1 砂丘

月の砂漠は作詩:加藤まさを 作曲:佐々木すぐるの童謡。星の砂漠とくればアントワーヌ・ド・サン=テグジュペリだろう。

モロッコを地中海側、あるいは大西洋側から南下して、東西にのびるアトラス山脈を越えると乾燥地帯が始まる。サハラ砂漠の北端である。

サハラ砂漠はアフリカの総面積の3分の1を占める。面積の9割弱が岩石砂漠で、われわれが「サハラ」と聞いて想像するこんもりとした砂丘の連なり――砂の砂漠はその1割強にすぎない。

ツーリストたちはこの砂丘の戯れにあこがれてモロッコにやってくる。砂漠の周縁の町から4輪駆動車――たいていはトヨタのランドクルーザー――に乗って、砂漠体験の基地になるホテルにたどり着く。ホテルは荒野の中にポツンと建っている。

ホテルの敷地には明かりがともっているが、周辺は真っ暗闇だ。私が泊まったその夜はあいにくと半月が出ていて、星空撮影には不向きな日だった。ホテルの明かりも邪魔になった。ホテルから離れた砂漠に出ればよかったのだが、不案内な闇の岩石砂漠は少々おっかない。

そういうわけで、サハラの星空というにはさびしい写真になってしまった。

「機上にあって、夜があまりにも美しいと、人は思わずわれを忘れる。人はもう操縦はしない。機体はすこしずつ左へ傾いてゆく」とサン=テグジュペリは書いている。

サン=テグジュペリは、筆はたったけれど、飛行機操縦の腕前はそれほどではなかったのかもしれない。夜間飛行をする操縦士が星空に見とれて我を忘れ、ついでに操縦まで放棄するというのはまずいだろう。GPSや自動操縦装置などのなかった時代だから、なおさらである。

ある時、彼は操縦していた飛行機をサハラ砂漠に墜落させてしまう。同僚とともに3日間も砂漠を彷徨したすえ、運よく遊牧民に助けられた。その体験を『人間の土地』(堀口大學訳、新潮文庫)に書いている。

「砂漠は、大理石のように平らだ。砂漠は、日中、陰を作らないが、夜はまた、ぼくらを裸で、かぜにさらす。身を寄せる木一本、垣根一つ、石ころ一つない」

「ぼくらには、汗をかく権利はない。それどころか、ぼくらには待つ権利さえないのだ。この涼しさは湿度十八パーセントによる涼しさでしかない。この風は、砂漠から吹いてくる。そしてこの偽りの愛撫の下で、ぼくらの血液は蒸発してゆく」

「ああ、水!……そなたは世界にあるかぎり、最大の財宝だ」

ツーリストたちはサン=テグジュペリのサハラ遭難の疑似体験をするために、夕方、ラクダの背に乗って、駱駝ひきに案内されてサハラに出かける。砂漠にテントを張って一夜を明かす。だが、砂漠が砂漠らしい暑さになる前にホテルに帰ってくる。

あるいは、午前6時ごろからラクダの背にまたがって、ホテル近くの砂丘に登り、サハラの日の出を待つ。サハラに来るツーリストの数はトップが中国人と日本人、2番目がフランス人とドイツ人、日の出を見たがるのは中国人と日本人だ、と駱駝ひきが教えてくれた。



サハラの日の出は初冬のモロッコでは午前8時ごろ。ツーリストは日の出を待ちながら砂丘ではしゃぎまわり、駱駝ひきはその間やわらかな砂丘にマットを敷いて仮眠をとる。

やがて空と砂丘がほんのり紅色に染まり、ついに太陽が現れる。それを見届けて、ツーリストは駱駝ひきにつれられてホテルにかえる。その砂丘の駱駝道には、無数のラクダの足跡と、まるっこい糞が点々と散らばっている。

 

サン=テグジュペリの飛行機が墜落したのはリビアのサハラ砂漠で、モロッコの砂漠ではなかった。とはいえ、このさい、サハラ砂漠をリビア部分、モロッコ部分と区分するのもあじけないだろう。サハラは「一衣帯砂」。リビアの砂漠はモロッコの砂漠と切れ目なく続いている。



2 光塔

モロッコの首都ラバトの夜明けである。あかね色になり始めた東の空を背に、黒々とした巨大な角柱が、逆光の中に屹立している。映画『2001年宇宙の旅』に出てきたあの不思議な物体・モノリスを思い出させる。ラバトの道標「ハッサンの塔」である。



8世紀までに北アフリカの西の果てまで拡大したイスラム勢力は、ジブラルタル海峡を渡ってイベリア半島に侵入する。この頃からイスラムとカトリックの軍勢はイベリア半島で、押したり引いたりのせめぎ合いを、グラナダにあったイスラム王国が壊滅する15世紀末まで、延々と続けた。キリスト教側はこの一連の対イスラム戦争をレコンキスタとよんでいる。

イスラム教徒側にとっては、12世紀末の大軍を率いてイベリア半島に渡り、キリスト教軍に大勝したムワヒッド朝(マラケシュを本拠としたベルベル族の王朝)のヤクブ・エル=マンスールは英雄の1人である。そのエル=マンスールが建築を命じたのがハッサンの塔であった。

エル=マンスールは戦勝記念としてイスラム世界最大のモスクを作るよう命じた。だが、建設工事半ばで彼は死に、彼の遺志を引き継ぐものはいなかった。残ったものは、本来の計画では88メートルに達するはずだったが実際には44メートルまでしか建設されなかったハッサンの塔と、巨大モスクを支えるはずだった無数の石柱の列だけである。

米国で初めて女性としてピュリッツァー賞を獲得した米国人の作家イーディス・ウォートンは、旅行記 In Morocco 1920)で、エル=マンスールは彼が支配する3つの都であるマラケシュ、ラバト、セビリアに世界がまだ見たことのないような美しい塔を建てようとした、と書いている。だが結局、セビリアはレコンキスタによってカトリック教徒が支配する街になり、彼が建築させたミナレットは先端部分が改築されて、キリスト教の鐘楼――今日のヒラルダの塔に姿をかえた。ラバトの塔は未完のまま放置された。唯一、マラケシュの塔だけが完成された様式美を伝えている。

       
      (写真は左からマラケシュのクトゥービアのミナレット、その窓のスピーカー、セビリアのヒラルダの鐘楼)

1939年にモロッコに旅し、1951年に『モロッコ』を出版した山田吉彦(きだみのる)もハッサンの塔を眺めて感慨にふけっている。「この王は単にモロッコ全土を平定したばかりではなく、北はジブラルタル海峡を渡ってイスパニアに侵入し、1195年イスパニア軍をアルコスで敗ったときには捕虜5万、戦利品は天幕5万、駱駝8万、騾馬10万、甲胄7万着という戦史上空前の大勝を得ている。この様なモロッコ回教徒の栄華の時代に想いを馳せて、いま眼前、熱気を孕む光の中でこの荒れはてた塔が寂寞な周囲の中に立って影を地に印しつけているのを見ると、何かしらの果敢なさに誘われる」

ふり返る歴史や伝承は感傷を誘う。バベルの塔は人間の自己顕示欲とその崩壊の物語であり、ニューヨークの世界貿易センターの二本の超高層ビルは、キリスト教徒の富豪たちの自負心の具象化であり、イスラム教徒のキリスト教世界の支配に対する攻撃によって崩壊した。

エル=マンスールが建築を命じたマラケシュ、ラバト、セビリアのイスラムの塔・ミナレットは、日本では光塔と翻訳されている。アラビア語のナール(火)、ヌール(光)から生じた語であるとされている。ミナレットの形には地域色があり、マグレブでは角柱形、トルコでは円柱形が主流だ。エジプトには円柱と角柱の混合ミナレットがある。

そのミナレットの上から、礼拝の呼びかけ「アザーン」が朗々と流れる。昔は肉声だったが、現在は録音したものをラウドスピーカーで流す。注意深く見るとクトゥービアのミナレットの窓からスピーカーがのぞいている。1日5回のアザーンの文句はほぼ同一だが、早朝のアザーンだけには「礼拝は睡眠にまさる」という1行が挿入される。

すべてのイスラム教徒が睡眠を削って神に礼拝することを至上の義務としてきたかというと、そうでもないらしい。

ある人物が若かったころの話。ある夜父のもとに侍り夜を徹して眠らず、聖なるコーランを膝にしていた。ところが周囲の人はみんな寝入っていたので、その人は父に向って言った。「かほどの人たちのうち1人として頭をもたげてドーガーネ(2度膝を屈して行う祈り)を捧げるものもない。寝ているのでなく、全く死んでいるようでありまする!」と。曰く、「息子よ! かように他人の陰口をきこうより、お前もまた寝ていたほうがよかったのだが!」と。サアディー『薔薇園――イラン中世の教養物語』(蒲生礼一訳、東洋文庫、第2章の物語7)に出てくる。

今回のモロッコの旅(モロッコに足を踏み入れただけだが、格好をつけてタイトルはマグレブとした)で、明け方のアザーンを聞いたのは田舎の町の旧市街の宿で1回だけ。あとは都会の新市街のコンクリート製のホテルで熟睡していたので、アザーンを聞くことはなかった。



3 王様

教会、モスク、寺院が壮麗さを競うのはそれによって宗教的権威を民衆に示すためである。カサブランカのハッサン2世モスクとそのミナレットは、宗教的権威であると同時に、世俗の政治権力の象徴でもある。



このモスクはハッサン2世(在位1961-1999年)の生誕60年を記念するために3年がかりで建設が進められ、1993年に完成した。カサブランカの大西洋を眺める海岸線ぎりぎりの敷地に建てられた。大西洋の波音を聴きながらコーランを詠唱できるイスラム世界では珍しい立地である。

内部には25千人が同時に祈りを捧げることが可能な大ホールがある。世界最大のモスクを目指したが、現在ではメッカ、メディナに次ぐ世界3番目の巨大モスクである。ミナレットの高さは210メートル。東京都庁の243メートルよりちょっと低い。ミナレットは現在でも世界で最も高いミナレットである。

モスクを囲んでゆったりとした広場があり、広場から海岸の防波堤まで降りることができる。この塔を見に来たのは日曜日の午後で、大勢の市民が集まって大西洋の波を眺めていた。このシリーズのタイトルに使っているのがその時の写真である。

ハッサン2世は現国王モハメッド6世の父親である。

首都ラバトの「ハッサンの塔」と同じ敷地に「モハメッド5世廟」がある。モハメッド5世は現国王モハメッド6世の祖父であり、ハッサン2世の父である。モハメッド5世は1927年から1953年までと1955年から1961年まで国王(スルタン)だった。王位の期間が途切れたのは、宗主国フランスがモハメッド5世の独立志向を嫌って廃位したことがあったからである。

1961年にモハメッド5世が死去。あとを継いだハッサン2世が1962年から霊廟の建設を始め1971年に完成した。霊廟には現在モハメッド5世と彼の2人の息子であるハッサン2世とアブダラ王子が眠っている。霊廟は着飾った儀仗兵によって守られている。霊廟の内部は金色に飾られ、職人が恭しく壁の装飾を磨きあげている。



モロッコを旅すると、ホテルやレストランなどで現国王モハメッド6世の肖像写真を見ることになる。タイでもプミポン国王時代、公共施設その他の場所に国王の肖像写真が掲げられていた。家庭にもあった。いまのタイ国王の時代も同じなのだろうか。しばらくタイに行っていないのでよくわからない。

1960年代の中ごろのハッサン2世の時代のモロッコでフィールドワークを行い Islam Observed (邦訳『二つのイスラム社会――モロッコとインドネシア』岩波新書)を書いたクリフォード・ギアツは、スルタン体制の下では人間神格化が行なわれるとモロッコの王室を説明した――理論的には国家の基本をイスラムの聖典に置きながら、実際には生身の聖者に崇拝を集中させた。このからくりは「天皇現人神」の歴史を持つ日本人には、いまさらくどくど説明する必要もあるまい。

現代モロッコは立憲君主制である。国王がいて、議会があり、選挙で議員が選ばれるが、国王の権限は強い。国王が軍の最高司令官で内閣や議会は、軍については蚊帳の外に置かれている。昔の日本の「天皇の統帥権」に似ている。

モロッコの王制について白谷望は、モロッコの王朝(アラウィ―朝)はマックス・ウェーバーのいう支配の3類型――伝統的支配、カリスマ的支配、合法的支配のすべての面を持っている、という(白谷望『君主制と民主主義――モロッコの政治とイスラームの現代』風響社、2015年)。モロッコの王は16世紀に始まったアラウィ―王朝の子孫である。現代の国王は対外的にはマリク(王)と称しているが、国内ではアミール・アル=ムウミニーン(信徒たちの長、即ちイスラムの主権者カリフ)を名乗っている。さらに、アラウィ―朝の歴代国王は、アラウィ―家は預言者ムハンマドの血をひいていると主張してきた。一方で複数政党による選挙と議会主義を採用している。

白谷の『君主制と民主制』によると、君主制を採っているアラブ8カ国中、モロッコ王国の1人あたりGDPは最下位である。石油を産出しないモロッコの1人当たりGDP3000ドル(2017年)。サウジアラビアは23000ドル。産油国の王室は石油がもたらす収入を使って国民の歓心を買うことができるが、モロッコ王室にはその余裕がない。

伝統的支配とカリスマ的支配、合法的支配の3つの要素のバランスを取りながらモロッコは近代化と王制の維持につてとめてきたが、時には破綻もあった。ハッサン2世の時代、1971年と1972年に国王暗殺未遂事件が起きている。2011年の民主化運動「アラブの春」にさいして、モハメッド6世は民主化を要求する勢力に配慮して憲法改正のための起草委員会を設置した。閣僚の解任権を国王から首相に移すなど国王の権限を削減し、首相の権限を強化する改正案を国民投票で決定した。民主化運動は国王の権限の縮小を求める。巨大なモスクや華麗な霊廟、遍在する国王の肖像写真は、こうした民主化の流れに対抗する伝統的支配やカリスマ的支配の補強装置である。



4 壁と門と

旧約聖書にはジェリコの壁の伝承があり、中国には歴代王朝が築きあげた万里の長城の跡が残っている。難攻不落を誇ったコンスタンティノープルの城壁もオスマントルコの軍勢が打ち破った。逆に、オスマントルコの10万の大軍から町を守ったのがウィーンの城壁だった。この城壁は現在では取り壊されリングシュトラーセという環状道路になっている。旧東ドイツはベルリンの壁を築いた。東ベルリンの民衆を守るためではなく、東ベルリン市民が西ベルリンに脱出するのを防ぐのが目的だった。もっか、世界で一番壁を築きたがっている為政者はアメリカのトランプ大統領である。合衆国がこれ以上人種のルツボになるのを嫌っているからである。

カスバはアラブの古い城塞都市のことである。日本の歌謡曲『カスバの女』は場末の酒場の女の気分を歌っているが、モロッコのカスバはちょっと雰囲気が違う。『カスバの女』は映画『ペペ・ル・モコ――望郷』に出てくるアルジェのカスバの雰囲気を下敷きにしている。アルジェのカスバはスラム化していることで有名だ。ペペ・ル・モコのカスバは丘の斜面につくられたアラブの城塞都市に、植民地宗主国のフランスの洋風の味付けがあって、歌になると踏んだのであろう。かつて香港にあった九龍城は東アジアの有名なスラムだったが、20世紀中に解体された。当時の九龍城はいかにも中国風のスラムで、『九龍城の女』ではセンチメンタルな歌よりもすえた臭いの歌になる。



カスバは城塞都市である。壁を築きその中で支配者とその側近、兵士が暮らした。塩、砂糖、金、奴隷といった金目の商品を外敵からまもるのが目的だった。外敵が攻めてきた場合は門を閉じて防戦した。マラケシュやラバト、フェズなどにはカスバの壁が残っている。テトゥアンのカスバの壁には、大砲の砲身が飾ってあった。カスバが砦であった記憶を強調しているのだ。



ラバトには海岸線に沿ってカスバの壁がつくられている部分がある。地中海の海賊から財宝を守るための壁だったのだろう。刑務所の壁のように高い。今では城壁は観光資源である。その好例がアドリア海に突きでたドゥブロヴニクの旧市街を囲む城壁である。

『カスバの女』の歌詞の1節に「明日はチュニスかモロッコか」とあるが、モロッコのカスバはこの歌に不似合いである。モロッコのカスバの中は手狭だがスラム化している印象は薄い。マグレブは日本から遠い。カスバが新宿裏通りの居酒屋街の情緒に変わってしまっても、日本人は痛くも痒くもないのである。

さて、高い壁を築いてカスバを取り囲めば、当然出入り口としての門が必要になる。門のなかでも有名なのがメクネスのマンスール門だ。アラウィ―朝の2代目スルタンである猛将ムーレイ・イスマイルがつくらせた門である。モロッコを平定し、沿岸の外国勢力を追い払い、東から押し寄せてくるオスマントルコの軍を食い止め、モロッコがオスマントルコ領になるのを防いだ。



彼はメクネスの街づくりを手がけたが、その完成を見る前に死んだ。ムーレイ・イスマイルはマグレブ沿岸の海賊にヨーロッパの船を襲撃させ、金品を強奪、乗組員や乗客を奴隷にした。ヨーロッパの国々はムーレイ・イスマイルと外交交渉を続けたが、海賊行為はおさまらず、奴隷の解放もままならなかった。

ムーレイ・イスマイルには悪いが、私はサマルカンドのレギスタン広場にあるマドラサの門の方が好きだ。

ムーレイ・イスマイルのメクネスの宮殿で奴隷になっていたトーマス・ペローの体験談をもとに、ジャイルズ・ミルトンが書いた『奴隷になったイギリス人の物語』(アスペクト、2006年)によると、ムーレイ・イスマイルは非常に残忍な性格の人物だったらしい。

自ら大刀をふるって仕事をしくじった配下の者の首をこともなげにはねた。あるいは暇つぶしに人を殺した。キリスト教徒の女性と肉体関係を持った軍人は2枚の板でサンドイッチ状に挟まれて縛られ、頭から下へ鋸で真っ二つに割られた。外交使節としてメクネスを訪れ、奴隷にされたイギリス人の解放をスルタンと交渉したイギリスの提督が目撃したという。

マンスール門のある壁の内側にはスルタンの王宮があった。スルタンの親衛隊である黒人部隊の宿舎や臣下の屋敷、スルタンの寵妃が住む後宮、奴隷の宿舎、庭園があった。

17世紀から18世紀にかけて北アフリカの沿岸や地中海で暴れていたイスラムの海賊によって100万人もの白人が奴隷になったと『奴隷になったイギリス人の物語』はいう。19世紀なってヨーロッパの国々が地中海とその周辺で海軍力を増強した。これによってマグレブ沿岸の海賊は駆逐された。因果は巡る車の輪。さらに、20世紀になると、フランスとスペインがモロッコを保護領にしてしまう。1912年のことである。ケインズはどこかで、イギリスに近代資本主義をもたらしたのは、17‐18世紀西インド諸島を荒らし回った海賊がイギリスに持ち帰った金銀である、と書いた。モロッコのスルタンも同じことをしたが、モロッコでは資本主義は育たなかった。



5 広場

前回ふれたメクネスのマンスール門の前にエディム広場がある。この広場、もともとはメクネスのカスバの中心部だったが、マンスール門が完成したのち、スルタンが密集する家屋を一掃、更地にし、広場につくりかえた。偉大なマンスール門の前に光景を遮るものが無い空間をつくって、門がより壮麗に見えるようにするための環境整備だったといわれている。出来上がった広場ではスルタンの行政命令が伝えられ、犯罪者の公開処刑が行われた、と旅行ガイドブックに書かれている。



現在の広場は、青空催し物会場の趣きがある。日用雑貨品を売る屋台、スナックや飲み物、果物を売る屋台、大道芸人を取り巻く人の輪、ゴーカートなど子ども向けの遊具の貸し場がある。広場の周辺にはカフェやレストランがあって、お茶やコーヒー、それにワインを飲みながら人々は寛いだ表情で広場に集まる人々を眺めている。

モロッコが保護領になってから、メクネスにはフランスからワイン醸造家がやって来て、ここにブドウ畑をひらき、メクネスをモロッコ最大のワイン生産地に変えた。なかでも、メクネスのvin gris (灰色ワイン)が有名だ。一種のロゼワインで、灰色といういうものの色はロゼとたいして変わらない。味の方は、私はアルコール飲料を飲めないので批評しようがないが、飲んだ人の感想では「どうってことはなかった」。

広場はモロッコの都市のあちこちにある。人家が密集したカスバの息詰まる生活から逃れる息抜きの場所なのだ。

モロッコで最も有名な広場がマラケシュのジャマ・エル・フナである。広場の一方には緑のビニール・シートで天井を覆った屋台が群れている。そこでは名物のオレンジジュースやケバブなどを売っている。広場では大道芸人が太鼓をたたき、歌を歌い、蛇使いがコブラを立ちあげている。広場の中をタクシーが走り、馬車がゆるゆると進み、荷物を積んだ手押し車がいそがしく行き来し、もちろん物見高い人間も広場を歩き回っている。

エリアス・カネッティ『マラケシュの声』を読むと、カネッティはフナ広場に興味をいだき、マラケシュ滞在中、ここになんども足を運んだ。広場で繰り広げられるパフォーマンスの中で、彼が最も関心を寄せたのが、「語り手と書き手」だった。語り手というのは広場の人の輪の中心で、物語を詠唱する大道芸演者・詩人の事である。カネッティはアラビア語を解さなかったが、それでも語り手の朗々としたアラビア語の音に感銘を受けた。「聴衆の頭上の大気は動きに満ちていた。わたしのようにほとんど意味を解さぬものでも、聴衆の頭上に生命を感じた」(岩田行一訳『マラケシュの声』(法政大学出版局)。



フランス語のシャンソンをフランス語が聞き取れないまま聞いて、いいなと思ったり、英語を解さないままジャズ・ヴォーカルにしびれたり、意味理解不能な真言密教の声明に聞きほれることは、それほど不思議なことではない。伝えられる意味に感銘を受けるのではなく、音に感応するのである。

そして、広場の中で喧騒から最も遠いのが「書き手」の周辺だった。書き手とは代筆屋のことで、依頼人から話を聞き、その内容に最もふさわしい文体で書類や手紙を書いてやる。カネッティはその情景を凝視した。

1980年代から90年代にかけて足しげくモロッコを訪れ、『モロッコ流謫』という面白い本を1999年に出した(現在はちくま文庫で読める)四方田犬彦が、フナ広場の叙景を活写している……広場にうごめく長口上の薬売り、笛を吹き打楽器を叩いて歌う楽師たち、曲芸師、蛇使い、占い師、乞食、そして襤褸布の上に座りこんで朗誦する語り手……。

四方田犬彦はカネッティの『マラケシュの声』(日本語訳初版、1973年)を1970年代に読んで無性にモロッコに行きたくなったそうである。カネッティがマラケシュを訪れたのは1954年のことでモロッコはまだフランスの保護領だった。フナ広場がユネスコの無形文化財になったのは2001年のことである。この手の猥雑にしてエネルギーあふれる祝祭空間は人によって好き嫌いがある。

私もカネッティを読んで、いつかマラケシュを訪れたいと思っていた。だが、活字を追って、それをもとにつくり上げたイメージを懐いて現場に行くと、イメージと現実では乖離があると知ることが多い。カネッティが1950年代に見たフナ広場にはまだ中世的なモロッコの祝祭空間の趣きが残っていた。それから約30-40年ほどののち、四方田が見たフナ広場にもかろうじてまだそんな雰囲気が残っていたのだろう。四方田はカネッティの夢の残像を見ることができた。フナ広場がユネスコの無形文化財になってから、広場の雰囲気が変わった。ひとくちで言えば広場がほこりっぽいだけの観光用の見せものになったのである。

といって、それをけしからんということもできないだろう。人それぞれに暮らしの都合がある。

20114月にはこの広場で爆弾テロ事件が起きた。外国人観光客ら10数人が死んだ。今では外国人観光客の多くは広場を取り巻くカフェのテラスやベランダや屋上でモロッコ名物のミントティーやビールを飲みながら、フナ広場を見ている。



6 迷宮の驢馬

メディナの中は迷宮だ。

我々に聞き覚えのある「メディナ」はサウジアラビアのメッカの北にある都市の名前である。ムハンマドがメッカを追われてヘジラ(遷都)した地であると学校で教わった。固有名詞である。

現代のモロッコなど北アフリカのマグレブ一帯では、「メディナ」はイスラムの聖地・メディナよりも、城壁の中の家屋密集地区の意味の方が通りがいい。こちらは普通名詞である。

モロッコの都市はたいてい中世のメディナを中心に城壁を越えて広がっているので、メディナは旧市街という言葉がぴったりくる。首都ラバト、マラケシュ、フェズ、テトゥアン、メクネスなどのメディナが知られているが、なかでもフェズのメディナはモロッコ1の迷路を張り巡らした「迷宮都市」と観光用に喧伝されている。フェズの小高い丘に登ると、フェズの密集した家屋が黄土色の広がりになって見える。



観光客が単独でメディナに踏み入ると、再び入ってきた入口に戻ることは不可能で、メディナの迷路を環状彷徨することになる。都市のケイビング(洞窟探検)が楽しめるのだ。メディナ探検のためにそれぞれのメディナに専門のガイドがいて案内してくれる。美術館の名画鑑賞ツアーに似た感じで、ここがメディア一の美しい道、などと説明してくれるのである。

メディナの中の道は細く、曲がりくねっている。敵が攻めてきたとき、土地勘のある方が有利な市街戦を繰り広げられるよう、“都市計画”されたのだ。日本の城下町にも城を守るために似たような発想で街づくりをした例がある。防御のためにわざと町の街路を狭く複雑にした。丁字路を多く設け、十字路の一方をずらした変形交差点(丁字路との隣接)をつくった。



フェズのメディナの場合、道幅の細い通路が毛細血管のようにつながり合っている。道路が細いので4輪自動車はもちろん、バイクも乗り入れ禁止である。メディナの中には商店やレストラン、もちろん住宅もあって、荷物運びには驢馬が活躍する。

この荷物運びの驢馬はフェズのメディナの通路でスナップ撮影したものだが、ご覧の通り、なんとも哀れを誘う姿である。10年ほど前の『スミソニアン・マガジン』で見つけた記事 "Morocco's Extraordinary Donkeys"によると、その記事の筆者はフェズのメディナの通路で、カーラーテレビ6台を背にのせた驢馬を見たと書いている。フェズのメディナのどのあたりかと訊かれても、あの迷路のなかだ、答えるすべがない、とも書いている。

フェズのほそい道路にあっては驢馬こそが物流の担い手で、メディナで暮らす人々は驢馬に暮らしを支えられている、と書かれているわりには、モロッコの驢馬は人間からさほど大切に扱われているようには見えない。
「人の声もいろいろだが、中でも一番いやらしいのは驢馬声というもの」(『コーラン』井筒俊彦訳、3119節)。

エリアス・カネッティは『マラケシュの声』(法政大学出版局)に「驢馬の悦楽」という見聞を書いている。カネッティはマラケシュのフナ広場で深夜、驢馬使いが棒切れを振り回して驢馬に芸をさせようとしているのを見た。痩せこけても荷物も運べないほど衰えた驢馬と驢馬使いの滑稽な姿を、取り巻いた人々が笑いものにしていた。酷使されるモロッコの驢馬への同情から驢馬の味方になっていたカネッティはあまりの嫌悪感からその人の輪を離れる。

翌日カネッティが広場へ行くと昨夜と同じ場所に同じ驢馬と驢馬使いがいた。太陽の下で見る驢馬は昨夜の姿よりさらにみじめに衰えて見えた。

突然、カネッティの近くで大きな声がした。カネッティがその方向に目をやり、ふたたび視線を驢馬に戻した時のことだった。そのやせこけた驢馬のペニスが驢馬使いの棒きれよりもさらに太くなって垂れ下がっているのをカネッティは見た。

「驢馬が何を見、何を聞き、何を嗅いだか」――カネッティにはわからなかったが、マラケシュでひどい仕打ちを受けている、老いぼれて肉も力もなくなった驢馬の一瞬の変貌だった。

その光景はモロッコの驢馬から受けてきた悲惨な印象からカネッティを解放した。「悦楽をまだ味わえたのである……願わくは、すべての虐げられた驢馬が悲惨な境遇にあってなおしかるべき悦楽をみいださんことを」と、カネッティは祈りをささげている。



7 スークとバザール

スークもバザールも「市場」を意味する。スークはアラビア語出自、バザールはペルシャ語出自だ。スーパーマーケットの「スーパー」とハイパーインフレーションの「ハイパー」が同じ「超」の意味で、かたやラテン語出自、かたやギリシャ語出自であるのと似ている。



写真はモロッコの地方都市の青空市場。これもスークである。

むかしむかし、エジプトはカイロのスークで、トルコ式のコーヒーをたてる金属製の調理器がピカピカ光っているのを見て、衝動的に買いたくなった。そこで、店の主と、片言の英語を使いあって値段の交渉をした。結局、折り合いがつかず交渉は物別れになった。スークを案内してくれた知人のエジプト人のお医者さんが、ちょっと離れたところで様子を見ていた。「あれ、買いたいのか?」と彼が訪ねた。「うん」と答えると、よっしゃとばかり彼は店に入り、主とアラビア語で交渉を始めた。2人はにこやかに交渉、そして妥結。出てきたお医者さんが新しい値段を私に告げた。値段は2分の1になっていた。その値段で売っても店の主にはもうけが残っている。カイロに住んでいるエジプト人のお医者さんは相場を知っている。観光客の私が知らなかった分が、その2分の1だった。

観光客がスークで求めるものは生活必需品ではなく、なくても生活するには何の問題もない趣味的商品である。東京の築地市場(今は豊洲市場)の新年の初競りで、ある年はマグロの価格が億になり、別の年には数千万円にとどまるのは、値段の基準がマグロそのものとはまったく別のところにあるからだ。

したがって、スークでは店の主人は観光客の買い気を探り、客は主の売り気をさぐる。2人の呼吸があったところで、売買が成立する。一物一価・定価販売では味わえない、このゲームが面白くて観光客はスークをうろつく。スークは町の広場やモスク(かつてはキャラバンサライ=隊商宿にも)に隣接していて、むかしからお楽しみの集中する場所だった。

スークにはもっぱらツーリストをターゲットにした商品を売るところと、食料品など日常の必需品を売る所がある。わかりやすく言えば、私鉄沿線の駅前商店街のような「ケ」の性格を帯びた店と、浅草の仲見世商店街ような「ハレ」の性格の店が、メディナの狭い通路を挟んでひしめき合っている。

 

ツーリストが行きずりに楽しむスークはそんなところだが、文化人類学者や地域研究者、イスラム社会研究者にとってスークはもっと奥深い所である。彼らはスークの経済活動の実態を観察し分析・解釈することで、イスラム社会で暮らす人々の思考と行動の様式を理解しようとする。



専門家でない私はこれ以上深入りしない。興味をお持ちの方には、いまやシリア内戦で荒廃してしまったのアレッポで、かつてスークの商人たちを観察した黒田美代子『商人たちの共和国――世界最古のスーク、アレッポ』(藤原書店、1995年)をすすめる。



8 モロッコ革

ハーバード大学のホートン図書館で人間の皮膚を使ったとみられる本が見つかったことがある。5年ほど前の話だが、当時、このニュースは世界を駆け巡った。

アポロンと半人半獣の精霊マルシュアスが、勝負に勝った方は負けた方に何をしてもよいという約束のうえで、楽器演奏の勝負をした話がギリシャ神話にある。勝負に勝ったアポロンは負けたマルシュアスの生皮をはいだ。生きたままの人間の皮をはぐ刑罰は古い時代、世界のあちこちにあった。

現代では、ナチのユダヤ人収容所で、所長の妻が人間の皮膚で本を装丁した。

革装丁の本には見事なものがある。グーテンベルクが制作した聖書は世界で48部しか残っていないが、そのうちの1冊が慶応大学図書館にある。1980年代に丸善がオークションで落札し、1990年代に慶応大学が購入した。価格は億の単位。革表紙である。表紙には鋲が打ってある。書見台の上に寝かせておいても、表紙の革が擦れないようにする工夫である。この聖書の中身はデジタル化され、本自体は骨董的価値のある稀覯本として保存されている。

そういえば、革装丁の外国書籍がさかんに輸入された時代があった。夏目漱石の『虞美人草』に、主人公の宗近君と知人の文学者・小野さんが本屋のショーウィンドーをのぞきこむ、次のようなシーンが出てくる。

      *

「はあだいぶ奇麗な本が陳列している。どうだい欲しいものがあるかい」
「さよう」と小野さんは腰を屈めながら金縁の眼鏡を硝子窓に擦寄せて余念なく見取れている。
 小羊の皮を柔らかに鞣して、木賊色の濃き真中に、水蓮を細く金に描いて、はなびらの尽くる萼のあたりから、直なる線を底まで通して、ぐるりと表紙の周囲を回らしたのがある。背を平らに截って、深き紅に金髪を一面に這せたような模様がある。堅き真鍮版に、どっかと布の目を潰して、重たき箔を楯形に置いたのがある。素気なきカーフの背を鈍色に緑に上下に区切って、双方に文字だけをちりばめたのがある。ざら目の紙に、品よく朱の書名を配置した扉も見える。
「みんな欲しそうだね」と宗近君は書物を見ずに、小野さんの眼鏡ばかり見ている。
「みんな新式な装釘だ。どうも」
「表紙だけ奇麗にして、内容の保険をつけた気なのかな」
「あなた方のほうと違って文学書だから」
「文学書だから上部を奇麗にする必要があるのかね。それじゃ文学者だから金縁の眼鏡を掛ける必要が起るんだね」

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革表紙の本の中でも、モロッコ革で装丁したものは愛書家の垂涎の的である。

図書館で栃折久美子『モロッコ革の本』(ちくま文庫)を開いてみたが、意外にも、モロッコ革そのものの話は出てこない。栃折のヨーロッパ装丁修行の思い出話である。つまりは「モロッコ革」は本の装丁の代名詞なのである。

瀬戸物屋は瀬戸焼だけでなく、いろんな陶磁器を売っている。同様に、モロッコ革もモロッコ以外の地で作られてきた。中近東やアフリカあたりからまずイタリアに輸入され、フランス経由でヨーロッパに広がった山羊のなめし革である。

貴田庄『西洋の書物工房』(朝日新聞出版、2014年)によると、フレンチ・モロッコ革(ケープ・モロッコ革)、レバント・モロッコ革(中東)、オアシス・モロッコ革(ニジェール・モロッコ革、ナイジェリア・モロッコ革)、ペルシャ・モロッコ革(ペルシャ・モロッコ革とはかならずしもペルシャで作られたモロッコ革を意味しない。一般的にインド産の山羊皮や羊皮からつくられたもの)など各種モロッコ革がある。

モロッコのフェズはなめし革の生産地である。メディナ(旧市街)の密集地になめし革の作業場がある。今では有名な観光スポットになっている。中世の面影をとどめるその作業場の様子は写真をご覧いただくとわかる。周囲の建物に皮が吊り下げられている。地面にはいくつもの壺がならんでいる。この壺で皮をなめし、染色する。写真で伝えきれないのはその悪臭である。といっても、言葉で伝えようとすると「言語を絶する」としか言いようがない。

なめし革の作業現場は隣接する革製品販売店が入ったビルのテラスから見おろすことができる。ここに案内されるツーリストは入り口で生のミントをもらい、それを鼻先にかざしてあたりの悪臭を誤魔化す。



そのなめし革を使ってバッグやモロッコ名物のバブーシュ(スリッパ)が作られる。モロッコ革を使った本の装丁技術はヨーロッパが本場である。表紙になるころにはどこの産であれ、モロッコ革からその悪臭は消え去っている。



9 アトラス山脈

101日。アトラス山脈に雪。ゆうべ降ったようだ」。「106日。昨日はひどくあつかった」。暑さは夜明けまで続いたとジョージ・オーウェルの『モロッコ日記』にある。高山には雪、平地には残暑。北アフリカのモロッコの秋である。私が旅した12月のアトラス山脈の稜線はご覧の通りだ。



ジョージ・オーウェルは1938年秋から1939年春にかけてモロッコに滞在した。その時の見聞を1939年に『マラケシュ』と題する短い文章にまとめた。

『モロッコ』(岩波新書)の著者、山田吉彦こときだみのるは1939年の春から夏にかけてモロッコを旅行した。オーウェルと入れ違いに、きだみのるがモロッコに入った。

きだみのるはフランスで勉強しただけに、当時のモロッコを植民地にしていたフランス国家とフランス人にたいして、どちらかという寛容な態度を示している。

歩道の街路樹の陰をはだしで歩く人。根元にぼんやりと座り込んでいる数人のモロッコ人。布で身体を隠したモロッコの女たち。汚れた手を差し出して物乞いする乞食。一方で、フランス人はそうした風景の中を半ズボン、開襟シャツ姿で、パリで見るよりもはるかに颯爽と歩く。洒落たフォードの自動車から身を飾ったフランス女が降りてきてカフェにはいる……だが、そうした観察をふまえて、生々しい植民地主義に対する批評をきだみのるは書かなかった。

オーウェルはというと、20万の住民のうち、いま身に着けている布切れの以上のものは所有してない人が2万人もいる……人は貧しく生き、簡単に死んでしまう。すべての植民帝国はこうした現実の上に築かれていると、オーウェルは帝国主義を持ちだしてくる。オーウェルがガゼルにパンをちぎって与えているのを見て、男が寄ってきて私にもそのパンを分けてもらえまいかと言う。オーウェルが与えたパンを男は大事そうに袋の中に入れた。男は市役所に雇われた労働者だという。茶色の肌の人が住む所では貧困は問題にされない。フランス人にとってのモロッコはオレンジ園であり、官吏の職である。イギリス人にとっては、駱駝、城、外人部隊、盗賊だ。セネガル人の傭兵部隊を眺めながら、彼らが持つ銃をこちらにむけるまで、あとどのくらい時間が残されているのだろうと、白人はおびえる――いかにもオーウェルらしい語り口だ。

さて、オーウェルがマラケシュから眺めた、雪をいただいたアトラス山脈の方に向かう。道路をアトラス山中へと登って行くと、途中に、モロッコ名物・アルガンオイルを売る店がいくつかある。その一つにガイドがツーリストを案内して、この店は女性が中心になって立ちあげた生産組合ですよ、と説明する。店内では女性たちがアルガンの種子の堅い殻を石で砕いて中身を取り出す作業をしている。これはそば屋の店先の手打ちそば作りと同じデモンストレーションである。アルガンオイルの販売量を考えると、手作業だけは間に合わないだろう。

きだみのる『モロッコ』には、次のような話が書かれている。モロッコ人はアルガンの実を駱駝に食べさせる。アルガンの実は駱駝の好物である。やがて消化されなかった種が駱駝の糞にまじって排出される。モロッコ人は糞とアルガンの種子を分別し、糞は乾燥させて燃料にする。アルガンの種は殻を割って中の核を絞って油を搾る。味はオリーブに似て、モロッコ人はこれを珍重する。

似たような話を思い出した。インドネシアにコピ・ルアクとよばれる高級コーヒーがある。コーヒーの実をジャコウネコ(ルアク)が食べ、その糞のなかからとり出した種子でコーヒーをたてる。

通はコピ・ルアクをおいしいと言って飲み、美容に良いと言ってアルガンオイルを顔に塗る。もっとも今ではアルガンオイルの生産量に見合うほどの駱駝はモロッコにいなので、別の製法を採用していると思われる。



アトラス山中には、近くに険しい渓谷があって観光名所になっている。流れの両側に切り立った高い岸壁がせまっている。観光地だから道路は舗装され、護岸工事もおこなわれている。ロバと子どもを連れた女性が歩いてきた。どこかでツーリスト相手にお土産でも売っての帰りだったのだろうか。





10 地下水路

アトラス山脈を越えてサハラ砂漠に向かって山の斜面を下って行く。

モロッコではアトラス山脈から海岸部にかけての地域に多くの都市が集まっている。それぞれ町は歴史的な(といってもその多くは部族史的な)由緒を秘めているが、イスラム文化史という面では、残された文化遺産はペルシア、イラク、トルコ、エジプトに一歩譲る。くわえてモロッコでは異教徒がモスクへ立ち入ることを禁じている。

じつはモロッコの一番魅力的な部分はその風景ではあるまいか。地中海と大西洋に面した美しい海岸線があり、緑豊かな田園地帯が広がる。アトラス山脈に分け入れば深山幽谷や、鋭くとがった岩山の尾根がある。その尾根は冬季には雪をかぶる。アトラス山脈を越えると、岩石砂漠が始まる。

そのせいかどうかは知らないが、アトラス山脈を越えて南斜面を下ったあたりにワルザザードという町があって、その周辺に映画の撮影所があったりする。ワルザザードはフランス統治下でフランス軍の駐留地になったことで発展した新しい町である。



ワルザザードから幹線道路をそれて脇道に入ると、山の斜面にへばりつくように家屋がたっているアイト・ベン・ハッドゥというカスバがある。中世にはキャラバン・サライだった集落である。このカスバはしばしばハリウッド映画のロケ地に使われてきたことから、撮影のたびにカスバのあちこちに手が加えられている。

『モロッコ流謫』の著者四方田犬彦氏が面白いことを言っている。アラビア、パレスチナ、サハラ砂漠の風景としてアイト・ベン・ハッドゥのカスバやその周辺の砂漠が使われてきた理由は、ハリウッドの映画人にとって重要なのは特定の砂漠ではなく、抽象化された沙漠だったからだ、と。ワルザザードは砂漠をめぐる西洋的なステレオタイプを世界に向かって発信し続けた。

そういうわけで、四方田氏はアイト・ベン・ハッドゥへは足を向けなかった。



現在のアイト・ベン・ハッドゥにはほとんど人が住んでいない。観光客相手のお土産屋が坂道にポツンポツンと開いているが、多くは無居住家屋である。

映画のセットに等しくなったアイト・ベン・ハッドゥという昔のカスバから幹線道路に戻って、アトラス山脈の山裾をサハラ砂漠の方向に進むと、地下水路の跡が見えてくる。アトラス山脈の雪解け水を地中のトンネルを通して集落へひきこむ仕掛けである。



イランのカナート、新彊ウィグル地区のカレーズなど同じ工夫である。モロッコではカッターラと読んでいる。水路に沿って土盛が並んでいる。それは水と一緒に流れてくる砂を水路からかき出すための竪穴の跡だ。もちろん、現在ではカッターラは利用されていない。もっぱら観光用の不思議な風景である。

写真と文: 花崎泰雄