ジャワ追憶
                文と写真 花崎泰雄


第6章 ダリパダ、ダリパダ



66 スハルト時代へ――前奏曲


金子光晴の『マレー蘭印紀行』が出版されてからまもなくの1942年、日本は蘭印(オランダ領東インド)とよばれていたインドネシアをオランダからもぎとった。1943年、バタヴィアはジャカルタと改名された。3年あまりの日本軍政と日本の敗戦は、結果として、インドネシア独立の重要な契機となる。敗戦が近づくころ、日本はインドネシアに対して将来の独立を約束し、憲法草案の作成を認めた。1945815日、日本の敗戦によって、突然、インドネシアに権力の真空が生じた。

インドネシアには独立戦争を闘うための整った軍事組織はもちろん、武器もなく、これといった独立後の政治プログラムもなかった。若い急進派のなかば脅迫のもとに、スカルノは日本敗戦から2日後の8八月17日、妻ファトマワティがとり急ぎ縫いあげえたといわれる紅白の国旗を自宅庭に掲げて独立を宣言する。以後、半世紀にわたって、インドネシアの人々は統一国家としてのインドネシアの生き残りと、政治支配権をかけた国内勢力の暗闘がもたらす政治的激動のなかを生きていくことになった。

1945年から1949年にかけては対オランダ独立戦争とインドネシア革命の時期。1950年代は西欧民主主義の移植実験とそのあえない失敗を経験する。50年代の終わりから60年代のなかごろにかけての、インドネシア共産党と軍部の危うい敵対的同居の上になりたった指導される民主主義のもとで、スカルノは終身大統領を名乗り権威主義的左傾路線の政治を展開した。北京・ピョンヤン・ハノイ・ジャカルタ枢軸とよばれるほどの左カーブ路線だった。一方で、国家財政や経済はほとんど破産状態になった。

そうしたスカルノ体制の崩壊をもたらしたのが1965101日未明の謎の多い9.30事件とそれに続く軍の共産党殲滅作戦。この共産党狩りで数十万人の死者が出た。きちんとした犠牲者の数もいまだにわかっていない。共産党員やその同調者とみなされた人々は文字通りの抹殺された。



スカルノにとって代ったスハルトのもとで、今度は一転して、路線は西側寄りになった。先進資本主義諸国の歓迎をうけて、親西欧・多額の海外援助・借款をテコにした開発政策と、そのための抑圧的権威主義政治を維持する新秩序(オルデ・バルー)体制へと、インドネシアは路線を転換した。スハルト体制のもとで、体制批判は開発をめざすための国家の安定と秩序を乱すものとして厳しい弾圧を受けることになった。その先兵となったのが国軍であり、軍は国防より国内治安に傾斜した。

独立宣言以来、さまざまな価値観やイデオロギーを持ったグループがインドネシアの国家主導権を争ってきた。イスラム伝統主義者、イスラム改革派、ジャワ伝統主義者、西欧流社会民主主義、あるいは共産主義を信じる人々、そして、独立戦争いらい国家としてのインドネシアの背骨は軍であり、軍が政治や社会問題に積極的に参加するのは当然の権利であり義務でもあると主張し続けてきたインドネシア国軍である。

これらのグループは五〇年代の民主制時代にはいきいきと、アナーキーなまでの覇権争いをくりひろげたが、スカルノの指導民主体制下で、国軍とインドネシア共産党をのぞく政治勢力は排除されて力を失った。スハルト体制になってからは、共産党は生命を断たれ、残余の諸政党も体制内に封じ込まれて無害衛生な存在となった。スハルト個人と国軍が最終勝者として生き残ったのである。

ここまでを、前置きにして、「ジャワ追想」はスハルトをめぐる物語へと移ってゆく。





67 ラジャ・スハルト


30年余り続いたスハルト政権が突如、あっという間に崩壊したのは19986月のことであった。そのすこし前に地下出版されたスハルト政権を皮肉る笑話集の中から、「ミイラもスハルトを知っていた」というお話を紹介する。

               *

米・英・インドネシアの3人の考古学者がエジプトのピラミッド内部の迷路で迷った。突然、何千年も昔のミイラが起きあがり、3人の考古学者に近づいてきた。考古学者たちは真っ青になった。「やあ、人間ども、お前たち何者だ? どこからきたのだ?」とミイラが不気味な声で尋ねた。「私の名はマイケル。超大国アメリカから来ました。ミイラ様」。アメリカ人の考古学者が答えた。「ふむ、アメリカ? そのような国は知らんな。で、おまえはどこから来た?」とミイラ。「ミイラ様。私の名はチャールズで、イギリスから来ました」といま1人の考古学者が答えた。「イギリス? 知らんなあ。どこにあるのか?」とミイラが重ねて尋ねた。「世界最大の植民地帝国でした」と考古学者。「悪いが、そんな国は知らん。で最後のお前、おまえはどこから来たのだ?」とミイラ。「私の名はスゲンと申しまして、インドネシアから参りました」と最後の考古学者が答えた。「ほう、インドネシアとな! もっとちこう寄れ」とミイラはインドネシア人の考古学者に命じ、こう尋ねた。「それで……スハルトはまだジャワの王様(Raja Jawa)をやっておるんだろうな?」

                * 

スハルトはインドネシアで30年余り権力の座に居座り続けた。筆者がジャカルタでフィールドワークを始めたころ、スハルトの大統領在職はすでに4半世紀を超えていた。


スハルト大統領ゆかりの品を展示するジャカルタ郊外の記念館で

インドネシア社会を細かく観察すると、スハルト大統領の後継をめぐって、そのころすでに、スハルトと軍とのあいだにぎくしゃくした緊張関係が生じていた。スハルトは軍を以前よりは冷やかにあつかい、文民の同調者を登用することが多くなった。軍ースハルトの関係が冷え込む一方で、開発政策の成功が生んだ中間層がインドネシア社会のなかでじりじりと拡大していた。また、冷戦の終焉による国際関係の変化などによって、興味深いことに、インドネシア版グラスノスティともいうべき、開放政策「クトゥルブカアン (keterbukaan)」が1980年代末から採用されていた。

つまり、スハルトも軍部もその正統性を維持するためには、体制内エリートの意向ばかりでなく、社会の要請に対しても耳をかす、少なくとも、そうしたポーズをとる必要にせまられるようになったのである。

スハルト政権の開放政策とあい前後・並行するかたちで、韓国の民主化、マルコス政権を倒したフィリピンの「黄色い革命」、台湾の民主化政策、タイの民政移行が進んだ。こうした東アジア諸国の政治変化は、経済的に豊かになった人々がつぎに求めるものは政治の民主化である、という仮説の説得力を強めていた。くわえて、米・ソの冷戦構造はすでになく、中国はとっくに革命の輸出より商品の輸出に関心を移していた。西側資本主義大国は、反共であればどんな抑圧的国家であれ援助・庇護するという必要性に迫られなくなっていた。経済的利益は別にしても、スハルト体制維持の政治的利益は減少していた。

スハルト自身の老齢化とともに、新秩序体制そのものにも、体制疲労の兆候が現われてきていた。こうしたいくつかの変化と、四半世紀にわたってスハルトが築きあげてきた国内支配体制の強固さ、この2つの要素をはかりにかけながら、インドネシア・ウォッチャーたちがさまざまな予測をたてていた時代だった。

さまざまな予測はあったが、当時説得力があったのは、近い将来にはインドネシアの民主化移行は難しく、スハルトは死ぬまで大統領職にとどまるだろうと予測していた。もちろん、政権には経年劣化による体制疲労の兆しが一部にうかがえた。だが、政権の基盤はなおゆるぎないものに見えた。スハルトは議会、行政府、軍、社会諸団体、国民ににらみをきかせ、死ぬまで権力の座にとどまれるだけの権力の骨格をなお維持していた。また、権力の座を降りたあとのスハルト自身や彼の一族のことを考えると、結局スハルトは死ぬまで大統領職にとどまらざるをえないという事情もあった。スハルトは倒れないし、引退もしない。1998年3月のスハルト大統領7選就任まで、そうした重苦しい雰囲気が漂っていた。




68 影絵芝居


すでにお話したかと思うが、ジャカルタの中心部にある独立記念広場メダン・ムルデカにそびえる独立記念搭モナスの展望台から見おろすと、金子光晴の見聞から半世紀以上たった今でも、ジャカルタの街には赤い甍の波が残っていることがわかる。

金子はジャカルタの屋根瓦を「赤い」と形容したが、それは赤というよりは、ジャワ・バティックの基調である藍と茶、その茶色の方を少し薄め、少し赤っぽくしたような色である。その赤い瓦(詩人にならって私もここでは赤い瓦という表現を使うことにする)の海の底で暮らしてきた人々が、限定されたものであるとはいえ、以前にはなかった開放政策を経験したことで、将来のインドネシアの国としてのあり方をどんなふうに考え、予測し始めたのだろうか。それを知りたくて、1990年代の中ごろ筆者はジャカルタにやってきた。

そういうわけで、以来、筆者は、かつてのオランダ領東インド時代にはオランダ女王の首を飾るエメラルドのネックレスといわれた麗しいインドネシアの自然、風景、文化、芸術、花鳥風月などはそっちのけにして、もっぱら政治権力や金をめぐる人間の生臭い話ばかりに首をつっこむことになった。

また、追憶にやたら政治とジャーナリズムの話題が多くなるのは次の2つの理由による。 その1つは、筆者が50歳で新聞社勤めをやめ、1993年から96年にかけて、オーストラリア・メルボルンのモナシュ大学で、老眼鏡のお世話になりながらインドネシアの政治とジャーナリズムについて博士論文を書いていたことによる。学位論文とて学術論文のはしくれであり、それなりに書き方にはかたくるしいマナーが求められた。長年にわたる新聞記者稼業のすえ、抽象的な理屈より、やがては歴史のくずかごに捨てさられるようなエピソードやゴシップの方により目をかがやかす性癖がしみこんでしまった身には、学術論文書きがときに退屈きわまりない作業に思えることもあった。そんなとき、手元に集めた資料をもとに気晴しに書き綴ってきたメモがこの追憶のもとになった。

いま1つの理由は、その学位論文の材料集めのために、いくどとなく訪れ、さらに1994年年から1995年にかけて住みついたジャカルタには、実は、金もうけの話を除いて、政治以外に外国人の興味をひくような話題がこれといってなかったからである。

中部ジャワにはボロブドゥールの大遺跡や、プランバナンのたおやかなヒンドゥー遺跡ジョジョロングラン、ディエン高原の初期ヒンドゥー祠堂などがあるが、当時、改築前のジャカルタの国立博物館の棚にころがっているものは、ほこりをかぶったジャワ原人の頭蓋骨の複製であった。



中部ジャワのジョクジャカルタやソロで人々がダランとよばれる人形遣いのあざやかな手さばきと語りによって映し出される影絵芝居ワヤンに見とれ、聞きほれて夜をふかしているころ、ジャカルタの人たちは輸入物のコカコーラ文化、ロック、ジャズ、ハリウッド映画で時間をつぶすか、ひそやかな政治談議で夜を過していた。首都ジャカルタ政治の世界は影絵芝居ワヤンのように不透明でおぼろだ。背後で登場人物をあやつるダランの胸三寸で、影絵は巨大にもなり、逆に、矮小化される。スハルト政権下の当時のジャカルタの政治談議の行き着く先は、たいていのところ「ダランは誰だ」というところに向かった。



ジャカルタの起源をオランダ支配と結びつけるのは、インドネシア人にとってはその民族主義的歴史観からしてしゃくのたねで、彼らはオランダ人が来る前からジャカルタは存在したのだと主張するのだが、ジャカルタはまぎれもなくオランダ領東インド支配の中枢として生まれ育った政治都市である。

インドネシアが独立してまもないころ「ジャカルタはインドネシアという魚の頭にくらいついた太ったヒルである」。そう評したのはスマトラ島出身の、インドネシア最高の国語学者・文学者・哲学者タクディル・アリシャバナだった。その水棲のヒルが血を吸って肥え太れば太るほど魚は失血し痩せ衰えていく。

インドネシアの血を吸うヒルの内部でぬくぬくとしているのは、政治と経済のあらゆる面でコネによって相互に固く結ばれている高官とビジネス・リーダーたちだった。事情はいまでもにたりよったりだ。権力者、高級官僚、軍人、実業家、ホワイトカラー、学者、芸術家、学生、労働者、地方からこまかな金もうけを目当てに首都へなだれこんでくる細民たち――インドネシアの権力の中枢ジャカルタで、富と力の分配をめぐってこれらの人びとが入り乱れ、駆け回わる。

権威主義国家体制の下でジャーナリズムが描く権力の姿は輪郭、遠近感が不鮮明である。それを補うようにさまざまな政治ゴシップやうわさが流される。そして、それらすべてがスハルトを頂点とするインドネシア現代政治の動向とどう関わりあっているのか――新聞記者あがりの老書生のジャカルタ・スケッチブックの題材としてこれにまさる面白いネタはありえなかった。




69 スハルトのダリパダ節


スハルトはジャワ島中部のジョクジャカルタ周辺の小さな村で生まれた。根っからのジャワ人である。彼の第一言語はジャワ語で、インドネシアの国語であるインドネシア語は、彼にとっては後に習得した第二言語だった。

したがって、スハルトのインドネシア語にはジャワなまりがあった。発音の訛りもあったが、言語運用上の、文法の訛り(誤り)もあった。ジャワ人はインドネシアを構成する諸民族のうちで最大のグループであるが、インドネシアの国語としては当時の諸民族の共通言だったマレー語がインドネシア語と名を変えて採用された。しかし、政治と経済の中枢をジャワ人が占めるにしたがって、インドネシア語のジャワ化も進行した。その象徴が大統領スハルトのジャワ訛りインドネシア語だった。



一例をあげると、ダリパダ(daripada)という前置詞の使い方。筆者はインドネシア語の先生から、ダリパダという言葉は、英語の ‘than’と同じで、物事を比較するときに使う、と教えられた。インドネシア語の教科書にもそのように書いてあった。「ABより大きい」というとき ‘daripada B’というぐあいに使うのである。

この「ダリパダ」をスハルトは英語の ‘of’のように使った。たとえば、このシリーズの第67回で紹介したスハルト風刺の笑話は、スハルト政権崩壊4ヵ月前に地下出版された『スハルト流に笑い死ぬ』(Mati Ketawa Cara Daripada Suharto)に載っていたものだ。この笑話集のタイトルそのものがスハルトに対するあてつけで、標準インドネシア語ではMati Ketawa Cara Suhartoとなって、daripadaは使わない。

このスハルトのダリパダ節は、1990年代半ばのインドネシアで筆者もスハルトの演説やお話をテレビで見ていておなじみになった。スハルトは大統領としてインドネシア語の普及に努めたが、ご本人は正しいインドネシア語を使いきれなかった。

それどころか、権力とは恐ろしいもので、スハルトが「ダリパダ」を連発するにしたがって、スハルトの政治的取り巻き(もちろんジャワ人が多かった)や、高級官僚までがスハルトの訛りを真似るようになった。そのころ筆者が聞いた話では、このダリパダ節はスハルト政権公認のジャーナリスト協会の幹部にまで蔓延していた。

インドネシア人の中には、ジャワ語は日本語以上に複雑な敬語の仕組みを持つ封建的な言語であり、そうした言語が育てたジャワの政治文化が、スハルトの支配下のインドネシアで主流化して行くことに反発する人も多かった。本来は簡潔明瞭なはずのインドネシア語のジャワ化が、あいまいで、もって回った、時に意味不明瞭な言語になっていると、彼らは言っていた。




70 伝説の3.1総攻撃

空海こと弘法大師が金剛杖でコツンコツンと地面をつくと、あら不思議、そこからこんこんと温泉が湧き出した……というふうな「弘法大師の温泉伝説」は日本全国に散らばっている。弘法大師は温泉掘削業者のはしりかと思われるほど、その数は多い。

この程度の湯加減の伝説なら笑って水に流せるが、こと政治権力者の伝説となると、そこにはホットな政治的側面がある。温泉伝説のように簡単にはすませられない。たとえば、金日成の抗日ゲリラ・軍事指導者としての華々しい業績が、どこまで史実で、どこからが伝説なのか。ソ連崩壊後にロシア政府が公開した文書などで、金日成将軍の伝説が解き明かされている。金日成将軍の伝説には、北朝鮮の首領となって以後の、彼の政治的正統性を示すために創作された部分が多い。

同じように、金日成ほどではないが、スハルト大統領も軍人時代の数少ない戦功を伝説化させ、自らの支配の正統性の支え、ないしは虚栄心の慰めとした。

1945年に始まったインドネシア独立戦争で、インドネシア共和国はオランダ軍におされて旗色が悪く、インドネシア共和国政府はやがて首都ジャカルタを捨てて、ジョクジャカルタに移らざるをえなくなった。さらに、194812月にはオランダ側の攻撃で、ジョクジャカルタもオランダ軍に占領され、大統領であるスカルノはオランダ軍の捕虜になってしまった。

共和国側は独立戦争の政治指導者を失った。それにもかかわらず、独立軍は健在で、まだ独立戦争は続いているのだと、海外に向かってデモンストレーションをするために、ゲリラ化したインドネシア独立軍が194931日にジョクジャカルタに総攻撃をかけた。この攻撃で、独立軍はわずか6時間にすぎなかったが、ジョクジャカルタをオランダから奪還した。

この英雄的総攻撃を発案し、準備し、指揮をとったのが当時まだ中佐だったスハルトだったという伝説が、スハルトの大統領としての権力の拡大とともに定着していった。スハルト自身も彼の自伝でそう語った。また、スハルト時代のインドネシア正史である6巻本の『インドネシア国史』でも、「31日の総攻撃はスハルト中佐(現大統領)が指揮した」と記述された。また、この『インドネシア国史』は簡略本になって高等学校でも使われた。

しかし、スハルトの時代が終わったいま、実際の戦闘で指揮をとったのはスハルト中佐だったが、総攻撃を企画したのはジョクジャカルタのスルタンだったハメンクブウォノ9世であるという、歴史の見直しが進んでいる。スハルト時代にも一部の歴史家や、独立戦争に参加した元軍人らが、総攻撃はスハルトの企画ではないと言っていた。スルタン自らがインドネシア人の軍事史家にそう語ったこともあった。



スハルトが権力を失ってから、スハルトの伝説のめっきがはげ始めた。それはそうだろう。スハルトはまだ世間の狭い田舎の独立軍の中佐にすぎなかった。ジョクジャカルタ総攻撃の政治的意味や国際社会に与える衝撃を予測して総攻撃を企画できるほど政治的・外交的に成熟していなかった。スルタンの都であるジョクジャカルタに、スルタンの命令なしで総攻撃をかけるだけの権威は当時のスハルトにはなかった。

このようなわかりきった理屈さえもおもてだっていえなくしてしまうのが、政治権力のなんとも怖いところである。




71 スマイリング・ジェネラル

インドネシアの初代大統領スカルノから、スハルトが権力をもぎとったさいの権力闘争で、数10万人(100万人以上という説もある)のインドネシア人が虐殺された。20世紀の世界史でも指折りの政治的大量虐殺事件である。最近公表された外交文書によると、米国もこの虐殺に加担していた。この話は下手な推理小説より謎に満ちている。が、いまのところ、それはさておき……。

左傾化し親中国へとすり寄っていったスカルノにとってかわって、1960年代の後半、スハルトが思いがけなくインドネシア政治の表舞台に躍り出て、親欧米路線へと舵をきりかえた。スハルトの台頭はアメリカをはじめとする欧米資本主義諸国から歓迎された。

そのころドイツ生まれのジャーナリストO. G. レーダーがインドネシアの新指導者スハルトを世界に紹介しようと試みた書物の名がThe Smiling Generalである。この著書の冒頭でレーダーは「スハルト将軍はカップのお茶を飲み、葉巻をくゆらせながら、終始微笑をたやさなかった」とインタビューのさいの印象を書いている。本のタイトルはそこからとられた。このころのスハルトの写真には、はにかんだような微笑を浮かべているものが多かった。

のちに自らの権力基盤が固まると、スハルトは大統領として記者会見に臨むことも、微笑を浮かべることも少なくなった。大統領官邸やジャカルタの高級住宅地・メンテンのチェンダナ通りにあるスハルト私邸に手下の閣僚を呼び込んで何事かを命じた。スハルト時代後期に閣僚をつとめた国際政治学者のユウォノ・スダルソノがスハルト退陣後の1999年になって、『ニューヨーク・タイムズ』の記者に話したところによると、スハルトは大統領執務室のデスクに座り、呼び込んだ閣僚の顔を正面から見据えた、という。スハルトと向き合った閣僚のほとんどがスハルトの凝視に畏怖とただならぬ存在感を感じた。5年に1回行われた議会での大統領選出にあたって、立ち上がって「もう沢山だ」とスハルト多選に異議を唱える勇気を持った議員はいなかった、とユウォノ・スダルソノは語ったそうである。スハルトの視線と表情はそれほどの畏怖をあたえる冷ややかな力を感じさせるものになっていた。



スハルトは事実上スルタンとしてインドネシアを支配した。スハルト退陣直前のアジア金融危機に揺さぶられているインドネシアへ、当時の米国のクリントン大統領がモンデール元副大統領を特使として送ったことがあった。19983月のことだった。モンデールはインドネシアから米国に帰るさい、シンガポールに立ち寄り、当時のゴー・チョクトン首相、リー・クアンユー上級相と会談した。その席でモンデールが「スハルトは愛国者なのか悪漢なのか?」とシンガポールの指導者たちの意見を求めた。外交的配慮を欠いた率直すぎる質問だが、これに対して、スハルトの良き友だったリー・クアンユーが次のように、これまた率直な答えを返したといわれている。

「スハルトは大統領だが、自分のことを大王国の大スルタンだと思っている。スハルトは彼の息子や娘がソロ王国の王子や王女のような特権を享受できるのは当然だと思っている。スハルトはまた、自分自身を愛国者だとみなしている。わたしもスハルトを悪漢だとは考えていない」

国を豊かにする奴は民主主義者でなくても、スルタンであっても、悪漢であっても、愛国者であり優れた為政者奴だ、というリー・クアンユーの信条に裏付けられたスハルト評である。

筆者もジャカルタ滞在中にテレビのニュースで、すでに事実上インドネシアの大スルタンの地位にのぼりつめたスハルトを見たが(実物のスハルトを見たのはたった1回だけ)、笑顔よりも不機嫌そうな、厳しい表情のときが多かったような記憶がある。終始微笑を浮かべているスハルトをテレビで見たのは、国営放送TVRIが放送していたスハルトと農民の対話の番組だった。おそらく番組に参加する農民は慎重に選ばれ、農民からスハルトへの質問や意見も調整済みだったろうから、スハルトにとっては衛生無害のゆったりくつろげるPR番組だった。

この番組で老スルタンことスハルトが浮かべた微笑と、スカルノから権力を奪取したばかりの世界ではまだ無名だった40代後半の将軍が浮かべていた微笑は、はたして同じ質のものだったのだろうか。





72 ドゥイフンシ


スハルト政権時代のインドネシアで、地方で開かれた会議やセミナーなどをのぞきに行くと、主催者から地元の軍人を紹介されることがあった。会議やセミナーの主催者が開催地の有力者に敬意を表して来賓として招く町長さんや議員さんら地元の名士に混じって、どうもセミナーのテーマとは場違いな軍人さんが含まれていることが多かった。

あのころ軍と軍人はインドネシアのオーナー気取りであった。

かいつまんで言えば、インドネシアのオランダ支配に終止符を打ち、インドネシアという国家の構造を支えてきたのはインドネシア国軍であるという自負が将軍たちに受け継がれ、国民も無邪気にそれを信じていた(本当のところは、インドネシア軍はオランダの攻勢に敗れ、大統領と副大統領までオランダの捕虜になるのを許してしまった。インドネシアが独立できたのはオランダに圧力をかけた当時の国際世論の力が大きい)。そういう軍の功績の神話を使って、「軍の二重機能」(dwifungsi、ドゥイフンシ、dual function)という屁理屈をでっちあげた。インドネシア国家形成の歴史的経緯によって、国軍はインドネシアの一体性と国家の維持に責任があり、軍は政治に関与するする権利を有するという理屈である。軍事国家はたいていこのような理屈をこねあげて軍事の政治権力掌握の根拠にしたがる。

スハルト政権下で軍人が文民の世界へ進出した。その最盛期は1970年代末で、国会の500議席中100議席が軍に割り当てられた。さらに、中央政府閣僚の約半数、州知事の3分の2、局長級の高級官僚の8割近く、大使の半数が軍出身者で占められた。



そういうわけで、行政が中央政府―州政府―市長・県知事・地方議会―町長―郡長―村長というピラミッドになっているのに対して、インドネシア国軍は、国防治安省―軍管区―軍分区―軍小分区―分軍支部という同じようなピラミッド型の構成になっていた。それぞれの行政レベルに対応する軍の組織が行政のお目付け役として地方に存在していた。だから、会議やセミナーの主催者は田舎の代表を無視しにくかったのである。

インドネシア軍は独立戦争以後、スカルノ時代にマレーシアとこぜりあい的対決政策にかりだされ、スハルト時代には東ティモール侵攻に出かけた。対外的な戦闘はそれだけで、あとは国内の反政府勢力鎮圧のための作戦が主だった。軍隊の主要な機能の一つは、政府に対抗する国内の社会勢力を打ち砕くことだが、ときには軍が独自の判断で政府を倒すこともある。話がとぶが、タイでは一時期、陸軍司令官が代々政権を引き継ぐ軍政の時代があった。軍政の引継ぎを選挙でやるのも妙な話なので、クーデターで陸軍指令官出身の首相を追放し、次の陸軍司令官が首相に就任することが多かった。クーデターはタイの名物になったが、他の国に比べて流血沙汰の規模は小さかった。

スハルト政権時代、軍は巧妙に政権に対抗しそうな社会勢力を芽のうちに摘み取った。したがって、スハルトの心配は軍の離反とスハルトに肉薄するナンバー2の成長だけだった。スハルトは軍を優遇し、ナンバー2が勢力を拡大すると見るや、ナンバー3やナンバー4を使ってナンバー2の足をひっぱった。そうやって30余年インドネシアを支配し続けたのだから、スハルトはその道ではなかなかの才能をもった男だった。




73 ABS

いまどきの日本で「ABS」という略語をもちだせば、たいていの人はanti-lock braking systemのことだと思うだろう。そのころのインドネシアでは、ABSと尋ねられれば、みんな口をそろえて「アサル・バパ・スナン」(asal bapak senang)と答えたことだろう。インドネシア語英語辞典では、“as long as the boss is happy”、「ボスの御心のままに」と説明されている。

けちなタカリ屋にすぎなかった守屋某が、日本の防衛省(庁)事務次官時代には「守屋天皇」などと呼ばれていたのも、ABSのなせる業だったのだろう。ABSはインドネシアの特産というわけではなく、日本をはじめ世界中にある現象なのだ。だが、スカルノ独裁時代からスハルト時代にかけてのインドネシアでは、このABS症候群がすこぶる顕著であった。

スハルト時代の笑話。

――スハルトは釣りが趣味だった。このことはみんな知っている。釣りに出かけると必ず大物を釣りあげ、お土産に持ち帰る。このこともみんな知っている。だが、次のような噂はあまり知られていない。それは、こういうことだ。スハルトが釣りに出かける前日から、司令官の命令で海兵隊の潜水部隊が待機する。スハルトが釣りをする海域に、当日、潜水隊員が大物の魚をもって潜り、スハルトの釣針にその魚をひっかけてやる。そのための待機である。

スハルトを取り巻く人々は、親分の歓心を買おうとゴマすりに励んだ。スハルト親分に気に入ってもらえば、金と地位が約束されることになる。こうして、取り巻きはスハルトの顔色をうかがい、スハルトの考えを先取りして行動した。いってみればABSにかつがれてスハルト閣下は大統領を超えてジャワの王様となった。これは怖い話である。


スハルトに贈られたプレゼントの数々。右手に羽子板が見える

インドネシアは日本が占領中の1945年に将来の独立に備えて憲法草案を作った。その草案には国家に対する国民・人民・市民・公民の権利がきちんと書き込まれなかった。起草委員会では、それを書き込むべきだという意見も出たが、委員長をつとめた保守派の法学者が、インドネシア国家が国民のために存在するのは自明であり、あらためて国家に対する国民の権利など書き込む必要がどこにあるのかと一蹴した。その草案が独立後にそのまま憲法となった。スハルト後に一部修正され、いまなお現役のインドネシア共和国憲法として存在している。これまた怖い話である。

アメリカ合衆国憲法も当初のものは人民の権利への言及に欠けていたので、早々にいわゆる権利章典とよばれる憲法修正10ヵ条が加えられた。その修正第2条が「規律ある民兵は、自由な国家の安全にとって必要であるから、人民が武器を保有しまた携帯する権利は、これを侵してはならない」(
A well regulated Militia, being necessary to the security of a free State, the right of the people to keep and bear Arms, shall not be infringed.)で、銃乱射事件のたびに話題になる。人民に武器所有の権利を認めるということは、つまるところ、政府に対する武力抵抗権も人民の権利として憲法が認めているということであろう。

日本語で「公(おおやけ)」という場合、広辞苑によるとそれは「国家・社会または世間」のことなのだそうだ。もうずいぶん昔のことになるが、春4月の新聞の経済面で、某社の某社長さんが、「会社」をひっくり返せば「社会」で、良い会社人は良い社会人、なんておろかな訓示をたれているのを読んだ記憶がある。日本では国家と社会と個人の相互の間の垣根というか、対立局面というか、境界線というか、そうしたものがなおあいまいなままである。

インドネシアでは日本以上に、国家に対する社会や個人の影が薄かった。したがって、スハルトに対するABS、スハルトと取り巻きのパトロン―クライアント関係がいたって機能しやすかった。ついには国家がインドネシアのあらゆる領域を占拠し、その国家の上にスハルトがあぐらを書くという図式が出来上がった。




74 マダム・ティン・パーセント

Kleptocracy という言葉がある。辞書では「盗賊政治」あるいは「泥棒官僚制」などと訳されている。とっくに死語となった国もあれば、アフリカのいくつかの国々ようにいまでもポピュラーな現役の言葉のところもある。日本から近い国では、かつて、マルコス時代のフィリピン、スハルト時代のインドネシアがそうだった。

マルコスが国庫からくすねた不正蓄財は推定5,000億円―2兆円と下世話に言われていた。一方、米誌『フォーブス』によるとスハルトの資産は160億米ドル(2兆円弱)、スハルトとそのファミリー総資産は730億ドル(8兆円)といわれた。『タイム』もスハルト不正蓄財を150億ドルと報じた。タイム誌はスハルトから名誉毀損で訴えられたが、スハルトの訴えはインドネシアの一、二審で退けられた。しかし、この秋、判事をスハルト擁護派で固めたインドネシア最高裁は『タイム』に逆転敗訴の判断を下した。最高裁は『タイム』に1億ドルの賠償を命じた。これには『タイム』だけではなく、インドネシア人の多くがびっくり仰天した。正確な金額はともあれ、スハルトとその一族がとんでもない額の不正蓄財をしてきたことはインドネシア人の常識だったからだ。

スハルト時代末期のインドネシアでささやかれた風刺小話。フェルディナンド・マルコスとスハルトの妻ティン・スハルトはすでに鬼籍に入っていた。イメルダ・マルコスとスハルトは生きていた。

――やがてスハルトもイメルダ・マルコスも死に、彼らはあの世で再会した。天国じゃない。もちろん、地獄でだ。それも糞尿地獄。イメルダとフェルディナンドのマルコス夫妻は口元あたりまで汚水につかってあっぷあっぷしていた。「よう、フェルディナンド!」といってスハルトが現れた。見ると汚水はスハルトのヘソあたりまでしかない。それに妻のティンの姿が見あたらない。「?」とマルコス夫婦が尋ねた。スハルトは笑みを浮かべて自分の足元あたりを指さした。フェルディナンドが潜ってみると、糞尿地獄の底でティン・スハルトがよつんばいになり、その背中を踏み台にしてスハルトが立っていた。


ティン・スハルト

この話がインドネシア人にばかうけした受けた理由は、スハルト以上にティン夫人が嫌われていたからだ。大統領が夫婦で同じように国家の富をくすねても、女の場合は男の場合よりも忌み嫌われるというジェンダー・バイアスが背景にある。それはもちろんそうだが、マダム・ティンも決して“バクシーシ”がお嫌いな方ではなかった。

ティンはTienと綴る。Tienはインドネシアを植民地にしていたオランダの言葉で「10」。英語の「テン」のことである。彼女は海外のメディアから 「マダム・ティン(テン)・パーセント」とあだ名を付けられていた。大統領である夫の立場を利用して、海外から持ち込まれる商談に割り込んでは、コミッションを要求していたので、「マダム10パーセント」というニックネームをもらうことになったといわれていた。守屋夫人のようなちまちましたタカリとは桁違いの金額であったといわれている。

スハルトの息子や娘も父親の地位を利用してそれぞれのビジネス・チャンスを拡大した。そうした利権争いが致命的な骨肉の争いに至らないように、母親であるマダム・ティンが家族内の利権調整役をつとめていた。スハルトは表で権力を保持し、その権力をテコにファミリー・ビジネスを仕切っていた裏方がマダム・ティンだったのである。




75 二人三脚

スハルトの妻、愛称ティンことシティ・ハルティナ・スハルトは、ちょんまげ小説やNHK大河ドラマなどでおなじみの「山内一豊の妻」のように、スハルトにとって不可欠な存在だった。

これまた、スハルト時代末期にはやった笑い話――。

シンガポールのリー・クアンユーは首相を退いたのち、上級大臣になって院政をしいた。仕事は現役の首相時代ほど忙しくなくなったので、暇なときは諸国を回って統治術のコンサルタントのようなことも始めた。ある晩のこと。某国へ出かけていたリー・クアンユーからスハルトの自宅に電話がかかってきた。「じつはかくかくしかじかのことを尋ねられている。良い方法が思いつかない。知恵を貸してくれないか」という依頼だった。スハルトが電話口でこう答えた。「いいとも。だが、電話を切らないでこのままちょっとだけ待っていてくれないか。すぐティンに聞いてくる」



こちらはかなり信用できる回顧録で紹介されたエピソード――。

スカルノから政権を奪取したスハルトは、国民が信頼を寄せ、人気も高いジョクジャカルタのスルタン・ハメンクブウォノ9世を副大統領に選んだ。しかし、1970年代に入るとハメンクブウォノ9世はスハルトの政治手法に嫌気がさして政権を去り、ジョクジャカルタに帰っていった。そのハメンクブウォノ9世から聞いた話を、スハルトによって投獄されたこともある中国系のインドネシア人、ウィ・チュータッツが回顧録に書き残した。ウィ・チュータッツはスカルノ政権末期の閣僚で1966年の311日命令書を手に入れたスハルトによって翌312日に逮捕され,1977年まで投獄されていた。ウィ・チュータッツが語り、かの有名作家プラムディア・アナンタ・トゥールが執筆したこの回顧録にティン・スハルトの内助の功が描かれている。ある夕食会のとき、ハメンクブウォ9世が自身の辞任と後継者に関する諸問題を話し合うためにスハルト大統領に呼ばれたときのことをウィ・チュータッツに語った。そのスハルト・スルタン会談の席にはスハルトお抱えの占い師ダランがはべっていて,話し合いに加わった。スハルトに嫌気がさしていたハメンクブウォノ9世は、僕と一緒に君もやめたらどうか、とスハルトに迫った。と,突然,大統領夫人がその場に現れ,話し合いに割って入った。「いいえ、パク・ハルトは生きているかぎり大統領です。辞任など問題外です」。ティン・スハルトはそう叫んだという。

1994年ごろからスハルトにとってかけがえのないパートナー、ティン・スハルトの体力の衰えが国民の目に広くふれるようになった。たとえば、1994101日の9.30事件の追悼式典のさい、おつきの女性に抱えられるようにして、式場のパンチャシラ・サクティに現われたティンは脚の衰えのためにぐらつき、あやうく倒れそうになった。このシーンはテレビで生中継された。また、1995211日、マナドで開かれた新聞の日の記念式典では、同じように脚がもつれてよろめき、会場にいた参加者から押し殺したような驚きの声がもれ、一瞬、会場が緊迫感につつまれた。このときは筆者も開場にいて目撃した。

1996428日、シティ・ハルティナ・スハルトが心臓麻痺のためジャカルタ市内の病院で死去した。72歳だった。貧乏人の子どもスハルトと貴族とはいえ末裔のティンが、2人して築きあげてきた王国にしのびよるたそがれを予感する死であった。




76 チェンダナのご隠居

スハルトは192168日生まれだから、2008年となった今年、87歳の誕生日を迎えることになる。WHO2007年の統計によると、インドネシア人男性の平均寿命は66歳だから、スハルトは長寿に恵まれている。

スハルトの前任者だった初代大統領スカルノは、スハルトのよって権力の座から追い落とされ、自宅軟禁下で晩年をすごし、19706月、無念のうちに死を迎えた。69歳だった。それを思うと、10年前の1998521日、 “Hang Suharto” “Gantung Suharto” 「スハルトを吊るせ」というデモ隊の怒号の中で、こわばった微笑をうかべて大統領の椅子から去った人物には不似合いな穏やかな晩年を送っている。

スハルトは現職大統領の時代からジャカルタ中心部のメンテン地区にあるチェンダナ通りに私邸を構えていた。彼が現職の時代には「チェンダナ(白檀)」といえば、大統領とその家族のことであった。古い時代の話になるが、「六波羅」といえば平清盛とその一族を意味したのと同じである。

スハルトは大統領職を追われて以来、この私邸に閉じこもったきりである。外出は腸内出血で入院するなどの病院通い程度だ。退院するときのスハルトの写真を新聞で見たことがある。車椅子に座り、その表情は最晩年の毛沢東、ケ小平、ロナルド・レーガンらがそうであったように、目に力がなく、表情のたるんだ、精気のないただの呆けた年寄りだった。

インドネシアの経済開発に功はあったが、一方で円にして兆単位の金を国庫からくすね、さらにはスカルノからの権力奪取にあたってインドネシア共産党員とその支持者、何の関係もない農民らを数10万人から100万人の単位で虐殺した事件の総責任者としては、幸運なほど穏やかな余生を送っている。

カンボジアの虐殺の責任者はとうとう裁判にかけられたが、スハルトの場合はそうした動きがない。あの大量虐殺の加害者である軍人、イスラム教徒、被害者の家族らがなお存命中で、裁判が進展すれば、国民が真っ二つになる事態に至る可能性がある。そのうえ、米国政府も虐殺に加担している。インドネシア共産党員の名簿をインドネシア軍に渡していた。

一方、スハルトの不正蓄財は、いったんは起訴されたものの、被告であるスハルトが病気のため公判にたえられないという理由で、裁判は中止されてしまった。現在のインドネシアの指導者たちはスハルト時代に立身出世の階段をのぼったものが多い。スハルトの不正蓄財が徹底的に暴きだされれば、とばっちりをうけかねない有力者も多い。現在の有力者の多くはスハルトに多少の恩義があり、それなりに尊敬も払っている。スハルトは30年余りをかけてインドネシアという国をここまで浮上させた指導者でもある。なにはともあれ、その功績とひきかえに過去の汚点は水に流してやったほうが、やたら波風を立てるよりもましだ、それが大人の知恵ってもんだ、などと考えているのだろう。



この正月も、といってもインドネシアでは日本のようなにぎにぎしい新年のお祝いはしないが、スハルト老はチェンダナの邸宅にこもって、思いがけなくも永い余生に付け加えられた新しい年の初めをのんびり過していることだろう。

去年の秋、『ニューヨーク・タイムズ』がスハルトの隠居生活ぶりを記事にした。この記事の中で、スハルトに好意的な評伝 Soeharto: The Life and Legacy of Indonesia's Second President を出版したRetnowati Abdulgani-Knapp のコメントが引用されていた。レトノワティはルスラン・アブドゥルガニの娘である。スカルノ時代からスハルト時代さらにはメガワティ・スカルノプトゥリの時代まで、巧みな遊泳術で権力から排除されることなくすごした政治巧者である。こうした父親とスハルトの縁で、レトノワティはスハルト邸の出入りが認められて、評伝を書いたのだろう。

そのレトノワティがニューヨーク・タイムズ紙の記者に語ったところでは、スハルトが10年間私邸に閉じこもっているのは、いわば自発的自宅軟禁で、閉じこもることによって過去の非を悔い、来世へ移る準備をしているようにみうけられるのだそうだ。

昨年暮れ訪中した福田康夫は旅の終わりに孔子廟を訪れた。孔子は政治と道徳を同じ平面上で語った。東アジア圏ではいまだにその教えの影響が残っている。あるいは残っているように装っている。だが、スハルトの穏やかな隠居生活をみるかぎり、道徳的行為と政治の修羅場とはなんの関係もないのだということがよくわかる。巨大な富、大きな名誉を獲得することは力のしるしであり、この場合、行為の正、不正など名誉とはなんのかかわりもない――名誉とはただ力に対する評価のみにかかっているからだ、とホッブスは言っている。スハルト老はこのような名誉の名残で余生を安逸に送っている。彼は『リヴァイアサン』を読んでいたのだろうか。





77 ヤヤサン

1月5日のインドネシアの新聞(ウェブ版)によると、スハルトは健康状態が悪化したため4日、プルタミナ病院に緊急入院した。スシロ・バンバン・ユドヨノ大統領が翌5日、見舞いのため同病院を訪れたあと、医師団によると重篤な状態だとのことだ、と記者団に語った。

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米誌『タイム』がスハルトの不正蓄財報道で2007年秋、インドネシアの最高裁で敗訴、100億円を超える損害賠償を支払う判決を受けた話はすでにした。とんでもない判決であると、少々遅れて、その年の暮れの29日の社説で『ニューヨーク・タイムズ』が批判した。

世界の途上国の国庫から年間100兆円の公金がくすねられている、と世界銀行は推定している。スハルトはそうした途上国の国民から横領犯と名指しされているワースト10の指導者の一人だったと世界銀行はみなしている。

世界銀行はまた、NGO・トランスペアレンシー・インターナショナルの数字を引用して、スハルトの資産を150億ドルから350億ドルとみなした。

私がジャカルタでフィールドワークをしていた1990年代前半、新聞などでみたスハルト大統領の年俸は300万円にも満たなかった。大統領としての正規の収入にだけではこれだけの資産は築けない。スハルトは常々、だから皆さん邪推しているような資産は持っていないと言っていた。もちろん、それを真に受ける人はどこを探してもいるはずはなっかたけれど……。

大統領の威光をつかって身内で金目の事業を独占したり、コミッションを取るなどのありきたりの錬金術のほか、スハルト独特の集金術がインドネシア語でヤヤサン(yayasan)とよばれる財団の設立だった。財団は表向き社会福祉を目的に設立されるが、スハルトはそれを集金機構として利用した。

スハルトはこうした集金財団の理事長職を10以上も務めていた。1970年代の後半から、法令によって国営企業の収益の5パーセントをこうした財団に寄付させた。やがて国営企業だけではあきたらず、民間企業や高額所得者からも寄付を義務付けた。

寄付行為はイスラムの五行(信仰告白、礼拝、喜捨、断食、巡礼)の一つである喜捨(ザカート) である。集金の名目はフィランソロピー活動だったが、実際のところは、寄付金の多くは財団内部で適当に処理され、スハルト一族が投資に使ったといわれている。



スハルトは中部ジャワのディポネゴロ師団長をしていたころから、財団をつくって金を集め、配下の兵士の裏給与などに回していた。また、のちにスハルトのクローニーとなる商人たちと親交を深めた。財団とクローニーを使って密輸なども手がけていたとされる。スハルトは金銭感覚に長じた軍人だった。

筆者がジャカルタでフィールドワークをしていたころ世話になったアトマクスマはジャーナリスト研修所ルンバガ・ペルス・ドクトル・ストモの所長だった。この研修所はメディアなどからの寄金で運営されていた。ファンドレイジングも所長の仕事だった。

あるとき、アトマクスマが研修所の運営にもっとも理解のある某大手メディアの経営者と運営資金のことで話し合っていたとき、その経営者がこんなことを言った。

彼が経営するメディア企業体や、彼個人の収入からスハルトの財団に寄付させられている金を研修所に回せないだろうかと考えて、経緯者は情報大臣のもとを訪れた。情報大臣はハルモコという名の人物で、スハルトの側近一人だった。スハルトの財団に納める金を、ジャーナリスト研修所に寄付できるようスハルトに頼んでくれないか、とその経営者は情報大臣に言った。すると、情報大臣は表情をこわばらせ、そんなことバパ(Bapak)に言えるわけがないだろう、と悲鳴のような叫び声をあげたという。




78 スハルト廟―アスタナ・ギリ・バグン

2008年の正月4日、86歳のスハルト老が体調を崩してジャカルタ・クバヨラン地区にあるプルタミナ中央病院に入院した。インドネシアの石油・ガス公社プルタミナ系列の立派な病院である。スハルトは元気いっぱいの壮年のころからプルタミナには世話になってきた。当時のプルタミナはインドネシア陸軍の金庫のような国有石油会社で、軍出身の初代総裁のイブヌ・ストウォはスハルト政権の金庫番でもあり、彼を通じて大金がスハルトに流れたとされている。

スハルトがプルタミナ中央病院に入院したのは心臓と腎臓の機能の低下が理由だった。ひどい貧血とむくみ。入院の翌日の5日にはスシロ・バンバン・ユドヨノ大統領がスハルトを見舞った。そのあとでユドヨノが記者団に、重篤な状態だと医師団から聞かされた、と語ったことから、騒ぎが大きくなった。

血液透析や輸血を行い、体内にたまっていた水をぬいたところ、スハルトは6日夕までには症状をやや持ち直した。6日の日曜日の昼にはユドヨノ内閣の閣僚の1人が見舞いに訪れた。彼がスハルトの病室を去ろうとしたところで、スハルトが目を開き「いま何時ごろかな?」とたずねたという。「正午です」と答えると、スハルトはイスラム教の正午の祈りの言葉をベッドの中でつぶやいたそうだ。

スハルトの病状は少し改善されたように見えるものの、血圧が不安定で、依然として厳しい状況だ、と医師団は説明している。

入院したスハルトを現職大統領のユドヨノや閣僚たちが見舞った。スハルトの子どもたちら身内のほか、スハルト政権時代の閣僚らも続々とやって来た。

へんな言い方だが、インドネシアのメディアの報道を遠く日本で読んでいると、ちょっとした「スハルト・デー」のような賑々しさだ。なかにはスハルト政権時代の与党ゴルカルの流れをくむゴルカル党のアグン・ラクソノ国会議長のように、人道的な理由からスハルトの汚職裁判を完全にやめてはどうか(ちなみに2006年のスハルトの重病・入院をきっかけに、病弱を理由にスハルトに対する裁判は刑事事件から不正蓄財の返還を求める民事訴訟に切りかえられている)、という発言まで出るようになった(15日)。1月6日の民放ラジオでは、あるイスラム歴史学者が、「スハルトは経済と開発で貢献した。インドネシア国民はこのあたりで彼を許してやる勇気を持とう」と呼びかけた。6日のアンタラ通信によると、第4代の大統領だったアブドゥルラフマン・ワヒドもスハルトを見舞い、スハルトが権力の座にあったときに間違いを犯したことは確かであるが、一方で、国家と国民に貢献したしたこともまた事実であり、国民が病めるスハルト許してやりたいのであれば許してやればよい、などと微妙な発言をした。

なんらかの理由でスハルトを許したい人々が今度の入院騒ぎで表立って発言し始めた。もちろん、こうした動きに我慢ならないの人たちもいる。インドネシアの主だった人権NGOが共同で組織しているKontra(行方不明者と暴力犠牲者のための委員会)は、6日のアンタラ通信によると、「スハルトの病気を利用して、スハルトの過去の犯罪を忘れさせようと社会に働きかける勢力がある」とのコメントを出した。スハルトの貢献は大統領としての当然の業務である。スハルトの政治的暴力の犠牲者が忘れ去れてはならない。間違いは間違いであり、スハルトの犯した犯罪はあくまでも追及されねばならない、と強調した。

ポスト・スハルト時代10年目のいまなおインドネシア社会がかかえる亀裂線が、スハルトの病気を機にちらっとのぞいた感じである。



さて、スハルトはこれから北へ向かって帰るのか、それとも東へ向かって帰ることになるのか。

チェンダナにあるスハルトのお屋敷は病院から北の方向だ。病院から東の方向へ向かえば、遠く中部ジャワのソロの町がある。ソロはスハルトの妻ティンの故郷で、その郊外に壮麗なスハルト家の墓所アスタナ・ギリ・バグン(通称スハルト廟)がある。

そこではスハルト夫人のティンがすでに永い眠りについており、夫であるスハルトのお帰りを待っている。スハルト廟はソロの王家マンクヌゴロ家の墓所アスタナ・マンガデグの近くにある。ティンはマンクヌゴロ家の末流の出である。ジョクジャカルタ近郊で育った農家の出のスハルトと力をあわせてスハルト王朝を築きあげた。その栄華はついには本家のマンクヌゴロ家をはるかにしのぐものとなった。

スハルト廟は1970年代、スハルトが権力を握ってまだ10年になるかならないかのころ計画され、数年をかけて完成した。ピラミッドをつくったファラオを思い出させるスハルトらしい用意周到さである。計画の段階では工費は当時の米ドル換算で1,000万といわれていた。そんな大金いったいどこから引き出したのだ、と学生が反スハルト抗議行動を起こす騒ぎになった。スハルトはそれを押しつぶした。

ここでまた、第76回に引用したホッブスの言葉が思い出される。巨大な富、大きな名誉を獲得することは力のしるしであり、この場合、行為の正、不正など名誉とはなんのかかわりもない――名誉とはただ力に対する評価のみにかかっているからだ。

インドネシアの新聞によると、去年からスハルトに関する本が書店に並び、その売れ行きがすこぶるよいという。『スハルト伝―クムスク(スハルトの生地)からクーデターまで』『スハルトのヤヤサンと富』『イスラムのイメージを高めたスハルト』や第76回でふれたRetnowati Abdulgani-KnappSoeharto: The Life and Legacy of Indonesia's Second Presidentなどである。スハルトの入院騒ぎで今月はもっと売れるかもしれない。





79 お見舞い客

スハルトは14日のプルタミナ中央病院入院以来、重篤とやや回復の一進一退を繰り返している。ジャカルタの『コンパス』電子版でみると、医療チームの見立ては113日午後現在、多臓器不全におちいっているスハルトの回復の可能性は五分五分だそうだ。心肺機能は低下し呼吸器の助けをかりている。自分で動いているのは脳と消化器官だけという。

インドネシアの新聞や通信社は、ソロ郊外のスハルト廟の様子を報じはじめた。何か準備を始めるよう連絡はなかったどうかなど、墓守に尋ねている。重態とはいえ当の本人がまだ病床にあるうちに、墓穴を掘って準備しておけ、と指示するような家族はいないから、記者とは下らぬことを聞くものである。

13日午後にはスハルトの親しい友人のリー・クアンユー元シンガポール首相がジャカルタに来てスハルトを見舞った。最後のお別れのつもりだったのだろう。スハルト意識がなく、スハルトの家族あってお見舞いを言い、回復を祈ってシンガポールに引き上げた。

ユドヨノ大統領もカラ副大統領もスハルトの病気見舞いに出向いている。APなどの外国通信社はスハルトの病状の記事に「凶暴で腐敗した独裁者」という形容をつけることを忘れないが、インドネシアの多くの支配層はスハルトを許したがっている。12日はスカルノの息子のグルー・スカルノプトラが病院へ見舞いに行った。13日にはイスラム教の人気説教師アア・ギムがスハルトを見舞った。スハルトを見舞った人々のリストが一覧表になって出席表のように発表されると面白いのだが。



1998年の失脚・引退以来、スハルトは合計10数回の入退院を繰り返してきた。入院を繰り返すたびにそろそろスハルトを許してやろうではないか、という声が高まった。今回はそれが最高潮に達している。

一方で、9.30事件後の大量殺戮、東ティモールの殺戮、アチェの殺戮、タンジュン・プリオク事件でのイスラム教徒殺戮、それにくわえて金銭的な腐敗、スハルト批判活動への抑圧、などなどを許してたまるものかという声も高まっている。

大統領のスシロ・バンバン・ユドヨノは12日、マレーシア訪問を予定より数時間繰り上げて帰国し、スハルトが入院中はスハルトをめぐる諸問題について議論を慎もうではないかと発言した。スハルトに穏やかに死んでもらい、スハルトの死とともにスハルトに関わる暗い記憶が忘れ去られ、スハルト後のインドネシアが引きずっている負の遺産が、スハルトともに埋葬されることを願っているのかもしれない。国民あげてスハルト擁護派とスハルト批判派に分裂、大統領としてその対立に巻き込まれるのは避けたいというところだろう。

『ジャカルタ・ポスト』が8日の社説で「被告欠席のままでスハルト裁判を行って、その後で大統領が恩赦をすればよい」とけじめつけ方を提案した。インドネシア人は許すのが得意で、忘れっぽいのが特徴だが、さすがにスハルトに関わる事柄は忘れ去るには重過ぎると同紙社説はいう。だが、そのような展開にはならず、わけの分からない形でうやむやにするのが最良の政治決着という手法がとられることになるのだろう。





80 ハジ・ムハマド・スハルト
  1921-2008

インドネシアの第2代大統領を務めたスハルト(イスラムの呼称ではハジ・ムハマド・スハルト)は20081月27日、入院先のジャカルタ・プルタミナ中央病院で死去した。86歳だった。スハルトは14日、体調を崩してジャカルタ・クバヨランのプルタミナ中央病院に入院した。やがて症状は多臓器不全に至り、重篤な状況が続いた。スハルトの医師団は、スハルトの驚異的な生命力に感嘆し、一方、スハルトの家族は、人工呼吸器をはずすかどうかの判断を医師団に一任した、と報道された。115日にはスハルト家の執事長にあたる人物が、地域の行政責任者や軍・警察の主だった人々とともに、中部ジャワ・ソロ郊外のスハルト廟(アスタナ・ギリ・バグン)を視察に訪れた。お迎えする準備はいつでも整っているとスハルト廟の関係者が語った、あるいは、プルタミナ中央病院5階にあるスハルトの病室では彼のベッドの位置がメッカの方向を向くように変えられた、などと新聞が伝えていた。

スハルトの評価については否定と肯定がまっ二つに分かれている。1998年に彼が大統領の座を追われたときは様子が違った。あのころは「スハルトを吊るせ」との叫び声がスハルト擁護の声をかき消していた。それから10年。スハルトが入院中の14-14日に開発戦略政策研究センター(Puskaptis)が行った世論調査では、回答者の67パーセント「スハルトを許す」と回答した。

スハルトの後継大統領ハビビはスハルト色の打消しに躍起となった。国会はスハルト時代の腐敗一掃を決め、スハルトは不正蓄財容疑で刑事訴追されたが、ハビビ政権も、ワヒド政権も、メガワティ政権も、ユドヨノ政権もスハルトとその時代を裁くことができなかった。結局、スハルトが10数回の入退院を繰り返した果てに、スハルトを許してやろうではないかという合唱が、法的なけじめをつけるべきだという声より大きくメディアで伝えられるようになった。スハルトを許してやろうではないか、という声の発信源は、スハルト時代にスハルト政権の庇護で世に出て、スハルト後のいまもながらえている中小の権力者や資産家たちである。スハルトが許されれば、彼らの成功の秘密もまた公にされないですむからである。

刑事事件としてのスハルトの不正蓄財に関する裁判はスハルトの健康上の理由で中断された。かわって不正蓄財返還の民事訴訟が起こされたが、その裁判さえスハルトの国家への貢献に敬意を表して取り下げるべきだとの声がスハルトにつながる人々から高まった。ユドヨノ大統領は民事訴訟を示談で解決するよう検事総長からスハルト側に提案させたが、スハルト側に拒否された。ユドヨノはそのような指示はしていないと否定した。



以上のような「許す」「許さぬ」の議論が沸騰する中で、ベッドの上のスハルトは意識を失い、取りもどし、また失うとう状態を繰り返した。かつての国家指導者を国民こぞって静に見送ろうという雰囲気ではなかった。スハルトを
113日に見舞ったリー・クアンユーの談話がそのことを簡潔に語った。スハルトの長らくの友人であるリー・クアンユーはスハルトを見舞ったのち、シンガポールで次のように語った。「たしかに腐敗はあった。家族や友人に便宜をはかった。だが、経済成長と進歩ももたらしたのだ」。リー・クアンユーは経済成長の功績と腐敗・抑圧という負の遺産を差し引きし、なおスハルトの功績は大きかった、と評価した。「インドネシア国民はスハルトがいて幸運である」とリー・クアンユーは言った。そのスハルトが死の病床にあるとき、功績に相応しい尊敬を受けていないことに悲しみを表明した。

これはスハルト擁護の発言であるとともに、政治的抑圧をコストに経済的成長を成し遂げ、豊かではあるが心貧しい都市国家をつくりあげたリー・クアンユーの自己弁護でもあった。リー・クアンユーもスハルトも1960年代半ばから、政治的多元主義、基本的人権などの西欧的価値と引き換えに、強力な中央集権体制(アジア的民主主義と称した)をつくりあげて経済成長・国家のインフラストラクチャーづくりに励んだ。

1960年代には貧しくどうやって生きていけばいいのかという状態だった国民に豊かさを与えてやった。民主主義を叫んで食えないでいるよりは、黙らされてはいるが十分食える暮らしのほうが良いではないか。それが、リー・クアンユーの持論であり、スハルト評価の基準である。

「ニューオーダー」とよばれたスハルトの政治体制は32余年の時の流れに耐え、インドネシアの1人あたり実質国民所得を1965-1996年の間に4.5倍増させて、増大を続ける人口にもかかわらず国民に豊かさをあたえた。しかし、一方で、インドネシア人に政治的思考停止を強要した時代でもあった。

スハルトは中部ジャワの農家の子として生まれた。オランダ植民地時代、日本占領下、インドネシア独立戦争、独立後の軍出世競争を泳ぎきった。事実上の帝王としてインドネシアに君臨していたスカルノを追放してインドネシア国家を手中に収め、僭主となった。数世紀早く生まれていれば偉大な英雄となりえた。ジャワの豊臣秀吉、あるいはインドネシアのナポレオンと称えられたかもしれない。が、いかんせん、スハルトが生きてきた20世紀は、民主主義、平等、公私の厳格な区別、清潔などが価値とされる時代だった。

スハルトとその周辺の軍人は、彼らの先代の指導者モハマド・ハッタやスタン・シャフリルのような外国での高等教育を受けておらず、民主主義など知らなかった。

スハルトは1965年の9.30事件後に、インドネシア共産党に対して物理的殲滅作戦を行い、数10万人から100万人といわれる同胞の殺戮に関係した。東ティモール侵攻、アチェの分離派とのゲリラ戦はもとより、国内治安にあたってもタンジュン・プリオク事件など、暴力の使用をためらわなかった。スハルト時代のインドネシア現代史は流血事件で溢れている。

9.30事件の真相とその後の同胞大量虐殺事件の詳細はいまだに不明である。真相はスハルト政権下で封印されてきた。スハルト失脚から10年になるが、いまなお真相究明への積極的な動きは見られない。暗い歴史の蓋を開けるのを皆が怖がっているのだ。

それは次のような事情による。インドネシア共産党員やその周辺の人々は兵士よって銃で撃たれたわけではない。インドネシア国軍にそそのかされ、軍から手渡された武器や、手製の山刀、手斧、棍棒などで、民間人の手によって殺された。イスラム宗教団体・ナフダトゥル・ウラマの指導者で、のちに第4代大統領に就任したアブドゥルラフマン・ワヒドはかつて、イスラム教徒が50万人のインドネシア共産党関係者を殺害したと語ったことがある。

イスラム教徒による共産主義者の殺戮という無残な事件もさることながら、この大量殺人事件に関して、権力者の冷酷さ、あるいは冷血というものに背筋が寒くなる思いをするのは、このインドネシア人にとって消えることのないトラウマとなっている未曾有の惨劇、あるいは歴史的悲劇を、背後で演出していた人物がいたという点である。

スハルトは
9.30事件後の共産党狩りについて、共産党殲滅のために軍を直接使うよりも、むしろ、国民に武器を与え彼らの手で共産党に打撃を与える選択をしたと、ごく当たり前のように語ったことがある。

9.30事件で殺された将軍たちの遺体を見て、スハルトは「共産党を破壊することが私の最大の義務である」と感じ、首都であれ、地方であれ、山中の隠れ家であれ、共産党の抵抗を粉砕する決意を固めた。しかし、この闘争には軍を直接使うよりも、「私は国民が自らを防衛し、彼らの周りから邪悪の根源を一掃するのに手を貸すほうを選んだ」と自伝『スハルト――わが思想と言行』で語った。国民の間の反目、たとえばイスラム教徒と共産主義者、富裕層と貧農の間の対立を利用して、国民に武器を与えて昨日までの隣人を殺させることによって、権力者への道を突き進んだのであった。政治的対立は流血に至るという恐怖の実例を国民に見せつけ、国民を政治的に萎えさせることで長期間の権力保持に成功した。

だが、ほんとうにそうしたコストなしでは、今日のインドネシアはありえなかったのか?

もしスハルトとは違うタイプの指導者たちが30年以上にわたってインドネシアを運営していたら、いまよりももっとましなインドネシアが出来上がっていたのではないか? 残念ながら、こうした問い対して、インドネシアはこの10年間、納得できるような答えをさがしだすことができないままできた。そうこうするうちに、スハルトはインドネシア人の手からスルリと抜けてあの世に旅立ってしまった。