1 古墳公園


プサン(釜山)のノポ・バスターミナルから1時間ほどでキョンジュ(慶州)のバスターミナルに着いた。近くに観光案内所があったので「古墳公園」への行き方をたずねた。

「この前の道路を左に進み、大きな交差点で左折すると、まもなく公園入口の門が見えます。歩いて10分とかかりません」

キョンジュへ行って古墳を見ようと思い立ってから実現するまでに3年かかった。2010年の冬は風邪が悪化して、出発日の朝発熱。これでは検疫の熱感知カメラにひっかかること必定と思ったので、急遽、キョンジュ行きをあきらめた。2011年の冬は「ダブルブッキングしてしまったので、ソウル経由でプサンに行く便に変更してもらえないか」と航空会社から電話をもらった。「そうしていただけるならお小遣いに100ドルさしあげる」という。東京・ソウル・釜山を結ぶ三角形の2辺をたどる回り道に気が重くなって、その冬もキョンジュ行きを中止した。



今回は三度目の正直。2012年冬のキョンジュだ。冬のキョンジュにこだわったのは、ひょっとして何かの僥倖で古墳がうっすらと雪化粧しているかもしれない、というはかない期待があったからだ。キョンジュの古墳は円墳でお椀を伏せたような形だ。もうすこしいろっぽい言い方をすると、古代のたおやかな女性の胸のふくらみを思わせるかたちだ。この円墳が雪をかぶり白く輝くさまを見たかったのだ。

あいにくと雪はなかったが、キョンジュは寒く、古墳公園の前の池には氷が張っていた。公園と古墳を覆っている芝は茶色に枯れていた。夏にはいちめん緑の風景だったろう。だが、この茶色の風景もまんざらすてたものではない。



古墳公園は柵や塀をめぐらした有料の(といっても入場料は日本円で100円程度だが)公園だ。公園の外側にもよく手入れされた別の古墳群がある。こちらは柵や塀がない。公道と古墳群をめぐる遊歩道がつながっている。その古墳群のひとつに、何本かの樹木をはやしている古墳があった。古墳群の中にブースがあり、「無料英語ガイド」の表示が張りつけてあった。中にいた女性は英語のほかに日本語もできた。



「あの古墳の木は植えたものですか?」

「あの木は楡で、植えたものではなく、自然に生えたものだといわれています」

古墳公園の中の円墳で木が生えているものはなかった。なぜ、この古墳だけ木が生えるにまかせたのだろうか?」

仕事をやめ、歳をとってからは、まるでこどものように、この手のかるい疑問ばかりが、あぶくのように頭の中に浮かんでくる。「修身斉
家治国平天下」とは、縁もゆかりもない「?」だ。

ボケてきたのだろうか?




2 天馬塚

古墳といえば日本独特の古墳が前方後円墳で、その最大のものが堺市の大仙陵で、規模としてはクフ王のピラミッドや秦始皇帝陵に匹敵するとされている。古墳時代を代表するこの日本独自の形式の墳墓はkeyhole-shaped burial moundという英語になっている。上空から見るとその形が鍵穴に似ているからだ。

規模はともかく、前方後円墳が日本独自の形式の古代墓であるというところが、日本人の民族意識をくすぐるのである。前方後円墳は3世紀の終わりから4世紀の初めのころから築かれはじめ、建設は6世紀の終わりまで続いた。日本の古墳文化の時代を象徴する構築物だ。

ところが前方後円墳が韓国南西部で発見され、その解釈をめぐって微妙な日韓ナショナリズム摩擦の種になったことがある。プサンから直線距離で西へ100キロ足らずのキョンサンナムド・コソン(慶尚南道・固城)で1980年代前半に前方後円墳とおもわれる古墳「松鶴洞1号墳」が見つかったと韓国の学者が発表したことがあった。森浩一が『韓国の前方後円墳―松鶴洞一号墳問題について』(社会思想社 1984年)という本をまとめるなど、前方後円墳のルーツをめぐって日韓間で熱い論争になった。のちに、これは複数の古墳が重なっているだけであって、前方後円墳ではないという判断で落着した。

だが、これをきっかけに南部のチョルラナムド(全羅南道)で十数基の前方後円墳が見つかった。いずれも6世紀前後の建造で、日本の前方後円墳の時代(4-6世紀)に遅れている。そうしたことなどから、今では、前方後円墳を日本起源とする説も韓国で出てきている。ただし、これによって、古代日本が朝鮮半島の南部を支配していた任那日本府の存在を認めるわけではない。百済に仕えていた古代日本人を埋葬した墓であるという見解だ。



歴史は民族の誇りであり、かつては「前方後円墳が出たが、日本側が喜ぶのがしゃくで埋め直した」という噂が韓国の考古学会でささやかれたこともあったそうだ。考古学・歴史学はエスのセントリズムが紛れ込みやすい学問だ。百済から日本に伝わり、今では日本の国宝になっている「七支刀」の銘文を韓国側は「倭王に下賜したもの」、日本側は「倭王に捧げたもの」と読みたがる。

日本には「磐井の乱」というエピソードがある。『日本書紀』によると、6世紀前半に、新羅に破られた南加羅・仮己呑(とくことん)を復興しようと継体天皇が計画した。そこで、任那に軍を送ろうとしたさい、新羅から贈り物を受けた筑紫の軍勢が大和朝廷の軍を阻もうとした。日本列島にも新羅の息のかかった勢力があったわけだ。

九州・朝鮮半島南部・中国に囲まれた海域は昔のエーゲ海のようなもので、合従連衡の戦略の海だった。『宋書倭国伝』によると日本の雄略天皇らしき人物が中国・南宋に使者を送って、自らを倭と朝鮮半島の支配者として認めるよう求め、宋王朝はこの要求をおおむね認めた(都出比呂志『古代国家はいつ成立したか』岩波新書 2011年)。あるいは、磐井の乱を鎮圧したのち、継体天皇は軍勢を任那に派遣し、13基の前方後円墳を築かせるほどの影響を与えた(前掲書)という記述に、反発する韓国人もいることだろう。エーゲ海を挟んだギリシャとトルコもその長い交渉の歴史を反映して、あまり仲の良い隣国同士になりえていない。もちろん、日韓のばあい、エーゲ海にくらべればその世界史的な規模やいろどりはくらぶべくきもないけれど。



それはさておき、キョンジュの古墳公園の古墳群では「天馬塚」だけが唯一内部を公開している。天馬塚からは1万点以上の出土品があった。出土品は博物館に収められ、天馬塚の内部には 主だった出土品のレプリカが飾ってあった。

レプリカであるにもかかわらず、天馬塚には内部の展示物は写真撮影禁止の表示があった。

 

あとで、天馬塚出土品を展示している国立慶州博物館を見学すると、「天馬塚」という呼び名のもとになった「天馬」の絵も、金冠も、フラッシュや三脚を使わなければ撮影自由だった。本物は撮影自由で、レプリカの方が撮影禁止。

これはどういうことだろうか?




3 瞻星台

キョンジュの高速バスターミナルから歩いて古墳公園に来たものだから、公園に入った入口は裏門だった。冬だから公園内にほとんど人影がない。少々寒かったが、のんびりと古墳をながめながら歩いた。公園を出たのは正門の方だった。

古墳公園正門をでると、さほど遠くないあたりに塔が見えた。



高さ10メートルほどの石積みの塔・チョムソンデ(瞻星台)だ。「瞻星」とは星を見るという意味だ。「瞻星台は現存する世界最古の天文台」(『韓国の歴史―国定韓国高等学校歴史教科書』明石書店 1997年)であると韓国のこどもたちは習っている。

韓国高等科学院のパク・チャムボン教授によると、瞻星台は632年に建造され、675年に日本で作られたと『日本書紀』に記述のある飛鳥の天文台や、723年につくられた中国の周公測景台に影響を与えたという(Park Changbom, Astronomy: Traditional Korean Science, Ewha Woman’s University Press, 2008)。

パク教授のいう飛鳥の天文台はまだ日本ではそのあとが発見されていない。中国の周公測景台は河南省登封市の周公廟内にある土圭という日影を観測する器機、要するに日時計塔である。棒を立ててその影の長さで冬至や夏至を定めた周時代の周公をたたえて、唐の時代に周公測景台がつくられた。

『人民中国』インターネット版の中国世界遺産案内によると、周公測影台のかたわらに観星台があり、これが中国に現存する最古の天文台だという。1276年に完成している。全国27か所に天文台や観測所を創り、それらを登封の観星台が統括したそうである。

いっぽう、パク・ソンレ韓国外国語大学校名誉教授(韓国科学史)がKorea Foundation の季刊誌Koreana2006年冬号)に書いたエッセイ「東洋最古の天文台の秘密を解き明かす」によると、瞻星台が近代的意味での天文台として評価され始めたのは約100年前のことで、瞻星台を見た和田雄治という日本の気象学者が現代的な意味の天文台であると断言したのがきっかけだった。

パク名誉教授によると、その後、@瞻星台は天文台ではなく仏教の霊山・須弥山をなぞった祭壇説A太陽時計説B当時の幾何学の知識を誇示する目的で作った建築物説などがだされ、近代的意味の天文台とは程遠いという意見が主流になった。



パク名誉教授自身の見立ては「瞻星台は当時の天文台ではあるが、現代的意味の天文観測のためのものというよりは、当時の社会状況によって建てられた占星術的天文台である。つまり、人が登って天文を観測したという事実よりは、その建築物の形と位置が重要であったと考えられる。ちなみに、その形は当時隆盛を極めていた仏教の影響を反映して須弥山を模ったと思われる」という占星術的天文台である、というあたりにおちついた。

古代の農業社会では、暦の知識は権力者の占有で、天文学は帝王の学問だった。この知識を使って支配者は人民を支配したそうだから、瞻星台が古代の占星術的天文台であったという判定は妥当なところだろう。天文台と聞けば、今では巨大望遠鏡などを連想するが、「天文」という用語は古くは『易経』でも使われている。「天文を観て以て事變を察し、人文を観て以て天下を化成す」。




4 鶏林・半月城

チョムソンデ(瞻星台)を見たあと、ぶらぶらと国立慶州博物館へ向かう。途中、ケリム(鶏林)とパヌォルソン(半月城)を通ることになる。

ケリムは観光ポイントになってはいるが、どうということもない小さな林である。まばらに木が生えている疎林である。観光ポイントなっているのは次のような伝説があるからだ。

西暦1世紀のなかごろ、通りがかった人が林の中に光るものを見た。それは金色の櫃だった。櫃の近くの木の下で鶏が鳴いていた。金の櫃を開けると、中から男の子が出てきた。金の櫃から生まれたこの子に、王さまが「金」の苗字を与えた。これが慶州金氏の始まりで、鶏が鳴いて慶州金氏の始まりを告げたので、この林が鶏林とよばれるようになった、という話。慶州金氏を本貫とする人々の聖地なのである。



韓国で最も多い姓はキム(金)で5人に1人がキムさんだ。そのあと、Aイ(李)Bパク(朴)C崔(チェ)D鄭(チョン)と続く。韓国人の約半数がこの5大姓を名乗っている。キムにもいろいろあって、慶州金氏、全州金氏、金海金氏など、始祖の始まりの地によってさまざまな氏族集団に分れる。日本の清和源氏、桓武平氏といったような感じである。

日本では姓は@佐藤A鈴木B高橋C田中の順で多い。米国では@スミスAジョンソンBウィリアムズCブラウン、ドイツでは@ミューラーAシュミットBシュナイダーCフィッシャーの順だそうだ。

ちなみに、現在の韓国では名前の表記には通常ハングルが使われる。20年ほど前、韓国から来た大学院留学生に韓国語を教えてもらったことがある。あるとき、あなたの名前は漢字でどう書きますかとたずねたら、自分の名前が漢字できちんと書けなかった。さらにその20年ほど前、韓国で見た新聞は漢字とハングルの混淆だった。博物館で見た李王朝の公文書は漢文だった。万物は流転する。

たしか大宅壮一が、名前なんてものは銭湯の下足札のようなものだ、と書いていた。個人の場合はそうかもしれない。だが、こと民族全体にかかわってくるとなると、名前は一つの民族の文化として認識される。日本が皇臣民化政策の一環として、朝鮮人に対して創氏改名を押しつけたが、日本の敗戦後、1946年の朝鮮姓名復旧令で元に戻った。現在では創氏改名は悪辣な日本帝国主義の朝鮮文化に対する破壊行為として記憶されている。

ちなみに金日成―金正日―金正恩は全州金氏だといわれている。



半月上への坂道を上る。半月城は新羅(BC57-AD935)の宮廷があった丘だが、いまではそれらしき遺跡は何も残っていない。丘の下には小さな流れがあった。濠の代わりだったのだろうか。

現在、半月城跡に残っているものは、ずっと後の18世紀につくられたソッピンゴ(石氷庫=氷室)だけという寂しさ。あたりには土地の人がジョギングや散歩する姿がちらほら見えるだけだ。






5 国立慶州博物館

慶州・半月城の丘を下って、自動車が頻繁に走る道路沿いに少し歩くと国立慶州博物館があった。

何年か前に行ったあるソウルの国立博物館と同じで、常設展は入場無料。入場券発券窓口で無料入場券をもらい、それを入口の係員に渡して館内に入る。

入場無料の博物館で無料入場券を発行しているのは、何のためだろうか?

国立慶州博物館はソウルの国立中央博物館に次ぐ韓国で2番目に規模の大きい博物館だ。展示物は中央博物館にくらべるとさすがに数は少ないが、それでも慶州地方で発掘された考古学資料を中心に名品が展示されている。詳しくは博物館の「名品100選」をご覧あれ。



博物館の広々とした庭園にも、石像などが屋外展示されていて、なかなかいい雰囲気をかもし出している。なかでも私が気に入ったのがこの石の名品。

それから、聖徳大王神鐘。俗称「エミレの鐘」。除夜の鐘につきたくなるような立派なこの梵鐘も気に入った。現存する梵鐘のうちでは韓国最大だ。



梵鐘は「梵学」(仏教学)、「梵師」(仏教僧)、「梵刹」(寺)、「梵字」(サンスクリット)からわかるように、仏教の鐘のことだ。だが、梵鐘は仏教発祥の地インドでは造られなかった。北伝仏教が西域を通って中国に伝わったとき、中国で初めて梵鐘が作られ、大型の寺鐘が朝鮮半島経由で日本にもたらされた。(インドからセイロン経由で東南アジアに伝わった南伝仏教であるタイのお寺には、小型の時鐘や大きな銅鑼はあるが、日本のお寺のような梵鐘は見当たらない)



聖徳大王の梵鐘には飛天の文様が施されている。飛天の文様は新羅時代につくられた朝鮮鐘の特徴の一つである。

飛天というのは空を飛ぶ天人あるいは菩薩のことで、インドに始まり仏教伝来とともに日本にも伝わった。日本の飛天は天人、特に天女が多い。飛天で最も有名なのは中国・敦煌莫高窟の壁画だろう。

慶州の聖徳大王の鐘の飛天は、天人というよりは、仏の徳をほめたたえながら空を舞う菩薩の姿のように見える。蓮華の台にひざまずき、両手で香炉を捧げ持っている。この鐘を造るにあたっては、いい音を出すために子どもを煮えたぎる溶鉱炉に投げ込んだ、というすさまじい伝説が残っている。

この伝説は大阪外国語大学朝鮮語研究室編『朝鮮語大辞典』(角川書店 1990年)にもおさめられている。「エミレの鐘。奉徳寺の鐘。新羅35代景徳王が着手し36代恵恭王7年(771)に奉徳寺に納める。国宝第29号。伝説によれば、この鐘を完成させるために若い娘がいけにえとなって鐘の中に鋳込まれた。この鐘の音がその娘が母を呼ぶ声(エミレ)に似ているというところからこの名がつけられたという」

仏教梵鐘にあしらわれた飛天の文様を眺めつつ、世にも残酷な物語をつくりだすのだから、人間の想像力というやつはほんとうにばちあたりだ。






6 雁鴨池

国立慶州博物館からほんの200メートルほど離れたところにアナプチ(雁鴨池)がある。

7世紀の中ごろ、新羅の王さまが土木工事を行い、池を作って月池と名付け、池の周りに御殿を建てて王子の宮殿や会議場、宴会場とした。

栄枯盛衰。建物は廃墟となって、やがて消え失せた。人々は「月池」の名を忘れた。池は水鳥のすみかと化し、そのうちに雁鴨池とよばれ始めた。

1970年代に発掘作業が行われた。それにあわせて、歴史資料や発掘さいの発見物に基づいて、池とその周囲の建物を7世紀の姿に再現した。

昼間見ても曲がないので、日が落ちてライトアップされてから行った方がいいというアドバイスがあり、めっぽう冷えこむ夜を待ってアナプチへ出かけた。



ご覧の通りの夜景。夜目、遠目、傘のうちというやつで、何とか絵にはなったが、あまりの寒さに大急ぎでホテルに帰った。

次の朝、ボムン(普門)観光団地にあるホテルの窓からボムン湖を見ると、寒かったはずだ、湖の一部にうっすらと氷が張っていた。






7 仏国寺

日本も韓国も無宗教の国である。

どちらの国も人口のほぼ半数を無宗教者が占める。日本が5割強、韓国が5割弱である。

日本が仏教の国だと思っている人もいるらしいが、日本の仏教徒は人口の3分の1強である。その意味からすれば、韓国はキリスト教の国であるといえる。人口の3分の1弱がキリスト教徒(プロテスタントとカトリック)だからだ。仏教徒は2割強にとどまっている。

仏教誕生の地インドはいまや仏教の地ではなく、日本に仏教を伝えた百済の後継の地では、仏教はかつての勢いを失っている。



キョンジュ(慶州)の名刹ブルグックサ(仏国寺)へ行った。奈良へ行ったら法隆寺、東京なら浅草寺、長野なら善光寺へお参りするのが観光客のならいだろう。

朝鮮の仏教は慶州を都にしていた新羅の時代に大いに栄えた。日本の奈良時代の仏教が鎮護国家を目的とした国家仏教だったように、ブルグックサを建立した新羅でも仏教は鎮護国家のための宗教だった。

日本では奈良時代から、平安、鎌倉、室町、江戸時代までお寺がじゃんじゃん建てられたが、朝鮮では儒教を国家のイデオロギーにした李朝の時代に仏教は排斥された。



そういうわけで韓国のお寺は日本のそれに比べて観光資源としてのオーラに欠けるようなところがある。とくに冬の寒い日、観光客もまばらな寺はことのほかわびしい。



ブルグックサは李朝の廃仏政策で痛めつけられ、豊臣秀吉の文禄の役、韓国では壬辰倭乱で多くの伽藍を焼失した。泣きっ面にハチの出来事だった。秀吉が朝鮮に送り込んだ兵隊たちは、殺した朝鮮軍の兵士らの鼻を削ぎ、それを持ち帰って京都の耳塚に埋めた。



殺した敵の耳や鼻を削ぐ行為はいろんなところでいろんな民族が行っている。かつて東ティモールを占拠していたころのインドネシアの兵士は、フレテリンのゲリラ掃討作戦で殺したティモール人の耳を切ってインドネシアに持ち帰った。




8 石窟庵

仏国寺の裏山の標高500メートルのあたりまで自動車で登ったところにソックラム(石窟庵)がある。石を積んで作った人工の洞窟の中に仏像が安置されている。八世紀につくられたものだと言われている。

李朝の仏教排斥で長らくその存在が忘れられていたが、20世紀のはじめ、偶然に民間人が発見した。それから間もなく、日本が朝鮮半島を植民地化し、韓国風に言うと、「日帝がソックラムを調査し、修復を行った」。



補修のさい、日帝がセメントを使ったため、洞窟の内部に湿気がたまって痛みが進んだ。そこで、1960年代に韓国政府が石窟庵全体をコンクリートのドームで密閉し、空調を使って石窟庵内部の温度と湿度を一定に保つ工事をした。

韓国では今でも日帝が使ったセメントを除去するかどうか議論されている。また、日帝が修復したさい、仏像の一部が誤った位置に配置されたと韓国の学者が指摘したことから、韓国政府が手直しをした。ところが、5年ほど前に、日帝修復前の写真などの資料が見つかった。それらの資料によると、日帝の修復位置が正しく、韓国の手直し位置が間違いだったと新聞などで報道された。

大した話ではないのだが、こんなことでもかつては日韓の感情的摩擦のタネになった。



ソックラムへ行くには駐車場から緩やかな坂道を徒歩で数百メートル歩かねばならない。頂上からの風が冷たく、久しぶりに耳に痛みを感じる寒風を経験した。



ソックラム境内の手水鉢には氷が張りついていた。

ソックラム内部の仏像は写真撮影禁止。コピー自由の写真をインターネットのサイトからコピーしてここに張り付けておく。



真冬のことなのでソックラムがある山中まで足をのばすま観光客はまばらで、そのことがまた寒さをつのらせた。




9 釜山

屋台は旅情をかきたてる。屋台は眺めているとうまそうだが、実際にたべものを口に入れてみると、たいしてうまいものではないということがわかる。

アジアの屋台をいろいろ試してみた。コルカタがカルカッタと呼ばれていた頃の屋台は、さすがに手を出す気にはなれなかった。インドネシアのジョクジャカルタのマリオボロ通りの屋台は、うまくはなかったが楽しかった。バンコクの屋台は安心して食えた。シンガポールの屋台はフードコートと呼ばれる屋根付き建物のなかに集まっている。屋台というよりは簡易レストランの趣だ。台北の名物・夜市も屋台の集合体だ。

ソウルも屋台がにぎわう街だ。こと屋台となると、ソウルに次ぐ韓国第2の大都市プサン(釜山)もソウルに劣らず屋台食の盛んな街だ。



昼間は商店街の路上に簡易食の露店が並ぶ。

キムパッ(海苔巻)とネギのチヂミをたのんだら、紙コップを差し出された。受け取ってとまどっていたら、近くにいた女性がその紙コップをとって、おでんのスープを入れてくれた。おでんのスープは屋台の無料サービスなのだ。オー、コマプスムニダ。

おでんは韓国語でもオデン。串に刺したものは魚の練り製品が多い。大根やこんにゃくのような日本のおでんネタは見受けなかった。

夕暮れ時になると、ロッテ・ホテルと隣接のロッテ百貨店周辺にテント屋台・ポジャンマチャが集まってくる。中に入って温かいものを食べ一杯やってあたたまろうという寸法だ。



最近は、有楽町のガード下もそうだが、プサンのポジャンマチャでも女性の客が多くなっていると聞いた。



屋台の列の隙間で身障者の男の人がミカンを売っていた。つれあいがその小粒なミカンを一袋買った。



さて、これから普通のレストランに入って、普通の韓国の夕食を食べ、ホテルに帰ってテレビを見ながらミカンを食べ、そして眠ることにしよう。あすは金海空港から成田へ帰らねばならない。

                      (写真と文・花崎泰雄)