1 早稲田

これから都電荒川線の沿線風景を眺めに行く。絶滅危惧種に指定されている都内唯一の路面電車だ。

発車するときに、あるいは発車と同時に、また発車直後に、チンチンとベルを鳴らすいわゆるチンチン電車だ。オーストリアのウィーンや、オーストラリアのメルボルンは路面電車網が充実した都市で、私の古い記憶に間違いがなければ、かの都市の路面電車も発車のさいチンチンとベルを鳴らした。

都電荒川線は早稲田と三ノ輪の間を1時間弱で走る。均一料金で1乗車160円。このたびは早稲田の乗り場から三ノ輪に向かうことにした。



急ぎの用があるわけではないので、電車に乗る前に、ちょっと早稲田大学の大隈庭園によってみた。旧大隈重信邸の庭園だったところである。

大隈庭園は1万坪の広さがあるそうで、江戸時代には彦根藩や高松藩の下屋敷があったところである。佐賀藩出身の一介の藩士・大隈重信が明治維新に加担し、やがて明治新政府の役人になり、政治家・教育者になる過程で、この土地を買って邸宅を建てた。権力の移動に伴って、富もまた移動するのだ。



それはさておき、新学期が始まったばかりなので、さすがに学生さんは教室におとなしくおさまっているらしい。ウィークデーの午前中は庭園に人影はまばらだった。

庭園は大隈講堂と早稲田大学から土地を借りて営業しているリーガロイヤルホテル東京に挟まれている。リーガロイヤルホテルにとっては、大隈庭園は絶好の借景になっている。庭園にはフジの花やツツジが咲き、ホテルから直接庭園に出入りすることができる。



大隈庭園から都電荒川線の乗り場に向かう途中に「角帽」の看板があった。かの有名な菱餅型の帽子屋さんである。角帽をかぶる学生はすでに絶滅した――私は以前、十年ほど間、東京近郊の某国立大学で教えたことがあったが、角帽をかぶった学生をキャンパスで見たことはなかった――と思っていた。ところがどっこい大隈重信発案の角帽を扱う帽子屋さんは生き残っていたんであるんである。



さすが、角帽の早稲田である。




2 面影橋・山吹の里

それでは、チンチン電車に乗って三ノ輪橋へ向かおう。



最初の停車場である面影橋でおりる。面影橋とはちょっとおもわせぶりな名前だが、神田川も、そこにかかる面影橋もご覧の通りのコンクリート造りだ。



このあたりは春のお花見スポットだそうだが、今年は桜の開花がめっぽう早く、神田川の川っぷちは若葉でいっぱいだった。フレッシュな感じで悪くない。



さて、面影橋を渡るとオリジン電気という会社があって、その門の脇に「山吹の里」の碑が建っていた。

太田道灌が鷹狩に出てにわか雨に会い、農家の娘に蓑を乞うたところ、娘は無言で山吹の小枝を差し出した、という例の伝承の舞台がこの地であった――と主張する碑である。



娘が差し出した山吹の小枝には、

 七重八重花は咲けども山吹のみのひとつだになきぞかなししき

という歌が背後にある。この歌は後拾遺和歌集におさめられた兼明親王の作で「小倉の家に住み侍りける頃、雨の降りける日蓑かる人の侍りければ、山吹の枝を折てとらせて侍りけり。心も得でまかり過ぎて又の日、山吹の心もえざりしよしいひおこせて侍りける返事にいひ遣はしける」と詞書がある。

歌の形はもともと、

 七重八重花は咲けども山吹のみのひとつだになきぞあやしき

であるが、江戸時代になって湯浅常山の『常山紀談』の「太田持資(道灌)歌道に志す事」などによって、道灌物語とともに「なきぞかなしき」の形になってに広まった。のちには「山吹のはながみばかり金いれにみのひとつだになきぞかなしき」(四方赤良)など、狂歌のタネ歌にもなった。そういうわけで、道灌ゆかりの山吹の里は、ここ以外にも、荒川区町屋、横浜市金沢区六浦、裂いて魔県越生町などに点在する。

では、道灌の山吹物語は、後世の創作かといえば、そうとも言い切れない言い伝えも残っている。道灌に山吹の枝を差し出した少女は名前を「紅皿」といい、やがて、道灌の屋敷に招かれて和歌の友になった。道灌が暗殺されたのちは髪を下ろして尼になった。紅皿の墓と言い伝えられている塚が新宿6丁目の大聖院に残っている。



その名も「山吹坂」――実際は短い石段にすぎない――を上ると大聖院がある。その境内――今では駐車場になっている――の一角に紅皿の塚があった。




3 学習院下

モスクワへ飛ぼうと、空港に現れたその男をテレビがアップで映し出した。男はつば広の黒い帽子をやや斜めにかぶっていた。映画『ボルサリーノ』でアラン・ドロンがかぶっていた帽子に似ていた。だとすると、イタリアの名品ボルサリーノかもしれない。

帽子の下には苦虫をかみつぶしたようなヘの字の口があった。黒のロングコートを着ていた。その襟元はふわふわした毛で飾られていた。首には薄いコバルト色の長いマフラーをかけていた。2月中旬のことだった。

それから1週間ほどたった225日、黒いボルサリーノ、黒いコート、薄コバルト色のマフラーの男はソウルにいた。パク・クネ大統領の就任式の来賓席に座っていた。

男の名前は麻生太郎。日本国の副総理・財務大臣で、215日から17日にかけてモスクワで開かれたG20に財務大臣として参加した。同月25日には特使として韓国新大統領の就任式に出かけた。

「ギャング・スタイル」と海外紙にからかわれたそうだが、麻生太郎は政治家にしておくには惜しいキャラクターの持ち主だ。吉田茂の孫などに生まれていなければ、その個性を生かして、ボードビリアンとしてTVで活躍し、お茶の間の人気者になれただろう。不気味なキャラクターだった故ハマコーでさえテレビの常連になって「ハマコー、ケッコー可愛い」などと言われたものだ。ハマコーの目つきは恐かったが、タローの目は意外に柔和だ。

そのうえ、愛嬌者でもある。首相をやっていた2008年には参院本会議で、侵略戦争と植民地支配を謝罪した村山富市首相談話を『ふしゅう』する、と答弁した。漢字の『踏襲』を読み誤って「ふしゅう」と発音した。

またおなじころ、中日青少年友好交流年の式典で「頻繁な交流」を「はんざつな交流」と読み間違えた。



都電荒川線、面影橋停車場の次の停車場は「学習院下」である。麻生首相(当時)が「はんざつな交流」と誤読した式典の会場は、彼の出身校・学習院大学だった。停車場から歩くとちょっと距離があるのだが、キャンパスをのぞいてみることにした。

若葉につつまれたキャンパスは若者でいっぱいだった。麻生の「はんざつな交流」を聞いて赤面したり、うつむいたりしたはずの学生たちはすでにみんな卒業している。いまキャンパスにいる学生にとっては、麻生はボルサリーノをかぶった稚気あふれる先輩だ。



大学正門近くに古い木造の建物があった。学習院大学の史料館だ。かつては図書館だった。『ゴルゴ13』の文庫版の帯に「これほど国際情勢に通じた作品があるだろうか。俺は知らない」という麻生のコメントが写真付きで載ったことがあるほど、麻生は日本のサブカルチャー・マンガにのめり込んだ。さしずめ、ハイカルチャーを詰めこんだアカデミックな大学図書館は、学生・麻生太郎にとっては異質の別世界だったことだろう。



4鬼子母神前

都電荒川線の停車場の名前は「鬼子母神前」だが、「きしもじん堂」の「鬼」は、お堂の額でおわかりのように「ツノ」のない「オニ」である。もちろん、これは創作漢字で漢和辞典を引いても出てこない。



赤ん坊を食い殺す鬼がお釈迦さんのさとしで改心し、子育ての神様になったのが鬼子母神だが、ここの鬼子母神は子育てに特化するためにツノをとった。

おそれ入谷の鬼子母神とならぶ雑司ケ谷の鬼子母神だが、人影はちらほら。



がらーんとした境内の左右に、茶店風お菓子屋さんと、駄菓子屋さんがあるが、客の気配はない。駄菓子さんには創業1781年の看板がかかっていた。2世紀以上もの間、大きくもならず小さくなくもならず、ただただ古びていったような趣がある。



境内にはお稲荷さんと、イチョウの古木があった。イチョウの木のそばには「公孫樹、樹齢600年」と恭しく看板が立てられ、紙垂が注連縄というよりはロープのようなものからひらひらとぶらさがっていた。

人口問題研究所の見立てでは、2004年の出生率、死亡率がそのまま続き、国際人口移動がないという仮定で推計すると、日本の人口は今から100年もしない2100年に約4,100万人、2500年には79,000人、3000年に29人になって、3300年には0人になるそうだ。



さあ、どうする――と言われても、鬼子母神は子育ての神様で、子宝の担当ではない。



5 都電雑司ヶ谷

早稲田、面影橋、学習院下、鬼子母神前と都電荒川線は進み、次の停車場は都電雑司ヶ谷である。



停車場を出て踏切をわたると、そこに雑司ヶ谷霊園の入り口がある。



あすこには私の友達の墓があるんです」――夏目漱石の『こころ』に雑司ヶ谷墓地がでてくる。友人関係にある若い男二人が、美しいお嬢さんをめぐって競い、一人がぬけがけして女性を妻にし、もう一人の若者は失意のあまり自殺する。女性の愛を獲得した方の若者は,友人を死にやったのは自分であるという罪悪観につきまとわれることになり、ついには自殺を決意する。

いまから1世紀ほど前の新聞連載小説なので、テーマはさておき話の筋立ては古風だ。今の若者がこんなつくりの小説を好んで読むかどうか。



さて、その雑司ケ谷の霊園に、作者の夏目漱石その人が眠っている。それは雑司ヶ谷霊園の中でも目立って大きな墓石である。墓石の背後に、漱石こと夏目金之助、妻・夏目キヨ(別名鏡子)、夭逝した五女ひな子の名前が刻んである。

雑司ヶ谷霊園をぶらぶら歩きまわっていると、尾崎放哉に「こんな大きな石塔の下で死んでゐる」と言われそうな著名人の墓がいくつかあった。



ジョン万次郎こと中濱萬次郎の墓。日本で初めて医師の国家資格を取った荻野吟子の墓。鹿鳴館に出も出かけるような明治の洋装の女性の石像がある。羽仁もと子の墓もそれなりに大きかった。羽仁もと子の娘と結婚した羽仁五郎の墓が、そのかたわらにこじんまりとおさまっていた。



なおも墓石の間の小道を歩き続けると、安部磯雄の墓があった。日本のキリスト教社会主義運動の草分けだが、むしろ早稲田大学野球の初代部長・学生野球の推進者として知られている。



尾崎放哉ではないが、死んでなお自己主張を続けているような墓石よりも、もはや目立たず沈黙を決め込んいる墓石の方が、どこか親近感を感じさせてくれる。



6 東池袋4丁目

都電荒川線の東池袋4丁目乗り場の近くには、見物したくなるようなものがない。少し歩けば護国寺と、商業施設・サンシャインシティがある。鬼子母神、雑司ヶ谷霊園と、抹香くさいものを見て来たので、パッとにぎやかなサンシャインシティをのぞきに行った。



サンシャインシティの目印である超高層ビル・サンシャイン60に向かって歩く。1978年に完成したこのビルは、いまなおすっきりとした美しい立ち姿をしている。

サンシャインシティの中のフロアーでは、大勢の若者が集まっている。何をしているのだろうか? 催しにむれる群衆の写真を撮っていつと、ダークスーツの若者が近寄ってきた。



「写真をとらないでください」
「おや、このビルの中は撮影禁止でしたか。それは失礼しました」
「いえ、そうではないんです。アーティストが来ているものですから」
と、手に持っている『写真をとらないでください」と書いた札を示す。
「どの人がアーティストですか」
「あの、後ろ向きの握手をしている人です」

アーティストというのは、頭のてっぺんから足の先まで換金商品だから、代価なしに写真に写りたくはないだろう。しかし、サンシャインシティのフロアーに集まった群衆の写真をとろうとしている人に、そこにアーティストが来ているので、群衆の写真を撮るのをひかえとくれと、写真撮影を止めるのは、肖像権を守るための正当な行為だろうか、それとも過剰な行為だろうか?

ところで、サンシャインシティは巣鴨拘置所の跡地に建てられている。リヒャルト・ゾルゲと尾崎秀美の処刑がここで行われた。日本の敗戦後は巣鴨拘置所に戦犯を入れたので、スガモ・プリズンともよばれた。死刑判決を受けた戦犯の処刑もここで行われている。

サンシャイン60ビルのすぐ隣が豊島区立東池袋中央公園になっていて、公園の片隅に碑がつくられている。



碑の表には「永久平和を願って」と文字が刻まれている。碑の裏に回ると「極東国際軍事裁判所が課した刑及び他の連合国戦争犯罪法廷が課した一部の刑がこの地で執行された」と刻まれている。



          *

2013312日の衆院予算委員会で、以下の問答があった。

 大熊利昭委員 戦後直後の昭和二十年十一月に、当時の幣原内閣によりまして、戦争調査会というのが正式な日本政府の内閣の機関として設置をされたわけでございます。日本は当時、GHQの施政下でございますので、GHQの意向というのが強く働き、結局、大蔵省の予算措置がとられそうになったものの、GHQの解散命令を受けて解散、こういうことで、残念ながら、活動は余りできなかった。ただ、分科会を幾つかつくって、相当の当時の元軍人さんだとか哲学者だとか経済学者だとか政治家だとかを集めて、議論の緒についたというふうには、国会図書館の調査局の資料で確認をさせていただいているところでございます。
 
次の時代に進むのであれば、前の時代をきっちりと検証し、総括をするということが私は大事なんじゃないかなと思っておりまして、今般の原発事故におきましても、国の、政府あるいは国会の事故調査委員会ということでやっていらっしゃるように、時間は六十数年たっておりますが、そうした検証、総括を政府としてやっていく必要はどうなんだろうか、これも問題提起でございますが、総理、いかがでございましょうか。
 安倍晋三内閣総理大臣 今委員が御指摘になった戦争調査会については、国立国会図書館の調査局が作成したレポートによれば、昭和二十年十一月に幣原内閣において設置をされて、翌年三月末から約五カ月間にわたって実質的な活動を行っていたが、しかし、対日理事会によってその存在について否定的な意見が出されたことを受けて、九月末に廃止をされた、こういうことでございます。そのため、報告書が作成、公表される段階には至らず、内定した調査方針と調査項目も一般には公表されなかったということであります。
 さきの大戦においての総括というのは、日本人自身の手によることではなくて、東京裁判という、いわば連合国側が勝者の判断によってその断罪がなされたということなんだろう、このように思うわけであります。
 あのときに、ではなぜ対日理事会がこの研究をやめさせようとしたかといえば、今委員が御指摘になったように、軍人等々も含まれているということに対しての懸念を持ったということと、大体、方針としては二つあって、考え方が二つあって、一つは、戦争遂行の上において、どうして負けてしまったのかという、いわば作戦、戦略、戦術等についての分析をするというアプローチと、もう一点は、ではなぜ開戦に至ったのかということにおいて、それはとめることができたのではないかという考え方。
 後者の方に力点が置かれていたわけでございますが、同時に、そこに力点が置かれる中において、中でいろいろな議論があったというふうに承知をしております。いわば、敗戦ということから、ではなぜ戦争が始まってしまったのかという議論をするのはおかしいではないかというのは内部でも議論があったわけでありますが、国際情勢の中での開戦に至る過程ということにおいて、いわば、恐らく連合国に対してある種都合の悪い考え方についても議論がなされるのではないかということにおいて、そうした議論を封殺されたということではなかったのかな、こんなように思うところでございます。
 いずれにせよ、こうした歴史に対する評価等については、専門家や歴史家にまさに任せるべき問題ではないかというのが私の考えであります。

           

同年513日の読売新聞朝刊
 自民党の高市政調会長は12日のNHK番組で、「過去の植民地支配と侵略」を謝罪した1995年の村山首相談話について、「(談話の中には)『国策を誤り』とあるが、当時、資源封鎖された中で全く抵抗せずに植民地となる道を選ぶのがベストだったのか。当時の国際状況の中で何が正しかったのかを自信を持って主張できる政治家など今の日本にはいない。これはちょっとおかしい」と疑問を呈した。
 番組終了後、高市氏は福井市内で記者団に「当時は日本の生存が危うく、自存自衛が国家意思だと思い、多くの人が戦争に行った。私自身は『侵略』という文言を入れている村山談話にしっくりきていない」とも語った。
 村山談話を巡っては、菅官房長官が10日に「歴代内閣と同じように全体を引き継ぐ」と表明している。

514日の東京新聞朝刊。
 自民党の高市早苗政調会長が過去の植民地支配と侵略を謝罪した村山富市首相談話を「しっくりこない」などと疑問視したことに対し、十三日、政府・与党幹部から批判や苦言が相次いだ。
  菅義偉官房長官は記者会見で「個人の見解だと思う。政府の見解は、私が明確に述べており、それに尽きる」と指摘。高市氏に電話し、政府見解を説明したことを明らかにした。
  高市氏が極東軍事裁判(東京裁判)の結果の受け入れを含めた歴史認識について「国家観、歴史観については、安倍首相自身(歴代内閣と)違った点もあるかと思う」と述べたことに対しても、菅氏は「あり得ない」と批判。「政府として正式に(裁判結果を)受け入れている。首相もきちんとした形で受け入れている」と反論した。
  自民党の高村正彦副総裁は党役員会で、歴史認識をめぐり「誤解を受けることがないよう、慎重に発言しないといけない」と指摘。石破茂幹事長も「よく注意をして発言してほしい。政府与党一体なので、個人的見解を語るべきではない」と注意を促した。

           

東京裁判もニュルンベルク裁判も戦勝国が敗戦国の指導者の戦争責任を問うた特異な裁判である。検察官、裁判官などの法廷の構成、根拠となる法、事実認定などについて当初から疑問が出されていた。

しかしながら、日本国は1951年にサンフランシスコ平和(講和)条約11条で「極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾」してしまっている。



したがって、東京裁判の結果受諾の上に、現在の日本国政府の対外関係が成り立っている。政府としていまさらこれを蹴とばすわけにはいかない。だからと言って、戦勝国の手で裁かれたという記憶はいかにも悔しい。このディレンマの中で、“愛国者”たちの言葉は千々に乱れるのである。

だからといって、日本での国内消費用にむけて、戦前・戦中・戦後史を再評価したところで、つまるところ、日本人の優柔不断に行き着いて歯がゆい思いをするだけにおわるだろう。太平洋戦争で日本人だけで200万人以上が死んだ。この死に責任があるのは誰か。昭和天皇を頂点とする支配層上層部の戦争責任に行きつき、にっちもさっちもゆかなくなる。だから歴代の日本の政治指導者はこの問題と正面から向き合わないできた。

東京裁判の結果を受け入れることで戦争責任のみそぎとし、一方で勝者の手による裁判で、日本人が自ら裁けば違った結果になったかもしれないという、できもしない幻想を有権者に抱かせることで政治的な浮揚力を得られる――政治家にそう思わせるような空気がいま日本社会に漂っているのであろう。

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7 大塚駅前

東池袋4丁目から向原を過ぎ大塚駅前停車場についた。

都電荒川線は大塚で山手線大塚駅と交差する。JR大塚駅は改装工事中だ。大きなビルを建ててそれを中心に一帯を再開発するそうだ。

電車を降りて喫茶店でコーヒーを飲みながら、雨模様の駅前広場をぼんやり眺めていた。横断歩道を渡るため信号待ちをしている人の前を、路面電車が通り過ぎた。



撮った写真をモニターで見ているうちに、ふとウィーンのリンクシュトラーセ沿いのカフェから路面電車を眺めているような錯覚に襲われた。ウィーンではいくつかの路面電車を乗りかえながら、リンクシュトラーセを一巡して街並みを楽しんだ覚えがある。



とはいえ、喫茶店を出ると風景は雑然とした東京のそれにもどった。荒川線沿いの風景は東京の裏通りといった、それなりの雰囲気があるのだが、表通りに出るとどうもいけない。雑居ビル、広告、電柱、電線が入り乱れて風景を汚している。



なぜ日本の都会の風景はすっきり垢抜けることができないのだろうか。テレビニュースなどを見ていると、日本の会社や役所のオフィスは屑屋の仕切り場のように雑然としている。そうした乱雑さにかえって居心地の良さを覚えるような文化があるのかもしれない。



8 新庚申塚
安倍晋三首相は首相就任以来、公邸に引っ越さず、私邸から官邸へ通勤している。そこで、首相が公邸へ引っ越さない理由の一つは幽霊が出るからではないか、という質問主意書が出て、首相官邸・公邸の幽霊話がむし返されている。

昔から言われているように、おそらく幽霊は出るのであろう。あのあたりは魑魅魍魎が集まる一寸先は闇の、恐ろしい場所である。それに、幽霊が出るのは日本の首相公邸だけではない。アメリカ合衆国のホワイトハウスや、イギリス女王のバッキンガム宮殿も、全米、全英の幽霊の名所とされている。

日本の歴代首相やその家族が官邸や公邸で幽霊を見た、幽霊の足音を聞いたと語った――そういう話が週刊誌やテレビから流れてくる。首相官邸や公邸には、警視庁の警備担当者、政治家、その秘書、一般の職員など大勢の人が出入りし、昼夜働いている。 その割には、首相とその近親者以外からの幽霊目撃談が少ない点がいささか物足りない。

これから怪談がエンターテインメントになる季節だ。



都電荒川線の新庚申塚で下車して、四谷怪談のヒロインお岩さんのお墓がある西巣鴨4丁目の妙行寺へ向かう。線路沿いの、お岩通り商店会の標識がある道を歩いて行く。商店街はにぎやかとはいえないうえに、途中に何十年も風雨にさらされっぱなしといった感じの、ペンキが変色し剥げ落ちた大看板を掲げた古い商店があったりして、徐々にお岩さん詣での雰囲気が盛り上がってくる。

お岩さんの墓は墓石よりもむしろ墓の周りの木々の姿が印象的だ。日中はいいけれど、日が暮れてあたりが暗くなり、吹き始めた風が木の葉を鳴らすころになると、きっと怖いだろう。



さて、雑司ヶ谷霊園で夏目漱石の墓を見たので、ついでに芥川龍之介の墓へも行こうと、巣鴨5丁目の慈眼寺へ歩く。芥川の墓にたどり着くと、墓参の人が墓の前にうずくまっていた。私の気配に気づいてその人は立ち上がり、顔を伏せるようにして無言で去っていった。黒い服を着た女性だった。



見ると芥川龍之介の墓にはお供え物が残されていた。芥川が吸っていた煙草・ゴールデンバットの包みと、包みのうえに錠剤がのっていた。手に取ってはみなかったけれど、あれはきっと芥川愛用の睡眠薬だったのだろう。

慈眼寺と隣り合わせの駒込5丁目に広い染井霊園がある。ここには岡倉天心、二葉亭四迷などの墓がある。岡倉天心の墓の写真を載せておこう。





9 新庚申塚おまけ

染井霊園の中を適当に歩き青果市場横の道路を抜けると広い道路とぶつかった。この道路を横断して、なお直進すると、とげぬき地蔵の高岩寺にたどり着く。とげぬき地蔵は都電荒川線新庚申塚の守備範囲ではないが、おまけとして立ち寄ることにした。



とげぬき地蔵の高岩寺の洗い観音は相変わらずの人気で、境内に順番待ちの列がとぐろを巻いている。本尊の延命地蔵は秘仏につき非公開。その秘仏のレプリカのような地蔵が境内に立っているが、だれも見向きもしない。もっぱら洗い観音のあちこちをきそって洗っている。洗いすぎたので先代の観音さまは擦り減ってしまい、いまあるのは後継観音。



お寺を出て、にぎやかな商店街を歩いた。商店街の入り口に真性寺という寺があり、江戸六地蔵の一つだという大きな地蔵がある。とげぬき地蔵ほどには人が集まらない。



商店街の入り口あたりにチンドン屋がいた。なるほど、とげぬき地蔵にはチンドン屋がよく似合う。



10 王子駅前



新庚申塚を出て、西ヶ原4丁目、滝野川1丁目、飛鳥山を通って、都電荒川線は王子駅前に出る。JR京浜東北線の王子駅がある。にぎやかな駅前だ。



駅裏――といってはなんだが、やはり駅裏なんだろう――に小さな丘があり、おもちゃのような登山電車が営業している。日曜日だったから行列ができている。歩いて登った方がよほど早い。飛鳥山公園だ。春は桜の名所だ。今の時期の日曜・祭日には子どもを連れた家族でにぎわっている。

王子といえば、明治のはじめ、渋沢栄一らがここで洋紙の製造を始めた。王子製紙の前身である。



渋沢栄一は晩年、王子に居を構えた。その建物の一部が王子公園の一角に残っている。書庫兼応接室として使われた青淵文庫と茶室・
晩香廬である。

青淵文庫は洋館で、ファサードの一部はデザインにそれなりの工夫があり、室内も古めかしい落ち着きがあるが、意外に質素な作りである。



茶室・晩香廬も、使われている建材は贅を尽くしたものだそうだが、造りは面白味がない。

明治維新後の日本資本主義発達期に、その中心にいた人物の建物としてはまことに質素である。

飛鳥山を下って、王子稲荷に行く。落語「王子の狐」の舞台である。奥の崖のようなところにその狐の穴があった。





11 荒川車庫前・荒川遊園地前

都電荒川線はお年寄りの姿が目立つ路線だが、このあたりまで来ると、子どもをつれた若い夫婦の姿が目立ってくる。

荒川車庫前の停車場は荒川線の電車基地前にある。引き込み線の傍らの広場に古い電車を2両並べて展示している。電車の運転席に座ったりできるので、子どもに人気の場所だ。



次の駅が荒川遊園地前。停車場から少々歩くと遊園地がある。これもまた子どもの好きなところ。



遊園地に向かう途中、大人の向けの幟がたてられていた。都電ウイスキー。そのようなウイスキーが売られていることを初めて知った。





12 熊野前・舎人ライナー

都電荒川線・熊野前停車場で降りて、都営の新交通システム・舎人ライナーに乗りかえてみる。開業してまだ5年ほどである。正式な名は日暮里・舎人ライナーといい、日暮里と見沼代親水公園を結ぶ。



都電荒川線は路面をガタガタ走り、交差点では信号待ちをする。一方、全線が高架の舎人ライナーには当然信号待ちがない。車輪がゴム製なので静かにスーッと走り出す。チンチンとベルを鳴らす運転士はいない。新交通システムはたいてい無人運転なのだ。

この手の新交通システムを日本で最初に実用化させたのは神戸市である。神戸沖の埋め立て地ポートアイランドと三宮の間に走らせた。開業は1981年。そのころ私はポートアイランドの公団アパートに住んでいたので、新交通システムに乗って通勤した。

神戸の新交通システムには開業からしばらくの間、運転士が乗務していた。全コンピューター制御の電車なので、運転士は必要ないのだが、運転士がいなくても安全に走る電車であるという理解が広がるまで、乗務員を運転席に座らせた。御守り札のようなものである。運転士はただ座っているだけ。



舎人ライナーの終点は東京都と埼玉県の境の見沼代親水公園駅だ。この駅で新交通システムの高架がぷっつりと切れている。高架を見上げるとなんだか何かが落下してきそうな不安感をかもす風景だ。



終点の二つ前の駅が舎人公園だ。家族連れがピクニックに来る公園で、バーベキュー広場、キャンプ広場などがある。噴水の周りで子どもがはしゃいでいる。緑陰があって居眠りもできる。



池もあって釣りができる。日本には釣りの好きな人が多い。水たまりがあると、たいてい誰かが糸を垂れている。





13 終点・三ノ輪橋

都電荒川線はこのあと、町屋駅前を通って終点・三ノ輪橋にたどり着く。



電車に乗ってここを通ったのは、5月の下旬だった。線路に沿ってバラの花が咲いていた。荒川区の都電沿線美化運動に協力してボランティアが育ててきたバラだ。



町屋駅前周辺や三ノ輪橋でバラの花越に眺める路面電車はノスタルジックでいいものだ。



三ノ輪橋で電車を降りて、近くの商店街を散歩した。魚屋さん、肉屋さん、八百屋さん、総菜屋さん、蕎麦屋さん、雑貨屋さん……とお店が並ぶ、昔ながらの商店街である。これまたノスタルジックである。買いたくなるようなものはこれといってなかったけれど……。



                          (写真・文 花崎泰雄)