1 そういえば軍艦に似ている

「明治日本の産業革命遺産」を構成する1単位として、世界文化遺産に登録された軍艦島こと端島は、長崎港から軍艦島上陸見学ツアーの船で行くことができる。無人島だ。いまや炭鉱時代の施設は老朽化して崩落の危険性がある。島の所有者である長崎市は軍艦島を原則立ちり禁止にしている。例外的に海運会社5社だけに限って上陸クルーズの運営を認めている。

船が軍艦島に近づくと、案内のガイドさんが、端島が軍艦島とよばれるようになったいきさつを説明してくれる。細長い小島のうえに、コンクリート製の建物をぎっしりとのせ姿が戦艦「土佐」に似ていると、大正時代の新聞が探訪記で書いたのがきっかけだ。戦艦・土佐は1922年のワシントン条約で廃艦処分になり、高知県沖に沈められた。

軍艦島上陸ツアーのガイドさんはさらに話を続けて、日米戦争で日本が降伏する2ヵ月ほどまえ、米軍の潜水艦がやって来て、この島に向けて魚雷を打ち込んだ……と冗談を言う。1945611日に端島に着岸して石炭を積みこんでいた運搬船が、米潜水艦の魚雷攻撃を受け沈没している。これが粉飾されて笑い話になった、とか言うことであった。

軍艦島では島を基地にして深く坑道を掘り下げ、海底炭田から石炭を採っていた。日本国のエネルギー政策が石炭から石油へと転換したせいで、三菱端島炭鉱は1974年に閉山。その後、三菱が端島を長崎県・高島町に無償で譲渡した。高島町が長崎市と合併したことで、島は現在、長崎市の市有地になっている。

海底の坑道はすでに水没し、軍艦島地上の建物群も荒れるにまかされている。補強して保存するには費用がかかり過ぎる。いずれ建物は崩れ、島は瓦礫の山になって、似ていた軍艦・土佐の面影を失ってしまうことだろう。


                  <軍艦島上陸ツアーのパンフレットから>



軍艦島には、見学ツアー用にコンクリートの遊歩道がつくられている。観光客はこの遊歩道から外れてはいけないことになっている。島の深奥部に立ち入りたい人は、長崎市から特別の許可を受け、危険自己負担、自分で船を仕立てて軍艦島に渡らねばならない。

これまでに大勢の人が、軍艦島が現役の炭鉱だったころから無人島になった時代までの写真をとっている。写真集やインターネットで見ることができる。最近ではグーグルマップ・ストリートビューで廃墟を撮影した動画も見ることができる。

軍艦島は南北480メートル、東西160mメートルの細長い島だ。岩礁の周囲を埋め立て拡張している。戦後の炭鉱最盛期には5000人を超える人が住んでいた。人口密度は東京都の9倍だったとか。

現代の超大型クルーズ船には、長さ300メートル、幅40メートルを超えるものもある。米軍のニミッツ級原子力空母もほぼ同じサイズだ。超大型クルーズ船は旅客5000人を収容し、2000人ほどの乗務員が働く。米原子力空母の乗員は5000人を超える。

5000人時代の軍艦島の人口密度は、クルーズ船や原子力空母を想像すればよろしい。クルーズ船の乗客は日常を忘れさせてくれる安逸の時間を求め、乗務員は日常生活の糧を求めて船に乗る。原子力空母の乗員の仕事は戦争に備えることである。

長崎の軍艦島の5000人の人口は、石炭生産に携わった人とその家族、そして彼らの島での生活を支えた人々だった。ほんのちょっとだけでも想像力を使えば、軍艦島という呼称はまんざら島の姿・形だけに由来したものでもなさそうである。



2 島には何でもあった

軍艦島こと端島には何でもあった。島には炭鉱という生産施設があり、職住近接のためのまとまった都市機能を持っていた。ただし日常の生活必需品である水と食料だけは島の外に依存していた。

宗教施設として端島神社と泉福寺があった。神社はたいていの鉱山にある安全祈願用の会社の神社である。寺は構造物が三菱の持ち物で、坊さんがそれを借りて宗教活動をするかたちになっていた。

教育機関としては、幼稚園、小学校、中学校があった。

余暇施設として、体育館、プール(海水)、児童公園、屋上庭園、温室、テニスコート、弓道場、卓球場があった。

病院があり、警察派出所があった。「警察官は常駐していたが、警察官の厄介になるような犯罪事件はなかった」と軍艦島上陸ツアーのガイドさんが説明する。狭いながらも楽しいわが家的に、ユートピア化された端島の記憶へとツアー参加者を誘う。

役場支所、公民館があり、個人経営の商店と三菱直営の購買部があわせて15店あった。食堂、スナック、小料理店、質屋、旅館、映画館があった。島全体が三菱の私有地であり、これらの商店は三菱から坪当たり5円の地代で借りて営業していた。

ビリヤード、パチンコ店、雀荘、碁会所があった。



「遊郭もありました」とガイドさんが言う。ありましたというだけで、詳しいことは語らなかった。

何冊か本にあたると、以下のようなことが書かれていた。

「敗戦後にも拘禁的状況から解放されることなく『カゴの鳥』的生活を強いられた売春婦は、最盛期30人を超え3軒(1件は朝鮮人労働者を対象にしていて、日本の敗戦で朝鮮人労働者が島を出て、廃業。2軒になった)の売春宿で買収禁止法成立までその不幸な状況から形態的にも脱することができなかったとのことであるがその詳細はあきらかでない」(NPO西山卯三記念すまい・まちづくり文庫編『軍艦島の生活 1952/1970』創元社 2015年)

また同書は、狭い島内なのでしまいになじみになって個人的な交わりになり公娼としての性格が失われてしまった。若い者は長崎まで出て遊ぶ、とも書いている(NPO西山卯三記念すまい・まちづくり文庫編『軍艦島の生活 1952/1970』創元社 2015年)

黒沢永紀『軍艦島 奇跡の産業遺跡』(実業之日本社 2015年)には「県会議員本田伊勢松氏の経営する料亭本田屋が多情多彩をもって炭塵にまみれた坑夫たちの荒くれた心身を愛撫してくれるのも炭坑端島のもつ柔らかな一断面である」という1933年ごろの『長崎新聞』の記事が引用されている。

料亭本田屋についての能天気な新聞記事も軍艦島の一断面であろうが、別の一断面もある。それを軍艦島で死んだ人が語り出す。端島の暗い記憶である。

長崎在日朝鮮人の人権を守る会『軍艦島に耳を澄ませば』(2016年 社会評論社)には以下のようなことが書かれている。

「蘆致善さん(本籍黄海道信川郡信川武井里193番地、蘆錫俊さんの3女)は酌婦として働かされていたが、19376270100分ごろクレゾールを服毒、同日0320分に18歳の若さで死亡した。同居者本田伊勢松さん(18839 月17日生)から、同日付で「火葬認許証下附申請書が出されている」

同居者本田伊勢松さんとはおそらく、長崎新聞が書いた「多情多彩をもって炭塵にまみれた坑夫たちの荒くれた心身を愛撫してくれる」本田屋の経営者であろう。

「ないのは火葬場と墓地だけといわれていた。それらは端島と高島の中間にある小島、中の島に用意された」(NPO西山卯三記念すまい・まちづくり文庫編『軍艦島の生活 1952/1970』創元社 2015年)。端島はかつて高島町の一部だった。長崎在日朝鮮人の人権を守る会が1986年に高島町役場で収集した1925年から1945年にかけて端島で死亡したひと全員の「死亡診断書」と「火葬認許交付申請書」――いわゆる「端島資料」――にもとづく記述である。

したがって、18歳の酌婦がクレゾール自殺をするに至った背景は推測するしかない。同書は「売春を強要されたか、強姦されたか、望郷の念にたえかねた厭世自殺なのか」と書くのみである。



3 住宅事情

建築に興味がある人たちは軍艦島の高層社宅群に関心を寄せてきた。

なかでも日本初の高層コンクリート集合住宅とされる30号棟は、191612月に完成した。7階建てである。ただしエレベーターはついていない。1918年には鉄筋コンクリート造りの 鉱員アパート16号棟(9階建て)17号棟(同)18号棟(6階建て)が相次いで建てられた。当時の鉱員の給与が日給制だったので、これらのアパートは「日給住宅」とよばれた。さらに1822年になると6階建ての1920号が建てられた。1932年には6階建ての18号棟と19号棟が増築されて9階建てになった。端島炭鉱で働く労働者が増えたことを示している。



これらの鉄筋コンクリート造りの集合住宅が林立して軍艦を思わせる島影を作り出した。

軍艦島を研究した建築学者たちは、軍艦島の住宅の高低が炭鉱での職制の高低とぴたりと呼応していたことを指摘してきた。

軍艦島はもともと岩礁で海中から突き出た岩にすぎなかったが、石炭を掘り出す際に生じるボタで島の周辺を埋め立てて島を拡張した。島の中心部の岩山は標高50メートル弱だ。この岩山の頂上に、端島炭鉱の現地トップである鉱長の社宅があった。2階建ての5DK。給水船で島に水を運んでいた時代から真水を使った風呂がついていた。台風シーズンには島の多くの住宅が波しぶきを被ってずぶぬれになったが、波しぶきは鉱長住宅まではとどかなかった。日当たり抜群、眺望絶佳。

その岩山の斜面に社員用住宅があった。間取りは3K。のちに内風呂付きもできた。

社員用住宅とほぼ同格だったのが、6畳 4.5畳、4.5畳 キッチンの公務員住宅。主として島の学校の教員宿舎として使われた。

さらに低い土地に、家族のある鉱員住宅が建てられた。62間とキッチンの2Kが標準的だった。

このほか鉱員住宅は8畳・3畳などの2部屋のものと、4畳一間の独身者用があった。

会社は社員や鉱員に等級をつけて、等級に従って住宅を割り振っていたが、さすがに労組から不満の声があがって社宅の配分にあたって「必要度」を加味する方向に変えたそうだ。



高層の鉱員用集合住宅は低地に建てられ、高層階の住宅はまだしも、低層階のそれは建物の密集で日当たりが悪く、潮風でジメジメしていた。

軍艦島の住宅現地調査はほとんどが戦後のものだ。そのころには端島炭鉱で働いていた朝鮮系や中国系の労働者は島を出て姿を消していたが、端島で働かされた朝鮮半島出身者はたいてい集合住宅の1階部分に住んだと、語り継がれている。



4 消費生活

端島炭鉱が閉山して全住民が軍艦島を離れたのは1974年のことだ。島が無人島になってすでに44年がたつ。島の構造物は荒れ果てた。当時島で働き、暮らした人々の記憶も輪郭がはっきりしなくなってきている。われわれが現在知ることができる軍艦島の生活には、映像化され活字化された記録と、時間の経過とともにその数が減っている、当時島で暮らした人々のセピア化されている個人的な記憶が混然としている。



立ち入りが禁止されている軍艦島の社宅跡の部屋には、円形のダイアルをカチャカチャまわすモノクロのテレビが廃品になって放置されている(黒沢永紀『軍艦島 奇跡の産業遺跡』(実業之日本社 2015年)。この本によると、1958年の時点で全国に先駆けて、当時家電三種の神器と言われたテレビ受信機、電気洗濯機、電気冷蔵庫が全世帯に普及していたと当時の新聞が伝えていたそうだ。そのころ、テレビ受信機、電気洗濯機、電気冷蔵庫の全国普及率はそれぞれ7.8%20.2%2.8%だったと、この本には書かれている。

時代の最先端を行く消費生活をしていたのは事実であるが、一方、人々は蜂の巣のようなコンクリートの箱の中で暮らしていた。端島炭鉱の労働者が生活した炭鉱の社宅・寮に関連して、「電気・水道料金を含めて、さあ、家賃はいくらだったでしょうか?」と、軍艦島へ向かう船内で、上陸ツアーを率いるガイドが客に質問する。「千円」「五百円」という声が上がる。一呼吸おいて、ガイドさんがいう。「10円でした」

軍艦島の労働者は長崎の一般的な労働者に比べ高給取りだったとガイドは説明する。軍艦島に生まれ、軍艦島で働いた加地英夫氏の著書『私の軍艦島記』(長崎文献社 2015年)によると、閉山1年前の1973年の月収は坑外労働者が1213万円。坑内労働者が1520万円だったそうだ。鉱員の給与は日給制で、厳しい坑内労働を月25日間皆勤する人は少なく、出勤率はおよそ75%ほどだったので、喧伝されているほどの高給ではなかったという。しかし、ほとんどタダにひとしい光熱住居費によって、消費にむける金は一般の労働者よりは多かった。



NPO西山卯三記念すまい・まちづくり文庫編『軍艦島の生活 1952/1970』(創元社 2015年)が端島の労働者の消費生活を、揶揄をこめて次のように伝えている。

――島の人は贅沢な買物をする。靴や衣類は出来合でなく誂え。女性は高級化粧品が好きだ。男は写真機が好きだ。「どいつもこいつもみんな写真機をもっていてこのせまい島の中で運動会なんかがあると写真機の砲列だ。私はいつも言うのですが、この島は写真が流行っているんじゃない。写真機が流行っているんだよ」。そういう鉱長ご自身も高級カメラをお持ちであるようだ。

鉱員住宅には風呂がついていなかった。島内3ヵ所の共同浴場を利用した。落下式の便所からは臭気が立ち上った。狭い島内、狭い社宅に住んで押し合いへし合いする日常の中で、人々は三種の神器やカメラを買い、テレビアンテナを林立させた。

いまにして思えば、戦後日本のやるせない原風景だが、その風景が小さな端島で凝縮された形で見られたのだ。人々は日々の労働や、日常生活環境の密集から逃れようとして消費行動に走ったのか、消費を楽しむためにつらい労働にたえたのか。そのような面倒なことは考えないで暮らしていたのか、はっきりとした答えは見つけにくい。

元島民の高齢者のなかには島は楽園だったと語る人がいる。個々人のレベルではそういう記憶もあるだろう。最盛期には5000人もの人が暮らした島を労働と生活のためのコミュニティーとして考えれば、あるいは生活の質という点から考えれば、別の見方がもちろんありうる。



5 世界文化遺産

世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」を構成するあまたの遺跡の一つである軍艦島(端島炭坑)は、旧高島町(現在では長崎市と合併)が町域にしていたは高島、端島(軍艦島)、中ノ島、飛島の4島のひとつである。



高島にあった旧高島炭坑も軍艦島・端島炭坑と並んで世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成アイテムになっている。

世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の個別リストは、言ってみれば明治時代の産業遺跡を十把一絡げにして「日本の産業革命」という仰々しい名前をかぶせただけのものである。正確な言葉遣いをすれば『明治日本の産業近代化遺産』である。歴史的な視点でみると、先進的な西洋の科学技術を導入することによって、日本が鉱工業の近代化を進めただけのことである。明治期の日本が『蒸気機関』に相当するような革命的な発明をしたわけではない。

文化庁が「『明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業』は西洋から非西洋への産業化の移転が成功したことを証言する産業遺産群により構成されている」と説明しているとおりである

「萩反射炉」「恵美須ヶ鼻造船所跡」「大板山たたら製鉄遺跡」「萩城下町」「松下村塾」「旧集成館」「寺山炭窯跡」「関吉の疎水溝」「韮山反射炉」「橋野鉄鉱山」「三重津海軍所跡」「小菅修船場跡」「三菱長崎造船所第三船渠」「菱長崎造船所ジャイアント・カンチレバークレーン」「三菱長崎造船所旧木型場」「三菱長崎造船所占勝閣」「高島炭坑」「端島炭坑」「旧グラバー住宅」「三池炭鉱・三池港」「三角西港」「官営八幡製鐵所」「遠賀川水源地ポンプ室」

それらの所在地は、福岡県北九州市、大牟田市、中間市、佐賀県佐賀市、長崎県長崎市、熊本県荒尾市、宇城市、鹿児島県鹿児島市、山口県萩市、岩手県釜石市、静岡県伊豆の国市 に広がる。

それはいいとしても、その理屈が良くわからないのは「松下村塾」がリストに入っていることだ。『明治日本の産業革命』の“ゆりかご”ということなのかもしれない。そうであれば、幕府を「たった四はいで夜も眠れず」という状況に追い込んだ蒸気船(浦賀沖にやって来た黒船4隻のうち蒸気船は2隻だけだった)は『明治日本の産業革命』の“号砲”ということになろうか。



さて、端島炭坑については、文化庁のサイトにこんなことが書かれていたので、そっくり引用しよう。

「 端島炭坑は、高島炭坑の技術を引き継ぎ、発展させ、炭鉱の島として開発された。明治中期以降に採炭事業が本格的に開始し、1890 年からは三菱の所有となり、明治後期の高島炭鉱(高島、端島による海洋炭鉱群)の主力坑となった。高品位炭を産出し、国内外の石炭需要を賄った。明治末には八幡製鐵所へも原料炭を供給した。産業活動の停止と住民の撤退後、現在は、坑口等の生産施設跡や数次にわたり拡張された海岸線を示す護岸遺構が残存する。(崩壊寸前のコンクリート高層住宅群は、大正時代以降に建設されたものであり、顕著な普遍的価値を反映する要素ではないが、文化財としての価値を持つ)」

軍艦島観光の目玉になっている巨大なコンクリート構造物が「文化財としての価値は持つが、顕著な普遍的価値を反映する要素ではない」ということは、観光客の多くが世界文化遺産・軍艦島にやってきて、世界文化遺産としての普遍的価値の対象外の、大正時代に造られた高層住宅群の廃墟に感動しているのだ。

もっとも観光客もその点についてはシレっとしたもので、「観光客の中には端島が海底炭鉱だったことを知らなかった人もいるというから唖然とする」(『復刻 実測・軍艦島』鹿島出版会 2011年)中の阿久井喜孝「軍艦島その後」)

軍艦島を訪れる人の関心事は、高層集合住宅・高密度人口コミュニティーといった学術的なものにはじまり、軍艦島関係者らのノスタルジアと重なるようにして、今はやりのダークツリーズムへの興味に至っている。明治日本の産業革命のにおいはどこにもない。



6 強制労働

軍艦島こと端島炭坑をふくむ「明治日本の産業革命遺産」の世界文化遺産登録にあたっては、日本と韓国がユネスコ世界文化遺産委員会で対立した。韓国側代表が遺産の対象になっている施設の中に朝鮮半島出身者(朝鮮人)が強制労働させられたものが含まれていると、登録に反対した。「遺産」は日本の明治期に焦点を当てているが、施設の中には太平洋戦争期まで使われ続け、強制労働の現場になったものもある。



メディアが伝えたところでは、日韓で協議の末、日本側代表が、1940年代にいくつかの施設において、意思に反して連れて来られ、厳しい環境の下で労働を強いられた多くの朝鮮半島出身者やその他の人々いた(there were a large number of Koreans and others who were brought against their will and forced to work under harsh conditions in the 1940s at some of the sites)と表明することで、韓国側の賛成を取り付けた。

だがその後、日本政府は “there were a large number of Koreans and others who were brought against their will and forced to work under harsh conditions in the 1940s at some of the sites”は「強制労働」を意味しないと言い出した。“forced to work under harsh conditions”と、“forced labour”は違うというわけだ。

ILOは強制労働を次のように定義している。 “Forced labour refers to situations in which persons are coerced to work through the use of violence or intimidation or by more subtle means such as accumulated debt, retention of identity papers or threats of denunciation to immigration authorities.”

「朝鮮人強制連行」という言葉は、一般の日本語辞書にも収容されている。『広辞苑』(第5版)は「日中戦争・太平洋戦争期に百万人を超える朝鮮人を内地・樺太(サハリン)・沖縄・東南アジアなどに強制的に連行し、労務者や軍夫などとして強制就労させたこと。女性の一部は日本軍の従軍慰安婦とされた」と説明する。『精選版日本国語大辞典』もほとんど同じような言葉遣いで「日中戦争・太平洋戦争時において、百万人を超す朝鮮人を日本国内に強制的に連行し、過酷な条件のもとに強制労働させたこと。また、一部の女性は従軍慰安婦とされた」としている。

日本側は1938年の国民徴用令にもとづく動員であり、当時、朝鮮半島の人々は日本国民だったと理屈をたてる。韓国側は日韓併合がそもそも違法行為だったと主張する。



徴用なのか強制労働なのか議論は尽きないことだろうが、日本の炭坑では、1939年には全労働者に占める朝鮮人の比率は3%だったが、1944年には33%に達した(平凡社『世界大百科事典』)。

1965年に結ばれた日韓基本条約に付随する請求権協定で、日本は強制動員などの被害補償に関して、無償3億ドル、有償2億ドルの経済協力資金を韓国に提供しことで、韓国は日本に対する一切の請求権を放棄した。この資金提供に徴用工に対する補償が含まれていたことは日韓双方が公式に認めている。

とはいえ、韓国大審院も日本政府も日韓請求権協定によって個人請求権が消滅していないという解釈をとっている。ただし、日本政府は個人が裁判所に対して訴えを起こすことは自由だが、請求権協定によって、訴えた個人の請求権が法的には認められることはない、という解釈をしている。

そういった歴史的な背景の中で、「端島炭坑でひどい強制労働をさせられた」という韓国の老人たちの回想と、「島では日本人も朝鮮人も同じ環境で同じ労働をしていた。差別などなかった」という日本人の老人の回想が対立している。 韓国人の怨念と美しい国・日本派の日本人の感情的対立であり、解決はいたって困難である。



7 ユートピアかディストピアか


軍艦島で働いた人、軍艦島で生まれ育った人にとっては、端島は故郷に等しく故郷そのものである。

「厚生食堂のうどんは思い出の味である。素うどんだったが、私のうどんの味はここから始まった。都会に出た時に食べたうどんのスープは醤油味で透き通っていなかった。そんなとき私はいつも厚生食堂の透き通ったスープを思い出したものである」と坂本道徳氏は『軍艦島 離島40年 人々の記憶とこれから』(実業之日本社 2014年)に書いている。

端島で生まれそだった加地英夫氏は著書『私の軍艦島記』(長崎文献社2015年)のなかに思い出に残る島の行事をあげて懐かしんでいる。端島神社の山神まつり、メーデー、端島の対岸の高浜海岸への海水浴、ペーロン大会、お盆行事・盆踊り大会、会社大運動会。文化祭。



端島にゆかりの人々は島が朽ち果ててゆく姿をどんな気持ちで眺めてきたのだろうか。

こうしたノスタルジアを突き放すような、いたって無機質な、ある意味で意地悪な言説もまた聞かれる。NPO西山卯三記念すまい・まちづくり文庫編『軍艦島の生活 1952/1970』(創元社 2015年)は、島の行事は企業の管理体制の一環であり、生産基地としての機能を維持拡大しつつ労働者を最大限効率よく働かせることが目的であり、その管理体制のなかに公共機関や住民の自主組織、労働組合までもくみこまれているように思われる、と書いている。

さらに、長崎在日朝鮮人の人権を守る会著『軍艦島に耳を澄ませば――端島に強制連行された朝鮮人・中国人の記録 増補改訂版』 (社会評論社  2016年)は、「端島炭鉱には2度の興隆期があった。1941年前後の太平洋戦争突入期。2度は1960年代の10年間。全国の炭鉱が閉山する中で、優良炭坑として生き延びた端島は炭坑夫の再就職先になった。端島の暮らしは不便だが、向こう三軒両隣、炭鉱労働者とその家族が片寄せあって暮らした記憶は心に響くノスタルジーだろう。三菱財閥に飼われたブロイラーの幸せ」と、今様に言えば元社畜たちの共同幻想に近いものと揶揄した。

軍艦島は人口稠密なコミュニティーの極限の形だった。人々は押し合いへし合いしながら島に住んだ。島内には水源が無かったので、ながらく給水船から真水を補給されていた。島まで海底水道管が敷設され、水道水が届くようになったのは1957年のこと。浄化槽が設けられるまでは、汲み取り船がし尿を沖合に運んで投棄していた。

東京都だって1960年代の東京オリンピックのころまで、汲み取り便所のし尿を東京湾の沖合に運んで海洋投棄していた。生活インフラストラクチャーと故郷へのノスタルジアに相関関係はない。

軍艦島の端島炭坑を経営していたのは三菱だった。長崎は三菱財閥の発祥の地であり、いまでも三菱の企業城下町である。端島炭坑を経営していた三菱鉱業は現在では三菱マテリアルと名前を変更している。

その三菱マテリアルはすでに、第2次大戦中の強制労働について中国人被害者に謝罪し補償を約束している。朝鮮人被害者については、1938年に導入された国家総動員法によってなされた適法行為という政府の主張に従って、謝罪も補償も拒否し続けている。



明治期から太平洋戦争前夜までの日本の国策は、「殖産興業」であり「富国強兵」であった。この2つは同軸ケーブルのようなものであり、「明治日本の産業革命」がアジアにおける日本帝国主義を推進した。日清戦争(1894-95)、日露戦争(1904-5)、1910年からの朝鮮半島支配、ロシア革命に干渉する目的のシベリア出兵(1918-22)、1932年の満州国樹立、1937年に始まった日中戦争と、近代日本は対外拡張政策に突っ走り、ついには太平洋戦争に至って自滅した。明治日本の産業革命で勃興した企業もまた日本の膨張政策と行動をともにした。

長崎沖の無人島・軍艦島に明治日本の奇跡の足取りを重ねる人々は記憶の島をユートピア化しようとし、島をディストピア化しかねない朝鮮人強制労働の記録に反発する。

そう思いながら崩壊が進む高層建物を乗せた軍艦島をながめていると、何やらあたりが妖気に包まれてくるような錯覚を覚えるのだ。

軍艦島はダークツーリズムの聖地、と人はいう。

 (写真と文: 花崎泰雄)