大江戸線お寺拝観
  
         2006年9月-2007年2月

東京都営地下鉄大江戸線路線図 (国土交通省)




1.天高し釈迦まぼろしの苦行像



 むむ、一句としてはほとんど意味をなしていないが、冒頭に何か置かないと格好がつかない。いたしかたないか。

 朝から日差しが強かった9月末のある日、東京都練馬区高野台3-10-3の東高野山長命寺まで、都営地下鉄大江戸線・光が丘駅から歩いて行った。西武池袋線の練馬高野台駅で降りると、駅150メートルの寺だが、「灌頂芳香大江戸線 一寺一句」と名乗ったからにはしかたのないことである。
 都営地下鉄大江戸線は、以前は都営地下鉄12号線といっていたが、全線開通で大江戸線と改名した。筆者の好みからいえば、「大江戸線」より「12号線」の方がすっきりしている。カローラだのクラウンだのと名乗るより、BMW330の方がスマートだ。
 それはさておき、秋のお彼岸が終わったばかりなので、お寺に人がやって来る気配がない。にぎやかなのはお墓に残っているお花だけであった。



 南大門の前で30分ほど、あまり迫力のない仁王さんなどを眺めているうちに、やっと30人ほどの年配のグループが旗を掲げて現れた。



 寺の北側の薄暗い木立の中に石仏が並べてある。高野山の気分を出そうという工夫であろう。



2.大根の石碑なでおり秋の風



練馬には田畑がはほとんど残っていない。かつて沢庵漬けで有名だった練馬大根も生産されなくなった。大根にはすぎた大きさの練馬大根顕彰碑だけが残っている。大江戸線を練馬春日町で降りてすぐの愛染院というお寺の前に大根碑がある。

愛染院は敷地内に葬祭所を構え、繁盛しているようなお寺に見えた。山門は小ぶりだがちょっと古風な赤門。境内の半分以上が葬祭施設と墓地。ま、それだけのことですわ。





3.新そばはおろしでもよしもりもよし

練馬春日町から新宿方向へ向かうと、次の駅は豊島園。豊島園の駅前に通称十一カ寺とよばれるお寺の団地がある。関東大震災で郊外の練馬へ引っ越してきたお寺である。

通りの両側に11の寺があたかも老舗の日本風情で建っている。通りを歩いているとあちこちから木魚をたたくポクポクという音が聞こえてきた。11の寺すべてが浄土宗で、誓願寺という大きな寺の塔頭だった。寺によって木魚をたたくリズムがことなり、8ビートもあれば4ビートもあって、なかなか面白い。

道路の突き当りに広い墓地がある。



通りの一角に、蕎麦喰地蔵尊奉安所の案内があった。誓願寺の時代、ある塔頭の地蔵尊が夜な夜な坊さんに化けて蕎麦屋に通っていたというお話をかたちにした。





4. ねむれねむれ剣禅一如のあらくれども

都営地下鉄大江戸線を練馬駅でおりて少し歩くと広徳寺がある。



寺の門に「拝観謝絶」のお断りがデンとすえられていた。ご丁寧に「寺内猛犬放し飼い」の高札もあった。もともと、愛想のいい禅寺というのは珍しいのではあるが、ここまで世俗を敬遠する寺も珍しい。



ベルをおすと、お坊さんが出てきた。「柳生一族の墓の写真をとらせていただきたい」と頼んだところ、お坊さんはどうぞどうぞと、わざわざ墓まで案内してくれた。お坊さんによると「拝観は謝絶中だが、お墓参りはお断りしていない」という。禅問答めいている。愛想が悪いのか。愛想がよいのか。禅寺のやることはどうもよくわからん。



柳生家の墓所には但馬守宗矩、十兵衛三厳、飛騨守宗冬の3人の墓石が並んでいた。幕末動乱で徳川家の家来から天皇家の家来になって、華族の称号をもらった13代目柳生但馬守俊益、後に子爵柳生俊郎、の墓もある。柳生一族の墓石を裏から撮影してみた。“裏柳生”というダジャレである。



5.とまれ山門には木々をそえて
  
フルネームだと夏雪山廣原院能満寺。

数年前、本堂を改築した。まだピカピカである。西武池袋線江古田(えこだ)駅殻のほうが近いが、都営地下鉄大江戸線新江古田(しんえごた)駅でおりて少し歩いた。「江古田」は中野区では「えごた」と発音し、練馬区あたりでは「えこだ」と発音していたので、同じ漢字の駅名がちがって発音されることになった。ちなみに、西武池袋線江古田駅は練馬区内にあり、都営地下鉄大江戸線新江古田駅は練馬・中野の境界線にまたがっている。



参道に入ると左手の一角に地蔵があり、やや坂道になったかなり長いアプローチの先に山門がある。境内以上に立派な山門がある。能満寺そのものは板橋区内にあって、板橋七福神めぐりの寿老人の寺になっている。



能満寺について書くことといえば、このくらいかな。



6.知らざあ行ってご覧なせえ
  時雨の空に墓石ふたつ


都営地下鉄大江戸線東中野駅でおりて、細い商店街を抜けていくと河竹黙阿弥の墓がある源通寺にたどり着く。このあたりはいくつかのお寺が集まっていて、現通寺はもともと浅草辺りにあった寺だそうだが、明治の終わりごろ引っ越してきたそうだ。

ひところ大学が都心を捨てて郊外に出たのと同じように、都市の過密化などでお寺も郊外移す必要があったのだろう。

それはさておき、河竹黙阿弥は江戸末期から明治にかけての歌舞伎作者で、坪内逍遥に「江戸歌舞伎の大問屋」と評された。本名、本名吉村芳三郎、現役名2世河竹新七。なかなかの遊蕩児で、柳橋で遊んでいるのが見つかり勘当されたのが14歳のとき。この遊蕩で得たものを、歌舞伎に生かした、とされる。



黙阿弥の墓には石が二本立っており、向かって右に河竹黙阿弥、左に南無阿弥陀仏と刻まれている。台石にはいずれも本名の「吉村氏」が彫られている。



お寺の入り口にはこんなお説教が張り出されていた。



7.向こう岸から眺めればまだ暮れ残る別の秋

源通寺からちょっと歩くと萬昌院功運寺がある。ここには赤穂の浪人たちに首をとられた吉良さんのお墓がある。

お寺の門のところに守衛さんがいて、吉良家のお墓の写真をとりたいといったら、訪問者名簿に名前を書かされ、白いリボンを付けるようと手渡された。お寺の境内には幼稚園があり、くれぐれも園児の写真はとらないようにと、申し渡された。行き届いた警備である。



吉良家のお墓には新しい花が備えてあった。お墓の左右に吉良上野介ともども切り殺された吉良邸のガードマンや従業員の名前が彫られた石版と、供養塔が建てられていた。石版は黒御影石でその名も「吉良邸討死忠臣墓誌」。彫られた名前を勘定すると38人もいた。討ち死に者の中には15歳の茶坊主もいた。何かの拍子で敵戦力とみなされて殺されたのであろう。



赤穂側の死者0、吉良側の死者が上野介本人を入れて39という極端な差である。これが実際の数だとすれば、あの事件が闇討だったことをよくあらわしている。



8.多角経営南無貸借対照経都会寺



日曜日の午前中、都営地下鉄大江戸線を中野坂上駅で下りて、青梅街道を宝仙寺の方へ歩いた。すると、同じ方角に何人かの女性が黒いリクルート服姿で歩いて行く後姿に気づいた。日曜日にどこかの会社が入社内定式でもやっているのかな、と思っていたら、女性たちは宝仙寺の山門をくぐって境内に入った。

山門周辺には警備員が複数立っていて、ちょっとした大がかりな葬儀のようである。宝仙寺は中野区あたりでは社葬や地域の有力者の葬儀がよく行われるところだ。試みにインターネットで調べてみると、宝仙寺の社葬だと会葬者400人程度で、お寺へのお布施は別にして総費用1,000万円ほど。青山葬儀所だと会葬者1,000人程度で同2,000万円だそうである。



宝仙寺境内にはそのむかし、旧中野町の役場があった。その石碑が残っている。さらに宗教法人以外にも、学校法人を設立し、広大な寺域を使って幼稚園から短期大学まで経営している。

まあ、俗界と意欲的に関わりあっている都会の寺のひとつの典型であろうか。



9.ワット驚くパゴダ金色

宝仙寺からちょっと歩くと慈眼寺がある。このお寺には石仏があるというので足を伸ばしてみたわけだが、石仏はお寺の片隅の塀際にちょっと並べてられているだけだった。



それよりも、面白かったのはお寺の境内に建てられていた黄金色の仏塔である。このお寺の住職がかつてバンコクのあるお寺のお坊さんと親しくしていたことから、慈眼寺の境内に、東南アジア式の仏塔を建てたのだという。仏塔の形そのものはミャンマーの首都ヤンゴンのシュウェダゴン・パゴダに似ている。



仏教はシャカが死んだ後、上座部と大衆部に分裂した。日本仏教は大衆部の流れをくむ。タイの仏教は上座部に属する。タイの仏教と日本の仏教はイスラム教のスンニ派とシーア派以上の違いがある。

日本のお坊さんのほとんどが所帯持ちであるが、タイの仏教では坊さんは妻帯しないことになっている。タイのお坊さんに言わせると、坊さんが妻帯するなど信じられないということになる。タイでは女性はお坊さんの体や着衣に絶対に触れてはならないとされている。とはいうものの、タイのお坊さんの中には、ひそかに愛人をかこっているものがいて、このあたりは日本のお坊さんの一部と同じことをやっている。そのあたりは割合近い。

大衆部と上座部が慈眼寺で仲良く同居しているのも、お寺の中に神社がある日本という国ならではの功徳というものだろう。



10.名刹残骸となりて屹立す

都営地下鉄大江戸線を新宿駅で下りて新宿4丁目の方へ向かうと、かつての名刹天龍寺がある。江戸時代の区画整理で新宿に移転し、さらに東京空襲で寺は破壊された。古い建物としては、山門と鐘つき堂がのこっているだけである。山門はなかなかの威容で、かつては式のある寺であった歴史をしのばせる。



天龍寺の鐘は1700年ごろ初代の鐘が造られ、現在残っているものは1767年に鋳造されたものといわれている。内藤新宿に時を告げる「時の鐘」であった。



明治末刊行の『東京近郊名所図会』によると「時の鐘、天竜寺の鐘楼にて……此辺は所謂山の手にて登城の道遠ければ便宜を図り、時刻を少し早めて報ずることとせり。故に……新宿妓楼の遊客も払暁早起きして挟を分たざるを得ず。因て俗に之を『追出し鐘』と呼べり」。新宿ではよく知られたエピソードである。



11.さあさあいさぎよく脱ぎなされ

天龍寺から歩いてちょっとのところに太宗寺がある。江戸時代に建てられた寺だが、何度も火災にあって焼けた。現在使われている本堂は、鉄筋コンクリートのドームである。新興宗教の本堂のように見えなくもないが、新宿の寺だと思えば、新宿という怪しげな(新宿だけでなく都会はみんな怪しげである)街にあっている。


左側奥のコンクリートのドームが太宗寺本堂

太宗寺の閻魔堂に、閻魔さまの像と閻魔さまの妹だといわれている奪衣婆の像が安置されている。脱衣婆は三途の川で亡者から衣類を剥ぎ取るばあさんだといわれている。この奪衣婆像が江戸時代は新宿の飯盛女に信仰された。着物を脱がせることを仕事にしているので、同じように着物を脱がせて仕事をしている彼女たちの大先輩だったのだ。



閻魔堂は施錠されており、扉の金網越しでしか閻魔さまや奪衣婆が拝めない。金網の隙間から撮影したが、フラッシュの光量がたりなかったようである。だが、そのためにかえって、おどろおどろしい奪衣婆になった。





12.正月は卒塔婆よりも門松がよし
   無縁墓身を寄せ合って暖をとる


都営地下鉄大江戸線を国立競技場駅で下りる。国立競技場の近くにあって「聖輪」寺というから、てっきり東京オリンピックと関係ある寺だと、思うでしょう? 思わない? 

聖輪寺は渋谷で一番古い寺といわれている。初詣のつもりでのぞいてみたが、それらしき人の姿はなく、墓参の人影がちらほらあっただけ。



門松が建てられていたので、これを借りて当ブログの新年ご挨拶とする。卒塔婆と比べると門松はやはり生き生きとした緑があってうれしい。門松と卒塔婆を同時に眺め、ちょっとだけ「生老病死」について思いをいたした。



近くの瑞円寺にも参った。こちらはお寺の玄関のインテリアがなかなかイケた。中に入って写真をとろうとしたら、お坊さんがスーっと現れた。警報装置か監視カメラでも付いていたのだろうか。



瑞円寺の墓地では、無縁墓が集められてピラミッドになっていた。山手線内側の寺だから仕方のないことだろう。いや、かえってこのカタチ、味わいがある。都会の孤独、身を寄せ合う墓だ。





13.雷電の深き眠りや初茜  一申

都営地下鉄大江戸線を青山一丁目で下りる。行く先は報土寺である。そこには今をときめく朝青龍でさえも、たぶん真っ青の雷電の墓がある。

報土寺は三分坂にある。港区で随一の急坂と威張っているが、サンフランシスコの坂を思えば、ま、箱庭の坂だね。その坂道に沿って報土寺の塀があるのだが、これが時代物の築地塀。のっぺりしたビルの壁面ばかり見ている目には、どこか心地よいものがある。



この報土寺が19世紀のはじめ火事で焼けたとき、お寺の再建にあわせて雷電が釣り鐘と鐘楼を寄進したそうである。鐘の中央に「天下無双雷電」とPRを刻みこんだ。それが徳川殿をいたく怒らせ、鐘は没収、住職と雷電は江戸払いになったそうだ。



雷電の墓はこの報土寺のほか、生まれ故郷の長野県と、スポンサー松平家の領地だった松江にある。報土寺の墓は相撲ファンの子どもや外国人もよく訪れるらしく「らいでん RAIDEN」の案内板が掲げられていた。墓には重さ30貫という「手玉石」も置いてある。

山門脇にこのような一句が掲げられていたのでタイトルに借用した。





14.ここにはじまる日米愛憎のメロドラマ

麻布十番駅で下車して善福寺へ行く。

京都の寺の借景は山や木立と相場が決まっているが、東京の都心ではなんといっても高層ビルである。しがし、こうしてみると、背景のビルが安っぽく見えるから、寺院建築というものにはそれなりの重厚さがある。



この寺は幕末の1859年にアメリカ公使宿舎としてつかわれた。タウンゼント・ハリスらが滞在した。ハリスの通訳をしていたヒュースケンは攘夷派の浪人に切られてこの寺で息を引き取った。幕末の日本にやってきた西洋人の気分は、現在のバクダッドに駐在する米国人のようなものだったろう。バクダッドの場合は、すでに10余万人の米兵らがいて、さらに2万人を増派する。ということは、幕末の日本に徒手空拳で暮らした当時の西洋人の方が、もっともっと不安だったことだろう。

ハリスはいわゆる唐人お吉を妾として囲った男である。妾というのは正確ではないかもしれない。ハリスは独身だったから愛人というべきか。お吉をハリスに周旋したのが当時の徳川政府の役人だった。現代は日本の政府そのものがアメリカ合衆国の妾的存在になっている。



善福寺には1936年に建てられた駐日アメリカ公使ハリスの顔が刻まれた記念碑が残っている。日本が「鬼畜米英」とののしりながらアメリカと戦争しているころ、この記念碑は土中に埋められていたという。アメリカならでは夜の明けぬ戦後日本になって掘り出されて、以来、善福寺の境内に立っている。
 


15.ハレの日は善男善女どっと来て



都営地下鉄大江戸線を赤羽橋で下りてちょっと歩くと増上寺に着く。

「今鳴るは芝か上野か浅草か」といわれた江戸以来の大身のお寺である。徳川将軍家の菩提寺であった。明治になってお寺の境内を含む用地全体が公園の指定を受けた。戦後、お寺の境内部分が公園から分離された。増上寺と隣接する芝公園はもともと寺領だった。東京タワーが建っているところは増上寺の元墓地だった。太平洋戦争末期の東京大空襲で焼け出されので、お寺の建物は戦後の再建である。



正月3日のめでたい日に増上寺をのぞいてみた。たいした人ごみである。境内に屋台が開業し、テーブルや椅子が置かれ、古くなった位牌など仏具を境内の一角で坊さんがぼんぼん燃やし、大きな焚き火になっている。「ゴミは投入しないでください」と至極もっともな注意書きが掲示されている。



おみくじには長い列ができていた。どこからかありがたい説法の声が拡声器で流れてくる。めでたいハレの日である。善男善女を演じてみたくなる。千数百体あるといわれる子育地蔵も晴れ着で着飾っていた。





16.念仏も築地はイナセな異国趣味

都営地下鉄大江戸線を築地市場駅で下りると、当然のことながら築地市場に出るのだが、そこをちょっと進むと、築地本願寺にたどりつく。

堅苦しく紹介すれば、浄土真宗本願寺派本願寺築地別院。江戸時代の初期に西本願寺の別院とし浅草あたりに建てられたそうだ。しかし、まもなく火事で焼け出され、築地の海を埋め立ててこの寺を再建したそうである。



関東大震災で再び壊れたのち、東京大学の伊東忠太教授が古代インドの寺院建築様式をまねて、日本離れした石造りの本堂を建てた。伊東はロバにまたがってインド、ペルシャ、トルコを巡って建築の調査をした非ヨーロッパ、アジア志向の建築家・建築史家だった。一方、建築を発注した大谷光瑞は、西域に仏教調査・探検隊を派遣したアジア趣味の人。二人が意気投合してつくりあげた建物であった。

外部は印度様式でありながら、内部は日本古来の派手な桃山様式を取り入れ、ちょっとキンキラキンなところがある。本堂内にはパイプオルガンもある。キッチュなお寺で、そこのところを面白がって著名人の葬式がよくある。参列したことがないのでよく知らないが、パイプオルガンでワグナーの葬送行進曲など奏でているのかな?



17.メリヤスの股引も売る不動さん



都営地下鉄大江戸線を月島駅で下りてあたりを少しだけ眺めてみる。ずいぶんと様変わりした。かつて有名だった月島の路地をふさぐように超高層アパート群が建っている。もんじゃ焼きの店は今でもあるが、こちらは広島式お好み焼きを食って育ったので、もんじゃ焼きなどおかしくって食っていられない。



門前仲町でおりて深川不動堂へ行く。成田さんの出店である。ちょうど1月28日の縁日だったのですごい人手だった。地下鉄の出口から不動堂までぎっしり露店が詰まっている。



はき心地のよさそうなメリヤスの下着を売っている露店もあった。インドや中国の田舎で露店商がブラジャーをぶら下げて売っている風景をみたことがあるが、いまどきの東京で露店の下着商は珍しい。



その他、仲見世は雑然としてにぎやかで、活気にみちあふれている。





18.おしゃべりの閻魔の舌は誰が抜く?

深川不動堂から清澄庭園の方へむかって清澄通りを行く。楽しく快適な散歩道というわけではない。どちらかというと埃っぽくて殺風景である。



まもなく深川閻魔堂につく。ここはハイテク寺である。まず閻魔様。閻魔様の前の賽銭箱に19の賽銭受け口があり、それぞれ浮気封じから学業促進まで、するさまざまな浮世の悩み事、願い事が19のカテゴリーに分けられている。そこへお賽銭を投じると、ありがたいお説教が流れてくるという仕掛けである。



釈尊は人を見て法を説いたそうであるが、ハイテク深川閻魔堂では金の音が聞こえると説法を流す。ジュークボックスのようである。



また、お寺の案内によると、骨をさらさらのパウダー状にしたうえで真空パツクし、納骨保管する永代供養システムを提供しているそうである。なるほど、こうすれば容積は小さくなるな。狭い東京向きの発想である。



19.肩越しにはや白梅のよき日和

深川閻魔堂から都営地下鉄門前仲町駅に戻るのも面倒なので、そのまま清澄通りを清澄庭園の方へ歩く。1月下旬というのに清澄庭園ははや春の雰囲気であった。



なかなか立派な庭園だが、見ているうちに明治という国家資本主義の時代と組んだあくどい実業家のぼろもうけの名残にだんだんと腹が立ってくる。

この清澄庭園の、清澄通りを渡った反対側に霊巖寺がある。「水清ければ魚棲まず」「白河の清き流れに住みかねてもとの田沼のにごり恋しき」と冷やかされた寛政の改革の立役者、白河藩主松平定信の墓がある寺である。



定信の墓は扉が閉じられていて墓地内に入ることができない。なんとなく狭量でけち臭い感じがする。



傍らのお地蔵さんの肩越しに白梅が五分咲きになっていた。今年は春が早い。しかし、山に雪が少ないので、この夏は水で苦労することになるだろう。



霊巖寺を出て清澄通りへ戻る道で、写真のようなものを見た。一瞬、蕎麦屋さんかと思った。



20.脚組んで思案のほどは美辞麗句

清澄庭園のすぐそばに松尾芭蕉ゆかりの寺がある。芭蕉が深川に住んでいたころ親しくなった仏頂和尚が開いた臨川寺である。



普通の民家にしてはちょっと立派な屋根がある程度の寺である。いまでは芭蕉庵跡地に建てられた記念館のほうが立派に見える。



臨川寺の猫の額のような前庭の片隅に石碑がいくつかある。由来については、看板のとおり。この稿、手抜きではなく、書くことがないに過ぎない。たしかにBlythは俳句と禅を結びつけた。しかし、それは日本的情緒のいくつかの特徴をむりやり禅の影響だとしたに過ぎない。そのそも芭蕉の句に、禅の匂いがするするものが、はたしてあるのだろうか?





21.本歌取りコピー重ねて劣化して

臨川寺をのぞいて、都営大江戸線(いつも思うのだが、この「大江戸」というのはアナクロニズムもいいところだな。元の都営12号線に戻した方がいいと思うよ)清澄白河から一駅、森下駅で下車する。

芭蕉時雨塚の跡が残る長慶寺をのぞきに行く。寺の門をくぐってすぐ右手の隣家との塀際に上部が白くなった石ころが一つわびしく残されている。これが芭蕉時雨塚をのせていた台石だという。



芭蕉の死後、江戸在住の芭蕉一門の人たちが、芭蕉自筆の時雨の句の短冊をここに埋めて石碑を建てたのだそうである。

芭蕉時雨の句とは、

 世にふるは苦しき物をまきのやに安くもすぐる初時雨かな  二条院讃岐

を、飯尾宗祇がコピーして、

 世にふるもさらに時雨のやどり哉  宗祇

とし、それを松尾芭蕉がさらにコピーを重ね、

 世にふるもさらに宗祇のやどり哉  芭蕉

とした。宗祇の「時雨」を「宗祇」と言い換えただけの、たわいのないもじり句だ。

ただし、芭蕉はこの句が好きだったようで、

 世にふるもさらに宗祇のやどり哉
 世にふるはさらに宗祇のやどり哉
 世の中はさらに宗祇のやどり哉
 世にふるもさらに宗祇のしぐれ哉

などのヴァージョンを残している。長慶寺に埋められたのは、残された記録によると、「世にふるはさらに宗祇のやどり哉」と書かれた短冊であったという。

アナログ録音の音楽テープと同じでコピーを重ねるごとに劣化が進む。みじめである。



22.木枯らしや跡で芽を吹け川柳 初代川柳

森下駅から地下鉄に乗って蔵前駅で下車する。

龍宝寺にある初代柄井川柳の伝辞世の句碑を見に行った。日曜日だったせいか山門が閉じられていた。通用門にベルがあったが、わざわざ住職を呼び出すのも気が引けるので、施錠されていない通用門をそっと開けて寺内に忍び込む。



入ってすぐ右手に初代柄井川柳の辞世の句と伝えられる、

木枯らしやあとで芽をふけ川柳

の句碑があった。



いや、軽やかなもんですなあ。

与謝蕪村の最後の句、
 
 しら梅に明くる夜ばかりとなりにけり

よりもさらにしなやかである。

芭蕉の逝去4日前の病中吟、

 旅に病で夢は枯野をかけ廻る

など、年寄りにはゴツゴツと重すぎて消化不良を起こしそうだ。

俳諧や俳句からはずれた雑俳の一つを「川柳」と人名で呼ぶ慣わすことになったのは、普通の人の敬意の表れからだろう。読んで面白いのは子どもの作文と化した芥川賞小説より、直木賞の方である。



23.ひと魂でゆく気散じや夏の原 北斎

龍宝寺からと都営地下鉄大江戸線新御徒町駅に向かってぶらぶら歩く。新御徒町駅のちょっと手前で交差点を右折して、再びぶらぶら歩き続ける。やがて、SEIKYOJI TEMPLEという看板に行き当たる。



Bashoとならび、いやBasho以上に海外でその名を知られている日本人、Katsushika Hokusaiの墓がある誓教寺である。



寺には葛飾北斎の胸像がある。なにやら律儀な篤農家の庄屋さんといった様子で、どうも画狂老人と称した人の迫力に欠ける。ま、銅像なんで作らせるモンじゃない。西郷ドンだって上野の像のおかけで、維新の大立者というより大変コミカルなイメージの田舎のおっさんになってしまった。



北斎の墓はこちら、という案内板があり、墓地に入るとすぐのところに、小さな覆堂におさまった北斎の墓があった。「北斎翁墓」と表札がでている。



墓石には「画狂老人卍墓」と彫られている。墓石の側面には、(じつは覆堂が邪魔で読めないのだが、ものの本によると)北斎の辞世の句「ひと魂でゆく気散じや夏の原」が刻まれている。

 ひと魂でゆく気散じや夏の原 北斎
 旅に病で夢は枯野をかけ廻る 芭蕉

はは、芭蕉と並べて遜色ない。風狂は芭蕉を超える。



24.そんなことどーでもえーじゃないか

都営地下鉄大江戸線を上野御徒町駅で下りて、不忍池にある弁天堂へ行く。お堂は改修工事中らしくすっぽりと覆われていた。



内部は営業中で、奥に仏像らしきものがある。お寺の仏壇風である。しかし、注連飾りがぶら下がっており、木魚の代わりに太鼓が置いてあるので、神社の祭壇風でもある。



うむ。これはお寺か? 神社か? 弁天様は七福神の一人で、インドの神様が日本の土地の神様や神道の神様と混交を重ねてわけの分からない神仏になってしまった。

で、そうした神仏を祭る施設を寺と呼ぶべきか、神社と呼ぶべきか、議論のあるところだろう。寛永寺の出先のお堂として建てられたからお寺、ということもありうる。一方、お寺の中に神社をつくったりする日本的風習がある。

神社であれば、このコラムの対象外だが……と歩いて帰る途中で、おまいりに行くサフラン色の僧服を着たタイのお坊さんとすれ違った。





25.春日さす寺に眠るや局どの

そのむかしとはいえ、さすがにNHKの大河ドラマの主人公としてとりあげられた人物の菩提寺だ。団体でおまいりに来る。



元祖お局様、春日局の菩提寺・麟祥院である。都営地下鉄本郷3丁目駅の近く、瀟洒なお寺である。育てあげて将軍にした徳川家光から贈られた隠居所がのちにお寺になった。

京都にも麟祥院という名のお寺がある。これもまた家光が春日局に贈ったもの。こちらはもともと能楽堂だったそうだが、のちにお寺になった。

徳川幕府という家産官僚体制を男どもがつくりあげた。これとぴったり寄り添うように、女どもがつくりあげた裏組織がお局体制である。その事務局長として権力をふるった人の菩提寺であれば、世間体からして、このくらいの規模が必要だったのだろう。



存続するためには、宗教も俗世の権力と野合する。墓所の見栄えは俗世の権力と比例する。



26.目閉じてはじめて見えるものがある

都営地下鉄大江戸線春日駅で下車、源覚寺ことこんにゃく閻魔へ行く。



お寺の寺務所はビルの中におさまっていた。ビルのてっぺんに「源覚寺」と看板が掲げられていた。閻魔堂は建物と建物の間に窮屈そうに建っていた。



目を患った人がこの寺の閻魔から眼球をもらって目が見えるようになった。いまでいえば角膜移植のようなものか? そこでその人は、お礼に好物のこんにゃくをそなえたという。以後、こんにゃく閻魔と呼ばれるようになった。こんにゃくが閻魔の好物だったのか? それとも目玉をもらった人の好物だった? そのあたりははっきりしない。



それはさておき、わが身を犠牲にして他者を利するのが宗教の根っこだ。ジャータカこと釈迦の本生譚には、釈迦がわが身を捨てて飢えた虎の餌になってやる「捨身飼虎」という物語がある。キリスト教ではキリストがその肉と血をパンとワインとして人々に与えている。オスカー・ワイルドのThe Happy Price(『幸福の王子』)は貧しい人々のために自らの体を剥ぎ取って与えた。ヒンドゥー教には、夕食のナンをくわえて盗んでいった犬を行者が追いかけて捕まえ、「それだけでは物足らないだろう」とギーをぬったうえで、あらためて犬にナンを食わせてやった、というお話もある。



なぜかネオリベラリズムばかりが流行る。浮世の衆があまりにすれっからしばかりなので、せめてお話だけでも、ということなのであろう。昔も今も。



閻魔堂の前にはこんにゃくが積み上げられていた。ところで、このこんにゃくのあと始末はどうするのだろうか。



27.落月や痩せ衰えし峯の影

こんにゃく閻魔から伝通院へ向かう。途中、信濃・善光寺東京出張所のようなお寺の前を通った。



しばらくゆくと伝通院だ。随筆『伝通院』の中で、永井荷風はこのお寺をパリのノートルダム寺院と比べて遜色がないとほめている。ただし、『伝通院』が書かれたのは明治の末期。江戸期から明治期にかけての伝通院の殷賑は遠くなった。いまでは、荷風のほめ言葉は、このあたりで生まれ育った彼の地元びいきの思い入れとしか聞こえない。どうということのないお寺になった。



ここには徳川家康の母親や孫娘その他の身寄りの墓がある。というわけで、寺格があがった。墓地には生前には著名人としてもてはやされた人が何人か眠っている。墓に入るようになっても著名人はサロン好きとみえる。

そうした墓のなかに、眠狂四郎のファンタジーをつくりあげた柴田錬三郎の墓があると案内の立て札にあった。ところがその墓がなかなか見つからない。お墓参りに来ていた人にたずねたら、その墓のご近所で、円い石の玉のある墓とのこと。

円月殺法の生みの親の戒名は、蒼岳院殿萬誉円月錬哲大居士という。墓にはこの戒名もなく、柴田錬三郎の名もない。丸い石の玉の横に、階段状ピラミッドのように積み上げられた墓石があった。齋藤家之墓とだけ刻まれていた。齋藤は妻方の姓である。どうも生前「無頼」で稼いだ人の墓らしくない行儀良さだ。



伝通院の桜、今年は早いそうである。



28.若ければ多少の無茶も神楽坂

都営地下鉄大江戸線牛込神楽坂駅から毘沙門天の善国寺へ行く。この界隈のランドマークである。



神楽坂は江戸時代からの繁華街で戦前までは江戸・東京花柳界の中心だった、そうだ。神楽坂組合(見番)のホームページによると、2006年2月の組合員は料亭9軒、芸妓30人だった。最盛期の昭和12年ごろには料亭150軒、芸妓600人を数えたという。



第二次大戦で焼け野原になった。昭和30年代には料亭80軒、芸妓200人というところまで盛り返した。しかし、その後さびれていった。



昭和30年代といえば、神楽坂はん子、同浮子といった芸者シンガーが世に出たころである。まだ30代の野心満々の代議士カクさんは鼻歌まじりに足しげく神楽坂界隈を遊弋していた。栴檀は双葉より芳しというか、角栄氏は代議士になってすぐ、炭鉱国家管理法案をめぐって収賄容疑で検察に逮捕されている(このときは無罪)。


  江戸名所図会 神楽坂

その神楽坂で踊りの上手な芸妓を愛し、身請けして愛人として囲い、子どもを生ませ、認知した。ゴシップ好きの方は、辻和子『熱情―田中角栄をとりこにした芸者』講談社、2004年、をどうぞ。



29.命かけ比翼の鳥を演じおり

まもなく用あって鳥インフルエンザで死者が出ているインドネシアへ行く。あそこのサテ・アヤムやアヤム・ゴレンは好物だ。とはいえ、今回はむやみな買い食いは慎むことにしよう。

テレビも新聞も鳥インフルエンザがやがてパンデミックになるといっている。20世紀はじめ「スペイン風邪」とよばれたインフルエンザが世界を襲った。世界中で死者推定2,500万人、日本の死者は38万人余。スペイン風邪のウイルスももともとは鳥インフルエンザ・ウィルスだった。



さて、このスペイン風邪で東京では1918年11月に島村抱月という新劇運動指導者が死んでいる。抱月と新劇の師弟関係、芸術座の共同設立者、愛人関係にあった松井須磨子という役者が抱月の死に落胆して1919年1月に後追い自殺した。間接的なインフルエンザの犠牲者だ。牛込の芸術倶楽部で首をつった。



東京新聞の前身『都新聞』よると、赤い帯をつかって首をつったという。赤というのが役者の色気だ。

都新聞によると、須磨子の遺体は遺言の希望によってちょうど2ヵ月前に抱月を荼毘に付した同じ釜に入れられた。だが、そこまで。



須磨子の遺言状にあったいまひとつの希望である抱月と同じ墓に入れて欲しいという願いはさすがにかなえられなかった。抱月の墓は雑司が谷霊園につくられ(のちに島根県の郷里の寺に分骨)、須磨子の骨は郷里の信州松代に埋められたが、後に分骨、新宿区弁天町の多聞院に墓が作られた。都営地下鉄牛込柳町駅からちょっと歩いたところにある。



30.何となう死に来た世の惜まるゝ    漱石
    鐘の音のほそき唸りや春ゆれて   鰻鱈


都営地下鉄大江戸線を若松河田駅で下りる。



地上に出る最後のエスカレーターを上りきったあたりにこのような張り紙があった。遅い。エレベーターにこれから乗るというあたりに張っておかないと間に合わない。

夏目坂に出る。夏目漱石の生まれたのがこのあたり。漱石の父親が界隈の名主だったので、夏目坂の名がついたという。



漱石の匂いなど皆無の、どうということのないゆるゆるとした坂道である。



ここ誓閑寺がある。この寺もまたどうということもない。新宿区観光協会が
夏目漱石は自宅すぐ近くの誓閑寺の鐘の音について、随筆『硝子戸の中』でふれています。その「梵鐘」(区指定文化財)は、今も境内に残されています。区内最古の梵鐘といわれ、「荏原郡」の在銘と寄進者名が刻まれていることから、天和2年(1682年)頃、すでに豊島郡になっていたこの地が、いまだ旧郡名の「荏原郡」とよばれていたことがわかります

と案内しているように、漱石が『硝子戸の中』でこの寺の鐘に言及した、というだけで界隈の名所になっている、ことになっている。もってまわった言い方をしたのは理由がある。まず、寺は夏目坂からちょっと奥まったところにあって探しにくく、通りのコンビニで「誓閑寺はどこでしょう」と訪ねたが、店員さんはあいにくご存じなかったからだ。誓閑寺はそのコンビニから50メートルも離れていないところにあった。



そんな寺である。では、漱石はその寺の鐘についてどんなことを書いたのか。引用する。

……半町程先に西閑寺(誓閑寺)といふ寺の門が小高く見えた。赤く塗られた門の後ろは、深い竹藪で一面に掩はれてゐるので、中に何んなものがあるか通りからは全く見えなかったが、其奥でする朝晩の御勤めの鉦の音は、今でも私の耳に残ってゐる。ことに霧の多い秋から木枯らしの吹く冬に掛けて、カンカン鳴となる西閑寺の鉦の音は、何時でも私の心に悲しくて冷たい或物を叩き込むやうに小さい私の気分を寒くした。


世の中、えてしてこんなものである。漱石が子どものころ冷え冷えとした気持ちで聞いたのは「鐘」ではなく「鉦」の音だったのだ。鐘は大型で撞く金属打楽器であるが、鉦は小型で叩くものである。どこでどうこんがらがったものか?

若松河田駅の隣の東新宿、新宿西口あたりにはこれといって気をひくお寺がないので、灌頂芳香(環状彷徨)都営大江戸線お寺めぐりはこれでおしまい。ご愛読を感謝。



                   ――完――
                    (2007.2.26)
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