1 20元の風景

20192月、桂林はおよそ1ヵ月間晴れた日がなかったそうだ。曇り空が続き、ときおり雨がしょぼついた。

どんよりとした空模様。春霞――といえば風雅であるが、どこか寒々とした冬の名残の霧が、桂林と陽朔の間の漓江を包んでいた。オフ・シーズンの漓江下りだが、14億近い人が暮らす中国であり、余暇を楽しむ人がどんどん増えている中国であるから、船着き場は混み合っていてオフの感じはしない。

桂林の漓江下りとなるときまって引っ張り出されるのが中唐の文人・韓愈の「送桂州厳大夫」の漢詩の一節。

  江作青羅帯 山如碧玉簪

「江は青羅の帶をなし,山は碧玉の簪のごとし」(川は青いうすぎぬの帯となり、山は緑の玉のかんざしのようである)。桂林の観光地化はこの一節が起源となって、宋の時代までに山水画の古里としての桂林・漓江への視座が固定した。

早春2月下旬、漓江沿いの風変わりな山々の頂は霧に包まれ、曇天を下の漓江の川面は鈍い鉛色である。だが、そこはそれ、山の頂はうっすらと春霞につつまれ、船はあくまで青い水面をゆるゆると進む、という風に視覚を調整するのが観光というものである。

さて、漓江の風景はサントリーの烏龍茶のコマーシャル映像で日本でもすっかり有名になった。CMの映像を念押し確認するために桂林に出かけた日本人観光客は少なくないだろう。

中国ではもともと有名だった景勝地・桂林の風景を、紙幣のデザインがさらに拍車をかけた。中国の20元札は、表は毛沢東の肖像だが、裏には漓江の風景画が使われている。この風景は桂林と陽朔の間にある興坪(シンピン)あたりを描いたものだといわれている。

川下りの船が興坪を通る時、中国人の観光客は用意してきた20元札を手にデッキに駆け上り、スマートフォンで20元札の漓江と本物の漓江を同時に写真に収めようとする。



2 いかだ

桂林から陽朔まで遊覧船で4時間ほどのクルーズになる。船はせかず急がず漓江をゆるゆると下って行った。そのわきを何隻かの遊覧船が追い抜いて行った。川下りを急ぐのは運賃が安い船だ、とガイドさんが説明した。この船は4つ星の船で、5つ星の船はまだない。いま建造中だ。彼はそう言った。



漓江の川岸にいかだがずらりと並んで浮かんでいる。観光筏である。観光筏はまっこう川風にさらされるので、早春のこの時期、客は少ない。それにプラスティックのパイプを繋いだ筏では、そう遠くまでいけないだろう。周辺をぐるぐるっと回っておしまい。時間のない忙しい観光客、節約志向の旅行者向けである。だいじょうぶかなあ、といった感じの筏船だが、かえってそのことで興味をそそられるツーリストもいることだろう。

桂林と漓江の川下りはかれこれ4半世紀ぶりである。

1995年の9月に北京で国連世界女性会議が開かれた。たまたまそのころはオーストラリアに住んでいた。オーストラリアのNGOに誘われて、つれあいともども北京へ行った。会議閉会後、オーストラリアのグループがオーガナイズした北京―西安―桂林―上海のグループ旅行にも参加した。

4半世紀前の中国は今の中国とだいぶ違った。江沢民氏がケ小平氏の跡を継いで中国の実権を握ってまだ間もないころだ。北京の王府井にある北京百貨大楼の品ぞろえも素朴な商品が多く、さらに、商品を置く棚に空白部分が目立った。だが、上海へ行くと南京東路の百貨店には日本製の女性用衣料品や化粧品が揃えてあった。中国がまだ消費生活という意味では途上国だったころの国内地域差である。

西安でグループを案内してくれたガイドさんは、西安の市民に代わってオーストラリアの友人を熱烈歓迎いたします、といった硬い感じだった。だが、上海のガイドさんの身のこなしや口ぶりには、中華人民共和国の匂いが無かった。どこかアメリカ育ちの中国人のような、社会主義中国にとらわれない逸脱ぶりというか闊達さが感じられた。

今回、桂林を案内してくれたガイドさんは、中国東北部の大学で日本語を学び、桂林に来て、かれこれ20年ほど旅行会社で働いている、といった。桂林とその周辺に日本人を案内し、時々、中国人を連れて日本へ行く。すこぶる達者な日本語を駆使し、日本事情にもめっぽう詳しい人だった。

さらに、日本人と中国人の生活習慣、嗜好、ものの考え方についても、依怙贔屓なしに皮肉を言い、あるいは褒めて、笑い話に仕立てた。中国と日本をよく知る外国人の日本人・中国人比較論のおもむきである。自国民も他国民も同じように客観視できる、そういうタイプの職業人がそだっているのだなあ、と感心したものだ。

さて、19959月の漓江下りはまだ夏のことで、韓愈の言うように山は緑濃く、川は青かった。その時も漓江には筏が浮かんでいた。当時はこんな風に。





3 桂林山水甲天下

「桂林山水甲天下」――桂林の山水は天下一品だという。



曇天下、春の霧に包まれてどこかぼんやりした山水の眺めはいいもんだ。19959月の漓江下りの時は夏の日差しがあったが、写真を見ると、こちらもどこかけぶった感じがする。



あのころはまだフィルム写真の時代で、この写真もフィルムからデジタル化したものだ。カメラをフィルムからデジタルに切り替えたさい、保存していたフィルムのおもなものをスキャナーでデジタル化した。デジタル化のプロセスで映像のキレが失われたのだろう。

あるいは桂林一帯は日本と同じように、夏には湿度が高く、湿気のせいでピシッとした写真がとれないのかもしれない。

2019年早春の漓江も、1995年晩夏の漓江もおなじようにどこかぼんやりとかすんでいた。

  

山水の眺めは変わらず――たかが4半世紀で山水が変容するわけもなく、乗船した船もたいして変わってはいなかった。

客を寛がせ、ビールを出し、食事を提供し、ときどきは「間もなく写真ポイントです」と船内放送で客をデッキに上らせる。

1995年の漓江遊覧船には船尾に台所のスペースがあった。そこで白い上っ張りを着た料理人が働いていた。調理していたのか、食器洗いなどの食後のあと片づけをしていたの、今となっては記憶が定かではない。

    

現在の遊覧船のランチはキャビンに保温容器を並べたブッフェ式だ。1995年のころは、給仕さんが料理の入ったお皿を席まで運んでくれたような気がする。ランチを楽しむために乗った船ではないから、ケータリングの変化など、まあ、どうでもいいことなのだが。

遊覧船の終点・陽朔には観光用の商店街が出来上がっていた。山水に浸った時間をあっという間に忘れさせるにぎやかなショッピング街だった。



4 棚田

漓江の流れと川沿いにそびえる奇岩がつくりだす山水の風景は、中国南方カルスト地形のみどころの1つだ。ありていに言ってしまえば、漓江下りをやってしめば桂林でやることはもうない。

見るべきものはすでに見た――それでは身もふたもないので、桂林の旅行会社は桂林市内観光、郊外の古鎮訪問、棚田見物といった企画を立てて旅行者のご機嫌をとりむすぶ。

棚田を見に行った。棚田は日本にもたくさんある。なかでも能登半島の白米(しらよね)千枚田は、日本海に落ち込む急斜面に棚田が作られている。米作シーズンには田んぼになるが、それ以外の時はあぜ道にイルミネーションを張り巡らして、棚田ライトアップショーをやっている。棚田で収穫したコメを結構な値段でお土産用に販売もしている。

バリの棚田も有名だ。インドネシアは熱帯なので、三期作が可能である。したがって年中青々とした稲田を見ることができる。斜面の棚田にヤシの木がたっているのは観光客にはエキゾティックな眺めである。だが、たいていの日本人はインドネシアのコメはまずいという。

桂林は広西チワン族自治区の大都市の1つである。桂林から100キロ弱の辺りに龍脊(ロンチー)棚田がある。棚田は自然公園にもなっていて、観光客から入園料を徴収する。棚田歩きにはいくつかのコースがある。

その中で歩く距離が最も短いコースに案内された。そんな話はどうでもいいことなので、まずは、棚田の眺めをご覧いただきたい。



桂林は亜熱帯なので米の二期作をやっている。写真をよく見ると、右手上方に(棚田だと斜面の下方)に人影がある。そろそろコメ作りの準備が始まるのだろう。

棚田の上方の斜面に小さな集落があった。その中の民宿の食堂でお昼を食べた。台所の裏で、女性が竹筒ごはんを作り始めた。竹筒の中に豆御飯をつめ、竹筒を火の中に突っ込んで蒸し焼きにする。竹は黒く焦げるが、燃えてしまうことはない。なぜだろうか?

タイ北部にも同じような竹筒ごはんがある。カオラームという。こちらの方もマメとコメの混ぜご飯だが、米ははもち米、それにココナツミルクをくわえる。

中国南部からタイにかけての古式ゆかしいごはんの炊き方だ。稲作をし、周辺に孟宗竹のような大型の竹が生えている地域のお米の炊き方である。日本人が住んでいる島は湿潤なアジアモンスーン・ベルトの東の端になる。



5 経済成長の果実

1995年の桂林の街の写真をお見せしよう。峨峨たるカルストの山に囲まれた南中国の地方都市の趣きである。1995年に行ったときは西安から飛行機に乗った。2019年の今回は東京から広州に飛び、広州から高速鉄道で桂林に向かった。

広州―桂林の高速鉄道は時速240キロほどで走る。陸路3時間。便利だが、飛行機なみに、荷物のセキュリティー検査やパスポートと乗車券の照合が行なわれる。広州―桂林間は「和諧号」と名付けられた車両が使われている。

中国では経済成長で豊かになった人・地域と、豊かになる機会に恵まれていない人・民族・地域との間に亀裂線が生じている。中国のジニ係数は極めて高く、0.51OECD2016。ちなみに米国0.39、日本0.31)。中国革命後の平等に貧しい時代から、パイは大きくなったが配分にゆがみが生じた時代になった。ケ小平の「豊かになれるものから豊かになれ」という先富論を達成したかに見えるが、先に豊かになった層が、なりそこなった層が豊かになるのを助けているかというと、そのようにも見えない。ジニ係数が0.5を超える社会では暴動が恒常的に起こる、とされている。

経済成長が生んだ高速列車の車両に「和諧」(調和)の名前を付けたのも、列車に乗るにも身分証明書の提示や荷物検査が必要になっているのも、社会的背景として和諧でない事態が生じているからだろう。

それはさておき、桂林から20キロほどの漓江沿いの古い町・大墟古鎮へガイドさんが案内してくれた。漓江沿いの水運の中継地として1000年ほど前から栄えてきた町だそうである。現代ではさびれた街になっていたが、中国の市民が余暇を楽しむようになり、観光地として再生した。



ただし、町の建物の多くは古そうに見えるが、最近になって古そうに見えるように建てかえたものだと、ガイドさんが言った。町中の運河にかけられた石橋は、イミテーションが多くなった大墟古鎮にあって、600年前の真正の古橋だそうだ。

桂林の観光もけばけばしくなった。鍾乳洞は極彩色のイルミネーションで飾られ、夜になると漓江でも光のショーが催される。にぎにぎしいことが好きなツーリストも少なくないことだろから、日本から出かけて年寄りくさいことを言っても詮無いことだ。



夕食をたべたホテルの大広間では、巨大な宴会がまさに始まろうとしていた。いやいやどうも、日本のバブル期そっくりの風景である。「企業のお客様接待ですよ」とガイドさんが教えてくれた。



6 コイン・ビル

早朝、高速鉄道で桂林から広州に向かった。



桂林駅を出ると列車は朝霧の中に浮かぶ山々を見ながら進む。川の流れは無いが、これもまた美しい風景である。

広州は北京、上海に次ぐ中国で3番目の大都会である。「食在広州」の広州である。広州の市場には生きたニワトリやカモ・アヒルを扱う生鳥市場がある。鳥インフルエンザが流行すると、まず最初に閉鎖されるところである。そう思うとこのトリの密集度に何とはなしの不安感を覚える。



市場の中に小さな卵の店があった。鳥市場に卵屋さんが店開きしているのは面白くもおかしくもないが、面白いのはこの小さな素朴な外観の卵屋さんにQRコードが表示されていたことである。

中国のスマートフォン普及率は日本より高い。したがって、スマートフォンを使ったQRコード決済の普及率も日本より高い。韓国のスマートフォン普及率は9割を超える。おそらく世界1だろう。したがってQRコードによる決済の普及率も中国以上に高いだろう。日本のスマートフォン普及率とQRコード決済の普及率は、アジア諸国の中では低い方である。

  

日本政府や関連業界はQRコード決済を促進したいとしている。だが、経産省の見解によると「日本は治が良い。偽札の流通が少ない。現金への信頼度が高い。店舗での現金決済が迅速・正確である。あちこちにATMがある」ので、日本ではキャッシュレス決済が進まないのだそうだ。

日本のお札は今次大前に兌換券ではなくなった。以後は日本銀行を信用しての信用取引である。印刷した紙で取引するか、電子取引するかの違いだ。違いが無いように見えるが、大きな違いがある。

日常の買い物がQRコードなどを使ったキャッシュレスになると、決済の記録が逐一残り、それを覗くと特定個人の消費行動が明らかになってしまう。図書館は個人名が特定できるような貸出記録は残さないことになっている。書店でキャッシュレス決済で本を買うと、誰がどこで何という書名の本を買ったかという記録が残る。現金には、現金ならでの匿名性という利点がある。政治家には封筒入りの現金が手渡される。キャッシュレス社会が進むと、いずれ現金はタンス預金の道具くらいにしか使えなくなってしまうのではないか。

広州の高速道路から5円玉の形をした巨大なビルが見えた。中国の古銭にヒントを得たデザインという。キャッシュレス社会に向かっている中国の銭形ビルである。

(写真と文: 花崎泰雄)