神田川  2014

                Much water has flown under the bridge.



   1 コンフルエンス

三鷹市・井の頭公園の池から水はながれ始める。コンクリートで固めた掘割のように無愛想な都市河川・神田川は、東京都内を西から東へおよそ25キロ流れて、最後は台東区柳橋と中央区東日本橋の境界で隅田川に注ぎ込む。合流地点は、隅田川に架かる両国橋のすぐそばだ。両国橋の左岸寄りからこの写真を撮った。右岸に神田川の河口が見える。河口のちょっと奥に特徴のあるカマボコ型の橋がある。神田川にかかる最後の橋・柳橋だ。この写真を撮っているとき、合流点→コンフルエンス(confluence)という受験英語で憶えた単語が浮かんだ。わが記憶力の断片の健在を祝し、記念にこの回のタイトルとした。

神田川を遡上してみようと思いついたのは、気まぐれである。このサイトの「彷徨」シリーズで、これまでに、都営地下鉄大江戸線めぐり、都電荒川線めぐり、銀座八丁神社めぐりと、きまぐれ東京散歩を続けてきた。今回の「神田川 2014」がシリーズ4回目になる。

神田川散歩に出る前、準備体操用に鈴木理生『江戸の川・東京の川』(日本放送出版協会、1978年)と朝日新聞社会部『神田川』(新潮文庫、1986年)を買った。『江戸の川・東京の川』は本格的な歴史地理学の本である。一方、『神田川』は1981年に朝日新聞が連載した記事を1冊にまとめたものだ。『神田川』はアマゾンの古書籍セクションで買ったのだが、本代が1円、送料が2百円余だった。古本代金1円は、本が読まれなくなった時代の寂しさを感じさせてあまりある。

朝日新聞『神田川』をひらくと、プロローグのサブタイトルに――小さな石鹸カタカタ鳴った――とある。年配の方にはなつかしいフレーズだろう。南こうせつとかぐや姫の歌『神田川』の歌詞の一節である。歌『神田川』は音楽CD以前の、レコードの時代だった1970年代前半、ミリオンセラーになった。

『神田川』の歌詞を書いた喜多条忠の青春は、朝日新聞『神田川』によると、デモに出かけ、圧倒的な機動隊に粉砕され、催涙ガスをあびて激痛を伴った涙を流し、敗北感にさいなまれる日々だった。教室での学問までが体制側のものであったことに気づいて愕然とする。早稲田大学中退。『神田川』の歌詞は喜多条の私小説風作品である。

窓の下に神田川が流れる三畳一間の下宿で同棲している若い男女が、赤い手ぬぐいをマフラー代わりに首にかけて横丁の風呂屋に出かける。早く出た方がもう一人を外で待つ約束なのだが、待っているうちに、洗い髪が芯まで冷え、小さな石鹸がカタカタ鳴る。やっと出て来た方が、冷え切った恋人の体を抱いて冷たいね、と言う。歌はそうしたストーリーを展開させ、

 なにもこわくなかった ただ
 あなたの やさしさだけが こわかった

と締めくくる。

「この2行があの世代のキーワードだった……いまでも『神田川』は30代の改憲反対派には支持率1位です」。記事『神田川』の中で、喜多条はレコード発売から8年後の1981年に、取材に来た記者に語っている。新宿区北新宿と中野区東中野の境界を流れる神田川にかかる末広橋そばに、歌『神田川』の歌碑がたっている。過去、この歌に心を揺さぶられた世代があったことの確かな記憶だ。「あなたのやさしさだけがこわかった」。なぜ、こわかったのか? そのわけを、たぶん、石碑を建てた人たちは知っていたはずだ。

レコード『神田川』が売り出された1973年は、上村一夫の連載漫画『同棲時代』の人気が沸騰、映画化され、歌にもなったころである。社会現象としての同棲に関心が集まった時代だった。その同棲という時代の風潮の背後に、反体制学生運動で挫折した若者像を匂わせることで、歌『神田川』は成功した。

あれから40年がたった。2014年の今、三畳一間の学生下宿も、横丁の銭湯も、学生運動も、その姿をほとんど消した。

昨今の学生を取り巻く状況は、就職氷河期であり、若者使い捨てのブラック企業の跳梁跋扈である。大量の若者を非正規労働の現場に容赦なく吸い込むネオリベラル経済思想に染まった企業活動の渦の中に今の若者は放り込まれる。すでに、若者が結婚可能なだけの収入の道を閉ざされている、と人口問題の観点から危機が語られている。それでいて、男女の仲を現在の家族制度の中に閉じ込めておこうとする側は、現状の結婚制度を前提にして、産む子どもの数に目標値を設定しようなどと、むなしいことを言う。この想像力貧困な国ではスウェーデンのサムボ法のような発想はまず生まれてこない。

若者がこの国の息苦しい社会に合流して行くときは、今も昔も、困難と痛みが伴う。すでに遠い記憶になった挫折した学生運動という背景を歌『神田川』から消し去って、いま虚心坦懐にその歌詞を読み直しこの歌を聴き直すと、この歌は同棲中の若年非正規労働者のエレジーとして、にわかによみがえってくるのだ。



2 柳橋

川に杭を打ち込み、その上にのった小屋掛けのような船宿が、コンクリートの堤防から神田川の川面にはみ出ている。その下にはぎっしりと屋形船。いまは絶滅した花街・柳橋の忘れ物といった風情である。この写真は、柳橋から一つ上流にかかる浅草橋から撮った。



落語『船徳』は柳橋を舞台にしている。道楽が過ぎて勘当された若旦那が船宿に居候している。暇な毎日に飽き飽きして、船頭のまねごとをして客を舟に乗せたはいいが、舟は迷走して大騒ぎ、という一席である。話の中にコウモリ傘が出てくるので、明治のころにつくられたものらしい。

江戸・明治・大正・昭和と柳橋は東京では指折りの花街だった。だが、朝日新聞に『神田川』が連載された1981(昭和56)年ごろには、『柳橋新誌』を書いた明治の文人・成島柳北の「江都歌伎の多くして佳なるもの、この地をもって冠となす」という記述が、すでに遠い思い出の世界に入っていた。「柳橋はこの一〇年、大きく変わった。料亭が壊され、その跡にマンションや立体駐車場がおさまる」と取材した記者は『神田川』に書いている。

花街・柳橋の料亭と芸者の周辺にあった「料理仕出し屋、髪結い、花屋、俥宿、表具屋、蒲団屋、芸者の三味線を持ち運ぶ箱屋」などの商売は、みんな過去のことになったと『神田川』にある。

そんな柳橋で、過去の記憶を呼び戻す糸口のような甘味処「にんきや」を『神田川』はとりあげた。かつて芸者衆に愛された「みつまめ」を売る店がまだ健在だという話だ。

記事が書かれてから30年がたった。20144月、両側をビルに挟まれて、押しつぶされそうに見える「にんきや」の店舗はまだ残っていた。だが、「春から初夏にかけては、金茶色。暑い盛りは、ずっと黄色で通す。秋から冬いっぱいが紺色である」と『神田川』が書いた「にんきや」ののれんは見当たらない。店の玄関はぴたりと閉じられている。どうやら長期休業に入っている気配だ。

鉄製の柳橋の欄干にかんざしのレリーフが飾られている。界隈にかつて花柳界の賑わいがあった、という墓碑銘のようなものである。現在の柳橋は1929年に架けられている。傷んできた橋を1991年に補修・整備したときに、このかんざしのレリーフが飾られた。

成島柳北の『柳橋新誌』に、「蓋し柳橋今日の盛を致す所以の者は、即ち是れ転の一字によるのみ」というくだりがある。『柳橋新誌』の原文は漢文で、私などにはとても読めない。岩波の『新 日本古典文学大系100』の読み下し文を参照した。深川では芸者の売春が公然と行われていたが、柳橋の芸者は売春をしないという建前が一応あるが、実態はというと――「柳橋の妓は、芸を売るものなり。女郎にあらざるなり。而して往々色を売る者あり。何ぞや。深川の遺風あるを以て然るか。而して深川は公に売り、此は則ち私に売る」。

さかえや小柳の名で柳橋の芸者をしていた安藤せん子の自伝『紅灯情話 二代芸者』(新栄社、大正2年)を国会図書館の近代デジタルライブラリーで読んだ。面白おかしく花柳界裏話が綴られている。そのなかに、次のようなことが書いてあった。ある三味線屋が芸者屋に行って、芸者には必要不可欠な新案の品物だと言って、空気枕を売りつけようとした。「わたしは最初冗談かとばかり思っていたら、この枕の需要者が柳橋あたりにもずいぶんあるんですって」。

「玉高と枕の数が比例するのです」「いやしくも芸妓とあって、嬌名を唄はれたとなれば、男を拒絶してはなりません。お客の紙入れの軽重を計る事を怠ってはなりません」(『二代芸者』)

柳橋の欄干にかんざしのレリーフを飾ることを発案した人は、何を思ったのだろうか? 古代ギリシャのヘタイラ、朝鮮の妓生、日本の芸者、いわゆる男社会の飾り物に対する賛美の気分だったのだろうか。それとも、切ない稼業に哀悼の意を表したのであろうか。

『二代芸者』によると、柳橋の客筋は商5、髯3、雑2の割だったそうである。髯は政治家、軍人、弁護士、医者。雑は俳優、力士など。それに、学生も柳橋に出入りしていたそうだ。

伊藤博文ら明治の元勲も柳橋を利用したが、やがて新橋、赤坂などの待合に政治家や官僚がたむろするようになり、昭和2年(19271218日付東京朝日新聞に柳田国男が「待合政治の考察」という無記名論説を書くまでに、待合政治が横行した。待合政治は戦後の高度経済成長の時代までつづいた。「社会交渉のもっとも複雑にして特に慎重なる思慮を要求する事件を、単に当事者の骨惜しみ、乃至は腹黒き巧知をもって、置酒歓笑の間に突如として完了しようとすることは、後代に対する甚だしき無責任である。しかも節制なき饗宴が往々にして心情のもっとも下劣なる部分を暴露し、互いにこれをもって相許し得たりとすることは、仮に彼らを一世の師表と認むる者絶無なりとしても、尚人生の表裏を当然とし、恥ずべき妥協をもって即ち政治なりと解せしめる危険はある」(『柳田国男全集 27』筑摩書房、2001年)。厳しい待合政治批判だ……いけない、神田川の流れが日本政治の密室性という横道へそれかかった。



神田川にかかっている柳橋はご覧のとおりの筋肉質な鉄の橋である。関東大震災で以前の橋が落ちてしまったので、付け替えられた。かまぼこ型の橋は、隅田川に架かる永代橋をモデルにした。その永代橋はドイツのライン川にかかるルーデンドルフ鉄道橋をモデルにしている。橋はレマゲンとエルペルという街を結んでいたので、レマゲン鉄橋とも呼ばれた。

   

2次大戦末期、ベルリンめざして進撃する連合軍とナチス・ドイツ軍が苛烈な争奪を繰り広げた橋で、のちにハリウッド映画の題材にもなった。ルーデンドルフ鉄橋は、結局、ライン川に崩れ落ち、以後、今日まで復元されていない(写真はウィキメディア・コモンズのパブリック・ドメインから。Jedihanky撮影)。永代橋、柳橋の方は東京大空襲をかろうじて生き延びた。



3 浅草橋

JR浅草橋駅前に人形問屋のビルがそびえる。人形問屋は浅草橋の顔である。

朝日新聞社会部の『神田川』にも人形問屋の賑わいが書き込まれている。毎月10日に、問屋で結成した東京玩具人形問屋協同組合の定例会が開かれ、組合役員が勢ぞろいして、

 いとしき子ら すこやかに
 正しく伸びよそのからだ 育むものに人形あり

と、組合歌を歌うのだという。



『神田川』が朝日新聞に連載されていたのは1981年のことで、その年の日本の合計特殊出生率は1.74だった。少子化は始まっていたが、危機感はまだそれほど強くなかった。2012年には1.41まで落ちた。

日本人形協会のサイトをみると、

20141 月初旬、日本人形業界では、早くも『雛人形商戦』がスタートしました。商戦ピークを迎える2 月中旬、節句人形店は、1年を通じて最も華やかな時期を迎えます。厚生労働省の発表によると、平成24 年に誕生した女児は、約50.5 万人。今年は、2.6%減の約49.2 万人の見込みです。日本人形協会では、今年の雛人形売上額は、約434 億円と推定。これに、贈答ケースなど80 億円(昨年実績)を加え、市場の売上総額は、約514 億円と見込んでいます」

「『五月人形商戦』がスタートします。例年は3 月初旬から4 月中旬にかけて販売ピークを迎えますが、今年は4 月の消費税8%導入を受け、ピークの前倒しや駆け込み需要が見込まれることから、店頭がより一層の盛り上がりを見せると予想しています。厚生労働省の発表によると、平成24 年に誕生した男児は、約53.2 万人。平成25 年は、減少率1.2%(前年同)と仮定した場合、約52.6 万人と見込まれます。日本人形協会では、今年の五月人形売上額は、約397 億円と推定。これに贈答ケースなど40 億円(例年実績)を加え、市場の売上総額は、約437 億円と見込んでいます」

という風な記事が書かれている。人形業界全体が少子化という大変動に見舞われている。浅草橋の問屋さんたちも心境は同様だろう。

1976年に内閣府調査が行った世論調査では「将来,子供に残せたらよいと思うものが次のものの中にありますか。あればいくつでもあげてください」という質問に対する回答は、上位から、

@宝石・貴金属類38.3%A特に残したいものはない 32.5%B書画・骨董などの美術品19.9%D和服・帯19.4%E人形(雛人形や五月人形など)14.8%E家具14.8%、

の順だった。いま、ひな人形・五月人形は日本の家庭でどのくらいのおもみがあるのだろうか。



4 神田佐久間河岸

神田川の神田佐久間河岸あたりでは、コンクリート堤防の両側ぎりぎりまでビルがせまっている。和泉橋から下流に向かってシャッターを切ったのがこの写真だ。左岸が神田佐久間河岸である。

両側のビルがまるで神田川の高い堤防のような錯覚を呼び起こさせる。大きな開渠風の神田川眺望なのだが、天気の良い日などには、川の上に青い空がめいっぱいに広がっていて、思いがけない解放感を感じさせてくれる。

この解放感は青空だけのせいではない。日本の風景を台無しにしている元凶の電柱・電線が川沿いにも、川の上にもないからだ。



ヨーロッパの古い街の街並みが絵に描いたようにすっきりとしているのは、建物の形や色にもよるだろうが、街中に電柱がなく電線が頭上に張りめぐらされていないことが大きい。

日本では、街の路地越に見える有名な古刹の塔が、電線と電柱にその視界を邪魔される。ヨーロッパのたいていの街では、街の由緒ある建物を電線越しに眺めるということはない。電線が埋設されているからだ。例外的に電線が空中に張り巡らされ、鳥が行列してとまっているようなところもある――路面電車のルートである。

東京都内には95万本の電柱がたっていて、都民の8割が世論調査では景観をそこなっていると感じている。ロンドン、パリ、ボンでは100パーセント地中に埋められている(東京都建設局「東京都無電柱化計画」2006年)。東京都では埋設された電線は全体の7.3パーセントにすぎない。日本の市街地全体では1.9パーセントである。

ところで、鈴木理生『江戸の川・東京の川』(日本放送出版協会、1978年)によると、江戸は水運の町で、いたる所に河岸があった。江戸時代水運による物資あげおろし場を河岸あるいは物揚場と称した。河岸は町人が利用できる舟付場、物揚場は武家専用の舟付場だ。

同書によると、神田川沿いには12の河岸があった。神田佐久間河岸という地名も昔の河岸「佐久間河岸」に由来している。したがって、現在ではビルの裏側に面している神田川側が江戸時代は建物正面で、そこで町人たちが荷を揚げ、商いをしていた。

神田佐久間河岸は神田川と道路反対側の神田佐久間町に挟まれたベルトのように細長い町だ。写真右側が神田佐久間河岸である。道路沿いにビルが並び、それぞれのビルの裏は神田川岸である。

朝日新聞『神田川』(新潮文庫、1986年)の神田佐久間河岸についての記述を引用しておこう。

「材木商・佐久間平八の店があったのに由来するという説があるが、きちんとした史料があっての話ではない。川にへばりついて、町域の幅わずか20メートル余、長さ400メートルほど。ウナギの寝床というよりは、ウナギを焼く金グシのように細長く直線的な形の町。二五棟のビルが東西に並ぶこのビズネス街に、しかし歴史を語り継ぐものは何もみられない」

道路は狭く一方通行である。現代ではこの狭苦しい道路沿いがビジネス街・神田佐久間河岸の正面になる。日本の町らしく電柱と電線で風景が飾られている。



5 万世橋からの眺め



神田川に架かる石造りの万世橋の上に立つと、右岸の神田川に肉の万世のビルが見え、左岸にエレクトロニクスの町・秋葉原が広がる。

秋葉原の吸引力はオーディオからパソコン、AKBとメイド・カフェへと変遷したが、今も昔も電気街である。

昔は山手線・京浜東北線と総武線がぶっきらぼうにむき出しで十文字に交差していた秋葉原駅も改装されてしゃれた駅ビルになっている。

神田川遡上というテーマをふまえれば、万世橋からの最高の眺めは神田川右岸の煉瓦の鉄道高架だろう。この高架を中央線の電車が走っている。このあたりに、戦前は万世橋駅という中央線の始発駅があった。その駅舎跡に交通博物館がつくられた。その博物館もいまでは閉鎖されている。

昔のおもかげを残すのは煉瓦の高架橋だけだ。その高架の下の空間を利用して、カフェやレストランが入った商業施設が最近開かれた。



6 聖橋



万世橋の一つ上流の昌平橋から聖橋をながめるとこんな風に見える。

撮影が4月中旬だったので、右手前に散り残りの桜が写っている。ここから御茶ノ水にかけての神田川の眺めは、源流の井の頭池から河口の柳橋へ流れ下るなかで、もっともダイナミックなところだ。

平地の東京もところどころに標高数10メートルほどの台地がある。御茶ノ水は本郷台地の端に位置し、標高は20メートほどである。この御茶ノ水の台地を削って、神田川の流れを水道橋から秋葉原方面に引っ張った。江戸時代の工事である。

頭上の鉄橋を総武線の電車が轟音を立てて走る。川上に見えるアーチが聖橋だ。古代ローマの文化を受け継ぐ地中海世界のアーチ橋ほどには規模は大きくないが、それなりに雰囲気のある橋だ。

聖橋。両たもと近くに、東方正教会のニコライ堂と、江戸幕府の昌平黌の跡地で孔子を祀っている湯島聖堂があるので、橋の名は聖橋。

聖橋の上に立って、神田川下流をながめると、このあたりでは交通が5層の立体的輻輳をみせている。

 

最も上層が地面で、人が歩き自動車が走っている。その下の神田川の崖斜面にJRの御茶ノ水駅があり、総武線と中央線の電車が出入りする。線路は総武線の鉄橋が上にあり、その下をくぐって神田・東京駅と結ぶ中央線の線路がある。その下に東京メトロ・丸ノ内線があり、一瞬、地下鉄車両が現れて神田川を渡り、また地下に消えてゆく。その地下鉄丸ノ内線の鉄橋の下が神田川の水面だ。たまに船が通ることがある。

ってみれば運河掘削だが、歴史の教科書に出て来た中国・隋の大運河、中東のスエズ運河、ギリシャのコリントス運河の規模を思うと、かわいらしいものだ。

神田川の左岸の斜面に建物が密集している。この建物群は1981年の朝日新聞連載『神田川』でもとりあげられている。

 「地下鉄が走り抜ける鉄橋に近い左岸に、木造のバラックを不規則な四層に積みあげた古い建物がある。黄緑と青のペンキを塗り、ところどころトタンの波板で補修してある……ひごろよそよそしいビルを見慣れた目には、ひどく懐かしく、いまとなっては貴重な風景を展開してくれている」

20144月、神田川左岸の建物群はかつてのような木造バラックではなくなったが、どことなく『神田川』の記述を今なおひきずっているようなたたずまいである。



7 お茶の水

「神田川を限るお茶の水の絶壁は元より小赤壁の名がある位で、崖の最も絵画的なる実例とすべきものである」と永井荷風が『日和下駄』の「崖」の項に書いている。

たしかに、お茶の水から水道橋にかけての神田川は、本郷台地を掘削して水路を切り開いただけあって、神田川随一の渓谷の風景を見せている。もっとも、「小」付きとはいえ「赤壁」まで持ちだすのは針小棒大・白髪三千丈的な形容過剰である。写真でご覧の通りの箱庭的風景にすぎない。



朝日新聞の『神田川』には、聖橋からお茶の水橋にかけての、神田川左岸の土手斜面でつみ草をたのしんだお年寄りの話がでてくる。

近くに住む元会社経営者のそのお年寄りは、戦前から神田川土手でつみ草を楽しんでいたが、『神田川』の連載が始まる直前に亡くなった。その時は神田川土手はすでに立ち入りを禁止となり、金網が張られていたそうだ。

戦後間もないころには、つみ草どころか、戦災で家を失った人が勝手にバラック小屋を建てて神田川土手の斜面に住みついていたそうである。対岸の中央・総武線の電車の窓から眺めたり、左岸の道路からみおろしたりすると、土手はなかなかの急傾斜である。こんなところに人が住む家を、たとえバラックにせよ、建てられそうもないようにみえるのだが。

獅子文六が敗戦から5年後の1950(昭和25)年に朝日新聞に連載した『自由学校』には、神田川の橋の下の土手にバラック住宅を建てて住みついている人々が登場する。

橋の名は小説では「お金の水橋」となっているが、聖橋から一つ上流のお茶の水橋がモデルである。小説の中にはこの土手に勝手に上水道を引き込み、共同トイレをつくって暮らす人たちのコミュニティーが出てくる。なかには土手の草を利用して山羊を飼育する人も。

これは獅子文六のつくりごとではなく、戦後の事実らしい。戦後間もなく、作者の獅子文六はお茶の水にあった主婦の友社の寮に住んでいた。朝晩、神田川あたりを散歩し、「あの橋の下の住人、どういう人たちなんだろうね」と好奇心を抱いていた。寮から線路の向こうの橋の下の人々の暮らしを望遠鏡でのぞいたりもしていた。扇谷正造が『獅子文六全集 第5巻』(朝日新聞社、1968年)の付録月報にそんなことを書いている。

お茶の水界隈には今では高層ビルが立ち並び、戦後の住宅困窮者が神田川土手を不法占拠していたことなど、信じがたいまでに、風景は激変している。変わっていないのは土手の緑の茂みだけである。

JR御茶ノ水駅は110万人以上の利用客があるが、駅自体が狭隘な土手の斜面にあるので、プラットホームと駅舎の上り下りはすべて階段である。エレベーターやエスカレーターの設備はない。

先ごろ、「神田川渓谷」の写真を撮るためにホームに降りると、階段下のホームにお年寄りの女性が倒れていた。頭から流れ出が血ホームに血だまりをつくっていた。駅員数人が取り囲み、救急隊の到着を待っていた。

御茶ノ水駅の改修工事が始まっている。線路上空に人工地盤をつくり、そこからホームまでのエレベーターやエスカレーターを設置するという。

同時に、昌平橋水道橋までの神田川で耐震補強工事も進められている。



8 水道橋

神田川“お茶の水渓谷”の土手の緑は、外堀通りから見おろすよりも、総武・中央線の電車に乗って、御茶ノ水と水道橋にかけての車窓から眺めるのが一番だ。

朝日新聞連載『神田川』によると、先の東京オリンピック以前には、水道橋寄りの土手に、水洗便所全面普及以前の、汲み取りで集めた都民の糞尿を神田川の糞尿運搬船に移し替える「積卸所」があった。

「国電・中央線の満員電車が水道橋駅を出発して御茶ノ水駅に向かうとき川の側へ向いて立つ乗客は、コンクリートの構築物から垂れ下がった太いホースから、黄金の液体がドドドドッと下の運搬船の穴のなかへ注入される光景を、目撃したものだった」と書かれている。糞尿船はタグボートに曳かれ、神田川を下って隅田川にでて、東京湾に向かう。東京湾で大きめの海洋投棄船に荷を移す。海洋投棄船は浦賀水道を抜けて、所定の外洋で糞尿を海洋投棄していた。

土手には今では建物らしきものは見当たらず、外堀通りから土手に下って行く細い道が残っているだけである。もちろん、錠のかかった鉄のゲートがあり、勝手に土手に下って行けないようになっている。

水道橋付近からその土手を撮影した。ツツジの盛りのころで、「積卸所」の記憶を呼び起こさせるようなものは何もない。

水道橋では、かすかだが下水のメタンのにおいがした。神田川の水質は最悪の時期と比べるとましになったというけれど、お世辞にもきれ
いとはいいかねる。その神田川を、ウォーンドドドッとけたたましい音をたてて、水上オートバイが走っている。集団で走ってくる。波をけ立てて。波しぶきが日差しに映えて、水質のせいか、真白くキラキラという形容ではなく、灰色っぽいクリーム色に見える。水上オートバイを運転して遊んでいる人は、どんなにおいの水を嗅いでいるのだろうか。顔にしぶきがあたることもあるだろうに。

水道橋(すいどうばし)の名は、東ローマ帝国の首都だったイスタンブールに残る水道橋(すいどうきょう)やスペイン・セゴビアの水道橋など、ローマ帝国の建築遺産と同じ水道橋に由来している。

といっても、セゴビアの水道橋のような壮大な石の構築物ではなく、といって京都・南禅寺の疎水橋のようでもなく、木製のちんまりとした「かけ樋」だった。水道橋のたもとにある碑に江戸名所図会からとった当時の水道橋の風景が刻まれている。

水道橋から後楽園ゆうえんちが見える。



 落下傘がひらく。
 じゆつなげに、旋花のやうに、しをれもつれて。
 青天にひとり泛びただよふ。
                                     金子光晴 「落下傘」

後楽園ゆうえんちの落下傘は、今では「東京ドームシティーアトラクションズのスカイフラワー」と名を変えている。乗る人には、金子光晴など、もはやお呼びでないだろう。



9 日本橋川分流

神田川に添う外堀通りを水道橋から上流に向かって歩く。

後楽橋を過ぎると次は小石川橋である。小石川橋の上に立つと、神田川がここで2つの流れに分かれているのがわかる。下流に向かって左が神田川、右が日本橋川である。



いましも、日本橋川から中央線の鉄橋をくぐって、筏に推進機を付けたような屋根なしの遊覧船が現れた。都心の水路めぐりの船である。ガイドさんの声は聞こえないが、彼が指差す方向を見ると、神田川のコンクリートの堤防にはしけが係留されている。はしけの上に、建物から下向きに突き出た巨大な換気筒のようなものが見える。

千代田区の清掃事務所の不燃ゴミ中継所だ。ここに集められた不燃ごみを下のはしけに積み込んで、神田川経由で東京湾にある不燃ゴミ処理センターに運ぶ。前回、かつて神田川を運航していたし尿運搬船の話をした。そのし尿運搬船が姿を消して久しいが、ゴミ運搬船は健在だ。

日本橋川や神田川を行く遊覧船はこうした都会の表情を川から見上げて観察する。路上観察だけでは見えないものが見えてくる。

日本橋川は小石川橋の分流点から神田、大手町、日本橋を抜けて、永代橋付近で隅田川に流れ込む。この間、川は首都高速道路の高架ですっぽりと覆いがされている。空の見えない川。日本橋川は暗渠状態になっている。

セーヌにかかるパリ最古の橋ポンヌフに比べると、日本橋川にかかるお江戸日本橋は見るからに気の毒である。頭上の首都高速道路の高架に押しつぶされそうにみえる

日本橋川の上にかぶさってきた首都高速5号池袋線が、小石川橋付近で今度は神田川の上にかぶさる。神田川上の首都高速高架の覆いは、飯田橋を経て江戸川橋まで続く。

『江戸の川・東京の川』の著者鈴木理生は、経済効率優先主義によって、東京の市民は何百年もの間共有していて来た貴重な財産を奪われた、と次のように憤慨している。

東京の高速道路の建設は1965年のオリンピックに焦点を合わせてつくられた。近代都市・東京のあるべき姿という理念を置き去りにして、金と技術さえあればこういう芸当もできますよという拙速主義があらわな道路建設だった。自然河川の上に蓋をするような形で高速道路を取り付けた。川は公有で土地の買収・補償の必要がなかったからだ。



10 飯田橋あたり

首都高速道路は小石川橋あたりから飯田橋を経て江戸川橋にいたるまで神田川の上にかぶさっている。

神田川をさかのぼって行くと、飯田橋の交差点で川はほぼ直角に折れ曲がっている。神田川にかぶさる首都高速道路も急カーブで曲がる。

神田川はかつて外濠の飯田濠とつながっていたが、飯田濠は埋め立てられてビルの敷地になった。外濠と神田川は現在、わずかに暗渠でつながっているのみと聞いた。

飯田橋(正確には船河原橋)の横断歩道橋の上から撮った写真には、コンクリートの塊の片隅に汚れた神田川の流れが写っている。



河川の埋め立ては巨大化する都市の宿命のようなものだ。かつては水の都だったタイの首都・バンコクの縦横に張り巡らされた運河は埋め立てられて、いまは道路になった。

ベトナム戦争のとき、アメリカに基地を提供し、その見返りに提供された資金で運河を埋め立てて道路をつくった。その道路の完成を待って自動車を売り込んだのが日本だ。

これは抜け目のない商人国家・日本を揶揄する当時のバンコクの噂話で、米国からの資金は主として米軍が借り受けた空軍基地など、タイ国内の主要都市を結ぶ道路の建設に使われた。

シーズンになるとチャオプラヤー川が増水して水害をもたらすバンコクに比べれば東京の水害の規模は小さい。それでも、飯田橋から江戸川橋にかけての神田川は氾濫の危険性を秘めている。川沿いを歩いていると、「水害時に自由にお使いください」とかかれた土嚢が道路わきに積まれていた。

文京区・豊島区・新宿区の水害ハザードマップを見ると、神田川沿いの低地は集中豪雨などで浸水の恐れのある地域になっている。



11 関口芭蕉庵



江戸川橋で神田川は頭上におおいかぶさっていた首都高速道路と別れる。高速道路は北上して池袋方面に向かい、神田川は早稲田方向に西行する。神田川が首都高速道路と別れたあたりから、神田川左岸に江戸川公園がつくられている。

このあたりは関口台地とよばれ、台地の傾斜が神田川になだれ込んでいるところだ。したがって、神田川の氾濫は過去、低地の右岸に集中した。

江戸川公園は神田川左岸を長くのびていて、春は桜の名所。夏は緑深い散歩道になる。

川沿いに行くと看板があり、見ると水の浄化が進んで水棲動物が増えたと、魚などの絵が描かれている。そこからしばらく行くと、椿山荘の庭の門があり、ダークスーツをピシッと着こなした紳士が、箒で庭掃除をしていた。

「御庭を拝見してよろしいでしょうか」
「どうぞ、水車のあたりには花も咲いているはずです」

傾斜のある庭をのぼって行くと、緑の茂みに隠れるようにして水車があった。もう少し上ると、テラスでは新婚の男女を囲んだ人たちが歓談し、拍手をしていた。

椿山荘の前を過ぎると今度は関口台地を登るやや急な坂道「胸突坂」があった。坂のとっかかりに関口芭蕉庵がある。

芭蕉は江戸に来て一時期、関口で神田上水の仕事に関わっていたと、俳諧関係のいろんな本に書き残されている。

では、神田上水工事での芭蕉の役割は何だったのか。

@工事の作業員だった
A工事現場の事務方だった
B普請奉行だった
C設計技師だった

などの諸説があるが、いまだ不明のままである。

@の作業員は俳諧の大家・芭蕉に対して敬意を欠いた推測であり、Bの地位は芭蕉の家柄からして無理があり、Cについては芭蕉に土木工事の知識があったという史料はどこにもない。Aの事務員がほどほどのところだが、これとて、裏付けになる史料は残っていない。

「要するに水道工事に関係したるは実らしけれど、之に随伴する事実は多くは付会の妄説」と内田魯庵は『芭蕉庵桃青伝』(立命館出版部、1942年)で言っている。

関口芭蕉庵は蕉門の人たちが江戸時代に記念に建てた建物だったが、オリジナルな建物はすでに焼失している。

建てなおされた建物を木々の緑が埋め尽くしている。その意味で、都心にあっては豪勢なお屋敷なのである。



12 幾たびかの合流

関口芭蕉庵を過ぎて神田川沿いの細道をたどる。川沿いの道はみどりにつつまれているが、川はコンクリートで固めてある。このあたりの神田川の右岸は住宅地で、その向こうに新目白通りが走っている。さらに通りの向こうには早稲田大学のキャンパスがある。

神田川の豊橋を渡って、住宅街の道を抜けると新目白通りにでる。ここに都電荒川線の始発駅・早稲田がある。

都電が走る新目白通りと神田川は、少し距離を保ちながら並行して走っている。都電停車場・面影橋あたりで、神田川と都電線路は最接近する。面影橋は太田道灌と「山吹の歌」の言い伝えが残る場所だが、その件についてはすでに『彷徨』シリーズの「ひとめぐり都電荒川線」で触れた。



やがて都電荒川線は神田川の高戸橋で新目白通りとわかれる。高戸橋付近で神田川と妙正寺川が合流している。といっても、写真でご覧いただけるように、左手の神田川は露天の川だが、妙正寺川の水は暗渠から流れ込む。

妙正寺川の暗渠は新宿区下落合1丁目から始まり、新目白通りの地下を抜けてくる。

下落合の合流点では、まず、神田川から分れて地下の暗渠を流れてきた神田川分流と妙正寺川が合流する(写真左)。それからすぐ、流れは道路下の暗渠に吸い込まれて行く(同右)。



都市河川は川幅を広げるのが難しいので、地下に暗渠を掘って分流する。洪水対策である。都市は地上も地下もコンクリート・ジャングルである。

神田川はさらに上流で善福寺川と合流している。こちらの方は暗渠ではなく、ともに空が見える川であるが、写真にとると溝の合流のように味気ない風景になる。





13 こいのぼり



高田馬場駅から神田川に向かってぶらぶら歩き、神田川にかかる神高橋まで来たとき、橋から下流に向かってこいのぼりがかかっていた。5月の連休中の撮影である。

こいのぼりの川渡しは日本全国の川でやっている。神田川でもやっていたとは知らなかった。マスコミで報じられる「こいのぼりの川渡し」は、にぎにぎしく壮大な行事であるが、神田川の場合は川であり溝であるしょぼいこの川にふさわしいていどの「川渡し」だった。

地元の豊島区高田3丁目自治会が主催した地域のお祭りだ。飯田橋から高田馬場にかけての神田川は、朝日新聞の『神田川』によると、大雨の時は氾濫の常襲地帯だった。

お祭りにふさわしく、自治会の役員さんたちが、川の左岸の細い歩道に屋台を設け、お祭り定番の豚汁と焼きそばをそれぞれ100円で売っていた。



14 上落合のせせらぎ

高田馬場を過ぎてから水源の井の頭池に至るまでの神田川沿いの散策は、徐々に退屈になりはじまる。ビルの谷間を縫う神田川は都市の排水溝として、それなりにさまざまな相貌を持っている。だが、神田川が東京西部の住宅地帯に近づくと、周辺の風景が単調になって来る。

新宿区上落合1丁目に下水処理場「落合水再生センター」があって、近辺のいくつかの区の下水を処理し、処理済みの再生水を神田川に流している。そのおかげで神田川の水質がよくなり、魚などが戻ってきたそうである。

技術的には下水から飲料水をつくることは可能だ。問題はそれを気持ち良く飲めるかどうかという気分だ。

島国の都市国家シンガポールは水資源を隣国のマレーシアから輸入している。生存に不可欠な資源の蛇口をマレーシアに握られている。そこで、シンガポールでは海水や下水の再利用を積極的に進めている。

いつごろのことだったろうか。テレビでシンガポールの再生飲用水のニュースが流されていた。画面には政府高官が下水から再生された飲用水を飲んでいる姿が映し出されていた。

シンガポール当局はこの再生飲用水をニューウォーター(NEWater)と名付け、市民に愛飲してもらうためのプロモーション・センターまで作っている。



さて、落合水再生センターのすぐそばを流れる神田川はコンクリートづくりだが、再生センターの敷地には、再生水を使ったせせらぎがつくられていた。

人工のせせらぎだが、神田川沿いではついぞ見かけない貴重な親水風景である。



15 淀橋あたり



上落合の下水処理場から神田川をさらに上流に向かう。このあたりの神田川は新宿区と中野区の境界になっている。やがて末広橋に出る。

神田川にかかる末広橋の、中野区側に緑道が見える。このシリーズ第1回でお目にかけた『神田川』の歌碑はこの橋のたもとの、緑道入り口(出口かも)にあったものだ。

緑道の名は、桃園川緑道。かつてここに桃園川という小さな流れがあった。だが、桃園川が下水溝のようになってしまったことなどもあって、川に蓋をして暗渠化し、上部を緑道にした。桃園川もまた、東京の消えた川の一つである。下水となった旧桃園川の汚水は、末広橋の近くの排水溝から神田川に流されている。

それにしても、東京ではたくさんの川が消えている。

JR新橋の銀座側出口すぐそばに「ポン・ヌッフ」と看板を出した蕎麦屋がある。新橋だからフランス語でいえばポン・ヌフだろう。ポン・ヌフはパリで最古の橋である。

新橋風情が気負ったものだ、一度食ってみたいな、とその冗談に笑いを誘われる。同時に、昔このあたりに新橋という名の橋がかかっていたという話を思い出す。ポン・ヌッフの銀座方向すぐ近くに土橋交叉点がある。ここにも土橋という名の橋が架かっていたところだ。川の名は汐留川。現在ではほとんどの部分が埋め立てられている。

新橋から外堀通りを銀座方向に進むと数寄屋橋に出る。このあたりにも数寄屋橋という立派な橋が外濠川にかけられていた。その川も埋め立てられた。数寄屋橋交差点から晴海通りを海の方向へ進むと、三原橋交差点があり、このあたりにはかつて三十間堀川にかかる三原橋があった。三十間堀川は戦後の瓦礫処理のため埋め立てられた。銀座界隈には橋そのものが消え失せて、橋のつく地名だけが残っているところが多い。徳川幕府が首都に水路を開き、明治以降の首都行政がそれを埋め立てた。

話がそれてしまった。

末広橋から神田川上流方向に視線を向けると、新宿副都心の高層ビル群の一部が見える。その方向へ、末広橋から神田川沿いの小道をさらに歩くと、やがて淀橋に出る。江戸時代には淀橋の水車として名をはせたところだ。江戸名所図会に絵が残っている。

現在は幹線道路・青梅街道の橋なので、橋の幅の方が橋の長さより長い。車で走っていれば、神田川を越えたと気づくこともなく通り過ぎるだろう。





16 中野新橋

東京メトロ丸の内線・中野新橋駅を出たところに神田川が流れている。そこに、擬宝珠つきで、欄干が朱に塗られた、神田川にしては珍しい観光地風の橋がかかっている。

中野新橋。朝日新聞連載の『神田川』によると、記事が連載された1981年ごろは、ここは花街だったそうだ。ただし、記事は橋のたもとの2階建ての三業会館こと見番の建物が取り壊される記述から始まる。

連載記事『神田川』が書かれた30数年前に、すでに中野新橋料亭街の斜陽化は始まっていた。記事によると1955年ごろ40件をかぞえた料亭が四半世紀後には半分に減っていたそうである。料亭を買い取った不動産屋は建物を取り壊して高層集合住宅をたてた。



それからさらに30余年後、中野新橋のたもとに立つと、視界には集合住宅ばかり。中野新橋の赤い欄干が不自然なほどだ。

料亭の経営者、従業員、板前、芸者衆、三味線や踊りの師匠たち、ひいきの旦那衆、かれらの時代は終った。普通の勤労者が高層住宅から都心に通勤する風景がとって代わった。

神田川にかかる擬宝珠つきの赤い橋がなければ、ことさら写真にとってお見せする風景でもあるまい。



17 環状7号線地下調整池

中野新橋から神田川を上流に向かう。東京メトロ・丸ノ内線支線の中野富士見町駅と方南町駅の中間あたりで、神田川と善福寺川が合流している。合流点の写真は第12回「幾たびかの合流」ですでに紹介した。合流点の近くには東京メトロの車両基地がある。

丸ノ内線支線を終点の方南町駅で降りる。環7通りを甲州街道に向かってすこし歩くと、環7通りが神田川の上を越す方南橋に出る。方南橋のたもとに神田川の水を取り込む取水施設の建物がある。



7通りの地下、深さ50メートルほどのところに、内径12メートル強、長さ4キロ強のトンネルが掘ってある。神田川、善福寺川、妙正寺川の3都市河川が大雨で氾濫しそうになると、水を取り込んで、この地下のトンネルに流し込む。遊水施設である。雨がやみ、川の水位が下がると、トンネルに流し込んだ水をポンプでくみ上げて川にもどす仕掛けだ。

土地がない都内では地上に遊水池を作ることがかなわない。地下トンネルが窮余の洪水対策なのである。

方南橋から神田川沿いの小道を上流に歩くと、増水時に神田川から水を取り込む取水口が見える。水位が高くなるとにここから水を取り込んで地下50メートルのトンネルに流し込むのである。

朝日新聞が連載した『神田川』にはこの調整施設のことは出てこない。記事が書かれたのが1981年、地下調整池の建設が始まったのはその7年後の1988年だった。

連載『神田川』には方南橋すぐ近くの釜寺がでてくる。本堂の屋根に400人分の御飯が炊けるという大きな釜をのせた通称釜寺こと東運寺。

屋根の釜を見ようと東運寺へ行った。お釜は屋根の上に鎮座していた。お釜は連載記事が書かれたころとおそらく変わっていないのだろう

16世紀後半の戦国時代、備前の僧一安上人が、安寿と厨子王の守り本尊「身代り地蔵尊」を奉じて寺を開いた。山椒太夫に釜ゆでにされそうになった厨子王を、この身代わり地蔵尊が坊さんの姿になって助けたという伝説にちなんで、本堂の屋根に釜を置いた、と杉並区教育委員会のサイトにあった。

連載『神田川』に、方南の釜寺は明治、大正、昭和の戦争中までは首都圏でよく知られた寺だった、と書いてある。寺の本尊である身代わり地蔵尊が戦地にかりだされる兵士を敵の銃弾から守ってくれる、という信仰があった。門前は大いににぎわい、狭い路地に出店が並んだ、と記事にある。集団的自衛権の行使で自衛隊が国外に出て米軍の補助力として戦うような事態にでもなれば、自衛隊員の家族のお参りが増えるかもしれない。あぶない、あぶない。

方南橋の下をくぐった神田川は、さらに上流に向かって込み合った住宅地の中を走っている。このあたりについてはことさら書くこともない。住宅貧困都市東京の排水路の風景が続く。

神田川の水源である井の頭池近くの流れについてだけ書いておこう。

神田川が川らしい姿を見せるのは、水源の井の頭池から下流に向かって、井の頭公園内を流れる部分だけだ。緑陰と、せせらぎと、流れに入って遊ぶ子どもたち。全長25キロの神田川の中で、わずかにこの100メートルほどが「川」とよぶにあたいする。

                                              



付録 神田川・日本橋川遊覧船

8月上旬、神田川と日本橋川をめぐる遊覧船に乗った。乗船場は「お江戸日本橋」のあの日本橋のたもとの浮桟橋。歌になったり、道路元標があったりして有名な橋だが、現状は哀れだ。橋の上には高速道路が覆いかぶさり、日本橋の下を流れる日本橋川は汚れていて、遊覧船に乗りこむと下水臭がただよう。余談だが、夏の夕方に東京の繁華街を歩くと下水のにおいがするところがある。いつもひどいのは渋谷の道玄坂だ。東南アジアの都会で嗅ぐにおいほど強烈ではないが、日本の夏も、都会も、東南アジアのそれに近づいている。



遊覧船は日本橋を離れて隅田川に向かう。隅田川に出ると左折して上流へ向かう。どぶ臭さが薄れる。川風が気持ち良い。ここからはスカイツリーが良いアングルで撮れるのでカメラのご用意を、とガイドさんが言う。すすめられると、なぜか逆に、その気が失せる。

神田川河口にやって来た。柳橋をくぐったところで、遊覧船が船宿の小さな浮桟橋で泊まった。船宿兼佃煮屋の小松屋の店員さんが船に乗り込んできて、佃煮を販売する。その間、浮桟橋の上の踊り場のようなとこで、和服の女性が差三味線を弾く。



佃煮販売が終わると、遊覧船はいくつかの橋をくぐって、秋葉原までくる。遊覧船は万世橋をくぐってさらに上流に向かい、地下鉄丸ノ内線の鉄橋の下で待機する。間もなく地下鉄車両が音を立てて鉄橋を渡る。「みなさま、地下鉄車両を見上げるという、めったにない経験でした」とガイドさんがアナウンス。



お茶の水の土手からはうるさいほどの蝉の声。神田川遊覧でセミの大合唱を聴いたのはここだけだった。

水道橋、後楽橋をくぐったところで、東京都清掃局の集積所から運搬船にゴミを積み込む施設をまじかに見た。船1隻でダンプカー16台分のゴミがはこべます、とガイドさんが言う。



ゴミ積み込み場を過ぎると遊覧船は左折して中央線の鉄橋をくぐり日本橋川に入る。日本橋川に入ると、終点の日本橋舟乗り場まで、頭上に首都高速道路の高架が覆いかぶさっている。景色は遮断されるが、頭上の直射日光が遮られるので、露天の神田川より涼しい。



『神田川 2014』の写真連載をやっていなければまず、こんな遊覧船に乗ることもなかっただろう。某旅行会社が船会社から遊覧船を借り上げ、一人4000円弱の費用で団体ツアーの参加者を募集した。4,000円を払って、東京のドブ川めぐりをしたわけである。酔狂というか、4,000円をドブに捨てたようなものだというか……。

                                            写真と文: 花崎泰雄