厳しい入場制限を行わないと、マチュピチュが絶滅危惧の世界遺産になったりする。さらにインカ時代の聖なる渓谷・ウルバンバに生態学的、考古学的、現在の住人に社会的ダメージを与える可能性がある。愚劣な開発計画であるとして、ここ数年、新空港建設計画をめぐって、建設反対派が声をあげ続けてきた。



4 塩田

チンチェロの集落からウルバンバ渓谷のウルバンバ川へと下って行く。山道の途中に、マラスの塩田があった。



写真でお分かりいただけるかと思うが、アンデスの山の斜面に棚田状の塩田を開き、そこに塩分を含んだ地下水を流し込み、天日で水分を蒸発させて塩の結晶を得る仕掛けである。

数億年前海底であった地盤が隆起して、海抜3000メートル級の山脈を形作った。長い時間をかけて出来上がった地中の岩塩を、今度は地下水が溶かし、塩水が地表に流れ出てくる。



斜面の上の塩水の流れから塩田に水を引き込む。水は数日で蒸発し、薄い塩の膜が残る。それを塩田の仕切り部分に積み上げて、再び塩水を流し込む。こうした作業を繰り返し、一区画の塩田から年に平均100キロほどの塩をとる。

棚田状の塩田は斜面に何千も小さな水たまりとなって広がり、伝統的な権利を引き継いできた何百もの家族が塩田を利用して製塩業をしている。会社組織のようなものはなく、インカ帝国の時代と同じこの地の家族的製塩業の集合体なのだそうだ。



塩の袋を背に積んだロバを連れた人とすれ違った。



5 聖なる谷

スペインがインカ帝国に侵入したとき、兵卒として参加したシエサ・デ・レオンが『インカ帝国地誌』(岩波文庫)に、彼が16世紀のペルーで見聞したインカの塩について書き残している――ペルーには美しい塩田があちこちにあり、そこで良質な塩が生産されている。イタリアやフランスなどに輸出できるほどの量が造られている。

マラスの塩田を見下ろす山道をのんびりとくだり、ウルバンバ渓谷に向かう。渓谷を流れるウルバンバ川の源はアンデス山中にある。マチュピチュに近いオリャンタイタンボの集落からウルバンバの集落を流れ、ユカイ、ピサックへ向かう。このあたりの谷筋をインカの聖なる渓谷と呼びならわしている。



ウルバンバ川はところによっては早瀬があり、そこをゴムボートでくだる急流下り(ラフティング)が楽しめる。私たちのグループもラフティングを楽しんだ。流れは速く、流れの中に大きな岩がある。船頭はその岩を巧みに避け、私たちを引率するガイドが、「それ右の人たちは櫂を漕いで」「今度は左の人たちが思い切り漕いで」と号令をかける。パドルを持たされたわれわれは必死で川の水をかく。ゴム―ボートがつり橋の下を通ったとき、橋の上から私たちのボートをカメラにおさめた男性に「ユア・ラースト・フォト」と大声で冷やかされてしまった。

流れが緩やかになったところでボートを降りた。聖なる渓谷ウルバンバにはオリャンタイタンボという集落があり、インカ時代の砦の跡が残っている。集落の背後の岩山に石を削り取って作った石段が残され、周囲の山肌にはインカの神殿があった。それらは16世紀のスペイン人との戦闘でインカの人々がこの地を放棄した後、年を経て風化し崩れてしまった。



ウルバンバ川にそって広がる聖なる渓谷の海抜は、クスコより600メートルほど低く、2800メートルほど。海抜と谷筋という地形のせいだろうか、気候はクスコより温暖だ。クスコを根拠地にしているインカ帝国の皇帝たちは、次々にこの聖なる渓谷に進出し、王宮や砦を築いた。また、ウルバンバ川の水量は豊かで、アンデスの斜面をくだってウルバンバ川に流れこむ小河川も多い。灌漑に適した土地だった。聖なる渓谷ではトウモロコシがよく育ち、クスコにとっての穀倉地帯だった。



さてその日の夜は、ウルバンバの隣の集落であるユカイのホテルに泊まった。夕食をすませ、近くの広場まで散歩に行った。見上げるアンデスの夜空は星で一杯だった。子どものころ見た戦後間もなくの日本の夜空の星を思い出した。戦争と敗戦で多くのものが消え去った貧しい日本だったが、夜空だけは豪華だった。

何年か前にギリシアへ旅したが、ギリシア人のガイドが「ギリシアの海はきれいです。沿岸に工業地帯が少ないですから」と教えてくれた。何もかもというわけにはいかないのである。得るものがあれば、代わりに失うものがでてくる。



6 聖なる谷の下流にて

ユカイの星空を見上げ、短いけれど豪華絢爛の宵を過ごした。そのあとは、これといってやることもない大いなる田園地帯なので、ホテルに帰って早めに寝た。おかげで翌朝は早く目覚め、ユカイの東側のアンデスの峰から登る朝日を見に行った。

ウルバンバ川はマチュピチュの峰を取り巻くように流れ、谷川はやがてオリヤンタイタンボへ向かう。オリヤンタイタンボが聖なる谷の上流で、渓谷はアンデスの山々を縫うようにして、ウルバンバ、ユカイといった古くからの集落を経て、クスコの東側の峰の向こうにあるピサックという町まで続く。谷筋の道路は自動車で走ることができる。この日は、ユカイをたって、ピサックに向かい、タンボマチャイという遺跡を経て、山一つ越えてクスコに帰る。交通信号機のないアンデスの幹線道路である。

インカの時代から聖なる谷はクスコ住まいのインカの有力者にとって、あこがれの保養地だった。シエサ・デ・レオンの『インカ帝国地誌』(岩波文庫)によると、ユカイはインカの時代に首都クスコに住んでいた王族や有力者にとって、ゆったりとくつろげる憧れの土地であったそうだ。何人かのインカの支配者が兵を率いてクスコから聖なる谷に下り、気に入った場所を平定して離宮のようなものを建てた。16世紀にクスコをインカから奪い、クスコを占拠したスペイン人たちも聖なる谷が気に入った。いっそ、都をクスコからユカイに移そうではないかという話まで出るほどだった。しかし、遷都は現在の東京を持ち出すまでもなく、厄介な作業である。有力者たちの邸宅一つをとっても、クスコ並みの規模の家を造るだけの土地がない、ことなどユカイ遷都は話題だけに終わった。

ウルバンバ川上流のオリヤンタイタンボの岩山に挟まれた部分に、インカ帝国はもっとも堅固な砦を気づいて聖なる谷を守ろうとした(『インカ帝国地誌』)。似たような精巧な作りの都市遺跡が聖なる谷の最下流にあたるピサックに残っている。



山の斜面に建物群の遺構があった。



近くによってみるとなかなかに精巧な石組みである。



ピサックの町の広場に戻ると、建物の屋根に古びた大統領選挙のポスターが残っていた。その顔は、アルベルト・フジモリに敗北したマリオ・バルガス・リョサだった。『百年の孤独』を書いたガルシア・マルケスと並ぶラテン・アメリカの大作家である。ペルー大統領選挙でバルガス・リョサをくだしたフジモリ大統領は1990年から2000年まで大統領をつとめた。やがて、軍部と結び強権的な政治姿勢が批判されるようになり、2000年に大統領を退任した。同じ年にバルガス・リョサはノーベル文学賞を受賞した。アルベルト・フジモリはいまペルー国内で服役中。バルガス・リョサは先の大統領選で、ケイコ・フジモリを応援した。



ピサックからクスコに帰る山越えの道の途中にある、タンボマチャイの遺構を見学した。王族の沐浴場だったと言われている。

(写真と文: 花崎泰雄)