Kumano onamuK
               
                                  

1 熊野みたきと泣き給ひけり

神坂次郎『熊野御幸』(1992年、新潮社)は次のような流麗な筆致で始まっている。

 芭蕉は、七部集『ひさご』のなかで、熊野にあこがれる上臈の心を、
   熊野みたきと泣き給ひけり
 と詠んでいる。
 人生に疲れ、絶望したとき、中世の人びとはいつも心に熊野を念じた。
 ――熊野。



芭蕉の句は、『ひさご』所収の俳諧歌仙「花見」の第22句で、その前後は以下のような展開になっている。

  20 文書くほどの力さへなき       珍硯
  21 羅に日をいとはるゝ御かたち     曲水
  22 熊野みたきと泣き給ひけり      芭蕉
  23 手束弓紀の関守が頑に        珍硯

小学館の『日本古典文学全集 連歌俳諧集』は、(20)(21)で詠まれているのは女性の姿だとしているが、(22)の熊野が見たいと泣いた上臈は男と見るべきだろうとしている。熊野詣は女院もしているが、圧倒的に上皇が多かった。「熊野みたきと泣き給ひけり」は古注によると花山院か久仁親王、あるいは平維盛の熊野詣と入水、それを知って嘆き伏す維盛の北の方の、それぞれの俤を念頭においた付句と解されてきたと説明している。

だが、そうした解釈は不敬であろう、と幸田露伴は『評釈芭蕉七部集』(岩波書店、1983年)のなかの『評釈ひさご』で論難している。露伴の見解はこうである。白河法皇、花山法皇、久仁親王の俤付けという旧説はみな誤りである。「泣きたまひけりなどと申すこと、文藻の上のみの事とは申せ、至尊に対し奉り、不敬不謹に当たりて、けしからぬ事なり。……芭蕉泣き給ひけりと句作したりなどと云うは、皇室に対して畏れあり、芭蕉に対しては罪を得さするというふものなり」

これはちょっと露伴の力みすぎだろう。あのころの皇室関係者は「文藻の上のみの事とは申せ」泣くことをはばからなかった。保元の乱で讃岐に流された崇徳上皇も承久の乱で隠岐に流された後鳥羽上皇も、

  浜ちどり跡は都へかよへども身は松山に音をのみぞなく       崇徳上皇
  泣きまさる我が泪にや色変わる物思ふ宿の庭のむら萩      後鳥羽上皇

と泣いている。

しかし、明治男の露伴にとって泣くのはどうやら女の仕事であったようである。建長2年に熊野に向かった後嵯峨上皇を見送った大宮女院(後嵯峨帝中宮姞子)のしばらくのあいだ離れ離れになるさびしさを察し、「共に熊野見たしと思させたまいひけん」という彼女の心中を詠んだ芭蕉の俤付けであるという。露伴の好みでは、熊野を見たいと泣いた上臈は男でなく、女でなくてはならなかった。

熊野速玉神社に大きな石碑があって、熊野御幸の記録が刻まれている。最多記録を樹立したのは後白河上皇で、じつに33回も熊野詣を繰り返している。次が後鳥羽上皇の29回。3位が鳥羽上皇の23回、これを白河上皇の12回、待賢門院9回が追う。このように院政期には熊野御幸が盛んだった。白河上皇から後鳥羽上皇に至る1世紀の間に97回もの上皇・法皇の御幸があったという。



上皇の熊野御幸にはざっと千人ほどのお供がつくのがならいだったそうである。この行列がいま熊野古道とよばれている参詣路をぞろぞろと歩いた。ずいぶん目立つ旅行列だったろう。それで「蟻の熊野参り」という言葉が生まれた。

鎌倉時代には武士がはるばる東国から参詣するようになった。北条政子や北条時政の妻など女性も参詣している。一時期活況を呈した蟻の熊野の参りも、室町時代に入ると衰退しはじめた。那智の青岸渡寺を訪れる西国巡礼を含めても熊野詣は江戸時代中期以降さらに衰退した。19世紀の文化年間以後は年間1400015000人程度だった。伊勢神宮の年間40万人という参拝者の数に遠く及ばなかったそうだ。

能書はこのくらいにしておこう。霊気というか、妖気というか、「気」の漂う場所は、日本では下北恐山、出羽三山、それに熊野三山だ。恐山には2度行った。最初は1960年代の中ごろ。裸電球一つの宿坊に止めてもらい、境内の掘っ立て小屋にあった温泉に入った。境内には硫黄のにおいがたちこめ、石灯籠からは妖気が漂ってきた。その石灯籠の一つがすうっと動いてこっちのほうに近づいてきたときはじっさい肝が冷えた。よく見ると温泉小屋に行く寺の人だった。

2度目は21世紀に入ってから。恐山はすっかり観光地のようになっていた。「霊気」「妖気」は希薄になり「金気」が充満していた。出羽三山も何年か前に行ったが、即身仏・ミイラのひからびた姿が展示されているだけだった。

私は熊野だけ訪れたことがなかった。いまや熊野とて、世界遺産登録もあって異界霊地というよりも行楽や山歩きの場所になっていることだろう。しかし、熊野は恐山や出羽三山以上に霊域が広い。ひょっとしてまだ強い「気」の残っているところがあるかも知れない。「気」が完全に抜けないうちに熊野を見ておこうと、2010228日正午前、自宅を車で出た。

出発前、チリ地震による津波警報・注意報のニュースをテレビでチラッと見た。中央道で行ったほうがいいかな、一瞬そう思ったのが、結局、東名に入ってしまった。東名に乗って間もなく、御殿場近くで冨士―清水間閉鎖の電光板をみた。冨士インター手前のパーキングエリアで優柔不断に時間をつぶし、富士市内へ出たが、



道路は混み合って、清水まで抜ける適当な道がなかった。あきらめて中央道の甲府南へ行った。このあと中央道、東海環状道、伊勢湾道、東名阪道、伊勢道とたどって、飯食ったり、コーヒー飲んだりしながら走った。ようやく、熊野詣の出発点・伊勢市のホテルに着いたときには、もう3月1日の午前3時すぎになっていた。

  熊野へ参るには
  紀路と伊勢路とどれ近し
  どれ遠し
  広大慈悲の道なれば
  紀路も伊勢路も遠からず

と、梁塵秘抄はいうが、熊野古道・伊勢路の出発点伊勢市までのアプローチは、それほど楽ではなかった。



梁塵秘抄はこうもいう。

  熊野へ参らむと思へども
  徒歩より参れば道遠し
  すぐれて山峻し
  馬にて参れば苦行ならず
  空より参らむ
  羽賜べ若王子

なるほど、羽田から白浜まで飛行機で飛び、そこからレンタカーを利用するのが最楽チンの方法だった。旅費が潤沢であればの話だが……。

2010.3.20





2 朝熊かけねば片参り

チリ地震津波警報の余波で伊勢着が午前さまになった。ホテルにつくなりベッドにバタンと倒れこんだ。だが、午前8時には起きてシャワーを浴び、レストランで朝ご飯を食べた。

外宮へ行った。

熊野参詣道、現在の熊野古道のひとつ、伊勢路ルートの起点だ。伊勢路ルートは外宮を出て、紀伊長島、尾鷲から新宮、あるいは途中有馬から熊野本宮へと向かう。大雑把にいうと、現在のJRの紀勢線はほぼこのルートに並行している。

熊野参詣道は①伊勢路のほか、②大阪から紀伊田辺に至る紀伊路、③紀伊田辺から海岸線を串本経由紀伊勝浦に至る大辺路、④紀伊田辺から中辺路山中を抜けて熊野本宮・熊野速玉・熊野那智の3社に至る中辺路、⑤高野山から熊野本宮に至る小辺路、⑥吉野から峰伝いに熊野本宮に至る大峯奥駈道である。

大峯奥駈道は修験者や登山なれした人たちが何日もかけて歩く、いわば本格トレッキング・ルートで、私にはそんなところに踏み込む気力・体力はない。小辺路も山中を歩く距離が長すぎる。これからやってみようと考えているのは、伊勢神宮から車で舗装道路を走り、熊野古道伊勢路、大辺路、中辺路の風光明媚なポイント近くに車を止めて、息切れしない程度の古道歩きを楽しもうという、古道ウォーク・ア・ラ・パリションだ。

外宮の鳥居の近くに馬小屋があった。小屋に神馬と書かれた札があった。人だかりがしていた。馬は自分をみつめている人間どもの目を気にする様子もなく、大あくびを連発していた。睡眠不足のこちらもつられてあくびを一つ。大あくびで始まったこの日の旅程はなんとなくしまらないものになった。



内宮へも行ってみた。

伊勢神宮参拝は外宮と内宮の両方に行くことになっている。今年1月、礼服に身を包んだ日本の首相が知人である閣僚や国会議員を引き連れて、年頭恒例の参拝にやってきた。そのときも外宮と内宮の両方へ行った。玉ぐし料などの費用は私費から支出しているので公務ではない。大和朝廷の祖神を祭るこの神社への尊崇の念にかられて、歴代日本国首相の例に従って、ポケットマネーで正月のお伊勢参りにやってきたのだという。

2013年の式年遷宮用地の前で団体さんがポンポンと拍手を打っていた。神殿の建設用地は隣接する2ヵ所があり、20年ごとにかわるがわる一方の敷地に神殿が建てられ、その間一方が更地になる。更地といえども、神のオーラは立ち昇るのであろう。



江戸時代には伊勢神宮は3540石の神領を幕府に認められていた。明治に入って神道国教化政策が進み、事実上、宗教イデオロギー装置のトップになった。日本の政府は台湾と朝鮮を植民地にしていた時代、台湾には台湾神宮ほか80余、朝鮮半島には朝鮮神宮ほか60余の神社をたて,公民ではなく皇民化の政策にいそしんだ。第一大戦後日本の信託統治領になったミクロネシアのパラオ諸島コロール島にも、日本政府は太平洋戦争直前に神社をつくって南洋神社と称した。

日本政府は朝鮮シャーマニズムの本宮であるソウルの国師堂を取り壊して、日本シャーマニズムの神社を建てた。朝鮮の人は日本の神社を淫祠邪教と嫌い、反日のバネにした。戦後、この朝鮮神社跡地の一角に、伊藤博文をハルビン駅頭で銃撃した安重根の義士記念館を建てた。台北の大湾神宮跡地には、日本人観光客がよく泊まる圓山大飯店が建てられた。

いろいろあったが、それはひとまずさておき。

15世紀から16世紀にかけて、伊勢神宮に荒木田守武という神官がいた。宗祇、兼載、肖柏といった手だれから連歌を教わった。やがて彼は連歌と俳諧の橋渡し的役割をつとめることになった。祝詞の暇に『守武千句』という俳諧の連歌百韻10巻を独吟した。

 飛梅やかるがるしくも神の春
  われもわれものからすうぐひす
 のどかなる風ふくろうに山みえて

といった調子である。

ともあれ、一塁ベースを踏むように神宮の地を踏んでおいた。内宮の前では、ひところの騒ぎを何とか克服した赤福がつつがなく商売を続けていた。



ここから、熊野古道伊勢路のルートを離れて朝熊山にのぼった。

朝熊山には金剛證寺というお寺がある。昔は伊勢参りのついでに朝熊山に登り、寺参りするのが慣わしで、「お伊勢参らば朝熊をかけよ、朝熊かけねば片参り」といわれたそうだ。明治のころまでは標高ざっと500メートルほどのこの山に歩いてのぼっていた。大正末期にケーブルカーがつくられたそうだ。しかし、太平洋戦争で追い詰められた軍にレールを剥ぎ取られてしまった。伊勢神宮と陰陽の関係をなす、といわれてきた朝熊山の金剛證寺も一気にさびれた。いまでは有料道路ができているが、早春のこの時期、山上は麓の賑わいとうって変わって寒々しい。



朝熊山展望台には公共足湯場がつくられていて、足をお湯につけながらのんびり鳥羽の海を眺める仕掛けになっていた。しかし、この日は曇天のうえ、風も冷たかった。あたりに人気はなかった。

金剛證寺へ行く気もうせて、鳥羽側に下った。朝熊山に登ってはみたが片参り。



鳥羽展望台で太平洋を眺め、横山展望台から英虞湾を見下ろしたが、曇った日の海は陰鬱だった。国道260号を通って、紀伊長島で国道42号に入った。

尾鷲市にたどり着き、漁港の波うちぎわに建つ釣り客相手の民宿に泊まった。きのうの津波警報で避難したのかと聞くと、建物の3階にあがっていただけだと、のんびりした返事が返ってきた。

2010.3.29)

                        
  




3 権兵衛が種まきゃ…

宿のカーテンを開けると、尾鷲漁港の船だまりが、狭い道路の直ぐ向こうにあった。波静か。湾のかなたの山すそが霧をまとっていた。おお、ついに熊野の入り口までたどりついたか、と感激の朝であった。明け方春雨でも降ったのだろうか。道路だけでなく、風景全体にしっとり濡れた感じがあった。



   霞の衣すそはぬれけり
 佐保姫の春立ちながら尿(しと)をして

『新撰犬菟玖波集』春の部に収められている山崎宗鑑の俳諧の連歌を思い出してしまった。ちょっと、お品がわるいか。では、

  佐保姫のお入りとみへてむらさきの霞の幕をはるの山々

という邊越方人の狂歌などいかがかな。

空気中に浮遊する微小な水滴が視程をはばむ気象現象を、三十一文字の世界では、春に霞、秋に霧とよびならわしてきた。気象庁は視程を1キロ以下にさまたげる空気中に浮遊する微小な水滴を霧とよんでいる。視程が500メートル以下だと濃霧、1キロから10キロだと「もや」と名付けている。気象庁は霞については「定義なし。使わない」としている。あそこはサイエンスのお役所なのだ。

旅行者としてはその程度の水滴の浮遊であれ、ここが熊野であれば、いちおう感激せずばなるまい。じつは、似たようなものなら東京のアパートの窓からも見えるのであるが。



民宿の朝飯には朝作った味噌汁と、昨日の晩飯に出た豚汁の残りがアルミの大なべに入っていた。両方食ったが、あまりうまくはなかった。

外に出ると空気になんとなく湿り気を感じた。潮風のせいか? 尾鷲の沖合には暖かい黒潮が流れている。紀伊山地が北西からの風をさえぎる。したがって温暖で湿潤な気候になる、と学校で習った記憶がある。私がそのことを習ったころには、まだ鹿児島県屋久島に気象庁が測候所を作っていなかったので、尾鷲とその背後の大台ケ原山系が日本第一の多雨地帯だと教えていた。年間降水量4000ミリ。

これから熊野古道伊勢路で最高に美しいとガイドブックに書いてある石畳の道を見に行く。昨日来た国道42号を紀伊長島方向にほんの4キロほど逆戻りし、紀北町海山区にある道の駅・海山の駐車場に車を置いて、馬越峠入口まで歩いた。

早春の熊野を歩くのはきつい。

多雨地帯のこのあたりは植林が盛んだ。山はあらかたスギやヒノキを植えた人工林だ。熊野古道はそうした人工林の中を通っている。ヒノキやスギに囲まれた美しい石畳の道、というのが売りだが、そのような道を早春に歩くのは花粉症をかかえる者にとってはきつい。

国道42号から馬越峠へ登る山道は、最初のうちはコンクリートで石を固めた石畳だが、しばらくすると歴史を感じさせる石畳の山道になる。山道はうねうねとヒノキの林の中を上ってゆく。



10分ほど歩いたところで、まあ、こんなもんかな、と登るのをやめた。山道は標高400メートル弱の馬越峠まであと40分ほどの登り。そこから左に折れて天狗倉山の500メートル強の頂にでれば尾鷲の町や熊野灘が眺望できるとガイドブックにはある。さらに、尾鷲の町に向かって山道を下ってゆくと、尾鷲市街地にある尾鷲神社のそばに出る。

馬越峠を中心にした登り降りの山道が美しい石畳なのだが、石畳はすでにここで見た。これ以上見る必要もなかろうと、駐車場に引き返した。

駐車場へ帰る途中で「種まき権兵衛の里」という看板を見た。そうか、「ゴンベエが種まきゃカラスがほじくる。三度に一度はおわねばなるまい」という、あの権兵衛の歌と民話はここらあたりのお話であったのか。



それにしても、なぜ、権兵衛がカラスを追い払うのは3度に1度で、毎度ではないのか?

前回ちょっとふれた伊勢神宮の神官、荒木田守武の『守武千句』第一巻の発句、脇、第三、

 飛梅やかるがるしくも神の春
  われもわれものからすうぐひす
 のどかなる風ふくろうに山みえて

にも、カラスが出てくる。「めじろうぐいす」ならわかるが、なぜ「からすうぐいす」という奇妙な取り合わせなのであろうか?

タネをあかせば、熊野はカラスの国である。いよいよ熊野が始まるのだ。

2010.4.3





4 花のいはやのこれ白木綿

尾鷲・熊野は熊野灘に面した海の町だ。半面、海岸線のすぐうしろには紀伊山地が迫っていて、尾鷲から熊野に抜ける国道42号を走っていると、山国にやってきたような印象がつよい。

熊野市に向かう国道42号は尾鷲市を出るとまもなく全長2キロほどの矢ノ川トンネルを抜けることになる。このトンネルは1967年に開通した。それまでは国道42号は海抜800メートルの矢ノ川峠を超えるルートだった。断崖絶壁の悪路だったそうだ。1936年から太平洋戦争をはさんで1959年まで国鉄が路線バスを走らせていた。尾鷲―熊野間のレール敷設工事が終わり、紀勢線が全線開通した1959715日の前日まで、矢ノ川峠越えの国鉄バスは走っていた。運んだ乗客累計1000万人、一度も事故を起こしたことがなかったそうだ。

矢ノ川峠越えは近代の道で、熊野古道は矢ノ川峠越えルートよりももっと海岸寄りの道だったといわれる。現在の国道311号やJR紀勢線と交差しながら行く曲がりくねった山道だったらしい。

矢ノ川トンネルを抜けた国道42号は木本で国道311号と合流する。そのあと鬼ケ城のトンネルを抜けたとたん、一気に視野が広がる。海が開ける。七里御浜だ。熊野が海の国であることを実感させる風景だ。新宮までの海岸線20キロほどがゆるやかに湾曲する浜辺になっている。志摩から尾鷲までの複雑に入り組んだリアス式海岸と違って開放感に満ち溢れている。



ここから新宮市まで国道42号と紀勢線が並行して走っている。熊野古道もほぼこの海岸線のルートをたどっていたらしい。 間もなく右手に岩の塊が見えてきた。



花の窟神社だ。神社には社殿がなく、高さ50メートルほどの岩がご神体なのだそうだ。イザナミが火の神を産んだときのやけどがもとで死んだとき遺体をここに葬ったというめっぽうあてにならない話が伝えられている。神社によると、西行も本居宣長もここにやってきて歌を詠んだありがたい岩である。



  三熊野の御浜によする夕浪は花のいはやのこれ白綿木(しらゆう)       西行

  紀の国や花の窟にひく縄のながき世たえぬ里の神わざ           本居宣長

民俗学や熊野研究の専門家のなかには、花の窟の壁面にいくつものくぼみがあることから、



この岩窟がそのむかし風葬に使われたのでないかという説をとなえる人もいる。それぞれの文化や慣習によっておとむらいのやり方はさまざまだ。イスラムは土葬で火葬を拒否する。日本のイスラム組織は土葬のできる霊園を確保しているそうだ。神道も本来土葬がしきたりだ。皇室も死んだ人の選択で土葬にしたり火葬にしたりしている。戦闘中の海軍は水葬。チベットでは鳥葬がおこなわれている。かつて地理学専攻の大学院生にチベットの鳥葬の学術用現場写真を見せてもらったことがある。横たわる遺体の前で、男たちが大きな石をふりかざしていた。遺体を砕いて鳥が食べやすくするためだ。正式には刃物で刻んで鳥が食べやすくする。日本には死体を隠す目的で刃物で刻んで箱に入れて山林に捨てるやからがいる。

チベットの鳥葬は一時期、物好き観光旅行の目玉になっていたが、2006年に中国チベット自治区政府が鳥葬の現場での撮影を禁止し、さらに鳥葬の報道も禁止する措置をとった(2006110日、新華社)。その記事に「チベット族が死亡した場合、8割程度が鳥葬によって遺体が処理されているとみられている」とあった。

風葬は空気にさらして腐敗させる遺体処理法である。風葬は沖縄や奄美大島だけでなく、縄文・弥生・古墳時代には日本各地で行われていたといわれる。そうした古い時代の埋葬場所が聖地になるケースは多いのだそうだ。墓にまつる死霊が浄化されて寺にまつる祖霊になり、祖霊が昇華して神霊となって神社にまつられる。これを霊魂昇華説というのだそうだ。

インドネシア・スラウェシのトラジャの村には岩窟墓と風葬の慣習が残っている。ヨーロッパや南米のカトリックの教会の地下にはカタコンベがあって、白骨が陳列されている。プノンペン郊外の



チュンエクにはポルポト派によって殺害されて埋められた人々の骨を掘り起こして、しゃれこうべを並べた慰霊塔ができている。レーニンやホー・チ・ミン、毛沢東や金日成のミイラも霊廟に恭しく安置され、聖域になっている。

これらは今では聖地であり観光地である。

五来重『熊野詣 三山信仰と文化』(講談社学術文庫、2004年)によると、イザナギが黄泉の国でみたイザナミの「脹満太高、膿沸虫流」(はれただれ、うみわきうじたかりき)という記述は風葬の描写であるという。日本の古代葬法である風葬はある意味で死体にむらがるカラスによる鳥葬でもあった、と同書はいう。

まがまがしい場所であったところが、その場所をめぐる人間の妄想によって時がたてばやがて聖域になってゆく。不吉なカラスが聖域のシンボルになるのも考え方一つにかかっている。『マクベス』の冒頭で魔女が言う。「きれいはきたない。きたないはきれい」

花の窟神社はそうした異界としての熊野の始まりの場所なのである。

だが、神社の境内を出て、国道42号を横断して海岸に出ると、何の変哲もない岩山にしか見えない。七里御浜の海岸線は開放的でおどろおどろしい記憶につながるようなものはどこにもない。

それではこれから新宮に出て、熊野速玉神社へ最初のカラスのお札「牛王宝印」をもらいにいくことにしよう。

2010.4.10





5 三千世界の鴉を殺し

熊野速玉大社にやってきた。



熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社をあわせて熊野大社という。熊野参詣はまず本宮へ行く。本宮から熊野川を舟で下って速玉大社へ参る。ついで那智大社に参拝。那智大社から大雲取越・小雲取越という山越えの難路を経て、再び本宮へもどる。この参詣順序がならいだとされてきた。だが、このさい順不同で行こう。

「熊野権現」といわれるように、熊野神社には本地垂迹説の痕跡があらわである。神道は本来イスラムと同じように偶像崇拝の習慣はなかったそうだが、仏教の影響を受けて神像がつくられるようになった。仏教の場合も、ブッダ像は何世紀もの間つくられることがなかったそうだ。ブッダの死後数百年たった紀元100ごろ、ガンダーラで最初のブッダ像が制作された。ガンダーラはヘレニズム文化やペルシャの文化の影響下にあった。

     

何もない空間を拝むのはむなしい。たしかな物体を拝めば充実感がある。速玉神社には神像が残されていて国宝の指定を受けている。観光案内所に国宝の神像3体のポスターがはってあったので、複写で紹介しよう。さらに社殿には曼荼羅のようなものがかけてあった。にぎやかなことである。



朱塗りの社殿もあざやかである。社殿前では観光バスのガイド研修生を相手に、神職が神社についてあれこれレクチャーしてしていた。



速玉神社で最も印象深かったのは境内の神木・ナギ(椰)の大樹だ。ナギは日本では三重県南部を自生の北限とする常緑針葉樹である。葉っぱは針葉樹とは思えないほど広くふくよかでなんともあいらしい。

  

熊野速玉神社でありがたいお札をもらった。デザイン化した烏を組み合わせて文字化している。面白いけれども同時にどこか恐怖感も感じさせるカラス文字のお札だ。



これを牛王宝印という。「牛玉宝印」とも書く。将棋の王将と玉将ほどの違いもない。同じものだ。熊野神社だけでなく京都八坂神社や高野山や東大寺などの社寺が発行する護符である。古くは玄関に張ったり、病人の枕元に置いたりした。鎌倉時代後期から起請文の料紙に使われるようになった。戦国時代には武将たちが起請文を書き散らし、下克上の時代、さかんに裏切りあい、だましあった。

牛王宝印は熊野三山のカラス文字のものが広く流通した。デザインに面白さがあったうえ、熊野比丘尼とよばれる人たちが全国をまわって六道図や熊野曼荼羅などを絵解きし、熊野の神さまのありがたさを説いて牛王宝印を売った。熊野比丘尼は最初のころは一見して女性宗教家らしい衣装だったが、やがて江戸時代になると、服装が宗教的な聖よりも女の性を強調するものになり、宴席にはべって踊る比丘尼や、牛王宝印だけでなく体も売る比丘尼さえ出現した。

江戸時代の遊女が客をつなぎとめる手管として、「年季があけたら夫婦になろうね」という起請文をこの牛王宝印を使って乱発した。起請を裏切ると熊野でカラスが3羽(1羽説もある)死に、書いた本人は血を吐いて死ぬことになっていが、商売となればそんなことにかまっていられなかった。どれほどのカラスが死んだことか。

「三千世界の鴉を殺しぬしと朝寝がしてみたい」。この都々逸は高杉晋作の作という説があるが、起請文の乱発を客にとがめられた遊女が「三千世界の鴉を殺しぬしと朝寝がしてみたい」と、頓知で逆に客を丸め込んだという説もすてきれない。現代では熊野三山のどこかの神社で神前結婚式をすると、結婚の誓いを書き、その裏に牛王宝印をはりつけてくれるサービスがあるそうだ。なんとも恐ろしいことである。

熊野神社とカラスの関係は、神話の神武天皇と八咫烏の関係を引き継いでいると説明されている。だが、そのヤタガラスに足が3本あったのかどうかについてはさだかでない。 中国の神話では、カラスは太陽の火の精をあらわし、3本足であったといわれてきた。高句麗の古墳の壁画に3本足のカラスが描かれていた。奈良県のキトラ古墳でも天文図の太陽の中に3本足カラスと思われるような絵の跡が見つかっている。

カラスは不気味な鳥である。その不気味さがカラスが神の意思を伝える使いであることからくるのだという理解につながり、カラスを嫌いつつ、一方でカラスをなだめて浄化させ聖なるもののシンボルにした。このあたりの屈折した人間の思考法を解き明かすには、それなりの頭の準備運動が必要になろう。

この3本足のカラスはまた日本サッカー協会のシンボルマークでもある。その由来については那智勝浦町のサイトに説明がある。日本のサッカーは明治時代に東京高等師範学校で始まった。 1931年になって日本サッカー協会が三足のカラスをシンボルマークに決めて図案化した。そのとき、日本サッカーの草分けであった明治時代の東京高等師範学校のサッカー選手・中村覚之助が那智勝浦町出身だったことから、三本足のカラスがシンボルマークになった、と那智勝浦町のサイトは言っている。



牛王宝印を使った起請文の書きすぎと違約の続出のためか、今の熊野にはカラスが少なくなった、と識者は言う。「ちかごろは熊野をあるいてみても、さっぱり烏をみなくなったのはさびしい」(五来重『熊野詣」講談社学術文庫、2004年)。熊野在住の作家宇江敏勝も『熊野草子』(草思社、1990年)にカラスが減ったと書いている。その本によると、熊野では農作物を荒らすカラスを殺すときには、「48羽の外」と唱えたそうだ。48は速玉大社の牛王宝印で使われるデザイン化したカラスの数である。

「殺すにしても、神をはばかったのだ。また古老たちは“権現ガラス”とも言うが、そこにも熊野権現の使いという意味がこめられている。権現ガラスも近ごろ少のうなったわ、などと聞かされる」。宇江はそうも書いている。

2020.4.15




6 浦わの波に身を沈めける

以前、某大学で東南アジア政治の講義をしたことがあった。話がベトナム戦争におよび、学生たちに、フエのティエンムー寺の仏教僧侶ティック・クアン・ドックがサイゴンの路上でガソリンをかぶって焼身自殺をする映像を見せた。驚いた学生の一人が、本当にあったことだったのですねと言った。音楽CDのジャケットで見たことがあったが、その学生はモンタージュだとばかり思っていたそうである。

ベトナム統一のあとしばらくたってからフエのティエンムー寺へ行った。ティック・クアン・ドックをフエからサイゴンまで乗せた乗用車が展示されていた。ティック・クアン・ドックはあのとき僧侶たちによって恭しく、静々と、サイゴンに運ばれていたのだ。カトリックのゴ・ジン・ジェム大統領の仏教弾圧に対する仏教徒側からの抗議の焼身自殺だが、それはまた、仏教が教えてきた自己犠牲によって他を救う捨身行で、仏に対する最高の布施だった。また、火定・水定・土定という入定のしかたの1つである火定でもあった。

火定の例は日本にもあった。武田家滅亡のあと織田の軍勢によって山梨県塩山の恵林寺が焼き討ちされた。そのとき
快川和尚や僧侶ら百人ほどが焼き殺された。言い伝えによると、快川和尚は炎のなかで禅定に入り、「心頭滅却すれば火もまた(自ずから)涼し」と唱えて火定した。



さて、水死の手法で入定するのを水定という。那智勝浦町の天台宗の補陀洛山寺は補陀洛渡海という名の水定で有名なお寺である。行ってみると、補陀洛山寺と浜の宮王子跡に建てられた熊野三所大神社が同じ敷地に隣接して同居していた。典型的な神仏習合の構図である。補陀洛山寺は天台宗の青岸渡寺の出先のような寺で、住職は青岸渡寺の住職が兼任している。その青岸渡寺も熊野那智神社と境内を共有している。



補陀洛山寺も花の窟神社と同じように死のにおいがただよう。平維盛の供養塔が補陀洛山寺にある。「平氏の光源氏」といわれたどこか頼りなげな優男平維盛は、浜の宮神社前の海岸から那智勝浦の海に舟を漕ぎ出し入水自殺している。12世紀のことだ。維盛の入水を聞いた建礼門院右京大夫は、

 悲しくもかゝるうきめをみ熊野の浦わの波に身を沈めける

と詠んで哀れがった。気分は沈痛なのだろうが言葉は軽い。それにしても平家物語を読んでもなぜ維盛が入水しなければならなかったかがよくわからない。平家物語は語り部による時代小説のはしりのようなものだから仕方がないのだろう。物語を美辞麗句で飾りたてつるりと流暢ではあるが、その歴史認識の態度や歴史上の人物評価については聞くべきところがない。

補陀洛山寺には船小屋があって、復元された補陀洛渡海の舟が展示してあった。お堂には千手観音がある。この仏像は年に一度のご開帳のときしか見ることはできないのだが、たまたま那智勝浦町の観光キャンペーンに協力中なのでお見せできますと、補陀洛山寺の管理人で語り部の瀬川伸一郎さんが観音像を納めた大きなキャビネットの扉を開けてくれた。写真撮影は禁止なので那智勝浦町観光産業課のサイトから広報用資料写真を借用する。



瀬川さんは補陀洛渡海の研究家でもあって、全国の補陀洛渡海の出発地をまわって現地調査を進めているそうだ。補陀洛渡海は、南方海上の観音浄土・補陀落世界へ出かけて往生しようとする信仰である。熊野のほか四国の足摺岬、室戸岬などからも出発している。1ヵ月分の食料を小舟に積んで、船室を外部から釘で密閉。別の船で沖まで曳航したうえで引き綱をとき、海原に放った。

屋形船に帆をかけて船出する渡海の図が熊野那智参詣曼荼羅に描かれている。下図は国学院大学のデジタル・アーカイブにある絵の一部である。



補陀洛渡海の記録は日本全国で今のところ56の例が記録されている。そのうちの半数近くの26例が熊野那智からの出発である。

瀬川さんによると、補陀洛は遠い南洋のどこか、あるいは中国沿岸にあると考えられていたが、小船が熊野灘に出れば、波にうたれて海底の藻屑となるのは時間の問題であることぐらい誰でも知っていた。

中世のころまでは、宗教的情熱から渡海希望者が補陀落山寺の住職となって水定した。補陀洛渡海の最盛期は16世紀で、全国で26例が記録に残っている。当時日本に来ていたフロイスらキリスト教宣教師たちもこの日本の珍しい航海について本国に報告している。それがやがて、臨終を迎えた住職や死んでしまった住職のなきがらを船に積んで沖に流す水定の形をとった水葬に変わったらしい。

生々しい話も残っている。井上靖が小説『補陀洛渡海記』の材料にした金光坊の話は『熊野巡覧記』で伝えられているエピソードだ。16世紀後半、金光坊という僧が渡海に出たものの死ぬのが嫌になって、封印された屋形を破って近くの島に上陸した。関係者はこれに怒って金光坊を捕まえて無理やり水死させたと伝えられている。

  

信仰が人間の精神を蝕んだ恐ろしい話である。

山形県の湯殿山の即身仏ミイラは入定のうちどちらかといえば土定に近い方法だ。ミイラ志願者は米・麦・栗・黍・大豆の五穀をたち、蕎麦・稗・木の実・野菜などで生き延び、さらにはそれらも断って体の脂肪をそぎ落とし、最後は水だけを飲んで腸内を清掃する。生きながらミイラ状態になるわけだ。ミイラ製造者たちは志願者の死後、その身体を整え、棺にいれて土中に3年間埋めておく。それを掘り出し丁寧に乾燥させると立派なミイラが出来上がるのだそうだ。

湯殿山のミイラは僧侶の衣裳を着せて湯殿山周辺や酒田市内のお寺に安置してある。定期的に衣替えをし、そのさい古くなった衣裳を細切れにしてありがたいお守りとして信者にお布施と引き換えに配る。気持悪がることもないだろう。昔は木乃伊自体が薬だとされていた。

この湯殿山の僧侶の即身仏は、江戸時代はなかなかの評判で、お寺にとってはよい宣伝材料になった。江戸時代初期、湯殿山の注連寺・大日坊など真言宗の4つの寺が、羽黒山の修験道一派に吸収されそうになった。羽黒山の修験道は熊野や大峰の修験道におされて勢力が後退していた。羽黒山はもともと真言宗だったが、天台宗に改宗して上野寛永寺の末寺になり、ついでに湯殿山の真言宗4寺も天台に改宗させて吸収合併し、スケール・メリットによる勢力挽回を画策した。

湯殿山系のお寺はなんとか改宗と吸収を逃れ、独自に繁栄するための方便として即身仏による話題づくりに専念した。志願者を集めて仏にした。しかし、いったんはミイラ志願をしたものの怖くなって逃げ出そうとする者もいた。だが、逃げ出されては、即身仏をたねにした寺の繁栄の目論見がはずれる。そこで、いやがる志願者を無理やり入定させることもあった。日本ミイラ研究グループ『日本ミイラの研究』(平凡社、1969年)にはそんな話が書かれている。湯殿山系のミイラになった人たちは下級武士や、人をあやめた犯罪者で、それぞれ死にたくなるような暗い影を背負った人たちだった。なによりも、湯殿山の地元のお寺の関係者や修験者のなかから即身仏ミイラになろうと志願した人はいなかったそうである。いまでいうアウトソーシング。どこか不気味な話である。

千手観音の前で瀬川さんとこんなことを語り合っているうちに、ふと観音像のわき腹の部分に深い亀裂が入っているのに気がついた。瀬川さんによると、海辺の寺なので、湿気でいたみやすいとの事だった。

さて、ベトナムの火定だが、ティック・クアン・ドックに続いて数人の僧侶がその身を燃やした。信仰とは恐ろしいものである。

2010.4.24





7 歩けば見える大門坂

熊野那智神社、青岸渡寺、それに飛瀧神社へは、今では自動車道路ができていて、それが事実上の表参道。多くの人が観光バスや自家用車、タクシーで坂道を一気に登ってゆく。昔の那智参拝者は石畳の参詣道を登っていった。この坂道、大門坂とよばれている。



3月はじめ、参詣道を歩いて登る人は少なかった。熊野めぐりを看板にやって来たからには、やはり歩かねばなるまい。大門坂駐車場に車をとめた。駐車場に無料の杖がおいてあった。



自動車道路脇の歩道を山に向かって歩き始めると、右手の民家の脇には木の股が立てかけてあった。通行人に見せる目的でおいてあるのだから、それなりの意図があるのだろう。仏教、イスラム教、キリスト教といった宗教は性については厳格だが、そうでない宗教もある。ヒンドゥーのシバ神の象徴は男根である。熊野三社はこのあたりどうなのだろうか。やがて、大門坂という標識がたっているのが見えた。



その標識のところで、左手の坂道に入った。道路わきのささやかな流れを利用した実験中の発電機が置いてあった。そこから少し登ってゆくと鳥居と朱塗りの橋があった。ここからが参道・大門坂が正式に始まる。



左手に大阪屋という名の旅館跡があり、南方熊楠が3年ほど滞在した、と看板に書かれていた。珍しい粘菌でも探していたのだろうか。このあたりは権現様と熊楠様のテリトリーなのだ。



そこをすぎると道の両側に杉の大木が2本たっていた。夫婦杉と看板が出ている。よくあるヤツだ。夫婦松、夫婦星、夫婦塚、夫婦茶碗、夫婦別れ……二つ並ぶと何でも夫婦にしたがる文化なのだ。それにしてもいろんなものが見えて、にぎやかな坂道だ。

このあたりから参道の石畳が本格的になってくる。ガイドブックによると、熊野古道のなかで最も美しい石畳だそうだ。手入れが行き届いている。

だんだん歩いて登るのが嫌になってきたが、がまんして進むと、多富気(たふけ)王子跡の石碑がたっていた。大阪から熊野三社への参詣道に沿って建てられていた「九十九王子」とよばれた多くの王子社の最後の社跡だ。



昔の熊野詣は京都から淀川を下って大阪に上陸、紀伊路をたどって、田辺から中辺路に入り、熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社とめぐり、那智から大雲取越の山中を抜けて熊野本宮大社に戻ったから、ここが後の王子社になったのだろう。

王子は神さまが子どもの姿であらわれるという信仰に基づいてつくられた、いわば大社の出先神社のようなものだ。王子がつく地名は日本全国にあり、その多くが熊野権現とかかわりがある。東京の王子や八王子も熊野権現の出先があったことによる地名だ。



大門坂は約600メートルののぼりで、誰が勘定したのか知らないが、ガイドブックには267の石段があり、坂道の両側の杉の木は数えて132本になるそうだ。さて、この木もその勘定のうちだったのだろうか。



2010.5.3





8 いわばしる滝にまがひて

那智で一番の“みもの”は滝である。那智の滝は飛瀧神社のご神体である。ご神体は普通本殿に収まっているが、さすがに那智の滝を納める社殿となると建てるには巨大すぎるので、飛瀧神社には本殿がない。花の窟神社の場合と同じである。

あえぎながら大門坂を登りきった。だが、大門坂の終点から熊野那智大社、青岸渡寺までなお急な石段が続いていた。これにはがっくりきた。とにかくその石段を登ってまず青岸渡寺に行くと、境内に売店があった。おばさんが「那智の滝の一番の撮影ポイントはあっちです。写真をとったらここにもどって買い物をしてください」と観光客に声をかけていた。



お薦めの撮影ポイントからとった写真がこれなのだが、どうも観光宣伝ポスターに使われている構図で面白くない。左に三重塔があって、真ん中に那智の滝。しかし、こうしてみると日本の風景は小さいなあ、という感慨がある。外国の有名な某滝はこうだ。巨大ダムの堤防が全面決壊したような大量の水が落ちてゆく。これに比べると那智の滝の水量は水道の蛇口をかるくあけた程度でしかない。



那智の滝は実物を見るよりも、根津美術館の「国宝 那智瀧図」で見たほうがはるかに感銘深い。われわれは那智の滝の実物を見るまえにすでにこの有名な絵を見ており、この絵を確認するために実物の滝を見ているようなところがある。



 いはばしる滝にまがひて那智の山高嶺を見れば花のしら雲  花山院

この歌を詠んだ花山院は熊野とゆかりの深い人で、那智の山中に一千日こもって修行をしたと言い伝えられている。その修行おかげで、花山院の法力――いったいどんなものか定かではないが――は、並の修験者のそれをはるかに上回っていたとも伝えられてきた。

花山院は天皇のとしての在位はわずか十代の青年期の2年(984-986年)。早期退位のうらには伏魔殿・宮中の陰謀が絡んでいた。退位後はエキセントリックな風流人として和歌や絵画、それに女づきあいで遊び暮らした。

当時の有名陰陽師・安倍晴明も花山院といっしょに熊野にやってきた。花山院の修行にもつきあったそうだ。花山院は大変な頭痛持ちで、安倍晴明のみたてでは、花山院の前世のの髑髏が岩の間にはさまれていて、雨がふるたびに岩賀ふくらみ、髑髏を圧迫するためだ、ということだった。安倍晴明がその花山院の前世の髑髏をさがしだして救出したところ、花山院の頭痛は収まったという話が古書にあるそうだ。落語の「野晒」と同じしゃれこうべ供養の物語だ。



また、安倍晴明は花山院の突然の退位を天体占いで予告したと『大鏡』はいう。「みかどおりさせ給ふとみゆる天変ありつるが、すでになりにけりとみゆるかな」。この手の予言は、現代ではマスメディアが得意としており、「鳩山総理5月末命運つくとみゆ」などとやっている。あたることもあれば、はずれることもあるのは安倍晴明のころに同じ。

藤原定家も後鳥羽上皇の熊野詣につきあって熊野古道を歩いている。定家はそのときの経験を『国宝 熊野御幸記』に書き残した。定家は上皇の先遣隊メンバーとして旧暦1019日、新宮から熊野那智大社まで歩いている。正確にいうと定家は輿に乗り、歩いたのは定家の輿を担いだ人たちだったのだが。

定家は早朝に新宮をたち、昼下がりになって那智の滝に着いた。強行軍で朝から何一つ食物を口に入れていなかった。空腹による脱力感で「険阻の遠路、暁より食さず、無力極めて術無し」と定家は書き記している。

那智到着のあと、後鳥羽院の到着をまって参拝儀式あれこれにお供し、夜は夜で院の歌会に出席を求められた。定家はへとへとだったらしい。このとき定家40歳。定家より18歳若い後鳥羽院は血気盛んな22歳。名にしおう大歌人定家も、宮仕えの身のきびしさをたっぷり味わったことだろう。「窮屈病気の間、毎事夢のごとし」と、体調すぐれず夢遊病者のような感じだったと19日の記述の最後に書き残している。

新古今集に収録されている定家の和歌

 駒とめて袖打ちはらふかげもなしさののわたりの雪の夕暮

は万葉集の「苦しくも降り来る雨か三輪が崎佐野のわたりに家もあらなくに」の本歌取りで、定家が詠みこんだ「さの」(佐野)は大和とも紀伊ともいわれている。もし紀伊であれば定家がふらふらになりながら輿に乗せられて新宮から那智まで行った日、熊野古道の佐野(現在の新宮市佐野町)を通っている。ただし、この定家の句は熊野行きの前の年に、後鳥羽上皇の歌会で作られ、これが縁で歌人として翌年の上皇の熊野御幸に同行を求められることになったといわれている。「駒とめて」の風雅はどこへやら、定家は大変な思いで佐野のわたりを通り過ぎたのだ。



熊野那智大社へ行った日、私はうっかりして、那智大社の「おカラスさん」こと牛王宝印をもらい忘れてしまった。別の日に再び熊野那智大社におカララスさんをもらいに行った。その日は霧が深く、滝は全く見えなかった。だが、神社は霧のおかげで風情があった。



2010.5.11





9 ここは串本むかいは大島

国道42号、JR紀勢本線は那智勝浦から田辺まで太平洋岸沿いを走っている。かつての熊野古道・大辺路はこれに併走するコースだ。古道としての大辺路は国道や鉄道線などの開発と長年の放置のため、他の熊野古道のように保存が行き届いていない。

熊野古道にそってつくられた九十九王子に数えられる王子跡は大辺路沿いには一つもない。大辺路を歩いて旅行した昔の記録は多少残っているが、その他の歴史資料もまた少ない。

昔の熊野詣はまず熊野本宮神社に行き、そこから舟で熊野川を下り新宮に出て熊野速玉大社に詣でる。新宮から陸路で那智勝浦の熊野那智大社に行く。那智大社から大雲取越えの山中を抜けて再び熊野本宮大社に出る。そののち帰途につくのがならいだった。

熊野古道・紀伊路をたどった者は田辺から中辺路経由で熊野本宮大社に向かった。伊勢路を来た者には花の窟あたりから熊野本宮大社に抜ける路があった。大峯奥駈路、小辺路はそれぞれ吉野、高野から紀伊山中を突っ切って熊野本宮大社へ向かっている。

そういうことから、大辺路は能率的な熊野参詣道としては利用度が高くなかったと思われる。太平洋沿いで風光明媚だから、参詣と観光をかねた道として高等遊民が旅を楽しんだ道だったのであろう。

この大辺路を那智勝浦から白浜まで車で走った。雨の日だった。太地のクジラの博物館あたりも人気がなく閑散としていた。イルカ漁を隠し撮りしてアメリカのアカデミー賞をもらったドキュメンタリー映画『ザ・コーヴ』や、町民の毛髪中の高いメチル水銀濃度で有名な町だ。国立水俣病総合研究センターの5月9日の発表では、太地の町民の毛髪中のメチル水銀平均値は全国平均の4倍も高かった。WHOが神経症状が出る可能性があるとする50ppmを上回る町民が43人いた。鯨類をよく食べるほど濃度が高い傾向がある。そういう内容の新聞報道があった。



雨が降っていた。串本で橋杭岩を見た。ここもまた雨のため人は閑散。潮岬の観光タワーに行ったが、人気がなくタワーも閉まっていて上の展望台に登ることができなかった。

くしもと大橋をわたって大島に行った。串本節では「ここは串本むかいは大島 仲を取りもつ巡航船」とか「ここは串本むかいは大島 橋を架けましょ舟橋を」とか歌っていたが、本物の大きな鉄の橋がかけられていた。



橋を渡って 樫野崎へ行くとトルコ軍艦・エルトゥルル号の遭難碑があった。1890年に親善使節として訪日したエルトゥルル号が、トルコ帰国の船旅にでたのち台風に巻き込まれて大島沖で座礁して沈没、乗組員の9割にあたる600人弱が死亡・行方不明になった。



大島の住民らが救助と介抱に努めた。すでに1世紀も前の話だが、日本・トルコの友好関係となるといつもこの話が持ち出される。日韓、日中の間の出来事はこれよりもっと最近のことである。こっちの方は、忘れないでおこうという努力と忘れて欲しいという願望がいり乱れてなやましい。

白浜の三段壁を見ようと車をとめたら、そこはおみやげ屋の駐車場で、車のキーを預かるという。それで、近くに無料駐車場があるそうだから教えてくれないかと頼むと、ある場所は知っているが教えるつもりはない、教えるとこっちの商売あがったり、という風な憎々しいことを言った。観光の町・白浜は町の経済振興のために観光客を呼び寄せる努力の一環として税金を投入して無料駐車場を用意する。観光がおとす金がたよりの観光関連事業者は収入増のために無料駐車場のありかを教えるのを嫌がって町の施策の足をひっぱる。「双方の欲望をともに満足させる最善の方法について述べよ」。井戸端会議のテーマになりそうだ。



そういうわけで三段壁を見ようという気が失せた。かわりに橋杭岩のミニチュア版を見て、宿で湯につかり晩飯に名物クエ鍋のエコノミー・クラスを食った。白浜にある近畿大学水産研究所が手がけた養殖クエということだった。たしかに魚の味はした。



2010.5.19





10 たきがはのひゞきはいそぐたびのいほを

熊野古道のあちこちで藤原定家の名前が出てくる。道の駅「奥熊野古道ほんぐう」には施設内のいっかくに藤原定家コーナーが設けられ、定家の『熊野御幸記』に関連する資料が展示されていた。

藤原定家は1201年の後鳥羽上皇の4回目の熊野詣につきあっている。上皇が道中ひんぱんに開いた歌会の講師役と上皇一行の先陣をつとめるのが定家の役目だった。

藤原定家といえば技巧を凝らした抽象度の高い短歌を得意とした職業歌人だ。同時に、有名な日記『明月記』を書き残したダイアリスト=日記作者でもある。『明月記』といえば即ひきあいにだされるのが「世上乱逆追討耳ニ満ツト雖モ之ヲ注セズ。紅旗征戎吾ガ事二非ズ」である。つまりまつりごともいくさも、オレの知ったことかというわけ。定家19歳のみぎりの短歌、ではなくて啖呵である。

のちに『定家明月記私抄』を書くことになった堀田善衛は、定家のこの啖呵を胸の張り裂ける思いで読んだ。そのころ堀田善衛の世代は太平洋戦争でいつ召集されるかもしれない身であった。

と、まあ、カッコいい『明月記』作者の藤原定家だったが、後鳥羽上皇の熊野詣のお供をしたときは40がらみ。実生活では遅い昇進に不満をいだきながらも身を粉にして働いているグチっぽい中年官吏に過ぎなかった。定家は12018月に上皇の供をするようにといいつかったとき、道中で上皇や高位の貴族と近づきになれることを期待して喜んだ。

後鳥羽上皇の一行は旧暦の105日出発、紀伊路をたどって1週間後の12日、田辺に到着している。途中やたらと「みそぎ」だの「潮ごり」だのを繰りかえしたせいか、体力に自身のない定家は「寒風枕に吹き、咳病たちまち発り、心神はなはだ悩む。この宿舎またもって荒々。また塩(潮)垢離」とすでに悲鳴をあげている。定家の悪戦苦闘ぶりについて、詳しくは三井記念美術館『国宝 熊野御幸記』(八木書店、2009年)をご覧あれ。



先遣隊の定家は13日から中辺路に入った。岩田川を徒歩で渡った。すでに紅葉が川面の波に照り映えるころで、景色は美しかったが、流れは冷たかった。岩田川の深いところは股までたっするふかさだった。ほとんど水ごりである。

滝尻の宿舎にたどり着いた夜、上皇から歌会の呼び出しがあった。定家は、

 「河辺落葉」
 そめし秋をくれぬとたれかいはた河まだなみこゆる山姫のそで

 「旅宿冬月」
 たきがはのひゞきはいそぐたびのいほをしづかにすぐるふゆの月かげ

という、ちょっとぬるめの歌2つを急造し、上皇のもとへ行って歌会の講師をつとめた。

このあと定家は宿舎に帰って一眠りしたのち、まだ夜のうちに輿にのって滝尻の山道にとりついた。上皇の一行が翌日の昼食をとる山中に至り、そこの小屋で寝た。「寒嵐はなはだ堪え難し」という小屋だった。うき世はきびしい。宮仕え吾が事に非ず、とはいかなかったようだ。



今では、白浜温泉から滝尻まで車で30分もかからない。滝尻王子には建てなおされた小さな社殿がたっていた。そこから、定家ならびに後鳥羽上皇ご一行様が登った熊野古道中辺路の急坂を登ろうとしたが、前日の雨で濡れた地面が滑りやすい。ちょっとだけ行って、すぐ引き返した。



王子社の前に茶店があって、そのオヤジさんが「これから登るのか」と尋ねるので、「ちょっとだけ登ったが足元がわるいのですぐやめた」とこたえると、

  「あんたは偉い」

と褒めてくれた。なんでもこのあいだ、若い男性のグループがやってきて、坂道で足を滑らせて転倒、足の骨折で救急車をよぶ騒ぎになったそうだ。

「せっかく来たのだからと、欲をこいてはいけない」

とオヤジさんは教訓を垂れた。



それにしても、輿で担がれたとはいえ、定家は「寒いさむい」とこぼしつつも夜中に滝尻の坂道を登って行ったのだ。昔の人はたいしものだ。

ところで、後鳥羽上皇が滝尻の歌会で詠んだ歌が歌碑になって滝尻の山道のとっかかりにたっていた。

 たびやかたよものをちばをかきつめてあらしをいとふうづみびのもと

旧暦10月の初冬、紀伊山中に入れば、「さむい」というのも風雅のテーマなのだろう。



2010.5.28





11 高原に霧はれて

滝尻王子から熊野本宮大社までの熊野古道には18の王子跡が残っている。この間、距離にして約35キロ。2日がかりで踏破するハイキングコースとして人気がある。

筆者も神戸に住んでいた若いころは、日曜日になると裏の六甲山に登っていた。海抜800メートルほどの山だが、海抜0メートルに近いところから登り始めるので、なかなかきつい登山だった。最初のうちは律儀に登り下りしていたが、そのうち、バスでケーブルカーの駅に行き、そこからケーブルカーで登って、六甲山を歩いて下る「山くだり」の儀礼に堕した。

藤原定家が疲労にあえいだ滝尻王子を見た後、駐車場にとって返し、国道311号にもどった。国道をかつての中辺路町役場あたりで右折して、高原地区の集落へ向かう1.5車線の生活道路に入った。やがて生活道路が山中の道路になり、まもなく高原霧の里駐車場に出た。



滝尻―高原間の山中を抜ける熊野古道沿いには乳岩だの、不寝王子だの、経塚だのがあるが、もはやそれらを貪欲にこなす年齢ではない。

高原霧の里には駐車場から紀伊の山並みがきれいに見えた。早朝だとこの山並みに霧がかかって心地よい風景になるそうだが、もはやお昼近かった。



駐車場には休憩所があったが、無人だった。駐車場にもバイクが1台とめてあるだけだった。古道を歩いている古道歩きの人もいない。住んでいる人の姿も見かけない。あたりに人気けなし。静かなものである。



壁に昔の高原の里の写真が飾ってあった。静かな山村である。セピア色になったモノクロ写真が心をくすぐる。

近くに熊野高原神社があった。室町時代の様式をとどめる小さな神社だが、熊野古道九十九王子のうちには入っていない。



むかし大阪弁を使ってタレントをやり、そのあとアムネスティーなどNGO活動を手がけてきたイーデス・ハンソンが高原地区のどこかに住んでいる、と滝尻の茶店兼売店のオヤジさんが言っていた。隠棲――日本版の「森の生活」であろうか。といっても、まわりは植林の杉がほとんどなのではあるが……。



2010.6.7





12 血かつゆか

これから熊野古道・中辺路観光のシンボルの一つ、牛馬童子を見に行く。

高原霧の里から国道311号にもどる。国道を近露方向へしばらく走ると、トンネルを抜けたあたりに道の駅・熊野古道中辺路があった。最近では道の駅のなかにはスーパーマーケットを併設した地域のショッピングセンターのように大型化しているものもある。道の駅・熊野古道中辺路は駐車場と小さな売店とWCがあるだけの簡素なつくりだった。

滝尻王子の近くに熊野古道館という熊野古道案内所があって、そこで最寄の駐車場から最短の山道で牛馬童子にたどり着けるルートを聞いていた。この道の駅・熊野古道中辺路と、近露の駐車場からそれぞれ山道をたどる2つの方法があって、いずれも似たような歩行距離だということであった。

道の駅・熊野古道中辺路の駐車場に車を停めた。国道をはさんで駐車場の向かい側にある階段を登ると熊野古道中辺路とぶつかる。そこを右にどんどん進めばやがて牛馬童子にたどりつく。



後鳥羽上皇はこの道を29回もたどって熊野詣をした(後鳥羽上皇の熊野詣の回数については正確なところは不明なようで、平凡社大百科事典によると約30回、熊野速玉神社の歴代上皇らの参詣記録碑によると29回、観光ガイドブックなどは28回としているものもあるが、ここは中をとって29回としておこう)。院政時代の天皇は幼児のころに天皇になり、20歳そこそこで上皇になって自由気ままな政治生活と私生活を楽しんだ。熊野詣は上皇の気晴らし旅行だったようである。



平家一門が安徳天皇をつれて都落ちしたあと、後鳥羽天皇はわずか3歳そこらで後白河法皇によって天皇にされた。その後15年間天皇をつとめさせられ、18歳で上皇になった。堀田善衛『定家明月記私抄(全)』(新潮社、1993年)によると、後鳥羽院は競馬、相撲、蹴鞠、闘鶏、囲碁、双六、琵琶、琴などお手の物で、和歌についても「毎首不可思議。感涙禁ジ難キ者ナリ」と定家をうならせる上手だったそうである。

そのうえ、別邸や庭園を作らせる建築オーガナイザーであり、水練、武芸にたしなみ深く、自ら刀剣を製作・鑑定するほどの武芸者でもあった。堀田善衛は後鳥羽院に「大遊戯人間」というタイトルを献じている。堀田善衛によれば、後鳥羽院の大遊戯の果てが承久の乱である。

エネルギーにあふれる20代のころの後鳥羽院は水無瀬離宮を根城に、和歌や遊女あさりに日々をおくった。『定家明月記私抄』によれば、遊びが昂じて、「遊女列座シ、乱舞例の如シ」と定家が明月記に書く「陽剣」という怪しげな舞――陽剣は陽物、つまり男根で、陽剣と陰盾が相応じる性交舞踊――を取り巻きにやらせて面白がっていた、と堀田善衛は書いている。水無瀬離宮は日本のソドムでもあった。

後鳥羽院の熊野御幸に藤原定家が供をしたとき、まだ20代の後鳥羽院は、往路2週間のうち9回も歌会を開いている。

後鳥羽院の熊野詣は大遊戯人間の物見遊山だった。

さて、牛馬童子はガイドブックなどに花山上皇の物悲しい熊野詣の物語をモデルにしたものだと書かれている。花山院は10世紀の終わりごろ天皇だった人で、この人もまた、女性関係は奔放さで有名な人だった。後鳥羽院と同じように和歌、絵画、造園・建築や工芸などに才能を示した。一方で、比叡山や熊野訪れて修験道の修行を積んだとも言われている



花山院は情緒過多で政治的には脇のあまいところがあった人のようだ。自分の孫(のちの一条天皇)を天皇にすることで宮中での権力掌握を狙っていた藤原兼家(藤原道長の父親)一門は周到な花山天皇追い出し作戦の締めくくりとして、花山天皇に厭世観を吹き込んで出家・退位させた。花山天皇が愛してやまなかった女御・子が死んだことを利用して、藤原兼家が息子の道兼をつかって、「いっしょに出家しよう」と花山天皇を誘い、深夜に宮中からぬけでて、東山の花山寺に入った。道兼は花山天皇が剃髪したのを見届けて、お寺から退散、宮中クーデターを成就させた。詳しい話は『栄華物語』と『大鏡』の記述を比較検討した今井源衛『花山院の生涯』(桜楓社、1967年)に書かれている。

そういうわけで、悲劇のヒーローとして花山院は熊野に詣で、中辺路を歩いた。牛馬童子が残っているあたりに箸折峠と名付けられた場所がある。ここは中辺路を歩いた花山院がお昼を食べたところだとされている。うかつなことに箸を持ってくるのを忘れていたので、従者が茅を折って箸がわりに手渡した。茅の折れ目から赤い樹液がにじみ出ているのを見た花山院が「血かつゆか」とたずねた(観光ガイドブックは「血か露か」と表記しているが、樹液なら「汁」の字が妥当だろう)。そういうわけでここを「箸折峠」、下ったところにある集落を「近露」と、土地の人たちが呼ぶようになった、などとあてにならない話が流布している。




牛馬童子を見に行く山道の往復で一人のハイカーに会っただけだ。牛馬童子は50センチほどの小さな石像である。同時の右わき腹あたりに亀裂が走っていた。

2年ほど前、牛馬童子の頭部が切り取られる事件があった。観光協会の人などが総出であたりを捜索したが、牛馬童子の頭部は行方不明のままだ。やむなく牛馬童子の頭は、和歌山県立博物館にある牛馬童子のレプリカの型を利用して再生された。





13 いしぶみ削る

熊野古道・中辺路は山の中の道だが、とくに滝尻王子から近露王子までの間は人気がない。いまでは集落といえば高原地区だけになってしまった。あとは山の中の心細い小径である。

私の場合は熊野古道歩きではなく、熊野古道のぞきであるから、面倒で疲れる行程はできるだけ敬遠した。後鳥羽上皇の熊野詣のご一行にお供した藤原定家は1013日の夜になって、突然滝尻を出発して山道を登り始めた。先遣隊の定家は輿で担がれ山道にとりつき、途中、山中の小屋に一泊。「寒嵐はなはだ堪え難し」と浅い眠りのまま、夜明けとともに再び近露へ向けて出発。「滝尻から近露までは険しい上り下りの山道で、目はくらみ心ここにあらずという状態だった」と定家は『熊野御幸記』に書いている。

14日の午前中やっと滝尻に着いた定家が一息入れていると、午後になって後鳥羽上皇が到着。すぐさま歌会を開くので「峯月照月」「浜月似雪」の題で歌を用意してまいれとお触れが来た。定家は、

     峯月照月
 さしのぼるきみをちとせとみ山より松をぞ月のいろにいでける

     浜月似雪
 くもきゆるちさとのはまの月かげはそらにしられてふらぬしらゆき

2首を作って院のところへ出向いたが、すぐさま歌会という連絡は誤りで、院は食事中だった。定家の稼業は宮中御用の歌職人ではあるが、上記のような定家の歌は、新古今和歌集に収録された彼の絶唱とはいささか雰囲気が異なる。宮仕えのにおいがたちこめている。



さて、国道311号から近露王子跡へ行く交差点で大規模土木工事が行われていた。大阪の電鉄会社がここにドライブインをつくって20103月末をめどに開業するということだった。従って、現在ではすでに開業しているはずだ。国道311号を田辺から熊野本宮大社近くまで走った3月はじめ、交通量は極めて少なかった。はたして商売は順調にいっているのだろうか。



近露王子跡には「近露王子之跡」と書かれた大きな石碑があった。いしぶみの側の説明板によると、この文字は大本教の出口王仁三郎が書いたものだそうである。1933321日に出口王仁三郎が近露にやってきたさい、当時の近野村長・横矢球男が頼んで書いたもらったものだ。19341月、その文字を刻んだ碑がたてられたが、193512月に大本教は2回目の宗教弾圧をうけた。当局からこの碑も取り壊せと命令があったが、横矢は、この文字は筆跡を自分が模写したものであると主張し、碑面に見られた「王仁」の署名を削って、改めて「横矢球男謹書」と彫りかえて撤去をまぬがれた。



花山院や後鳥羽院から時代をはるかに下って明治期になると、日本の支配者たちは近代天皇制国家を維持するための宗教イデオロギーとして国家神道を作り出した。天皇と宮中祭祀と伊勢神宮を頂点にする神社システムを作り上げ、宗教によって国家を統合しようとした。

とはいうものの、仏教や、教派神道とよばれる神道から分派した新宗教はしぶとく生き残った。1930年代にはいって、神社は戦争遂行のイデオロギー装置になり、大本教のように国家のイデオロギーに反するような教義を掲げる宗教は弾圧された。

箸折峠のおとぎ話風の牛馬童子を見たたあと、近露王子跡の石碑で日本現代史の深い傷跡に思いをはせる。面白いくみあわせの道である。

2010.6.22





14 のこる真清水

近露から熊野古道・中辺路を熊野本宮大社へむかって歩いてゆくと野中という地区に出る。野中には野中の清水、



継桜王子社、



野中の一方杉、とがの木茶屋などが観光ポイントだ。

なかでもとがの木茶屋は茶店を開いている高齢のおかみさんが人気者で、「一度は訪れたいところ」と、たいていのガイドブックに書いてある。

それで行ってみたのだが、三月上旬、とがの木茶屋はぴたりと閉じていた。定休日?



その隣の家へ行くと、高齢の男性が出てきて、ちょうどここの玄関の前で転んで骨折し、いま病院でリハビリをやっているとこだ、と教えてくれた。あれから4ヵ月ほどがたった。茶屋は再開しているのだろか。



野中の清水のほとりには斎藤茂吉の歌碑があり、

  いにしへのすめらみかども中辺路を
         越えたまひたりのこる真清水

とよめた。



この時期人影は少なく、のんびりと散歩が楽しめる。



2010.6.29





15 いりがたきみのりのかど

継桜王子社やその社の下の道路沿いにある野中の清水をすぎると、熊野古道・中辺路はますますさびしくなってゆく。

中ノ河王子跡、小広王子跡、熊瀬川王子跡をすぎて山道は草鞋峠に至る。草鞋峠からは下り坂になる。かつてはこの下り坂は女坂とよばれた。坂を下り終えたところに仲人茶屋跡がある。そこから今度は上り坂になる。この坂が男坂とよばれたそうだ。なるほど、下りが女坂で、上りが男坂、仲を取り持つ仲人茶屋。しかし、どうなんだろうね。田辺から熊野本宮大社に向かうときとは逆に、熊野本宮大社から田辺に向かうときは、男坂が下りになり、女坂が上りになる。坂道の勾配の違いで男女を分けたのだろうか。

男坂を登ると岩神王子跡。おぎん地蔵、湯川王子社に着く。昔はこのあたりに集落があったといわれているが、いまは人工林だ。ここから急坂を登ると三越峠。さらに一時間ほど歩き続けると猪鼻王子跡に出て、ほどなく発心門王子に至る。

という風に書いたけれど、実際に歩いたわけではない。なにしろ中辺路のこの部分は車道からのアクセスが難しく、ひたすら歩きとおすしかないところだ。そういうわけで、実はその日は継桜王子社から車で国道311号にもどって、白浜温泉の宿に帰って温泉につかった。

翌朝、再び国道311号経由で熊野本宮大社まで行った。本宮大社参道前の世界遺産・熊野本宮館前の駐車場に車を停め、そこからバスに乗って山道を終点の発心門王子社まで行った。



後鳥羽上皇の熊野詣のお供でやってきた藤原定家は発心門王子社に十月一五日にたどり着いている。発心門で定家は南無房という尼さんの家に泊めてもらった。これまでの道中に定家が泊まったあばら家にくらべれば、ひさしぶりのまあまあの家だったらしい。定家は「この宿所尋常なり」と『熊野御幸記』に書いている。

熊野御幸の道中、お供の面々は立ち寄った王子ごとに自分の名前を書き付けていた。しかし、定家はまだどこにも書いていなかったので、発心門の門柱に、

 慧日の光前に罪根を懺ゆ
 大悲の道上の発心門
 南山の月下の結縁力
 西刹の雲中に旅魂を弔ふ

 いりがたきみのりのかどはけふすぎぬ
       いまよりむつの道にかへすな

と書いた。



発心門の社殿の後ろに尼南無房の堂があったので、定家は堂の内部にまた一首を書き付けた。定家はあとで、この尼さんは落書きが嫌いなお方で、書いている者を見つけるたびに「落書きはおやめください」と制止していたと聞かされ、おおいに恐縮している。

観光地での落書きはどうやら昔からのことだったようだ。森本右近太夫という侍が江戸時代の初めカンボジアにやってきて、アンコールワットの壁面に自分の前を落書きしたという話を聞いていたので、アンコールワットへ行ったとき探し見てみたが、それらしきものは見つからなかった。

藤原定家が発心門で落書きしたのは暦の上では初冬のことで、紅葉が風にはらはらと舞い落ちていた、と書いている。

そうした定家の落書きのエピソードゆかりのものはすべて時の流れの中で朽ち果てている。



バスから降りると、発心門王子社があるだけであとは何もなかった。バスに乗っていたのは56人で、そのうちの2人はベンチに座り、少々早いお弁当を食べ始めた。発心門王子に弁当を食べに来たらしい。弁当を食べ終えると、折り返しのバスに乗って熊野本宮大社へ帰るつもりらしい。熊野古道見物のものぐさにもうわてがいるもんだ。



本宮大社に向かう熊野古道の入り口がよくわからないので、近くのUターンスペースに駐車していたバスへ行き運転手さんに道をたずねた。運転手さんも早めの弁当を使っている最中で、バスの車内には弁当のおかずのあげものの匂いが立ち込めていた。運転手さんが口をもぐもぐさせながら、古道の入り口を教えてくれた。



ここから熊野古道本宮大社まで約6キロほど歩いてみようというわけである。

2010.7.4





16 往時の学び舎

発心門王子社から熊野本宮大社までの熊野古道・中辺路は、ゆるやかな起伏の6キロほどの行程なので、気軽に歩く人が多い。とはいうものの、発心門王子社から熊野本宮大社裏門まで歩いた3月はじめ、出会った人はハイカー5人、見かけた地元の人2人というさびしさであった。



このあたりの熊野古道は地域の生活道路と重なっている。集落もあるのだが人の気配は薄かった。家屋はあるが人の気配を感じさせない寂しさ。中には長らく住む人がなく、廃屋となって放置されている家もあった。



人のいない道を歩いていると左手の道端からゴトンという音が聞こえた。視野の片隅で男の人がヨーとばかりに手を上げた。反射的にそちらを向くと、道端に男女の人形を置いた小屋のようなものがあった。どうやらししおどしの原理を応用して人形に手をあげさせ、なにも知らない通行人をびっくりさせる仕掛けのようだ。



しばらく進むと民家で農作業姿の男の人形が片手をあげて挨拶してくれた。



水呑王子跡は廃校になった小学校分校跡近くにあった。小さな石碑がぽつんとあるきりだ。小学校の分校は1970年代に廃止された。人口減と道路の整備によって日本全国で山の分校の統合が進められたころである。



廃校となった分校舎は業者が利用してレジャー施設を運営していたが、やがて営業をやめた。理由? 住む人少なく、訪れる人また少なかったためである。



2010.7.11





17 月のさはりもなにかくるしき

伏拝の集落からは果無山脈がよく見える。山そのものは高くはないが、山が幾重にも折り重なって、山深いという感じがする。その伏拝の集落の道路で、高齢の女性に話しかけられた。



……どこからお見えになった。そう東京ですか。都会の人から見ると何が面白くてこんな不便なところに住んでいるのかと不思議でしょうね。私らから見ると、せわしない都会によく住めるものだと、不思議ですわ……などと、よくある世間話を交わすことになった。

そこからしばらく歩くと、伏拝王子跡があった。そこに近所に住む初老の男性がやってきて、ひとしきり和泉式部の言い伝えを教えてくれた。



……この場所は、熊野本宮大社を目指してやってきた参詣の人が、かつては熊野川沿いにあった熊野本宮を遠望し、ありがたやと伏し拝んだので、伏拝王子の名がついた。これが和泉式部の供養塔だ。熊野詣にやってきた和泉式部があと少しで熊野本宮大社だというこの地で月経となった。これでは本宮に参ることはできないと、和泉式部は無念の気持を込めて歌をよんだ。

 晴れやらぬ身のうき雲のたなびきて月のさわりとなるぞかなしき

その夜、和泉式部の夢の中に――ところで和泉式部は野宿でもしたのだろうか――熊野権現が現れて、返歌一首。

 もろともに塵にまじはる神なれば月のさわりもなにかくるしき

この歌に励まされて和泉式部はめでたく熊野本宮大社に参詣できたとさ。

和泉式部の時代から2世紀近くたって、後鳥羽上皇のお供で熊野詣した藤原定家は『熊野御幸記』には次のように書いている。

「払暁、また発心門を出づ。王子二(内の水飲・祓殿)」――つまり、定家の時代、発心門王子と訓の本宮大社の間には、伏拝王子などというものはなかった。



定家の時代からずっと下った室町期になって、熊野の神様は包容力のあるオープンな神様であると宣伝するために、和泉式部の月のさわりのお話が作り出されたとされている。



和泉式部の話を教えてくれた男性は、若いときは街に出て働いていたが、親が高齢になったのでここに帰ってきて、お茶の栽培などをしながら暮らしていると、身の上話を聞かせてくれた。この人ととりとめのない雑談をかわし、熊野本宮大社へむかった。

スギ花粉対策でマスクをしていた私に、その男性が分かれぎわ、マスクをはずしてしっかり山の空気を吸って帰るように、と言った。

2010.7.18





18 熊野本宮大社

伏拝王子から熊野本宮大社までなだらかな下り坂を4キロ、1時間ほど歩く。どこにでもありそうな里山の道で、とりたてて書くほどのものはない。途中、三軒茶屋跡というところに休憩所が建てられていた。



そこを通ると、だんだん人家が近い感じがしてきて、やがて祓戸王子跡が見えてくる。ここから熊野本宮大社は目と鼻の先だ。なぜ、本宮大社と祓戸王子が接近しているかというと、熊野本宮大社が、明治時代に祓戸王子の近くに引っ越してきたからだ。熊野本宮大社は、昔は、熊野川の岸辺――大斎原にあった。1889年(明治22年)の熊野川の大洪水で社殿が壊れ、現在の山の手に移ってきた。



藤原定家の『熊野御幸記』を見ると、定家は1016日未明に発心門をたって、大斎原の熊野本宮大社に到着、「感涙禁じ難し」と感激を書き残している。京都から歩いてきたのだから当然のことだろう。

定家は本宮大社の宿舎に入り、夜が明けると再び祓戸王子にもどってお参りしている。定家は咳とまらず、お腹の調子もよくなかったが、相変わらず水垢離をしていた。



さて、熊野本宮大社の社殿はなかなか見事な造りだ。適度に古くなっているとこがまたよろしい。社殿の撮影は社務所で許可をもらうようにと、注意書きの看板が出ていた。社務所へ行ったら、「記念撮影ですね」と簡単にOKをくれた。



社務所で熊野三山最後の熊野牛王宝印を買い求める。

熊野本宮大社の参道石段を下ると足湯カフェがあった。



2010.7.25





19 大斎原

これから大斎原(おおゆのはら)を見に行く。

和泉式部が眼下に眺めて伏し拝んだという伝説がつくられた伏拝王子から、山ひだと山ひだの間にちらっとみえた、かつて熊野本宮大社が建っていた場所である。そのあたりのことをここで説明しなければならないとは思うのであるが、今年の暑さはこたえるねえ。大斎原にあった案内板に、代わって説明してもらう。手抜き許されよ。



案内板の言うとおりだ。そういうことなのだ。

熊野本宮大社から表参道の石段を下ってきたところに熊野古道案内センター「熊野本宮館」があった。なかなか立派な施設だ。ちょうど熊野本宮大社関連の資料写真展を開いていたので、ちょっと撮影してきた。もちろん著作権は切れている。


               (熊野本宮館資料)

大斎原に建っていたころの熊野本宮大社の写真である。後白河や後鳥羽などの上皇をはじめ、お供をした藤原定家などはこちらの大斎原にあった熊野本宮大社に参詣した。ところが、1889年の大洪水で、熊野本宮大社は壊滅的な被害を受けた。そのときの被害写真もあった。


                 (熊野本宮館資料)

熊野本宮館を出て、農道のような道に入ると、行く手に巨大な鳥居が見えてきた。10年ほど前に建てた新しいものだ。日本で最も大きい鳥居だといわれている。鳥居は聖地と俗地を分ける門なのであるが、それにしても面白い形をしている。どこのだれが考えたものだろうか。



大斎原は熊野川・音無川・岩田川が合流する中州だった。洪水で流失する以前、境内の面積は3万平方メートルを超え、社殿12社、楼門、神楽殿、能舞台、文庫、宝蔵、社務所などがあったといわれている。



現在では、かつての社殿跡に石祠があるだけだ。静かで気持の落ち着くところだ。ピクニックらしい人たちが芝生の上で一休みしていた。



さて、これで熊野三山と熊野古道のつまみ食い的散策を終る。明日は、田辺市の南方熊楠の旧宅を見てから帰宅する。



2010.8.1





20 くまぐす

すでに書いたと思うが、かつて上皇たちが足しげく熊野詣をしたルートは次の通りだ。

京都から大阪に舟で下る。大阪から大阪湾沿いの紀伊路を田辺までたどる。そこから中辺路をへてまず熊野本宮大社に参る。熊野本宮大社からは舟で熊野川を下り、新宮の熊野速玉大社へ詣でる。そこから陸路を勝浦経由で熊野那智大社へ行く。熊野那智大社から山道に入り、800メートル前後の峠を超えて、再び熊野本宮大社にもどる。これが大雲取越えといわれているルートで、中辺路の一部だ。熊野本宮大社からは、田辺まで中辺路、紀伊路を取って返し、京都に帰る。

後鳥羽上皇に随行した藤原定家もこの大雲取越えの難所で悲鳴をあげている。定家はこの熊野詣随行でしょっちゅう風邪をひきお腹を壊し、悲鳴をあげている。なれない旅で疲れているうえ、旧暦10月、初冬の寒さの中で水垢離や潮垢離を繰り返している。やりすぎだ。定家が大雲取越えをした日は雨の日だった。蓑を着て輿に乗り、担がれて大雲取の峰を越えた。「終日険阻を超え、心中夢のごとし。いまだ此のごとき事に遇わず。雲取・紫金の峯、手を立つるがごとし」と『熊野御幸記』に書いている。

なかなか大変な山道だったようである。この山道ではダル神――この山道で飢えて死んだ人々の亡霊――にとりつかれることがあると、今でも本気で語られている。とりつかれると虚脱感に襲われて身動きできなるといわれている。ちょっとでもいいから米飯を口にすると、たちまちダル神の呪縛から解放されるのだそうだ。したがって、弁当を食べきらないで少しでもいいから米粒を残しておくようにと、アドバイスが語り継がれている。

植物の標本採集が目的で大雲取越えに入った熊野の主のような南方熊楠もダル神にとりつかれたことがあり、山道でひっくり返ったそうだ。

その南方熊楠の顕彰館が田辺市内にあり、熊楠が住んでいた旧宅なども保存されているので見に行った。

母屋



書斎



研究室



熊楠が気に入っていた庭のクスノキ



南方熊楠は21歳のとき米国に渡り、サーカスの事務員になって6年ほど中南米をうろついていた。それからイギリスに渡り、書いた論文が評価されて大英博物館の東洋調査部で働くことになった。イギリス暮らし7年の間に科学雑誌『ネイチャー』に論文を書いた。米英で暮らすこと13年、和歌山に帰り、その数年後から田辺に住みついた。粘菌・菌類の研究、民俗学、宗教学の分野でユニークな存在だった。

植物学には歯がたたないので、熊楠民俗学を冷やかしに読んだことがある。『十二支考』(東洋文庫)。

談論風発というか、肩のこらない語り口と博識ぶりが面白かった。連想のおもむくままに、世間話でもするような筆致で、『十二支考』に出てくる動物にまつわるエピソードを万華鏡のように繰り広げている。その『十二支考』の「馬に関する民俗と伝説」に出てくる話は今でも覚えている。

王様の耳はロバの耳、というギリシャの話と同様のものがモンゴルにもあって、モンゴルの王様の耳が金色のロバの耳であることを知った若者が、その秘密を漏らしたいという衝動に駆られて、ついに我慢しきれず野原のリスの穴にむかって「王様の耳はロバの耳」と叫んだという話だ。ギリシャの話が東へ伝播していったのだろうか。

それはさておき、熊楠の想念は、穴に向かって秘密を叫ぶということから、アラビア人が穴を掘って屁を埋めたという話に転じる。

屁を恥じるのはどの文化でも似たようなものだが、アラビア人は極度に屁を恥じる、と熊楠は真面目な口調で話すのである。アラビア人はどうしても屁を我慢できなくなると、天幕から遠く離れたところまで行って、地面をナイフで掘る。掘った穴の上に尻を据え、尻と穴の間を土で埋め、屁をひりこむやいなやその穴を土で埋める、という話が外国の文献にあるなどという話を紹介する。

アラビアのアブ・ハサンという男が自分の結婚式で不覚にも放屁してしまった。出席者一同は新郎ハサンが恥じるあまり自殺することを恐れて、オナラが聞こえなかったふりをした。しかしハサンは恥じるあまり、新婦の部屋を訪れることもせず、はるばるインドにまで逃亡した。インドで近衛兵の指揮官にまでの出世を遂げ、10年後にほとぼりも冷めたころだろうと、故郷に帰った。その故郷のある家で、その家の母親が娘に「お前はアブ・ハサンが屁を放った晩に生まれたのだよ」と教えているのを聞いて、再び外国に逃走、その後二度とふるさとに帰ることはなった。

このような博識に裏打ちされた世間話をのんびりと繰り広げる熊楠は風変わりな人物だった。熊楠が熊野の山歩きの最中に腰巻だけの裸になって記念撮影した「山中裸像」は有名な写真だ。その撮影場所が最近田辺から国道311号に入って間もないあたりの上富田町で確認され、上富田町教育委員会などが、撮影場所にこんな案内板を立てている。



タレントの裸の写真や、シュワルツネッガーふうの筋肉マンの裸体写真の動機は想像可能だが、はて、稀代の碩学であるこの明治男はなにゆえあって冬の山中で裸になり写真におさまったのだろうか?

2010.8.7

                ――完――

                            くまの
 文・写真 まんだら