1 サンタ・ルチア駅の学生デモ

ヨーロッパは2010年のクリスマス大寒波で大変だったらしい。その大寒波のさきがけは11月末ごろだった。

国際線ターミナルが店開きした羽田空港から11月末の未明、野暮用でパリ行きの便に乗った。出発ロビーの上の階に日本趣味の商業施設をつくったと新聞に出ていた。それでちょっとのぞいてみたのだが、あいにくうしみつどきのことでもありレストランなどは閉店して寂しい限りだった。



パリのシャルル・ド・ゴール空港には時差の関係で朝早く着いた。空港がうっすらと雪化粧していた。11月末はイヴ・モンタンの「枯葉」
  Les feuilles mortes se ramassent à la pelle
のシーズンは終わりだが、だからといって、サルバトーレ・アダモの「雪が降る」
  Tombe la neige
にはまだちょっと早いのだが。



パリでベニス行きに乗り継ぎ、お昼ごろ着いた。ベニスに1泊して街を少々見物し、その翌日の夕方の列車でトレントまで行こうとベニスのサンタ・ルチア駅へ行った。



ホームで列車を待っていると、駅の入り口あたりで、ピーポー、ピーポーというパトカーのサイレンが聞こえ、まもなく若い男女の一団がスローガンのようなものを――あいにくイタリア語なので筆者には理解できない――大声で叫びながら駅構内に入り、プラットフォームを抜けて、線路の方へ消えていった。

このあと、サンタ・ルチア駅を発着する列車がすべて止まってしまった。聞いてみると学生たちが線路を占拠したという。ベニスは小さな島で、本土とは橋でつながっている。その鉄橋を占拠したので、デモ隊の排除には時間がかかる。

駅の切符売り場――こういう事態になっても駅には臨時の乗客案内所を設けていなかった――で聞くと、特急列車はサンタ・ルチア駅には来ないので、一つ先の本土側のメストレ駅までいって、適当な特急に乗ってくれという。

ローカルの鈍行列車が動きだしたので、それにのってメストレ駅まで行き、この駅にはあった旅行者案内書で特急乗車券を書き換えてもらい、最初に出る特急に乗ってベローナまで行き、そこからボルツァーノ行鈍行に乗り換えてトレントにたどり着いた。ホテルにチェックインできたときは、あれやこれやで予定より3時間遅れの午後10時過ぎになっていた。

トレントは雪が降っていた。

あとで知ったのだが、学生たちは政府の教育改革法案に反対してイタリア各地でデモをしていたのだ。大学の統廃合やコースの削減、奨学金の削減や高等教育民営化の促進などを掲げた改革案だと報道されていた。

学生たちはベルルスコーニの政府が我々の将来を封じるのであれば、我々は街を封鎖すると、ベニスなどで列車を止めたのだ。イタリアの大卒者の就職難もデモの背景にあると報道されていた。

要するに教育改革とはイタリアの大学の古い体質を改めると称して、一方で高等教育のための予算を削減しようという法案で、昨年末、結局可決された。

ヨーロッパの多くの国では大学教育を受けるための個人負担は日本に比べてはるかに少ない。ドイツでは授業料はかつて無料だったが、有料化が進んでいる。とはいえ、金額は日本に比べると訳10分の1程度だ。世界で大学教育のために高額な個人負担をさせられている国は、日本と韓国と米国だ。

イタリアの大学生が個人負担している大学納付金も日本に比べれば少額だ。OECDの調査によると日本の教育への公的支出(2007年)はGDP比3.4%で、加盟国平均の5.5%を大きく下回っている。大学など高等教育への公的支出のGDP比は0.6%。OECD平均では加盟国の高等教育の費用の7割台が公財政でまかなわれているが、日本の公費負担は3割台にとどまっている。

日本の文部科学省が20106月に公表した『文部科学白書』も、日本は国際的にみて公的支出が少なく家計の教育費負担が大きいと認めていた。白書によると、子ども1人が幼稚園から高校までは公立、大学は国立に通った場合の家計の教育費負担総額は約1千万円、もしすべてが私立だと2300万円かかるという。子ども2人を同時に私立大学で学ばせると勤労世帯の平均可処分所得の半分以上を教育費が占めることになる。 先進国の平均では、高等教育の負担は私費3割、公費7割だが、日本ではこれが逆転、私費7割、公費3割となる。

日本では小泉政権の時代、政府のなすがままに国立大学から国立大学法人大学に変えられ、以来、もともと少ない公的負担がさらに毎年定期的に削減されているにもかかわらず、学生の就職難がもう何年も続いているにもかかわらず、大学生やその親たちや、大学教員らが抗議行動に打って出たという話を聞いたことがない。聞こえてくるのは就職活動開始時期の繰り上げやら、企業に好まれる学生になるための研修活動やら、そんな刻苦勉励の話ばかりである。

中国では大学新卒者の就職難が社会不安を引き起こすと懸念されている。おそらくこのまま放置すれば、社会動乱の火種になるだろう。いっぽう日本では、企業の中には「日本人新卒はいらない」と短絡的にあたりはばからず口にするものもあり、政治家たちは気楽な政局ごっこに遊び呆け、メディアはそれをさも重大事のように追っかけている。この国では高等教育は受益者負担が原則であり、若年失業者の増加は、主として個人の資質の問題であるとされているかのようにみえる。 日本共産党の『しんぶん赤旗』が昨年の秋に書いていたことだが、資本金10億円以上の大企業は2009年度に部留保を109000億円増やして2439000億円をため込んだそうだ。同紙が財務省が公表した資料から計算したもので、約11兆円の新たな内部留保積み増し分は、年収500万円の労働者220万人分の給与に当たる。

あつかいやすい学生、教員、国民だらけだ。



そういうわけで、イタリアの学生たちが自分たちの利益を守るための異議申し立てを果敢に行ったことをよしとし、その日列車を止めた件について怒る気になれなかった。

2011.1.1





2 ピアッツァ・ドゥオモ

朝起きてホテルの窓のカーテンを開けると外はすっかり雪景色になっていた。雪はなお降り続いている。



トレントはヴェローナから北へ100キロ、更に北のボルツァーノまでは60キロほど。ボルツァーノからさらに北上すると、80キロほどでオーストリアのインスブルックに至る。トレントはアルプス南山麓の町だ。

町の人口は10万人ほどだと聞いた。学生数15000ほどのトレント大学がある。割合頻繁に学術的な催しが行われる町だ。

町の中心は中世のおもむきをとどめる旧市街。この旧市街は縦横とも歩いて15分程度のこじんまりとしたものだ。

雪が降っているので会議が行われる会場までタクシーかバスで行くにはどうすればよいかとホテルのフロントに聞くと、どちらも大回りになるので、傘をさして歩いてゆけと言う。ゆっくり歩いても15分もあればたどり着ける。そう言って傘を貸してくれた。

地図で教えられた通りに町中を歩いて行くと、旧市街の中心部ピアッツァ・ドゥオモに出た。イタリアの古い町にはたいていこのピアッツァ・ドゥオモ(大聖堂広場)がある。



トレントのピアッツァ・ドゥオモはベニスのサンマルコ広場に比べるとこぢんまりしている。広場の中心にネプチューン(ギリシャ神話のポセイドンに相当)のブロンズ像が建てられていた。広場には人影がちらほらするだけ。なんだか寂しくなってきた。

2011.1.12






3 地下聖堂

トレントのドゥオモは正式にはサン・ヴィジリオ聖堂という。13世紀初めに建設を始め、完成までに数世紀かかったという。この聖堂の正面入り口の扉は、大きな木製で、非常に重く、開くにはかなりの腕力を必要とする。

日本のお寺の本堂は、昼間はたいてい開け放たれ、お堂の中の本尊を、秘仏でない限り見ることができるが、ヨーロッパのカトリック聖堂は重々しい扉が閉まっている。と言って、別に人を寄せ付けないでおこうという魂胆でもない。



サン・ヴィジリオ聖堂には地下に古い教会の遺構が残されている。現在のドゥオモは、紀元6世紀ごろ建てられた初期キリスト教の教会の跡に建てられた。



1964年から10数年がかりで調査が行われ、ドゥオモの地下から100近い墓石が発見されている。地下の墓所として使われていたらしい。



雪の日の午前中なので、聖堂の中も、地下の遺構も人影がほとんどなく、まことに静かな環境だった。

2011.1.28





4 山間の町

トレントの町をうろつき、寒くなってカフェに入ってコーヒーを注文すると(もっとも冬でも歩道のイスとテーブルで震えながらコーヒーを飲んでいる人も少なくないが)、決まってエスプレッソが出てくる。

「アメリカ式のコーヒーはないのかい?」
「ないね。お湯で割って飲んだら! お湯ならあげるよ」

ここはイタリアなのである。

とはいいつつも、レストランにはいると、やたらドイツ製のビールが目立つ。トレントがイタリアとドイツの2つの文化圏の境目にあるせいだろう。



トレントは紀元前2世紀頃にローマ帝国に組み込まれた。北方の脅威に対抗するための最前線の要塞都市になった。4世紀頃にはキリスト教が広まった。その後、西ローマ帝国が崩壊し、トレント周辺ではゴート族の勢力が増大する。

さらに10世紀にはトレントは神聖ローマ帝国(ドイツ)の勢力圏に入った。以後1918年にイタリアに併合された。トレントの人たちは、イタリア語を話していたが、はながらくドイツ・オーストリアの政治・文化圏の中で暮らしてきた。

トレントはアジディ川の谷間に開けた町である。町の中心部から少し歩くと、高架橋で鉄道線路を越え、川岸に出る。川岸にはロープウェーの乗り場があり、町の裏山・サルダーニャの展望台まで行くことができる。



この寒さでは山の上に行こうというきにはなれないだろう。ロープウェーはがらがらだった。展望台からは町の上に霧状の雲がかかり、展望がさえぎられた。

数日後、日差しが戻ったとき、再び展望台に行った。町がはっきりと見えた。



2011.2.2





5 カサ・カツッフィ



ピアッツァ・ドゥオモに面して壁面のいたるところに絵がいっぱいの建物がたっていた。カサ・カツッフィである。



広場の北側にたつカサ・カツッフィの壁画は16世紀から18世紀にかけて描かれたものだそうだ。色あせていて、光りの加減が良くないと、鮮やかに見えない。



壁画は屋内の壁に描かれるものだとばかり思っていたが、そういえばベネツィアの大運河添いの建物の外部壁面にも絵が描かれていた。風雨にさらされて大変だろう。



この建物のそばに昔の噴水塔が建っていて、石に刻まれたワシが飾られていた。



広場の西側にも由緒ある建物が建っている。カサ・バルドゥイニという名のふりお屋敷で、一階はレストランになっていてミシュランの1つ星だとガイドブックに書いてあった。夕食を食べてみた。まずくはなかったが、金を払ってみて、それほどうまくはなかったことに気づいた。レストランに若い女性の従業員がいて、

「日本から? 「ここの厨房でも日本人の料理人が働いているよ。ところで私はどこから来たかわかる?」

エチオピアの人だった。はるばると、とは思ったが、よく考えてみれば、トレントとエチオピアは、トレントと日本よりもはるかに近いのだ。



広場をはさんでカサ・バルドゥイニと向かいあっている大きな建物がプラッツオ・プレトリオ。起源は13世紀頃のふり建物だが、改築に改築を重ねて、いまでは博物館に使われている。外壁は古色蒼然としているが、博物館に入ってみると、内部は現代風な室内装飾が施されていた。この建物のそばに建つ時計塔トレ・シヴィカは改修中だった。



こぢんまりとした気分のいい街である。

2011.2.20





6 お城

トレントの旧市街はどこへ行っても、教会につきあたる。中世から近世にかけての古いカトリックの匂いがまだ消え去っていない感じがする街だ。



旧市街の外れに古色蒼然とした、同時に威風堂々たるお城が残っている。ブオンコンシーリョ城だ。トレントはカトリックの司教が支配していた土地なので、この城には領主である司教が住んでいた。領主司教制度は日本の寺領制度に似ている。

ブオンコンシーリョ城のもっとも古い部分は1240年世紀ごろに建てられたとされている。その後、増築や改築が施された。かつてはお城かの城壁が左右にのびて、旧市街全体を取りか囲んでいた。城壁はそのほとんどが今では崩れて消え去っているが、トレントの旧市街の一部で、その名残が見られる。

 

現在、ブオンコンシーリョ城は博物館として利用されている。街が一望できるイタリア式柱廊や、



天井にフレスコ画が描かれているオープン・テラスなどがある。



トレ・デラキラ(ワシの塔)には、壁画の間があって、室内の四方の壁に、14世紀ごろにかかれたフレスコ画が残っている。「シクロ・デイ・メシ」(月の巡り)とよばれる中世トレントの人々の四季の暮らしぶりを12ヵ月にわたって描いたものだ。3月だけが失われている。この部屋のフレスコ画は撮影禁止だ。(どんな絵かご覧になりたい方は、イタリア版のウィキペディアでどうぞ。3月を除くすべての月の絵がみられます。http://it.wikipedia.org/wiki/Ciclo_dei_Mesi)。

2011.2.25





7 パラッツォ



トレントの旧市街は骨董品のようなつくりだ。14世紀ごろから建てられてきた古い建物の外壁を残して改造しながら、現在でも現役の施設として使い続けている。



たとえば、中庭にネプチューンの像が飾られている(このネプチューンがもとともドゥオモ広場におかれていたオリジナル作品で、現在広場にあるネプチューンはレプリカである)パラッツォ・トゥンは16世紀に建てられ、19世紀後半からタウンホールとして使われていた。そのころに内部が大改装された。



このように由緒ありげな建物があちこちにあるが、その由緒はいちいち説明におよぶほどの重々しいものではなくて、建物のファザードや内部の構造を見て楽しめば良い程度の、手頃な重さの由緒である。また町自体もそれほど大きくはないので、規模の迫力はないけれども、どこかなじみやすさが感じられる。



日本でいえば、喜多方、川越、倉敷のような蔵の町、あるいは角館や萩の武家屋敷の町に似た、とっつきやすさ、愛らしさがある。いずれにせよ、こぢんまりとまとまっているところが魅力なのだ。



2011.3.6





8 教会

トレントは小さな町だ。だが、町の規模に比べて、教会がたくさんある。旧市街の中だけでも古い教会の建物が10以上も残っていた。京都の町がたくさんの寺によって訪れる人に歴史を感じさせるのと同じように、トレントの教会も町の古い歴史を感じさせる。



こうした古い教会のなかでも、キリスト教史に残る有名な教会がサンタ・マリア・マッジョーレ教会だ。この教会が、1545年から63年にかけてトレントで開かれた第19回世界教会会議であるトレント公会議(ドイツ語のトリエント公会議でも知られる)の舞台になった。

この会議はルターなどのプロテスタントの動きに対抗して開かれたカトリック側の宗教改革会議だった。百科事典のページをめくると、「聖書と伝承の扱い」や「聖書の正典」をきめ、「ミサのまつり方」、「聖人や聖遺物の崇敬」、「神学校の設置による司祭の教育とその質的向上」などの教会改革を決定した。

司教会議の開催や司教の適性審査などに関する教令を採択した。グレゴリオ暦はこの会議の方針に基づいて、会議後に決定された。



トレントのドゥオモに隣接するパラッツォ・プレトリオにあるディオチェサノ・トゥリデンティノ博物館には、サンタ・マリア・マッジョーレ教会で開かれたトレント公会議の模様を描いた絵が保存されている。



このほか、聖フランチェスコ・サヴェリオ教会の建物正面の装飾など、トレントの教会には外から見ても興味深い建築が多い。

  

教会の大きく重い木製の扉を押して中にはいると、ステンドグラスや、聖母マリアの像が薄明かりの中に見える。ヨーロッパの中世を感じさせる「光りと影」がここにもあった。



2011.3.15





9 塔

塔の建設は人類最古の情熱であり、それは人間の心の中の高所衝動――垂直上昇の理念の純粋な具体化――であるから、空間を確保することが目的の建築物とはことなって、躍動する精神力をあらわすための構造物である(マグダ・レヴェツ・アレクサンダー・池井優訳『塔の思想――ヨーロッパ文明の鍵』河出書房新社、1972年)。若いころ買って読み、不思議な感銘をうけた本に、そんなことが書かれていた。

トレントの町にもヨーロッパ風の塔があちこちにたっていた。それほど高くはないが、眺めているとそれなりの風情がある。



トッレ・ヴェルデ(Torre Verde、緑の塔)。中世トレントを取り囲んでいた城壁の一部で、町の防衛の拠点のひとつだった。やがて、16世紀に緑色のとんがり屋根が取り付けられ、緑の塔とよばれるようになった。城壁がなくなった今は、独立した塔になっている。



13世紀ごろに建てられたトッレ・ヴァンガは四角な塔で、かつては牢獄として使われたそうだ。夕暮れどきにながめると、なるほど、それらしい陰鬱な雰囲気がただよっている。



一方、円筒形の塔もあって、こちらはトッリオーネ(大塔)とよばれている。この塔もまた、町の城壁の南側を守る拠点だった。窓ガラスなどが入ったのは19世紀後半に修復されてからのことだ。



トッレ・デラ・トロンバ(ラッパの塔)は街中で、普通の建物と接している。この塔も中世起源の石造りで、かつて牢獄として使われたことがある。

『塔の思想』にはこう書いてある。――ローマ人は数多くの塔を建てたが、それらは実用建築として使われた。ローマ人が建てた塔は、芸術と空想の非論理的な表現としての碑実用的な塔ではなく、現実的な目的に使われた。ローマ人の冷静な論理学、合目的秩序の追求のあらわれである。



レントの塔はどうやら垂直上昇の理念としての構造物というよりも、ローマ人から受け継いだ実用的な建築物だったようである。その実用的建築物が現代になって観光のアイテムになってゆき、垂直上昇の理念の具体化としての構造物に変っていった。



トレントこんな空想を呼び起こさせる不思議な魅力に満ちた街である。

2011.3.19





10 サン・マルコの馬

トレントにはヴェネツィア(ヴェニス)から列車で来た。汽車に乗るまえ、ヴェネツィアで1泊して街を見物し、イカスミのパスタを食べた。

サン・マルコ寺院で有名なブロンズの4頭の馬を見た。



13世紀の初頭、聖地奪回に向かったはずの第4次の十字軍がヴェネツィア共和国にそそのかされて、東ローマ帝国の首都コンスタンティノープル、現在のトルコ共和国の大都市イスタンブールに攻め込んだ。

第4次十字軍のコンスタンティノープルでの行状については、例えば、ジョフロワ・ド ヴィルアルドゥワン『コンスタンチノープル征服記第四回十字軍』 (講談社学術文庫)が詳しい。十字軍はコンスタンティノープルで、金品を略奪し、強姦と虐殺を重ねた。歴史の本を読んでいると、戦争のついでに虐殺・強姦・強奪をやるのか、そうした悪行やりたさに戦争をするのか、人間というものが理解しがたくなってくる。

コンスタンティノープルでは、ローマ正教の兵士がギリシャ正教の尼僧が引きづり出して強姦し、ローマ正教の僧がギリシャ正教の修道院に押し入って聖遺物を盗んだ。

このとき、コンスタンティノープルの広場ヒッポドロームに飾られていた4頭のブロンズの馬の像が略奪されて、戦利品としてヴェニツィアに持ち帰られた。

この馬の像はサン・マルコ寺院に飾られていたが、フランスのナポレオンが1797年にヴェネツィアを攻め、戦利品としてパリに持ち帰った。

ナポレオンの没落とともに、1815年、フランスはブロンズの馬をヴェネツィアに返還した。馬は再びサン・マルコ寺院に飾られた。だが、ヴェネツィアが、この4頭のブロンズの馬をイスタンブールに返すことはなかった。

現在ではブロンズの馬はサン・マルコ寺院の内部に展示されている。寺院のバルコニーに飾られているのはレプリカである。



ヴェネツィアは水の都で、アフリカからシロッコという風がふくと、風にあおられてアドリア海の水位があがり、街は水浸しになる――アクア・アルタ。このところアクア・アルタは頻繁に起きており、世界遺産の街を水没から守ろうと、現在、モーゼ・プロジェクトという水門建設が進められている。

2011.3.26

                          ――終――