1 ザグレブの市場

ザグレブはクロアチアの首都だ。ドブロブニクやザダルとくらべると、やはり都会の匂いがする。ザグレブ旧市街の坂道にあるレストランでお昼を食べていて、ふと、窓の外にある風景を見てそう思った。



ザダルからザグレブまではバスで移動した。アドリア海側のザダルから山間部を抜けてクロアチア内陸部のザグレブまで250キロほど。4時間弱かかった。

ザグレブ空港からウィーン空港を経由して成田に帰るのだが、ザグレブに2泊して街歩きを楽しむことにした。

何はともあれ、お天気が良かったので市場を見に行った。市場は坂道の途中にあって、野菜・果物は青空市場、その下が建物になっていて肉屋などが入っている。青空市場はそれぞれのワゴンが赤い日よけをさしており、ものみなすべてが輝かしく赤みをおびて見える。



青空市場のそばに尖塔を二つ持った聖母被昇天大聖堂が建っている。聖堂は城壁のような壁で囲まれている。東欧の多くの都市がそうであったように、この塀もオスマントルコの攻撃から町をまもる――つまりはイスラムの攻撃からキリスト教を守るための壁だった。こういうものを見ていると、モーツァルトが『後宮からの誘拐(逃走)』というオペラを作曲した時代背景がだんだんわかってくる。



ヨーロッパの国々は、日本の戦国時代のような国取り合戦を繰り返しながら、さらに一方で、日本でいえば元寇のような異民族の襲撃を受けていた。ソビエト連邦の脅威が消え去ったいま、EUというのは、ヨーロッパにおいては勢力均衡に代わる安全保障体制なのである。



大聖堂まえの広場にはオベリスクのようなものが建てられていて、そのてっぺんに聖母マリアが立っている。日本の神社が祭っている神様の多くが、ギリシャ神話の神様と同じような空想の産物で、仏教の創始者は人間の父親と母親の間にできた普通の子どもで妻帯者でもあった人なのに、なぜキリスト教の創始者は父親は名義上の父親で、本当の父親は空想の神様であり、通常の生殖行為ぬきでこの世に現れたという神話を作り上げたのだろうか。像を見上げながらつまらぬことを考えてみる。

お気楽でのうてんきな旅人暮らしも残す日々が少なくなってきた。



2 イェラチッチ広場

ザグレブの街の中心になっている広場がイェラチッチ広場だ。広場に泉が設けられている。泉や噴水は都市景観の小道具で、たいていの小道具には伝説のようなものが付け加えられている。



イェラチッチ広場の泉はマンドゥセヴァッチの泉とよばれている。昔々、ここに井戸があって、通りかかった人が井戸端の娘に「水をくれないか、お嬢さん」(マンドゥソ・ザグラビ)と言ったことから、ザグレブの町の名が起ったという説が旅行ガイドブックに書いてあった。この手の話、日本にもたくさんある――とくに温泉。

イェラチッチ広場の名物は、広場の名のもとになったヨシプ・イェラチッチ将軍の抜刀騎馬像である。東京・渋谷駅のハチ公前と同じように、ザグレブ第1の待ち合わせ場所になっていると聞いた。

イェラチッチ将軍は19世紀中ごろのハプスブルク朝支配下のクロアチアを治めていた。ハプスブルク朝のために働いたが、心情はクロアチアの独立を目指した民族主義者であった、という理解から、英雄として広場に像が建てられた。

2次大戦後、クロアチアがユーゴスラビア連邦の一員になったさい、ナショナリズムを理由にこの像は撤去された。クロアチアがユーゴスラビア連邦から離脱・独立した1990年代になって、この像は再びイェラチッチ広場に据え付けられた。



1848年にハプスブルク支配に対して反乱を起こし、オーストリア帝国から独立しようとしたハンガリーの民族主義者による革命を封じるために、イェラチッチ将軍はハンガリーに攻め込んだ。そのころはオーストリアがハンガリーを抑圧し、ハンガリーがクロアチアを抑圧していた。したがって、ザグレブの市民にしてみれば、ハンガリーにひとあわ吹かせたイェラチッチ将軍は民族的な英雄ということになるのである。

共産主義時代に撤去された将軍の像は、抜いた刀を北の方角、すなわちハンガリーへ向けていた。据え付け直された像の刀は現在、刀を南の角に向いている。

クロアチア旅行のあとの昨年11月、オランダ・ハーグの旧ユーゴ戦犯法廷上級審が、1990年代のクロアチア内戦のさいのセルビア人に対する「民族浄化」の戦争犯罪で禁固24年の有罪判決を一審で受けていたクロアチア政府軍の元司令官アンテ・ゴトビナに逆転無罪の決を言い渡した、というニュースを新聞で読んだ。検察側は上訴を断念した。ゴトビナ元司令官は即時釈放され、クロアチアに帰還した。

ゴトビナの像がイェラチッチ広場に立つことはないだろうが、軍人の行為は時代の変遷の中で毀誉褒貶が激しい。



イェラチッチ広場から横道に入り古本屋さんを冷やかしついでに英語版のクロアチアの歴史の本を買い、ぶらぶら散歩を続けていると、いい感じのカフェが並ぶ通りに出た。





3 午砲(どん)

イェラチッチ広場前のイリツァ通りを少し西に進んだところにケーブルカーの乗り場があった。丘はケーブルカーを使わなくても歩いて登れる傾斜と距離だ。その丘の上にちんまりとした塔がたっている。その名をロトルシュチャックの塔という。



この塔に登るにはわずかだが入場料を払わなければならない。入場料を取る理由は、塔の展望台からザグレブの町が見渡せるからだ。絶景というほどではないが、ヨーロッパの街だなあと感じさせる眺望であった。

この塔の展望台の下の階に大砲の発射室がある。毎日きっかり正午にこの大砲を街に向けてぶっぱなす。もちろん空砲である。いまどき珍しい正午の「どん」(午砲)である。



日本でも明治のころは正午の空砲をやっていたらしい。夏目漱石の『坊ちゃん』に「先生と大きな声をされると、腹の減った時に丸の内で 午砲 ( どん ) を聞いたような気がする」とある。

ロトルシュチャックの塔を下って北の方角に少し歩くとマルコ広場に出る。この広場に聖マルコ教会がある。こぢんまりとした教会だが、クロアチアの中心となる教会だそうだ。



彩色瓦を使って屋根に二つの紋章が描かれている。右に見えるのがザグレブ市の紋章。左がクロアチア王国などの紋章。教会の歴史は13世紀ころにさかのぼるが、この建物自体はは19世紀後半に再建されたものだ、とガイドブックに書いてあった。

教会に向かって広場の右側の建物がクロアチアの国会、左側が首相官邸。日本の国会議事堂や首相官邸には、警備員や警察官がこれ見よがしに行き来しているのだが、ここにはそれらしき姿は見えなかった。観光客がちらほらいただけである。



4 ウィーン乗継

というわけで、ザグレブ空港からウィーン経由で東京に帰った。

以上で、「ダルマチア点描」の1、2、余録を終えるわけだが、東京からダルマチアに向かったとき、ウィーンに2日ほど滞在して、レオポルト美術館とベルベデーレ宮殿へ行って、前年のウィーン訪問のさい見ることができなかったグスタフ・クリムトとエゴン・シーレの絵を見た。ついでに分離派会館の建物も見た。世紀末ウィーンの名残りのにおいをかいでみようという酔狂だ。



ベルべデーレ宮殿で、クリムトの名高い「接吻」「ユディット」を見た。だが、ここにその現場写真を添えることは出来ない。ベルべデーレ宮殿は館内写真撮影禁止だった。そこでクリムトの次ぎくらいに有名な宮殿の庭の写真を添えておこう。

レオポルド美術館にもクリムトとシーレの絵が展示されていた。クリムト後期の作品『生と死』があった。



この絵のような装飾的な手法は歌川国芳も使っていたような気がした。



エゴン・シーレの絵はクリムトと違った単刀直入な生と死が描かれていて、いささか気味が悪かった。



エゴン・シーレは絵画の名門校であるウィーン美術アカデミーに入学しながら、学校に愛想を尽かして退学している。エゴン・シーレがちょうどアカデミーに在学していたころ、アドルフ・ヒトラーという絵描き志望の男がウィーン美術アカデミーの受験に失敗している。若きアドルフは2度受験し、2度とも落ちた。



歴史に「もし」はないのだが、もしヒトラーがあの時ウィーン美術アカデミーに合格していたら、案外、凡庸なプロの絵描きとして穏やかに一生を終えていたかもしれなかった。

                               (写真と文・花崎泰雄