1 ウィーンからブダペストへ

昨年連載した『ヨーロッパ2011初秋』は、ストックホルムからウィーン見物を済ませたところで一応終わりにした。ウィーンを見たあと、数日間ブダペスト見物もしたので、その時の見聞をだらだらと書いてみようと思う。題して「続・ヨーロッパ2011初秋」。

オーストリアの首都ウィーンからハンガリーの首都ブダペスト(発音はブダペシュトの方が近いようだ)まで列車で行った。ウィーン・ブダペスト間の鉄路は300キロほど、3時間の列車の旅になるはずだった。それが倍の6時間の旅になってしまった。

ウィーンの西駅から列車に乗った。近くの席にいた人懐っこそうな男性が英語で話しかけてきた。

「日本から?」
「ええそうです。あなたは?」
「私はウィーンに住んでいて、今日はブダペストまで日帰りでいきます」
「ビジネスですか」
「私はペルシャの美術を研究していて、ブダペストの仲間と打ち合わせに行きます」
「ペルシャの美術研究ですか。楽しそうなお仕事ですね。ペルシャにはよくお出かけになるのでしょうね」

などと話しているうちに、列車がハンガリーとの境界近くのブルック・アン・デル・ライタという名の駅で止まったきり動かなくなってしまった。

ドイツ語の車内放送があった。列車が順調に運行しているときは、ドイツ語の車内放送に続いて英語の案内が録音再生で流される。だが、いったん何か変わったことが起きると、ドイツ語だけの生放送になってしまう。

「この先で架線が切れて電車が動けなくなったそうです。復旧にかかる時間は不明だと言っています」

ペルシャ美術研究者が英語で説明してくれた。彼はポケットから携帯電話を取り出し、ブダペストの友人に、遅れると連絡しなくては、と言った。

しばらくすると、またドイツ語の車内放送があった。



「架線の復旧には半日ほどかかりそうなので、ここで列車を降りてバスに乗り換え、架線事故の向こうの別の駅まで移動してくれと言っています」

ペルシャ美術研究家が説明してくれた。そのあと、彼は立ち上がって、車内のドイツ語がわからない乗客のために、同じことを英語で繰り返した。本来は車掌の仕事なのだが、親切な人だ。

ブルック・アン・デル・ライタという小さな町の駅前でバスを待った。20分ほどまたされてバスがやってきた。日本の通勤電車のようになった満員バスで、新しい列車が待っている駅に向かった。その駅の名前は忘れてしまったが、そこでもブルック・アン・デル・ライタ駅へ向かう大勢の旅客がバスを待っていた。



ブダペストへ行く電車がホームで待っていた。その車内では中年の女性が先ほどのペルシャ美術研究者を相手にこんなことを喋っていた。

ブダペストへ行くのだが、あそこにはあまりいい印象を持っていない。前回行ったとき地下鉄の切符を紛失してしまい、検札の駅員にとがめられて、いくら紛失したと説明しても聞き入れてもらえず、高額な反則金を取られた。あの国は最近まで共産主義の国で、共産主義者のやり方がいまだにのこっている……とかなんとか。

ペルシャ美術研究者はいささか辟易した様子だった。それを救ったのは近くの席にいた年配の男性だった。「すこし静かにしてくれませんか。疲れた。眠りたい」と彼が言った。女性は自分の席に戻って行った。

前回ブダペストで不愉快な思いをしたにも関わらず、またブダペストへ行くというのは、どういうことなのだろうか? 不愉快な地下鉄の経験だったが、にもかかわらずブダペストの魅力には抗いがたい、ということなのだろうか?



2 恐怖の館

18世紀のハンガリーはハプスブルク家が支配するオーストリアの属領となり、19世紀半ばにオーストリア=ハンガリー帝国として再編された。第1次世界大戦後にハプスブルク家が終焉を迎え、ハンガリーは共和国として独立した。だが、間もなくヒトラーの台頭とともにナチスに接近した。

2次世界大戦中にはドイツに占領された。戦後はドイツ軍を排除してハンガリーを解放したソ連の衛星国になった。1956年にはソ連指導部のスターリン批判が公にされた。同じ年、このスターリン批判の波に乗ってハンガリーはソ連のくびきから逃れようとした。しかし、こうしたハンガリー市民の政治のうねりが、ソ連の武力介入を招いた。ハンガリー事件である。

アンドラーシ通りはブダペスト随一の美しい大通りである。このアンドラーシ通り60番地に「恐怖の館」という名の博物館がある。博物館の建物はかつて、ナチス・ドイツの支援でナチ党をまねてハンガリー人が結成した矢十字党がヒトラーの支援でハンガリーの政権を握った1944年から1945年にかけて、秘密警察の本部として使われていた。ここにはドイツのナチの出先機関も同居していた。



さらに、第2次大戦後のスターリン時代には、ソ連のKGBをまねてつくった秘密警察アーヴォがこの建物を本部に使った。

展示室ではヒトラー時代の矢十字党や、スターリン時代のアーヴォの暗い記憶を呼び戻す秘密警察の制服、通信機器、秘密文書などのほか、抑圧した側の人間、その犠牲となった人々の写真、あるいは、のちにになって当時の記憶を語る被害者のビデオ映像などを、スマートな手法で展示している。

地下にはこの建物が秘密警察の本部だったころ、尋問や拷問のために使われたという小部屋がある。地下室そのものが展示物になっている。クメール・ルージュのトゥール・スレーン虐殺博物館のような犠牲者の白骨は展示される生々しさはないが、地下のよどんだ空気に残忍な記憶がただよう。

博物館内部の展示物は撮影が禁止されている。唯一の例外が建物内部の中庭風空間に展示されている戦車と、犠牲者の顔写真で埋め尽くされている壁だ。



この恐怖の館は2002年に開館した。開館のための資金を提供したのは現在のハンガリー首相オルバーン・ヴィクトルである。彼は右派の政党フィデスを率いている。

ハンガリーは東欧の中では一足早く西欧化の道を模索し、ソ連崩壊後は右派政党連合と左派政党連合が政権を競いあってきた。オルバーン率いる右派のフィデスは左派の社会党に勝てず、2002年から2010まで社会党と左派政党の連立内閣がハンガリーの政治を担当してきた。2010年にフィデスが8年ぶりに社会党から政権を奪い返した。

ハンガリーの社会党はソ連時代の共産党の系譜だ。2002年開館の恐怖の館はオルバーンの社会党攻撃の道具だったという見方が、開館当初からあったという。

恐怖の館は社会党攻撃にはあまり役に立たなかったのか、2002年の選挙では社会党が勝利して政権につき、2006年、2008年と社会党政権が続いていた。

したがって、左派びいきの人は、アンドラーシ60番地の館を、プロパガンダの館とよぶ。




3 ブダペスト地下鉄

ブダペストの地下鉄はロンドンのそれに続いて世界で2番目に古く、大陸ヨーロッパで最古である。あのパリの地下鉄より古い歴史を持っている。

ブダペストの地下鉄が開通したのは1896年。1927年営業開始の東京・銀座線より30年ほど早い。アンドラーシ通りの下を走る世界で2番目に古い地下鉄は現在でも、地下鉄1号線としてつかわれている。

当時の地下鉄建設は地表から地面を掘り下げてゆく開削方式で行われた。東京の銀座線も同じ方式だ。大きな溝を掘り、そこへ地下鉄トンネルをつくったあと、土をかけてトンネルを埋める。したがって、ブダペストの地下鉄1号線の駅は、銀座線の駅とおなじように地表から浅いところにある。



ウィーンの地下鉄もそうだったが、ブダペストの地下鉄も改札ゲートがない。乗客は切符を買い、そのままプラットフォームに下りてゆく。簡単にただ乗りができそうな状況だ。

ただ乗り(フリーライダー)は現代社会の厄介な問題だ。うろ覚えだが、むかし「はしけの教訓」というエピソードを読んだことがある。

かつて長江(揚子江)をさかのぼって重慶に行く船は、急流にさしかかったとき、ロープで船を岸辺から曳いてもらっていた。

船を曳くのは近くの村から集まった人々だ。曳き手のなかにムチをもった男がいて、怠けている者を容赦なく打つ。この様子を船の中から見ていたアメリカ人(なぜかこういうときはたいていアメリカ人が引合いに出されるのであるが)の女性が、「あの非人道的なムチ打ちをやめさせない」と船長に迫った。

船長は困った表情で答えた。「それはできない相談です。あのムチをふるっている男は、船を曳いている労働者全員が賃金の一部を出し合って雇っている者です。フリーライダーをゆるさいないために、かれらが自発的にやっていることですから」

ウィーンやブダペストなどヨーロッパの地下鉄では、随時係員が検札にやってきて、もしこの時、無賃乗車とわかった場合は、高額な反則金を取ることでただ乗りに歯止めをかけるシステムを採用しているところが多い。

各駅に改札を設けこれを維持するために必要な経費と、無賃乗車による推定収入減を比較して、改札を設けない方が有利と判断して採用した方式である。したがって瀟洒なウィーンの地下鉄では検札の係員を見かけることはなかった。



だが、ブダペストでは、時間帯によるが、地下鉄の出口で男女数人が乗客に乗車券の提示を求めていた。

筆者がブダペストを訪れたころ、ハンガリー政府がスナック菓子などに課税するポテチ(ポテトチップス)税を始めていた。国民に不健康な食品をたくさん食べさせないようにする方策と説明されたが、80億円ほどの税収増を見込んだ課税でもあった。

ウィーンからブダペストに来るとき、車中の女性が、前回ブダペストへ行ったとき、
地下鉄の切符を紛失、検札の駅員にとがめられて紛失したと説明しても聞き入れてもらえず、高額な反則金を取られた――あの国は最近まで共産主義の国で、共産主義者のやり方がいまだにのこっている、とまくし立てていた件をこのシリーズの第1回で紹介した。どうやらあの一件は、残存共産主義メンタリティーのせいというよりは、ブダペストの地下鉄を運行している公共企業体BKVの手元不如意からきた収入増対策の方の可能性が高い。




4 西駅のマック

ブダペスト西駅に行った。西駅はパリのエッフェル塔を設計したあのエッフェルが設計したものだ。鉄骨とガラスを使ったブダペスト西駅は19世紀後半に建築された。しばらくの間ヨーロッパのモダンな駅舎の1つだった。

それから、幾星霜。今では駅構内はこんな風である。



西駅に行ったのは別に汽車に乗ろうとしたわけではなかった。西駅に隣接してハンバーガーのマクドナルドの店があり、旅行ガイドブックで「世界で最も優雅なマック」と宣伝されていたので、一目見ようと思い立っただけだ。
もともと駅のレストランだったところをマクドナルド用に改装したのだそうだ。



筆者は1990年代の初め、オープンして間もない北京・王府井のマクドナルドでバーガーを食べたことがある。ファミリー・レストランよりワンランク格上のレストランといった感じで、きちんとした身なりの(一張羅に近い)親子でにぎわっていた。印象に残ったのは、床にごみが散らかると、店員が目ざとくそれを見つけて、さっと処理していたことだ。北京の食堂ではあまり見かけない風景だったので、記憶に残っている。

ブダペストをはじめ東欧圏にマクドナルドが進出したのは1988年のこと。この年にはベオグラードにもマック1号店が開かれている。モスクワのマック1号店は1990年のこと。同じ1990年に中国でもマック1号店がオープンした。場所は深圳経済特区。

マックは冷戦構造の終焉を告げるカナリアだったわけだ。マック西駅店の入り口で店内の写真を撮ったら、すぐさま店員があらわれて写真はやめてくれと言った。



バーガーを買って店内で食べているうちに、ジョージ・ミケシュのことを思い出した。大学生のころの英語のテキストがペンギン文庫の How to be an Alien だった。大陸ヨーロッパのベッドには愛があるが、イギリスのベッドにあるものは湯たんぽだ、といった風な冗談でいっぱいの面白い本だった。

ミケシュはハンガリー生まれのジャーナリストで、仕事でロンドン滞在中にイギリスに帰化した。冗談専門のユーモア・ライターかと思っていたら、1956年のハンガリー事件のさいはBBCの特派員として現地取材している。

その生真面目なジャーナリストらしい取材報告を George Mikes, The Hungarian Revolution, Andre Deutsch, London, 1957にまとめた。その邦訳『東欧革命の内幕』(みすず書房)を旅行から帰って読んだ。ハンガリー事件は1956年のソ連共産党のスターリン批判をうけて、ハンガリーがソ連のくびきを逃れようと立ち上がったものの、結局、ソ連に武力で抑え込まれた悲劇だった。日本でもソ連びいきの政党や知識人と、そうでない人たちの間にハンガリー事件をめぐって激しい論争が起こった。

1989年のベルリンの壁撤去、翌年の東西ドイツ合併の時は、日本では論争1つ起きなかったことを思うと、遠い遠い昔のおとぎ話のような日本人のハンガリー事件論争。隔世の感がある。

さて、ミケシュのハンガリー事件報告書だが、第2回の恐怖の館で登場した秘密警察アーヴォとアーヴォを恨む民衆のあいだの血みどろの戦いについて、ミケシュの見聞を紹介しておこう。

――アーヴォは国会広場に集まった民衆に向かって突然発砲し、600人もの人を殺した。一方、アーヴォのメンバーがブダペストの街路で民衆にとらえられたが最後、一番手じかな木につるされた。民衆はアーヴォの本部を襲撃し、高級士官数十人を殺し、とらえた60人ほどの男を広場に連れ出して、樹や街路灯に逆さづりにして、殴り殺した。市街戦の混乱の中で、154人の囚人と1人のアーヴォの看守が地下牢に閉じ込められた。もう5日間もなにも食っていない、と助けを求める声はかすかに聞こえるのだが、地下牢への秘密の入り口か見つからない。やっと救助隊が地下牢にたどり着いたとき、全員が餓死していた。

ポーランドもそうだが、東欧(今では中欧とよばれる)の国では、ナチやソ連とその手先を相手にした市街戦の記憶が街にしみついている。




 中央マーケットにて

余暇を楽しむ旅行者にとって、食料品マーケットの見物は楽しい。小売市場ではなく卸売市場だが、東京の築地市場も外国観光客に人気のある場所だそうだ。

ブダペストの市街地にあるいくつかの小売市場の中で一番大きいといわれる中央市場を見物に行った。



主力商品は肉と野菜だ。ハンガリーは内陸国なので、鮮魚市場は前面に出てこない。同じヨーロッパでも、以前見た地中海沿いのベニスでは、市場には鮮魚売り場がかなりの部分を占めていた。


 <参考写真:ベニスの市場の鮮魚売場>

その代り、ブダペストの市場には珍味フォアグラをはじめとする食肉が豊富にあった。


                        肉屋さん


                  肉類いろいろ

先日、東京・表参道のちょっと気取ったフランス店で食事した。黒トリュフをのせたフォアグラが出てきた。たずねてみるとハンガリー産だった。ローストされた鴨肉もハンガリー産だった。ついでに、今日の料理の全コースで、なんかカロリーになるのだろうね、ときちんとしたスーツ姿の店の人にきいたら、「フランス料理をお召しあがりになるときは、カロリーのことはお忘れください」と言われてしまった。

フォアグラはfoie(肝臓)+ gras(脂肪の)というぐらいだから、その半分が脂肪だ。強制給餌で脂肪肝・肝臓肥大を発症させてフォアグラをつくる。動物虐待という批判にさらされフォアグラ生産は白い目で見られている。

フォアグラ生産量年間約2万トン(2009年)のフランスは、これはフランスの文化遺産だ、と主張しているが、これから先どうなる事やら。生産量ではフランスの2割にも満たない年間2600トンだが、それでも生産量では世界第2位のハンガリーでは、これを機会に、安い人件費を切り札にしてフランスに追いつけとばかり、国をあげてフォアグラ生産に励んでいる。そんな新聞記事を読んだことがある。

野菜類売り場では色とりどりの野菜が積み上げられていた。残念ながらマジャール語が出来ないので、マーケットの見聞は写真による「見」だけで、「聞」がない。どうぞ写真をごらんあれ。


                     野菜の定番キャベツ


        なにやらこまごま


               宣伝販売



6 夢幻的教会

イスタンブールでは東方正教会の聖堂がイスラムのモスクに改修された。エジプトのルクソールではエジプトの神殿の上にモスクが建てられた。メキシコ・シティーでは、破壊されたケツァルコアトルの神殿跡地に、壊した神殿の石を再利用してキリスト教のカテドラルが建てられた。

ハンガリーの主要人種であるマジャール人は、昔々、ウラル山脈南部に住んでいた。やがて西方に民族移動を始め、9世紀ごろにはハンガリー平原に進出。騎馬民族のマジャール人は、やきこと風のごとく、侵略すること火のごとき勢いで、遠くは今のフランスのパリあたりまで行って、ヨーロッパを荒らしまわっていた。9世紀から10世紀ころのヨーロッパは、北からはヴァイキング、南からはサラセン、東からはマジャールの侵入に悩まされていた。

10世紀の中ごろ、レフィフェルトの古戦場でマジャール騎馬軍団は、神聖ローマ帝国のオットー大帝軍団に完敗して、ハンガリー平原に退却した。そののちマジャール人は定住生活を始め、人種的にも文化的にもヨーロッパ化していった。

東からアナトリアにやってきたオスマントルコは、コンスタンティノープルの東ローマ帝国を滅ぼした後、ヨーロッパに攻め込んで行った。16世紀半ばから17世紀末までの約150年間、ハンガリーはオスマントルコが支配する地となった。ウィーンも包囲され、落城寸前になったこともある。



ドナウ川を見下ろすブダの丘に建つマーチャーシュ教会もオスマントルコ占領中は、モスクに造りかえられていた。

マーチャーシュ教会の外観は、由緒正しいゴシックの教会だが、教会の内部に一歩足を踏み入れると、見慣れた西欧の教会内部と雰囲気が異なる。



柱、壁などには幾何学模様や草花の壁画が描かれている。サマルカンドのレギスタン広場の建物の壁面や円柱の装飾を思い出させる。ステンドグラスの窓もローマン・カトリックの聖堂で見慣れているステンドグラスとちょっと違う。モスクのステンドグラスに似ている感じだ。イスラム文化が残していった装飾なのだろうか?

それがどうも、そうではないらしいのである。



ウィーンを攻めたオスマントルコの軍勢をハプスブルク家の軍が追い払い、オスマントルコ追撃して、ハンガリーから追い出し、ハンガリーをハプスブルク家の領地にした。マーチャーシュ教会はその後、改修を重ね、現在の内装は19世紀のものだ。



改装を指揮したのは2人のハンガリー人だった。装飾は当時流行していたアール・ヌーヴヴォーの手法がとり入れられた。自由な装飾性を追求するにあたって、過去のイスラムの記憶や、もっとさかのぼって、マジャール人の記憶の古層から掘り出されたものが、教会の壁、柱などに塗り込められたのであろう。









7 シナゴーグ

ブダペストのドハニー街にあるシナゴーグは、ヨーロッパで最大のユダヤ教の寺院だといわれている。19世紀中ごろに建てられたこのシナゴーグは3000人を収容できる。



案内書よると、ブダペストのユダヤ人もまたナチによる凄惨なホロコーストの犠牲者になったと語る。

ブダペストのユダヤ教徒市民はこのシナゴーグが建てられたとき5万人弱だった。それが1930年には20万人になり、第2次大戦直前にはブダペストに100以上のシナゴーグがあった。



1941年にはブダペストにユダヤ人(ユダヤ教徒)と反ユダヤ法によって血統上ユダヤ人とされた人々、合わせて24万人強が住んでいた。

2次大戦でハンガリーはドイツ側につき、しばらくナチの風下にいたが、1944年にはドイツに占領された。ドイツ占領以前に15千人のユダヤ人が労働キャンプに送られて、そこで死んだ。ナチの占領がはじまるとアドルフ・アイヒマンがやってきて、ユダヤ人から移動の権利を剥奪し、黄色いバッジの着用を義務づけ、ゲットーを造って、2000軒の家に2万人の人を押し込めた。



ナチ占領中には矢十字党がユダヤ人を迫害した。ユダヤ人をドナウ川の岸辺に並ばせて銃殺し、死体を川に放り込んだ。何万人ものユダヤ人がブダペストからオーストリアに向かって死の行進をさせられて死んだ。

ソ連軍が19451月にブダペストのゲットーを解放した。ゲットーで生き残っていたユダヤ人9万人強、市内に身を隠していた2万人、労働キャンプから生還した2万人の、合計13万人強がホロコーストを生き残っていたことがわかった。ブダペストのユダヤ人人口の半数近くがホロコーストの犠牲になった。

ゲットーが解放されたときの写真がシナゴーグに展示してあった。



ホロコーストで60万人のユダヤ系ハンガリー人が処刑されたことを追悼するために、ハンガリー政府は2001年に416日―1944年のこの日ブダペストにゲットーがつくられた―をホロコースト・メモリアル・デーとし、その3年後の2004年にホロコースト・メモリアル・センターを開館した。だが、記念施設はいつもガラガラだという。だが、2002年に開館した「恐怖の館」はハンガリー人の入場者でいっぱいになった。「ポスト・共産主義のヨーロッパの現代史の記憶にユダヤ人に対する迫害も加えることのむずかしさの一例だ」とトニー・ジャッド『ヨーロッパ現代史』はいう。

現在ではブダペストのユダヤ教徒は8万人ほどで、東ヨーロッパの都市では最大のユダヤ人口だ。多くの人がこのシナゴーグの周辺に住んでいる。

ドハニー街のシナゴーグの建物は壮麗で、内部は宗教的な雰囲気を醸成する装飾になっている。シナゴーグを見学するためには入場料を払わねばならないが、入口の男子は観光客を見ては「どちらのお国から」と英語で問いかけ、答えた国ことばで「こんにちは」とあいさつするそつのなさだ。




だが、よくよく見ると、入場口に金属探知のセキュリティーゲートが設置してあった。今回の旅で空港以外の場所でセキュリティーゲートをくぐったのはこのシナゴーグだけである。



2次大戦後、約束の地に戻り、ユダヤ人国家を樹立し、パレスチナ人をゲットーにおしこめている歴史の皮肉がももたらした聖堂入口のセキュリティーゲートである。




8 イシュトヴァン大聖堂



ブダペストの旧市街は魅力的なたたずまいを見せる。街並みがまるで趣味の良い原寸大の骨董品でできあがっているかのようだ。



その街を高いところから眺望しようと、ブダペスト随一の寺院であるイシュトヴァン大聖堂へ行き、ドームにある展望台に登った。エレベーターが動いていなかったので、昇ったのではなく文字通り徒歩で登った。

ヨーロッパの街並みはたいてい日本の都会よりも美しい。ヨーロッパの農村地帯の風景も美しいが、日本の農村もまた味わいのことなる美しさがある。なのに、日本の都会の風景がヨーロッパのそれと比べて見劣りするのはなぜだろうか。



見ている私が異国情緒に浸かっているからだろうか? ヨーロッパからやってきた旅行者が、東京は、あるいは大阪はヨーロッパの都市より美しいと思うことがあるのだろうか?



イシュトヴァン大聖堂から降りて(降りるときはなぜかエレベーターが動いていた)、近くの中央ヨーロッパ大学へ行った。つれあいがそこの学科長の教授に用があったからだ。

中央ヨーロッパ大学は1991年に造られた英語で教育・研究をするまだ新しい大学院大学だ。ソ連の崩壊と東欧の自由化に合わせて開学した。この大学を設立するにあたって大枚の資金を提供したのが、ジョージ・ソロスだった。

ソロスはその活動の最盛期、あこぎなファンド・マネジャーである一方慈善事業家でもあった。ジョージ・ソロスの気前の良い資金提供で懐の豊かなこの大学院大学は、周りの大学よりもいい給与で世界中から教員を集め、奨学金制度を完備してこれもまた世界中から学生を集めている。

つれあいが会いに行った学科長さんもポーランド出身の人だった。話がおわったあと、ではお食事でもと誘われ、大学近くのレストランで夕食をごちそうになった。

その食事で最近はなりをひそめているソロスことがちょっと話題になった。ソロスはユダヤ系のブダペスト出身者で、ロンドンで苦学して、ついには凄腕の投機家になり、稼ぎまくったあぶく銭の一部を慈善事業に回している。中央ヨーロッパ大学に回ってきた基金も最近ではやや心細くなってきているということだった。

1997年にタイで始まったアジア金融危機で、最長不倒政権を記録中だったインドネシアのスハルト大統領が退陣に追い込まれた。あの金融危機がなければスハルトは病気引退か、在職死亡していただろう。それほどスハルトの政権基盤は強固だった。
マレーシアのマハティール・モハマド首相(当時)は、アジア金融危機を引き起こした犯人の一人がジョージ・ソロスだと、ソロスを蛇蝎のごとく嫌っていた。ジョージ・ソロスの存在とアジア金融危機との直接的因果関係は明らかではないのだが、ジョージ・ソロスがいなかったら、スハルト退陣はなかった、という大風が吹けばおけ屋がもうかるふうの因果話が頭の中に浮かんでくる。

金融危機で大勢が損をする中で銭を稼ぐあこぎな仕事を続けることで、ジョージ・ソロスが築き上げた個人資産は1兆円ちょっとだというゴシップ記事を読んだことがある。スハルトがインドネシアの国庫からくすねてため込んだ個人資産は3兆円にものぼると推定されていた。悪いやつ。上には上がいるものだ。



学科長さんと食事の後、ライトアップされたイシュトヴァン大聖堂の前を通った。「EGO SUM VIA VERITAS ET VITA わたしは道であり、真理であり、命である」という、夕暮にみた大聖堂正面の金色のロゴはこの時刻にはもはやかすんでいた。





9 その他思い出すままに

ドナウ川に水陸両用バスがぷかぷか浮かんでいた。日本の観光地にもあるとは聞いていたが、実際に見るのはこれが初めてだ。バスの向こうに国会議事堂が見える。



世界屈指の美しい議事堂だが、その中で行われていることはさほど美しくないとハンガリー人が思うのは、日本人が日本の国会議事堂を見る眼に同じ。故人が喝破したように、政治とは原理原則主義主張で着飾った私利私欲の争いだからだ。日本の国会ときたら、いまや私利私欲党利党略派利派略の汚濁の中で、アップアップと沈没寸前だ。



ブダペストは街のあちこちに記念碑や彫刻が飾られている。それが適度に古びていて、言葉少なく、いかにも観光用といった感じがないのが、これまたいい。





そうした古い街の広場に辻音楽師があらわれて、バイオリンをケースから取り出して一曲ひきはじめた。夕暮れ時が近い。



                     (写真と文・花崎泰雄)