1 板門店会議場

「肩を怒らせて」と形容される姿を久しぶりに見た。



写真をご覧いただければ一目瞭然。ここは韓国の首都ソウルから北西へ50キロほどのところにある、いわゆる38度線、朝鮮半島を韓国と北朝鮮に分断している非武装地帯(DMZ)内にある板門店の停戦委員会の会議場である。

国連カラーのブルーに塗装された簡易倉庫風の建物が会議場である。建物をはさんで北側に北朝鮮が建てた「板門閣」、南側に国連側(今では事実上韓国軍と米軍)が建てた「自由の家」がある。北朝鮮側と国連側に招かれた賓客はそれぞれの建物の展望台から板門店一帯を見下ろすことができる。一般ツアー客は地上からまじかに会議用の建物を見るだけで、高いところから全景を見ることはできない。



非武装地帯の中は写真撮影が禁じられているが、会議場の前は例外的に撮影が許されている。肩を怒らせ、両手のこぶしを固めた韓国軍兵が板門閣の方向をにらんでいる。板門閣の玄関テラスには北朝鮮の兵士が双眼鏡を手に韓国側の動きを注視している。



会議場が使われていない場合は、わずか数分間の間だが、建物の1つに入って中を見ることができる。観光客は米軍兵士にの先導で2列縦隊になって建物に入る。



建物内部中央には一見漆塗り風の木製の会議用長テーブルが置かれている。片側に連合国側、他方に北朝鮮側の代表が座る。テーブルの中央に目には見えない南北の境界線が走っており、その境界線は建物の外では、具体的にコンクリート凸型のコンクリートの突起で示されている。双方の兵士にとって越えてはならない一線である。



建物内部に限って一般観光客はこの境界線を越えて北朝鮮側に入ることができる。建物内部では、観光客が写真を撮ることが認められている。その上、警備の兵士とならんで記念撮影することもできる。警備の兵士は米軍兵士と韓国軍兵士だが、さすがに韓国軍兵士は直立不動で身じろぎもしないが、米軍兵士はリラックスして、時には並んで記念撮影をする女性の肩に手を置いてにっこりと笑顔で写真におさまるサービスをしてくれこともあるそうである。

やがて米軍兵士が「あと1分」「あと30秒」と退出を迫り、時間切れになると観光客は再び米軍兵士の引率で2列縦隊で建物を出る。

北朝鮮の行動は金王朝3代目のキム・ジョンウンの時代になってますます読みにくくなった。南北双方が軍事境界線をはさんで、緊張の度合いを高めているこの場所は、世界のホット・スポットの一つである。それが観光地となって、一部ではあるが一般人に開かれ、そこを訪れているという非現実感、これが板門店ツアーの醍醐味であろう。だが、板門店の観光ツアーに参加できるのは外国人だけ(2012年から在日韓国人も可能になった)で、一般韓国市民は板門店に入ることができない。一般の韓国人が見れば、その印象は当然、外国人の感慨とは異なることだろう。

朝鮮戦争は1950625日 の北朝鮮軍による奇襲攻撃で始まり、1953727日の休戦まで続いた。戦争は、膨大な人的被害をもたらした。長らく北朝鮮・中国ではアメリカ帝国主義者が先に攻撃をしかけてきた、韓国ではしかけてきたのは北朝鮮の方だ、と論争が続いてきた。

199479日キム・イルソン主席の死亡が発表され、711日国葬が営まれた。翌日、韓国のキム・ヨンサム大統領が、その年の6月初旬にソ連崩壊後ロシアを訪問したさいロシア側から贈られたスターリン時代のソ連機密文書を公表した。文書はキム・イルソンが何度もスターリンに対して朝鮮半島統一のために、南に攻め入ることを認めてほしいと懇願し、その都度スターリンに拒否されてきたが、1950年の初頭、ついにスターリンがキム・イルソンの要請を認めたという生々しい歴史を暴露するものだった。

北朝鮮軍は開戦もなく釜山近くまで攻め込んだが、補給線が延びきったところをマッカーサー将軍率いる国連軍が、仁川に上陸。今度は米軍を主力とする国連軍が、北朝鮮軍を中国国境付近まで追いつめた。すると中国人民義勇軍北朝鮮支援のために国境を越えてきた。こうして朝鮮戦争は38度線付近で一進一退のこう着状態になり、ついには休戦協定に至った。38度線は日本軍が降伏したさい、北から進んできたソ連軍と、南から進んだ国連軍の占領地域の境界線だった。

のちのベトナム戦争と同じような米ソの覇権競争が生んだ冷戦下の代理戦争だった。戦争の死者は南北朝鮮だけで百万人を超えた。それだけの犠牲を払って関係国が得たものは、結局、戦争開始前の38度線の再確認と固定化だけというむなしい戦いだった。

板門店は国際政治の空虚感を絶望的なほど味あわせてくれる場所でもある。



2 帰らざる橋

東は日本海側から西は黄海側まで、韓国と北朝鮮を分ける非武装地帯(DMZ)が朝鮮半島を横断している。幅4キロのDMZの中心が軍事境界線で、境界線の南北それぞれ2キロが、非武装地帯になっている。

ソウルからの板門店のツアーは、DMZの南側に韓国が設けた3本の防衛線を越えて走る道路を行く。道路の左右の草原に地雷原が広がっている。

東西250キロにわたるDMZの中で、唯一南北が接触できる場所が板門店の共同警備区域(JSA)である。前回の写真でお見せしたように、JSAの中にも南北の境界線が引かれている。しかし、19768月まではこの境界線は引かれておらず、JSAは北朝鮮軍と国連軍が文字通り共同警備していた。

1976818日、JSA内にある「帰らざる橋」の近くで、国連軍が視界を妨げているポプラの木の枝を払う作業をしていた。それを北朝鮮の兵士たちがとがめ、作業の中止を要求した。国連軍側がその要求を無視して作業を続けていると、30人ほどの北朝鮮兵士がトラックでやって来て、斧やツルハシを手に国連軍に襲いかかった。この乱闘で国連軍の米軍将校2人が殺された。いわゆるポプラの木事件、あるいは斧殺害事件である。下は国連軍が撮影し、当時公開した写真である。



事件の発生で北朝鮮軍と国連軍(主体は米・韓)が臨戦態勢をとり、一気に背筋が凍るような緊張が世界に走った。筆者は1974年に初めて訪韓した。その時の縁で韓国政府から南北対話の資料が送られてくるようになっていた。半島情勢にはそれなりの関心を払っていたので、当時の記憶はいまだに鮮明だ。

沖縄の米軍基地などからF4ファントムの飛行中隊が韓国に送られ、沖縄の海兵隊が韓国に上陸、横須賀から空母ミッドウェーが朝鮮半島の海域に向かった。日本にある米軍基地が朝鮮半島の軍事危機に直結しているのは、当時も、今も、同じである。今後、日本が集団的自衛権を容認すれば、危機の状況とその解釈次第で、朝鮮半島の危機が日本の危機と直結する可能性も生じてくる。

このポプラの木事件は、金日成主席の「事件は遺憾である。再発防止のために双方が努力しなければならない」という声明を、韓国の不満を押し切って、米国が受け入れることで一応おさまった。

事件後、問題のポプラの木は国連軍が根元から切り倒した。写真はその時撮影されたものである。



道路沿いのポプラの切り株跡に、事件の犠牲者を弔う記念の碑がつくられた。JSAの国連軍基地がキャンプ・ボニファスと改名された。これはこの時殺害された将校の一人がアーサー・ボニファス大尉だったことによる。



JSAの中に南北を隔てる境界線が引かれたのは、この事件のあとである。



ポプラの木事件の現場は人気のないさびしい草原の中の一本道である。ポプラの木事件の慰霊碑のそばに、帰らざる橋がある。サチョン川にかかる木造の貧相な橋であるが、朝鮮戦争停戦協定後に捕虜の交換が行なわれた橋だ。捕虜交換は1953年に行われ、橋を渡る前に捕虜それぞれが、この地にとどまる、橋を渡って行くか、その意思を問われた。橋を渡ればもう戻ることは出来ないと念を押された。そのことから帰らざる橋の名がついたという。



19681月に横須賀を出港して、日本海でソ連と北朝鮮の電子情報を収集する任務に就いていたプエブロが北朝鮮に拿捕され、11ヵ月後の同年12月に乗組員が解放されて、北側から南側へと渡った橋である。



捕虜交換は帰らざる橋だけではなく、板門店の陸地でも行われた。

1978年に韓国が海戦でとらえた北朝鮮軍用船の乗組員が解放されて、板門店の境界線を越えて南から北へ向かった。この時、彼らは韓国側から背広、靴、腕時計のほか、お土産を詰めたボストンバッグなどを贈られていた。乗組員たちは全員が境界線を越え終わるやいなや、背広も靴も脱ぎ捨て、パンツひとつの姿で南北境界線までもどり、韓国から与えられたものを南側に向かって投げ返した。その行為は金日成体制への忠誠のあかし、と南側の関係者は見た。この奇妙な風景は日本の新聞でもとりあげられた。

かつてベルリンを東西に分断していたベルリンの壁の検問所チェックポイント・チャーリーは、さまざまなスリラー小説や映画の材料になった。板門店も同じような冷戦の象徴だが、ベルリンのチェックポイント・チャーリーほどには小説・映画の派手な舞台にはならなかった。チェックポイント・チャーリーと板門店では、板門店の方が相手に対する拒絶度がはるかに高く、したがって通行量がほとんどなかったので、ストーリーの作り方が難しかったからだ。

ベルリンのチェックポイント・チャーリーはベルリンの壁崩壊とともに消え失せた。地味な冷戦の象徴・板門店はいまだにしつこく残っており、いつ消え去るか、予測できる人はどこにもいない。



3 トラ山からの眺め

2次大戦で日本が降伏したのち、朝鮮半島を北から進撃してきたソ連軍と、南から来た連合軍がそれぞれの占領地域を分割したのが38度線だった。朝鮮半島を南北に分断する38度線といまなお形容されるが、朝鮮戦争後に設けられた非武装地帯(DMZ)は半島の東側で38度線以北に、西側では逆に南に、それぞれ食い込むかたちになっている。これは朝鮮戦争停戦時の相互の勢力範囲が反映したためである。

南北の政治的雲行き次第でそのつど開けたり閉じたりしているケソン(開城)工業団地がある開城市は、現在は北朝鮮の領域内だが、朝鮮戦争が始まる前は38度線以南の韓国の領域内にあった。北朝鮮が38度線を越えて南に攻め込んださい、最初に奪取したのが、古都・開城市だった。したがって南北離散家族は開城市の出身者に多い。

私の知っている韓国の放送記者だったクリスチャンも一家をあげてケソンからソウルに移動した。子ども時代の記憶を話してくれたのだが、話に聞くインド・パキスタン分離独立の時の、西へ向かうイスラム教徒と東へ向かうヒンドゥー教の人の流れにも似た苦難の移動だったようである。



そのケソンをDMZ韓国側最北端のトラ(都羅)山展望台から眺めることができる。DMZ観光の目玉の一つである。1980年代後半につくられた展望台で、軍事境界線すぐそばの丘だ。設置したのは当然のことながら韓国国防省。テラスに使用料500ウォンの高性能双眼鏡が置いてある。頭上には、ここからケソン方向に見えるケソン工業団地、板門駅、北朝鮮軍警戒所、送信塔、開城市街の高層ビル、金日成の銅像などの位置を案内する大きな横長の写真が掲げてある。一般観光客は双眼鏡のある塀まで行ってカメラを使うことを禁じられている。カメラの使用が許される黄色い線は、双眼鏡をのぞく人たちのかなり後方なので、そこからだと双眼鏡で北朝鮮を見る観光客の後姿とその頭上の案内板のケソン風景を写すことになる。



「今日はよく晴れていて、くっきりと見えます」と板門店ツアーを一手に引き受けている旅行社のガイドが言った。

トラ山展望台のすぐ近くに、北朝鮮軍が掘ったとされているトンネルが公開されている。北朝鮮軍がDMZの地下に掘ったとされるトンネルはこれまでに4本が韓国側によって発見されている。第1トンネル(1974年発見)、第2トンネル(1975年)、第3トンネル(1978年)、第4トンネル(1990年)で、このうち第1トンネルだけが非公開だ。公開されている3本のうちでは、第3トンネルがアクセスや施設面で最も整っているので、トンネル観光はたいてい第3トンネルを対象に行われる。

3トンネルは地下70メートルほどのところにあり、地上から地下へは遊園地の乗り物風のモノレールで行く。モノレールで下っているうちは地上の空気が入り込んでいるので寒い。モノレールを降りて花崗岩の地層を掘り抜いた高さ2メートル幅2メートルほどのトンネルに入ると、湿気を含んだ空気が生ぬるく感じられる。



このトンネルをつかえば、1時間に3万人の兵士を南側に送り込むことが出る。トンネルは脱北者の情報に基づいて、韓国軍が発見した。掘削の手法などから北側の手によるものだ。ガイドはそう説明する。

しかし、何万もの兵が北側のトンネル入り口に終結すれば、目立つだろうし、出口から南に向かう北朝鮮軍兵士がトンネル出口で国連軍・韓国軍に待ち伏せされる恐れもある。それに戦車なし、歩兵だけでの進撃は難しいだろう。

当時米国は民主党のカーター政権の時代だった。1977年に就任したカーター大統領は在韓米軍の撤退を唱えていた。ベトナム戦争を教訓に、海外の駐留米軍を削減しようと考えたのだ。カーターは大統領選挙運動中に、米国は韓国に700発の核弾頭をおいているが、その1発といえどもおくべき理由はない、と演説したことがある。だが、カーターの韓国撤退プランは、米軍が撤退すれば(北朝鮮の攻撃を誘発し)戦争になると、韓国はもとより米軍内部からも強硬な反対をうけた。

1950年の1月、当時のアチソン米国長官が、朝鮮戦争勃前に、太平洋における米国の防衛線はアリューシャン列島‐日本‐沖縄‐フィリピンを結ぶ線であると、アチソン・ラインともよぶべき発言をした。韓国は防衛ライン内に含まれていなかった。この発言が、米国は韓国を見限ったとの印象を与え、半年後の朝鮮戦争勃発の誘因の1つになったのではないかと疑う議論があった。

さらに、1975年から77年にかけての米軍事情報の航空写真情報の分析などから、北朝鮮軍の陸上兵力がそれまで予想されていた485千人から68万人と4割増え、保有する戦車が8割も増えていることや、DMZから北80キロほどの谷あいに270両の戦車と100両の装甲車が集結していることがわかった、という情報が流された(ドン・オーバードーファー『二つのコリア』共同通信社、2001)。

カーター政権ではやがてそのスタッフの中で韓国からの撤兵プランに固執しているのはカーター大統領だけという状況になり、撤兵プランはご破算になった。

3トンネルが見つかったという韓国政府の発表も、カーター大統領に圧力をかけるために行われたものではあるまいか、といううがった推測がなされたこともあった。

それにDMZ地下のトンネルが軍事的脅威であれば、コンクリートを流し込んで埋めるにこしたことはない。それを保存して観光客に見せているのは、トンネルの宣伝価値が軍事的脅威を上回っているから、とも解せる。第3トンネル入口の広場には、二つに割れた球を一つに戻そうとする人たちの像がつくられている。トンネル見学に来た観光客に、トンネルの悪意と統一への善意の対照を印象づける仕掛けである。



トンネルは政治的に利用されたのかどうか。真相はなお闇の中である。



4 トラサン駅

韓国鉄道公社のトラサン(都羅山)駅は非武装地帯(DMZ)内にある。駅のプラットホームにある、風雨にさらされて色あせた看板に、切ない文章がつづられている。

 Not the last station form the South,
  But the first station toward the North.

 南からの終着駅にはあらず、
 北への始発駅なり。



トラサンの駅名表示の下にソウルへ56キロ、ピョンヤンへ205キロとある。

トラサン駅は京義(キョンイ)線の韓国側の終着駅である。京義線は20世紀の初頭にソウルと朝鮮半島の北端・新義州を結ぶ鉄道として、日本が敷設した。かつてはシベリア鉄道ともつながっていた。だが、第2次世界大戦後の38度線による南北分断、朝鮮戦争後のDMZ(非武装地帯)によって、鉄路も分断された。

21世紀の初め南北の対立がやや緩んだころ、分断されていた線路が連結された。連結された線路をケソン工業団地へ荷物を運びこむ貨物列車が走った。韓国側のトラサン駅と北朝鮮側の板門駅の短い距離だったが、一時は南北融和の象徴とされた。しかし1年後には運転がとりやめになった。



それ以後、トラサン駅では南隣のイムジンガン(臨津江)駅との間わずか4キロほどを12回往復する列車が発着するだけである。列車に乗るのはDMZ観光のお客である。

入場券を買えばトラサン駅のプラットホームに入ることができる。改札口に立っているのは、駅員ではなく兵士である。

ホームには米国のブッシュ大統領が2002220日ここを訪れたときの特大写真が看板になっている。故人となった金大中大統領がブッシュ大統領に拍手を送っている。



この時のブッシュ大統領のスピーチに次のようなくだりがあった。

「夜の朝鮮半島を撮影した衛星写真を見ると、半島の南側は光の洪水である。半島の北側はほとんど闇に覆われている。金大中大統領は朝鮮半島全体を照らすビジョンと取り組んできた。われわれは半島の人々みんなが光の中で暮らすことを望んでいる」

「私のビジョンははっきりとしている。朝鮮半島がある日、鉄条網と恐怖によってへだてられた現状から、通商と協力によって結ばれることを願っている。朝鮮の祖父母たちが彼らの晩年を愛する人々と暮らし、食料は兵隊にわたるのみでその陰で子どもたちが飢えていることなどないような日々が来ることを望んでいる。国家はその人民の牢獄であってはならない。朝鮮の人々が国家によって機械の歯車のように扱われることはあってはならない」

いつもながらのブッシュ調だった。

ホームにも兵士が立っている。観光客を保護すると同時に監視しているのだ。ホームに立てば線路が続く向こうは北朝鮮の領土である。



北朝鮮はいつまで現在の政治体制を維持できるのだろうか。去年の10月ごろ米国のランド研究所が「急いで北朝鮮の崩壊に備えなければならない」という報告書を出して、マスメディアに盛んに取り上げられた。北朝鮮の崩壊予測はこれまで何度も出て来たが、12月にキム・ジョンウン(金正恩)の側近だったチャン・ソンテク(張成沢)が粛清されたことで、北朝鮮の崩壊は「起きるか起きないか」の議論から、いまやそれは「いつ起きるのか」の問題に移ったと多くの専門家がみている。

北朝鮮が崩壊した場合、中国へ向かう難民、韓国へ向かう難民、ベトナムのボートピープルを思い起こさせるような日本海に船で脱出する難民をどう救援するのかという人道問題がある。それ以外に、北朝鮮が内戦状態になった場合どう対処するか。あるいは北朝鮮が権力の真空状態に陥り、米軍や韓国軍が北朝鮮に兵を進める場合、これまで北朝鮮を米国に対する地政学的な緩衝地帯とする目的で金政権を守ってきた中国が、韓国と米国に北朝鮮の領域を黙って譲るわけはないので、北朝鮮で米韓中の軍事的正面衝突が起きる可能性がある。衝突を回避する方法を模索しなければならない。回避の方法として、半島統一をめざす韓国が、北朝鮮の領域の一部を北側中国に譲る妥協をする可能性はあるのか。現在の軍事境界線を少しだけ北に押し上げるにとどめ、中国が軍事的バッファーを朝鮮半島に残すことを米韓は認めるのだろうか。北朝鮮の核兵器がすでに軍事使用可能な状態になっていた場合、その処理をどうするのか。こうした頭の痛い問題を俎上に載せて、米中韓はやがて来る危機の管理の話し合いをはじめなければならない。いや、もうひそかに相互の胸の内のさぐりあいが始まっているかもしれない。

米国のオバマ政権だけでなく、北東アジアの情勢と中国の動向に関心を寄せる世界から見れば、こんなやっかいな時期に、靖国で突っ張り、慰安婦問題を蒸し返し、首相側近が極右的発言をしては訂正を繰り返す、いまの安倍政権にうんざりし、失望していることは間違いない。巨大な貿易相手国であり、経済成長と軍備増強を経て覇権主義に動き始めた中国を相手に、アメリカは神経をすり減らすような安全保障ゲームをしている。オバマ政権にとっては、今の日本が朝鮮半島有事を前に、自陣営の足元を乱しかねないかく乱要因の一つに見えているのだろう。でなければ、安倍首相の靖国参拝をめぐって、disappointed という尖った用語を外交の場で使うはずがなかったからだ。



5 イムジン河

朝鮮半島を南北に分けるDMZ(非武装地帯)には野生の鳥獣と兵隊以外は住みついていないかというと、さにあらず。

韓国側に「自由の村」ことテソンドン(大成洞)、北朝鮮側に「平和の村」ことキジョンドン(機井洞)があり、民間人が住んでいる。

韓国側のテソンドンは人口300にも満たない小さな集落だ。朝鮮戦争以前からその地に住んでいた人々の末裔が、兵隊に守られながら農業を営なんでいる。農家当たりの農地は韓国の一般の農家よりはるかに広く、生産した農産物は韓国政府がそっくり買いあげてくれる。案内してくれたガイドによると、兵役と納税を免除され、年間収入は日本円で1000万円ほどになるそうだ。実入りは良いが、居住資格や暮らし方はきびしい制限をうけている。

北朝鮮側のキジョンドンにもコンクリート製のアパート群が立っている。だが、実際は人が住んでいないゴーストタウンらしい、とガイドは言う。夕方になると、アパートの灯りが同時刻に一斉に灯るのだそうだ。韓国側はキジョンドンを「宣伝村」とも呼んでいる。

テソンドンもキジョンドンも村の中に巨大な国旗掲揚塔を建て、宣伝のために、過去にその高さを競いあったことがある。現在、160メートルほどのキジョンドンの塔がテソンドンの100メートル弱の塔を上回っている。



DMZの中にはレストランがないので、観光客はいったんイムジン閣公園まで戻って昼食をすませる。イムジン公園はイムジン(臨津)河沿いにあり、そこから先は一般人規制区域になる。板門店見学ツアーや第3トンネルなどのDMZツアーはこのイムジン閣公園から出発する。板門店には行けない韓国国籍の人も、第3トンネルなどへはここから行くことができる。切符を買ってシャトルバスに乗る。



冬のイムジン閣公園からの眺めは荒涼としている。イムジン河はところどころ凍っている。トラサン駅へ向かう鉄道の新しい鉄橋のそばに、昔の壊れた鉄橋の橋脚が残っている。その手前には木造の「自由の橋」がある。1953年の朝鮮戦争停戦後、1万人の捕虜がこの橋を渡って韓国側に返ってきたことから自由の橋と呼ばれている。昔の鉄道のレールと、戦争で壊れた古い機関車が展示されている。機関車は戦闘に巻き込まれて車体が蜂の巣状だ。





「イムジン」は韓国側の発音、北朝鮮では「リムジン」と発音する。

 リムジン江の清いみずは流れ流れゆき
 水鳥は自由に行き交い飛んでいるのに
 我が故郷南の地 行きたくても行けない
 リムジン江の流れよ
 悲しみのせて流れよ
   (パク・セヨン作詞)

むかし、ザ・フォーク・クルセダーズという歌のグループがあった。かれらは北朝鮮で作詞作曲された『リムジン江』の翻案ともいうべきシングル盤を収録したが、発売が中止になったことがある。

1968年のことだ。フォーク・クルセダーズは日本の朝鮮学校で聞いた歌を、てっきり朝鮮民謡だと思い、レコードに吹き込んだ。ところが、制作した当時の東芝音楽工業がなぜリリース直前になって販売中止を決めた。その理由については諸説入り乱れていて、いまでもはっきりしない。

この歌は朝鮮の民謡ではなく、北朝鮮の現代作曲家と作詞家がつくったもので、著作権の問題があったとか、親会社の東芝が韓国市場での東芝製品の売れ行きに悪影響が出ると心配したとかの説がある。

この歌の原詞の2番は

 川をこえた葦の原では鳥だけが悲しげに鳴き
 乾いた野原では草の根を掘っている
 協同畑 稲穂の海 波の上に踊るので
 リムジンの流れを防ぐことはできないない

豊かな北朝鮮が貧しい韓国を憐れんでいるかたちになっている。

これをフォーク・クルセダーズは、元の歌詞をよく知らぬまま、当時のベトナム戦争のイメージも加味して、

 北の大地から南の空へ
 飛び行く鳥よ 自由の使者よ
 だれが祖国を二つに分けてしまったの

と、創作した。自由の使者は北から南へ飛び行くという表現は、自由を求めて北から南へ去って行くととれることに朝鮮総連がいらだった。

(このいきさつについて、興味のある方は、2002812日付『アエラ』の「イムジン河の数奇な運命 日本で愛される「北朝鮮の名曲」」という記事や、田月仙『禁じられた歌』(中公新書ラクレ、2008)をご覧ください)

このころはまだ韓国、北朝鮮、ともに貧しかった。だが、時の流れとともに、イムジン河をはさんで、韓国と北朝鮮の勢いは劇的に変化した。フォーク・クルセダーズのレコード発売中止のころ、イムジン河の韓国と北朝鮮の経済力は大差がなかった(北朝鮮が韓国を凌いでいた時期もあった)が、今では、北朝鮮の1人当たりGDPppp)は1,800米ドル(2011年推定)だが、韓国のそれは33,2002012年推定)と大差がついた(CIA Fact Book PPP=購買力平価)。

北朝鮮はソ連・中国からの経済援助にたよって国づくりをしようとしたが失敗した。韓国は朴政権とそれ以降の過酷な軍事政権下で、日本や西側から資本と技術の導入につとめ、国造りの基礎を固めた。やがて経済発展そのものが、結果として、軍事政権を終わらせる力になった。

 川をこえた葦の原では鳥だけが悲しげに鳴き
 乾いた野原では草の根を掘っている

というくだりは、いまでは誰でもが知る北朝鮮の風景になってしまった。

イムジン江は望郷の河だが、同時に、政治体制とそれがもたらす民衆の運・不運について考えざるをえなくなる場所でもある。



6 日本大使館前

ソウルに来たのは2009年の暮れ以来だ。それから4年余りがたつ。前回のソウル見聞はこの『彷徨』シリーズに書き留めておいた。この4年余の間に新しくソウルにできたものを、板門店観光のついでに添えておこう。

板門店を見た後、ソウル市内で3つの新しいものを見物した。一つは日本大使館真向いの歩道に据えられた従軍慰安婦を追悼する像である。2つ目は改築された景福宮の光化門。3つ目が改築された安重根の記念館だ。

インサドン(仁寺洞)にあるホテルに泊まったので、日本大使館前までは歩いて行った。大使館近くまで来ると、拡声器を使った演説のような絶叫が聞こえてきた。あいにく韓国語は解さないので何を言っているかはよくわからない。大使館の角まで来ると、ちょうど日本でいう街宣車のような車が、なにやらメッセージを流しながら走り去った。



日本大使館の茶色の建物の前には、ソウル警察の数台の警備車両が並んでいる。大使館側の歩道にはロープが張られ、大使館前の一般人の通行が規制されている。周辺には警備の警官が張り付いている。通常の外国公館警備にしては、警備が厳重すぎる。不測の事態の可能性が高いことを強く懸念している警備体制である。

車道を挟んで大使館とは反対側の歩道に、少女のブロンズ像がある。薄茶色の頭巾つき防寒コートを着て椅子に座った少女の像は日本大使館を見つめている。少女像の隣の椅子に上には花がそなえられている。少女像の防寒コートのポケットには使い捨てカイロが入れてあった。ソウルの冬の朝は寒い。



像の傍らの歩道に韓国語、英語、日本語で書かれたプレートが置かれている。

199218日、日本軍「慰安婦」問題解決のための水曜デモが、ここ日本大使館前ではじまった。20111214日、1000回を迎えるにあたり、その崇高な精神を歴史に引き継ぐために、ここに平和の碑を建立する」



日本大使館に勤める日本人にとっては、この銅像の少女に46時中見つめられているという感じがまとわりつき、決して気持ちの良いものではあるまい。ソウルの大使館員がそうなら、本省の外務省の人もそうだろう。内閣もそうであろう。与党や野党の議員の中にも、あれは韓国の政治的意図による言いがかりとする見方が広がっている。

韓国が執拗に従軍慰安婦問題を持ち出すのも、政治的意図があるからだ。これに猛反発する日本の政治家の態度も政治的意図から生み出されたものだ。日本では韓国への反発が
高じて、河野談話の検証という話へ広がっていった。河野談話の検証という発言を韓国政府が批判した。すると、日本政府は「河野談話を見直すとは一度も言っていない。菅義偉官房長官も政府の立場は河野談話の継承だとしている」と反論する。河野談話検証への意気込みは国内の対韓強硬派へのサービスで、河野談話継承は対外消費向けの建前論である。日本だけでなく、こうした玉虫色の手口は外交の常套手段だが、やればやるだけその国に対する外国からの信頼がうすれ、尊敬が冷笑に変わってゆく。

現政権やそれを応援する議員やメディアにとっては、従軍慰安婦をめぐって日本の国家権力の強制があったと認めた河野談話の以下のくだりの、特に太字部分あたりが気に入らないのであろう。

慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった

「官憲が家に押し入っていって人を人さらいのごとく連れていくという、そういう強制性はなかった」「この狭義の強制性については事実を裏づけるものはなかった」と政府はいう(2006-7年、安倍首相)。なるほど、そういう狭義の強制性を証明する証拠資料は見つからなかった。だが、敗戦時に旧日本帝国政府は敗戦国のならいとして、不利な証拠になりそうな公文書を焼却処分している。したがって、証拠になる文書がなかったということは、「残っていなかった」ということであって、事実がなかったということと、かならずしも同じではない。

河野談話作成にあたっては、韓国の該当者から匿名で聞き取り調査をして、判断材料にしている。

日本国内には証拠となる文書は残っていないにしても、オランダなどで官憲の直接関与を証明する文書が見つかっていると、と研究者が報告している。

さて、話を進めて、河野談話検証の過程で、日本国内には日本の官憲が直接的に慰安婦の強制募集に関わったことを証明する文書がなく、強制の有無をはっきりさせるために、聞き取り調査の対象になった韓国人女性に対して、日本政府が改めて聞き取りをする必要を認めた場合は、どうなるか。

この時点で、日本政府と韓国政府・韓国世論は正面衝突する。この正面衝突は同じ儒教文化圏の東洋人同士のメンツをかけた争いになり、いさかいの傷跡は深く、関係修復には長い時間が必要になる。日本にとっては、真相解明で得るものよりも、失うものの方が大きい。

おそらく、国際社会の中で、悪者扱いされるのは日本である。日本政府は「国家は過たず」という神話を国民に信じさせたいがために、政府がいったん国際社会に対して行った公式発表を、手のひらを返すように否定し、さらなる紛争のタネをまいたと、対日非難が続出することになるだろう。国家の謝罪に二言があってはならないのは、武士の言葉とおなじである。



日本大使館前から、光化門へ行く途中のビルに、独島、東海に関する英文の宣伝幕が張ってあった。蝸牛角上の争いである韓国の独島・日本の竹島はともかく、韓国が日本海を東海と呼びたければそう呼べばいい。世界各国にドクトと呼んでくれとPRするのも勝手。英仏海峡もイギリスとフランスでは呼び方が違う。



7 光化門

2009年の冬にソウルを訪れたとき、光化門は改築工事中だった。覆いをすっぽりかぶせられていた。



20142月、光化門は装いをあらため、すっかり観光門になっていた。光化門についてはこの『彷徨』の「ソウル 2009 冬」の第10回・光化門で紹介してあるので、ここでは繰り返さない。以前の光化門はハングルで「クァンファムン」と書かれていたが、今度は漢字に変わった。オリジナルの光化門に掲げられていた文字を、写真資料をもとに復元した。



光化門の前には観光用の衛兵が昔の盛装で立っている。衛兵というのはたいてい軍の儀仗隊の見栄えのする隊員がつとめるようである。光化門の衛兵はそろって背が高く見栄えはするが、軍人臭が強くない。衣装のせいかもしれない。



光化門の衛兵の一団が広場で行進しているところを見たが、大変デレっとした歩き方だった。光化門は軍とは関係がない施設だし、この衛兵たちはアルバイトのエキストラかもしれない。




とはいえ、観光客がやって来て衛兵役とならんで写真をとったり、戯れたりしても、だまって我慢し、不動の姿勢を崩さないあたりは、世界の観光地の衛兵と同じである。

観光客と云えば、いまやソウルは中国人であふれかえっている。板門店ツアー・バスの終点がロッテ・ホテルだったので、界隈を歩いていると、あちこちにロッテ免税店の袋を持った中国語をしゃべる人たちがいた。かつては、そうした人の多くが日本からの観光客だった。

韓国にやって来る観光客は、国別ではながらくの間、日本が第1位だった。それが2013年に中国にかわった。竹島や慰安婦問題で日韓関係がギスギスして、日本人の観光気分が薄らいだのかもしれない。一方、飛ぶ鳥おとす勢いの中国から大勢の観光客が韓国にやって来た。韓中接近のせいもあるのだろう。



光化門の近くに守門将廰と看板を掲げ建物がある。そこで料金を支払えば昔の衣装を貸してくれる。観光客はそれを着て遊ぶのである。





8 安重根記念館


ソウルの南山公園へ、改築された安重根(アン・ジュングン)記念館を見に行った。



南山公園はかつて日本が朝鮮を植民地にしていたときに建設した朝鮮神宮の跡地につくられている。

朝鮮半島を支配した日本は朝鮮各地に60を超す神社をつくった。南山の朝鮮神宮はその中心的なものだった。

神社の建設は朝鮮人の皇民化が目的だった。韓国の知人から、朝鮮人の多くにとって神道とその神社は「淫祠邪教」だった、と聞いたことがある。神社参拝を嫌う朝鮮人に対して、朝鮮総督府は参拝を奨励し、のちに強要した。1938年にはキリスト教徒の神社参拝に反対した牧師や教徒が投獄され、50人余りが死んだ。

皇民化政策の柱はこのほか、学校での「私共ハ大日本帝国ノ臣民デアリマス」という「皇国臣民ノ誓詞」の斉唱、教育カリキュラムから朝鮮語を外し、日本語の常用化させ、創氏改名を進めることだった。

韓国の人々にとって日本の植民地経営の不快な記憶を象徴する施設だった朝鮮神宮の跡地に、1970年、民間の有志が安重根記念館を建てた。当時のパク・チョンヒ大統領も国費から建設支援金を支出し、「民族正気の殿堂」という大きな石碑も贈った。



一度に50人ほどの見学者が入ればいっぱいになる手狭な旧記念館が改築されたのは2010年のことだ。改築費用は民間からの基金と政府からの援助でまかなわれた。

ハルビン駅でアン・ジュングンが伊藤博文を銃で暗殺したのは1909年のことだった。日本は1905年に朝鮮を保護国にし、伊藤博文が初代朝鮮統監をつとめた。朝鮮が日本に併合されるのは1910年のことだ。



韓国にとって、アン・ジュングンは憂国の義士であり、日本にとっては暗殺者・犯罪者である。少なくとも両国の政府はそういう見解である。

両者のこの見解は今後とも変わることはないだろう。

政治的テロリストの動機は大抵が愛国で、その行為は犯罪だ。そのことを知っている市民にとっては、現在の安重根問題は、単に日韓関係のバロメーターの1つであるに過ぎない。

したがって、ハルビン駅の安重根記念室をめぐって、日本政府がアン・ジュングンを犯罪者と呼んで抗議したことも、韓国政府が義士であると反論し、中国政府がそれに和したことも当然のことである。



おとずれた安重根記念館は、徴兵された新兵の訓練のためだろうか、兵士の服を着た若者20人ほどが列を作ってやって来て、地階のアン・ジュングンの像の前で、黙祷していた。それ以外は、来館者も数人で、ひっそり閑としていた。



安重根記念館を出るとソウルは夕方近く、町が煙って見えた。かろうじてビルの輪郭が分る程度だった。

          (写真と文:花崎泰雄