1 フラッチャニ広場

プラハの旧市街広場からヴルタヴァ(モルダウ)川の対岸のプラハ城を目指してカレル橋を渡る。橋の両側の欄干にはキリスト教の聖人たちが石像になって整列している。その下にアクセサリー・小物、写真や絵など、プラハ土産を売る露店が並ぶ。旧市街側からプラハ城側へ向かう人、プラハ城側から旧市街側へ向かう人――入り乱れた人の流れの混雑ぶりは浅草寺の仲見世を思い出させる。

カレル橋を渡りきり、「小地区」とよばれるあたりを抜けると、プラハ城への坂道が始まる。坂道は予想していたほど急ではなく、長くもない。やがてプラハ城正門前のフラッチャニ広場にたどりつく。

坂をのぼりきって平らな広場に出たところに、痩身の男性の像が立っている。チェコスロバキア共和国初代大統領トマーシュ・マサリクの像である。国民が建国の父と仰ぐ人だ。



200945日の日曜日の朝、マサリクの像のすぐそばに演壇が設けられ、バラク・オバマ米国大統領が壇上から、集まった20,000人の市民にむかって、アメリカが核兵器のない世界を目指すことを約束した。

ホワイトハウスのサイトでこの時のオバマ演説を読むと、彼は、

So today, I state clearly and with conviction America's commitment to seek the peace and security of a world without nuclear weapons...... First, the United States will take concrete steps towards a world without nuclear weapons.

と聴衆に力強く約束した。

このプラハ演説がオバマ大統領に、思いがけないノーベル平和賞をもたらすきっかけになった。しかし、世界の人は核廃絶へと向かう米国の姿勢を、以来これといって目撃していない。

演説の中でオバマ大統領も、

I'm not naive. This goal will not be reached quickly –- perhaps not in my lifetime. It will take patience and persistence.

と断っているわけで、言ってみればあれは大いなる政治的リップサービスだった。だまされたノーベル平和賞選考委員会がばかだったのか、それとも、政治色の強い委員会がそんなことは承知の上で、核廃絶運動の後押しをしようとしたのか?

ところで、プラハ演説の冒頭でオバマは、1918年にアメリカがチェコの独立を支持したのち、トーマス・マサリク(ビデオを見るとオバマはトマーシュを英語風にトーマスと発音している)がシカゴで演説したとき、聴衆は10万人に達した(マサリクはワシントンD.C.で独立の宣言をしている)。私(オバマ)はこの記録を塗り替えることは出来ないだろう、とマサリクとプラハの聴衆にヨイショをした。

In 1918, after America had pledged its support for Czech independence, Masaryk spoke to a crowd in Chicago that was estimated to be over 100,000. I don't think I can match his record -- (laughter) -- but I am honored to follow his footsteps from Chicago to Prague.

さらに、シカゴからプラハへ、かつてトマーシュ・マサリクが旅した道をたどって来られたことを名誉に思う、と言って、オバマは聴衆をわかせた。



このくだりには、ちょっと説明が必要だろう。

哲学者・政治家トマーシュ・マサリクがチェコ国民や西欧の人々に人気が高いのは、なによりもかれが民主主義者で、人道主義者で、民族主義者だったからだ。彼の民族主義は排他的な自民族中心主義とは無縁だった。

マサリクはウィーン大学でプラトンを専攻し、プラハのカレル大学(現プラハ大学)の哲学教授になった。第1次世界大戦中にハプスブルク支配下のプラハを離れて、西欧に亡命した。さらにロシアに行ってハプスブルク支配を打ち破る目的でチェコスロバキア軍団を編成するなどの独立運動を行った。さらに日本経由でアメリカに渡り、そこでチェコスロバキアの独立を宣言、間もなく帰国して初代大統領に就任した。

大統領になったマサリクはプラハ城を改装して大統領のオフィスを構えた。おそらく、大統領のオフィスからは美しいプラハの街が眺められたことだろう。



フラッチャニ広場はそういう場所だ。



2 マリオネット



チェコのマリオネットは日本の文楽、インドネシアの影絵芝居・ワヤン、ベトナムの水上人形劇のような位置を占める操り人形劇だ。大阪に国立文楽劇場があるように、プラハには国立マリオネット劇場がある。街中にはマリオネットの人形を売る専門店があり、カレル橋の上では人形遣いが路上でパフォーマンスを披露する。



操り人形は英語でpuppetmarionetteの二通りの言い方がある。いずれもフランス語から英語に入ってきた言葉だ。ウェブスターの辞書によると、人が手で直接操作するものをパペット、糸で操作するものをマリオネットという。この分類だと、文楽、影絵芝居・ワヤン、水上人形劇はパペット、チェコの人形劇はマリオネットということになる。

かつて日本がつくった満州国のような傀儡国家(政権)を英語ではpuppet state (regime)とよぶが、過去、チェコの政治は他民族に操られることが多かった。1918年まではハプスブルク帝国領だった。1918年に独立国となったものの、その20年後には、ナチス・ドイツの支配下に組み込まれた。第2次世界大戦の末、チェコからナチスを追い払ったのがソ連軍だった。以来、1989年までチェコスロバキアはソ連圏に組み込まれた。

今日、チェコ、スロバキア、ハンガリーなどは中欧(中央ヨーロッパ)に分類されている。ソ連時代は東欧に分類されていた。中欧は地域的、東欧は政治的概念である。



ソ連共産党のスターリン批判後、ハンガリーのブダペストで自由化を求める運動が起き、ソ連によって弾圧された。1956年のハンガリー事件である。12年遅れて1968年に、チェコスロバキアで「プラハの春」と名付けられた自由化路線が始まった。

このプラハの春の時期にチェコスロバキア共産党第1書記として「人間の顔をした社会主義」を旗印にして改革・自由化路線を進めたのがアレクサンデル・ドプチェクである。

ドプチェクは党官僚で根っからの自由化論者ではなかったが、従来のような抑圧的な手法ではなく、自由化路線を打ち出すことで国民の共産党に対する支持を取り返して共産主義体制の維持することを意図した。だが、学生・知識人・市民の自由化要求は予想以上の急スピードで膨らんでいった。



プラハの自由化要求運動が、他の東欧諸国に伝染するのを恐れたソ連とワルシャワ条約機構は、1968820日チェコスロバキアに兵を送り込んだ。ドプチェクはモスクワに連れ去られ、自由化路線の打ち切りを要求された。この当時の戦車に蹂躙されたプラハの写真は英紙『ガーディアン』のアーカイブで見ることができる

「ビロード革命」の立役者でチェコ共和国の初代大統領だったバーツラフ・ハヴェルはなおプラハの英雄だが、「プラハの春」のアレクサンデル・ドプチェクは現在のプラハでは過去の人である。



その過去の人の肖像入りプレートが国民(国立)博物館新館の壁面に埋め込まれていた。不思議に思って調べると、この建物は博物館になる前はアメリカが出資したラジオ・フリー・ヨーロッパが入っていた。その前は、チェコスロバキアの連邦議会の建物だった。ドプチェクは1968年のプラハの春で失脚したが、1989年のビロード革命で復活、チェコスロバキア連邦共和国議会で議長をつとめていた。その名残りである。



3 ヴァーツラフ広場

中欧の古都プラハの中心はヴルタヴァ川左岸のプラハ城地区(Hradcany)と小地区(Malá Strana)、右岸の旧市街(Staré mesto)と新市街((Nové mesto)で構成される、とガイドブックにある。

この4つの地区の中で、新市街が一番新しく出来た街だ。「新」が付いていても街づくりは14世紀にさかのぼる。

新市街の中核がヴァーツラフ広場だ。長辺が800メートルほどの長方形をした広場というか大通りで、その長辺の両端に地下鉄のムーステク駅とムゼウム(博物館)駅がある。



ムーステク駅で地下鉄をおりて地上にあがると、広場の端に巨大な建物が見える。地下鉄ムゼウム駅の上にある国民博物館だ。ヴァーツラフ広場の両側はそれぞれ壁面や屋根に意匠を凝らした建物が並んでいる。ここはオフィス、ホテル、ブティック、レストランなどが集まったプラハ随一の、現代の広場だ。



ヴァーツラフ広場は歴史的事件の現場でもある。1918年にチェコスロバキアが独立した時、滞米中だったマサリク大統領に代わって、作家のアロイス・イラーセックが独立宣言をここで読み上げた。

チェコスロバキアを併合したナチス・ドイツがプラハにやって来て、この広場で大々的な示威行進をした。ソ連の赤軍がプラハのドイツ軍を攻撃したさい、プラハ市民も反ナチ行動に立ちあがったのもここである。1968年のプラハの春の時は、ここにソ連・ワルシャワ条約機構軍の戦車が現れて市民を威嚇した。

プラハの春がソ連の圧力であえなく終わってしまった1969116日、ヤン・パラフという20歳のカレル大学の男子学生が、国民博物館前の石の階段で、ソ連のチェコスロバキアに対する抑圧に抗議して焼身自殺をした。さらにヤン・ザイーツという青年が続いて、抗議の焼身自殺をした。二人を追悼する碑がヴァーツラフ広場に埋め込まれている。



プラハに出かける前に読んだ林忠行『中央の分裂と統合』(中公新書)には、著者の林氏がカレル大学に龍がしていた1970年代には、マサリクの著書は図書館で禁書になっていて閲覧できず、大学の哲学部に飾ってあったはずのマサリクの肖像は撤去されレーニンの像に代わっていた、と書いてあった。ビロード革命の後、著者が大学を訪れると、今度はレーニン像が撤去され、再びマサリクの像が飾られていたという。ソ連支配下の東欧は多感な若者にとっては耐えられない時代だった。

政治的抗議の手法としての焼身自殺はその以前からあった。彼らの6年ほど前の1963年、ベトナムのサイゴン(当時)の路上で、仏教の僧侶がゴ・ディン・ジェム政権の仏教弾圧に抗議して焼身自殺している。

筆者には大学で東南アジアの政治について講義していた時期がある。そのとき、サイゴンの僧侶の焼身自殺の現場のビデオを学生たちに見せた。この映像とゴ・ディン・ジェム大統領の弟で秘密警察長官の妻のマダム・ヌーの「輸入の高いガソリンを浪費した人間のバーベキュー」という発言が世界を駆け回り、半年後のクーデターにつながった、という話をした。クーデターは背後で米国が操っていた。

その時、学生の一人が「あれは実際に起きたことだったのですか。アメリカのロックバンドのジャケットに炎に包まれた人間の写真が使われていて、今日まで私は、あれはモンタージュだとばかり思っていました」と言って、私を驚かせた。



2010年から11年にかけてのチュニジアのジャスミン革命は「アラブの春」という政治改革運動につながった。ジャスミン革命は青年の抗議の焼身自殺から燃え広がった。

中国のチベット支配に抗議する焼身自殺の記事がときどき新聞に載る。CNNが伝えたチベット独立支持派の「自由チベット」の情報では、中国国内ですでに100人が焼身自殺しているという。こちらの方はその数の割には、世界的な反響を引き起こすまでに至っていない。


4 ヴァーツラフ・ハヴェル

プラハ城内に火薬塔(Mihulka, Powder Tower)とよばれる円筒形の建造物がある。砲塔としてつくられ、火薬の貯蔵庫などに使われた。



現在では一種の軍事博物館になっている。とはいっても、主な展示物は金属製の甲冑などいまや骨董品として分類されるような武具である。

 

この火薬塔でチェコの儀仗兵の役割を紹介する映像をビデオで流していた。プラハ城の門の両側に立っている衛兵や、外国からの賓客を歓迎する式典を演出する兵隊である。

そのビデオに1990年代に新聞やテレビのニュースでよく見た人物が写っていた。劇作家のヴァーツラフ・ハヴェルだ。



ハヴェルは1989年から1992年までチェコスロヴァキアの、1992年から2003年までチェコの大統領をつとめた。201112月に世を去ったが、この時、英誌『エコノミスト』は長文の評伝を掲載し、ハヴェルを「いかにして圧政に抗い、それを克服するかを、芝居と政治で教えてくれた人で、謙虚な人柄だった」と讃えた。

日本ではハヴェルは劇作家というよりは抵抗の政治家というイメージでとらえられている。邦訳された著書も『プラハ獄中記』(恒文社)、『ハヴェル自伝―抵抗の半生』(岩波書店)、『ビロード革命のこころ―チェコスロバキア大統領は訴える』(岩波ブックレット)などの政治物が多く、演劇は『ジェブラーツカー・オペラ(乞食オペラ)』(松柏社)だけにとどまる。



プラハから帰ってきて『ビロード革命のこころ』に収められたハヴェル大統領の1990221日の米国上下両院合同会議でのスピーチを読んだ。この演説の中でハヴェルはいかにもインテリらしい次のような面白い意見を開陳している。

チェコスロヴァキアに対して合衆国はどのような援助ができるだろうかと、たずねられるが、私の答えは私の人生同様、逆説的だ――ソ連邦を援助してください。ソ連邦ができるだけ早く、できるだけ平穏に政治的複数制、民族の自治の権利への敬意、市場経への道を歩み始めれば、それはチェコ人、スロヴァキア人だけでなく、全世界にとって福音である。



また、ハヴェル大統領は演説で、二つの巨大な勢力があり、一方は自由を守り、一方は恐怖を引き起こす。アメリカは冷戦によって我々をソ連から助けてくれた、とも語った。

岩波ブックレットの訳者あとがきによると、米議員の中にはハヴェルの演説に感動して落涙する者もいたそうだ。

ハヴェル演説のアメリカ賛美にうっとりと良い気持になったアメリカの世論に、即座にノーム・チョムスキーが苦言を呈した。ハヴェルの演説は日曜学校のお説教のごときもので、それに対する米国の反応は知的・道徳的腐敗の見事な一例である。東南アジアや中央アメリカ、ウェスト・バンクのことを考えてごらん。たとえばベトナム――そこでは米国政府は獰猛な抑圧者で、抑圧された側にとってはソ連が希望だった(Alexander Cockburn, The Golden Age Is In Us, Verso, 1995.)。

ソ連の過酷な支配地であるチェコスロヴァキアで、投獄、尋問、家宅捜索、自宅軟禁を経験したあげくに、やっと共産党支配から離脱できたハヴェルの米国観と、言論の自由が保障された米国に住み、高名な言語学者・大学教授として仰ぎ見られるなかで、米国の世界政策を批判し続けてきたチョムスキーの自国観が異なるのは当然のことだ。

世界の禍福はあざなえる縄、世界の善悪はメビウスの輪の如し、である。

1989年のビロード革命のとき、プラハのヴァーツラフ広場で民衆が叫んだスローガンの1つが「教養ある民主主義者からなる政府と元首を要求する」だった。

ヴァーツラフ・ハヴェルは「Havel Na Hrad (ハヴェルを城(プラハ城、すなわち大統領官邸)へ)」のかけ声におされて大統領職に就いた。



共産党支配を終わらせるためにルーマニアでは武力衝突でおびただしい血が流された。チェコスロヴァキアでは武力を用いないビロード革命だった。ユーゴスラヴィアが解体した時は激しい戦争になったが、チェコスロヴァキアがチェコとスロヴァキアの2つの国に分れたときは、武力衝突を回避し、話し合いで決着を見た。ビロード革命にならって「ビロード離婚」とよばれている。リーダーに教養ある民主主義者を求めた民衆の意向が反映されたのである。

トマーシュ・マサリクといい、ヴァーツラフ・ハヴェルといい、チェコおよびスロヴァキアの人々の政治的好みがうかがえる大統領だった。



5 エヴロパ

プラハ随一の繁華街ヴァーツラフ広場に面して著名なホテルが建っている。グランド・ホテル・エヴロパである。



19世紀末に建てられ、20世紀初めに改装されたこのホテルは、今ではせいぜい3つ星あるいは2つ星半程度のホテルだ。部屋数90ほど。安い部屋にはバスルームがついていない。そのような古びた宿泊施設であるにもかかわらず、いまなお、ホテル・エヴロパがプラハを代表するホテルの1つであるのは、ひとえにその建物のファサードによる。



グランド・ホテル・エヴロパは、プラハを代表するアール・ヌーボーの建物なのである。

アール・ヌーボーは19世紀末から20世紀への、世紀の変わり目に欧米で大流行した建築と装飾の様式だ。近代工業化社会の無機的な風景に対する反発から生まれ、曲線と装飾を多用した。パリを中心とした世紀末・ベル・エポックを飾った芸術運動だった。

だが、やがてその過剰な装飾性が飽きられ、建築の流行はアール・デコからバウハウスへと移っていく。日光東照宮の陽明門に代表される過剰な装飾は、見はじめは面白いが、見詰め続けてその過剰のゆえに飽きてくる。それと同じことである。



プラハの旅では、ホテル・エヴロパには泊まらなかったが、ホテル地階のレストランで昼食を楽しんだ。古色蒼然とした簡素なレストランだったが、風格は感じられた。鴨の丸焼きの4分の一を食べた。給仕が勘定書きを持ってきて「サービス料は入っていません」と念押しした。



別の日はエヴロパ1階のカフェで、アップルパイとカフェ・メランジュの午後のお茶を楽しんだ。客は少なく、ゆったりとした午後、アール・ヌーボーの雰囲気の残る、ガランとしたカフェから外のヴァーツラフ広場をぼんやりとながめていた。



私の書斎に安倍公房の色紙が掛かっている。永らくの間仰ぎ見ることもなく、安倍公房のご託宣はただ漫然と壁にぶら下がるだけだった。したがって、額縁の上にかなり埃の層が見えるのも当然である。

かつて仕事場の同僚が丸善で買い求め、何かの記念に私に贈ってくれたものだ。色紙にはこう書いてある。

出来れば過去のことなど忘れてしまいたい。過去を埋める作業には勇気が必要だ。とりわけ、身近な過去は、悔恨ばかりが深すぎる。

だから、老年は、ひたすら過去の虚像ばかりを追い求めようとする。ただ、青春だけが、ときには素顔の過去にも耐えうるのだ。

50歳を過ぎたころからだろうか。あることがきっかけで旅の焦点が過去に向くようになった。過去と言っても私の個人的な過去ではない。個人的な過去には、老いた私を引きつける残照など、どこにもない。

歴史の現場に出かけて、歴史書に書かれたことのあれこれを思い出す作業を楽しむ旅である。きっかけはベトナムのサイゴン(今の名前のホーチミン市ではピンとこない)だった。

ベトナム戦争が終結した1975年から20年ほど遅れてサイゴンへ行った。旧南ベトナム大統領官邸に入ったら、前庭に戦車が飾ってあった。旧大統領官邸と戦車を見たとたん、そこは初めて訪れた場所であるにもかかわらず、以前ここにきてこの風景を見たことがあるのではないか、という感覚に襲われた。強烈なデジャヴュだった。

ベトナムの現地で実際にベトナム戦争を見ることは出来なかったが、メディアで戦争の経過を注視してきた世代に共通の既視感だったのだろう。

南ベトナム大統領官邸の門を突き破って突入する戦車は、一つの時代の終わりを象徴する映像だった。時代の終わり――そうなのだ、ベトナム戦争時代の終わりは、ベトナムの人々には統一ベトナムの始まりの時代なのだが、傍観者であった私は新しいベトナムへの関心が薄れた。ベトナム政府はのちにこの場を「統一会堂」と命名したが、過去向きの私には今でも旧南ベトナム大統領官邸なのである。

無駄話をしてしまったが、歴史としての過去は人生後半の楽しみである。



6 ムハ――そのスラヴ回帰

プラハ城内にそびえるヴィート大聖堂はゴシック建築で、そのつくりはケルン大聖堂に似たおもむきを感じさせる。



ケルンの大聖堂の塔は高さ150メートル超、ヴィート大聖堂のそれは100メートルに満たない。ケルン大聖堂に比べるとヴィート大聖堂は小づくりだ。それでも威風堂々たるカテドラルである。

ケルン大聖堂が火事や戦火で何度も焼け落ち、そのつど再建されたように、プラハのヴィート大聖堂もあれこれ手を加え、完成までに600年かかった。最終的な工事完了は1929年で、それを記念してアルフォンス・ムハ(ミュシャ)がデザインしたステンドグラスがはめ込まれた。



主題はキリストと、チェコの守護神である聖ヴァーツラフ(子ども時代だが)、そして聖キリルと聖メトディウスである。

キリルとメトディウスは9世紀の人で、そのころの東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルの高名な神学者・言語学者だった。ギリシャ正教の聖書を初めてスラヴ語に翻訳し、スラヴ系人口のキリスト教化を図った。聖キリルが聖書のスラヴ語訳のために、ギリシャ文字を工夫してつくったのがキリル文字だとされている。

スラヴ系のキリスト教徒にとっての忘れられないこの聖人兄弟は、カレル橋の上でも像になって立っている。このシリーズのタイトルに使った写真の像だ。



チェコ民族はスラヴ系で、チェコ語もスラヴ系の言語だが、キリスト教はローマン・カトリックが主流だった。プロテスタントを受け入れた。文字もキリル文字ではなく、ローマ字を改良して使っている。

東方正教会とは縁の薄いプラハの大聖堂のステンドグラスに、ムハが聖キリルと聖メトディウスを登場させたのはなぜだろうか?

プラハ新市街の中心・ヴァーツラフ広場からちょっと歩いたところに、こじんまりとしたムハ美術館がある。館内は写真撮影が禁止されているので、展示されているムハの作品はムハ財団のサイトで見ていただきたい(サイトを開いて、左側のBrowse Worksをクリックする)。

ムハ(Mucha)は日本でも「ミュシャ」と呼びならわされているように、19世紀末のベル・エポックのパリで、アール・ヌーボーの装飾画家として売れっ子になった。つくったポスターがパリの街角に貼られると、間もなくそれが盗まれるというほどの名声を博した。ムハ美術館にはそうしたポスターの原画などが展示されている。かわいいデザインなのだが、筆者はこの手の絵が苦手だ。池田理代子のベルばらの図柄を繊細・精緻、あかぬけた感じにした絵で、見ていてやがてうんざり感がつのってくるのは宝塚の舞台に同じ。

もっぱら可愛い女性を主題にし、グラフィックデザイナーとしてアール・ヌーボーの旗手になったアルフォンス・ムハは、滞在中の米国でボストン交響楽団が演奏するスメタナの『わが祖国』を聴き、祖国のチェコスロヴァキアへ帰る決心をしたという(千足伸行監修『ミュシャ――パリに咲いたスラブの花』小学館)。1908年のことだとされている。

プラハに帰ったムハは20年ほどの歳月をかけて大作『スラヴ叙事詩』を完成する。1918年にはチェコスロヴァキアがハプスブルクの支配を脱して独立した。ドイツ語支配から脱して、チェコ語・スロヴァキア語を使うスラヴ系の共和国を打ち立てたのである。そうした時代に生きたムハもまた、スラヴ系の民族であるチェコ人としての、民族の心への回帰をはかろうとした。

大作『スラヴ叙事詩』はムハがプラハのために描いたのだが、都合でムハが生まれたモラビア地方に移されている、とプラハへ持って行ったガイドブックに書かれていた。ところが、『スラヴ叙事詩』は2012年から2013年末まで、一時的にプラハに移され、展示されていたのだ。日本に帰ってから知った。まことに残念なことだった。教訓――ガイドブックは最新のものを使うべきだ。

絢爛とピンクに染まったムハ美術館の奥まったところに、疲れ果て荒野の中で死にかかっている女性を描いた2×3メートルほどの油彩が掛かっていた。ムハ財団のサイトで作品を紹介しているが、実際の絵は照明を落としているので、もっと青色が強い。

1923年に描かれたこの絵は、ロシアのボルシェヴィキ革命後の混乱で、飢饉に襲われた村で行き倒れになる直前のロシア人の農婦を描いている。農婦はムハの愛妻がモデルだ。

青く暗く描かれた荒野の中で死にゆく農婦の表情には、にもかかわらず不思議な安堵感が漂っている。この世は苦界、死は永遠の慰め――パリできらびやかな装飾画を描き、富と名声を手に入れて浮き世の暮らしを謳歌したムハが、やがてそれにあきたらずスラヴ回帰へと向かい、その途上で理解したスラヴの民の人生の真実――筆者は勝手にそう理解した。



7 ハプスブルク

プラハ第1の目抜き通りヴァーツラフ広場には馬上に旗を掲げる聖ヴァーツラフの像が凛とたっている。プラハ市民が――観光客もそうだが――うっとりとなって仰ぎ見るチェコの守護神である。ヴァーツラフはチェコのキリスト教化に励んだが、政治路線の対立から兄弟に暗殺された。日本でいう判官贔屓とやらで、あれやこれやと伝説で塗り上げられて、今日の像になった。おかげでチェコではやたらヴァーツラフという名が多くなった。



その聖ヴァーツラフ像の背後に建っている重厚な建物が国民(国立)博物館だ。これまた、ムハの『スラブ叙事詩』に続いてうかつな話なのだが、博物館の入り口までたどり着くと、そこに「改築中につき閉館」の札があった。20117月から閉館中なのだった。持っていたガイドブックは2010年版。

国民博物館は建物内部のつくりが壮麗なことで有名だ。観光サイトのPrague Netの写真で現物を想像するしかない。あるいは、トム・クルーズ製作・主演の1990年代中ごろの映画『ミッション・インポシブル』で、博物館内部がアメリカ大使館の設定でロケに使われているので、DVDで見ることができる。



博物館の入り口に「新館へどうぞ」と案内あった。新館は道路を挟んで修復中の本館と隣合わせていた。新館の展示は『われらが内なるハプスブルク』だった。プラハをはじめとするボヘミアがハプスブルク君主国の領内であったころの、チェコの人々の暮らしぶり回顧展である。展示物は退屈だったが、入口に掲示された展覧会の案内版が興味を引いた。



1918年まで中央ヨーロッパはハプスブルク君主国の統治下にあった。チェコもハプスブルク帝国の一部だった。われわれの祖父母・曽祖父母・先祖はこの君主国で暮らし、この君主国の断片はわれわれの内に残っている……1910年領域の人口は5,000万人だった。国語はドイツ語とハンガリー語で、他にチェコ語などの地域言語も使われた。人口の75パーセントはローマン・カトリックで、帝国を支える宗教だったが、プロテスタント、ユダヤ教徒、イスラム教徒も信仰が許されていた。「神の意思による」皇帝が帝国をまとめる象徴であった。

およそそういう風なことが書いてあり、その最後にシュテファン・ツヴァイク『昨日の世界』冒頭の文章が大意次のように引用されて、付け足されていた。「それは安定の黄金時代だった。すべてが永遠の基盤の上に立ち、国家の力がこの完璧な安定を保証した」。ウィーン生まれのツヴァイクは、第2次世界大戦が迫るなか、古き良きヨーロッパの精神が失われていくことに絶望し、ハプスブルク時代のヨーロッパにノスタルジーを感じていた。そのころの彼の記述を現代のチェコ人が引用しているのが興味深かった。

『共産党宣言』が世に出た1848年はヨーロッパの革命の年で、フランスの2月革命が欧州各地に飛び火した。プラハでも民族主義ののろしがあがった。プラハでは18486月、オーストリア帝国内のスラヴ民族の結束を目的にしたスラヴ民族会議が開かれた。会議は結局は、ハプスブルク支配からの独立ではなく、オーストリア帝国の保護下での自治を目指すオーストリア・スラヴ主義が主導した。

会期中に労働者と市民による反オーストリア蜂起が起きた。スラヴ民族会議でオーストリア・スラヴ主義を批判し、オーストリア帝国の解体を叫んだアナキストで、まだ汎スラヴ・ナショナリストでもあった若き日のミハイル・バクーニンもこの反オーストリア蜂起に加わり、官憲に追われる身となった。

もともと中欧のボヘミアはゲルマン語族と西スラヴ語族が入り混じって住んできたところである。当初の西スラヴ族の優位がゲルマン民族によって浸食され、ハプスブルク支配でチェコはゲルマン化された。

ということは、スラヴかゲルマンという二者択一ではなく、チェコの人々はドイツ語とチェコ語のバイリンガル生活をし、文化的にはオーストリア風に染まっていた。したがって、オーストリア領域内に住む当時のスラヴ人には、支配者であるオーストリア帝国の解体と、スラヴ国家チェコの独立を同時に追求する急進的な論調よりも、オーストリア・スラヴの主張が穏健で現実的に思えた。

過去に支配した側と支配された側の感情というものは複雑である。日韓、日中のような関係もあれば、日米関係のようなものもあり、かつての植民者ラッフルズの銅像を建てているシンガポールのような国もある。ナショナリズムといっても一様ではない。さまざまなお家の事情があるわけだ。

ロシアとドイツ・オーストリアに挟まれ、スラヴ系の人口を多く抱えるチェコでは、人々の心情はドイツ的なものとスラヴ的なものがせめぎあい、人々の心情も両者の間を揺れ動いてきたのであった。



国民博物館の隣に国立歌劇場がある。19世紀の終わり建築された時の名は「新ドイツ劇場」。プラハのドイツ語系市民が資金を集めて建てた。プラハがナチに占領されていた時代には、ナチの威光を示す様々な催しの会場になった。



「新ドイツ劇場」建設の動機は、それ以前にプラハのチェコ語市民がムルタヴァ川沿いに「国民劇場」を建て、チェコ・ナショナリズムを誇示したことにあった。そこで負けじと、チェコ・ナショナリズムにドイツ系住民が対抗し、ゲルマンの意気を示そうとしたのであった。



8 ナショナリズムの創造

「プラハの春国際音楽祭」は世界屈指の音楽祭の1つだ。

その音楽祭はプラハで毎年512日から始まる。512日はベドルジフ・スメタナの命日である。音楽祭はスメタナの代表作である交響詩『わが祖国』で幕を開ける。

『わが祖国』はチェコ・ナショナリズム高揚のためにスメタナが作曲した。音楽祭は1946年に始まり、そのときラファエル・クーベリックがチェコ・フィルハーモニーを指揮した。クーベリックは共産党政権を嫌って、まもなくチェコを去る。共産党政権が崩壊し、ビロード革命後のバーツラフ・ハヴェル政権の1990年にプラハに戻ってチェコ・フィルを指揮した。イデオロギーとナショナリズムの匂いが漂う音楽祭である。



会場にはヴルタヴァ川右岸のチェコ・フィルの根拠地である音楽堂ルドルフィヌム内のドヴォルザーク・ホールや共和国広場の市民会館のスメタナ・ホールなどが使われる。

『わが祖国』はチェコ人の民族感情をかきたてる音楽になった。音楽史の本によると、スメタナは標題音楽の作曲家だとされている。音で「風」「鳥の声」「雨の音」などを伝えることは出来ようが、「音」でナショナリズムの思想を伝えることができるだろうか。音そのものではなく、音楽が作られた歴史的プロセスの記憶がナショナリズムの音楽を性格付ける。

それを伝えるのはタイトルの『わが祖国』をはじめ、①ヴィシェフラド(高い城)②ヴルタヴァ③シャールカ④ボヘミアの森と草原から⑤ターボル⑥ブラニークといったそれぞれの曲名である。①はプラハの古城、②は言うまでもなく別名モルダウという川、③は伝説の女傑の名前、⑤宗教改革のヤン・フスゆかりの地名、⑥は聖バーツラフゆかりの土地の名である。



チェコ民族の心を揺さぶったスメタナは、プラハではドヴォルザーク以上に人気が高い。ヴルタヴァ川にかかるカレル橋の旧市街側のたもとに、スメタナの像がヴルタヴァ川を眺めている。その背後には美しい壁面装飾の建物があり、スメタナ博物館になっている。さらに、スメタナ像から国民劇場に至るヴルタヴァ川右岸の歩道は「スメタナ河岸」と命名されている。川の向こうにプラハ城を眺めることができるプラハきっての遊歩道である。



スメタナは民族的にはチェコ人だが、ドイツ語で育った人だった。1848年のプラハ蜂起に参加して以来、チェコ民族主義に傾斜した。チェコ語を覚えたのは30代に入ってからだ。

アルフォンス・ムハは人生の後半になって、スラヴ的なものをさがすため連作『スラヴ叙事詩』を描いた。ムハの『スラヴ叙事詩』はスラヴ的なテーマを描きながらも、そのタッチにはかつてのアール・ヌーボーの装飾性が残っている。



スメタナも30代を過ぎてから、チェコ・ナショナリズムを音楽にしようとした。ドイツ的なものとチェコ的なものが入り混じっている文化のなかから、チェコゆかりの記憶―-神話、歴史的記憶、風土などを掘り起こそうとした。『わが祖国』にプラハの人々が愛着を感じるのは、ドイツ語系のプラハ人であることをやめ、チェコ語系のプラハ人になって、チェコ・ナショナリズの象徴を提示してくれたスメタナへの感謝の表れだ。



9 カフカ

出版不況の日本で、新作を出せばただちにミリオン・セラーになるただ一人の小説家、村上春樹は2013年もノーベル文学賞最有力候補と日本のメディアに騒がれながら、またしても、賞に手が届かなかった。かつて井上靖もしばし下馬評にあがったが、毎回、また来年ということで、終わった。勝負は時の運、ということなのであろう。

『海辺のカフカ』という小説を書いている村上春樹は、チェコのフランツ・カフカ協会が創設したカフカ賞を受賞している。村上が受賞する前の年とその前の年の受賞者がノーベル文学賞をもらったので、今度はムラカミだと期待する空気が毎年秋になると霧のように立ち込めてくる。

フランツ・カフカはプラハのユダヤ系市民で、ドイツ語で育ったため、ドイツ語で小説を書いたが、カフカはいまやチェコ語に翻訳されて読まれ、チェコの小説家となり、プラハの重要な観光資源になっている。



観光客は旧市街広場にある装飾をほどこされた古い建物を食い入るように見つめる。カフカが幼少のころ、カフカ一家はこの見事な装飾の建物の中の一室に居を構えていた。

旧市街と旧ユダヤ人街が接するあたりに、今ではカフカ広場となづけられている小さな広場が窮ある。広場のとある建物の壁面には、カフカの肖像が彫り込まれたレリーフが飾られている。カフカが生まれた家だと聞いた。



さらに、カフカの肖像を入口の頭上に飾って看板にしたカフェ・カフカが店を出している。



画家のムハ、作曲家のスメタナやドヴォルザークと同じように、カフカの場合もその芸術を広く知ってもらうための博物館が作られている。カフカ・ミュージアムはヴルタヴァ川にかかるカレル橋をわたって左に折れた、「小地区」の川端にある。

観光客はまず、カフカ博物館の前庭の噴水を見て、アッと、息をのむ。続いてクスクス笑いはじめ、カメラを取り出してシャッターを切る。その噴水がこれだ。



博物館の展示物はカフカの自筆書き物や写真などで彼の創作と生涯を説明する構成になっているのだが、そうじて物書きの博物館は展示物が衝撃力にかけていて、退屈である。

カフカ博物館を出て、プラハ城内の黄金の小道には、カフカが住んでいた家がある。ここもまた観光客のお目当ての場所で、記念撮影で忙しい。



カフカは生涯を終えたとき、プラハのローカルなドイツ語作家にすぎなかった。20世紀を代表する大作家との評価を受けるようになったのは、彼の死後のことだ。したがって、カフカはノーベル文学賞をもらいそこなっている。

カフカはナチ台頭前の1920年代に結核で死んだが、彼の3人の妹たちはナチのユダヤ人強制収容所で1940年代のはじめ死んでいる。カフカには大勢のガールフレンドがいたが、そのうちの一人もナチの獄舎で死んだ。

プラハの旧ユダヤ人街の石の舗道には、ところどころ金属のプレートが埋め込まれている。ナチの手によって強制収容所に送られ、そこで死んだユダヤ人の名前を記憶にとどめるためのプレートだ。プラハの旧ユダヤ人街だけではなく、プラハ市内各所、さらにドイツはもちろんヨーロッパの各都市の舗道にも埋め込まれている。



Stolperstein シュトルパーシュタイン=躓きの石)とドイツ語でよばれるドイツで最近始まった運動だと聞いた。心のどかに私のことを留めておいて、と訴えるプレートである。



10 モーツァルト

ミロス・フォアマンの1980年代の映画『アマデウス』は面白い映画だった。モーツァルトは1791年に35歳で若死し、サリエリは晩年には精神を患いつつも長生きして、1825年に75歳で死んだ。臨終にあたってサリエリが、「モーツァルトを毒殺した」と告白したという話が、当時、町の噂になっていたそうである。この噂をもとにプーシキンが短い詩劇『モーツァルトとサリエーリ』を1832年に発表した。テーマは「ねたみ」。『アマデウス』はプーシキンの詩劇をふまえてイギリスの著名な劇作家ピーター・シェーファーが書いた舞台劇の映画化だ。それだけに、緻密で迫力のある筋立てだった。全編を通じてモーツァルトの名曲のさわりがあれこれと流れ続けて、それがまた話の展開とうまくとけあっていた。



映画『アマデウス』の舞台はハプスブルク家当主ヨーゼフ2世の時代のウィーンだが、映画のロケはウィーンではなくプラハで行われた。

モーツァルトの時代のウィーンの雰囲気は、いまとなってはウィーンよりもプラハにより色濃く残っているから――と説明されている。たしかに、プラハの旧市街を歩いていて、どこか映画『アマデウス』のシーンに似た雰囲気を感じたことがあった。



1968年の「プラハの春」挫折後、ミロス・フォアマンは共産主義政権を嫌って米国に脱出し、アメリカ国籍をとった。そうしたチェコ出身の米国人ミロス・フォアマンのプラハへの思い入れもあったのだろう。

ロケは当時のフサーク政権下のプラハで、チェコスロヴァキア秘密警察の厳重な監視のもとで行われた。ちなみにハヴェルはフォアマンと寄宿学校時代の友達だった。1990年ハヴェルがチェコスロヴァキア大統領として訪米した時は、フォアマンとハヴェルは2人して(護衛つきで)ワシントンD.C.を散歩している。

ウィーンが音楽の都であるように、プラハもまた音楽の都である。ウィーンの街と同じように、プラハでも観光案内所、教会など観光客が集まる所でコンサートの切符を売っている。

プラハはモーツァルトゆかりの街である。モーツァルトの交響曲第38番は別名『プラハ』で、『フィガロの結婚』もウィーンよりプラハでうけた。 “Meine Prager verstehen mich”(私のプラハっ子は私のことを理解してくれている)と言ったという話が伝えられている。

『ドン・ジョヴァンニ』は17871029日、プラハのエステート劇場で初演された。モーツァルト自身が指揮した。この後、モーツァルトはプラハっ子からここにとどまって作曲を続けるよう誘われたが、ウィーンに帰った。モーツアルトはプラハでは自分の作品を演奏しきれるだけの才能を持った演奏家を集めることが難しく、また、パトロンになってくれる貴族層もウィーンに比べると薄かったからだとされている。



そのエステート劇場は今も健在だ。『ドン・ジョヴァンニ』が初演された日付17871029日を記念するため、2008年、エステート劇場の横にチェコ出身で、ヨーロッパで活動しているアンナ・クロミイが制作した『騎士長』(Il Commendatore)のブロンズが置かれた。騎士長は、ドン・ジョヴァンニに殺され、石像になり、やがてドン・ジョヴァンニを地獄に連れ行く人物である。

20139月初旬、劇場にはヴァーツラフ・ハヴェルの『ガーデンパーティー』の垂れ幕が下がっていた。



モーツァルトをはじめとする古典音楽だけではなく、プラハの街は様々な音であふれている。

旧市街広場では、宗教改革で有名なヤン・フスの像の前で、ディキシーランド・ジャズのバンドがプカプカドンドンとにぎやかにやっていた。



プラハ城の坂道では、アコーデオンのおじさんや、ギーターのおじさんが、坂道を上り下りする観光客に一曲いかがと商売をしていた。あまりうまくないけれど。

 

ある日の夕方、旧市街広場から共和国広場の地下鉄駅に向かって歩いていた時、ちょうどこれも観光名所である「火薬塔」の下で、若い女性がヴァイオリンを弾いていた。こちらの方は私家版CDのプロモーションである。CDが自転車の荷台にあった。

日本のコンサートホールで時々やっているプレコンサートの演奏にひけをとらない、きちんとした音楽教育を受けた折り目正しい、凛としたヴァイオリンの響きだった。



11 ファサード

ユネスコの寛容な認定のおかげで、いまでは「ふりむけば世界遺産」といわれるほどそのタイトルがあちこちに広がった。プラハのプラハ城から旧市街や新市街にいたる歴史的景観地区もまた、ユネスコ認定の世界遺産である。

プラハの街には中世から現代までの、さまざまな様式の建物が並んでいる。都市の生成発展には破壊と建設がつきものだから、プラハでも古い建物の多くが建てかえられてきた。それでもなお、この街には古い建物が多く残されている。こういう言い方が正確だろう。

古い建物が比較的多く残っているのは、ヨーロッパを破壊した第1次、第2次の2度の世界大戦で、幸運にもプラハは大きな被害を受けないですんだからと言われている。だが、それだけではあるまい。住んでいる人に残そうという気持ちがなければこれほど多様な建物は残ることがなかっただろう――ロマネスク、ゴシック、ルネサンス、バロック、アール・ヌーボー、キュビズム。

スメタナ・ホールをはじめとするいくつかのホールやギャラリーなどがある共和国広場の市民会館はアール・ヌーボーの建物である。



アール・ヌーボーの隣はゴシック様式の火薬塔だ。もともとは旧市街を取り巻く城壁の出入り口だった。また、その名の由来はその塔に大砲・火薬を収納していた。



旧市街広場に来て、広場の真ん中に立ち、広場を取り囲む建物をぐるり360度みまわすと、広場が中欧建築史の青空博物館であることが実感されるだろう。

 

旧市街広場に限らず、チェコ共和国の首都であるプラハ市は非常に美しい。街中のあちこちに尖塔がある。建物の屋根は赤レンガだ。建物の高度規制もあり、旧市街地では新しい建物を建てることはめったにない。建物の修理一つにせよ、例えば壁の塗り替えのような場合でも、事前の折衝が必要だ。

そもそも電柱が見えない。ケーブル類は地下に埋設されている。毒々しい看板も規制されている。エアコンの室外機も通りから見えないところにおかれている。



南欧では洗濯物を室外に干すが、プラハ市街地ではそうした風景はない。街の歴史的景観を保存するためには住民も相当な辛抱をしているようだ。



12 旧市街広場

古代ギリシャのアゴラや古代ローマのフォルムという広場の文明の血を引くヨーロッパでは、都市の発生・成長とともに広場が作られた。

ヴェネツィアのピアッツァ・サン・マルコ、パリのプラス・デ・ラ・コンコルド、マドリッドのプラサ・デ・エスパニャ、ロンドンのトラファルガー・スクエア……。広場は処刑の場であり、革命の場であり、市民のコミュニケーション場であった。

ギリシャ文化の血を引くイスラム圏はミーダーン(広場)を持っている。エジプトでムバラクを倒した若者の蜂起の舞台になったのが、ミーダーン・タハリールだった。ミーダーンはメダンという発音になってインドネシア語に入ってきている。ジャカルタのメダン・ムルデカ(独立広場)は大統領官邸や諸官庁、アメリカ大使館などの建物に囲まれた広場だ。

プラハにも街中のあちこちに広場があるが、代表的なものがヴァーツラ広場と旧市街広場である。17世紀初めカトリックのハプスブルク軍とプロテスタントのボヘミア貴族連合軍が戦い、敗北を喫したプロテスタントのリーダーたちが処刑された旧市街広場を取り囲む建築群についてはすでにいくつかの写真を掲載した。



今回の目玉は、旧市庁舎の天文時計塔である。時計塔は上から毎正時人形が現れる仕掛け人形、天文時計、暦板になっている。天文時計は太陽の位置や月の位置、その満ち欠けを示す。ガイドブックを読んだが、仕組みが複雑すぎてちんぷんかんぷんだった。毎正時、観光客が時計塔の下に集まり、塔の上の人形劇を見上げている。



その時計塔の横にローストポークの屋台があった。大きな豚肉の塊を薪であぶり焼きしている。これがプラハの名物料理。ホースラディッシュ、マスタードをつけ、野菜と一緒に食べる。もちろんチェコのビールがよく合う。



旧市街広場からカレル橋に向かう道の角にあった旅籠風ホテルのレストランで、お昼にローストポークを食べてみた。プラハは肉食の街であるということを、わが胃でもって実感した。

しかし、せっせと街を歩いていると、おなかはすいてくるもので、通りかかりの焼き菓子の店で、プラハの伝統トゥルデルニークについ手を伸ばした。棒状の焼き菓子でこんがり焼けた表面に砂糖とナッツがふりかけてある。



そうした、旧市街広場の昼間も楽しいが、夕闇に包まれて周りの建物がライトアップされるころの広場も、昼間の喧騒を忘れさせるしっとりとした味わいがある。



日本の都市ではヨーロッパの広場のような空間にめったにお目にかかることがない。その理由について、日本には公共空間という考え方がなかった、西洋でいうところの市民がいなかった、などの議論があるが、要は、日本はギリシャ・ローマの文明圏の外にあって、古代ギリシャ・ローマが源流になっている文明が日本に伝わってくるのが遅かったからだろう。西洋の広場を囲む都市空間の美しさをどうやら日本も理解したときは、すでに過密化した都市において必要な空間を確保するのが困難になっていた。ヴァーツラフ広場に雰囲気が似た札幌の大通公園は、そうした日本で唯一の例外的存在である。



13 ヤン・フス



プラハの旧市街広場にヨーロッパ宗教改革の先駆者のひとりヤン・フスの像が建っている。あたりを払う堂々とした像である。見上げるフスの表情も実に厳しい。フスは1415年に当時の権力者によって火あぶりの刑に処せられた。この像はフスの没後500年を記念して1915年に建てられた。



ヤン・フスはプラハ大学の教授・学長で、チェコ語の正字法を考案し、聖書をチェコ語に翻訳し、チェコ語で説教した。オクスフォード大学教授だったジョン・ウィクリフの学説を受け入れ、免罪符など腐敗を極めた当時のカトリックを激しく攻撃した。どなたさまもこのあたりは高等学校の世界史教科書の宗教改革の章でお読みになっていらっしゃるはずなので、詳しい話は省略する。

フスは身の安全を保障されたうえで、ローマとアヴィニヨンの教皇乱立(日本でいえば南北朝時代のような二重権力状態)を収拾する目的で開かれたコンスタンツ公会議に出かけたが、そこでつかまり、火あぶりの刑にされた。政治混乱期によくあるだまし討ちだ。

フス派教徒はこれに激怒、やがてフス派戦争へと発展した。こうした経緯によって、19世紀のナショナリズムの時代、ヤン・フスは宗教改革の提唱者よりも、むしろチェコ民族主義の英雄になった。オーストリアのハプスブルク家のチェコ支配に対する民族運動のシンボルになった。



カレル橋の欄干にたつ像の中に、あたまに星の冠を頂いたカトリックの坊さんの像がある。14世紀のプラハ大司教の総代理ヤン・ネポムツキーだ。ボヘミア王と大司教の争いに巻き込まれ、大司教の部下だったネポムツキーは逮捕され、拷問のうえ殺され、カレル橋の上からヴルタヴァ川に放り捨てられた。



いや、そうではなくて、ネポムツキーはボヘミア王ヴァーツラフ4世の妃の聴聞司祭で、王妃を疑っていた王がネポムツキーから王妃の告解の内容を聞こうとしたが、ネポムツキーがこれを断固拒否したので、拷問を加え、殺してしまったのだ。そのような伝説をカトリック教会の側が作り出した。現在では、チェコ人のフス信仰に対する対抗策としての作り話だということになっている。“殉教者”ネポムツキーを“異端者”フスの影響に対抗させようとした。

偶像はとかく政治的意図でつくられる、怪しげなものである。

ウズベキスタンの首都タシケントの中心部にあるアミル・ティムール広場に、ウズベキスタンがソ連から離脱し独立国家になって間もない1993年に造ったアミル・ティムールの像がある。ティムールの像は馬上からあたりを睥睨している。ティムールは14世紀にティムール帝国をおこした軍事的天才・冷酷な殺戮者・破壊者だ。ソ連邦崩壊後のウズベキスタンはナショナリズムの象徴として彼を選んだ。

ティムールの像がある場所には、以前、ブロンズのカール・マルクスの顔が飾られていた。広場は当時「革命公園」とよばれていた。マルクス像が据えられたのは1968年のことだった。それより前、そこにはスターリンの像があった。スターリン像は1947年に建てられ、スターリンがソ連邦の権力ピラミッドの頂点にある間、タシケントの市民を威圧していた。

スターリンの像が建てられる以前、そこにあったのはハンマーと鎌とレーニンの胸像だった。さらに、ボリシェヴィキ革命が始まる前までは、ロシア皇帝がこの地の総督として派遣したコンスタンティン・カウフマンの立像があった。そのころ公園は「カウフマン広場」とよばれていた。

歴史と偶像はこのようにからみあって変遷する。



14 カレル橋



プラハの旧市街とヴルタヴァ川対岸のプラハ城の城下町・小地区を結ぶカレル橋は長さ約半キロある。かつては軌道馬車、路面電車が走っていたが、現在は徒歩専用の橋になっている。路面電車がカレル橋の上流と下流にかかるレギイ橋とマネスフ橋の上をはしっているので、プラハ市民はたいてい電車で川を渡る。カレル橋を歩いて渡るのはもっぱら観光客である。



カレル橋は15世紀初めに完成した石橋である。それ以前はヴルタヴァ川には木の橋がかかっていた。木の橋は洪水で流され、石橋をつくったが、それも洪水で流された。カレルというのは14世紀のチェコの王さまで名君と尊敬されている人だそうだ。カレル橋の建設を命じ、カレル大学(プラハ大学)を創設した。カレルの像はカレル橋の旧市街地のたもとに建っている。



やがてオーストリア・ハプスブルク家がチェコに支配の触手を伸ばし、カトリックのハプスブルク勢力とプロテスタントのボヘミア貴族たちの軍が、17世紀の初めにプラハ西方のビーラー・ホラ(白い山)で戦った。



ボヘミア貴族軍はあえなく敗北、ハプスブルク家側は貴族軍のリーダーたちを旧市街広場で処刑し、刎ねた6人の首級を旧市街地側の橋の塔に晒した。これをきっかけに30年戦争が拡大した。また、民族主義の時代になってから、チェコでは白山の戦いの敗北をチェコの民族的独立の敗北ととらえるようになった。

ロンドンのロンドン橋でもトマス・モアやトマス・クロムウェルらの首がさらされている。野蛮な時代だった。



15 愛の錠前

プラハ空港から市内のホテルまでのタクシー往復を、前もって日本からインターネットで予約しておいた。

ホテルに着いて車を降りたときに、運転手さんが帰りの日時を確認し、ついでに市内のガイドブックと、市内ウォーキングツアーの無料参加券をくれた。

そこである日、4時間ほどの無料のウォーキングツアーに参加した。旧市街、ユダヤ人街、カレル橋、マラー・ストラナ(小地区)のカンパ島などをめぐって、最後にプラハ城にたどり着くコースである。



ガイドはロス君という青年で、プラハ大学で生物学を勉強したという、なかなかのインテリだった。ロシアに対して大いなる反感を持っていた。プラハにはいいロシア料理のレストランはないとか、ロシアのお土産屋もあるがいいものは売っていないとか、言葉のはしばしに反ロシアの気分が感じられた。ソ連圏での共産党支配のあれこれを、韓国人が日帝支配の時代のあれこれを聞かされたように、ロス君も聞かされたのだろう。



さて、チェコの歴史には、プロテスタントとカトリックの対立が色濃くにじんでいるのだが、今では共産主義政権下の無神論が徹底したせいか、いたるところに教会の尖塔が残っていて「百塔のプラハ」と異名をとる街にも関わらず、日本人が名目上の仏教徒であるように、チェコ人の多くも名目上のキリスト教である。これはガイドのロス君の受け売りである。



ロス君によるとプラハでは、多くの人が結婚式を教会以外で行うそうだ。そういえば、ヴルタヴァ川のスメタナ河岸、プラハ城内の広場、旧市街広場の旧市庁舎前、それにカンパ島など、思わぬところに花嫁花婿の衣装を着た男女が歩いていた。



マラー・ストラナのカンパ島は一方がヴルタヴァ川に接し、一方がヴルタヴァ川から引き込まれ、再びヴルタヴァ川にもどる運河に接している。運河には水車が残っていて、時には小さな観光船も入ってくる。



カンパ島は島なのでマラー・ストラナの本土へ行くためには小さな橋を渡る。その橋の防護柵にたくさんの南京錠が取り付けられている。日本の神社の絵馬掛けのように鈴なりである。



最近ヨーロッパで流行している「愛の錠前」だとロス君が教えてくれた。結婚式を済ませたあと、二人の名前を入れた錠前をここにかける。その後で、鍵を運河に捨てる。パリのセーヌ川でもやっているそうだ。

2011年のEU統計によると、チェコの離婚率は1000人に2.7人、EU平均の1.9を上回っている。



16 聖ヴァーツラフの王冠

プラハ城内の聖ヴィート大聖堂のどこかの部屋に聖ヴァーツラフの王冠が保管されている。その部屋がどこかはチェコの国家特定秘密に指定されているらしい。一般向けにはレプリカを公開している。



聖ヴァーツラフの王冠は14世紀の神聖ローマ皇帝カレル4世の戴冠式用につくられた。カレル4世の命令で王冠は聖ヴィート大聖堂で保管されるようになった。いつのころからか、反逆者がこの王冠を頭にのせるとその者は1年以内に死ぬであろう、という伝説が広まった。

その例として、プラハの人があげるのが、ナチの情報機関を一手に握っていたハインリッヒ・ハイドリッヒの死である。

ヒトラーのドイツがオーストリアを併合し、続いて1939年にボヘミアとモラヴィアを占領した時、国家保安本部長官だったラインハルト・ハイドリッヒが占領地の管理責任者として派遣された。

ハイドリッヒは占領地支配の本部をプラハ城においた。そうして、ヴィート大聖堂にやって来て、ヴァーツラフの王冠を被った、ということになっている。本当のところ、ハイドリッヒが王冠を被ったという証言は残っていないそうである。むしろ、ハイドリッヒの暗殺を受けて、王冠の予言がまことしやかに持ち出されたのかもしれない。



ロンドンに亡命チェコスロヴァキア政府を樹立していたエドヴァルド・ベネシュがプラハに送り込んだ刺客によって、ハイドリッヒは1942527日に暗殺された。刺客たちはイギリスの特殊作戦部隊で訓練を受けたのち、軍輸送機で運ばれボヘミアにパラシュート降下した。

ラインハルト・ハイドリッヒはプラハ郊外に自宅を構え、プラハ城の本部まで毎日、メルセデスのオープンカーで通勤していた。その通勤途中を刺客たちが襲撃した。負傷したハイロリッヒは傷の悪化で間もなく死んだ。報復としてヒトラーは一般市民を虐殺した。

ハイドリッヒが通勤に使っていたメルセデスのオープンカーは歴史資料として保存されている。2002年にハイドリッヒ暗殺60年記念の展覧会が開かれたさい、このオープンカーが展示された。

ハイドリッヒ暗殺に怒ったヒトラーの命令で、1万人以上のチェコ市民が報復として殺されたり、収容所に送られたりした。

こうしたヒトラーの報復をロンドンのチェコスロヴァキア亡命政府は予想していたことだろう。ラインハルト・ハインリッヒ1人と、大勢のチェコ市民の命の重みを、ロンドンの亡命政府はどのように量ったのだろうか。

一方で、ドイツが降伏したのち、チェコスロヴァキアに返還されたズデーテン地方では、ドイツ系市民が追放され、チェコスロヴァキア人の迫害を受けた。数十万人のドイツ系市民が混乱中で殺されたり死んだりした。

のちにビロード革命で大統領になったヴァーツラフ・ハヴェルは、ズデーテンからのドイツ人追放について謝罪している。



平穏なヨーロッパのためには、どうしてもEUが必要だったのだ。国家の領域の壁を低くすることで争いを避け、安定した平和をつくろうと試みてきたEU2012年にノーベル平和賞を受賞したのもそれなりの理由があるわけである。



17 旧王宮大広間

チェコの大統領選挙は2013年に実施された選挙から制度が変わって、有権者の直接投票で行われることになった。

2012年の段階で、日系のトミオ・オカムラという上院議員が立候補に名乗りをあげた。日本の新聞も彼の立候補宣言で小さくにぎわった。だが、最終的に彼が集めた推薦者の署名6万分のうち、二万余りに不備があると判定された。立候補に必要な署名5万人のラインを割ったため、トミオ・オカムラは立候補者リストから外された。

初の直接選挙による2013年の大統領選挙では、ミロシュ・ゼマンが当選した。チェコの大統領は国家元首だが、政治はもっぱら首相が取り仕切る。ドイツの大統領と似た立場である。そのドイツの大統領は連邦議会と、州議会から選ばれた代表によって構成される連邦会議で選挙が行われて決まる。同じようにインドの大統領も国会議員と州議会議員による投票で選ばれる。



チェコでもそれまでは上院と下院の合同会議で大統領を選出していた。その選挙の会場がプラハ場内の旧王宮の大広間ヴラディスラフ・ホールだった。

この長辺60メートル、短辺16メートルの大ホールは、16世紀の初めにつくられた。その当時、中欧第一のホールだった。さまざまな催しに使われた。戴冠式祝賀会、貴族の集会、晩餐会、美術工芸品のマーケット、騎士の武術試合もあったという。

大統領の直接選挙でチェコでは今後ちょっとしたねじれが生じる可能性がある。国民が直接投票で選んだ大統領より、国民が選んだ国会議員が選んだ(つまりは間接選挙)首相の方が政治的実権を握っている。国民による直接の投票で選ばれたという正統性を根拠に、大統領が権力拡大を目論むこともあるだろう。権力の拡大を望まぬ政治家などいない。



そうした生臭い話はさておき、プラハ城は旧王宮、聖ヴィート大聖堂といった観光スポットが閉まった夕暮以降がまた粋である。大聖堂をはじめ古い建物がほのかな明かりに照らされる。新しい建物のホールではタキシードやイブニングドレスを着た男女が集まってパーティーを始めている。

プラハ城は丘の上にあり、周囲を塀で囲まれ、門には衛兵が立っている。プラハで一番安全な夜の散策の場所である。

プラハ城夜の散策を堪能した後は丘を下って、カレル橋からプラハ城夜景をながめる楽しみも残っている。





18 地ビール

ワイン・スノッブが眼の色をかえるシャンパンの「ドン・ペリニヨン」は、カトリック・ベネディクト派の修道士ドン・ペリニヨンの名にちなんでいる。

ドン・ペリニヨンがシャンパンを発明したとされている。彼はオーヴィレール修道院でワインづくりを担当していて、発酵中のワインを瓶詰めして放置したところ、偶然シャンパンができたという(ドン・ペリニヨンのサイトから)。

ヨーロッパでは各地の修道院でワインが醸造された。中世の修道院は自給自足の暮らしの中で勤労を尊び、勤労が祈りと結びついていた。と同時に、ヨーロッパの修道院を訪れたことのある人はお分かりだろうが、修道院によっては目もくらむような立派な図書室を持っているところがある。

修道院は中世において知識の宝庫であり、修道士は農業その他の、熟練した労働者だった。

ワインだけでなくビールもまた修道院で醸造された。10世紀ごろプラハのベネディクト派のブレヴノフ修道院で修道士がビールを醸造したという記録が残っているという。チェコのビール「ブドヴァイゼル」(Budweiser)とアメリカのビール「バドワイザー」がブランド名を争ったのは世界ビール史の有名なエピソードである。アメリカのバドワイザーはチェコの由緒あるビール醸造地、チェスケー・ブジェヨヴィツェ(ドイツ語ではブドヴァイス)の名前を借用し、米国で登録した。いってみれば、アメリカで醸造した日本酒に「ナダ」と命名のうえ登録したようなものだ。

プラハ城からさほど遠くないところにあるストラホフ修道院も図書館と自家醸造のビールで有名だ。プラハの街中にも自家醸造の黒ビールを飲ませる地ビールレストラン U Fleku がある。たいていのガイドブックはこの二つを行ってみる価値のある地ビールスポットとして勧めている。

街中の地ビールレストラン U Flekuの方へ行ってみた。大通りを外れたどちらかというと裏通りのような通りに店があった。店内に入ってみると、レストラン、中庭の緑豊かなビアガーデン、ビアガーデンに面したビアホールとあり、大きな店だった。



ビールだけでなく、レストランの方もまずまずだった。だが、たいていの客は料理を注文せず、ビールを清涼飲料水の感じで飲んで、さっさと席を立つ。長居をしているのは観光客だ。

 

その観光客を相手に、林望先生風の口ひげを蓄えたおじさんが、アコーデオンをひきながら客席を回っている。



チェコではビールが国民飲料だ。2011年の統計では、チェコ国民は1人あたり年間123リットル(大びん換算194本)を消費している。日本国民の消費量の44リットルの2.8倍である。2位オーストリア、3位ドイツ。中欧はビールの国である(キリン食生活文化研究所 レポートVol.39)。





19 ピルスナー

プラハの街中のあちこちで Pilsner Urquell の看板を見かけた。チェコのプルゼニ(ドイツ語ではピルゼン)で醸造され、今では世界中で醸造されているピルスナー・タイプのビールの元祖である。



プルゼニに行ってピルスナーの醸造所を見学してきた。機械化されて近代産業になったビール醸造過程を通路からガラス越しに眺め、ヴィデオでピルスナー・ウルケルの由来を見て、最後に伝統的な方法でビールを醸造している地下室へ案内された。

見学のガイドを務める醸造所の職員がアノラックを持って現れたので、なんだろうと思っていたのだが、地下の醸造所はひんやりとしていた。寒いと言っていいほどだ。この地下の低温の氷室のようなところでピルスナーは熟成中だった。

ビールは醸造に使う酵母によって、上面発酵ビールと下面発酵ビールのふたつに分けられる。上面発酵は発酵が進むと酵母がタンクの上部に集まってくる。下面発酵はその逆でタンクの下の方に酵母が集まる。上面発酵する酵母は硬水と相性がいい。下面発酵する酵母は軟水と相性がいい。



下面発酵ビールのピルスナーを醸造しているプルゼニの水は軟水だ。この水を使って低温の地下室で発酵させる。ラガー・ビールのラガーとはドイツ語で蔵に貯蔵することを意味している。

日本ではラガー・ビールは「加熱殺菌して貯蔵に適するようにした普通のビール」(広辞苑第4版)と説明されることが多い。逆に生ビールは加熱殺菌していなビールだ。日本ではラガーと生と対比されている。

日本以外の国では、ラガー・ビールは下面発酵酵母で醸造したビールと定義されている。したがって、加熱殺菌したビールも、加熱殺菌しないビールもラガー・ビールだ。加熱殺菌したものは熱処理(pasteurization)ビールと呼ばれる。

上面発酵ビールはエールとよばれるイギリスのビールや、ギネスの名で知られるスタウトのようなビールである。硬水を使う。

日本で醸造されているビールは、ほとんどが軟水を使った下面発酵ビールだ。日本でも「スタウト」と名付けたビールが製造販売されているが、上面発酵酵母でなく下面発酵酵母を使ったものも出回っている。イギリスのスタウトとは別物である。

しかし、いまはやりの表示違反かというと、そうでもないのである。日本の「ビールの表示に関する公正競争規約」第4条は「濃色の麦芽を原料の一部に用い、色が濃く、香味の特に強いビールでなければ、スタウトと表示してはならない」としており、醸造法については言及がないので、日本では下面発酵のスタウトが存在する。



見学の終わりに、醸造の人が地下室の熟成の樽からピルスナーを汲み出し見学者にふるまってくれた。ご覧のとおり色で、やや濁りがあった。



20 プルゼニの地下道


プラハからプルゼニには高速バスで行った。

市中心部からプラハの地下鉄B線に30分弱乗って終点のズリチン駅で降りる。駅前にバス・ターミナルがあって、そこから高速バスで1時間ほど。バスの中にはガイドがいてお茶を配ってくれた。

プルゼニのバス・ターミナルは旧市街からちょっと離れたところにあった。バス・ターミナルに建物があって、中に入ると、案内所と表示された窓口はあったが、人はいなかった。建物には売店があって、中におばさんが1人いるきり。プルゼニの市街地図を買って、歩いて市街に向かう。



そういえば日曜日だった。それであたりに人の気配がないのか。ぶらぶら旧市街の教会の塔を目印に歩いて行く途中、味のある建物を見た。



旧市街の中心部の広場の真ん中に聖バルトロミェイ教会が建っているが、周囲に人の気配はない。教会の中はガランとしたものだ。



塔にのぼる入口が開いていたので、お金を払って塔の上から広場を見下ろした。ま、こんなものか。どうということのない風景である。



広場に面した市役所の近くに観光案内所があり、若いお兄さんが1人いた。プルゼニの地下道を見学するにはどこへ行けばよいかを聞いた。ああ、そこならこのオフィスを出て左の方へ行き、2つ目の道を左に折れてそのまままっすぐ行ったところ、と教えてくれた。

有難うとオフィスを出ると、案内所のお兄さんもオフィスを閉めてどこかへ消えた。

地下道の入り口はビール醸造博物館と同じ場所にあった。プラスティックのヘルメットをかぶり(地下道の天井に頭をぶつけておもわぬけがをすることがあるため)、ガイドに引率されて地下道に下る。



プルゼニの地下道は水路の確保や食料貯蔵庫として利用されていた。中世から掘り続けられてきた。地下道のネットワークは相当広範囲にわたっているそうだ。ベトナム戦争当時の南ベトナム民族解放戦線の地下壕のようだ。しかし、観光客が歩けるのは通路が整備された部分、数百メートルだけ。そこはちょうど街の広場の下あたりにあたると説明を受けた。

まったく人気のない日曜日だった。バスを降りてから人を見かけたのは、売店のおばさん、旧市街へ向かう途中道を尋ねたおばさん2人、教会の尖塔の入り口で入場料を徴収していたおばさん、観光案内所のお兄さん、ビール醸造博物館の受付の人、地下道のガイド、博物館のそばにあるレストランのウェーター、それとピルスナーの醸造所へ向かう途中道を尋ねたおじさん。チェコで4番目に大きな街だが、日曜日はこんなものか。



プルゼニからプラハへは列車で帰った。列車はボヘミアの平地をトコトコ1時間半ほど走ってプラハ中央駅に着いた。

                    (写真と文 花崎泰雄