1 砂防ダムから上流へ

あいにくの雨の日だった。それに霧も立ち込めていた。

11月初め、足尾銅山公害の跡をめぐる12日のスタディー・ツアーに参加して、足尾に行ってきた。いわゆる古河財閥は、足尾銅山でひとやま当てた古河市兵衛という人が築き上げた。知っているのは、あと、バラで有名な東京の古河庭園くらいだ。

明治政府の富国強兵・殖産興業政策にのって、古河の足尾銅山は足尾の山の中に延べ千キロ以上の穴を掘り、銅鉱石を掘り出し、製錬した。その過程で、足尾銅山付近は大気汚染による山林被害、渡良瀬川下流域は水質汚染による農業被害に見舞われた。

内部経済の外部不経済――公害の原点と言われる足尾銅山と渡良瀬川の風景を見て回る遠足だ。

足尾砂防ダムの堰堤越しに霧にむせぶ山を眺める。足尾銅山の北側の山は煙害などが原因でひどいはげ山になり、保水能力が極度に劣化、台風が来るたびに洪水を起こして、問題になっていた。

2次大戦後になってやっと砂防ダムが完成した。ここは、かつて松木川とよばれていた渡良瀬川、仁田元川、久蔵川の3つの川の合流点だ。土砂を食い止めるのが砂防ダムの本来の仕事なので、堤防からは常時、水が流れ落ちている。



雨脚が強まってくる。これからダムの上流にある松木渓谷へ行く。「渓谷」などと言うと、行楽地のような感じがするが、実は、足尾銅山の煙害で人が住めなくなった地域で、足尾銅山が村人の土地を買い取り、鉱滓の捨て場にしてきたところである。



2 松木渓谷

足尾砂防ダムから上流に向かう。遠足バスで山道を進んでいくと間もなく、道路にバーが下されていた。許可を受けていない車両は進入禁止との看板が出ている。

かつて松木村の中心があった所までは、ここから数キロの距離がある。この道を遠足用のバスで進むためにはどうするか。事前にオーガナイザーが松木渓谷で植林活動をしている団体に連絡し、車両通行止めのバーのところまで迎えに来てもらう段取りにしていた。

開閉器を上げてもらい、その足で、植林が進められている斜面に登り、苗木を植える。

苗木を植えるための小さな穴を掘るのだが、斜面は小石と土が五分五分のような荒れ地で、数十センチの穴を掘るの石に邪魔されて、なかなか大変である。苗木を植え終わり、土をかぶせて、その上に水をたっぷりかけろと植樹を指導してくれた団体の人が言う。水をかける? こんな雨の日でも? 

松木渓谷に緑を取り戻すための植樹は、遠足バスで渓谷に入るためのプロトコールでもある。

バスでさらに上流に進み、バスが通れない狭く荒れた山道になったところで、旧松木村跡まで歩く。

途中案内板があって、こんなことが書かれていた。

江戸時代後期の記録では、松木村は戸数37、人口170人の、足尾でも大きな村の一つだった。明治になって足尾銅山が近代的鉱山として本格稼働したことで、松木村に危機が訪れた。燃料確保のために山林が伐採された。製錬所が排出する亜硫酸ガスによる煙害が広がった。農作物に被害がでた。蚕のえさの桑の木が枯れ死した。暮らしが立ちゆかなくなった村人は、当時の金4万円で示談に応じ、村を去った。

製錬所の燃料には木炭や薪が使われた。木炭は群馬県から買ったが、薪については主として松木地区の山を伐採して手に入れた。当時の記録によると、1881年に消費された薪は全部で3000棚だったが、4年後の1885年には22000棚に膨れ上がっていた(青木達也・永井護「足尾銅山松木地区の保存と活用」『足尾銅山跡調査報告書A』(日光市教育委員会、2010年))。

水谷奈美子「足尾銅山がもたらした煙害と現在の課題」『環境と貿易に関する報告書』(立命館大学、2001年)によると、足尾銅山に良質な鉱脈が発見された1881年(明治14年)から1893(明治26)までの13年間に、6760ヘクタールの周辺官有林が伐採された。煙害に追い打ちをかけたのが1887年の松木大火である。松木地区で恒例の野焼きをはじめたところ、強風にあおられて周辺に燃え広がり、山火事になった。火は谷筋を下って、製錬所や周辺の住宅地にまで広がった。この火事で森林1100ヘクタールが焼失した。同じ年の周辺官有林の伐採面積は1650ヘクタールだった。

こうしたことから、1893年の時点で、足尾の山林全体の77パーセント、民有林のほぼ100パーセントが樹木のないはげ山となった。

ちなみに、松木渓谷のあとで訪れた足尾町赤倉の龍蔵寺には、境内に旧松木村の無縁仏を合祀した「旧松木村の無縁石塔」があって、その説明板に以下の説明があった。

松木村の記録によれば、明治21年(1888)に桑の木が全滅した。22年には養蚕を廃止。20ヘクタールの畑の作物、大麦、小麦、大豆、小豆、ヒエ、キビ、大根、ニンジンが明治33年ころには無収穫になった。明治2240270人だった村は、明治33年に30174人に減った。34年には1戸を残して村人が去り、廃村となった。

時のながれによって、かつて栄えた村から人口が流出し、やがて過疎の村になり、ついには限界集落に移り、はてに無住の地区になる。だが、そのプロセスは、人間にたとえれば老衰による極楽往生ともいえる。旧松木村は無残にも、古河鉱業の煙害によって横死した。

龍蔵寺の旧松木村無縁石塔の説明板には、「1戸を残して村人が去り」と書かれていた。なぜ1戸が残ったのか。詳しい事情は古文書を探さなくてはわからない。だが、成田空港建設に反対して、立ち退きを拒否、農地にとどまった三里塚の人たちと同じような、憤怒をうかがわせる話である。

煙害はその後も続き、一体の山々を完全なはげ山にした。みるかげもなく丸裸になった足尾の山並みを「日本のグランド・キャニオン」などと呼んだ人たちがいた。これは米国のグランド・キャニオンの壮大な自然に対して失礼千万な話である。

足尾銅山の煙害が解決したのは、1956年に古河鉱業が自溶製錬法を採用して、排煙から硫酸を採るようになってからのことだった。

旧松木川左岸の村跡は古河鉱業が土地を買い上げ、鉱滓の捨て場にした。黒い斜面が広がっている。松木の山地を復元するために、まずヘリを使って草のタネをまいた。その草が生い茂り、植林も徐々に効果が出てきている。草むらに数本の石碑が建っていた。かつてここに村があった、その形見である。



松木川右岸は切り立った崖で、植林は進んでいない。草が少々生えているだけだ。

「日本のグランド・キャニオン」に、少しではあるが自然が少し戻ってきた気配がある。春夏秋冬、雨ばかりの‐雪も降るが−水っぽい国・日本ならではの回復である。



3 坑夫の墓

松木渓谷の松木村跡から引き返し、山を下って足尾砂防ダムを過ぎると、間もなく足尾町赤倉の龍蔵寺である。

龍蔵寺には無人になった松木村、久蔵村、仁田元村の無縁石塔がある。いずれの村も、足尾砂防ダムで合流する旧松木川、久蔵川、仁田元川の川沿いにあった。松木村の煙害による廃村については語り継がれているが、近隣の久蔵村、仁田元村については、足尾銅山公害史の中で話題になることがきわめて少ない。

さて、寺の墓地には、檀家の墓に交じって、足尾銅山で働いていた坑夫の墓もある。寺内の案内板によると、5年ほど前の調査で、足尾には135基の坑夫の墓が残っていることがわかった。墓が建てられた時期は明治20代から大正末期に渡る。案内板によると、もっと多くの墓がつくられたが、移設・埋没・倒壊・破損・無縁化してその多くが消えてしまった、という。

龍蔵寺はその気配から推して、現在は無住のように見えた。かつてこの寺の住職で郷土史家だった太田貞祐氏が『足尾銅山の社会史』(コーエン企画、1992年)に、龍蔵寺に葬られた坑夫の墓について記録している。



太田氏は同書で、自然石の正面に「明治二十九年四月十七日 小林鉄三郎之墓 福島県伊達郡半田村」、裏面に「子分 越中産 武田喜太郎 秋田産 島田光太郎」と彫られた墓を紹介している。親分である小林鉄三郎の墓を、子分の武田喜太郎と島田光太郎が建てたもので、龍蔵寺の過去帳によると、戒名は「慈岳貞了信士」、当年四十歳、土葬、と言うことであった。

また、墓地内に「渡坑夫共同供養」の碑も建てられている。

『足尾銅山の社会史』は「坑夫が死んでも墓を建ててくれる人がいない。そこで、子分や弟分が共同で親分や兄分の墓を建てたのである」と、墓の背後にある「友子制度」と「渡坑夫」にふれている。

「友子」は、鉱山で働く坑夫の相互救済と技能養成を目的とした疑似家族的な集団だった。興味深いのは友子の制度の範囲が一鉱山にとどまらず、全国の鉱山に広がっていたことであった。鉱山を渡り歩いて働くうちに、けがや病気で働けなくなった坑夫は、その後、全国の鉱山を巡り歩き、別の鉱山の友子組合から救済を受けることができた。かつて坑夫たちには家族を持たず全国の鉱山を渡り歩く「渡坑夫」が少なくなかったので、友子制度は彼らにとって頼りになる制度だった。

『足尾銅山の社会史』に、足尾銅山の友子組合加入のさいの式次第が書かれている。足尾では毎年715日に、友子加入の式が行われた。他の鉱山から招いた立会人のもとで、親分は羽織袴の正装、子分は足袋をはかず、着物の帯を締めることも、洋服のボタンをはめることも許されないまま、血に見立てた杯の酒を飲みかわした。新しく子分になった坑夫はその後3年ほどかけて親分から採鉱法や坑夫の気風をたたきこまれた。

龍蔵寺の友子の墓は明治20-30年代をピークに、明治40年以降はほとんどなくなった。代わって明治末から大正時代にかけては共同供養塔が建てられるようになった。このことから「坑夫飯場組合」のような大きな組織が、友子制度に代わって現れたことがわかるという(『足尾銅山の社会史』)。

そのきっかけが足尾銅山暴動(1907年、明治40年)だ。暴動鎮圧のために、高崎から軍隊が出動した。足尾暴動を口火に、この年、幌内炭鉱や別子銅山でも暴動が起きている。

足尾暴動の数年前から足尾銅山に労働運動のオーガナイザーが入り、友子同盟と組んで労働運動を始めていた。この運動のターゲットの一つが飯場を支配する飯場頭の中間搾取で、暴動の背後には、友子同盟と飯場制度の対立があった。

暴動の事件処理が進められる中、結果として足尾銅山での労働運動はとん挫、友子同盟は自主性を大きく失い、飯場制度と一体化し、それを補強するものになった(二村一夫『足尾暴動の私的分析』東京大学出版会、1988年)。

龍蔵寺の坑夫の墓から、荒々しくもみじめな明治期日本の途上国としての生の姿が見えてくる。坑夫の多くが若死にした。坑内での事故死、職業病である珪肺による病死。友子制度の恩恵の一つが、死んだら子分に墓を建ててもらえるという保証であったことに、言うべき言葉もない。



4 本山

龍蔵寺から松木川(渡良瀬川)をはさんだ対岸に、かつての古河鉱業(現・古河機械金属)の製錬所跡がある。1本だけ残っている高い煙突が見える。ここで掘り出した鉱石を溶かして粗銅を作り、それを日光の電気精銅所に運んで完成品にしていた。

採算の合う鉱脈を掘りつくし、足尾銅山は1973年に閉山。その後も輸入の銅鉱石を使って製錬所は操業を続けていた。だが、1989年には製錬所も操業を停止した。製錬所まで来ていた国鉄足尾線が民間に移り、貨物輸送が停止されたため、排煙から生じる硫酸を運び出す手立てがなくなったことなどが、製錬所操業停止の理由だった。

明治の殖産興業とそれに続く日清戦争、日露戦争、第1次世界大戦と、軍事大国化の波に乗って足尾銅山は大きくなった。銅山の繁栄のしたたり効果で、足尾の町は一時、栃木県で宇都宮に次ぐ第2番目に大きい人口を持ったこともある。銅山最盛期の1916年、足尾の人口は約38000人で、うち25000人ほどが鉱山で仕事をしていた。

明治に誕生した日本の財閥の多くが鉱山業で資本を蓄積して、銀行業などの金融、繊維などの軽工業、商事、海運と多角的な事業展開のための資金源とした、と一般に言われている。三井財閥は神岡鉱山や筑豊の炭鉱を所有し、三菱も筑豊に炭鉱、佐渡、生野、尾去沢に金属鉱山を持っていた。住友は別子銅山を持っていた。

明治期から多角経営に乗り出していた三井、三菱、住友は戦前の日本の大財閥に成長したが、古河は明治期には鉱山専業で、その後の経営多角化に失敗、二流の財閥にとどまった。その古河にあって、足尾の銅山だけが頼りになる宝の山だった(武田晴人「古河財閥史」『市民講座<足尾>講演記録集 なぜ、今、足尾か』下野新聞社、1983年)。

古河財閥の中心企業・古河鉱業にとって、足尾銅山は資本の根源だったが、では、銅山で働いた労働者にとっては、戦前の銅山はどのようなところだったのだろうか。



製錬所の崩れかかったような建物の前を通り過ぎて、かつて本山鉱とよばれていたあたりを目指して坂道を遠足バスで登って行く。山の斜面に、かつてあった鉱山住宅や浴場の跡がかろうじて残っている。やぶを分け入ると、浴場の湯ぶねのタイル跡が見えた。その坂道を少し上ると、本山鉱山神社の鳥居が残っていて、鳥居をくぐって頼りなげな上り坂が見えた。雨で足元が滑りやすいので本山鉱山神社までは登って行かなかった。神社は打ち捨てられて廃屋化していると聞いた。無残な光景である。

夏目漱石の作品に『坑夫』という、マイナーだが漱石にしては風変わりな作品がある。足尾で働いたことがあるという青年が、小説の材料に彼の体験談を買ってくれと、漱石を尋ねて来たことがきっかけで書かれた作品だ。1907年の足尾暴動の翌年の1908年からタイミングよく朝日新聞に連載された。作品にはただ銅山とあるだけだが、そこに描かれた生活風景は漱石が青年から聞いた足尾銅山の体験にもとづいている。漱石自身は足尾銅山に取材に出かけていない、と聞いている。『坑夫』の記述はこんな具合だ。

「鉄軌についてだんだん上って行くと、そこここに粗末な小さい家がたくさんある。これは坑夫の住んでる所だと聞いて、自分も今日から、こんな所で暮すのかと思ったが、それは間違であった。この小屋はどれも六畳と三畳二間で、みんな坑夫の住んでる所には違ないが、家族のあるものに限って貸してくれる規定であるから、自分のような一人ものは這入りたくたって這入れないんだった」

本山鉱の斜面の草に埋まった住宅跡には、かつてそのような長屋があったのだろう。また、飯場については、

「銅山にはね、一万人も這入っててね。それが掘子に、シチュウに、山市に、坑夫と、こう四つに分れてるんでさあ。掘子ってえな、一人前の坑夫に使えねえ奴がなるんで、まあ坑夫の下働きですね。シチュウは早く云うとシキの内の大工見たようなものかね。それから山市だが、こいつは、ただ石塊をこつこつ欠いてるだけで、おもに子供――さっきも一人来たでしょう。ああ云うのが当分坑夫の見習にやる仕事さね。まあざっと、こんなものですよ。それで坑夫となると請負仕事だから、間が好いと日に一円にも二円にも当る事もあるが、掘子は日当で年が年中三十五銭で辛抱しなければならない。しかもそのうち五分は親方が取っちまって、病気でもしようもんなら手当が半分だから十七銭五厘ですね。それで蒲団ふとんの損料が一枚三銭――寒いときは是非二枚要いるから、都合で六銭と、それに飯代が一日十四銭五厘、御菜は別ですよ」

と、ある。その飯場の飯だが、

「茶碗を口へつけた。そうして光沢のない飯を一口掻かき込んだ。すると笑い声よりも、坑夫よりも、空腹よりも、舌三寸の上だけへ魂が宿ったと思うくらいに変な味がした。飯とは無論受取れない。全く壁土である。この壁土が唾液に和けて、口いっぱいに広がった時の心持は云うに云われなかった……自分が南京米の味を知ったのは、生れてこれが始てである」

「南京米」というのは東南アジアからの安い輸入米のことである。「上米と称する内地米は鉱山職員(役員)だけ、坑夫は並米と称する輸入の南京米しか手に入れられなかった。熱帯から船便で輸送されるためにコメが変質して臭った。歴然とした身分差別があった」(二村一夫『足尾暴動の史的分析 鉱山労働者の社会史』東大出版会、1988年)。坑夫は鉱山の物資補給所からつけで日用品を手に入れていた。

そして病気。現代の栃木県のウェブサイト「銅とともに生きた足尾」の中の「坑夫の生活」の項に、「坑夫(だいく)6年、熔工夫(ふき)8年、かかあばかりが50年」という昔の足尾の歌が紹介され、「落盤や珪肺で20代の若者が数多く死亡している」と書かれている。



1923年(大正12年)2月、足尾の城崎座という劇場を借りて労働組合が首切り反対大会を開いたときの東京日日新聞の記事。

「阿部春次という人の妻女が起って『皆さん』と一口叫ぶと、広い前垂を顔に押し当てて声をあげて泣いた。背中の子供が泣く。懐の子供が火のつくように泣く。同女は『私は昨日倉庫品貸下所に米をもらいに行きましたところ、首になった者に通帳で米が渡せるかと言って土間に叩きつけられました。古河さんはこんなに薄情でしょうか』と言って居る間に、七才位の女の子が演壇にチョコチョコと上ってきて『皆さん』と一口言っては泣く、子供は言う。『私のお父さんは病気の所を首を切られたのです。これからお父さんと二人でどうしておまんまがたべられましょう。お父さんは病気で働けないのです』……子供の話に警視庁特派の榊原警部補を始め、一座の警官は皆顔をおおって居る」(蘇原松次郎「足尾銅山労組の軌跡――珪肺問題をめぐって」『市民講座<足尾>講演記録集 なぜ、今、足尾か』下野新聞社、1983年から孫引き)。

市民講座でこの記事を紹介・引用した、かつての足尾銅山労組委員長・全鉱連書記長の蘇原氏のコメントは、労働運動の活動家らしく次の通りである。

「鉱山労働者は資本家に酷使され、そして珪肺病で倒れ死んでいった」



5 掛水

本山から足尾の町に下る。旧足尾町掛水に古河掛水倶楽部という建物がある。かつて古河鉱業の迎賓館として使われた建物で、旧足尾町ではそれなりの美邸だった。その近くに鉱業所長役宅が残っている。板塀に囲まれた瓦葺の日本家屋がある。向かって左側には応接室のような建物がついている。門から玄関までは石畳だ。「所長役宅」とい古臭い表示あって、妙になまなましくかつての時代を感じさせる。「役宅」という物言いは、足尾に君臨していた古河代官屋敷のような錯覚を起させる。

その近くには従業員社宅群があった。その一部がまだ残っている。こちらの方は役宅と違ってこじんまりとした建物だ。現在、人が住んでいる家もあるが、大半は葎の宿で、玄関先は草ぼうぼうだ。足尾銅山は公害の痕跡だけを残して、いまやその開発型政治の記憶は歴史の中に消え去ろうとしている。


かつて、ある大学の入学式で、歴史を学ぶことは大切だ、司馬遼太郎の『坂の上の雲』を読んで歴史を学ぼう、というような訓辞を学長さんが新入生に垂れた、という笑い話がある。『坂の上の雲』は小説であって、歴史書ではない。『坂の上の雲』は累計で1千万部、いや2千万部以上も売れたという。そもそも、歴史の本がこの国で2千万部も売れるはずがない。

ある種の人たちは“明治国家”を輝ける記憶としてながめようとする性癖を持つ。現在はどうなっているのか知らないが、維新の会の発足当時、「維新」という言葉をまるで子どものようにはしゃいで使っていた人々がそうだ。そのうえ、組織名を “Restoration Party” と英文表記した。

大文字で始まるRestorationは王政復古のことだ。イギリスでクロムウェルの共和政治が倒れたのちの1660年にスチュアート家のチャールズ2世が王座に就いたこと、ナポレオン1世が倒されたフランスで1814年にブルボン家のルイ18世が即位したことが、ヨーロッパ史では2大事例とされている。

日本の『世界大百科事典』は明治維新も Restoration に加えている。はたしてMeiji Restoration は輝かしい現代日本の根源だったのだろうか。

明治維新による日本の王政復古後、万世一系の天皇の君臨をはじめとする「復古イデオロギー」や、「文明開化」や「富国強兵」などの近代化路線が入りみだれた。この混乱は日清戦争、日露戦争、第1次世界大戦、中国侵略、満州国樹立、日米開戦、敗戦、戦後日本の対米従属路線へとつながった。歴史に遅れて近隣諸国への拡張政策を始めた失策の源は、明治国家に始まったという、見方もまた可能である。

たとえば、西洋の学者が観察した明治以降の日本の一例を紹介すると、@17世紀以降の日本の村落では寡頭支配構造、内部の連帯、上級の権威との垂直の結びつき、などが継続してきた(明治期の日本は農業国家だった)A明治維新は中央権力と藩との間の旧式な封建闘争だったB天皇制は基本的に保守的な諸勢力の結節点になったC日本ではブルジョワ革命が生じなかっただけでなく、農民革命も生じなかったD日本政府は明治憲法を発布したが、それは投票権を資産家の手に確保した。約5000万の人口のうち、46万人ほどが選挙権を得たにすぎなかった(バリントン・ムーア『独裁と民主政治の社会的起源』(岩波現代選書、1986年)。これも1つの見方である。

バリントン・ムーアは、日本は上からの革命によって資本主義的かつ反動的な政治形態をとり、短期間の不安定なデモクラシーの時代を経てファシズムに至った、と戦前の日本を診断している。

この見立てには賛否両論があろうが、ムーアの次の観察に反論は難しいだろう。「実業家は公の政治を避け、効果的な私的政治を行った。政治腐敗はしばしば、実業と政治の要求を調停する技法として働いた」

山縣有朋と政商・山城屋和助による陸軍省資金の流用、井上薫よる政商・岡田平蔵への尾去沢鉱山払下げなど、明治政府はその出発から疑惑まみれだった。坂本藤良『日本疑獄史』(中央経済社、1984年)によると、徳川幕府征伐のために江戸に向かった官軍の資金は豪商・三井が用立てた。維新後、三井は官金為替御用達の特権を得た。三菱の岩崎は大久保、大隈と手を結び、明治6年の政変後、勢いに乗って三井を凌駕する。明治初期の政争の陰には新興資本の激しい競争があった。

そういうことで、中小とはいえ古河財閥の創始者古河市兵衛も、陸奥宗光の二男・潤吉を養子にもらって2代目の社長とし、3代目社長である市兵衛の実子・虎之助は西郷隆盛の甥の従徳の二男・従純を養子にしている。古河市兵衛昵懇の陸奥宗光は足尾鉱毒事件についての田中正造の質問書に、被害は事実だが原因は確定できない、とそっけない態度をとって、足尾銅山を守ろうとした。陸奥宗光配下の原敬は古河の副社長になった。足尾銅山暴動事件のときは内務大臣で、暴動鎮圧のために軍隊を派遣している。



6 簀子橋堆積場

杞憂は中国の古典『列子』に出てくるお話である。「杞國有人憂天地崩墜」、つまり杞の国に天地が崩れるのではないかと心配する人がいた。その人の心配はあまりにひどく、飯も食えず、夜も眠れないありさまだった。

ダモクレスの剣は古典ギリシャの伝承である。紀元前5世紀ころのシチリア・シラクサの王ディオニュシオス1世と彼の臣下、ダモクレスのお話。あるときダモクレスが、王の権勢と富を称賛して、陛下は世界一の幸福なお方である、と追従を言った。ディオニュシオス1世はダモクレスを食事招待した。ダモクレスが席に着き、ふと頭上をみると、鋭い剣が天井からつるされていた。剣はいまにも切れそうな、カンダタの蜘蛛の糸のように細い糸でつるされていた。

「ダモクレスの剣」は1961年の国連総会の演説で、ケネディ元米国大統領が使って一般に広がった。「今日、この惑星の住人は、この惑星がもはや住めなくなる日を考えざるをえない。男であれ、女であれ、子どもであれ、ダモクレスの核の剣の下で暮らしているのだ」

米ソ冷戦が終わったら、ダモクレスの核の剣について触れる人が減ってしまった。あれは冷戦時代の杞憂だったのだろうか。

足尾銅山が操業をやめたので、日光市(足尾町は合併で現在は日光市足尾町)が通洞の坑道跡をつかって、足尾銅山観光という観光事業をやっている。三菱系の会社が経営している佐渡の金山観光、尾去沢の鉱山観光、土肥の金山観光と同じような廃鉱山を利用した観光業である。

足尾銅山観光から橋を渡って渡良瀬川を越え、対岸から通洞方向を眺めると、簀子橋堆積場が見える。ダムの堤防の高さ約100メートル。白いジグザグは斜面を登る道路のレールガードだ。堤防の向こうには今なお廃坑道から出てくる汚染水の処理をするためのダムがある。

簀子橋鉱滓ダムは管理する古河機械金属が立ち入り禁止にしている。鉱滓ダムをのぞいてみたい人は、ダムの堤防ではなく、隣の山を登り、尾根からダムを見おろすしかない。スタディーツアーのリーダーは、尾根に登って行きたいのだが、雨で足元が危険だ、今日はダメだな、と言った。天気の良い日に山に登って鉱滓ダムを見下ろした人が、写真をインターネット上に公開している。ここでは、国土交通省の「国土画像情報(カラー空中写真)」の写真を引用しておく。

足尾銅山スタディーツアーから帰ったころ、ブラジル南東部ミナスジェライス州の鉱山ダム決壊が決壊した。115日に採鉱廃棄物をためていたダムが決壊、近くのベント・ロドリゲス村が泥流にのみこまれた。発生時、30人近くが死傷した。有毒物質を含んだ泥流がドセ川に流れ込み、650キロを流れ下って大西洋を汚染した。

遠いブラジルの事と杞憂扱いすることなかれ。

秋田県の尾去沢鉱山では、193611月、高さ60mの鉱滓ダムが決壊して、362人が死んでいる。

遠い昔の事と杞憂扱いすることなかれ。

2011年の3.11東日本大震災で、すでに使われなくなっていた足尾銅山源五郎堆積場が崩れ、汚染物質が渡良瀬川に流れ込んでいる。



7 強制労働



太平洋戦争中の日本の鉱山では、多くの外国人が強制的に働かされていた。足尾銅山では257人の中国人(猪瀬建造『痛恨の山河―足尾銅山中国人強制連行の記録』随想舎、1994年)、1444人の朝鮮人(古庄正「足尾銅山・朝鮮人強制連行と戦後処理」『駒沢大学経済学論集』第264号、1995年)、約400人ほどの白人捕虜(足尾銅山労働組合編『足尾銅山労働運動史』1958年)が銅山関連の労働をさせられた。

中国で日本軍の捕虜になった八路軍と国民党軍の捕虜は「俘虜収容所」に入れられた。俘虜収容所は同時に「労工訓練所」の看板を掲げ、俘虜として入った中国人が「労工」と名を変えて収容所から出てきた。彼らが日本に送られ、各地の工場や鉱山で働かせられた。外務省の資料では4万人弱、中国側の資料では5万人以上とされている。栄養状態の良くない収容所で暮らし、食糧事情の悪い日本で働いたため、多くの人の死因は栄養失調による衰弱だった。足尾銅山に送られてきた257人のうち109人が死んでいる。死亡率が4割を超える異常さだ。

朝鮮人労働者も朝鮮半島から連れてこられている。1944年の当時の日本政府の動員計画によると朝鮮半島から29万人の動員が計画されていた。実際に動員された人の総数や、自由意思で日本にやってきた労働者、強制連行された労働者の正確な数字は、今となっては把握がむずかしい。たとえば韓国政府は太平洋戦争の時期に50万人の韓国人が強制的に日本連れて行かれたと主張し、日本政府は自由契約で朝鮮半島から日本に働きに来たと主張している。足尾銅山では70人余りの朝鮮人労働者が死んでいる。

白人捕虜は捕虜収容所で銅山の坑外作業に従事していた。

足尾銅山スタディーツアーの宿舎は、足尾の町から庚申川沿いの道登った先の銀山平にある国民宿舎・かじか荘だった。そのすぐ近くに足尾銅山で死んだ中国人労働者を慰霊する「中国人殉難烈士慰霊塔」が建てられている。

庚申川下流よりの道路脇には「足尾朝鮮人強制連行犠牲者追悼碑」(この項冒頭の写真)がある。こちらは中国人慰霊塔に比べて質素である。

中国人にとっても、朝鮮人にとっても、それはなんとも不条理な死に方だった。当時の日本政府は戦争遂行のための戦略物資を必要とし、鉱山で働く日本人男性労働者が徴兵で減ったあとの人手不足の穴埋めのために、朝鮮人や中国人を連れてきて働かせた。

足尾銅山の生産量は1939年に年間8000トンだったものが、1942年には1441トンにまで激減していた(猪瀬建造『痛恨の山河』)。戦局が日本に不利になり始めたころ、東条内閣の軍需大臣・岸信介が足尾銅山を訪れ、皇軍と同じように2+380とするような精神力で増産に励まれたい、と不条理なハッパをかけている。



8 田中正造の地

このシリーズの第2回で、古河の足尾銅山製錬所の煙害で廃村に追い込まれた旧松木村のことにふれた。その中で、村人がこぞって古河に土地を売って村から去る中で、1世帯だけが村に残った話を少しだけ紹介した。足尾銅山関連の書籍をめくっているうち、鎌田忠良『棄民化の現在』(大和書房、1975年)に、村に残った1世帯とは星野金次郎さん(当時42歳)と息子の金平さん(同14歳)の父子であった、と出ていた。筆者の鎌田氏は息子の金平さんから当時の事情を取材しているが、どうやら古河との交渉を重ねるうち、示談方法に納得がゆかなくなり、先祖の土地はなにもの代えがたいとして、それから半世紀にわたって、父子は松木に住み続けたそうである。インタビューの時、星野金次郎はすでに亡くなっており、金平さんも記憶が曖昧になっているのか、それとも多くを語りたがらなかったせいか、『棄民化の現在』でも、何が星野父子に松木村残留を決めさせたのかについては、隔靴掻痒である。

さて、これから渡良瀬川沿いの国道122号を南下して渡良瀬遊水地に向かう。日光市足尾町通洞には、足尾銅山関連の施設が崩れたまま無残な姿で放置されている。その姿を歴史の証言ととれば、それはそうだが、ゴミ屋敷風に放置されていると見れば、それもそのように見える。閉山後の鉱山町のみじめな風景である。

足尾銅山スタディーツアーで感じたことの一つは、渡良瀬川上流の足尾地区と下流の渡良瀬遊水地周辺の市では、古河の足尾銅山に対する態度が異なる。上流では足尾銅山は足尾の自然を汚したが、一方で町の繁栄に役立ったという雰囲気がある。

足尾銅山の鉱毒は渡良瀬川を流れ下った。足尾町の通洞あたりの標高はだいたい600メートルほど。渡良瀬川が平野部に流れ出て、稲作のための農業用水として利用される、例えば太田市あたりでは標高が40-50メートル程度だ。渡良瀬川は足尾町から標高差にして500メートル以上をかけ下って行く。

足尾町をから渡良瀬川沿いの国道122号を少し下れば、間もなく群馬県に入る。しばらく行くと草木ダムにがある。草木ダムは1977年に管理を開始した多目的ダムで、洪水調整、水道・農業・工業のための利水、発電などになっている。湖面には水質保全のための自動監視装置が浮かんでいる。ダムには水質分析室が置かれ、同、鉄、亜鉛、鉛、ヒ素、カドミウム、マンガンなどの重金属汚染を常時監視している。

渡良瀬川の流れは山間の谷筋だからあたりに水田は少ない。明治のころは渡良瀬川が現在の桐生市に出たあたりから水田が広がっていた。したがって、渡良瀬川下流域の群馬県内町村(現在の桐生市・太田市・館林市など)は鉱毒に汚染された渡良瀬川の水が原因で農業被害を一方的受けるだけの被害地だったから、古河に対する嫌悪感は、上流の足尾町に比べて強い。

足尾銅山の鉱毒被害阻止のために立ち上がった農民と田中正造の資料を集めた施設が、太田市、佐野市、館林市などにある。太田市には太田市足尾鉱毒展示資料室、佐野市には佐野市郷土資料館に田中正造関係特別資料室があり、館林市にはNPO法人の足尾鉱毒事件田中正造記念館がある。

田中正造の死後、彼を慕う人々によって、遺骨は佐野市の田中正造生誕地墓所、佐野市の惣宗寺、館林市の雲龍寺、栃木市藤岡町の田中霊祠(栃木県栃木市藤岡町)などに分骨された足尾が古河の地であった以上に、このあたりは田中正造の地でもあったし、今なおそうである。

荒畑寒村が『谷中村滅亡史』(1907年)の結びに書いた文章である「あゝ谷中村を記憶し、谷中村民を記憶する者は、また谷中村をして今日あるに至らしめし、明治政府と、資本家古河某とを記憶せざるべからず。而して他日必ずや彼らに向かって、彼らが谷中村民に為せし同じきと、方法手段を以て復讐するの時あるを期せよ。あゝ悪虐なる政府と、暴戻なる資本家階級を絶滅せよ、平民の膏血を以て彩られたる、彼らの主権者の冠を破砕せよ。而して復讐の冠を以て、その頭を飾らしめよ」の、怨念の大絶叫が1世紀以上を経た現在でも、地の底から聞こえてきそうな土地なのである。



太田市毛里田に「祈念鉱毒根絶碑」が建てられている。1974年に古河鉱業が当時の中央公害審査会で、鉱毒による加害の責任を農民に対して認めた。農民は雲竜寺の田中正造の墓前にそのことを報告し、1977年にこの碑を建てた。1世紀にわたる足尾銅山と政府との苦難の戦いの歴史が、碑の両そでに刻み込まれている。碑の形は「土」をかたどっている。



9 パフォーマンス

田中正造の名前が久しぶりにマスメディアに登場し、日本全国に行き渡ったのは2013年秋のことであった。

2013年の秋の園遊会で山本太郎・参議院議員が原発問題をめぐる手紙を天皇に渡した出来事に関連して、明治天皇に直訴しようとした田中正造が引合いに出されたのである。

@山本太郎は議員の肩書で招かれた園遊会を利用し、象徴であるだけの天皇に訴えようとした。田中正造は議員を辞職したうえで個人として政治権力を持っていた明治天皇に直訴した。事柄の性格は異なる。

A田中正造が生きていたら同じ行動をしたと思う。

B天皇の政治的利用は危険で、山本太郎は軽率だ。だが、安倍政権も主権回復式典の天皇出席や五輪招致への皇族派遣で、天皇をはじめとする皇室を政治利用した。こちらの方が大きな問題だ。

上記のような解説が学者・識者らから出された。それらの解説については、足尾鉱毒問題と直接の関係がないので、このさいコメントしない。マスメディアが山本太郎の行動を報道するにあたって、田中正造を引合いに出したことは、いささか的はずれであった。今回、足尾銅山公害の跡をめぐるスタディー・ツアーに参加したことで、そのことを知った。

田中正造の直訴は、田中正造と幸徳秋水、石川半山の3人が計画した命を投げ出してのパフォーマンスだった。

直訴状の原案は、黒岩涙香が創刊した『萬朝報』の記者で社会主義者の幸徳秋水(のちに大逆事件で死刑)が書いた。田中正造の盟友で、衆議院議員・島田三郎が経営していた『東京横浜毎日新聞』(そのころの題字は『毎日新聞』)の主筆・石川半山が振付をした。『毎日新聞』は足尾銅山鉱毒問題で、突っ込んだ報道を繰り広げていた。

そして、「草莽ノ微臣田中正造誠恐誠惶頓首頓首謹テ奏ス伏テ惟ルニ田間の匹夫敢テ規ヲ踰エ法ヲ犯シテ鳳駕に近前スル其罪實ニ當レリ而モ甘シテ之ヲ為ス所以ノモノハ……」で始まる直訴状を持って、明治天皇の馬車目指して進んだのが田中正造である。

三宅雪嶺『同時代史第3巻』(岩波書店、1950年)はこの直訴事件を明治36年の項で、講談のような名調子で綴っている。「第十六議会の劈頭に世間を驚かせるは田中正造の直訴なり。田中は足尾鉱毒被害人を救ふに全力を注ぎ、財を失ひ、家を失ひ、政党を去り、議員を辞し、輦下に直訴するの外なしとし、十二月十日、天皇が議会開院式に臨御、十一時十五分還幸仰出され、衆議院正門より御出門……正に十一時二十分……田中は「お願ひがございます」と言ひつつ、紙包みを取り出し御馬車に近づき奉らんとし、護衛の騎兵特務曹長が之を観て馬首を右にする時、早くも麹町署の巡査二人に取押さえられ、曹長は過って落馬せり。田中は警官に擁せられて麹町署に入り、午後二時頃川淵検事正の尋問を受け、検事正は検事長及び検事総長等と協議の上、司法大臣に伺ひ出て、十三日、不起訴と決し、同日午後一時、検事正は田中を召喚し、今後上奏せんと欲せば相当の手続きを履むべく、決して今回の如き行動あるべからずと諭し、書を還付し、同二時、田中は旅館に帰る」

田中正造は直訴の夜には拘束を解かれた(十一月十一日付『毎日新聞』)。東海林吉郎・菅井益郎『(新版)通史・足尾鉱毒事件 1977-1984』(世織書房、2014年)によると、田中正造はその日の深夜、石川半山、幸徳秋水と密かに会っている。『通史・足尾鉱毒事件』は、石川半山の日記から、次のようなくだりを引用している。

 余田中ニ向て曰く 失敗せり……一太刀受けるか殺されねばモノニナラヌ
 田中曰くよわりました
 余慰めて曰く やらぬよりも宜しい

『通史・足尾鉱毒事件』はさらに、三宅雪嶺の『同時代史』から次の引用をしている。「田中は騎兵の槍に突かるるの覚悟にて直訴し、若し斯くして死したらば、佐倉宗五郎以上に世を動かしたるべし。彼は奇を好まずして奇を演じ、奇人として知らるるが、奇を好むならば更に奇行を以て世を聳動したるべし。直訴は彼において何ら奇を求むる所なく、延いて痛烈なることなく、身の安全を得たるは、普通に幸いにして、劇的に不幸なり」

『通史・足尾鉱毒事件』は、「田中は自らの死を代償に世論の沸騰に点火し、鉱毒反対闘争の活性化と政府の政策転換へ、衝撃的な効果を狙いとしていたのである」と、結論している。

命を代償にした、捨て身の天皇の政治利用だったのである。

そういうわけだから、渡良瀬川下流一帯では、今なお田中正造はヒーローである。



田中正造が息を引き取った部屋を保存している佐野市の庭田隆次さん宅や、義人田中正造の墓があり、鉱毒反対運動の拠点になっていた館林市の雲龍寺には、いまなお見学者が立ち寄る。



10 渡良瀬遊水地

足尾銅山鉱毒問題を治水問題にすり替えるために計画されたのが、現存する渡良瀬遊水地である。1902年に政府が渡良瀬川遊水地を計画したが、1903年には栃木県議会が谷中村を遊水地にする案を廃案にした。だが、栃木県議会は1904年に谷中村の買収を決め、政府は谷中村廃村計画を進めた。1907年には古河鉱業の副社長だった内務大臣・原敬が、遊水池化に抵抗して谷中村に残留していた人々に対し土地収用法を適用、強制的に立ち退きさせた。谷中村から村民すべてが消えたのは1917年のことである。

東海林吉郎・菅井益郎『新版 通史・足尾鉱毒事件』(世織書房、2014年)によると、谷中村買収費48万円のうち、5万円はかつて下都賀群長だった安田順四郎が流用し、25000円は県議会議員への賄賂となり、約20万円が遊水池設置反対派の村民の切り崩し工作費につかわれたといわれている。残る20数万円が村民に渡ったことになるが、実際の買収総額は明らかでない。

中国の三峡ダム、スハルト政権下のジャワのクドゥン・オンボ・ダムといった強権支配の途上国の巨大工事には、強制移住と工事に群がる利権の漁り合いがつきものだった。渡良瀬遊水地をめぐる戦前日本の政治のやり方も同様だった。



旧谷中村跡は遊水池の中に残されている。残っているのは墓石だけ。裸で放り出されるのはいつもどこでも、決まって、細民だった。

ところで、過去のふり返り方についても、足尾銅山公害スタディー・ツアーに教えられるところがあった。第9回「パフォーマンス」で書いたのだが、渡良瀬行脚をしていた田中正造が倒れ、病の身をよこたえ、ついには息を引き取った部屋を保存している田中正造終焉の家・佐野市の庭田隆次さん宅を訪れたとき、隆次さんから聞いた話。

田中正造を自宅に泊め、いろいろと面倒を見たのは庭田隆次さんの曽祖父だった。その曽祖父から隆次さんが幼いころ聞いた話を語ってくれた。足尾銅山の鉱毒のせいで、渡良瀬川下流域でコメがとれなくなったころ、農家の人たちはお粥を食っていた。お湯の中に米が少々浮かんでいるといった極薄の粥だった。椀の中のおもゆを食べるようとすると人の目玉が写る。それで、みんなは「目玉粥」と言っていた。

司馬遷の史記列伝が読み継がれるのは、それが英雄や豪傑や智者を主人公に据えた物語だからだ。歴史は往々にしてこの手法で描かれる。書きやすく読みやすく面白いからである。スポットライトをあてられる主役の陰で目玉粥をすすっていた民衆は見えないままだ。足尾銅山鉱毒をめぐる渡良瀬川下流域の反公害闘争の記憶の多くも、田中正造が主人公の物語である。

足尾銅山公害スタディー・ツアーを機に、足尾銅山公害関連の入門書を何冊か読んだ。そのなかに田中正造の陰に隠れて見えないままに放置されてきた民衆の反鉱毒の闘いに焦点を当てた本が1冊あった。田村紀雄『川俣事件―足尾鉱毒をめぐる渡良瀬沿岸史』(社会評論社、2000年)である。

農民の東京へ抗議に行こうとした「押出し」で、それを阻止しようとした警察が農民と衝突した1890年の川俣事件とその後の裁判の過程を克明に追った田村は、農民こそが「運動の主役であった。したがって、ここでは田中正造もひとつの配役にすぎない。事実、かれも農民と同列の闘いであった。それでも、川俣事件以前の田中が折衷主義的で、議会での発言が政治家によくある請負主義的な演技であったことからみれば、はるかに農民と同じところに立つものであった」という視点から上記の本を書いた。

足尾鉱毒をめぐっては80以上の村の30万人の農民が被害にあい、反鉱毒の運動にかかわっている。抗議のために上京し、請願書に署名し、集会に参加した人々の3000人の名前が記録に残っている。田村は農民の手紙・手記・日記・日誌・新聞の切り抜き・ビラ・パンフレットなど一次資料を渉猟している。

詳しいことは同書を読めばわかるので、これ以上、ここで屋上屋を重ねることはしない。

(写真と文: 花崎泰雄)