1 砂丘

月の砂漠は作詩:加藤まさを 作曲:佐々木すぐるの童謡。星の砂漠とくればアントワーヌ・ド・サン=テグジュペリだろう。

モロッコを地中海側、あるいは大西洋側から南下して、東西にのびるアトラス山脈を越えると乾燥地帯が始まる。サハラ砂漠の北端である。

サハラ砂漠はアフリカの総面積の3分の1を占める。面積の9割弱が岩石砂漠で、われわれが「サハラ」と聞いて想像するこんもりとした砂丘の連なり――砂の砂漠はその1割強にすぎない。

ツーリストたちはこの砂丘の戯れにあこがれてモロッコにやってくる。砂漠の周縁の町から4輪駆動車――たいていはトヨタのランドクルーザー――に乗って、砂漠体験の基地になるホテルにたどり着く。ホテルは荒野の中にポツンと建っている。

ホテルの敷地には明かりがともっているが、周辺は真っ暗闇だ。私が泊まったその夜はあいにくと半月が出ていて、星空撮影には不向きな日だった。ホテルの明かりも邪魔になった。ホテルから離れた砂漠に出ればよかったのだが、不案内な闇の岩石砂漠は少々おっかない。

そういうわけで、サハラの星空というにはさびしい写真になってしまった。

「機上にあって、夜があまりにも美しいと、人は思わずわれを忘れる。人はもう操縦はしない。機体はすこしずつ左へ傾いてゆく」とサン=テグジュペリは書いている。

サン=テグジュペリは、筆はたったけれど、飛行機操縦の腕前はそれほどではなかったのかもしれない。夜間飛行をする操縦士が星空に見とれて我を忘れ、ついでに操縦まで放棄するというのはまずいだろう。GPSや自動操縦装置などのなかった時代だから、なおさらである。

ある時、彼は操縦していた飛行機をサハラ砂漠に墜落させてしまう。同僚とともに3日間も砂漠を彷徨したすえ、運よく遊牧民に助けられた。その体験を『人間の土地』(堀口大學訳、新潮文庫)に書いている。

「砂漠は、大理石のように平らだ。砂漠は、日中、陰を作らないが、夜はまた、ぼくらを裸で、かぜにさらす。身を寄せる木一本、垣根一つ、石ころ一つない」

「ぼくらには、汗をかく権利はない。それどころか、ぼくらには待つ権利さえないのだ。この涼しさは湿度十八パーセントによる涼しさでしかない。この風は、砂漠から吹いてくる。そしてこの偽りの愛撫の下で、ぼくらの血液は蒸発してゆく」

「ああ、水!……そなたは世界にあるかぎり、最大の財宝だ」

ツーリストたちはサン=テグジュペリのサハラ遭難の疑似体験をするために、夕方、ラクダの背に乗って、駱駝ひきに案内されてサハラに出かける。砂漠にテントを張って一夜を明かす。だが、砂漠が砂漠らしい暑さになる前にホテルに帰ってくる。

あるいは、午前6時ごろからラクダの背にまたがって、ホテル近くの砂丘に登り、サハラの日の出を待つ。サハラに来るツーリストの数はトップが中国人と日本人、2番目がフランス人とドイツ人、日の出を見たがるのは中国人と日本人だ、と駱駝ひきが教えてくれた。



サハラの日の出は初冬のモロッコでは午前8時ごろ。ツーリストは日の出を待ちながら砂丘ではしゃぎまわり、駱駝ひきはその間やわらかな砂丘にマットを敷いて仮眠をとる。

やがて空と砂丘がほんのり紅色に染まり、ついに太陽が現れる。それを見届けて、ツーリストは駱駝ひきにつれられてホテルにかえる。その砂丘の駱駝道には、無数のラクダの足跡と、まるっこい糞が点々と散らばっている。

 

サン=テグジュペリの飛行機が墜落したのはリビアのサハラ砂漠で、モロッコの砂漠ではなかった。とはいえ、このさい、サハラ砂漠をリビア部分、モロッコ部分と区分するのもあじけないだろう。サハラは「一衣帯砂」。リビアの砂漠はモロッコの砂漠と切れ目なく続いている。



2 光塔

モロッコの首都ラバトの夜明けである。あかね色になり始めた東の空を背に、黒々とした巨大な角柱が、逆光の中に屹立している。映画『2001年宇宙の旅』に出てきたあの不思議な物体・モノリスを思い出させる。ラバトの道標「ハッサンの塔」である。



8世紀までに北アフリカの西の果てまで拡大したイスラム勢力は、ジブラルタル海峡を渡ってイベリア半島に侵入する。この頃からイスラムとカトリックの軍勢はイベリア半島で、押したり引いたりのせめぎ合いを、グラナダにあったイスラム王国が壊滅する15世紀末まで、延々と続けた。キリスト教側はこの一連の対イスラム戦争をレコンキスタとよんでいる。

イスラム教徒側にとっては、12世紀末の大軍を率いてイベリア半島に渡り、キリスト教軍に大勝したムワヒッド朝(マラケシュを本拠としたベルベル族の王朝)のヤクブ・エル=マンスールは英雄の1人である。そのエル=マンスールが建築を命じたのがハッサンの塔であった。

エル=マンスールは戦勝記念としてイスラム世界最大のモスクを作るよう命じた。だが、建設工事半ばで彼は死に、彼の遺志を引き継ぐものはいなかった。残ったものは、本来の計画では88メートルに達するはずだったが実際には44メートルまでしか建設されなかったハッサンの塔と、巨大モスクを支えるはずだった無数の石柱の列だけである。

米国で初めて女性としてピュリッツァー賞を獲得した米国人の作家イーディス・ウォートンは、旅行記 In Morocco 1920)で、エル=マンスールは彼が支配する3つの都であるマラケシュ、ラバト、セビリアに世界がまだ見たことのないような美しい塔を建てようとした、と書いている。だが結局、セビリアはレコンキスタによってカトリック教徒が支配する街になり、彼が建築させたミナレットは先端部分が改築されて、キリスト教の鐘楼――今日のヒラルダの塔に姿をかえた。ラバトの塔は未完のまま放置された。唯一、マラケシュの塔だけが完成された様式美を伝えている。

       
      (写真は左からマラケシュのクトゥービアのミナレット、その窓のスピーカー、セビリアのヒラルダの鐘楼)

1939年にモロッコに旅し、1951年に『モロッコ』を出版した山田吉彦(きだみのる)もハッサンの塔を眺めて感慨にふけっている。「この王は単にモロッコ全土を平定したばかりではなく、北はジブラルタル海峡を渡ってイスパニアに侵入し、1195年イスパニア軍をアルコスで敗ったときには捕虜5万、戦利品は天幕5万、駱駝8万、騾馬10万、甲胄7万着という戦史上空前の大勝を得ている。この様なモロッコ回教徒の栄華の時代に想いを馳せて、いま眼前、熱気を孕む光の中でこの荒れはてた塔が寂寞な周囲の中に立って影を地に印しつけているのを見ると、何かしらの果敢なさに誘われる」

ふり返る歴史や伝承は感傷を誘う。バベルの塔は人間の自己顕示欲とその崩壊の物語であり、ニューヨークの世界貿易センターの二本の超高層ビルは、キリスト教徒の富豪たちの自負心の具象化であり、イスラム教徒のキリスト教世界の支配に対する攻撃によって崩壊した。

エル=マンスールが建築を命じたマラケシュ、ラバト、セビリアのイスラムの塔・ミナレットは、日本では光塔と翻訳されている。アラビア語のナール(火)、ヌール(光)から生じた語であるとされている。ミナレットの形には地域色があり、マグレブでは角柱形、トルコでは円柱形が主流だ。エジプトには円柱と角柱の混合ミナレットがある。

そのミナレットの上から、礼拝の呼びかけ「アザーン」が朗々と流れる。昔は肉声だったが、現在は録音したものをラウドスピーカーで流す。注意深く見るとクトゥービアのミナレットの窓からスピーカーがのぞいている。1日5回のアザーンの文句はほぼ同一だが、早朝のアザーンだけには「礼拝は睡眠にまさる」という1行が挿入される。

すべてのイスラム教徒が睡眠を削って神に礼拝することを至上の義務としてきたかというと、そうでもないらしい。

ある人物が若かったころの話。ある夜父のもとに侍り夜を徹して眠らず、聖なるコーランを膝にしていた。ところが周囲の人はみんな寝入っていたので、その人は父に向って言った。「かほどの人たちのうち1人として頭をもたげてドーガーネ(2度膝を屈して行う祈り)を捧げるものもない。寝ているのでなく、全く死んでいるようでありまする!」と。曰く、「息子よ! かように他人の陰口をきこうより、お前もまた寝ていたほうがよかったのだが!」と。サアディー『薔薇園――イラン中世の教養物語』(蒲生礼一訳、東洋文庫、第2章の物語7)に出てくる。

今回のモロッコの旅(モロッコに足を踏み入れただけだが、格好をつけてタイトルはマグレブとした)で、明け方のアザーンを聞いたのは田舎の町の旧市街の宿で1回だけ。あとは都会の新市街のコンクリート製のホテルで熟睡していたので、アザーンを聞くことはなかった。



3 王様

教会、モスク、寺院が壮麗さを競うのはそれによって宗教的権威を民衆に示すためである。カサブランカのハッサン2世モスクとそのミナレットは、宗教的権威であると同時に、世俗の政治権力の象徴でもある。



このモスクはハッサン2世(在位1961-1999年)の生誕60年を記念するために3年がかりで建設が進められ、1993年に完成した。カサブランカの大西洋を眺める海岸線ぎりぎりの敷地に建てられた。大西洋の波音を聴きながらコーランを詠唱できるイスラム世界では珍しい立地である。

内部には25千人が同時に祈りを捧げることが可能な大ホールがある。世界最大のモスクを目指したが、現在ではメッカ、メディナに次ぐ世界3番目の巨大モスクである。ミナレットの高さは210メートル。東京都庁の243メートルよりちょっと低い。ミナレットは現在でも世界で最も高いミナレットである。

モスクを囲んでゆったりとした広場があり、広場から海岸の防波堤まで降りることができる。この塔を見に来たのは日曜日の午後で、大勢の市民が集まって大西洋の波を眺めていた。このシリーズのタイトルに使っているのがその時の写真である。

ハッサン2世は現国王モハメッド6世の父親である。

首都ラバトの「ハッサンの塔」と同じ敷地に「モハメッド5世廟」がある。モハメッド5世は現国王モハメッド6世の祖父であり、ハッサン2世の父である。モハメッド5世は1927年から1953年までと1955年から1961年まで国王(スルタン)だった。王位の期間が途切れたのは、宗主国フランスがモハメッド5世の独立志向を嫌って廃位したことがあったからである。

1961年にモハメッド5世が死去。あとを継いだハッサン2世が1962年から霊廟の建設を始め1971年に完成した。霊廟には現在モハメッド5世と彼の2人の息子であるハッサン2世とアブダラ王子が眠っている。霊廟は着飾った儀仗兵によって守られている。霊廟の内部は金色に飾られ、職人が恭しく壁の装飾を磨きあげている。



モロッコを旅すると、ホテルやレストランなどで現国王モハメッド6世の肖像写真を見ることになる。タイでもプミポン国王時代、公共施設その他の場所に国王の肖像写真が掲げられていた。家庭にもあった。いまのタイ国王の時代も同じなのだろうか。しばらくタイに行っていないのでよくわからない。

1960年代の中ごろのハッサン2世の時代のモロッコでフィールドワークを行い Islam Observed (邦訳『二つのイスラム社会――モロッコとインドネシア』岩波新書)を書いたクリフォード・ギアツは、スルタン体制の下では人間神格化が行なわれるとモロッコの王室を説明した――理論的には国家の基本をイスラムの聖典に置きながら、実際には生身の聖者に崇拝を集中させた。このからくりは「天皇現人神」の歴史を持つ日本人には、いまさらくどくど説明する必要もあるまい。

現代モロッコは立憲君主制である。国王がいて、議会があり、選挙で議員が選ばれるが、国王の権限は強い。国王が軍の最高司令官で内閣や議会は、軍については蚊帳の外に置かれている。昔の日本の「天皇の統帥権」に似ている。

モロッコの王制について白谷望は、モロッコの王朝(アラウィ―朝)はマックス・ウェーバーのいう支配の3類型――伝統的支配、カリスマ的支配、合法的支配のすべての面を持っている、という(白谷望『君主制と民主主義――モロッコの政治とイスラームの現代』風響社、2015年)。モロッコの王は16世紀に始まったアラウィ―王朝の子孫である。現代の国王は対外的にはマリク(王)と称しているが、国内ではアミール・アル=ムウミニーン(信徒たちの長、即ちイスラムの主権者カリフ)を名乗っている。さらに、アラウィ―朝の歴代国王は、アラウィ―家は預言者ムハンマドの血をひいていると主張してきた。一方で複数政党による選挙と議会主義を採用している。

白谷の『君主制と民主制』によると、君主制を採っているアラブ8カ国中、モロッコ王国の1人あたりGDPは最下位である。石油を産出しないモロッコの1人当たりGDP3000ドル(2017年)。サウジアラビアは23000ドル。産油国の王室は石油がもたらす収入を使って国民の歓心を買うことができるが、モロッコ王室にはその余裕がない。

伝統的支配とカリスマ的支配、合法的支配の3つの要素のバランスを取りながらモロッコは近代化と王制の維持につてとめてきたが、時には破綻もあった。ハッサン2世の時代、1971年と1972年に国王暗殺未遂事件が起きている。2011年の民主化運動「アラブの春」にさいして、モハメッド6世は民主化を要求する勢力に配慮して憲法改正のための起草委員会を設置した。閣僚の解任権を国王から首相に移すなど国王の権限を削減し、首相の権限を強化する改正案を国民投票で決定した。民主化運動は国王の権限の縮小を求める。巨大なモスクや華麗な霊廟、遍在する国王の肖像写真は、こうした民主化の流れに対抗する伝統的支配やカリスマ的支配の補強装置である。

写真と文: 花崎泰雄