ジャワ追憶
                文と写真 花崎泰雄

第2章 プンバントゥ・ルマ・タンガ



14 家事労働者


私自身はひさしく家事労働者を実際に見たことがなかった。1974年、ハワイの東西センターのジェファーソン・フェローシップという新聞記者研修プログラムに招かれてホノルルに滞在していたころ、同じプログラムのフェローとしてカルカッタから来ていたインドの新聞記者と、米国、日本、インドのジャーナリストの暮らしぶりについて話したことがある。

インドの記者は当時私がもらっていた給料の額をしつこくたずね、やがて、自分の給料と比較して感服したせいか、
 「カルカッタのわが家には4人の家事奉公人がいるが、君の家では何人かね」
と尋ねた。
 「冗談ではないよ。家事労働者に給料を払ったら、私自身が暮らしていけないよ」
と答えたが、はたして彼は納得してくれたかどうか。

ホノルルで家事労働者を見たのはあとにもさきにもただ一度だけ。ある晩、フェロー全員が『タイム』誌の発行者だったヘンリー・ルースの妻クレア・ブース・ルースの邸宅に招かれたときだ。三人の女性がまるで高級ホテルの従業員のようないでたちであらわれ、ディナーの給仕をしてくれた。

食後、私が居間の書棚に飾ってある彼女の蔵書をながめていたら、フェロー達に同行してくれた東西センターのジャーナリズム学者が

 「他人の蔵書をのぞくのは楽しいね。ま、もっともこの本もジャーナリストという労働者を搾取した金で買ったものだろうけど」
と私にウインクしながら言った。

搾取していると批判されるような階級に属していないかぎり、家事労働者を雇うような贅沢な生活はできない国からインドネシアにやって来た、本国では並みの勤労者だった外国人は、突然の「お手伝いのいる生活」にとまどう。

現在でもそうだが、私がインドネシアの政治の勉強を始めた1990年代はじめ、日本の企業やお役所からジャカルタに派遣された駐在員の家庭では通常数人の家事労働者を雇っていた。


ボロブドゥール・ホテルの庭で

たとえば、かつて朝日新聞社が発行していた『月刊Asahi』(19905月)に掲載された「世界の家計簿」シリーズのジャカルタ編で、Aさんがジャカルタでの暮らしを以下のように書いていた。

住宅は勤務先から車で15分。1,000平方bの敷地に建てられた450平方bの平屋。5寝室、居間、食堂、台所。さらにバスルーム3室。使用人部屋3室。使用人は女性の家事労働者2人、男性の家事労働者1人、運転手1人の計4人。運転手の給料は月額で32,500。残る家事労働者3人分の給料が合計で月に2万円。人件費の総計52,500円。これはAさんの家庭で趣味のテニスに出費した58,000円におよばなかった。

こういう日本離れした生活をしているうちに、駐在員の感覚も痺れてくる。私の知人はジャカルタでチークの巨大なダイニングテーブルを購入して愛用していた。帰国にあたり処分に忍びなく、日本に持ち帰った。この話にはオチがついていて、

 「さて、アパートのわが家は小さすぎて、このテーブルが持ち込めなかった。ああ、わが家はこんなに小さかったのか」

 話を元にもどす。
 「インドネシアの生活で日本人主婦たちが最も悩ませられるのは使用人たちとのトラブルだと言われていますが、その半面、私たちが快適にこの国で暮らせるのも彼らのおかげです」
Aさんは書いた。

だが、そのころ日本人駐在員やその家族がジャカルタ暮らしのつれづれを書いて出版していたジャカルタ滞在記には「使用人のおかげ」についてより「使用人とのトラブル」をめぐる話が圧倒的に多かった。「インドネシアのことを知りたい人にその経験を伝え、少しでも役にたちたい」という目的でそのころ大槻重之という人が出版した『インドネシア百科』の「女中との共存」という項目で、彼はこう断定した。
 「女中がいると家の中のものがやたらと減る」




15 ゆがんだ鏡


『インドネシア百科』の著者・大槻は著書の「あとがき」で、「たまたま業務の関係でインドネシアの情報に接することが多く、しかも数回にわたりインドネシア出張の機会に恵まれた。しかし出張はいずれも一週間程度でしかもほとんどはジャカルタの冷房のきいた最高級ホテルにいる」とことわっている。このことから、上記のような大槻の断定は、ジャカルタ出張中にかわした世間話や、駐在経験者の話、あるいは彼らの出版物からえた情報にもとづいた結論にちがいなかった。

1990年代前半のジャカルタでは、推定60万人のお手伝いさんが働いているといわれていた。彼らのうちの何人ぐらいが勤め先の家のものをくすね、その被害額がどのくらいの規模になるか、そのような統計の存在を寡聞にして私は知らなかった。

さらには大槻の『インドネシア百科』は面子へのこだわりという項目で、「人前で面罵されるとインドネシア人の顔が青ざめる、といっても顔の色まではわからなくても表情が硬直するから分かる。女中などに対し人前で軽々しく面罵することは禁物である」と書いていた。

私の知人のインドネシア人が風邪をひいて体調をくずしたとき、一目瞭然の青ざめた表情をしていた。大槻は『インドネシア百科』を書くさい、彼の勤め先である関西電力の火力発電の4分の3はインドネシアからの石油とガスにたよっているので、当時のスハルト体制についての記述には最大限の配慮をしたと、あとがきで語っている。だが、一方でインドネシア人に対する人間的な配慮には欠けていた。


ジャカルタ国立博物館で

このような日本人の「ジャカルタ女中観」の蔓延を蔑視拡大の構造であると厳しく批判したのが「ゆがんだ鏡の中の東南アジア」を月刊雑誌『世界』(19878月号)に書いた小泉允雄である。彼は「まるで家に泥棒を飼っているみたいです」と書いた谷口恵津子の『マダム・商社』(学生社、1985)、3ヵ月に4度お手伝いを解雇した体験を書いた平岡英一の『新じゃがたらぶみ』(学生社、1985年)、お手伝いを「対等と思わず有無をいわさず指示を与え、乗じさせるスキを与えないのがコツなのであるが、これには平均的日本人が持つ平等、人権意識が大いにわざわいする」と書いた松村光典の『ここはインドネシア』(日本放送出版協会、1981年)、「日本へ帰ってきて何が一番うれしいかと妻に聞いてみたところ、その答えは、女中の顔を見なくてもすむことです、というわけであった」と書いた飯田経夫の『援助する国 される国』(日経新書、1974年。1988年、『鏡のなかの「豊かさ」』と改題、増補してちくま文庫から出版)などを例にあげて、こうした日本人のお手伝い観のゆがみは、「あまりに気楽なアジア観」とそこに「ちりばめられた蔑視」が創り出した幻想であると結論した。

そうした幻想のとりこになったジャカルタ駐在者の異様な行動を、かつての駐在経験者として小泉は見聞した、と書いている。お手伝いにくすねられないよう、「卵やアイスクリームのみならず、ネギにも一本一本番号をふった人もいる。ジュースはもちろん飲み水までビンに目盛をつけ、女中に冷たい水を飲まれぬようにした人もいる」というのだ。

先に紹介したAさんの家計簿によると、1990年当時、ジャカルタでは牛乳1リットル42円、卵1キロ179円、ホウレンソウ135円、ニンジン1キロ65円、などと記録されている。

当時、仕事などでインドネシアに滞在していた日本人は1万人前後だったらしい。このうちの何人が番号をふったかはわからない。ほんの数人がやったことかもしれない。もしそうだとしても、豪壮な邸宅の台所で、1990年当時の価格で1キロ179円の卵に123、と番号をふり、1リットル142円の牛乳に目盛をつけている人の姿は、想像するだけでやはり鬼気迫るものがあった。





16 カサール

お手伝いに対する蔑視とた疑心暗鬼が行きつく先は、オランダ植民地時代初期の植民者と家事奴隷との関係に似た恐怖感であった。インドネシアでは奴隷制度は19世紀半ばまでには廃止されたが、当時の家事奴隷は、苛酷な扱いに反逆して主人を襲うことがあった。19世紀初頭には奴隷を虐待したことで、逆に奴隷に殺されたヨーロッパ人の女性の話が劇化されたこともあるそうだ。1980年代のジャカルタ駐在者のなかにも「使用人が束になって襲ってきたらどうしよう」(『マダム・商社』)という恐怖感がぬぐえない人がいた。

アトマクスマが紹介してくれたお手伝いさんは、彼の家で働いていたお手伝いさん、ラスの夫の姉で、スカルノの第二夫人と同じ名前の、ハルティニといった。私の住み家を訪問してくれた日本人の友人の言葉を借りると――年配の方にはおわかりいただけるだろうが――「肝ったまかあさん」(を演じた石塚京子という女優)のような体格、風貌で、家の中をのっしのっしといった感じで歩き回り、働いた。

ハルティニの夫はスワルトという名前で大工さんだった。おとなしく極度に口数の少ない人で、ときどきハルティニに命じられて前庭の草刈りをしていた。また、深夜家の中でねずみが駆け回るのをふせぐため、ねずみの通り道になっている通風孔の網の破れ目を修理してくれた。

2人にはひとりっ子の、当時4歳の男の子がいた。名前はルー。相当な母親っ子のあまったれで、昼寝から目覚めたとき母親が外出していたので「マー、マー」と叫んで泣き出してしまったことがあった。冷房もない仕事部屋で論文のメモを作っていた私にはこれがうるさくてしかたない。うるせー、わめくな、などと怒鳴ればもっとうるさく泣くだろう。なんでオレがこんなことをしなきゃいけないのかとも思ったが、ちょうど表をアイスクリーム売りが通りかかったのでルーを連れ出し一つかってやりなだめていると、それを近所の人に見られ、ニッと笑われた。

あるときなどは、どこか腹の虫のいどころでもわるかったのか、マッチを持出し渋い顔つきで前庭の植木の葉にマッチをすっては近づけていた。私が「ルー」と怒鳴ると、うらめしそうな表情で母親のいる台所へ逃げて行った。

このことでハルティニに「子どもにマッチを持たせないよう気を配るように」と注意したら、彼女の表情が異常にかたくなった。私の口調や表情を相当きつく感じたのだろう。苦情をいうときはどうやるか。それをハルティニが身をもって教えてくれた。


ジャカルタ国立博物館で

ある日の昼下がり、ちょうどルーが昼寝をしていたとき、表にインドネシアの国民車キジャンが止り、エンジンは切ったものの車のラジオを大音響でつけっぱなしにし、近所中にインドネシアのポップスであるダンドゥットを響きわたらせた。ハルティニはけわしい表情で私の仕事部屋にやってきて「非常識な馬鹿者」などと私に愚痴った。どうやら私にラジオをとめるよう交渉してもらいたかったらしい。

苦情を言うのもあんたの仕事と、私がそしらぬ顔をしたため、ついにハルティニが表に出ていった。窓からのぞいていると、ちょうど玄関前の鉄柵を開けたあたりでけわしかったハルティニの表情ががらりと変わり、なんと満面笑みをたたえ、大きな体からははじらうようなしなを絞り出し、車のなかにいた若者に語りかけた。交渉成功、なんのもめごともなく、車のラジオは切られた。

こういうのがジャワ流の優雅な交渉スタイルである。オーストラリアから送った私の書籍類がジャカルタに届いたので、中央郵便局まで取に来るようにはがきで連絡を受けた。中央王郵便局へいくと、肝心の荷物がなかった。係員は「取に来るのが遅かったので、荷物はメルボルンに送り返した」という。「冗談ではない。荷物を取りに来いという連絡のはがきは、ついきのうもらったばかりだ。おかしいじゃないか」と私。

結局、彼の上司の部屋にいって、「とにかく郵便局の責任である。メルボルンから取り返してきてくれ」と、荒々しい声でまくしたてることになってしまった。

このとき郵便局まで付き合ってくれたアトマクスマの学校の職員が、この荒っぽい談判を面白がってアトマクスマに話したので、「郵便局で怒鳴ったんだって」と、彼に冷やかされることになった。

インドネシア語にはハルース(halus)とカサール(kasar)という対照的な言葉がある。いずれも形容詞で、ハルースは絹の手触りのようなべすべした優雅さ、カサールはその反対のどうにもならない粗野、を意味する。ジャワ人がハルースなるものに与える価値は、日本人のそれを超える。郵便局で大声を出している私は、さぞかしカサールな日本人にみえたことだろう。




17 ハルティニ


ハルティニは中部ジャワのサラティガ周辺の村の出身だった。兄弟姉妹が9人もいた。スハルト政権は当時、人口抑制のため家族計画を急力に推進していた。ハルティニが生まれたのは、それよりも以前のことだった。

ハルティニの面倒みがいいせいか、兄弟姉妹がしばしば尋ねてやってきた。はじめのうちは「だれそれが来たので泊めていいか」などと私に承諾を求めていた。だが、答えがいつでも「ああ、いいよ」だったので、やがて事前のお断わりもなくなった。

朝、台所の冷蔵庫にオレンジジュースをとりにいったら、見知らぬ女性がお湯をわかしていた。にこりと笑ってくれた。あとでハルティニに聞くと妹だという。

夕方、ハルティニが同じ年ごろの女性と台所のタイルの床にべたっとすわりこんで、モヤシのヒゲをとりながらジャワ語でなにやら話しこんでいた。「ご近所のお手伝い仲間」だった。

ある朝などは、突然、白いシャツに黒ズボン、黒い革靴の若者がハルティニと挨拶に来た。前日の夜にやって来て、これからシンガポールへ出かせぎに行く弟だといった。


ジャカルタ国立博物館で




18 トゲ


さて、お手伝いさんのハルティニには7万ルピア(1994年当時の為替レートで3,500円ほど)の月給を払った。三食住宅つきの住み込みお手伝いさんとはいえ、あまりに安い賃金であった。

これはハルティニを紹介してくれたアトマクスマ夫婦の助言にしたがったからだ。彼らはこう言った。

「外国人の君にはこの額は異常に低いと思えるだろうが、これが『新聞記者村』の相場なのだ。もし君が相場以上の給料を払うと、それがお手伝い仲間に知れわたって、ここの住人が困惑することになる」。

こう言ったあと、二人は別の助言もしてくれた。

「したがって、方法としては、特別な用を頼んだり、来客があったりした場合などに、手当をはずめばよい」。


ジャカルタ国立博物館で

私はよろこんでこの助言に従った。それというのも、ハルティニはモヤシのヒゲ根と頭をかならずとったうえで料理していたからである。1970年代後半に出版された『有吉佐和子の中国レポート』に有吉が北京・北海公園の有名レストラン、彷膳の2階の特別室でモヤシ炒めを食べたときの記述が記憶に残っていたからだ。モヤシ炒めが大皿山盛りで出たが、そのモヤシがすべてヒゲ根と頭がとってあったという。有吉は日本でも1軒だけこれと同じことをする店を知っているが、フカヒレスープに客1人当たり数本分を入れるだけだからと、このモヤシ炒めに驚嘆していた。

1990年代中ごろ北京に行ったおり、私も彷膳にお邪魔してモヤシ料理を注文したが、1階の並みのツーリストの席に出てきたモヤシにはすべてヒゲ根がしっかりとついていた。中国はものすごい高度成長の下にある。彷膳2階特別室のモヤシ料理はなお健在なのだろうか?

中国の著名なレストランではなく、ジャカルタへふらふらとフィールドワークにやって来た年配の学生の仮り住いで、この手間暇かけたモヤシがスープに入ったり、厚揚げ、トウガラシとともに炒めて酢と醤油で味つけした料理になって出てきた。

モヤシはインドネシア語では「トゲ」といって、日本と同じようにポピュラーな食材だ。スカルノが大統領だったころ、ジャーナリストの故モフタル・ルビスに、「トゲは性力増強に聞くそうだな」と、大統領執務室できわどい話をしたと、ルビスのエッセイで読んだことがある。

モヤシが効くとは思えないし、それほどうまい食材とは思わなかったが、ハルティニのモヤシは贅沢な料理であることにはちがいなかった。

こうした贅沢な生活をしたせいだろうか、フィールドワークの終わりごろのある夜、私は大海原を漂流し、ふと気づくと海と思っていたのが実はソト・アヤム(チキンスープ)だったという夢を見た。ハルティニが夕食にかならずスープをつけてくれたせいであり、円高をいいことに、お手伝いに食事の用意をさせる学生暮らしを続けたせいでもあり、また、50歳で実直な勤め人の暮らしをやめ、行方も知れぬインドネシア研究の道に迷いこんだ不安感のせいでもあった。

有吉と同じようにヒゲのないモヤシに価値を認めた以上、ここはインドネシアだからということでそのヒゲをとった人にそ知らぬ顔をするのはフェアな態度ではあるまい。したがって、ハルティニがいつもひとり息子のルーを行水させている大きなプラスティックのたらいで洗濯しているのを見た私は

 「洗濯機を買おうか」

という程度の気配りをして、ハルティニから

 「あんたはそんなに永くいるわけではないから、もったいない」

と逆に配慮を返された。そういうわけで貧しい学生の私はついに、お手伝いとその雇い人との間におこるドラマティックな出来事を体験することができなかった。おそらくこういう雰囲気がインドネシアの田舎の暮らしなのだろう。ご近所のある新聞社幹部の家では、彼の郷里からこうした訪問者がひきもきらず、なかには長期間滞在するものもいて、常時、数人の食客が家でごろごろしていることで有名だった。「食費だってばかにならない額になる」と彼の妻がこぼしていたと伝え聞いたことがあった。しかし、それでも食客が減るようすはなかった。

私の友人にいわせると「お祝い事なんかで客を招待するだろ。招待客がその友人を誘ってやってくるので、実際に始まるまで客の数はわからない。だから、食べ物は多めに作っておくことが肝心なのだ」。ところが、やがてこの友人が故郷で結婚披露宴をすることになったら、新婚夫婦が人気者だったせいか、披露宴の会場には予定の2倍の人が集って、まるで新宿か池袋の地下街のような雑踏になってしまった。みるみるうちに料理が消えていったそうである。




19 バイアス


ハルティニのおかげでお手伝いのいる生活がもたらすバイアスからまぬがれたのは幸いだった。

スハルト時代のインドネシア経済の骨格を作り上げるのに力のあった経済学者スミトロ・ジョヨハディクスモが、「私は人類学者のいうことなどに同意はしない」と言ったことがあった("Recollections of My Career," Bulletin of Indonesian Economic Studies, Vol.3, No.3, December 1986)。『ヌガラ』の日本語版(みすず書房、1990年)の序でクリフォード・ギアツは、人類学者は小さな集団の研究に基づいて民族全体について説明しようとすると言っている。

学者やジャーナリストのインドネシア見聞録にも、こうしたバイアスのせいだろうか、短絡的な推論をしてしまう例があった。1913年暮れから4ヵ月ほど東南アジア各地を旅して回った当時の京都大学教授原勝郎は、その見聞録『南海一見』(中公文庫)で、わずか数週間滞在しただけの当時オランダ植民地だったジャワについてこう書き残している。現代風の言い回しで要約すると、

ジャワ人は貯蓄心に欠ける。奉公人がすべて前借りをして、その金で虚栄心を満足させていることから明らかである。こんなに貯蓄心の薄い者が強制されないではたして自らの意思で働くだろうか」


ジャカルタ国立博物館で

インドネシア独立後の1961年に出版された大宅壮一の『黄色い革命』(インドネシア編)で、彼はお手伝いの「甘えたような声、人なつっこいふるまい」を見聞し、彼の日本軍政時代のジャワ滞在経験をもとに、一気に

「この民族の善良さ、悪くいえばよく飼いならされた家畜のような忠実さは、まだ失われていないという気がした」

と書いてしまった。

さらに、飯田経夫がこれも先にあげた著作の中で、インドネシア人の計画性の欠如、データなき抽象的思考癖、インドネシアの文化と低開発の問題を語るにあったって、

「もっとも次元の低いところから始めよう」

と、彼にいわせると「月給は結局小遣い」で、34日で無計画に遣い果たしてしまい「前借りにきた」ジャカルタの飯田邸の使用人のエピソードを例にあげて議論を始めた。このため、ジャカルタでお手伝いたちのよき理解者だった小泉から、これも先にあげた小泉の論文の中で、ひどく目のくもった経済学者と非難されることになった。

原や大宅はあっけらかんと、飯田はもじもじと身近な存在である奉公人やお手伝いを通してインドネシアの全体像を推論しようとした。私がお手伝いのいる生活がもたらすバイアスからまぬがれたと言ったのは、幸運にもそういう視点をとらないですんだという意味である。




20 お手伝い受難


私がジャカルタでフィールドワークをしていた1990年代中ごろ、約40万のインドネシア人がサウジ・アラビアへ出稼ぎに行っていた。この中には相当数の若いインドネシア女性のお手伝いがふくまれている。インドネシアの国会調査団がサウジ・アラビアへ出向き、こうした出稼ぎお手伝いのうち1,500人以上が雇主によって強姦され、その多くが妊娠にいたったと19952月に新聞発表した。

お手伝いさんのサウジ・アラビアでの受難の物語は今なお続いている。強姦、暴行、賃金不払いなどの記事がこれまで何度も新聞に報じられてきた。2005年には、サウジ・アラビアの雇い主から受けた暴力行為が原因で、指を切断する手術を受けざるをえなくなったインドネシア人家事労働者の女性の受難をインドネシアの新聞が報じた。

虐待を受けたお手伝いがサウジ当局に訴えたところ、逆に虚偽の訴えを申し立てたと、裁判にかけられたという。ジャカルタの新聞が伝えたところでは、サウジの裁判所は審理の結果、虐待などなかった、単に「なぐられた」だけだ、と結論したそうである。

このため、同年5月には、スシロ・バンバン・ユドヨノ大統領が、サウジ・アラビアでのインドネシア家事労働者の虐待防止策を宗教大臣に指示した。また、大統領自身がジャカルタの空港に出かけて、サウジ・アラビアから帰国したばかりの出稼ぎ労働者から生の話を聞いた。


ジャカルタ国立博物館で

お手伝いは小遣い稼ぎの気楽な稼業どころではなかったのである。

インドネシアは東南アジアではフィリピンに次ぐ海外出稼ぎ労働者派遣国である。フィリピンは国内の過剰労働力問題解消と、同時に出稼ぎ労働者の本国送金をあてにして、労働者の海外派遣を国家戦略にしている。このため、海外雇用庁という専門機関を設置している。

インドネシアは労働者の海外派遣は民間の仲介業者が担っているので、正式な政府統計による海外出稼ぎ労働者数と、ヤミ労働者数も加えた実質海外労働者数には大きな差がある。たとえばインドネシアの公式統計では、2004年にはインドネシア労働省が掌握していたインドネシア人海外労働者数は約38万人だった。うち6割にあたる23万人が中東に出かけ、3割強の13万人がマレーシア、シンガポールへ入国していた。マレーシアはインドネシアからの不正規労働者の入国が際立って多い国で、インドネシアからの労働者の入国はヤミの部分をくわえると、100万人以上という説もある。すくなくとも、インドネシアから中東や近隣の東南アジア諸国、日本、韓国で働く不正規労働者は100万人を下らないと推定されている。

インドネシアの海外出稼ぎ者は、出かけた先で安価な労働力として搾取され、また、仲介業者に法外な仲介料をとられている。




21 プラムウィスマ


ジャカルタの新聞記者団地に住みついて、インドネシアのジャーナリズムと政治についての研究を進めていたころ、ジャカルタの朝夕刊をいくつか定期購読していた。新聞記者団地の近くに新聞取次店があり、そこが配達してくれた。

興味深いのは新聞の集金だった。日本では購読料を支払うと新聞販売店が領収書を発行する。新聞記者団地を担当する取次店はこの領収書を発行してくれなかった。領収書発行の代わりに、集金人が持参した支払い者名簿に、購読料を支払った私がサインするという仕組みだった。

集金人が持ち帰った購読料金と支払い者のサインの数で、取次ぎ店主は集金人の着服を防止できる。しかし、購読者と取次店の間で、「払った」の「払ってない」といういさかいが生じた場合、このシステムでは、購読者の方が不利な立場になる。もっとも、そのような不都合は生じなかったのではあるが。



ジャカルタ国立博物館で

借家の電話など公共料金は大家が一括して立て替え払いしてくれた。そのあと、その領収書を持って立て替え分をまとめ回収に来てくれた。ある日の午前中、お手伝いのハルティニが市場へ買い物に行ったのといれかわりに大家がやって来た。応対に出た私は、

 「バブーはどうしました?」
と尋ねられた。
 「バブーって?」
と問いかえすと
 「プンバントゥー(お手伝い)のことですよ」
と教えてくれた。お手伝いでなく私が出てきたので尋ねたらしい。

あとで辞書をのぞいてみたら「バブー」(babu)はいまでは軽蔑的な用法になっている言葉で、女の家事労働者のことだった。男の場合は「ジョンゴス」(jongos)とよばれた。大宅壮一の『黄色い革命』のインドネシアの部には「バブー(女の召し使い)」「ジョンゴス(男の召し使い)」とある。下男、下女、女中、下僕といったニュアンスらしい。

1990年代にはプンバントゥー・ルマ・タンガ(pembantu rumah tangga、家事手伝い)の短縮形プンバントゥーがもっぱら使われ、さらにはプラムウィスマ(pramuwisma、家事要員)という婉曲的な用語も新聞などに登場し始めていた。1953年に発行されたバライ・プスタカの『標準インドネシア語辞典』(Kamus Umum Bahasa Indonesia)にはプラムウィスマという言葉は収められていなかったが、1988年にこの辞書を引き継ぐかたちで同じバライ・プスタカから発行された『インドネシア語大辞典』(Kamus Besar Bahasa Indonesia)にはこの言葉があらたに収められた。つまりは、35年の間に家事労働者をみる目になんらかの変化があったわけだ。

さて、バブーと侮蔑的によばれたころの女の家事労働者にはこまかい職種の違いがあったようで、辞書によれば育児係女中(babu anak)、洗濯係女中(babu cuci)、部屋係女中(babu dalam)、料理係女中(babu masak)、乳母役女中(babu tetek)などとある。さらに、オランダ植民地時代には外国人に家事労働とあわせてセックスまで奉仕させられた妾兼女中(babu nyai)がいた。やたらとお高くとまっている女中をメンテン女中(babu Menteng)とひやかした。メンテンは植民者オランダ人がひらいたジャカルタのエリートの邸宅が集中する高級住宅地である。さしずめ、かつての日本の「御殿女中」にあたる。




22 鍵

ジャカルタ・新聞記者団地の借家に住みはじめたとき、大家が鍵の束をくれた。門の鍵、玄関ドアの鍵、裏口の鍵、居間の家具の引き出しの鍵、書斎の机の引き出しの鍵、寝室の家具の鍵など、あれこれあった。

電話機にも鍵がかかっていた。これはちょっと見た目にも不快な鍵だった。住み込みのお手伝いがあちこちに電話をかけるのを防止するため、ダイヤルをロックする鍵だった。この手の電話器のダイヤルをロックする器具が1990年代当時には使われていたのだ。

あるとき、友人と街中の簡易レストランでお昼を食べていて、その友人のポケット・ベルが鳴った。ジャカルタに携帯電話が普及する以前の話である。友人はレストランの電話を借りに行った。しかし、レストランの電話にはダイヤル・ストッパーがしっかりと掛けられていた。店主が鍵を持ったまま店をあけているので、電話は使えないと、従業員が電話器を指さした。インドネシア人家事労働者に対するジャカルタ駐在の日本人の不信については、すでにお話したが、インドネシア人同士でも、お手伝いや従業員に対する不信があった。

最近のジャカルタの新聞によると、お手伝いの賃金相場は住み込み3食付で月額6,000円から4,000円といったところらしい。病気になったとき雇い主から治療費が出るかどうか、退職金が出るかどうか、週休が取れるかどうか、などなどは、運まかせ、雇い主のお慈悲の深浅によって異なるようである。お手伝いの家事労働については、最低賃金も、労働条件の規定もない。

知人の家に招かれたとき、新米のお手伝いさんの働き振りを垣間見たことがある。知人の話では、義務教育をおえて中部ジャワの田舎から出てきたばかりの、10代の少女だった。日常生活ではジャワ語を使って育ち、インドネシア語は学校で習っただけである。ときどき先輩お手伝いさんの通訳に頼りながら、仕事をしていた。

中部ジャワはお手伝いさんの大供給地だ。その理由は人口超密な一方で、農業以外にさしたる産業がない貧しい地域だからである。ジャカルタで私が調査していた1990年代中ごろのインドネシア政府統計によると、中部ジャワの労働者の平均賃金は地域の最低生存費を下回っていた。


ジャカルタ国立博物館で

私の友人の詩人兼ジャーナリストは、「男は女の犠牲の上に立って社会進出してきた。インドネシアではさらに、女性が女性を踏み台に社会進出をはたしている」と言った。

確かにお手伝いさんのいる生活は楽だ。だから、年に一度のイスラム教の断食月明けの休暇のころは、ジャカルタの中流階級の家庭は大騒ぎになる。お手伝いさんがいっせいに休んで郷里に帰ってしまうからである。

その時期になると、新聞にこんな記事が掲載されたりする。「私の家には2人のお手伝いさんがいる。私は週5日、朝8時に家を出て夕7時ごろ帰宅する。家を出るとき、家中はきちんとかたづいていて、家に帰ると家はきれいできれいで夕食までできている。お手伝いさんには満足してます。お手伝いさんに怒鳴ったりはしません。失敗をしてしまうのは教育が不十分なせいで、十分な教育を受けていたら、彼らはお手伝いなんかしていないでしょうね。お手伝いを雇う側の人になっていますよ」(『ジャカルタ・ポスト』20041213日、会社管理職30歳の女性の談話)。

率直であるということは、おうおうにして残酷である。




23 文化資本


2005年ごろの推計では、インドネシア国内に子どもの家事労働者が70万人ほどいたという。子どものお手伝いさんは、小学校の6年間をおえるかおえないかの11-12歳ごろから、都会に働きに出る。インドネシアではながらく小学校の6年間だけが義務教育だった。1994年から義務教育は中学校3年間にまで延長された。しかし、義務教育違反について罰則規定はない。

教育が未来を開くカギであることは親もよく承知している。だが、手元には子どもの教育費にあてる現金収入のあてがなく、むしろ、子どもの稼ぎと仕送りをあてにしている。経済的な格差が、教育を受ける機会の格差になり、それが文化資本の差になってゆく。文化資本の差によって次世代の教育格差、経済格差、社会階層がより固定化される。

ジャカルタの数ヵ所で、あるNPOILOの支援を受けて、お手伝いさんのための夜間教室を開いている。そこで、中学校から高等学校レベルの教科やコンピューターを教えている。お手伝いさんには好評だが、雇い主の中には渋い顔をする者もいる。しぶる雇い主を説得するのもNPOメンバーの大事な仕事だ。

そのNPOがまとめた報告書によると、ジャカルタの家事労働者のほとんどが女性で、年齢は13歳から25歳、教育レベルが低く、インドネシアの田舎の貧しい家庭の出身だ。彼女たちの約9割が110-12時間働いている。年休をとれるのはお手伝いの半数で、3割は年休がとれず断食明けの休暇シーズンにも郷里に帰れない。殴られるなどの暴行を受けた経験がある人、性的な虐待をうけていた人も少なくない。


ジャカルタ国立博物館で

お手伝いの究極の悲劇は無残な死である。2004年のことだが、ジャカルタ首都圏のタングランでお手伝いをしていた15歳の少女が雇い主に殺された。空腹のあまり雇い主の食べ物をぬすんだ。それをとがめられて、雇い主の女性とその息子に殴り殺された。雇い主は死体を裏庭に埋めた。その家で運転手として雇われていた人がその土盛りを怪しんで警察に通報したことから、事件が明るみに出た。

私がジャカルタの新聞記者団地に住んでいたころも、お手伝いさんに対する人権侵害の新聞記事をたくさん読んだ。あれから、アジア金融危機があり、スハルト大統領が退陣し、その後は大統領がめまぐるしく変わった。インドネシアは政治的には大変貌を遂げた。しかし、いわゆる“小さな民”の苦境については、さしたる改善は見られていない。




24 キリング・フィールド


20075月下旬のこと。米国でインドネシア人の女性が2人、奴隷にされていたというニュースが、ニューヨークや、ジャカルタや、シドニーの新聞に載った。

ニューヨーク市郊外ロングアイランドのガーデン・シティーに住むインド系アメリカ人の夫婦が、インドネシア人女性2人に奴隷労働をさせていたとして連邦法違反で起訴された。このインド人夫婦はインドネシア人女性2人のパスポートを取り上げ、豪邸に半監禁状態にして、家事労働をさせていた。インドネシア人女性のうち1人が脱出し、町をさまよっていて保護されたことからわかった。

検察官によると、2人の被害者は虐待も受けていた。仕事がきちんとできないという理由で、殴られ、熱湯をかけられ、階段の上り下りを強制され、3時間に30回もシャワーを浴びさせられ、いっぺんに25個の唐辛子を食べさせられという。


ジャカルタ国立博物館で

人権NGOのヒューマン・ライツ・ウォッチの2005年のレポートによると、1999年から2004年までの7年間で、少なくとも147人のシンガポールで働いている外国人家事労働者が事故死、自殺していた。

インドネシアのNGOによると、このうち114人がインドネシア人だった。調査を行ったインドネシアのNGOのメンバーは「インドネシアの貧しい地域の出身者は、シンガポールで搾取され、虐待を受け、強制労働に従事させられている。シンガポールはインドネシア人家事労働者のキリング・フィールドだ」とジャカルタの英字新聞に語った。

同じころの同じヒューマン・ライツ・ウォッチの別のレポートによると、マレーシアには24万人の家事労働者がいて、その9割がインドネシア人だったという。20031年間で18,000人の家事労働者が酷使や虐待に耐えかねて、雇われた先から逃げ出したという。

インドネシア国内には海外の家事労働を周旋する業者がいる。政府認可の業者が400ほど。ヤミの業者の実態はつかめないが、正規の業者を上回る。周旋手数料は正規の業者で家事労働者の賃金の4-5ヵ月分だといわれている。ヤミの業者だとさらに高額になる。

人間が人間を食うという、古典的な惨劇が現代もなお頻繁に演じられているわけだ。労働者の国際移動を市場だけに任せておくとこういうことになる。ヒューマン・ライツ・ウォッチの報告について、マレーシア政府の高官は次のようにコメントした。「インドネシア人メイドは不満があれば帰国すればよい。われわれは自由市場の機能を信じている。かれらは自由な意思で働きに来ている。意思に反して労働を強制されている人はいない」。

労働条件や人権問題に関しては、どうやら、“ハウスメイド・イグゼンプション”のようなものがあり、家事労働者に対する最低賃金や労働条件の法的整備は放置されている。政治がお手伝いよりも、お手伝いを雇う側の方の利害により関心があるからである。




25 ふるさと離れて


私は1年間の借家契約が切れる3ヵ月前の19955月末、ジャカルタからメルボルンに帰った。夫スワルトのジャカルタでの大工の仕事の契約がまだ続いているので、私が帰ったあとも、1年契約で借りている新聞記者団地のこの家に住んでいていいかと、ハルティニが尋ねた。

そこで、私がハルティニと一緒に大家に了解を求めたところ、大家も承諾した。ただ、大家は私が出て行ったあとの電気、電話料金の支払いを心配したので、私はその分はハルティニの退職金に上乗せしておくからといった。

メルボルンに帰ってしばらくしてアトマスクマに連絡をとったら、私が出て行ってまもなくハルティニたちは郷里に帰って行ったという。ときどきハルティニが、一人息子のルーがやがて学校に行く年頃になるので、いずれ郷里に帰って落ち着きたいと言っていたので、早目にそうしたのだなと私は思った。

199512月、メルボルンから東京に一時帰国するさい、ジャカルタに立ち寄り、10日ほど滞在した。そのときの日曜日、お昼ご飯のお招きを受けてアトマスクスマの家を訪れると、アトマクスマの妻スリがニコニコ笑いながら「ハルティニが来ているよ」と言う。ハルティニは台所で、義妹のラスと昼の用意をしていた。ハルティニの夫スワルトはガレージでラスの夫ワンディと何やら話しこんでおり、そのそばにルーがちょこんと座りこんでいた。

ヤスオがジャカルタに来ていると、ラスから電話をもらったので、ジャカルタ郊外の新しい勤め先から、2時間ちかくかけてバスを乗り継ぎ「新聞記者村」まで、私の顔を見にやって来たのだとハルティニは言った。ジャカルタからいったん郷里へ帰ったものの、そのあとすぐスワルトがジャカルタ郊外での大工仕事の契約をもらい、ハルティニもその仕事場の近くにお手伝いの口を見つけて、またジャカルタに出てきたそうだ。

彼らは夕方近くになって帰って行った。私は中部ジャワのふるさとの村に居つくことなく、またジャカルタ暮らしを始めた彼ら親子3人を近くのバス停まで見送った。


ジャカルタ国立博物館で

ジャカルタにしばらく住んでいると、街中でもプンバントゥの若い娘さんたちの姿が目に入ってくる。私がジャカルタ通いをし、そこに住み着いたころ、ジャカルタの総人口900万人中、こうした家事労働者はその7パーセント弱にあたる60万人だというジャカルタ市庁の推計を『コンパス』紙(19931211日)が伝えていた。いまでは百万人を超えていることだろう。

若いお手伝いは白い木綿のワンピースのお仕着せを着せられて街に現われることが多い。レストランの前に運転手付きの乗用車が止まり、若い金持夫婦がおりてくる。そのうしろから小さな子どもの手をひいておりてくるのが白服のお手伝だ。若夫婦が優雅に夕食を楽しんでいるとき、そのテーブルの片隅で、お手伝いが幼児に食事を与えている。

あるいはバンドン行きの列車の始発駅であるジャカルタのガンビル駅の待合室でみかけたのだが、父親が新聞、母親が雑誌を読みふけっているころ、若いお手伝いが幼児に話しかけ、水を飲ませ、抱き上げて面倒をみていた。

こうした光景は外国人には気になるとみえて、ジャカルタの英語新聞『ジャカルタ・ポスト』に外国人女性が投書して「インドネシアの裕福な家庭の親はお手伝いに育児をまかせすぎているのでないか。これでは親よりもお手伝いとのつながりが子どもに刷りこまれ、子どもの人格形成にあったて、将来なんらかの影響が生じるのではなかろうか」と懸念した。この懸念は決して杞憂ではなかった。