1 アスワンのダム

A lot of water has flowed under the bridge since then. 

あれからずいぶん歳月がたった(いろんなことがあった)という成句で、映画『カサブランカ』では、A lot of water under the bridgeの短縮形で使われた。

女が言う。It's been a long time.
男が言う。A lot of water under the bridge.

翻訳のサスペンス小説で「あれから沢山の水が橋の下を流れた」と訳されているのを見た覚えがある。大学院生あたりの下訳がそのまま残ってしまったのだろう。それはさておき……。

外出もままならぬ日々。アーカイブで過去の写真を見ていたら、1990年のナイル旅行の写真に目がとまった。フィルム・カメラのニコンF3――高かったけれどお気に入りのカメラだった――で撮ったリバーサル・フィルムのコダック・エクタクロームをミノルタのフィルム・スキャナーでデジタル化したファイルである。ニコンF3はジャカルタに持参して熱帯の湿気でカビだらけになり、ミノルタのスキャナーはミノルタという会社が存在しなくなって、ウィンドウズ98用のスキャナーのファームウェア/ドライバーの更新が途絶え、ウィンドウズ10時代の今では廃品と化した。

1990年当時エジプトではムバラク氏が大統領だった。そのムバラク氏も失脚のすえ先ごろ病死。民主化運動でムバラク氏に代わって大統領になったムルシ氏はたちまち軍のクーデタで拘束されて裁判中に死去。エジプトはクーデタの黒幕シーシ大統領の下で再び軍政にもどった。

エジプトへ出かけてナイルの流れと岸辺の古代遺跡を見たのは1990年のクリスマスごろだった。1991117日の湾岸戦争開始の数週間前だった。イラクに対してクウェートからの撤退を迫る国連安保理の猶予期間が1991115日までだった。つまり、それまでの間に戦争が始まることはないだろうとエジプト国営旅行社・ミスルトラベルの東京店でスケジュールを組んでもらった。

ナイル旅行から帰ってしばらくすると湾岸戦争が始まった。当時の金で1兆円を超す戦費を日本はアメリカにぼったくられた。アメリカは湾岸戦争で有効期限が迫っている武器弾薬を使用し、日本からの拠出金で新しい武器弾薬を買った、と言われている。

湾岸戦争時のアメリカ大統領はブッシュ(父)だった。彼は戦争に勝利した大統領にもかかわらず、1992年の大統領選挙で民主党のクリントン氏に敗北した。そのブッシュ氏も2018年に鬼籍に入っている。

アスワン・ハイ・ダム南端のスーダン国境近くにアブ・シンベル神殿跡がある。1990年の旅は、そこからナイルを北に下った。1990年当時、アブ・シンベル周辺には飛行場と神殿しかなかった。神殿にやってくる人は午前の飛行機で到着、午後の便で神殿を後にした。最近では観光用のホテルがいくつも営業している。



アブ・シンベルの目の前にアスワン・ハイ・ダム(ナセル湖)が広がっている。1990年当時、湾岸危機のせいもあってか、観光客は少なかった。30年後の今、Covid-19という乱気流のせいで、日本とエジプトを結ぶエジプト航空は運行を停止している。国内線のアブ・シンベル空港が閉じられているのか、開いているのか、定かではない。

エジプトはイギリスの統治下の20世紀初め、アスワンの町のすぐ上流にアスワン・ダムを完成させた。現在、アスワン・ロウ・ダムとか、アスワン・オールド・ダムと呼ばれている。そのさらに上流に大規模な人造湖を造ろうとしたのがナセル大統領だ。はじめはアメリカも資金援助を約束していた。だが、ナセルの左寄り路線を嫌ったダレス国務長官の意向で、アメリカは約束を翻して資金援助を反故にした。そこでソ連のフルシチョフ氏が協力を申し出て、エジプトを社会主義陣営に引き入れようとした。そうしたエジプトのソ連接近もあって、故ムバラク大統領もソ連で空軍将校としての高級軍事訓練を受けていた。

インドのネルー、中国の周恩来、インドネシアのスカルノらと並んで、ナセルは1955年のバンドン会議で非同盟中立主義の旗手になった。米ソから距離を置いて民族主義・反植民地主義を掲げるバンドン会議は米国に敵対するものとみなされた。

"You're either with us, or against us" 9.11事件のあと、当時のブッシュ(子)大統領が言放ったこの言葉は、アメリカ人の傲慢さの象徴である。アメリカは過去、ホーチミンからの対米接近の希望を無視することで、彼を社会主義陣営に接近させた。アメリカの泥沼となったベトナム戦争の起点はここにあった。国防総省秘密報告・ペンタゴン・ペーパーズにそう書いてある。

アメリカはイスラエルと中東の安定のために、ナセルのエジプトを遠ざけたことを後に反省し、エジプトとよりを戻した。その後は、エジプトの軍政支持一本やり路線を貫いた。アフガン戦争では戦場で捕虜にしたゲリラ兵士を、CIAが拷問テクニックにたけたエジプトの秘密警察に託して尋問を委ねた。

さて、1990年の旅行記の始まりである。長距離旅行がままならない今、armchair travelerとなって、時間と空間を超えて、30年前のナイル紀行をお楽しみあれ。



2 アブ・シンベル

アブ・シンベルはアスワン・ダムすぐ北隣の町・アスワンからナイル川沿いに300キロほど、スーダン国境近くのアスワン・ハイ・ダムの岸辺に立っている。今では観光バスがアスワンからアブ・シンベルまで走っている。30年前には飛行機しかなかった。私はカイロからアブ・シンベルまで飛び、アブ・シンベルからアスワンまで飛行機で帰った。

アブ・シンベルはアスワン・ハイ・ダム建設によって水没の危機に迫られていた。歴史的文化財を守るために、ユネスコが音頭を取って、石造りの神殿を千個以上のブロックに切り分けて、70メートル上の丘の上に引き上げ、再び積木細工の要領で復元した。ジャン=ルイ・ブルクハルトやジョヴァンニ・ベルツォーニ、それにギュスターヴ・フローベールが驚嘆したもともとの神殿があった場所は、いまは湖中に没している。



アブ・シンベルには二つの神殿がある。ラムセス2世の大神殿と、王妃ネフェルトアリの小神殿である。大神殿の主神はアムン=ラーという神様である。その主神は神殿内部に隠棲している。大神殿の入り口には4つの巨大なラムセス2世の石像がおかれ、人々は主神よりも先にこのラムセス像を目の当たりにする。わかりやすくいえば、アブ・シンベルはラムセス2世が自己の権勢を誇示するために造った記念構造物である。

大神殿の横手の壁にラムセス2世がヒッタイト王の娘と結婚したいきさつを記す石碑が残っているそうだ。「そうだ」と書いたのは、1990年にアブ・シンベルを見に行った時、見落としていたからだ。それはそうとして、ラムセス2世がヒッタイトの王の娘と結婚したのは、なぜかというと――。

ニューヨーク市の国連本部に、ラムセス2世とヒッタイト王がカデシュの戦争のあと結んだ条約が刻み込まれた石碑のレプリカが飾られている。世界史最古の平和条約である。だから国連本部に飾られている。紀元前1275年にラムセス2世がヒッタイトの領地内のカデシュ(現在のシリア内にある)に攻め込んだ。エジプト側の古文書では、ラムセス2世は連戦連勝の勇猛な王として記録されているが、最近の考古学者の研究では、カデシュの戦いでラムセス2世は窮地に追い込まれ、エジプトに軍を引き上げたということになっている。

ラムセスがカデシュに軍勢を進める途中で捕虜にした2人のベドウィン戦士から、カデシュの守りは手薄だという情報を聞き出した。勢い込んだラムセス2世がカデシュに攻め込んだところ、ヒッタイト軍の待ち伏せにあってしまった。2人のベドウィンはヒッタイトが放った諜報員で、偽情報を流してラムセスの軍をおびき寄せたのだ。

ラムセス2世がヒッタイト王ムワタリに事実上の敗北を喫した後、ムワタリの跡を継いだハットゥシリ3世と条約を締結、ハットゥシリ3世の娘と結婚した。アッシリア帝国が力を蓄えてきたので、アッシリア帝国に共同して対抗すためにエジプトとヒッタイトは手を結ばざるを得なくなった。カデシュの石碑は世界最古の平和条約の碑文であり、バランス・オブ・パワーや同盟政策、情報操作や政略結婚という古典的外交術の祖型でもある。「合従連衡」政策を生んだ中国の戦国時代に先立つこと約千年である。

国連本部にあるカデシュ条約の碑文レプリカ(UN photo/Teddy Chen)は1970年にトルコが寄贈したものだ。ヒッタイト側が残した楔形文字のこのカデシュの石碑は、現在のトルコの首都アンカラから東に150キロほど行ったところにあるボガズキョイの、かつてのヒッタイト王国の都の遺跡で発見された。1974年に国連本部を見学したが、このレプリカは見逃した。後にイスタンブールを訪れた際、考古学博物館で本物を見ることができた。といっても、石碑を見ただけで、中身を理解したわけではなかったが。

ラムセス2世は妻妾多数、百人を超える子どもをつくった。当時としては大柄な人物で身長は1メートル80センチを超えていたのではないかといわれている。ラムセス2世のミイラはカイロの考古学博物館で保存されている。ミイラ状態での身長は170センチ以上。イワシの丸干しや鰹節も乾燥すると生の時よりは縮むそうだから、人間のミイラもそんなものだろう。

アブ・シンベル神殿の正面にある4体のラムセス2世の座像は高さが20メートもある。高さでいえば、アフガニスタンのバーミヤンの崖に彫られていた世界最大の石仏は50メート以上あった。タリバンが爆薬を仕掛けてぶっ壊してしまった。その破片を拾い集めて何とか復元できないかと、世界中の研究者が知恵を絞っている。歴史は、創る人・壊す人・保つ人、ヒンドゥー教の三神、ブラフマー、シヴァ、ヴィシュヌが入り乱れる世界である。

神殿正面のラムセス2世像のうち、向かって左から2つ目の像は上半身が欠けている。爆破ではなく、過去に地震があって像が崩れたのだそうだ。2番目と3番目の像の間を通ってゆくと、神殿正面に内部への入り口がある。

神殿内部は、薄暗かった。当時のフィルムの感度ではこの程度にしか映らなかった。加えて薄明かりの中で見た遺跡内部の様子については、30年前のこともあって記憶も薄れている。ラムセス2世が獅子奮迅の戦いをする戦闘場面のレリーフなどが壁にあったらしいのだが、記憶にない。文献によ

ると入り口すぐに列柱が立った広間があり、狭い列柱室、さらに前室、至聖所へとつながる。2月と10月には朝の光が入り口から列柱室を抜けて神殿最奥部の至聖所にとどく。この手の太陽光のテクニックは、マヤやインカの遺跡で見聞したことがある。古代エジプトの発想が中南米に持ち込まれたのだろうか。それとも人間は違う時代に、違う場所で、同じようなことを思いつくのであろうか。

神殿内部からの出口は正面入り口の反対側の裏口になる。そこを出て神殿全体が見渡せるところまで離れたとき、思わぬ発見があった。神殿の復元にあたって、考古学者や土木技術者は、まず、巨大なコンクリート製のドームを造り、その表面に、切断して運んだ神殿の石を丁寧に張り付けていたのである。現代のアブ・シンベルの大神殿はコンクリートと石を使った張籠構造だったのだ。



3 ヌビア

アスワン・ハイ・ダムはエジプト(正式にはエジプト・アラブ共和国)とスーダン共和国にまたがっている。総貯水量で世界の巨大ダムの五指のうちに入る。ダムの部分の300キロ強がエジプト領内にあり、160キロほどがスーダンの領内にある。

ダム建設の際のエジプト・スーダンの協定にしたがって、年間の総取水量を700億トン強と決め、うち75パーセントをエジプトが、残り25パーセントをスーダンが利用している。

アスワン・ハイ・ダムはナイル川をせき止めてできたものである。古代のスーダンからエジプトへの物流はナイル川の水運に頼っていたので、ナイル川沿いに集落があり、古代遺跡も数多くあった。ダム建設で湖底に沈むことになる集落に暮らしていた人々は移転を余儀なくされた。その数、エジプト側だけで50万人にのぼった。

アブ・シンベル神殿のように奇跡的に移転された遺跡は別として、多くのヌビア遺跡が湖底に沈んだ。そう、このあたり、スーダン北部とエジプト南部はヌビアと呼ばれていた。ユネスコの世界遺産でヌビア遺跡という場合は、アブ・シンベルから下流のアスワンの手前のアスワン・オールド・ダムのフィラエ遺跡などが含まれる。

オールド・ダムはエジプトがまだイギリスの支配下にあった1920年代に、イギリス人技師らが建設した。年ごとにオールド・ダムの水量が増し、数回にわたって堰堤を高くした。



オールド・ダムの水位が高まるとダム内のいくつかの島が水没した。フィラエ島にあった遺跡も半分が水につかる状態になっていた。ヌビア遺跡保存の一環として、フィラエ島のイシス神殿も解体、別の島に移築された。移築先はアギルキア島。現在ではこのアギルキア島が完全水没したフィラエ島の名を受け継ぎ、フィラエ島とよばれている。

フィラエ島のイシス神殿は比較的新しく――新しくといっても紀元前3世紀の建設で、エジプトがプトレマイオス朝の時代に入ったころである。プトレマイオス朝はアレクサンダーの後継者たちが建設したヘレニズム国家の一つであり、エジプトの地元民からすれば、ギリシャ系による異民族支配である。例のクレオパトラの時代に至ってローマとの争いに敗れて王朝は滅亡した。



フィラエ島のイシス神殿は古代エジプト宗教最後の神殿といわれ、紀元6世紀に刻まれたといわれる最後の聖刻文字・ヒエログリフが残っている。フィラエ島におけるイシス神崇拝は紀元前7世紀ごろに始まったらしいが、その遺構はない。現存する遺構の多くはプトレマイオス朝時代の紀元前3世紀からローマ帝国時代の紀元3世紀ころのものとされる。

プトレマイオス朝滅亡のあと、エジプトがローマ帝国の支配下に入ると、ローマ帝国がキリスト教を受容し、紀元6世紀にはローマ皇帝ユスティニアヌスがフィラエ島の神殿を閉鎖してしまった。古代エジプトの神官を追放し、神殿を破壊、一部をキリスト教会にした。



国家の興亡と宗教がシンクロナイズすることの多い地域ではこれは珍しいことではない。メキシコシティーはアステカ帝国の都のあとに建設された、征服者のスペイン人はアステカの神殿や宮殿を破壊し、その石でカトリックの教会や植民者の役所を建設した。

イスタンブールのアヤ・ソフィア博物館は、もともと東ローマ帝国のキリスト教寺院で、その名をハギア・ソフィアといったが、オスマン・トルコが東ローマ帝国を滅ぼし、ここにスルタンの都を定めたのち、イスラム教のモスクに変え、名前をアヤ・ソフィアとした。20世紀になってイスラム教を後進性の表れだとして毛嫌いしたケマル・アタテュルクがトルコの実権を握ると、アヤ・ソフィアを無宗教の博物館にしてしまった。アヤ・ソフィアではキリスト教時代の壁画とイスラムのモスクの装飾を同時に眺めることができて、博物館の名にふさわしい。この博物館アヤ・ソフィアを再びイスラム教のモスクに戻そうという動きが顕著になっているという新聞報道を読んだ。エルドアン大統領のイスラム教徒へのすり寄り作戦だという。

話がそれてしまった。



4 アスワ

アスワンの町はナイル右岸にある。川沿いに散歩していると河川敷に人が集まっていた。河川敷を掘っているように見えた。建設機械の類は持ち込まれていない。手掘りで何をしようとしているのだろうか。掘った後に何が出るのだろうか。のんびりした工事風景だった。

「アスワンは山紫水明」の、とキーボードをたたいて、はっと気がついた。ナイル下流のカイロあたりの濁った流れと比べると、アスワンの流れは清く美しい。ナイルの側の中にはいくつかの川中島があって、島や岸辺の緑の木陰がナイルの青い水面に映えている。ただ、その木陰が途絶えるあたりは、むき出しの黄土があらわで、水明ではあるが、山紫とは言いにくい。

アスワンはエジプト南部では最大の町だ。町のすぐ南にはアスワン・オールド・ダムがあり、その南にはナセル湖ことアスワン・ハイ・ダムがある。そこには水と乾いた大地と遺跡と青い空があるが、大勢の人間が暮らす現代の町は存在しない。

大雑把な言い方をすると、ナイル川は砂漠の中を流れている。ナイル川の東側には東方砂漠があり、西側にはサハラ砂漠の一部である西方砂漠が広がっている。緑地はナイル川の周辺とカイロからアレキサンドリアにかけてのデルタ地帯に限られる。砂漠の中のオアシスにも小さな緑地があるにはあるが。



そういうわけで、ナイルに臨むアスワンは風光明媚な保養地としてことのほか愛されている。アスワンの町があるナイル川の右岸から左岸にわたって高台から眺めると、アスワンの美しい風景が一望できる。たしかに――小舟で左岸にわたり、アガ・ハーン3世の霊廟が立つ高台に登り、そこから眺めた風景がこの写真である。小さな白い帆かけ舟が青い川面をすいすいと走る。海の碧にも染まぬ白鳥の歌を思い出させる。ファルーカあるいはフェラッカという伝統的なナイル川の乗り物である。

アガ・ハーン3世とは、イスラム教ホジャ派のイマームで20世紀の中ごろ死んだ。大金持ちだった。彼が大金持ちだった理由はイスラム事典には書かれていない。事典には次のようなことが書かれている。ホジャ派はニザール派に属し、ニザール派はイスマイル派の一派であり、イスマイル派はシーア派の分派であるそうだ。

彼はこの霊廟の近くに別荘を建てた。冬の保養地としてアスワンを愛したそうだ。アガ・ハーン3世の死後、彼の4番目で最後の妻が霊廟を建てた。

アスワンの町の丘の斜面に建つホテルに帰って、テラスで夕食前のお茶を飲んで一息入れた。上空の夕焼けがナイルの川面を染め、ファルーカが岸へと急いでいた。





5 アスワンのスーク

いまではもっと小ぎれいになっているだろうが、30年ほど前のアスワンのスークはこんなものだった。



名高い保養地であり国際的な観光地でもある上エジプトのアスワンのスークも昔は戦争で荒廃したアフガニスタンやイラク、それにシリアの町のスークのようなたたずまいだった。

記憶をたどれば、スークでは日常雑貨や、香辛料、穀物、食料品、生きた鳩などを売っていた。鳩はエジプトの有名なハト料理の材料だ。東南アジアの市場のニワトリと同じように、消費者は生きたままで買って帰り、自宅で調理する。

 

ちなみにハト料理はカイロの名店で食べたが、感銘は受けなかった。雑貨屋の主が客の店先で新聞を読んでいた。「言論こそが人間を政治的存在にする」とハンナ・アレントが言っている。当時エジプトはホスニ・ムバラク大統領の強権政治の下にあった。ムバラク支配の10年目だった。そのあと、2011年にアラブの春と呼ばれた連鎖的な民主化運動によって、ムバラク政権が倒れるまで、支配はさらに20年続いた。

ムハンマド・ムルシが選挙で大統領に選ばれたが、1年ほどで軍のクーデタによって彼は逮捕された。彼の政策がイスラム寄りであることが世俗派に嫌われ、それに乗じた軍が実権を握って、エジプトのアラブの春は暗転した。

何千年にもわたるナイル河畔の攻防の歴史の中のほんの一コマである。



6 クルーズ

アスワンからルクソールまではざっと200キロ。道路も鉄道もナイル沿いにつくられているので、陸路でも水路でも距離は変わらない。ルクソールにはルクソール神殿、カルナック神殿、王家の谷などの遺跡が集中している。紀元前20世紀から同14世紀にかけての古代エジプトの首都テーベである。高等学校の世界史の教科書にギリシャのテーベとエジプトのテーベが出てきて紛らわしかった記憶がある。

埃っぽい陸路を避けて、アスワンからルクソールまで船でナイルを下った。陸路を行けば3時間から4時間の距離を、34日をかけてどんぶらこっこと船でくだった。時間がかかったのはあちこちで船を降りて、遺跡をのんびり見て回ったのと、夜になると船が航行をやめて停泊するからだ。

さて、荷物をまとめて、アスワンのホテルから船に移り、乗船手続きを済ませて広間にはいると、ダンサーが体をゆすって中東名物のあの踊りで乗船を歓迎してくれた。

ベリーダンスはエジプト風とトルコ風の2つが代表的だ。その踊りの起源については定説がない。エジプトでは、エジプトがオスマントルコの支配下に入る以前からベリーダンスがあり、トルコがそれをまねたのだ、という。

エジプトもトルコもイスラム人口の多い国だが、サウジアラビアやイランに比べれば、イスラムの縛りは緩やかである。イランではホメイニ以後、ベリーダンスはおろか、ごく普通のダンスも禁じられている。BBCのアーカイブを見ると、2014年に、6人のイラン人が道路や屋上で踊るビデオを発表したところ、裁判にかけられ1年の懲役と91回のむち打ちの刑を言い渡されている。3年の執行猶予つきだった。6人のイラン人ダンサーはきっちり着服していた。ベリーダンサーの衣装だったらどうなっていたことだろうか。

エジプトには、ベリーダンスの踊り手の衣装は、頭から黒い衣装をかぶった女性よりもまだましだ、というイスラム聖職者もいるようだが、先のことはわからない。トルコはエルドアン政権の下でイスラム回帰が進められているし、エジプトがこれから先どうなるのかもわからない。ベリーダンスはニューヨークやロンドンのエジプト料理店でしか見ることできないショーになるかもしれない。



船中でサウジアラビアの病院に勤務し、休暇で故郷のカイロに帰省したついでに、老いた母親を連れてナイル・クルーズに来たという中年のエジプト人の医師夫妻と、カナダのトロントの放送局の記者で、湾岸戦争を目前にした時期なら、人が少なくゆったりとしたエジプト旅行ができるだろうと、新婚旅行に来た若いカップルと知り合った。知らない同士が気軽に話し合えるのも、呉越同舟の船旅の功徳である。



7 ゆるゆると

エジプト国内ではナイルの流れはきわめて穏やかである。アスワンでのナイル川の河底は標高80メートルほどで、900キロ下流のカイロでの河底の標高は10メートル弱である。緩やかな勾配のナイルをクルーズ船は静々と進む。

アスワンからルクソールまでは200キロほどの距離である。200キロを34日でくだるので、一日当たりの移動距離は60キロほどである。アスワンを出ると船はコム・オンボ、エドフ、エスナという遺跡に立ち寄る。それ以外の昼間の時間はゆるゆるとナイル川を下り、日没後は、どこか適当な場所に停泊して、日の出を待つ。

クルーズ船はアスワンを出たのち、コム・オンボ、エドフ、エスナの遺跡に立ち寄った。いずれもエジプトの遺跡の中ではマイナーな部類である。

ということで、細かな講釈は抜きにしてコム・オンボ、エドフ、エスナの写真を並べる。上から2枚がコム・オンボの全景と内部の建物跡、エドフの壁面、エスナで見た遺跡より印象が深かった田舎町の風景、である。











8 テーベのネクロポリス

クルーズ船がルクソールの船着き場に到着したあともなおクルーズ船の遠足が続いた。ガイドがルクソール対岸のテーベのネクロポリス(王家の谷)や、ルクソール神殿、カルナック神殿に案内してくれた。

今回はテーベのネクロポリスで撮った写真を載せよう。ルクソールの船着き場でクルーズ船をおり、渡し船で西岸へ行った。

まずは巨大なメムノンの石像が2体。この像はかつて毎朝、奇妙な音をたて「歌うメムノン」と言われた。石の霊が歌っているとか、像の割れ目を風がなでるときたてる音とか、様々な説があったが、いまは静かにしている。ガイドさんがひと講釈してくれる。

メムノンの像を過ぎて丘にちかづくと、この辺りは王族の葬祭殿が立ち並んでいたところだ。一番奥に比較的きれいに保存され、同時に規模の大きいのハトシェプスト葬祭殿がある。Hat-Shape-Sutと発音しなさいとガイドが教えてくれた。



このハトシェプスト葬祭殿は、私のナイル旅行から7年後、日本で名の知れたエジプトの観光地になった。1997年にイスラム原理主義過激派のテロリストが外国人観光客をターゲットにして、この神殿で無差別殺傷テロを強行した。外国人観光客58人が殺された。うち日本人観光客が10人。観光客を大量に殺戮することでエジプトの観光収入を枯渇させ、政府への不満を煽ってイスラム原理主義の政権樹立につなげようという計画だったと説明された。

この背景説明の報道を読んで、遅まきながらちょっと震えがきた。1990年のナイル旅行のさいは湾岸戦争のことだけが頭にあり、ゲリラのテロ活動までは考えがおよばなかった。



ハトシェプスト葬祭殿を出て、ナイル川に向かって左に折れると「クルナ」という集落がある。昔は墓泥棒の村という目で見られていた。その集落を左に折れて、岩山と岩山の間の道を進むと有名なハワード・カーター発掘のツタンカーメン王の墓がある王家の谷に至る。ここには60基以上の墓が密集している。ハワード・カーターは王家の谷で墓堀りの最中、クルナ村の近くの家に住んでいた。



ツタンカーメン王の墳墓で見つかった豪華な装飾品はカイロの考古学博物で保管・展示されている。展示物の一部は世界の博物館で巡回展示されてきた。1965年に日本でツタンカーメン展が開かれ、黄金のマスクなどが展示された。年配の方ならご記憶の事だろう。

ツタンカーメンの遺体(ミイラ)は発見と調査のあと、元の墳墓の中に戻された。特別な扱いだった。様々な古代エジプトの王のミイラはカイロの考古学博物館で見ることができるし、誰かわからない、ありきたりのミイラは大きな博物館であれば世界中のどこでも見られる。近世ヨーロッパでミイラ・ブームがあり、ミイラは見世物としてもてはやされ、砕いて薬として服用された。「木乃伊とりが木乃伊になるような」というフレーズが18世紀日本の浄瑠璃に残っている。ミイラは江戸時代の日本でも生薬として用いられた。

エジプト政府はピラミッドのあるギザ地区に新しい博物館を建て、考古学博物館にあるツタンカーメン関係の資料とともに、現在は墳墓に収めてある遺体のミイラも新博物館に移す予定だ。新博物館は今年オープンの予定だったが、新型コロナウイルスの蔓延で2021年に延期された、と聞いている。



9 カルナック神殿

ルクソールには2つの古代エジプトの神殿が残っている。

町の中心部のすぐ北のナイル川沿いにルクソール神殿があり、さらに北へ行くとカルナック神殿がある。

カルナック神殿は古代エジプトの諸神のうちで、最も重きをおかれていたアムン・ラーを祀る神殿、アムン神の妻ムトの神殿、ハヤブサの頭部をもつ戦争の神モンチュを祀る神殿の3大神殿を中心に、その他多くの神々の小神殿が周辺に配された古代神殿の複合体である。

紀元前2000年ごろからクレオパトラ後のローマ時代にかけて2000年以上の間、歴代の支配者が増築・改築を重ねてきた。



見ものの一つがラムセス2世の大列柱室で、巨大な石の柱が林立する一角である。アガサ・クリスティーの『ナイル殺人事件』の映画化で、この大列柱室がロケ地になったそうだ。列柱の上から大きな石が落ちてくるシーン。

また、カルナック神殿構内には大きな池が造られている。エジプトの古代神殿にはこのような聖池がある。なかでもカルナックの聖池は有名なものである。



聖池は儀式用の聖水を汲み、沐浴し、神々の像を乗せた小舟を浮かべるために使われた。また、古代エジプトの神であったワニを聖池で飼ったりもしたという。

カルナック神殿はこの日、日本でいえば小中学校の生徒くらいの子どもでにぎわっていた。大勢の先生が大勢の生徒を引率していた。エジプトの歴史の戸外学習であろう。古代エジプトの歴史的遺産はエジプトが世界に誇るものである。その再確認のために、エジプトの生徒たちは古代の遺跡に来るのだが……。



6000年以上にわたるエジプト人の歴史の最後の25000年余は異民族による支配だった――ドキッとする説明だが、ペンギン・アフリカン・ライブラリー・シリーズのNasser’s Egypy で著者のPeter Mansfield が書いている。

古代エジプトはナイル流域で栄え、多くの神殿、ピラミッド、スフィンクスなどの構造物が強大な王権によってつくられた。エジプトは世界の古代史の中でひときわ屹立する文明を形成した。

紀元前6世紀にはカンビュセス率いるペルシア軍の侵略を受けてその属領となり、エジプト人の王による支配が終わった。

続いてアレクサンドロス大王の遠征で、支配権はギリシア・マケドニア系の人々が握った。プトレマイオス王朝である。

次いで、エジプトはローマのオクタビアヌスによって征服されて、クレオパトラを最後にプトレマイオス朝は終り、ローマ帝国の属州となった。ローマ帝国の分裂後は、東ローマ帝国の支配下に入った。

7世紀以降、イスラム帝国に編入された。16世紀にはオスマン帝国の一部になった。

ナポレオン軍がエジプトを侵略した後、19世紀初頭にオスマン帝国の軍人で、アルバニア系のムハンマド・アリーが支配権を握り、王朝を建てた。19世紀末にはイギリスの実質的な植民地になった。

1952年、ナセルが率いる自由将校団によるエジプト革命によってムハンマド・アリー朝が倒された。エジプトは1953年に共和国となった。

エジプト革命はマルクシスト、トロツキスト、ティトー主義者、フィシスト、軍国主義者、などによるものではなかった。ナセルは2500年にわたる異民族支配による歴史の空白を埋めたかったのである。ピーター・マンスフィールドはそう書いている。

大方の日本人が知っているエジプトの歴史は、ピラミッドからクレオパトラの古代史と、ナセル以降の現代エジプト史である。

(写真と文:花崎泰雄)