1 ブサキ寺院

インドネシアのバリ島は日本の愛媛県ほどの面積をもつ。島の中央部で山脈が東西にはしっている。山脈の東寄りに標高3000メートルを超える火山がある。これまでに何度も噴火している。山の名はグヌン・アグン。その麓の標高千メートルほどの斜面にバリのヒンドゥー教でもっとも敬われているブサキ寺院群がある。ブサキ寺院と呼びならわされているが、20を超える寺院群である。

バリでは雨季の1119日からオダランという祭礼が始まっていた。バリにはヒンドゥー教の寺院が大小2万弱あるといわれる。寺院ごとに祭礼(オダラン)の日が決まっているが、19日から始まったオダランは島内の全寺院とすべてのヒンドゥー教徒が守り続けている大規模な祭礼である。バリの暦で210日ごとにめぐってくる。日本のお盆のような行事で、寺院も民家も7-8メートルほどの竹に飾りを吊るしたペンジョールやカラフルな布で飾り付けて祖霊をお迎えする。オダランは10日ほど続く。オダランが始まる日をガルンガン、終わる日をクニンガンという。日本の盆入り、盆明けのようなものだ。

ブサキ寺院には1120日に行った。参道の坂道の両側には東京・浅草寺の仲見世通りのように商店が店を開いている。昔は歩いてのぼったが今は乗り合いのカートが走る。お参りの人は予想したほど多くなかった。正装した男女が寺院でお祈りをしていた。多くの人は自宅に親族を集めてオダランのお祝いをしていたのだろう。

バリには緑深い山々、麓の水田、紺碧の海と白いビーチ、乾季の青い空、なにやら由緒ありげな寺院があちこちにある。島は観光産業に必要な条件をすべて備えている。そうしたバリにあって、観光、文化、習俗、宗教などの面でバリを象徴するブサキ寺院はこれまでに何度かインドネシア政府のユネスコ世界文化遺産への登録の提案をうけた。だが、その都度拒否し続けてきた。

バチカン市国のサンピエトロ大聖堂も、フランスのモンサンミシェル修道院も、パリのノートルダム大聖堂も世界遺産への登録を拒否しなかった。バリのブサキ寺院はなぜ世界遺産登録を拒否しているのだろうか。

1990年インドネシア政府当局がブサキ寺院の世界遺産登録の提案をしたさい、パリサダ・ヒンドゥー・ダルマ(インドネシア・ヒンドゥー協会)がその提案に反対した。世界遺産に登録されると宗教的な祭礼儀式が制約を受けるのではないかという懸念があったからと言われている。

1992年にもブサキを世界遺産に登録しようとする政府の動きがあったが、ヒンドゥー教組織の反対で阻止された。経済振興のテコとして世界遺産登録を渇望するむきが多い日本では想像もつかない、意外な出来事だった。そういうわけで、バリ・ヒンドゥーのブサキ寺院は、無冠の大寺院群としてバリ島に屹立している。



パリサダ・ヒンドゥー・ダルマは政府の世界遺産登録の動きを阻止するだけの力を持った組織なのだろうか。インドネシアの国是・パンチャシラ(5原則)は「唯一神への信仰」を国民に義務付けている。スカルノがパンチャシラを提唱したとき、パンチャシラは一神教だけを宗教と認め、バリのヒンドゥー教は多神教的な土俗的地域信仰とみなされた。イスラム教やキリスト教とならんで、バリのヒンドゥー教をパンチャシラの指定宗教にしたかったバリのヒンドゥー教徒たちはパリサダ・ダルマ・ヒンドゥー・バリという組織を立ち上げて運動を続けた。1962年に政府に宗教として公認させた。パンチャシラは「唯一神への信仰」が条件なので、パリサダは多神教とみなされているヒンドゥー教はすべて「サン・ヒャン・ウィディ」という最高神の分身であり、ヒンドゥー教は一神教である主張した。このようにしてヒンドゥー教をパンチャシラが定める宗教のカテゴリーに入れさせることに成功した。このあと、1963にはグヌン・アグンが大噴火した。

パリサダは1964年にパリサダ・ヒンドゥー・ダルマと改名した。サン・ヒャン・ウィディは現代バリのヒンドゥーが創作した神であり、デンパサールに1950年代に建てられたジャガナット寺院に祀られている。ヒンドゥー教はインドにおいても、バリにおいてもとらえどころのない宗教・社会関係・習俗・文化をこき交ぜた人間行動の集積である。バリのヒンドゥーがブラフマン・シバ・ビシュヌはすべてサン・ヒャン・ウィディの分身である、と言ったところで、なんも驚くことはない。少々驚くのは、宗教団体が中央政府や地方政府と肩を組み、行政機関の補助役として持ちつ持たれつの協力関係を維持していることだ。1993年にブサキ寺院が大規模な祭礼を企画したさい、州政府は準備金を用立て、行政組織にのってヒンドゥー教団体が準備を進めた。

バリ島とバリ・ヒンドゥーの来し方行く末を考えながらバリ古刹巡礼を始める。



2 タマン・アユン寺院

バリ島は島の中央部に山脈が走り、降った雨は湖にたまり、斜面を流れ下る。バリ島の北側海岸部はバリの歴史で語られることが少ない。バリの歴史は山脈の南斜面に住んだ人々の歴史である。

山脈の高みから流れ来る水は斜面にいく筋もの渓谷をつくった。バリの歴史に出てくる王国(といっても部族国家程度の規模であるが)は川筋を境界線にして、成立した。したがって王国の領域は南北に長く、王国の領域を基本に分割されたバリ州の県も南北に長く伸びている。バリ島の交通は川筋に阻まれて、東西の行き来が今でも不便である。

タマン・アユン寺院はデンパサールの町から遠くないところにあり、観光客にとって魅力的なお寺である。タマン・アユンとはジャワ語の「タマン=庭園」「ayun=美しい」からきている。メンウィ王国を発足させたイ・グスティ・アグン・プトゥが17世紀の中ごろに建てた。国王の家族寺院であり、美しい庭園を持った王立公園であり、メル(多重塔)が林立する重厚なヒンドゥー寺院である。(添付の多重塔の写真は1980年代に筆者撮影)。

寺院の遊歩道に沿って闘鶏場の建物があった。闘鶏は世界中で行われている賭博遊戯である。インドから東南アジアにかけて盛んだが、動物愛護と賭博取り締まりを理由にこれを禁止している国も多い。インドネシア政府も闘鶏を禁止している。ただし、オダランのような特別の日に限って伝統行事の一つとして闘鶏を行うことを認めている。タマン・アユン寺院の舞台装置のような再現闘鶏場を見ていて、クリフォード・ギアツのバリの闘鶏についてのエッセイを思い出した。

1950年代後半にクリフォード・ギアツがバリで文化人類学のフィールド調査をしていたころ、バリでは闘鶏は禁止されていた。そこで人々は官憲の目をのがれてこっそりと闘鶏と賭博を行っていた。



バリに住み着いてしばらくの間、クリフォード・ギアツとヒルドレッド・ギアツの夫妻は住民たちから恭しく無視され続けた。ある時、住民と一緒にヤミで開かれた闘鶏を見に行き、警官に追われた。ギアツは一緒にいた男とその男の家に逃げ込んだ。しばらくして警官がやってきてあれこれ聞き始めると男はギアツが政府から認められている学者であること、バリの文化の研究を米国の大学から命じられていることなどなど、ギアツがびっくりするほど詳細にギアツのことを警官に説明した。この顛末はギアツの「ディープ・プレイ――バリの闘鶏に関する覚書」(『文化の解釈学ii』岩波現代選書)に詳しい。

文化人類学的エッセイを書けるほどの情報を手にいれることができた。バリの闘鶏の文化的解釈は正直に言うと理解しがたいところがある。闘鶏に血道をあげるバリの男たちの態度がどのようにバリ人の世界観と交錯しているのか、その関連が読み取れないからだ。ギアツは言う。バリの闘鶏のやり方はバリ人自らの暴力の形式の反映である。闘鶏はバリ人の動物的野蛮・自己陶酔地の犠牲などかれらの経験に関連している事柄を象徴する。



今のインドネシア大統領プラボウォ・スビアント氏の父は、著名な経済学者だったスミトロ・ジョヨハディクスクモ氏である。プラボウォ氏はスハルトが退陣したのち、インドネシア軍から軍人としての逸脱行為をとがめられ、軍から追放され、しばらくの間レバノンで事実上の亡命生活を送っていた。そのころ筆者がジャカルタで読んだか、ジャカルタの記者たちのよもやま話だったか、つぎのようなスミトロ氏の発言を読んだか聞いたりした。プラボウォ氏については、あの子はなぜあんな乱暴者になってしまったのだろうか、というものであった。また、スミトロ氏は文化人類学者の論文について、あれは論文ではなく小説だ、興味ない、と言った。

その時思い出したのがクリフォード・ギアツの解釈人類学の数々の名作だった。人文社会科学の中で最も理科系のハード・サイエンスに近い学問である経済学を専攻した学者から見ると文化人類学などフィクションに類するものに感じられるのであろう。

闘鶏は古代ギリシャから行われていた。日本の平家物語にも源平の戦を闘鶏で占い、源氏の勝ちと出たので、熊野水軍が源氏に加担したという話が出てくる。熊野には闘鶏神社がある。タイでもフィリピンでも闘鶏は盛んだ。16世紀のイングランド王ヘンリー8世は闘鶏が大好きで宮殿内に闘鶏場を設けたほどだったといわれる。

バリ人の世界観と闘鶏という遊戯が濃厚に関係しあっているのであれば、今東光が書いた河内の闘鶏マニアについても、信心深い上座部仏教徒であるタイ人と闘鶏の関係、キリスト教が支配的なフィリッピンの闘鶏、イングランド王家の世界観と闘鶏の関係などについて、ギアツ流の解釈人類学説を知りたいと思う。



3 ゴア・ラワ寺院/ゴア・ガジャ寺院

バリ島にはヒンドゥー教のお寺がたくさんある。バリ・ヒンドゥーの宗教組織や観光業界の意見では、バリのヒンドゥー寺院の頂点に立つのがブサキ(Besakih)寺院である。

ブサキ寺院を含め6つの寺院が6大寺院(Sad Kahyangan)として信仰の場になっている。ブサキ寺院以外の5大寺院は、ブサキ寺院の東にあるルンプヤン(Lempuyang)寺院、南側の海岸沿いにあるゴア・ラワ(Goa Lawah)寺院、南西方向のウブド近くにあるプスリン・ジャガット(Pusering Jagat)寺院、島南端の断崖の上にたつウルワツ(Uluwatu)寺院、西側のバトゥカル(Batukaru)寺院である。

6大寺院のうちルンプヤン寺院を除く5つの寺にお参りした。ルンプヤン寺院へ行かなかったのは、チャーターした車の運転手さんが、寺院の車の駐車場からお寺までは急な坂道で人によっては歩くの大変なので、バイク・タクシーが待機している。それを利用すれば楽に登れますよと言ったからだ。年寄りが坂道で転んでけがする危険性とバイク・タクシーに乗る危険性では、後者の方がより深刻である。というわけでルンプヤン寺院は敬遠した。最近の若い観光客の間では、ここの割れ門でポーズをとって記念撮影をするのが流行っているとか。

バリでヒンドゥー寺院巡りをして何が面白いのかと、まっとうな疑問を持たれる方もあろう。お寺の借景は山、林、湖、海と多様であるが、寺院の構成自体はシンプルである。割れ門(candi bentar)があって、境内にメル(meru=多重塔)がたち、柱の上に屋根をのせただけの涼しげなお堂があるきりだ。お寺には住み込みの住職はいない。祭司は寺の近くに自宅を持っている。

チャンディー・ブンタルという割れ門も、インドネシア名物のサテを思わせる(正確には須弥山=スメルを模した)多重塔も東ジャワと同じものである。ジャワ島のヒンドゥー教王国・マジャパヒトの時代、王国はバリ島に支配を広げた。さらに、マジャパヒト王国の支配層や人民がイスラム勢力に押されてバリ島にのがれてきたことで、バリはヒンドゥー教の島になった。東ジャワがイスラム化され、バリ島がヒンドゥーの島としてガラパゴス化した。

飽きもせずバリ島のヒンドゥー寺院をめぐったのは、先ごろ亡くなったジャカルタの友人2人と、かつて一緒にバリ島巡りをした日本の友人夫妻の追善供養の真似事をしたかったからだ。ジャカルタの友人は2人ともムスリムで、日本の友人夫婦は無宗教だが便宜上仏教徒を名乗っていた。ムスリムと仏教徒の法要をヒンドゥー寺院巡礼で間に合わせるのはどうかとも思うが、なに、仏教には「方便」という言葉もある。



ゴア・ラワ寺院とゴア・ガジャ寺院は洞窟寺院として知られている。ゴア・ラワ寺院はジャワ語でコウモリ洞窟寺院の意。境内はこれと言って特筆するほどのこともないが、奥まったところに崖があり、そこに洞穴の入り口がある。洞窟内にはたくさんのコウモリが住みついている。洞窟の入り口にコウモリが飛んでいる。

洞窟は部外者立ち入り禁止だが、穴は奥へ奥へと続き、最後はブサキ寺院の近くで地表に出る、という伝説が残っている。19世紀の前半、メンウィ王国の内紛で隣国に逃げ込んだこんだメンウィ国王の弟が、ゴア・ラワ寺院のコウモリ洞窟からトンネルを抜けてブサキ寺院に行き着いたという伝説がある。一部の観光案内書はそう書き立てて観光客の好奇心をあおっているが、これは眉唾。この伝承をThe Spell 0f Power: A history of Balinese politics(『権力の呪文――バリの政治史』)で著者のH.S. Nordholtは「コウモリの洞窟がどこに行き着くのかいまだ不明である。というのも洞窟内には住みついている何千何万というコウモリの糞が堆積しているし、奥に進めば毒蛇が生息し、中に入った人は生きて洞窟からでてくることはできないだろうと、人づてに聞いた」と著書の脚注に書いている。

観光地ウブドの近くにあるいま一つの洞窟寺院であるゴア・ガジャ(象の洞窟)の方は一般の観光客の岩窟立ち入りが許されている。ヒンドゥー教徒が瞑想の場所として使った穏やかな岩窟だ。外から見ると岩窟入り口のデザインにはおどろおどろしいところがあるのだが。



岩窟のすぐ近くに沐浴場の跡があった。1980年代に撮影した写真(下右)と比べて大きな変化はなかった。山の水も枯れることなく、流れ出ていた。沐浴場は苔むしたままであった。自然は短時間では変化しない。もっともである。

 



4 ウルン・ダヌ・ブラタン寺院

バリ・ヒンドゥーの総本山・ブサキ寺院をユネスコ世界遺産に登録申請しようという計画がかつてインドネシア政府を中心に進められた。バリのヒンドゥー教組織が、登録申請に激しく反対し頓挫、以来ブサキ寺院の世界遺産登録計画は挫折したままである。この連載の最初にそう書いた。

現在インドネシア・バリ州でユネスコの世界遺産に登録されているのは唯一「バリ州の文化的景観――トゥリ・ヒタ・カラナ哲学の具現としてのスバク・システム」である。ユネスコの英文表記ではThe Cultural Landscape of Bali Province: The Subak System as a Manifestation of the Tri Hita Karana Philosophyである。2012年に登録された。

トゥリ・ヒタ・カラナは神と人、自然と人、人と人の3つの関係において、調和のとれた繁栄を願うバリ・ヒンドゥーの生活態度の表明である。それは他方で、大規模な観光開発によってバリ人の生活環境が壊されることへの危惧の表明でもある。かつて中国で「社会主義和諧社会」というスローガンが叫ばれたことがある。社会主義市場で経済成長が作り出した社会の軋轢を鎮めるのが目的だった。

バリの文化と暮らしは、よくも悪くも小規模な農業社会でつくられたものだ。インドネシア中央の政治家と資本、バリ州の政治家・官僚と地域資本がバリの観光開発をめざした。農業から観光への産業構造の変化、農村から都市への島内労働人口の移動、人が農村から晴れることで起きた伝統的なバリ・ヒンドゥー教の地域密着性の希薄化。「トゥリ・ヒタ・カラナ」の哲学を持ち出したのは、バリ人の生活文化環境が観光開発によって崩壊しているという認識の表明でもあった。

スバックは米の二期作が可能なバリの水利を取り決めた水利組合のことである。バリ島の山の斜面にはいくつかの棚田がある。その1つであるジャティルウィの棚田を中心に米作水利の観点からつながりのある風景や寺院をまとめたのが世界遺産「スバク・システム」がつくった文化景観といううたい文句だった。

バリのヒンドゥー寺院は、島全体にかかわる広域レベルの寺院―例えばブサキ寺院−などと、村を超えた地区の寺院、村の寺院、一族の寺院などいろいろなお寺がある。中でも面白いのが村や地域を超えた水利組合(スバク)が祭礼をする寺院である。農業の島バリにおいては、それほどまでに米作文化が人々の考え方に影響を与えていた。

さて、ウルン・ダヌ・ブラタンはブラタン湖の湖畔にたつヒンドゥー寺院である。ユネスコのスバク・システムの文化背景を強調した世界遺産のアイテムの一つになっている。前回っこに来たのは、寺院が世界遺産の登録されるまえだった。20年ぶりの再訪である。



ウルン・ダヌ・ブラタン寺院はそのころ山の奥まったところにある静かでくすんだ寺院だった。参拝者は少なく、したがって静かな湖面に映る多重塔の姿が印象深かった。ユネスコの世界遺産に登録されてから十数年。手漕ぎボートすいすいと、スピードボートが音を立てて湖上を滑走する。中学生くらいの子どもたちが、大型観光バスでお参りにやってくる。お寺の参観料金支払い窓口が都会の劇場入場券売り場のようにモダンになった。寺周辺の食べ物屋さんが増えた。ユネスコの世界遺産というラベルはそれなりに集客力があるのだね、と感心する。レジャーランド化が進んでいる。寺院に権威を感じている人と感じない人の割合が変わって来た。そのあたりの話は次回に。



5 楽園創造

観光客が想像するバリとは何か?

それはディズニーランドのようなテーマパークである。「魅惑の島」「最後の楽園」「世界最高のロマンチックな夢」であるバリは、人為的につくられたイメージの島であるとエイドリアン・ヴィッカーズはいう。Aidrian Vickers, Bali: A Paradise Created, Penguin Books, 1989 の序章で、彼はいう。ゴーギャンのタヒチは宣教師のせいで西洋化され、ものの値段も高い。レイとカヴァ酒があるだけだ。インドは広すぎる。アジアと太平洋はバリ島で出会い、島はオープンで近づきやすく文化的な要素をコンパクトにまとめて展示する。シドニー、パース、メルボルンからカンタス航空のジェット機で人飛びすれば、旅行客は飛行機から降りるやいなや、バリ島を愛でることが可能なのだと説明する(ヴィッカーズはオーストラリア人である)。



バリは西洋人のある種の「オリエンタリズム」がつくりだした幻影の島である。オリエンタリズムとは何か。それは「オリエントを扱うための――オリエントについて何かを述べたり、オリエントに関する見解を権威づけたり、オリエントを描写したり、教授したり、統治したりするための――同業組合的制度とみなすことができる。簡単に言えば、オリエンタリズムとは、オリエントを支配し、再構成し威圧するための西洋の様式なのである」とエドワード・サイードは書いている(『オリエンタリズム』平凡社、1986年)

ヴィッカーズは前掲書で、オランダ人たちが残した記録によると、バリは野蛮な島だったと書いている。バリ人は精神錯乱の一種である「アモック」に陥りやすい。王族が死ぬとその妻たちを火葬の火の中に強制的に身を投じさせる「サティ」を慣習としていて、宗主国オランダがこれを禁止した。バリは貧しい島で、奴隷を売買し、王族は自分の女奴隷に売春させてそのかせぎを召しあげていた。バリの王様たちは好戦的で、戦争を自己実現や政治の手段とし、戦争によって富・妻・臣民・奴隷を獲得した。

野蛮の島・バリが夢の楽園のイメージをまとい始めるきっかけは、1920年代と30年代にかけてインドネシアを植民地にしていたオランダが、バリを観光地として宣伝し始めたことだ。1930年代には金持の西洋人や文化人がバリ島を訪問するようになった。ミゲル・コヴァルビアスやヴァルター・シュピース、マーガレット・ミードらがバリ島の名を広めた。

太平洋戦争中は日本軍がバリ島を占領したが、日本の敗戦、インドネシアの独立を経て、文化人類学調査のためバリにきた、クリフォード・ギアツがバリのヒンドゥー文化の一面を世界に紹介した。

イスラム教が到来する以前は、東南アジアのあちらこちらでヒンドゥー教を信仰する王国があり、当時のヒンドゥー教は世界宗教のおもむきがあった。やがてヒンドゥー教に代わってイスラム教が東南アジアで盛んになるとバリ島はヒンドゥー教を信仰するイスラム世界の中の孤島のような存在になって、インドのヒンドゥー教とはことなるバリ・ヒンドゥーとして化石化した。そのことが、西洋にあきた芸術家や学者を呼び寄せることになった。

ギアツは著書『ローカル・ノレッジ』(岩波書店、1991年)に収めた論文「翻訳に見出す――道徳的想像力の社会史について」で、192030年代に書かれたバリについての芸術に満ち溢れた楽園礼賛を引き合いに出して、「サティ」の風習をはじめとするバリ文化の残虐性について語っている。ギアツはバリの文化の中に、楽園と魔界の2つの要素が併存していると説くのである。

文化人類学者のみるバリはそういうものかもしれないが、現代の観光客の多くはバリの魔界に興味があってやってくるわけでない。彼らが求めているのは美しい自然、空・海・森・水田である。



スハルト時代のインドネシアはバリ島の観光開発に力を入れた。バリ島南部のビーチには豪華なホテルがたちならんだ。農業で暮らしをたてる人が徐々に減り、ホテルの従業員などサービス産業で働く人が増えた。バリの農村の社会構造に根差した地域的な宗教であるバリ・ヒンドゥーもバリの産業構造の変化の影響を受けている。

この連載の最初で紹介した、ブサキ寺院の世界遺産登録候補に反対したパリサダ・ヒンドゥー・ダルマも住民の地域離脱と社会観の変化によって、組織が分裂している。インドネシア政府やバリ州当局はバリ観光を「カルチュラル・ツーリズム」という看板で推し進めてきたが、社会の変化がこれを風化させてきている。観光開発によって農地は商業地に変えられ、農民は都市に移って勤労者となって地域との結びつきが疎遠になり、地域と結びついたバリ・ヒンドゥーへの信仰も希薄になっている。
バリ観光振興を進めたスハルト大統領の身内や取り巻きはバリの高級ホテルの多くを所有し、利益をジャカルタに持ち帰った。スハルト政治を果敢に非難し、政権の迫害から逃れるためにオーストラリアに移ったインドネシアの政治活動家・ジョージ・アディチョンドロがこれを暴露したことがある――スハルト一族とそのクローニーのバリ収奪。
楽園・バリの人たちの平均収入はジャカルタの人たちの8割程度と言われる。



6 ププタン広場



バリ島の人口は400万人を超える。州都のデンパサルの人口は100万人だ。デンパサルの中心部に、長辺200メートルほどの樹木に囲まれた長方形の広場がある。ププタン広場(Lapangan Puputan Badung)である。芝生の広場はデンパサル市民の憩いの場になっている。

クリフォード・ギアツが1980年に出版した『ヌガラ』(Clifford Geertz, Negara: The Theatre State in Nineteenth-Century Bali)にこのププタン広場のことが出てくる。バリ島は19世紀の終わりごろまでオランダの直接的な支配下の植民地になっていなかった。20世紀にはいるとすぐオランダはバリ島の王国を攻めた。1906年サヌールの海岸に上陸し、西に進んだオランダ植民地軍が現在のププタン広場まで来た時、近くのバドゥン王国の宮殿から王やその王子たち、貴族、兵士、住民らがオランダ軍に向かって行進した。白い装束で身を包んだバドゥン王国の兵士らはオランダ軍に向かって突撃し、オランダ軍の兵士に撃たれて全滅した。ギアツは『ヌガラ』の中でバドゥン側の死者3600人と書いている。ププタンとは自殺的戦闘行為であり、中国伝来の日本風感性では名誉を重んじてあえて死を選ぶ「玉砕」を思わせる。

広場にはププタンの記念塔があって、その壁面にオランダ軍とバドゥン軍の白兵戦を描いた浮彫が飾られている。この浮彫では、バドゥン軍の兵がオランダ軍と戦うさまを勇猛なタッチで描いている。ギアツがいうような白装束でオランダ軍の銃弾が飛び来る方角へ静々と進んだというイメージはそこにはない。

ププタンについてはヴィッカーズがBali: A Paradise Createdでちょっと異なる角度から説明している。ヴィッカーズによるとバドゥンの人たちはいつ死んでもいいように白い衣服を着た。女たちもやりや短剣、赤ん坊を抱いて行進に加わった。オランダ軍は降伏するよう呼びかけたが、バドゥン軍は聞き入れなかった。バドゥンの兵士らは銃弾に向かって進み、死んだ。近くにいるオランダ軍の兵士を殺そうとした。バドゥンの兵士は連れていた妻を殺し、行進に参加した母親は短剣でわが子の胸を刺した。オランダ軍の兵士がのちに語ったところでは、バドゥンの兵士らがみな死ぬまでこの戦いは終わらないだろうと感じたという。バドゥン王国を征服した後、オランダは残るいくつかの王国を征服しなければならなかった。バドゥン王国兵士らのププタンを容赦なく殲滅することは、バドゥン後に攻めるいくつかの王国を恐怖に落とし入れる効果があるとオランダ軍は考えたのかもしれない。だが、2年後の1908年にはクルンクン王国が攻め来るオランダ軍に対してププタンを再現した。

日米戦争の末期、敗北直前の日本軍は特別攻撃隊「神風」や人間魚雷「回天」という戦術を採用した。結論を先に言えば、軍首脳は米軍を攻撃する方法としてほかの方法を思いつくことができなかった。軍の倫理の器の底が割れていた。それほどまでに、日本軍の武力は衰弱していたのである。燃料や爆薬にまだ余裕のあったころの真珠湾攻撃では「神風」や「回天」のような手法を考える軍人はいなかった。こうした人間爆弾の戦術は中東のイスラム・ゲリラが戦術として採用している。

『ヌガラ』を書いたギアツは「19世紀バリの劇場国家」というアイディアについて「それは王や王子たちが興行主となり、僧侶が演出し、農民が役者、道具方、観客を受け持つ劇場国家である」と説明した。劇場国家のアイディアは、ギアツが1967年に書いた論文「過去の政治、現在の政治」(ギアツ『文化の解釈学 II』岩波現代選書所収)が最初である。「王と王族は座元、祭司は演出家、一般の人々はその他の役者、裏方、観客であった……見世物は政治的な目的を果たすための手段ではなく、それが目的そのものであり、国家はむしろそのためにあるのである」というアイディアを1冊の本にまとめるためにギアツは十数年を費やした。

ギアツが夢想した19世紀バリの劇場国家は20世紀初頭のププタンで幻のように消え、オランダの過酷な植民地収奪と独立への願望の時代になった。ププタンの時、オランダ軍はその戦いを反植民地運動ではないとし、「聖なる狂気」のゆえであると主張していた。

1945年の日本の敗戦で、インドネシアは旧植民地に舞い戻ってきたオランダ軍と戦うことになった。バりの「ングラ・ライ国際空港」は人名である。インドネシア独立のための戦いに参加したバリ島出身のングラ・ライ中佐に由来する。ングラ・ライは100人ほどの兵士を指揮してバリに戻ってきたオランダ軍と戦い、全員が討ち死にした。ングラ・ライ部隊の戦いは「ププタン・マルガラナ」と今では呼ばれている。40年ぶりにププタンという言葉がよみがえったのである。

1968年から30年ほどインドネシアはスハルト大統領にもとで、「オルデ・バル」(ニューオーダー)という名の、軍の支配をベースにした専制政治の時代が続いた。独立と自尊が軍の価値であった。そういう時代の中で、ングラ・ライ中佐のププタン・マルガラナの勇姿によって、19世紀初頭のバドゥン王国」のアモック風の突撃も、徐々に明瞭な民族主義と独立の意思表現へと解釈が変わっていった。そういうわけで、ングラ・ライは国際空港の名として用いられ、その肖像はインドネシアの5万ルピア札に印刷された。



7 殺戮の記憶

インドネシア共産党(PKI)は1920年ごろに結成された。当時のアジアでは最初の共産党だった。オランダ植民地政府とその後の日本占領軍の下で、小規模な地下活動を行っていた。日本の敗戦と、インドネシアにもどってきたオランダ軍と独立戦争に参加した。最終的には、スカルノ政権を支える2本柱の一つになるまでに勢力を拡大した。スカルノ大統領は軍と共産党の2つの勢力から支持を受けた。だが、軍部と共産主義者はどこの国でも折り合いが悪い。



1965930日から101日にかけてクーデター未遂が発生した。大統領警護隊が反スカルノ派の将軍たちを誘拐して殺した。9.30事件とよばれている。当時、軍の将軍の一人だったスハルトが反乱部隊を抑え込み、同時に、このクーデター未遂にPKIが加担していたとして、共産党員や党の支持者らを、軍と、反PKI派の住民、ムスリムの青年たちが襲撃し、殺戮するにまかせた。

殺戮事件は1年余りにわたって続いた。中ジャワ、東ジャワ、バリ島を中心に、インドネシア全土で、諸説あるが、20万人から50万人、50万人から100万人が殺されたと推定されている。バリ島では8万人が殺されたとの説がある。当時のバリ島の人口の5パーセントに当たる。

倉沢愛子『楽園の島と忘れられたジェノサイド――バリに眠る狂気の記憶をめぐって』(千倉書房、2020年)やRobert Cribb, The Indonesian Killings 1965-1966: Studies from Java and Bali, Clayton Australia, Monash University, 1990、あるいはGeoffrey Robinson, The Dark Side Of Paradise: Political Violence in Bali, Ithaca and London, Cornell University Press, 1995 などを読むと、楽園の島バリが虐殺の島になった背景が見えてくる。



中ジャワから東ジャワへ、東ジャワからバリへと9.30事件後の殺戮が広がるのを見聞きした西洋のジャーナリストや研究者たちは、事件後しばらくの間、マレー系の人口の集団的狂気の発作・アモックや、クリフォード・ギアツのいう白い死に装束でオランダ軍の銃撃に向かって行進した自殺的玉砕・ププタンの記憶などバリの“伝統文化”とPKI殲滅のための殺戮を結び付けようとした。わかりやすい解説だが、ナンセンスなところもある。バリはヒンドゥーの島であり、ジャワはイスラム世界である。アモックによる刹率は中ジャワ・東ジャワ・バリで荒れ狂い、スマトラ島などではそうでなかった、のはなぜか。

やがてインドネシアやバリの観察者は大規模殺戮を発生させた社会の亀裂線を探し始めた。ジャカルタ郊外に9.30事件で殺された将軍たちの群像がある。パンチャシラ・サクティとよばれる。一方、9.30事件後の殺戮で殺された何十万という住民を慰霊するための施設はつくられなかった。スカルノを追い落とし、大統領職を手に入れたスハルトは、人には語ることのできない大殺戮の記憶を、インドネシア国民に負の遺産として抱かせることで、政権の安泰の一助とした。軍・警察・行政機関を使って、人々が殺戮の物語を語りださないように厳しく監視し、真相を隠した。したがって、9.30事件とその後の殺戮の歴史は、もっぱら米欧のジャーナリズムやアカデミズムの仕事になった。

Geoffrey Robinson, The Dark Side Of Paradise: Political Violence in Baliは興味深いバリ社会の亀裂線を説明している。ロビンソンは旅行者たちに「伝統の島」と誉めたてられるバリは、歴史のフィクションで、政府や政党、社会の指導層が個人的・政治的・階級的な利益を求めて作り上げたものである、という観点からバリの社会を観察した。オランダ植民地政府も、日本占領軍もバリのエリートたち――地主や地域の有力者――と手を結び島を管理した。対オランダ独立戦争の混乱で、土地のない農民が増え、地主との反目が増大した。PKIがバリ島で勢力を伸ばし、PNI(インドネシア国民党)と影響力を競い合った。両党の支持者の間で、武力衝突が発生するようになった。当時は中央政府も地方政府も安定を欠き、支持政党によって政治的に分裂した島民はそれぞれが武装した自警団的組織をもっていた。そういう情勢の中で、軍がPKI狩りの号令をかけた。米国はCIAを通じて、インドネシア軍に援助を与えた。CIAは共産党幹部らリストをインドネシア軍に与えた。通信機器や自動車を提供した。活動資金も出した。米国はインドネシア軍の共産党殲滅作戦を支援し、対立する住民同士が武力衝突を始めても、それを鎮めようとしなかった。

1965年は米国にとって、東南アジアの共産主義化を深刻に考えざるを得ない年であった。この年に米国は北ベトナムへの北爆を開始し、南ベトナムに米軍部隊を上陸させた。スカルノ大統領がインドネシアを共産主義化するのではないかと不安に襲われていた。9.30事件は米国にとってわたりに船だったのだ。



8 ウルン・ダヌ・バトゥール寺院

バリ古刹巡礼の途中で道草をくってしまった。寺院巡りを続けよう。

バリ島で一番高い山はグヌン・アグン。標高3,142メートル。グヌン・アグンからそれほど遠くないところにあるグヌン・バトゥールは1,717メートル。この2つの山はともに活火山である。

バリの言い伝えによると、アグン山は「男山」でバトゥール山は「女山」なのだそうだ。インドの神話に出てくるメル山(須弥山)の男の神様と、その妹の女の神様がバリ島にアグン山とバトゥール山をつくった。兄の神様はアグン山に、妹の神様はバトゥール山に住んだ。アグン山はごつごつとした男の山。バトゥール山には巨大なカルデラ湖があって、豊かな湖水をためたている。だから女の山だということになっている。

ウルン・ダヌ・バトゥール寺院はそのバトゥール山の中腹にある。女の神様その名をデウィ・ダヌと言ったとかで、お寺の名前にダヌが入った。ダヌは湖という意味で、バリの湖の傍にある寺院の名には「ダヌ」が添えられる。ウルン・ダヌ・バトゥール寺院は、もともとは火口湖のすぐ近くにあったのだが、度重なるバトゥール山の噴火に悩まされたあげく、20世紀の初めの大噴火で集落が壊滅状態になった。そこで、ウルン・ダヌ・バトゥール寺院を外輪山の縁まで持ち上げて移築した。エジプトのアブシンベル神殿移築のような話だ。

お寺の縁起については寺院の入り口に大きな掲示板がつくられている。内容は3つの言語でつづられている。左からインドネシア語、バリ語、英語である。ヒエログリフ、デモティック(民衆文字)、ギリシャ文字で同一の内容を書き留めたロゼッタストーンと同じ手法である。

バリの旅をただの楽々観光旅行に終わらせず、歴史文化も学ぶ旅にしようとした観光産業のバリ・カルチュラル・ツーリズムの運動の努力の跡である。

新しく移築されたウルン・ダヌ・バトゥール寺院がたつ外輪山の縁は、キンタマニ高原の名で知られるバリの避暑地である。かつては観光客が訪れる程度の高原だったが、バリ島がオダランに入った1120日、外輪山を走る唯一の道路は、若い人の自動車、バイクで大渋滞になっていた。



ウルン・ダヌ・バトゥール寺院は、その外輪山道路沿いにあるが、思いがけず、ゆったりとした静かな参詣が可能だった。



    タナ・ロット寺院/ウルワツ寺院

バリ島は島の中央部に東西の山脈がはしっている。バリの人は東西南北で方角を語らず、山側(kaja)、海側(kelod)という言い方をする。島の南部でkaja「山側」といえば、それは北の方角をさす。島の西部ではkajaは東をさす。島の北ではkajaは南をさす。島の西ではkajaは東をさすのである。米国・ハワイ州のオアフ島では山側をmauka、海側をmakaiという。日本の神戸では山側は北、海側は南を意味する。

バリのkajaには陽の響きがあり、kelodには陰が暗示される。そのバリの海岸にいくつかの海の寺がある。観光客に人気の寺院はタナ・ロット寺院とウルワツ寺院である。



タナ・ロット寺院は海岸線から少し離れた小さな島にたっている。干潮時には歩いて島に渡ることができる。タナ・ロット寺院の辺りはすっかり整備されて市民公園のような景観になっていた。海と空と、白い波と木々の緑。開放感にあふれた公園である。夕日をあびる寺院と、ついでにこの公園の広場で上演されるケチャ・ダンスを見て、行楽客は帰ってゆく。

ウルワツ寺院は断崖絶壁の上にたっている。ウルワツの断崖は長い年月風雨にさらされ、波に撃たれて、崩れやすくなってきている。そこでバリ当局は断崖の下部に道路をつくり、岩壁を補強し、風雨から防御する工事を進めてきた。



ウルワツ寺院でも夕方に境内でケチャ・ダンスを上演している。ウルワツ寺院は拝観料とケチャ・ダンスの入場料が支えになっている。ウルワツの断崖の風化を守ることが、バリの観光産業にとっては重要なことなのだ。

(写真と文: 花崎泰雄)