逆めぐり「奥の細道」

2006年春―夏
大歩危閑散人
 




30 ふたみへ別るる大垣の

田中昭三『芭蕉塚蒐』によると、1991年の時点で、日本国内に芭蕉の碑が2,442あったという。北は北海道の7基から、南は鹿児島まで、九州全域では計216基と芭蕉塚は広がっている。芭蕉の紀行の北限は中尊寺のある岩手県・平泉、西限は神戸市・須磨海岸である。芭蕉が足をのばしていないところにも芭蕉の碑が建てられているわけだ。空海足跡の伝説や、円空彫刻の広がりには及ばないが、芭蕉もまた日本の旅のスターなのである。

西行、宗祇と芭蕉の3人が古典世界の吟遊詩人トリオである。芭蕉は西行と宗祇の2先輩を追って旅に出た。現代の旅人、われわれの旅のほとんどがそうであるように、芭蕉の旅もまた追体験のそれであった。

  年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山  (西行)
  世にふるもさらに時雨のやどりかな           (宗祇)
  世にふるもさらに宗祇のやどりかな           (芭蕉)

その芭蕉の最大の旅が1689年の「奥の細道」の行程で、5月16日(旧暦3月27日)に深川を発ち、約5ヵ月後の10月初旬に旅の終わりの大垣にたどり着いた。



与謝蕪村筆「奥の細道画巻」から大垣の段 (逸翁美術館本)

芭蕉は大垣を4回訪れている。友人の谷木因が住んでいたからであった。木因は北村季吟のもとで芭蕉ともども俳諧を学んだ同門の友人。岐阜大垣の廻船問屋の主で、当時の大店の旦那あるいは隠居の教養科目としての俳諧の岐阜における中心人物だった。

大垣は水運の町で、揖斐川につながる運河・水門川が桑名や三河と大垣を結ぶ人とモノの輸送ルートだった。水門川沿いに芭蕉の「奥の細道」の旅の終点を記念して「奥の細道むすびの地記念館」が建てられている。



水門川


芭蕉は大垣で弟子の路通、曽良や大垣の俳諧愛好者ら12人で歌仙「はやう咲」を巻いている。大いなる感銘を受けるほどの作品ではない。その後、芭蕉は水門川の船町港から舟で揖斐川へと出て、長島・桑名経由で伊勢に向かった。船町港跡には灯台が残っている。



  秋の暮行先々は苫屋哉   木因
  萩にねようか荻にねようか はせを
  霧晴ぬ暫ク岸に立給へ   如行
  蛤のふたみへ別行秋そ   愚句(芭蕉)

船町にある芭蕉送別句塚には上記のような句が刻まれている。同じ船町の蛤塚には

  蛤のふたみに別行秋そ   芭蕉

と刻まれている。『奥の細道』執筆のさい「ふたみへ」を「ふたみに」と修正したらしい。

さて、奥の細道の数年後に深川の芭蕉が大垣の木因に宛てた手紙によると、芭蕉は木因から紙を送ってもらった礼を述べている。時期的に見て、芭蕉はこの紙を使って、『奥の細道』を書いたのではないか、という説もある。芭蕉は、木因にはことのほか世話になった。しかし、『奥の細道』大垣の段では、路通、曽良など6人の名をあげている一方で、木因の名はいっさい出していない。後年の芭蕉・木因不仲説など、芭蕉の研究家の説はさまざまである。風雅の世界にもまた、興味津々の人間模様が織り込まれている。



左から木因、芭蕉の人形


桜東風一歩踏み出す背にうけて峠越えればきょう春時雨
                         (閑散人 2006.3.31)




29 わびにさびたる種の浜(色の浜)

敦賀に着いた芭蕉は敦賀湾を船で渡り、敦賀(立石)半島の色の浜を訪ねた。そのあと再び敦賀に戻り、ここで芭蕉を出迎えた弟子・路通を従えて大垣に向うことになる。

路通は芭蕉の奥の細道の旅のお供の候補者にあげられたこともあったが、芭蕉の高弟たちが、あいつはいい加減なところがあり信用できないと反対し、結局、路通に代わって曽良が起用されることになったという。路通は20代から乞食をしながら諸国を放浪。その途中、琵琶湖畔で芭蕉にめぐり会った。弟子になり江戸・芭蕉庵近辺に住み着いた。しかし、性格にいい加減なところがあってのちに芭門から放逐された。

孔門十哲、釈迦十大弟子にならって、芭蕉の門人のうち,代表的な10人を蕉門十哲と呼び習わしている。その顔ぶれには諸説ある。曽良が十哲入りしているヴァージョンもあるそうだ。だが、路通はいずれの説でも十哲の選にもれている。その程度の評価を受けている俳人だ。



對雲筆「芭蕉と蕉門十哲図」

その路通の句に、

  鳥共も寝入てゐるか余吾の海

があり、芭蕉が「此句細みあり」とほめたと『去来抄』にある。「ほそみ」とは「わび」「さび」「しをり」など数ある蕉風俳諧のキーワードのひとつ。繊細な感受性の表れをそうよんだのであろうと想像される。路通の「鳥共も」の句は、

  こころなき身にもあわれはしられけり鴫立沢の秋の夕暮 (西行)

と同工異曲のようにも感じられる。このような情緒を芭蕉は「ほそみ」と名づけたのであろう。

さて、芭蕉は、
  
  汐染むるますほの小貝拾ふとて色の浜とはいふにやあらん  西行

を胸に色の浜に向かった。

その甲斐あって、芭蕉は色の浜で、王朝文化の「あはれ」、『新古今』の「寂しさ」を超える俳諧の「侘び」「寂び」を発見したのだそうである(尾形仂『おくのほそ道評釈』角川書店、2001年)。『奥の細道』は芭蕉が旅の中で求め続けた俳諧の美のパラダイムを種の浜でついに発見するという構成になっている。

俳諧の「さび」について、芭蕉は自らの筆できちんとした定義を書いていない。中世連歌の「ひえ」「やせ」「からび」や利休の「わびすき」といった、「閑・寂・枯・淡」の変相なのであろう。『去来抄』は、

  花守や白きかしらをつき合せ  去来

を芭蕉が「さび色よくあらはれ、悦候」と評したと書きとどめている。

芭蕉のいう「わび」もまた定義が曖昧だが、世俗の価値観を否定することを通じて精神を拘束するしがらみを解き、物質的な貧しさを希求することで精神的な豊かを招来しよう、という美意識のようである。

このような、「わび」「さび」の原型を芭蕉は西行に求めている。出家、旅、雪月花を愛でる数寄心。後世の連歌師は西行にあこがれ、江戸時代の俳諧師芭蕉もまた人生観や美意識の師として西行を仰ぎ見た。

芭蕉は『奥の細道』種の浜の段を、次のように書いている。

  十六日、空霽たれば、ますほの小貝ひろはんと、種の浜に舟を走す。海 上七里あり。天屋何某と云もの、破籠・小竹筒などこまやかにしたゝめさ せ、僕あまた舟にとりのせて、追風時のまに吹着ぬ。
  浜はわづかなる海士の小家にて、侘しき法花寺あり。爰に茶を飲、酒を あたゝめて、夕ぐれのさびしさ、感に堪たり。

  寂しさや須磨にかちたる浜の秋
  波の間や小貝にまじる萩の塵

  其日のあらまし、等栽に筆をとらせて寺に残す



侘しき法花寺こと本隆寺の芭蕉碑

夕暮の日本海・敦賀湾の色の浜の海辺に立ち尽くす芭蕉と等栽、清貧の美の求道者ふたりの姿が眼に浮かぶ。「種の浜の段」はそういう仕掛けになっているのだが、実のところ……。

天屋何某というのは敦賀の廻船問屋の主、天屋五郎右衛門で俳号を玄流。土地の俳人であった。芭蕉に先行して敦賀に来た曽良がこの人に頼んで師匠の色の浜行きの船の手配を済ませていた。「天屋何某と云もの、破籠・小竹筒などこまやかにしたゝめさせ、僕あまた舟にとりのせて、追風時のまに吹着ぬ」とあるから、船にたっぷりとご馳走を積み、お伴の者も多勢乗り込み、芭蕉と等栽ともども色の浜に向かったのである。蓑笠庵梨一『奥細道菅菰抄』によると、天屋何某自身も芭蕉と一緒に色の浜に渡っている。

「爰に茶を飲、酒をあたゝめて、夕ぐれの寂しさ、感に堪たり」という芭蕉の記述に反して、この日のご一行はピクニック風になかなかにぎやかだったのではないか、と思える。

上記、芭蕉の種の浜訪問の詳細は、今で言えば、テレビ局の取材に似ている。「わび」「さび」にみちたシーンを創造するために、にぎやかなクルーが浜をにぎわしたのである。美の核心は「どう見えるか」ということよりも、「どう見るか」ということにある。したがって、芭蕉が孤独のうちに色の浜の夕方を眺めようが、にぎやかなおつきの人々に取り囲まれてそれを眺めようが、そこから抽出してできあがった「わび」「さび」の値打ちに何の変わりがあるわけではない――まぁ、それもたしかに理屈、ではあるのだが…。



色の浜

夕暮は波の寄せ引く種の浜酒をあたためわび色に染む               
                        (閑散人 2006.4.5 )




28 月は敦賀の

「名月はつるがのみなとにとたび立」と、芭蕉は福井から敦賀に向かった。敦賀は「この蟹や いづくの蟹 百伝ふ 角鹿(つぬが=敦賀)の蟹 横去らふ いづくに至る」(古事記・応神天皇)以来の歌枕である。その敦賀の地で旧暦八月十五夜の名月をながめようというのが、『奥の細道』をしめるにあたっての芭蕉の趣向だった。

日本の古い詩歌は月を好んで歌う。宗祇は79歳のおりの「独吟何人百韻」で、100句のうち10句で月を詠んだ。書割りならぬ一割の月である。その月を愛でるのは中国からきた伝統だ。
 
  峨眉山月半輪の秋
  影は平羌江水に入って流る
      (李白「峨眉山月歌」)

  露は今夜より白く
  月はこれ故郷に明るからん
        (杜甫「月夜憶舎弟」)

  人には悲歓離合あり
  月には陰晴円欠あり
        (蘇軾「水調歌頭」)
  
  この生この夜長くは好からず
  明月明年いずれの処で看ん
        (蘇軾「中秋月」)

『奥の細道』によると、芭蕉は月の明るい旧暦8月14日の夜、敦賀の気比神社に参拝して、

  月清し遊行の持てる砂の上
  名月や北国日和定めなき

と詠んだ。



気比神社の芭蕉像

伝えられるところでは、芭蕉はこの夜、この2句以外に13句、あわせて15句をいっきに詠んだとされている。いわゆる「芭蕉翁月一夜十五句」である。『奥の細道』の「大垣」の段に名前が出て来る、大垣における芭蕉の弟子、宮崎荊口が残した『荊口句帳』に、そのうちの14句がメモされていた。


  名月の見所問はん旅寝せん
  あさむつを月見の旅の明け離れ
  月見せよ玉江の芦を刈らぬ先
  明日の月雨占なはん比那が嶽
  月に名を包みかねてや痘瘡の神
  義仲の寝覚めの山か月悲し
  中山や越路も月はまた命
  国々の八景さらに気比の月
  月清し遊行の持てる砂の上
  名月や北国日和定めなき
  月いづく鐘は沈める海の底
  月のみか雨に相撲もなかりけり
  古き名の角鹿や恋し秋の月
  衣着て小貝拾はん種の月

しかし、これらの句は、たとえば、筆者の好みの古典月3句、
  
  名月や畳の上に松の影    其角
  月天心貧しき町を通りけり  蕪村
  月早し梢は雨をもちながら  芭蕉

と比べると、水準に達していない。「古き名の角鹿や恋し秋の月」などは推敲の手が入っていないせいか、いかにも初心者くさい。

いにしえの恋焦がれたる歌枕角鹿の国の月は待宵
                     (閑散人 2006.4.9)




27 福井の庵の借り枕

芭蕉は福井で旧知の等栽のもとをふらふらっと尋ねた。そのまま等栽のあばら家で2晩やっかいになった。それから等栽と2人で敦賀に向かう。

『奥の細道』では、等栽の庵を訪ねたあてたとき、ご本人は留守。無愛想な等栽の妻に「等栽は用があって出かけた。用があるならそこを訪ねよ」といわれ、出かけた先の家で等栽に会っている。続いて『奥の細道』は、

その家に二夜とまりて、名月はつるがのみなとにとたび立

と書いている。その家とはどこの家か? その家が@等栽の家をさすのか、A等栽が訪れていた先の家なのか不明である。まずい文章の一例だ。こんな文章を書いてはいけない。

これまでのところ、芭蕉は等栽の家に泊まったことになっている。しかし、芭蕉が等栽の家に2晩泊まったというのは、芭蕉の作り話だという見方もある。主の出かけた先の家に行けという妻の言は不自然で、実際には芭蕉は等栽が世話した宿に泊まったのだが、それではあまりに曲がないので、等栽の家に泊まったように書いた(齋藤耕子「おくのほそ道解釈の不思議―芭蕉が福井で泊まった家は」『若越俳史』75)。

福井市内に左内公園という小さな、余り立派ではない公園がある。左内公園という名は、そこに橋本左内の堂々たる像が建てられていることに由来する。



橋本左内は、幕末の越前・福井藩士だ。大阪・適で医学を勉強した。藤田東湖、西郷隆盛、横井小南らと交友があった。開国派で、井伊直弼の安政の大獄で処刑された。

その橋本左内10代の作といわれる『啓発録』に次のような言葉がある。

  男子たるものが憂慮するところは、ただ国家が安泰であるか危機に直面
  しているかという点のみ。

同じ江戸時代でも、疾風怒涛の徳川時代末期に入っていた。芭蕉が旅におぼれていた元禄とでは大違い。

その左内公園の片隅に史跡「芭蕉宿泊地洞栽(等栽)宅跡」がある。その説明文によると「洞栽という人は、貧しい暮らしをしており、芭蕉が訪れたときも枕がなく、幸い近くの寺院でお堂を建てていたので、ころあいの良い木片をもらってきて芭蕉のまくらとした」という。


 
芭蕉は知的に把握した「わび」を、杜甫らの詩のイメージにわせて追体験しようとした。そうした「わび」という生活上の理念の反映が、俳諧における「さび」である(復本一郎『芭蕉における「さび」の構造』)。

  芭蕉野分して盥に雨をきく夜哉

『奥の細道』福井の段も、そのあたりの貧乏ごっこの美学をねらった演出なのだろうが、ピンとくるものが余りない。芭蕉自身もこの段には句を添えていない。

せめて蕪村の絵を見てなにかを感じていただきたい。



与謝蕪村筆「奥の細道画巻」から福井の場面
 (王舎城美術宝物館本)

深川にあればたまには伽羅枕旅にしあれば丸太にて寝ん
                       (閑散人2006.4.15)




26 裂けども分かれぬ永平寺

永平寺を開いた道元はずいぶんと癇症な人だったらしい。あるとき、道元は弟子の一人の言行に怒り、その僧を破門した。破門しただけではなく、その僧が座禅していた床板を剥ぎとり、さらに、その床下の土を1メートルほど掘り出して寺の外に捨てた、という伝説が残っている。



永平寺はきびしい修行の寺である。起床時刻は午前3時半である。修行僧は永平寺のあの長い廊下を掃除するときは厳寒期でも素足になる。僧堂の1畳の空間に寝て、半畳の空間で結跏趺坐する。エアコンはない。寺の受付の若い僧に「寒いでしょうね」とたずねたら、「寒くない」とは答えなかった。体育系以上の限界状況下で生活している。にもかかわらず、名僧は長生きだ。粗衣・粗食、ストイックな生活が健康にいいのだ、という説がある。また、そのようなすさまじい生活をのりきれる体力のあるものだけが生き残って、やがて名僧と呼ばれるようになるのだ、という説もある。



道元という人は座禅一筋のお方で、堂内ではたとえ禅の本であれ読書を禁じた。とはいうものの、一方で不立文字を掲げつつ、他方で自身は『正法眼蔵』という、深遠かつ退屈な大著をものした。ときに、歌も読んだが、

  いたづらに過す月日は多けれど道を求むる時ぞすくなき

などという、退屈なものだった。恋歌が得意だった以前の坊さんとだいぶ違う。

芭蕉もこの永平寺を訪れているが、その記述は、

  五十丁山に入て、永平寺を礼す。道元禅師の御寺也。邦機千里を避て、
  かゝる山陰に跡をのこし給ふも、貴きゆへ有とかや

と、素っ気なく筆をはしょっている。芭蕉はどうやら禅だの修業だのにはあまり関心がなかったようだ。心にかかるのはいつも人情の機微だった。金沢から同行してくれた北枝と丸岡(松岡)・天竜寺で分かれるとき、

  物書て扇引きさく名残哉

と詠んでいる。

この句の原型は「もの書て扇子へぎ分る別哉」だった。

この2つの句の鑑賞については諸説あるが、そのうちのいくつかを紹介する。

尾形説では、「へぎ分る」は実につき過ぎてくどく、「引きさく」という激しい動作にともなう悲痛の情の強さに及ばない。「引きさく」と言った場合には、芭蕉の発句の書いてあるほうを北枝が、また北枝の脇が書いてある部分を芭蕉が持つのである。…・・・思い切って扇を引きさいて別れを告げながら、かつ、なごりを惜しむという屈折した気持ちのあやがでている(尾形仂『おくのほそ道評釈』)とする。

保田説では、「近代俳句観からみると、何といふ誇張かといふやうに考へられ易いが、常住これほどの意気の間に出没してゐたのが往年の俳諧である」。当時の俳諧はイキが良く、強気で、壮者の文学だった。元禄の文学青年は俳諧の周辺に集い、国学時代はその周辺にあり、明治前期は新聞記者の中にあり、大正時代は小説の周辺に集まり、昭和初期には左翼運動の雰囲気にあった(保田與重郎「扇ひきさく」『保田與重郎全集 第18巻』)とし、日本浪漫派の旗手の面目躍如である。ただし、保田は、
  
  この秋は何で年よる雲に鳥

について、「大なる嘆きの中に、萬代の青春をして、その心魂を氷らせるやうな沈痛の雄心を味ふべし」と見立てている。だから、先の解説もそこそこに聞いておく必要がある。この手のレトリックをつかえば、

  古池や蛙飛びこむ水の音
  閑さや岩にしみ入る蝉の声

も、「閑寂の中にこそ乾坤の大音声を聞け」ということになろうか。

安東説では、字を書く以上、白扇だ、というところがみそだと言う。無(白扇)を捨てることはできぬが、さりとて書けば捨扇にならぬ、という絶対矛盾に禅機をもとめた句であるとする。つまり、「物書て扇引きさく」とは分かれずに済すくふうである(安東次男『おくのほそ道』)ということになる。こうなってくると、この項の筆者には「!?」である。



春寒し泊瀬の廊下の足のうら 炭太祇

月も見ず花も愛でずに板のうえ沢庵石に時は流れて
                    (閑散人 2006.4.18)




25 汐越の松こそめでたけれ
 
芭蕉の西行信仰にはちょっと度を越したところがあり、たとえば、廣田二郎は、芭蕉の『野ざらし紀行』の、

  独よし野のおくにたどりけるに、まことに山ふかく、白雲峰に重り、
  烟雨谷を埋ンで、山賤の家処々に小さく、西に木を伐音東にひびき、
  院々の鐘の声は心の底にこたふ
 
というくだりは、

  あかつきのあらしにたぐふかねのおとを心のそこにこたへてぞ聞く 西行

を下敷きにしているという。芭蕉は心中ひたぶるに西行を思いつつ吉野の山中をさまよい、鐘の音が聞こえてくると、西行の歌を通して、西行が聞いたように「心の底にこたえて」鐘の音を聞いた。その鐘の音のイメージによって、峰に重なる白雲、谷を埋める烟雨、山賤の家、など取り出し、吉野山の全体的把握をおこなった(廣田二郎『芭蕉 その詩における伝統と創造』)。

汐越の松をたずねた芭蕉は『奥の細道』に次のように書き残している。



  越前の境、吉崎の入江を舟に棹さして、汐越の松を尋ぬ。
   夜宵嵐に波をはこばせて
    月をたれたる汐越の松   西行
  此一首にて数景尽たり。もし一弁を加るものは、無用の指を立つるがごとし。



芭蕉自筆『奥の細道』汐越の段

ここの風景は「一晩中海は荒れて、その嵐で打ち寄せられた波の汐をかぶった汐越の浜辺の松から、汐のしずくが月の光りの中でしたたっている」という西行の歌に尽きている。これ以上を何をいおうと、それは蛇足にしかならない。芭蕉はそのように断定した。

汐越の松の旧跡は福井県あわら市浜坂の芦原ゴルフクラブ内にある。ゴルフクラブに電話で見学をお願いし、係りの人に案内していただいた。奥の細道をたどる旅人が年間数百人がこの汐越の松を訪ねてくるそうである。芭蕉の碑は、以前はがけ下の海岸線近くにあったが、浜辺が侵食されて交代したので、上に移されたという。松と海が美しい場所である。



ところが、芭蕉が奥の細道を旅して百年近く後に著された蓑笠庵梨一の『奥細道菅菰抄』が「夜宵嵐に波をはこばせて月をたれたる汐越の松」は西行の歌ではなくて、蓮如上人の歌である言われていると、芭蕉の勘違いを指摘した。現代の芭蕉研究者は、素人くさい、あまり上手でもない「夜宵」の歌になぜ芭蕉がコロリと騙されたのか、不思議がっている。 

汐越までわざわざ足を運んだ芭蕉は、この歌が西行の歌であり、それもかなり上出来の歌だと死ぬまで信じて疑わなかった。野球では名選手必ずしも名監督ならず、という。芸術の世界でも制作の名手必ずしも作品の目利きであるとは限らない一例であろう。



世も末だカモメにボール運ばれてツキはおちたり汐越の松
                         (閑散人 2006.4.24)





24 片腹痛き山中の
 
  山中や菊はたおらぬ湯の匂

意味的には隔靴掻痒のこの句をあげて、ホモっ気のある芭蕉が、山中温泉で逗留した温泉宿・和泉屋の主人である当時14歳の久米之助少年の姿をめでつつも、まあやめておこうか、と考えたという意味の句だと、嵐山光三郎『奥の細道温泉紀行』の一節「山中温泉『菊』の謎」はいう。芭蕉がこの少年をかわいがって、「桃妖」という意味ありげな俳号を与えているので、ひょっとしたら芭蕉は「手折ったのかも」と嵐山はかんぐるのである。

芭蕉の衆道好みについては、芥川龍之介も『芭蕉雑記』で取り上げている。芥川は、芭蕉もまた「分桃の契り」を愛したかもしれないが、本格的なものだったとは考えにくいとしている。



山中温泉外湯「菊の湯」

それはさておき、芭蕉が泊まった和泉屋は今日すでになく、その跡地付近には外湯「菊の湯」が建てられている。男湯と女湯が別々の建物になっている豪勢な外湯だ。男湯につかってみたが、浴槽は泳げるほどに広く、また深かった。1メートル以上の深さだった。「菊の湯」の近くには「山中座」がある。ここではピアノ・トリオによるモダンジャズの演奏会もやる。公演予定表にそのような案内があった。



芭蕉は山中でお供の曾良と別れた。

『奥の細道』は次のように物語る。

 曾良は腹を病て、伊勢の国長島と云所にゆかりあれば、先立て行に、
  行き行きてたふれ伏とも萩の原  曾良
 と書置たり。行ものゝ悲しみ、残るものゝうらみ、隻鳧のわかれて雲にま
 よふがごとし。予も又、
  今日よりや書付消さん笠の露

『笈の小文』の同行者で芭蕉とのホモ仲を疑われている(芥川は畢竟小説と言下に否定している)杜国との旅で芭蕉は「乾坤無住同行二人」と笠の内側に書いた。曾良との旅でも同じような内容の書付があった、と推測されている。

しかし、胃痛にがまんできず曾良は長島に旅立つ。ひとりになった今となってはこの書付は消さなくてはならない。笠についている涙の滴でこれを消そうか、と解釈されている。山本健吉(『奥の細道』)などがこの説をとる。ドナルド・キーンの英訳(The Narrow Road to Oku, Tokyo, Kodansha, 1996)も

 Today I shall wipe out 
 The words written in my hat 
 With the dew of tears.

と芭蕉が自らの手で消す、という解釈にたっている。

一方、「笠の露が消してくれるであろう」という解釈もあり、 Nobuyuki Yuasa訳のMatsuo Basho: The Narrow Road to the Deep North and Other Travel Sketches, London, Penguin Books, 1966 は、

 From this day forth, alas,
 The dew-drops shall wash away
 The letters on my hat
 Saying ‘A party of two’.

としている。

自分で消そうが、露で自然に消えようがたいしたことではない。だが、次のことはわけがわからない。今日の常識から考えると、病人を一人で旅立たせるのは異常かつ薄情な行為である(元禄でもそうだったろうと愚考する)。普通であれば、温泉滞在を延ばして友の回復を待つだろう。芭蕉は無情にも曾良をひとり先行させた。曾良の気分は、

  行き行きてたふれ伏とも萩の原

によくあらわれている。

それを受けて芭蕉が、

  今日よりや書付消さん笠の露

と、ボルテージをあげた。



与謝蕪村筆「奥の細道画巻」から山中の段 (逸翁美術館本)

そうか、これまた『奥の細道』の作為なのだ。「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也。舟の上に生涯を浮べ、馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして旅を栖とす」の延長上にある創作なのだ。ただ、作為が過ぎ現実味に欠けるので、ドラマツルギーとしては下手くそだ。

それはさておき、ヘロドトス、法顕、玄奘、イブン・バトゥータ、マルコ・ポーロ、河口慧海といった長距離旅行者からみれば、ほんの箱庭散歩にすぎない東北旅行で、これほどの愁嘆場はいささか過剰であろう。

もし、「笠の露」が演技でないのであれば、芭蕉と曾良の間に何かきまずい行き違いがって別れたという説にも説得力がある。

  曾良「ああ、先に行きますよ。行けばいいんでしょう。私なんぞ道中一
     人でくたばればいいんでしょう」
  芭蕉「お前の名前なんか笠から消してしまうぞ」

実は、曾良が去ったあとも、芭蕉の旅は一人旅ではなかった。金沢から芭蕉と曾良に同行して山中温泉まで来ていた北枝が、芭蕉を福井付近までエスコートして行った。

「旅人と我名よばれん初しぐれ」「野ざらしを心に風のしむ身かな」などと、漂泊のベテランをきどりつつも、芭蕉は曾良なしの旅は心細かったことであろう。曾良は江戸では芭蕉の弟子兼執事兼秘書役、奥の細道の旅路では加えて、コース・ガイド、資料収集係、パーサー(ありていに言うと金の工面係)などを担当したといわれている。曾良は芭蕉より一足先に敦賀にたどり着き、後から来る芭蕉のためにと、その地の知人に金1両を託した。サンチョのセコンドがなければキホーテはなく、曾良がアテンドしなければ芭蕉の奥の細道はありえなかった。


笠ふたつ秋霖に揺れみぎひだりいずれ三途の岸でまみえん                                           (閑散人 2006.4.27)




23 那谷寺の白い秋



芭蕉は『奥の細道』那谷寺の段で、

  石山の石より白し秋の風

と句を添えている。

この句の解釈をこれまでにめぐって、少なくとも3つの見解が立てられてきた。

  @那谷寺の石山より秋の風はもっと白い。
  A近江の石山より那谷寺の石山の方がさらに白い。
  B近江の石山より那谷寺の石山の方が白い。秋風はさらに白い。



芭蕉研究者の間では、@芭蕉の時代には那谷寺の石を近江の石山の石と比べる慣わしがすでにこの地にあった、A「青春、朱夏、白秋、玄冬」の中国の五行説にもとづいた発想である、Bいや、白く身にしみる秋風は和歌の伝統的情感である。芭蕉はそれに従ったのだという説など、侃々諤々のディベートがあった。

  吹き来れば身にもしみける秋風を色なきものと思いけるかな  紀友則
  白妙の袖の別れに露落ちて身にしむ色のあきかぜぞふく    藤原定家
  おしなべて物を思はぬ人にさへ心をつくる秋の初風      西行法師

上記のような和歌の伝統にのって、芭蕉は那谷寺境内の森閑とした静けさ、石山の冷厳な姿のなかに、寺ゆかりの人として伝説になって残っている花山院の生涯に思いをはせ、自然と人生の寂寞感を対置させたという解釈(尾形仂『おくのほそ道評釈』)には、それなりの説得力がある。

さらに、安東次男は大胆不敵にも、下記の金沢での句@Aに続いて那谷寺のBを入れることで、
  
  @塚も動け我泣く声は秋の風    (凄)
  Aあかあかと日は難面もあきの風  (紅)
  B石山の石より白し秋の風     (白)

「凄日、紅日、白日」秋三部を工夫したのだとしている(『おくのほそ道』)。

とはいうものの、那谷寺の石山そのものはすでに写真でご覧のとおり白くはない。しかし芭蕉にはこの石山を白くみる必要があった。初めにわが詩の構想があり、それに合わせて彼は現実をそのように脚色したのである。写生ではないのだ。

ただ、「塚も動け我泣く声は秋の風」「あかあかと日は難面もあきの風」「石山の石より白し秋の風」という風が吹き続くとやはり疲れる。芭蕉は読み手を疲れさせることが多い。こうしたときに、

  大いなるものにいだかれあることをけさふく風のすずしさにしる  山田無文

などを読むと、正直ホッとする。



かあかあと烏さわぎいる夕陽に
      白々しくも秋風ぞ立つ

            (閑散人 2006.4.30)




22 小松の兜にむせび泣く

金子兜太他編『現代歳時記』で「きりぎりす」をひくと、

  むざんやな甲の下のきりぎりす    芭蕉
  きりぎりす赤子の呼吸見てをりぬ   日原傳
  柱多き生家の奥のきりぎりす     大石雄鬼
  一匹は愛人のいるきりぎりす     川崎ふゆき
  きっかけの風を待っているきりぎりす 山本敏倖

と例示されている。芭蕉以下、難解な句ばかりである。すべてが心象、あるいは寓意、または象徴の風景である。その心は17文字におさまりきらず、重要なキーが積み残されている。



たとえば、芭蕉の『甲の下』という句は、関が原の古戦場ででも詠んだ句であろうか?それとも、一の谷だろうか、壇の浦だろうか、桶狭間だろうか? 

芭蕉は鎧と兜を意味する「甲冑」の「甲」の方を句に読みこんだが、現在では実は「冑」あるいは「兜」の方だったと一般に考えられている。「兜の下」よりも「鎧の下」のほうが、重みを感じさせると芭蕉は考えたのだろうか? 単に彼が字の意味に無神経だっただけのことだろうか?



それはさておき、『奥の細道』について、井本農一は「紀行が普通の散文ではなく、俳諧と一体不可分の関係にあり、俳諧の発句を抜きにして紀行が考えられない」と説明している(『芭蕉の文学の研究』)。というよりも、『奥の細道』全編が発句とその前書きをつなぎ合わせて構成されているように、この連載の筆者は感じる。前詞としての紀行の地の文があってはじめて、発句の解釈が成立する(それでもなお、成立しないものもある)。一方、地の文は独立した紀行文としてはそもそも力不足を否めない。

『奥の細道』小松・多太神社の段で、芭蕉は実盛の亡霊を呼び出している。

此所、太田の神社に詣。真盛が甲・錦の切あり。往昔、源氏に属せし時、義朝公より給はらせ給とかや。げにも平士のものにあらず。目庇より吹返しまで、菊から草のほりもの金をちりばめ、竜頭に鍬形打たり。真盛討死の後、木曾義仲願状にそへて、此社にこめられ侍よし、樋口の次郎が使せし事共、まのあたり縁起にみえたり。


 
上記の前書きがあって初めて、「甲の下のきりぎす」の句意がはじめてわかる。



1943年に書いた評論「甲の下のきりぎりす」で、保田與重郎は「ともかくも『奥の細道』には、さふいう義士烈婦に感動した作が多く、ついで慟哭した作がつづいている。その慟哭は、個人の義挙に対する道徳的感情を、己の生命の道として生きるところに現れる」とする(『保田與重郎全集 第18巻』)。芭蕉は人心の創造力を彷彿させるような道徳・義心を表現した美談に感心し喜んだ。「その志が激しい義心に泣き、その心が慟哭の作を生む。その心はつねに慟哭する状態にある心で、何に当たって慟哭するかは第二義の問題でさえあった」と保田は説明する。「何に当たって慟哭するかは第二義の問題でさえあった」という保田のユニークな説明が、『奥の細道』の作為的なテンションの高さの理由をよく説明している。

山本健吉は「知的解釈の必要性や感情の露骨な説明、古典への未練がつき纏い、それが一句の完成を妨げたように思う」という萩野清のコメントを酷だとする。山本は「冑から実盛の首級を想起し、それがきりぎりすの幻想へ連鎖することを思えば、それはまさに実盛の亡霊の化身である。実盛の亡魂を登場させる謡曲を発想の典拠とすることによって、彼の詩的イメージは幾重にも延び広がって行くのだ」と芭蕉を弁護している。(『山本健吉全集 第5巻』)

芭蕉の句には一句独立しての鑑賞が困難なものが目につく。鑑賞に「理屈」が必要なものが多い感じがする。たとえば、『猿蓑』冒頭の二句。

  初しくれ猿も小蓑をほしけ也     芭蕉
  あれ聞けと時雨来る夜の鐘の声  其角

其角の時雨は説明抜きでストンと落ちるが、芭蕉のそれには何がしの前詞が必要であろう。芭蕉はしょせん五七五の文字数では表現できかねるような世界を、推敲に推敲を重ね、無理やり17文字につめこもうと悪戦苦闘していたように思える。Bashoistはそれを名人芸と褒め称えるが、一方で、それらの力技とも思える作品は、鑑賞する素人に、読解のための多大なエネルギーを強いることになった。

ところで、現在の多太神社には、こぢんまりとした「松尾神社」が作られていた。



むざんやな鎧兜をむしられて白骨むせぶ虫すだく野に             
                       (閑散人 2006.5.4)




21 感きわまって金沢の慟哭



金沢市・香林坊の交差点から犀川に向かって繁華街を下る。やがて片町のスクランブル交差点にいたる。その交差点の歩道に小さな「芭蕉の辻」の石碑が建っている。芭蕉と曽良が金沢で宿泊した宿屋、宮竹屋がかつてあったところだそうである。



そこから犀川へ出て、川っぷちをふらふら歩くと、室生犀星の記念館や文学碑がある。高浜父子句碑もあって、

  北国のしぐれ日和やそれが好き 虚子
  秋深き犀川ほとり蝶飛べり   年尾

父・虚子のサラダ日記風の句と、子・年尾のへたうま風凡庸句が刻まれている。

芭蕉は『奥の細道』金沢の段を、

卯の花山・くりからが谷をこえて、金沢は七月中の五日也。爰に大坂よりかよふ商人何処と云者有。それが旅宿をともにす。一笑と云ものは、此道にすける名のほのぼの聞えて、世に知人も侍しに、去年の冬、早世したりとて、其兄追善を催すに、
  塚も動け我泣声は秋の風
    ある草庵にいざなはれて
  空き涼し手毎にむけや瓜茄子
    途中吟
  あかあかと日は難面もあきの風


と、短く、つれなく書いている。

さて、「塚も動け」だが、芭蕉は一笑に会ったことがなかった。直接言葉を交わしたことのない人の死に、これほどまでの慟哭が可能だろうか? 山本健吉は「この句はあまりに誇張に感じられて、長らく好きにはなれなかったが……最近はそんなことはないと思うようになった」という。まだ会ったことはなかったが、書信で長らくにわたって師弟関係を結んでいた人物の死に対する激しい思いが「言語に絶する感情」となり「絶唱」となった、と山本は言う。「塚も動け」と激しく始まり、「蕭状たる秋風」のなかに感情のすべてが吸収されている。ここに俳句の「ひねり」をみる、と山本はいう。(『山本健吉全集 第5巻』)

途中吟の「あかあかと日はつれなくも秋の風」について、子規は、「須磨は暮れ明石の方はあかあかと日はつれなくも秋風ぞ吹く」という古歌があり、これは芭蕉の剽窃であると批判した。

『国歌大観』のCD-ROM版で縦横斜めから検索してみたが、この歌は見つからなかった。一説によると足利尊氏の歌だともいう。

子規の剽窃よばわりを不当だとして、芭蕉を弁護したのが寺田寅彦で、「天文と俳句」というエッセイで次ぎのように書いた。

  あか/\と日はつれなくも秋の風  芭蕉
といふ句がある。秋も稍更けて北西の季節風が次第に卓越して來ると本州中部は常に高氣壓に蔽はれて空氣は次第に乾燥して來る。すると氣層は其透明度を増して、特に雨のあとなど一層さうである。それで乾燥した大氣を透して來る紫外線に富んだ日光の、乾燥した皮膚に對する感觸には一種名状し難いものがある。……此句も亦一方では科學的な眞實を正確に捕へて居る上に、更に散文的な言葉で現はし難い感覺的な心理を如實に描寫して居るのである。此の句の「あか/\」は決して「赤々」ではなくて、から/\と明かるく乾き切り澄み切つて「つれない」のである。しかも「つれない」のは日光だけでもなく又秋風だけでもなく、此處に描出された世界全體がつれないのである。かういふ複雜なものを唯十七字に「頭よりずら/\と云ひ下し來」て正に「こがねを打のべたやう」である。ところが正岡子規は句解大成といふ書に此句に對して引用された「須磨は暮れ明石の方はあかあかと日はつれなくも秋風ぞ吹く」といふ古歌があるからと云つて、芭蕉の句を剽竊であるに過ぎずと評し、一文の價値もなしと云ひ、又假りに剽竊でなく創意であつても猶平々凡々であり、「つれなくも」の一語は無用で此句のたるみであると云ひ、むしろ「あか/\と日の入る山の秋の風」とする方が或は可ならんかと云つて居る。併し自分の考は大分ちがうやうである。此の通りの古歌が本當にあつたとして、此れを芭蕉の句と並べて見ると、「須磨」や「明石」や「吹く」の字が無駄な蛇足であるのみか、此等がある爲に却つて芭蕉の句から感じるやうな「さび」も「しをり」も悉く拔けてしまつて殘るものは平凡な概念的の趣向だけである。




しかしながら、寺田寅彦はうかつにも東京の秋の感覚で、日本海側の金沢の秋を推測してしまった。『理科年表』によると、東京の年間平均湿度は64パーセントで、夏高く秋から冬に向かって低くなる。寅彦のいう「秋も稍更けて北西の季節風が次第に卓越して來ると本州中部は常に高氣壓に蔽はれて空氣は次第に乾燥して來る」がこれにあたる。一方、金沢の年間平均湿度は東京より10ポイント高い74パーセント。金沢では春3月から5月にかけて湿度が平均より低く、6月から夏、秋、降雪の翌年2月までは月間平均湿度が年間平均湿度かそれを超えて横ばい状態である。金沢の秋の平均湿度は、東京の梅雨時並みである。寅彦の言うような乾燥した気象と紫外線に富んだ日光の皮膚感覚は、平均的にいえば、金沢ではありえない。

権威を弁護するにあたっては、論理がえてしてずさんになる。健吉にして、寅彦にしてそうだ。

ところで、「あかあかと」は、朝日か? 白日か? 夕日か?

日本海に沈む夕日を眺めていると、1950年代の朝鮮戦争を背景にした米軍射爆場をめぐる内灘闘争を思い出す。日本では成田闘争を最後に大がかりな闘争はすっかり影をひそめ、けち臭い功利主義的競争ばかりが流行るようになった。五木寛之の『内灘夫人』なんて、いまでも読む人がいるのだろうか。

絶唱が絶叫となる多感症君つれなくも一笑に付す 
                         (閑散人2006.5.6)




20 トイレは歌う那古の浦

親不知・市振から金沢に至る越中路をたどった芭蕉と曽良は、射水市―平成の大合併前は新湊市―の放生津八幡宮を訪ねた。



  あゆの風いたく吹くらし奈呉の海人の釣する小舟漕ぎ隠るみゆ  大伴家持
  月出でて今こそかへれ奈呉の江に夕べわするるあまのつり舟   葉室光俊
  なごの海の霞の間よりながむれば入日をあらふ沖つ白波    徳大寺実定
  なごの海の荒れたる朝の島がくれ風にかたよるすがの群鳥    平経正
  逢ふことも奈古江にあさる蘆鴨のうきねをなくと人しるらめや  藤原忠道

などで有名な歌枕・那古(奈呉)の浦にある神社だ。



そこを訪ねたあと、芭蕉はいまひとつの歌枕である氷見の有磯海を訪ねようとしたが、泊まるところとてありませんよと言われて、氷見へ向かうのをやめた。

  わが恋はありそのうみの風をいたみしきりによする浪のまもなし  伊勢

くろべ四十八が瀬とかや、数しらぬ川をわたりて、那古と云浦に出。担籠の藤浪は、春ならずとも、初秋の哀とふべきものをと、人に尋れば、「是より五里、いそ伝ひして、むかふの山陰にいり、蜑の苫ぶきかすかなれば、蘆の一夜の宿かすものあるまじ」といひをどされて、かヾの国に入。
 
わせの香や分入右は有磯海




北陸自動車道の有磯海サービスエリアの芭蕉碑

大伴家持は官僚として越中で5年間ほどの地方勤務をしたことがある。この間越中の風物を材料に大量の歌を詠み、多くの歌枕を残すことになった。有磯海も家持が使った「荒磯」(ありそ=現石=あらいそ)から発生したものだとされている。

  かからむとかねて知りせば越の海の荒磯の波も見せましものを

『奥の細道』は、松島、平泉、羽黒、象潟で芭蕉が思いのたけを筆先にこめたあと、北陸路を南下する日本海沿いの記述は、芭蕉得意の人情ものを除いて、その記述が淡白になる。その中でも、越中路の記述は特にそっけない。芭蕉がここを通りかかったのは、旧暦7月14日、新暦で8月28日。暑い日だった。曽良日記は「快晴、暑さ甚だし……翁、気色不勝」と記録している。暑さと疲れで観光に身が入らなかったのだろうか。

ところで、現代の放生津八幡宮で特記しておきたいことがある。それは“歌うトイレ”である。神社の敷地内に立派な公衆トイレが作られていた。トイレに入ると、センサーが入場者を感知して、突然、自動的に演歌の演奏が相応な音量で流れ出す。利用者は用をたしながら、よろしければこの伴奏に合わせてカラオケ風に歌えるのである。



那古の浦泡とはじけてカタルシス沖のかもめよ歌の翼よ
                        (閑散人 2006.5.14)




19 市振の虚構の宿

市振の宿の遊女の件は芭蕉の創作である。一般的な評釈書はそう見立てている。芭蕉はこのあたりで、ちょっと色模様をちらつかせておきたかったようである。



蕪村筆「奥の細道画巻」市振の段
(逸翁美術館本)

今日は親しらず・子しらず・犬もどり・駒返しなど云北国一の難所を越て、つかれ侍れば、枕引よせて寐たるに、一間隔て面の方に、若き女の声二人計ときこゆ。年老たるおのこの声も交て物語するをきけば、越後の国新潟と云所の遊女成し。伊勢参宮するとて、此関までおのこの送りて、あすは古郷にかへす文したゝめて、はかなき言伝などしやる也。白浪のよする汀に身をはふらかし、あまのこの世をあさましう下りて、定めなき契、日々の業因、いかにつたなしと、物云をきくきく寐入て、あした旅立に、我々にむかひて、「行衛しらぬ旅路のうさ、あまり覚束なう悲しく侍れば、見えがくれにも御跡をしたひ侍ん。衣の上の御情に大慈のめぐみをたれて結縁せさせ給へ」と、泪を落す。不便の事には侍れども、「我々は所々にてとヾまる方おほし。只人の行にまかせて行べし。神明の加護、かならず恙なかるべし*」と、云捨て出つゝ、哀さしばらくやまざりけらし。
 
一家に遊女もねたり萩と月
 
曾良にかたれば、書とヾめ侍る。





蕪村筆「奥の細道画巻」市振の段(京都国立博物館本)

『奥の細道』で芭蕉が書こうとしたのは旅行のことではなく「風雅的世界」のことではなかったか、と井本農一は言う。旅はその風雅的世界をつむぎだすための素材に過ぎなかった。旅をする一人の世捨て人を主人公に風狂の世界を具象化して見せたのであると井本は言う(『芭蕉の文学の研究』)。

紀行文は事実を書き、そこにフィクションは加えない。芭蕉にルール違反ではないかと、せめてもはじまらない。芭蕉は紀行文を書くつもりはなかった。読者が勝手に『奥の細道』を紀行文だと思い込んで読んでいるだけである。



親知らず・子知らずの絶壁

芭蕉にとって人生は無常流転の旅である。「人生ハ無常ニ流転ス」が芭蕉の世界観である。芭蕉はこの世界観の枠組みの中に自然と人をはめ込む。旅しては過去に焦点をあわせる。過去と現実を二重写しにする感傷主義者であった。「畢竟、芭蕉の芸術は、彼の世界観から派生する感傷的情緒の感覚化をその特徴としているということになり、その発想はすこぶる構成的であり、表現は象徴的傾向を帯びている」(小島吉雄『芭蕉と奥の細道ところどころ』)。



トンネルを抜けた北陸道は磯伝いに海の上を走る

ところで、金子光晴は『マレー蘭印紀行』を次のように書き出している。「川は森林の脚をくぐってながれる。……泥と、水底で朽ちた木の葉の灰汁をふくんで粘土色にふくらんだ水が、気のつかぬくらいしずかにうごいている」。また別のところでは「密林の闇は、緑なのだろうか。その闇を割って、密林よりも暗い水が、ひそひそと森から遁れてゆくほとりに出た」。

金子のマレーとオランダ領東インドは、彼の記憶が作り上げた想像上の領域であった。ひところ若者がこの本を手にマレー半島をうろつくのが流行したが、よほどの感応力がないと金子が表現したような風景を現地で見ることはできなかったろう。芭蕉の奥の細道は金子ほどには空想と幻想に満ちていないが、作り出された風景はあちこちにある。

『奥の細道』は芭蕉と曽良の奥州行脚の数年後に書かれた。金子の『マレー蘭印紀行』は旅行のおよそ10年後に書かれた。両書に書きこまれていることがらは、旅人が実際に見聞した風景が時間をかけて筆者の記憶の中で発酵され、形が崩れ、ついには幻影と化したのち、それらが再びかき集められたものである。現実には存在しない、再構成された詩的世界なのだ。

それにしても市振の遊女の物語には、腑に落ちないところが一点ある。芭蕉は「哀さしばらくやまざりけらし」と詠嘆した。若い女2人が人買いに連れられてゆくのを見たのであれば、まことに哀れであるが、お伊勢参りとなると、ちょっと雰囲気が違うのではあるまいか。定めなき契、日々の業因から身を引き離し、万人憧れの霊域に向かうのである。芭蕉は「不便の事には侍れども」という言い回しをしているから、この「哀さ」はかわいそうの意味であろう。遊女であれ誰であれ、お伊勢参りともなれば、それが抜け参りであろうと、年季が明けてのお参りであろうと、「かわいそう」とは違う風景になるのではあるまいか。



蕪村筆「奥の細道画巻」市振の段 (王舎城美術宝物館本)

ひそやかに遊女の語り襖ごし浅ましながら聞き耳をたて
                         (閑散人 2006.5.15)




18 出雲崎にて銀河を想う

  荒海や佐渡によこたふ天河  芭蕉

新潟県出雲崎町は日本で最初に石油の機械掘りがおこなわれた国産石油史上重要な土地である。風雅の世界に沈潜したい人にとっては良寛のふるさとであり、芭蕉が上記の句をよんだところであったといわれてきた。



出雲崎石油記念公園


『奥の細道』研究家の間では、今日、この句は実景ではなくて芭蕉の心象風景であるという解釈が一般的である。以前はこの句は出雲崎で作られたという見方が有力だったが、いまでは、出雲崎をはじめとする日本海沿いで見続けた佐渡の島影の印象を、七夕の日に句にしたのではないか、という見方が有力になってきている(堀切実編『おくのほそ道解釈事典』)。

さて、出雲崎町の海辺の集落には、芭蕉宿泊地とされる場所が言い伝えられており、その近くに「芭蕉園」という名なのこじんまりとした記念公園が作られている。その芭蕉園の中に、いわゆる「銀河の序」が刻まれた石碑がある。

芭蕉園
芭蕉園

「銀河の序」は『奥の細道』とは別に、この「荒海や」の句につけられた前詞としての俳文である。その「銀河の序」にはいくつかのバージョンがあって、そのひとつには「月ほのくらく、銀河半天にかかりて、星きらきらと冴えたるに、沖のかたより波の音しばしばはこびて、たましゐけづるがごとく、腸ちじれてそぞろにかなしびきたれば……」と書かれている。また、別のバージョンでは「まだ初秋の薄霧立もあへず、波の音さすがにたかからず……宵の月入りかかる比、うみのおもてほのくらく、山のかたち雲透にみへて、波の音いとどかなしく聞え侍るに……」となっている。どうも、荒海というイメージとはほど遠いようである。

 波の音さすがにたかからず……
  荒海や佐渡によこたふ天河  芭蕉

というのは心象風景であるにしても、矛盾をはらんでいる。

この句は芭蕉には珍しい絵画的表現になっているが、惜しいことに芭蕉はここで旅人がおかしやすい過ちをやっている。太平洋側に暮らした芭蕉は、日本海沿岸に住む人々の季節感に乏しかった。

海上保安庁の広報資料によると、「日本海及び本州北西岸における高い波浪は冬季に起こることが多い」という。低気圧と北西季節風がもたらす波である。低気圧の移動速度は、時速20-30km、風速は秒速20mで25mを超えることは少ない。発生する風浪の周期は12秒以下で、「波高は8mを超え10m以上の例もあった」という。また、「低気圧は平均して1週間に1回の割合で通過するので、波のない日はないといってもよい。春・秋両季には、波高も低く継続時間も短いが、局地的な風によって沿岸部に高い波が発生することがある。夏季には、台風時を除いて一般に静穏な日が続くことが多い」という。

このように、夏の日本海は波穏やか、というのが通り相場だ。逆に、荒海は冬の日本海のいわば代名詞である。芭蕉は晩夏から初秋にかけての風物「天の川」と、冬の「荒海」を、どうやら頭の中でモンタージュしてしまった。

その結果、日本海側の中学の国語の試験問題で、ある中学生が「荒海」が季語になるので、「荒海や佐渡によこたふ天河」は冬の俳句だと解答したという、笑えない珍談をどこかで読んだ記憶がある。この稿の筆者は中学生の感覚をまっとうだと思う。

季語のしばりと実際の季節感覚の相違によって、この句はイメージが上下真っ二つに引き裂かれた。天空は初秋、下界は冬。天の川を冬銀河と読みかえれば、この句は、真冬の強風が雪雲を吹き払った珍しい晴天の夜空に凍りついた日本海の上の銀河の歌となり、それはそれで筋がとおることになる。



佐渡はいずこ

星流れ砕け散り落つモンタージュ
         銀河にかけし嗚呼美意識よ

                (閑散人 2006.5.19)



17 眠気も覚める象潟の美

奥の細道で芭蕉が関心を寄せたものは自然ではなく人事だった。自然に関心を寄せることもあったが、それは歴史を背景とする場合の自然であった、と小宮豊隆は言う。自然が独立して芭蕉の関心を引くような例は非常に少ない、と小宮は指摘する。「芭蕉の頭の中にある松島と象潟とは、素裸な自然としての松島や象潟ではなくて、和歌の衣を十重二十重に纏っている自然としての松島や象潟であった」(『芭蕉の研究』)。

其朝、天能霽て、朝日花やかにさし出る程に、象潟に舟をうかぶ。先能因嶋に舟をよせて、三年幽居の跡をとぶらひ、むかふの岸に舟をあがれば、「花の上こぐ」とよまれし桜の老木、西行法師の記念をのこす。江上に御陵あり。神功后宮の御墓と云。寺を干満珠寺と云。比處に行幸ありし事いまだ聞ず。いかなる事にや。此寺の方丈に座して簾を捲ば、風景一眼の中に尽て、南に鳥海天をさゝえ、 其陰うつりて江にあり。西はむやむやの関、路をかぎり、東に堤を築て秋田にかよふ道遥に、海北にかまえて浪打入る所を汐こしと云。江の縦横一里ばかり、俤松嶋にかよひて又異なり。松嶋は笑ふが如く、象潟はうらむがごとし。寂しさに悲しみをくはえて、地勢魂をなやますに似たり。

  象潟や雨に西施がねぶの花


ながながと『奥の細道』から象潟の段を引用したのはわけがある。ここでは芭蕉がめずらしも、じつにこと細かく風景を語っているからだ。鳥海山を映す象潟の入り江に船を浮かべたこと、桜の老木……と、芭蕉は松島以来の饒舌さで風景描写をする。

鳥海山

鳥海山からの眺め

そして、風景については、象潟は松島に比肩する、と芭蕉は判断した。その美しさについて、おもかげは松島に似ているが、松島は陽の美、象潟は陰の美といっている。芭蕉は松島では黙って目を閉じ、禁欲につとめて一句も残さなかった。芭蕉は、しかし、象潟では一句をものにしえている。もし芭蕉が松島で禁欲したのであれば、象潟でも禁欲して当然だった。

松島で芭蕉は、松島は「洞庭・西湖を恥ず……美人の顔を粧ふ」と、西湖を持ち出し、西湖ゆかりの西施の化粧を凝らした姿を思い浮かべたが、句はかなわなかった。しかし、象潟で芭蕉は西施を正面に持ち出し思いを遂げることができた。なぜか?

この日は『奥の細道』の記述では「朝日花やかにさし出る」好天気だったのに、芭蕉は句の中で雨を降らせた。『曾良旅日記』によると、象潟観光の日の朝は小雨、昼からは日照。



象潟海岸

化粧を施し嫣然と微笑む西施は芭蕉の手に余った。そこで、しとしと雨の中のものうく眠たげな西施を空想した。春雨、梅雨、夕立、秋雨、時雨とひたすら雨にぬれている湿気たジャパンを平均的日本人は美しいという。

芭蕉は華やかなものの描写が得意でなかったのかもしれない。『笈の小文』で花の吉野へいったときも、その道中の桜を詠んだ句はあったが、かんじんの一目千本吉野の桜の句は残していない。後で述懐して「われいはん言葉もなくて、いたづらに口をとぢたる口おし」。ついでに、芭蕉には富士山を読んだ名句もない。ファンは「大家の大家たる所以」というのであるが。

  雰しぐれ富士をみぬ日ぞ面白き    芭蕉
  不二ひとつうづみ残してわかばかな  蕪村

蕪村に比べて芭蕉はどうもイジケているようにみえる。

  菜の花や月は東に日は西に      蕪村

この蕪村の句には、江戸時代の日本人が愛好した明代第一級の詩人高啓の、

 酒を高台に置けば
 楽み極まって哀しみ来る
 人生世に処る
 能く幾何ぞや
 日は西に月は東に

あるいは本邦の、

  東の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ 柿本人麻呂

という先行作品があるが、それはそれとして、蕪村の句の中にはシネマスコープのように爽やかに視野の広がった風景描写がある。芭蕉はそういうものがどうも苦手であったようだ。したがって、西行の桜の老木も、干満珠寺の方丈からの絶景も、すべてテクスト本文に書くしかなかった。しかたなく芭蕉は、雨と西施と夏の季語ねぶの花をもちだし、この三者がもつ象徴性の組み合わせと連想で――眉をひそめても、あくびをしても、眠りこけていてもさまになる傾城の美女、それゆえに殺された西施の愁いを帯びた眠たげな表情・姿態にねぶの花をかけてつなぎ――象潟を語った。夜目、遠目、傘のうち。くっきりと輪郭のあるものよりも、朦朧としたものに美を感じるのが蕉風であろうか?



「象潟や雨に西施がねぶの花」は、さまざまに英訳されている。訳者は俳句を英訳するという絶望的な難事業に真摯に取り組み、いまのところ芭蕉の翻訳不可能性を追認したのみである。では、そのいくつかを紹介しよう――。

  Kisagata:
 Seishi sleeping in the rain;
  Flowers of mimosa. (R. H. Blyth)

  Kisakata---
 Seishi sleeping in the rain
  Wet mimosa blossoms. (Keene)

 In Kisakata in the rain His-shih’s silk tree flowers (Sato)

 Kisakata (ya
 In rain Seishi
 Silk-tree blossoms (Corman)

 A flowering silk tree
 In the sleepy rain of Kisagata
 Reminds me of Lady Seishi
 In sorrowful lament. (Yuasa)

 Kisagata---
 In the rain, Xi Shi asleep
 Silk tree blossoms (Barnhill)

 Kisakata rain:
 The legendary beauty Seishi
 Wrapped in sleeping leaves (Hamill)

 In Kisakata’s rain,
  Mimosas droop, like fair His-shih
   Who languished with love’s pain. (Britton)


ところで、『奥の細道』象潟の段では、どうやら一句をものしたが、『奥の細道』にあっては珍しい逆転現象が生じている。芭蕉の散文の部分の方が、その句よりもイメージが鮮明なのだ。

象潟そのものは1804年の地震で隆起し、陸地になってしまった。たった一度のグラッで、今では地名と記録を残すだけだ。したがって、芭蕉が見た風景を見ることができなくなって、すでに久しい。

象潟

象潟の日本海

地は揺らぎ潟消えとりつく島もなし
       ねぶの妃妾の生死は知れず
 
               (閑散人 2006.5.21)




16 けはいも妖し湯殿山

修験者は羽黒山頂から月山を目指し、月山山頂から湯殿山に下る。芭蕉も同じコースで月山に登った。『奥の細道』では、

八日、月山にのぼる。木綿しめに引かけ、宝冠に頭を包、強力と云ものに道びかれて、雲霧山気の中に、氷雪を踏てのぼる事八里、更に日月行道の雲関に入かとあやしまれ、息絶身こごえて頂上に臻れば、日没て月顕る。笹を鋪、篠を枕として、臥て明るを待。日出て雲消れば、湯殿に下る。
 
  雲の峰幾つ崩て月の山
  語られぬ湯殿にぬらす袂かな


芭蕉の月山のぼりの記述は、法顕の小雪山越え、あるいは玄奘のパミール越えの記述よりも大仰で、標高2000メートルにも満たない月山の夏山の登山記としては過剰である。この稿の筆者は、かつて6月中旬ごろ、羽黒山から冬季閉鎖が解かれたばかりの月山登山道路を車で8合目のレストハウスまで登った。8合目はTシャツだけではちょっと涼しすぎた、程度だった。

月山を下った湯殿山神社のご神体は、今ではすでに語りつくされている。温泉を噴出す岩である。ただし、写真撮影は、いまなお禁止。

「語られぬ」理由をもっとありていに言えば、その岩は女性の性器を連想させる。そのため、ながらく「女人禁制」だったといわれる。修験道のおっさんたちは月山からここまで下りてきて、冷えた体をあたためつつ男同士で隠微な会話と空想にふけった。だが、これは昔の話、いまでは女性もやってきて、キャアキャア騒いでいる。

  月山を雲中凍えて湯殿山湯加減いかが男女で足湯
                           (閑散人)

と、座が華やいできたので、蛇足として、湯殿山からちょっと北へ、岩手・花巻の大沢温泉の金勢神社の祭りはもっとアッケラカンとしたもので……これはもう説明するよりサイトを開いてしばしそのままスライドショーの始まりをお待ちあれ。

大日坊山門

大日坊山門


芭蕉のころはまだつくられてはいなかったが、その後、出羽三山周辺は坊さんのミイラ、品よく言うと「即身仏」の産地になった。芭蕉がこのあたりを歩いてから、およそ100年あとのことである。湯殿山神社からさほど遠くない大日坊というお寺をのぞいたら、即身仏を展示公開していた。

大日坊本堂

大日坊本堂

このほか、『月山』を書いた森敦が食客としてとぐろを巻いていた注連寺にもミイラがある。酒田の海向寺には、なんと二体あった。ミイラはたいてい寺に安置されているが、庄内の即身仏のうち、1体は個人の住宅に置かれているといわれている。ミイラのおわすホーム・スイート・ホームとなると、これはもう、ヒチコックの『サイコ』の世界だ。土中の餓死である即身仏のつくり方の詳細について文献が図書館にあるので各自お調べねがいたい。



注連寺本堂

一方、補陀落渡海(ふだらくとかい)という水死による成仏のしかたもあった。

しかし、この話の恐ろしいところは、渡海がルーティン化すると、坊主はそれに応えることを心理的に強制され、拒否すると、まわりの人がよってたかって坊主を土左衛門にしたころにある。

月山周辺の即身仏も、その出来上がりが飢饉の年と微妙に関連していることから、困窮した農民が、食い詰めた流れ者を寺に入れ餓死ミイラをつくり、領主に対するあてつけにしたのだという説を立てた人もいるそうだ。真偽は不明。

大日坊では多弁な住職がミイラを背に観光客に講釈をたれたあと、「即身仏のお召し物は数年に一回取り替える。これはそのときの古着のきれはして作ったお守り袋」と、くだらぬものを売りつけていた。ミイラがまとっていた布を持ち歩くのは気持ちわるいことだろう。そうでもないか。むかしむかし、ミイラは万能薬木乃伊と称して、木乃伊を砕いて飲んでいた人々がいたそうだから。

ところで、芭蕉が出羽で詠んだ3句、

  @涼しさやほの三日月の羽黒山
  A雲の峰幾つ崩して月の山
  B語られぬ湯殿にぬらす袂かな

に関して、面白い解釈が出されているので、ここで言い添えておこう(加藤文三『奥の細道歌仙の評釈』地歴社、1978年)。

加藤によると、安東次男は、Bの湯殿山の句の「語られぬ」「湯殿」「ぬらす」に土俗的なエロチックなイメージを感じ、芭蕉は男女の営みを俳諧に持ちこんだと解釈した。@の羽黒山の句では、「ほの三」は「仄見」、「羽黒」は「女人の秘められた部分のイメージを通わせたもの」とした。さらに、Aの「月の山」では、月に女性の「月のもの」を掛け合わせ、句中の「崩れて」が描き出す雲の姿態は心憎いまでに艶っぽい、とした。これに対して、加藤は出羽3句すべてにエロチシズムを嗅ぎとろうとする安東解釈は独創的だが「夜の女体のフォルムが描き出す肢体」説となると、もはやとてもついて行けない、と評した。



注連寺天井画

もち肌の出羽の山々ほのつつむ
       エロス三昧死と五目和え
          
 (閑散人 2006.5.24)




15 羽黒に三日月貼り付けて

羽黒山もまた、月山、湯殿山と並んで妖気ただよう山である。



羽黒山の圧巻は、ふもとからてっぺんの出羽三山神社にいたる2キロほどの森の中の上り坂である。不精な筆者は、自動車道路で山頂の駐車場まで行き、坂道を下って、国宝の五重塔を過ぎ、ふもとに出た。タクシーで駐車場に帰るつもりだったが、もう一度歩きたくなって、頂上目指して山道を登った。坂道の上の方に、修験者のうしろ姿がふと見えたりした。



羽黒山登る仏に下る神
        途中の茶店でやどうもどうも  閑散人


芭蕉もこの登り坂を歩いたのだろう。彼が残したのは、

  涼しさやほの三日月の羽黒山

と、遠くから標高400メートルほどの山影をうたった趣の句であった。現代の人々は木々につつまれた坂道を珍重するが、芭蕉のころは単なる木立の中の坂道で、特筆に価するものではなかった。どこにでもあった山道だった。



ところで、

  あはれをもあまたにやらぬ花の香の山もほのかに残る三日月  定家
  涼しさやほの三日月の羽黒山  芭蕉

どこか似てませんか?

芭蕉は羽黒山そのものより、定家を見ていた。「山もほのかに残る三日月」を「羽黒山もほのかに残る三日月」とし、さらに羽黒山と三日月の語順を入れ替え、言葉を刈り込み整理して「ほの三日月の羽黒山」と整えた。

「涼しさやほの三日月の羽黒山」の句の初案は「涼風やほの三日月の羽黒山」で、曾良の俳諧書留などに記録されている。芭蕉にとって「ほの三日月の羽黒山」は既定の路線で、工夫はそこにどんな5文字をのせるかだった。

「ほの三日月の羽黒山」は、どうやら羽黒山を見る前から彼の頭の中に確定的に存在していたようである。安東次男の『おくのほそ道』によると、芭蕉は6月3日の三日月の日に羽黒山につくように、最上川周辺で日程を調整し、羽黒山着を意図的におくらせたという。羽黒山では、季語をあたまに持ってくるだけでよかった。

その最上川の中流の船着場大石田で、芭蕉は次の句をものしている。

  五月雨をあつめて早し最上川

芭蕉は川岸から最上川を眺めて、まず「五月雨をあつめて涼し最上川」と詠み、川くだりの舟に乗って、『奥の細道』では「涼し」を「早し」に改めた。実感を入れたわけだ。

  Gathering seawards
  The summer rains, how swift it is!
  Mogami River.

と、ドナルド・キーンは訳した。上記の英文だけを聞いた普通の人は、はたして何を思うか?

  “Really? Wow, good for shooting the rapids!”

あたりか? ところで、日本語だとどうなるか。

  五月雨をあつめて早し最上川――芭蕉
  河川洪水水防警報発令――国土交通大臣

なんで筆者はこんな愚にもつかないことを言っているのか? 



つまり、言いたのは次のこと。芭蕉の句には、彼の体質、思考、嗜好、感情の起伏などに、こちらが必死で波長をあわせる作業をし、それが成功して、波がピタリと合った場合に限って意味をなす孤高の芸術―独善の文芸―的な作品が多い。芭蕉の作品のほとんが「作者の気分を托するに外界の事物を以ってする一種の象徴詩めいたもの」(津田左右吉『文学に現はれたる我が国民思想の研究』)である。

同じ五月雨と川を題材にして、蕪村は

  五月雨や大河を前に家二軒

と詠んだ。

「避難勧告が出ました」と野次をとばしてもかまわないが、流れが速いだけの最上川の描写に比べれば、大河、そのほとり、家、2軒(この2軒がすごい。1軒でも3軒でも構図が崩れる。蕪村はすごい計算をしている、とほめる識者もいる)と描写は具体的で、NHKニュースの台風報道のシーンのようなリアルさと緊迫感がある。一方で、なぜかノホホンとした気楽さもあり、もし心配そうに川面を眺めている人でもいれば、上空の取材ヘリからファインダーをのぞきながら、つい “your last photo” と冗談を言ってみたくなるような描写でもある。筆者などはボクは芭蕉より蕪村の方が面白いと思うのであるが、一方で、「蕪村はわかりすぎて、浅い」と蕪村を軽蔑する人もいる。芸術のコツはabracadabraだよ、というわけであろう。

                   (閑散人 2006.6.1)




14 心澄む立石寺の静寂

山寺こと立石寺山寺について芭蕉は以下のように書いている。さほど力を込めているようには感じられない。

山形領に立石寺と云山寺あり。慈覚大師の開基にして、殊清閑の地也。一見すべきよし、人々のすゝむるに依て、尾花沢よりとつて返し、其間七里ばかり也。日いまだ暮ず。麓の坊に宿かり置て、山上の堂にのぼる。岩に巌を重て山とし、松栢年旧、土石老て苔滑に、岩上の院々扉を閉て、物の音きこえず。岸をめぐり、岩を這て、仏閣を拝し、佳景寂寞として心すみ行のみおぼゆ。

閑さや岩にしみ入る蝉の声


さて、立石寺そのものは小さな岩山を利用して造った箱庭風の山岳寺院群である。

立石寺4

山門下にお土産屋がたちならぶ。大形観光バスが忙しく出入りする。入場料を何がしか取る。お堂めぐりの山道に清涼飲料水を並べたお休みどころがある。玉こんにゃくを串刺しにしたおでん風のものを「力こんにゃく」と称して売っている。

てっぺんのお堂からの眺望と、涼風はなかなか結構である。しかし、実は、それ以外にはなにもないところである。芭蕉は岩と、松と、苔と、お堂と、あとは静寂と書き残した。それから、蝉を鳴かせてみた。だが、蝉はどんな風に鳴いたのか?

立石寺2

鳴いたのはあぶら蝉であると斎藤茂吉はみたてた。「あぶら蝉の鳴き声ではどうも『閑さや』というような感じが出そうもない」(『芭蕉の研究』)と小宮豊隆は、斉藤茂吉のあぶら蝉説を否定し、にいにい蝉説を唱えた。芭蕉が立石寺を訪れた太陽暦で7月13日ころには、普通、あぶら蝉はまだ山に現れていないそうである。


曹洞禅のとあるホームページに、

禅語に「一鳥鳴山更幽」(一鳥鳴いて山更に幽なり)があります。静寂の中に響き渡る鳥の一声によって更に静寂感が深まる情景です。これは、山の静寂に身を置くものならば、だれでも分かる静寂かもしれません。一方、松尾芭蕉の句に「静けさや岩に染み入る蝉の声」というのはどうでしょうか。この句は夕立のような蝉時雨の声が涅槃寂静を詠じているといわれます。それは蝉時雨の音と一体となった自分があるからです。うるさいほどの蝉しぐれを、ただ聞いている。聞くともなしに聞いている。からだ全体で聞いている。諸行無常と対立しない静かさとは、諸法無我(無心)の中にいるということです。


という、ありがたいお話がのっていて(合掌)、芭蕉が聴いたのは蝉時雨だったというのである。芭蕉は「物の音きこえず」といっているのに、禅坊主は「心頭を滅却すれば蝉時雨もまた静寂」と言い張るのである。たしか中学の国語の授業では、「一鳥鳴山更幽」の解釈を教師はとっていたと記憶する。蝉をめぐって、論争は果てないが、ここでは深入りはしない。

立石寺3

声と静寂は洋の東西を問わずありふれた詩材である。

A voice so thrilling ne’er was heard
In spring-time from the Cuckoo-bird,
Breaking the silence of the seas
Among the farthest Hebrides.
(Wordsworth)


室生犀星はこの芭蕉の句を「この閑寂の境には定家も西行もまだ行き着いていない……この風流は日本の古い詩歌道の極北であり……閑寂の地平線である」と絶賛したそうだ。さきに禅坊主が引用した「一鳥鳴…」のもとは漢詩の対句「蝉さわぎて林いよいよ静かなり。鳥鳴いて山さらに幽なり」のかたわれである。芭蕉の句はこの漢詩の蝉の部分の改案であると安東次男(『おくの細道』)はいう。改案と模倣はどう違うのか? 文芸におけるオリジナリティーとは、そもさん、何であるか?

おそらく芭蕉は上記の漢詩に縛られて、禅家が「隻手の声」あるいは「無弦の琴の音」を聴くように、未生の空蝉が鳴く声を必死に聴くしかなかったのだろうと、筆者は思う。芭蕉にとっては、「にいにい」であるか「あぶら」であるか、そんなことはどうでもよかった。

立石寺1

晴れ間には人さみだれる山寺は破鐘ほどのドラ声もあり
                         (閑散人  2006.6.4)




13 光堂は入れ子構造

中尊寺を訪ねるよりさき、芭蕉は高館へ行った。

三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに有。秀衡が跡は田野に成て、金鶏山のみ形を残す。先高館にのぼれば、北上川南部より流るゝ大河也。衣川は和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落入。泰衡等が旧跡は、衣が関を隔て、南部口をさし堅め、夷をふせぐとみえたり。偖も義臣すぐって此城にこもり、功名一時の叢となる。「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と、笠打敷て、時のうつるまで泪を落し侍りぬ。

夏草や兵どもが夢のあと


どうもここで泣きたいがため、芭蕉は、はるばると歩き続けて来たのではないか、という気もする。『奥の細道』の構成は、松島―平泉―最上川―出羽三山―象潟を頂点とする構成になっており、とくに、平泉がその絶頂・極致である、と識者は言う。



蕪村筆「奥の細道画巻」高舘(逸翁美術館本)


したがって、芭蕉の高館の描写は「細道の旅の頂点」「芭蕉独自の自在境」などと、俳人や研究者から評価が高い。注釈書によると、芭蕉の詠嘆にはネタ元があって、「国破れて山河あり城春にして草木深し」(杜甫)、「白骨城辺草自ら青し」(湖伯雨)、「憂え来つて草を敷きて坐せば…」(杜甫)などから借りた。「草木深し」を「草青みたり」と変え、「草をしく」かわりに「笠をうちしい」た。

それはさておき、時の流れは冷酷で、「国富んで山河破れ」た。高館の最近の写真がそれを物語る

ところで、今から40年ほど前、大学をおえて、筆者は盛岡へ働きに行った。そこで2年間働いた。折悪しく、このときは中尊寺金色堂は昭和の大修理の最中で解体されていた。

実際に金色堂を見たのは、ずいぶん後のことだ。そのとき、金色堂はコンクリート製の覆堂の中にきゃらきゃら納まっていた。金色堂は入れ子構造だ。覆堂の中に、強化ガラスにくるまれたコンピューター制御の空気調整システム完備の空間があり、その中に金色堂がすっぽり入り、そのまた中に内陣をしつらえ、その中に棺を納めて、棺の中に藤原さんたちのミイラがいる。

芭蕉は、

兼て耳驚したる二堂開帳す。経堂は三将の像をのこし、光堂は三代の棺を納め、三尊の佛を安置す。七宝散りうせて、珠の扉風にやぶれ、金の柱霜雪に朽て、既頽廃空虚の叢と成べきを、四面新に囲て、甍を覆て風雨を凌。暫時千歳の記念とはなれり

五月雨の降のこしてや光堂


と書いた。

光堂の描写については、ニ堂、三将、三代、三尊、七宝と、「数詞が多く用いられ、それが文体を引き締め、仏像のように典雅な、均整のとれたアポロン的な美をなしている」と賞賛されてきた。

句については、識者の解説によると「あたりの建物が、雨風で朽ちていく中で、光堂だけが昔のままに輝いている。まるで、光堂にだけは、五月雨も降り残しているように思える」ということらしい。『奥の細道』本文にあるように「四面新に囲て、甍を覆て雨風を凌」構造になっていたそうだから、簡易なものとはいえ、覆堂は芭蕉に時代にはすでにあったわけだ。したがって、五月雨、秋雨、時雨、雪、春雨が降り残したのは当然であった。そのための覆堂だったわけだから。

中尊寺

月見坂のお堂

そこで、富士正晴(『奥の細道』)は、「この句、光堂の光の文字に目がくらんで、五月雨が光堂の威光にやられて降り残したみたいな解が、わりと一般にあるみたいだが、四面と上を覆っていた覆堂があるから五月雨は光堂を降りのこしたのかなというだけのことのようにおもわれる。光堂の荘厳の詠嘆ではなく、中尊寺の大荒廃の詠嘆であると思う」としている。富士流に解釈すると、高館の「夢のあと」の詠嘆と、中尊寺の詠嘆がすんなりとつづく。

ところで、芭蕉は「兼て耳驚したる二堂開帳す」と、光堂と近くの経堂がともに公開されていたと書いた。しかし、曾良の日記によると、経堂は閉ざされていた。また、経堂の中に、藤原三代の当主の像は存在しないので、2、3、3、3、7の数詞の連続のうち、3の1つは嘘である。

虚実皮膜の間。芭蕉は見聞の中に嘘をちりばめ、旅ののち5年がかりで『奥の細道』を脱稿した。『曾良本おくの細道』では、光堂の句は「五月雨や年々降るも五百たび」となっており、この実写的表現が月日のたつうちやがて抽象化され、「降りのこしてや光堂」となった。金子光晴の『マレー蘭印紀行』と同じように、体験を時間をかけて醗酵させ、濾過し、抽象化し、足りないものは添加してつくりあげるのが、作家が「紀行文」と称するものである。それをジャーナリストのルポルタージュか、文化人類学者のモノグラフのように読んだあげく、事実と異なると立腹してもしょうがないか。

中尊寺2

モダンやな降りのこされて光堂季語も健忘空調の檻
                      (閑散人 2006.6.7)




12 胸に迫ってことば松島

芭蕉は『奥の細道』で松島の風景を饒舌に語っている。

松島は扶桑第一の好風にして、凡洞庭・西湖を恥ず。東南より海を入て、江の中三里、淅江の潮をたゝふ。島々の数を尽して、欹ものは天を指、ふすものは波に匍匐。あるは二重にかさなり三重に畳みて、左にわかれ右につらなる。負るあり抱るあり、児孫愛すがごとし。松の緑こまやかに、枝葉潮風に吹きたはめて、屈曲おのづからためたるがごとし。其気色えう然として、美人の顔を粧ふ。ちはや振神のむかし、大山ずみのなせるわざにや。造化の天工、いづれの人か筆をふるひ詞を尽さむ。


雄島へは橋を渡る

雄島が磯は地つヾきて海に出たる島也。雲居禅師の別室の跡、坐禅石など有。将、松の木陰に世をいとふ人稀々見え侍りて穂・松笠など打けふりたる草の菴閑に住なし、いかなる人とはしられずながら、先なつかしく立寄ほどに、月海にうつりて、昼のながめ又あらたむ。江上に帰りて宿を求れば、窓をひらき二階を作て、風雲の中に旅寝するこそ、あやしきまで妙なる心地はせらるれ。

松島や鶴に身をかれほとゝぎす   曾良

予は口をとぢて眠らんとしていねられず。


それはそうだろう。『奥の細道』序文で、「三里に灸すゆるより、松島の月先心にかゝりて」と書いたほどの待望の地であった。

松島へ

蕪村筆「奥の細道画巻」松島へ  (王舎城美術宝物館本)

にもかかわらず、芭蕉は『奥の細道』には松島を題材にした句を入れていない。よく芭蕉作といわれる「松島やああ松島や松島や」は、物知りによると、江戸後期の狂歌師・田原坊が作ったものという。

芭蕉はなぜ松島でこれといった句を残さなかったのか? 2つの説がある。ひとつは芭蕉の表現能力限界説。松島の美しさは言語を絶し、さすがの芭蕉も、散文では厚化粧の上塗りができたが、その絶景を17文字のうちに凝縮することはかなわなかった、という説である。『奥の細道』の松島の段、芭蕉は「予は口をとぢて眠らんとしていねられず」と書いている。山本健吉は「私は句が浮ばず、眠ろうとしたが眠れない」と現代語に訳した。田原坊の「松島や…」が芭蕉の作として流布しているのは、芭蕉の表現能力の限界への嘲笑と関係があるのかも知れない。



いまひとつは、禁欲説である。芭蕉びいきには、彼の松島での沈黙がたえらず、「ちはや振神のむかし、大山ずみのなせるわざにや。造化の天工、いづれの人か筆をふるひ詞を尽さむ」をあげて、語りえぬものについては沈黙しなければならないとばかり、芭蕉は自ら禁欲を貫いたという説である。「予は口をとぢて」を「口を開くことができなかった」のではなく、「あえて口を開かなかった」のだ、と解釈している。たとえば、「師、松島にて句なし、大切のことなり……絶景にむかふ時は、うばはれて不叶」(土芳『三冊子』)。なかでも、来雪庵後素堂(『奥のほそ道解』天明7年)は、松島で同行の曾良が詠んだ句「松島や鶴にみをかれほととぎす」は、曾良にはできすぎの秀句で、じつは芭蕉が作って曾良に与え、芭蕉は「一句にも及ばず無言にして高尚をなすものならんか」と、熱烈弁護している。(曾良には気の毒なことだ)。現代の解説者では麻生磯次(『奥の細道講読』明治書院、1961年)が、大自然が創った美をまえにして「どういう名人の筆も限りがあることをしり……人間の無力を歎ずる芭蕉の謙虚な姿が、はっきりと出ている……詩人としての芭蕉の尊さが、まざまざと感ぜられるのである」と、擁護論を開陳している。

芭蕉は松島を以下のように句にしていた。

  島々や千々にくだけて夏の海



いまでこそ「千々にくだけて」はリービ英雄の本でなじみがでてきたが、当時の芭蕉はこれを何とか推敲して『奥の細道』に入れる気になれなかったのだろう。そこで曾良の句を入れるしかなかった。松島に関しては、自分自身の句よりも曾良の句の方が、俳聖芭蕉のおめがねにかなったわけである。

  島々や千々にくだけて夏の海 (芭蕉)
  おほ海の磯もとどろによする浪われてくだけてさけてちるかも (実朝)

「砕ける」同士を並べてみると、十七文字と三十一文字のキャパシティーの差が歴然としている。



松島のあまりの美景息をのみ
      身は焦がれども筆はふるえず

               (閑散人 2006.6.8)




11 奥の細道末の松山

『奥の細道』壷の碑から、末の松山、塩竃、松島、石巻の段には、芭蕉の句がまったく挿入されていない。仙台から壷の碑こと多賀城碑のある現在の多賀城市へ向かう途中の記述には、

かの画図にまかせてたどり行ば、おくの細道の山際に十符の菅有。今も年々十符の菅菰を調て国守に献ずと云り。


とあって、ここで「おくの細道」という言葉が始めて本文中に現れる。いってみれば、一巻のタイトルの元になった個所なのだが、それにしては記述は淡白を通り過ぎて、そっけない。

それはさておき、芭蕉は多賀城で「壷の碑」を見た。



思ひこそ千鳥の奧を隔てねどえぞ通はさぬ壺の石文(顕昭)
みちのおく壺の石文ありと聞くいづれか恋のさかひなるらん(寂蓮)
陸奥のいはでしのぶはえぞ知らぬ書きつくしてよ壺の石文(源頼朝)
思ふこといなみちのくのえぞいはぬ壺の石文かきつくさねば(慈円)


などと歌われた歌枕である。

芭蕉が見た碑は今日「多賀城碑」と呼ばれているものだ。芭蕉の時代にはこれが「壷の碑」であるとされていた。しかし、太平洋戦争敗戦後まもなく、現在の青森県東北町で「日本中央」と彫られた碑が見つかった。いまでは、こちらのほうが歌枕の真性「壷の碑」だとされている。

それから芭蕉は近くにある別の歌枕末の松山を訪ねた。





末の松山とそのまつかさ

末の松山は、寺を造て末松山といふ。松のあひあひ皆墓はらにて、はねをかはし枝をつらぬる契の末も、終はかくのごときと、悲しさも増りて、塩がまの浦に入相のかねを聞。


芭蕉は末の松山の松を見て諸行無常の感におそわれたそうである。入相の鐘がその思いをさらにかき立る。その夜は琵琶法師の「奥浄瑠璃」をきく。



蕪村筆「奥の細道画巻」塩竃 (逸翁美術館本)

翌日、塩竃神社に参拝し、舟で松島に向かった。



塩竃神社202段の表参道

仙台から塩竃までの、やや盛り上がりに欠けた記述が、「芭蕉・曾良隠密説」の傍証として使われることもある。芭蕉は伊達藩の情報収集を依頼されていた、という話しである。しかし、『奥の細道』をめぐるこの謎めいた噂は、ダ・ヴィンチ・コードほど面白くないので、ここでは詳述しない。



芭蕉が句作をしなかったので、閑散人も狂歌を休む。

             (2006.6.15)




10 仙台は芭蕉の辻で

JR仙台駅構内の観光案内所で「芭蕉の辻」へ行く道を尋ねた。「駅から歩いてゆける距離です。しかし、松尾芭蕉とは何の関係もありませんよ」という返事をもらって、ちょっと驚いた。金沢には「芭蕉の辻」があった。芭蕉が宿泊した宿屋のあった場所だとされていた。仙台の芭蕉の辻もきっとそのような『奥の細道』ゆかりの場所だとばかり思っていたからだ。



その場所はJR仙台駅から「クリスロード」「マーブルロードおおまち」といった中央商店街のアーケードを西に歩き、日本銀行仙台支店の前を通り過ぎてすぐの四辻だった。

「芭蕉の辻」という石碑があった。石碑にその名の由来が刻み込まれていた。それによる@昔このあたりに芭蕉樹が生い茂っていたAこのあたりは繁華街で「場所の辻」と呼ばれていたがそれが訛ったBかつて「芭蕉」と名乗った虚無僧が住んでいた、などの理由による。



江戸時代にはこのあたりに幕府の制札を立てる場所があったので、正式には「札の辻」と呼ばれていたそうである。

芭蕉は鐙摺、白石、笠島、武隈を通って仙台に入った。しかし、仙台には芭蕉の足跡を思い出させるようなものが意外に少ない。記録によると芭蕉は仙台に3日間滞在して名所見物もしたが、『奥の細道』の仙台の記述は現実感が希薄である。

奥の細道の旅は、日光東照宮大改修を幕府に命じられ、迷惑をこうむっている伊達藩の内情を探る旅であったという説がある。伊達藩は東照宮大改修の費用捻出のため、藩士の賃金3割カットを実施していたという。そういうこともあって、幕府のその筋が曾良に伊達藩の情勢視察を命じたのだという。曾良の経歴にはそうした幕府情報係りのようなにおいが突いて回っている。そうした曾良の存在を目立たせないように芭蕉が同行者にえらばれたのだという。そらは旅行の費用として数十両(現在の数百万円)をあたえられ、そのうちの12両余り(120万円余り)を芭蕉に与えている(村松友次『芭蕉の手紙』大修館書店、1985年; 同『謎の旅人 曽良』大修館書店、2002年)。



芭蕉はそういう曾良の旅に加担することで、奥州旅行を実現させ、その経験にもとづいて自らの芸術観を披瀝した私小説風の『奥の細道』を書いた。『奥の細道』は「紀行」ではなく、宗久の中世紀行『都のつと』にならったフィクションである(村松友次『「奥の細道」の想像力』笠間書院、2001年)。

森鴎外は軍医を生業としながら小説を書いた。金子兜太は日本銀行に勤め俳句をよんだ。ふたりとも時の政府に召かかえられていた。芭蕉が幕府情報班員のお手伝いをしながら、文芸に精進したとしても何の不思議もない。

僧形のあやしき影は二人組芭蕉の辻を今日も徘徊
                   (閑散人 2006.6.17)




9 苔衣にてしのぶ石

福島市山口の文知摺観音に保存されている苔むした石が「しのぶもぢずり石」だといわれている。



古今集の「陸奥のしのぶもぢずり誰ゆゑに乱れむと思ふ我ならなくに」(源融)に代表される歌枕である。陸奥国信夫郡。ときに「志乃不」とも表記された。「しのぶもぢずり」は面白い文様のある石の表面に染料となる草木をこすりつけ、その上に布をおき、文様を写し取った染物であるといわれている。信夫郡の名産とされた。

福島では隣接するかつての信夫郡・伊達郡をあわせて「信達」(しんだつ)地方と呼びならわしてきた。信達地方は養蚕の盛んなところであった。幕末の1866年には主要輸出品となった生糸の製造と販売に幕府が介入して利益を上げようとしたことで農民が蜂起する「信達騒動」がおきた。

おそらく石の表面の文様を写し取った草木染の布・しのぶもぢずりは絹製品だったのだろう。

芭蕉はしのぶの里を

あくれば、しのぶもぢ摺の石を尋て、忍ぶのさとに行。遥山陰の小里に石半土に埋てあり。里の童べの来りて教ける。昔は此山の上に侍しを、往来の人の麦草をあらして、此石を試侍をにくみて、此谷につき落せば、石の面下ざまにふしたりと云。さもあるべき事にや。
  早苗とる手もとや昔しのぶ摺


と書きのこした。しかし、「早苗とる」のが早乙女だとすると、地の文荒々しさと発句のたおやかさに乖離がありすぎる。迷惑千万と、もぢずり石を突き落とした農民の節くれだった手のイメージのあとに「早苗とる手もとや昔しのぶ摺」とくるのは、ちょっと異質だ。

芭蕉がここを訪れて後、1749年にはこのあたりを統括する桑折代官が、凶作にもかかわらず過酷な増租策を打ち出したことから、農民が蜂起して代官所へ押し寄せた。この一揆の後始末で多数の農民が処刑された。

そうした過酷な東北の農民の生活をしのばせるような地の文になっている。したがって、「早苗とる」の原型といわれる「早苗つかむ手もとや昔しのぶ摺」の方がかえって面白い。この場合、「早苗つかむ」のは、男の農民である。

芭蕉は別のところで(『芭蕉庵小文庫』)で、

忍ぶ郡しのぶの里とかや、文字ずりの名残とて方二間ばかりなる石あり。此石はむかし女のおもひ石になりて、其面に文字ありとかや。山藍摺みだるるゆへに恋によせておほくよめり。いま谷合に埋れて、石の面は下ざまになりたれば、させる風情もみえずはべれども、さすがにむかしおぼえてなつかしければ、
  早苗とる手もとや昔忍ずり


と別の書き方をしている。こちらの方が早苗とる早乙女の手とのつながりが自然である。



子規句碑

文知摺観音には芭蕉の銅像や句碑、子規の「涼しさの昔をかたれしのぶずり」の句碑、奇怪な「甲剛」の石碑などがある。



「甲剛」碑

文知摺観音見学の掘り出し物は、文知摺観音の資料館で販売していた小冊子『信達三十六歌仙』。1847年にこのあたりの人が文知摺観音に奉納したとされる36人の狂歌。その冒頭は

 うちみだれ蛙なくなりもちずりのしのぶのさとの夜はのはる雨
                                愚鈍庵一徳

一徳はこのあたりを統括した桑折代官所の役人だったという。のんびりした狂歌を奉納して約20年後に農民蜂起があったわけだ。

 御政道乱れそめにし文知摺のしのぶのさとの夜半の血の雨
                                     閑散人



芭蕉はこのあと、飯坂温泉に向かった。

月の輪のわたしを越て、瀬の上と云宿に出づ。佐藤庄司が旧跡は、左の山際一里半斗に有。飯塚の里鯖野と聞て尋ね尋ね行に、丸山と云に尋あたる。是、庄司が旧館也。梺に大手の跡など、人の教ゆるにまかせて泪を落し、又かたはらの古寺に一家の石碑を残す。中にも、二人の嫁がしるし、先哀也。女なれどもかひがひしき名の世に聞えつる物かなと、袂をぬらしぬ。堕涙の石碑も遠きにあらず。寺に入て茶を乞へば、爰に義経の太刀、弁慶が笈をとゞめて什物とす。
  笈も太刀も五月にかざれ帋幟
五月朔日の事也。


蕪村も東北旅行のさい、この佐藤元治の子、次信、忠信兄弟のそれぞれの妻が戦死した夫の甲冑を着て義父あるいは義母を慰めたという伝説の甲冑像を見ていて、それをもとに「奥の細道画巻」の一画面を描いた。



(逸翁美術館本)
                       (2006.6.25)




8 往時の風流残す須賀川

須賀川は俳句の町である。芭蕉に宿を提供した等躬(『奥の細道』では「等窮」と表記)の屋敷があった須賀川市役所あたりの通りをふらふら歩いていて気がついた。あちこちの民家の門灯に文字が書き込まれており、よく見るとそれが俳句なのである。



須賀川は人口約8万の市だが、市役所敷地内に芭蕉記念館がある。東京・江東区の芭蕉記念館、大垣市の奥の細道結びの地記念館に引けをとらない日本家屋風の立派な施設である。



須賀川市内の20ヵ所余りに俳句ポストが置かれている。投句を審査のうえ、年間最優秀句を芭蕉記念館で展示する。町内会の掲示板にも俳句大会の予定が書き込まれていた。市役所向かいの民家の板塀には市内の芭蕉観光案内の大きなイラストが飾られている。



町全体が芭蕉に入れ込んでいるような気配が伝わってくる。

芭蕉は

  すか川の等窮といふものを尋て、四、五日どどめらる

と描いているが、実際には等躬の屋敷に7泊して、街中や周辺を観光して歩いている。芭蕉と曾良は須賀川で等躬と

  風流の初やおくの田植えうた

を発句とする歌仙を巻いた。

芭蕉はまた等躬の屋敷の近く(等躬の屋敷内という説もある)に住む隠者・可伸を訪ねた。芭蕉は可伸の暮らしぶりに感銘を受けた。芭蕉は可伸の隠者めいた暮らしぶりに、西行や行基のイメージを重ねたのだと解釈されている。



蕪村筆「奥の細道画巻」須賀川 (逸翁美術館本)

此宿の傍に、大きなる栗の木陰をたのみて、世をいとふ僧有。橡ひろふ太山もかくやとしづかに覚られてものに書付侍る。其詞、栗といふ文字は西の木と書て西方浄土に便ありと、行基菩薩の一生杖にも柱にも此木を用給ふとかや。
  世の人の見付ぬ花や軒の栗


このあと可伸の栗の木は名所になった。等躬が編んだ俳諧選集『伊達衣』には、可伸の迷惑そうな述懐が残されている。

予が軒の栗は、更に行基のよすがにもあらず、唯実をとりて喰のみなりしを、いにし夏、芭蕉翁のみちのく行脚の折から一句を残せしより、人々愛る事と成侍りぬ。
  梅が香に今朝はかすらん軒の栗 須賀川栗斎 可伸


軒の栗は可伸庵跡に残っている。栗の木そのものはもちろん芭蕉の時代のものではない。



田植えうた風にのり来る風流を栗の木陰で駄弁る遊民
                       (閑散人 2006.6.27)




7 白河の関

白河関、勿来関、念珠関を奥州三関とよぶ。大和朝廷の北への拡張のために設置された。しかし、関としての実質的な軍事機能は平安後期以降には失われた。関東と奥羽を分ける歌枕として文芸の世界で存在し続けた。



心許なき日かず重るまゝに、白川の関にかゝりて、旅心定りぬ。いかで都へと便も富むしも断也。中にも此関は三関の一にして、風騒の人、心をとゞむ。秋風を耳に残し、紅葉を俤にして、青葉の梢猶あはれ也。卯の花の白妙に、茨の花の咲そひて、雪にもこゆる心地ぞする。古人冠を正し、衣装を改し事など、清輔の筆にもとゞめ置れしとぞ。
  卯の花をかざしに関の晴着かな 曾良


『奥の細道』白河の段で芭蕉は、上記のような深い感慨を書き記した。しかし、例によって、肝心の発句を添えていない。代わりに曾良の句を挿入した。松島でもそうだった。この著名な歌枕を題材にして過去読まれた名歌の数々に臆したのだろうか?



たよりあらばいかで都へ告げやらむけふ白河の関は越えぬと(平兼盛)
都をば霞とともにたちしかど秋風ぞ吹く白河の関(能因)
見る人のたちしとまれば卯の花のさける垣根や白河の関(季通)
東路も年も末にやなりぬらむ雪ふりにける白川の関(印性)
白河の関屋を月のもる影は人の心をとむるなりけり(西行)
都にはまだ青葉にて見しかども紅葉ちりしく白河の関(源頼政)
消ぬが上に降りしけみ雪白河の関のこなたに春もこそたて(家隆)

 
 白河の関跡は芭蕉が訪れたころには、正確な場所がはっきりしなくなっていた。19世紀のはじめ白河藩主松平定信が推定した白河市旗宿の小さな丘が、1950年代末から始まった発掘調査で白川の関跡であると確認され、史跡に指定された。



「白河以北一山百文」と東北の地をあざけったのは、明治維新で成り上がった薩長の人々である。東北人の誇りから盛岡出身の原敬は「一山」あるいは「逸山」と号して薩長の増長慢に抗った。また仙台の新聞『河北新報』も「白河以北…」という偏見に題字をもって抗議し、東北人の意地を見せている。

思えば筆者・閑散人が新聞記者の仕事をはじめた1960年代前半の岩手県で、当時の若い記者たちは岩手の北上山中の村の記事を書くときはたいてい「日本のチベットといわれる岩手県・北上山中の…」という枕詞を多用した。チベットにも北上山中の村の人々にも申し訳ないことをした。慙愧の念にたえない。よって狂歌はつつしむ。
                            (閑散人 2006.6.27)





6 遊行柳の緑したたる

芭蕉は殺生石をみたが、感銘を受けたような様子はない。殺生石は温泉の出る山陰にあって、石の毒気はいまだに猛烈で、蜂や蝶が折り重なって死んでいて、砂が見えないほどだ、と大げさで粗雑な描写をしている。



それから芭蕉は那須町芦野の遊行柳を尋ねた。ここは西行が、

  道のべにしみず流るる柳かげしばしとてこそ立ちとまりつれ

と詠んだところだ。

又、清水ながるゝの柳は蘆野の里にありて田の畔に残る。此所の郡守戸部某の此柳みせばやなど、折ゝにの給ひ聞え給ふを、いづくのほどにやと思ひしを、今日此柳のかげにこそ立より侍つれ
田一枚植て立去る柳かな





芭蕉のあと、蕪村もここを訪れ、

  柳散清水涸石処々

と添えた。



筆者が訪れた6月初旬の風景としては芭蕉の句がぴったりだった。奥の細道の中で、久方ぶりで「作り物でない」芭蕉の写生句にであったような気になったのだが、本を開くと、実はそうでもないのである。このあたりが芭蕉という人のくえないところなのであるが。

専門家たちの論文を読むと、「誰が苗を植え」「誰が立ち去った」のかで意見がばらばらに割れている。
@ 柳の精が田を植えて立ち去った。
A 農夫が田を植えて立ち去った。
B 農夫が田を植えるのを見終わって、芭蕉が立ち去った。
C 実際には農夫が田を植えたのだが、それを見ていた芭蕉は自分が田植えをすませたような気になって立ち去った。



さらに、深刻な異論もある。『奥の細道』の異本の中には
  
  田一枚植えで立去る柳かな

と読めるものがあるという。「植えて」が「植えで」となると、議論は始めからやり直さなければならなくなる。いまのところこの説は「写本の汚れを濁点と読み違えている」ということで否定されている。しかし、昔の人はめったに濁点を添えなかった。したがって濁点がなくても「植えで」と読んでさしつかえない。

遊行柳を訪れたとき、周辺の田んぼで農夫が田植えに精出していた。それを見るだけの芭蕉は労働もせず、生産活動になんら貢献していない自分の生き方に引け目を感じつつ、

  田一枚植えで立去る柳かな

と詠んだ、というのも悪くない説だ。奥の細道の伝統的読み方からは外れるけれど。

あの鐘の音を聞け
鐘は一つだが
音はどうとでも聞かれる

ダ・ヴィンチ 2006.6.27)




5 優しくたたずむ雲巌寺

雲巌寺は寺全体がすっぽりと緑につつまれていた。美しい寺である。臨済宗妙心寺派の禅寺。筑前・聖徳寺、越前・永平寺、紀州・興福寺とともに禅宗の四大道場の一つとされた。だが、そんないかめしさをいっさい感じさせない優しいたたずまいの寺である。



青葉の中を朱塗りの橋を渡って石段を登り境内に出ると、その一角に紫陽花の植え込みがあった。筆者が訪れたのは石楠花がまだ残っているころで、紫陽花の開花までまだ間があった。紫陽花の茂みにかこまれるようにして、芭蕉の雲巌寺訪問を説明した案内板があった。



『奥の細道』は次のように物語っている。

当国雲岸寺のおくに佛頂和尚山居跡あり。
  竪横の五尺にたらぬ草の庵
    むすぶもくやし雨なかりせば
と、松の炭して岩に書付侍りと、いつぞや聞え給ふ。其跡みんと雲岸寺に杖を曳ば、人々すゝんで共にいざなひ、若き人おほく道のほど打さはぎて、おぼえず彼梺に到る。山はおくあるけしきにて、谷道遥に、松杉黒く、苔したゞりて、卯月の天今猶寒し。十景尽る所、橋をわたつて山門に入。 さて、かの跡はいづくのほどにやと、後の山によぢのぼれば、石上の小庵岩窟にむすびかけたり。妙禅師の死関、法雲法師の石室をみるがごとし。
  木啄も庵はやぶらず夏木立
と、とりあへぬ一句を柱に残侍し。


「木啄も庵はやぶらず夏木立」だが、木啄(啄木鳥、きつつき)は、俳諧の季語分類上、秋におさめられる。芭蕉は平然と啄木鳥を夏木立に添えた。いかなる禅機によるものだろうか?

佛頂和尚は深川時代の芭蕉が参禅のためしばしば訪れた禅師だ。芭蕉は雲巌寺訪問の目的を佛頂和尚が修行時代に雲巌寺裏山にこもり、「竪横の五尺にたらぬ草の庵むすぶもくやし雨なかりせば」の歌をかたわらの岩に書いたと語ったことがあったからだ、と書いている。

佛頂和尚は住職をしている鹿島根本寺の寺領が鹿島神宮に取り上げられていることを不服として江戸に来て寺社奉行に訴えた。この訴訟のため、和尚は深川に臨川庵(後に臨川寺)を結び、仮住まいしていた。

芭蕉が佛頂からどのような禅を学んだのか、詳しいことは知らない。佛頂和尚の「梅子熟せりや」の問いにたいして、芭蕉が「桃の青きが如し」と応じ、そのときから桃青の俳号を使うようになったという俗説がある。この禅問答めいた俳号の由来話には矛盾がある。芭蕉が深川に住み始めたのが1680年の冬。佛頂和尚との付き合いはその後に始まった。しかし、芭蕉はその5年前の1975年から桃青の俳号を使い始めている。俳諧にとって禅などはこの程度のフリルに過ぎないのであろう。

芭蕉は佛頂が語ったという「竪横の五尺にたらぬ草の庵むすぶやしもく雨なかりせば」をたよりに雲巌寺にきたそうだから、雲水の「一所不在」へのこだわりを、修行よりも、スタイルの美学の視点から有難がったのだろうと思われる。

道元は、仏法は仏法そのものとして修学されるべきで、文芸などは真実の修行者には用のないものである、といった。しかし、大方の日本人にとっては、仏像の荘厳な美しさや、仏教の法会に関連する音楽・舞踊・文芸などの総合的な芸術美が仏教そのものであった(中村元『日本人の思惟方法』中村元選集第3巻、春秋社)。

中村元は「色は匂えへど散りぬるをわが世誰ぞ常ならむ有為の奥山今日越えて浅き夢見じ酔ひもせず」は、「諸行無常 是生滅法 生滅滅巳 寂滅為楽」(もろもろの作られたものは無常であって、生滅を本質とするものである。それらは生じては滅びる。それらの静まることが安楽である)というインド人の抽象的思考を「色、匂う、奥山、越える、夢、酔う」などの直感的・具象的な観念を用いて、情緒的な表現を前面に出し、抽象的理論を背後に隠し、日本的に翻案したものであるという。

「竪横の五尺にたらぬ草の庵むすぶもくやし雨なかりせば」に芭蕉が感動した背景には、こうした日本流の情緒的美学の伝統があった。そうした情緒の上に俳諧が乗っているのだ。



D. J. エンライトという日本で教壇に立ったこともある英国の詩人が「俳句には概して社会性がなく、作者には個性がなく、批判精神がない。だから俳句は大嫌いだ」と本(D. J. Enright, The World of Dew:Aspects of Living Japan, London,1955)に書いたという話を上田真が紹介していた(上田真『蛙飛びこむ―世界文学の中の俳句』)。

べらぼうめ草の庵の悔しくば結跏趺坐せよ五月雨の下                    
                      (閑散人 2006.6.29)




4 日光のオマージュ

芭蕉は老荘の書になじんだという。芭蕉は老子・荘子の孤独な隠者風のプロフィールにあこがれ、それをなぞろうとしたようだ。しかし、政治哲学者としての老子のニヒリズムや、荘子の宗教哲学者としての天衣無縫には縁が薄かった。

卯月朔日、御山に詣拝す。往昔此御山を二荒山と書しを、空海大師開基の時、日光と改給ふ。千歳未来をさとり給ふにや。今此御光一天にかゝやきて、恩沢八荒にあふれ、四民安堵の栖穏なり。猶憚多くて筆をさし置ぬ。
  あらたうと青葉若葉の日の光


上記のような『奥の細道』の記述は徳川政権に対する芭蕉の手放しのお追従なのだろうか? このことに関わる議論が阿部喜三男『詳考奥の細道』(山田書院、1959年)に比較的詳しく紹介されている。



「あらたうと青葉若葉の日の光」は実景の句というよりは挨拶の句であり、家康の慰霊を讃えたものである(志田延義『奥の細道評釈』武蔵野書院、1956年)。これに対して、「旅行のさいはその地の地霊に挨拶をしてゆくのは芭蕉の詩の発想としてきわめて自然であり、卑屈さはない」と山本健吉は、徳川将軍家ではなく、日光の地霊を讃えたのだと、芭蕉を弁護している(山本健吉『芭蕉』新潮社、1955年)。

井本はこれを芭蕉の個人的な資質ではなく、時代のせいにしている。「芭蕉が徳川家の政治に対して矛盾を感じていなかったらしく思われて、失望させられる。しかし、元禄という時代はそういう批判を十分に成長させえない時代だったのだろう。もちろん、一方では、芭蕉の限界をそこに見ることができるわけである」(井本農一『奥の細道新解』明治書院、1951年、増補版は1955年)。

このような議論をまとめて、著者の阿部は「政治的社会観といったようなものには、おそらく芭蕉はこの当時ほとんど関心がなく、徳川の施政のままを穏やかにうけているといった程度だったのであろう」と結論している。

一方、2003年に出版された堀切実編『「奥の細道」解釈辞典』(東京堂出版)は「芭蕉の日光賛美は、そのまま東照宮賛美に重なる。太平に治まった世の中が徳川家によってもたらされたことに対する芭蕉の感謝の念が率直に表れた章段」と短く触れているだけである。



文芸の研究書とはいえ、第1次安保闘争の前年に出版された本と、ネオリベラリズムの風が吹き荒れる2003年の本では、時代の風潮によって著者・編者の関心のありどころが見事にちがっていて、なんとも面白い。

ご威光を芭蕉青葉にきらめかす木の下陰の民にあまねく
                      (閑散人 2006.6.30)




3 室の八島は荒れにしを

カリフォルニア大学バークレー校の先生の日本見学に付き合ってあげたとき、その先生が感慨を込めて次の一言をのたもうた。

「日本のものはみんな小さい」

たしかに。そういえば、末の松山の隣にあった「沖の石」も言語イメージのインフレ効果によって名所になっていた。



沖の石

李御寧さんに指摘されるまでもなく、日本文化は縮みをもって尊しとする傾向がある。「室の八島」には、多島海のイメージを与えるが、出かけてみると大神神社の室の八島は小さな水溜りでしかなかった。しかも、そうとう荒れていた。



室の八嶋に詣す。同行曽良が曰、「此神は木の花さくや姫の神と申て富士一躰也。無戸室に入て焼給ふちかひのみ中に、火々出見のみこと生れ給ひしより室の八嶋と申。又煙を読習し侍もこの謂也」。将、このしろといふ魚を禁ず。縁記の旨世に伝ふ事も侍し。


曽良の俳諧書留には室の八島で制作した芭蕉の以下の5句が」メモされていた。しかし『奥の細道』室の八島の段に載ることはなかった。

 

室八島
糸遊に結つきたる煙哉     翁  
あなたふと木の下暗も日の光  翁
入かゝる日も糸遊の名残哉
      (程々に春の暮れ)
鐘つかぬ里は何をか春の暮
入逢の鐘もきこえす春の暮


室の八島は芭蕉が奥の細道の旅で最初に訪れた歌枕である。にもかかわらず、この書き方があまりにもそっけないので、芭蕉は室の八島に失望したのだろう。それが奥の細道研究者の一般的見解になっている。貝原益軒は『日光名勝記』(1714年刊)に、室の八島の水は枯れ、いわれるように水気が煙のように立つことはなかったと書いている。芭蕉が訪れた1689年も水が枯れていて、歌枕の往時の姿はどこにもなかったのであろう、と研究者たちは想像している。

この項の筆者が訪れた2006年6月初旬、室の八島の池には濁ってはいるが水があり、鯉も泳いでいた。そして、なんと大神神社は煙に包まれていた。



年ふりて室の八島は荒れにしを往時しのばせ煙る大神
                     (閑散人 2006.6.30)




2 旅立ちの千住・草加

千住は奥州街道第1の宿駅であった。芭蕉が深川から船に乗り隅田川をおよそ10キロさかのぼって千住に降り立ったのは、『奥の細道』本文によれば「弥生も末の七日」(旧暦3月27日、新暦5月16日)、奥の細道業務日誌である『曾良旅日記』によれば、旧暦3月20日(新暦5月9日)のことだった。



芭蕉・曾良の2人組は千住から草加・春日部へと歩き始めた。奥の細道行脚の始まりである。2人が旅した元禄時代にまでには、日本国内の道路網の整備はかなり進んでいた。ダートロードで雨が降ればすぐぬかるんだが、幹線道路には旅行に必要なさまざまな施設が整備され始めていた。



蕪村筆「奥の細道画巻」千住 (逸翁美術館本)

藤岡作太郎によると、西行、宗祇、芭蕉が日本における三大旅行詩人だというが、芭蕉は西行、宗祇と比べて旅人としての姿勢が自然でない、と山本健吉は言う(『山本健吉全集 第8巻』)。西行は実に自然に旅人になり、宗祇は戦乱の時代の漂泊の詩人だが、芭蕉は自らの決意で、無理をしながら旅人になった、という。元禄という定住安住の太平の時代に旅人になった。あのような太平の世の中にあって、なんら家の勤めも果たさないで、ふらふら浮かれ歩いているのは、常識を持った人の学ぶべきことではないという上田秋成のコメントも、山本は引用している。

結論から言えば、芭蕉は17世紀の旅行家としては特筆に価しない。行動半径からいえば芭蕉の同時代人である仏師円空が芭蕉をはるかに凌駕している。時代の記録者としては荻生徂徠が芭蕉を抜く。荻生徂徠は旅の作品に時代と人々の暮らしを活写して後世に残した。芭蕉が訪れた先は歌枕に過ぎなかった。『奥の細道』からは生きた人間の呼吸が伝わってこない。

しかし、加藤周一は『日本文学史序説』で芭蕉の功績を次のように要約している。芭蕉は武士社会から脱落し、町人社会にも身を寄せず、仏教に関心を寄せたが仏教による現世超越にも向かわず、日本の土着世界観を徹底させた美的世界である「風雅」の価値信仰に生きた。加藤周一は芭蕉のそうした世界を「日常的彼岸の現在」とよんだ。文化の世俗化の徹底である。

芭蕉にとって旅はその風雅の感覚を研ぎ澄ますための手段であった。とはいえ、芭蕉の旅には弟子が同行し、パトロンがおつきの者を提供した。旅先では俳諧のパトロンが丁重に芭蕉を迎え、面倒を見た。『奥の細道』には旅のつらさを書き連ねているが、このころの一般人の旅に比べれば優雅なものだった。



草加にある芭蕉シンポジウム記念ドナルド・キーン植樹の碑

ともあれ、こうした旅で芭蕉は発句に自然を詠みこんだ。加藤周一に言わせると、日本の抒情詩人は『古今集』以後は見たこともない歌枕を詠んだが、芭蕉は現地体験を持った。芭蕉の句の中には画期的な自然の発見がある。「一般に日本人が自然を好んでいたから、芭蕉が自然の風物を歌ったのではなく、彼が自然の句を作ったから、日本人が自然を好むと自ら信じるようになったのである」と加藤は力んで見せる。だが、これはちょっと勇み足だろう。

オスカー・ワイルドは「自然もまた芸術を模倣する」と喝破したが、芭蕉もまた、「このように自然を見よ」と日本人に教え、やがて日本人が日本の自然をそのように見るようになったのであろう。日本は春雨、五月雨、夕立、秋雨、時雨とやたら雨が多く湿っぽく、夏は耐えらないほど暑苦しい国でもある。にもかかわらず、日本のことを四季折々に美しい自然が楽しめる国と日本人は思いこんでいるようだ。これはどうやら芭蕉の贈り物のおかげらしい。

内田魯庵は芭蕉の「俳骨」は国典にあらず儒学にあらず、禅の修業であった、という。加藤は芭蕉は仏教に関心を寄せただけという。内田は芭蕉の学識について、芭蕉よりもっと優れた学識のある俳諧人はいたともいう。

もし芭蕉がその人生の後半で旅に出ることがなかったら、単なる元禄の詩人にとどまっていただろう。旅は芭蕉にとって「投機」の時、「投機」の場であった。山本健吉の言うように、「芭蕉は自らの決意で、無理をしながら旅人になり」、『奥の細道』で一発あてた「大山師」だったのだ。

(閑散人 2006.7.1)




1 深川の山師・芭蕉

芭蕉を「彼は実に日本の生んだ三百年前の大山師だった」と評したのは芥川龍之介である。もっとも芥川はこの寸評の前に「禅坊主は度たび褒める代わりに貶す言葉を使ふものである」と添えているから、芥川は芭蕉を「山師」と褒め称えているのだ。

「続芭蕉雑記」で芥川は芭蕉を以下のような男としてとらえている。芭蕉は「不義をして伊賀を出奔し、江戸へ来て遊里などへ出入りしながら、いつか近代的(当代の)大詩人になった」。芥川に言わせると、芭蕉はその作品は別にして、彼の一生は特別神秘的でもなんでもなく、西鶴の「置き土産」にある蕩児の一生と大差ない。



内田魯庵『芭蕉庵桃青伝』は、芭蕉の伊賀出奔の理由は@19歳のとき主君の夫人の侍女と通じたという冤罪を負って憤慨したA主君没後、その夫人と醜聞があったと悪意のうわさを広められ激昂したB兄嫁と艶聞があった、などの風説があるが、いずれも信じがたいとしている。Bashoistである内田は、芭蕉のこととなるとうって変わってまじめな口調で、芥川の不義出奔説を否定する。

また内田は、遊蕩について、芭蕉は遊びぬいた人であるとの説もあるが、確固たる根拠がない、という。支考が『露川責』で「むかし西行宗祇など兼好も長明も今日の芭蕉も酒色の間に身を観じて風雅の道心とはなり給へり」と書いていることについて、支考は我田引水の説を捏造するものであるから信じがたい、もし芭蕉に遊蕩の時代があったとすれば、江戸に来る以前の寛文時代で、江戸に来て以後はそのようなことはありえない、と否定している。



芭蕉稲荷

狩衣を砧の主にうちくれて     路通
 わが稚名を君はおぼゆや     芭蕉

 宮に召されてうき名なづかし   曾良
手枕に細きかひなを差しいれて   芭蕉

 足駄はかせぬ雨のあけぼの    越人
きぬぎぬやあまりか細くあでやかに 芭蕉

 やさしき色に咲るなでしこ    嵐蘭
よつ折の蒲団に君が丸くねて    芭蕉


芥川は「芭蕉雑記」で上記の句をあげて、芭蕉を次のように定義する。芭蕉は時代を捉え、最も大胆に時代を描いた万葉以後の詩人である。芭蕉は茶漬けを愛したなどというのも嘘ではないかと思われるほど、元禄人が好んだ多情と世俗の甘露を語りつくしている。

同時に、芥川が言うように、芭蕉は世故人情に通じた世渡り上手な苦労人だった。芭蕉の今日あるはその弟子があくことなく芭蕉を語ったからである。芭蕉が唱えたとされる「わび・さび・しおり・ほそみ」などは芭蕉に代わって弟子たちが「翁いわく」と世間に広めた。



芥川の「芭蕉雑記」や「続芭蕉雑記」を読むだけでは、芭蕉がなぜ「三百年前の大山師」だったのかよくわからない。芭蕉は元禄の時代精神をうたいつくした詩人であり、世渡り上手な俳諧団体オーガナイザーだった。しかし、芭蕉が日本の国民的詩人の一人と評価されるのは、それだけの理由にすぎないのか?

(閑散人 2006.7.1)


 
          ――終わり――